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先ず、私は宗教についての知識は無知に等しいので、的外れな事を聞いてしまったり、失礼な文に受け取れるかもしれません。 当方、特定の宗教へのバッシング等の意図はございませんので、ご理解頂けますと幸いです。 私は所謂ファンタジーな世界観を描く創作物の延長で、様々な宗教や神話に関心を持つ様になりました。 そんな中でふと疑問に思ったのですが、死後の世界観についてです。 様々ありますが、やはり天上の世界と下界の奈落の様な考え方が多い様な気がします。 自分も物心ついた時から何となくそんなイメージはあったので、この考え方自体は理解できるのですが。 自分のイメージと若干の乖離がある様に思いました。 私の想像では、 所謂地の獄とは、悪鬼羅刹的な物が跋扈して閻魔大王的な人が審判を下す。 石積んだり、血の池だったり、三途の川だったり。 はたまた天上では、仏様やらが佇んでいる様な感じです。 ただ、世間一般でのイメージはやはりキリスト教の天国地獄に近いと思います。 鬼ではなく悪魔、閻魔大王ではなくサタン(魔王?)がいて、天国には神と天使がいる的な。 とすると自分のイメージする、日本的(アジア的?)な地獄のイメージは何なんでしょう。 冷静に考えるとキリスト教の考えがメジャーな様な気がするし、かと言って妖怪やらがいる地の獄も想像が出来すぎます。 自分でも混乱して文が読みにくくなってしまいましたが、纏めると。 ①日本の地獄のイメージは何処から始まったのでしょうか? 日本(アジア)の特定の宗教から? 閻魔様や血の池地獄なんてのは、もしかすると昔の作家先生が作り出した創作? ②なぜイメージが違いつつも、考え方がこうまで似通っているのか? やはり人間の潜在的な考えで、空は手の届かない偉大な場所。 底の見えない大穴には恐怖を覚えるのでしょうか? (敢えて申し上げます。神の啓示等の回答は今回は控えて頂けますと幸いです) ③そもそも日本の地獄とキリスト教の地獄は違うのか? 上記の様に似通っている為、日本に持ち込まれた際にキリスト教のhellが地獄と訳され、同一の意味になったのですか? わかりにくい質問で恐縮なのですが、お時間ある方は是非お教えください。

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回答(6件)

キリスト教で地獄がある、無い、2つの解釈の派があります。 神は人間を永遠に苦しめて平気な方ではありません。 死は無です。神に従う者には復活。 復活するかしないか、だけで。地獄はありません

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多くの宗教では、天国(仏教では「浄土」)とか地獄とかを説いていますが、そのような具体的な場所があるわけではありません。 人間の生命は永遠です。来世というものがあります。その来世において、今世に行ってきた善悪にわたる様々な行為が、大いに影響してくるのです。死んだからといって、それらが「帳消し」になることはないのです。 生命は永遠です。世間で言われているように、死ねば生命は断絶されて「無」になるのでありません。仏教ではこれを「断見」と言って否定します。よって、因果の理法により、前世に善行を行った人は、来世においては天国(浄土)にいるような安楽の日々が展開され、逆に悪事を犯した人は、地獄のような苦しみの日々が展開されるということです。死後、来世における境遇がどういうものになるのかということを、天国(浄土)や地獄という言葉で象徴しているのです。これは、どのような宗教を信仰していようと、また宗教を信仰していなくても、あらゆる人間に当てはまる普遍の法理です。 また、生きている間でも、生命の状態によって、天国(浄土)や地獄を感じます。創価学会が根源の師と仰ぐ日蓮大聖人は、「浄土と云うも地獄と云うも外(ほか)には侯わず。ただ我らがむね(胸)の間にあり。これをさと(悟)るを仏という。これにまよ(迷)うを凡夫という、これをさと(悟)るは法華経なり、も(若)ししからば法華経をたも(持)ちたてまつるものは地獄即寂光とさとり候ぞ」(上野殿後家尼御返事)と仰せです。たとえ地獄のような環境に置かれていても、生命が強靭で歓喜に満ちたものであれば、その人にとっては、そこは浄土(寂光土)なのです。これを「絶対的幸福境涯」といいます。そして、この幸福境涯は、死後の来世以降にも永遠に続くのです。 この世でただ一つの日蓮大聖人直結の教団である創価学会の中で、法華経(南無妙法蓮華経)を信仰すれば、このような境涯に達するのです。そして、地獄のような困難の中にあっても、日蓮仏法の信仰を疑うことなく貫き通せば、やがては困難な状況を転換し、真の浄土の境涯、つまり成仏に至ることができるのです。 質問の趣旨に反した部分もありますが、気分を害されないようにお願いします。

① 日本の地獄観は、仏教の奈落(ナラカ)という概念が中国を経て伝わったことが起源です。奈落はサンスクリット語で「苦しみの世界」を意味していて、それが「地獄」と訳され、日本に定着しています。閻魔様や血の池地獄などは、仏教経典や地獄草紙などの絵巻物によって庶民に広まり、江戸時代には道徳教育の一環としても使われた経緯があります。創作というより、宗教的教えと民間信仰が混ざり合って形になったものでしょね。 ②これは人間の根源的な恐怖が関係してるみたいです。火、闇、孤独、苦痛――こうしたものは文化を超えて本能的に避けたいものなんだって。心理学者ユングは「集合的無意識」という概念を提唱していて、人類が太古から抱いてきた恐怖の記憶が、地獄のイメージとして現れていると考えられています。だから宗教が違っても、地獄のビジョンが似通うのは偶然じゃなくて、人間の深層心理の反映なんでしょうね。 ③ 仏教では地獄は「六道」の一つで、罪の重さによって段階的に罰を受ける場所。しかも輪廻転生の一部だから、永遠ではなく、業が尽きればまた生まれ変われとされています。 一方キリスト教では、地獄は神から切り離された永遠の苦しみの場。悔い改めなければ救済はなく、罰は永久に続くとされています。つまり、仏教は“一時的な浄化の場”、キリスト教は“最終的な断罪の場”という違いがあります。

まず、ご質問者様がイメージしている地獄は、仏教の地獄ですね。 『蜘蛛の糸』で主人公が落とされているあそこです。お釈迦様が蜘蛛の糸をたらす先ですね。仏教の地獄は階層にわかれていて、熱かったり寒かったり針の山だったり、生前の罪によって振り分けられます。その振り分けをおこなう裁判官が閻魔大王。 閻魔大王というのはもとはインドの神様で、仏教では冥界の王とされています。日本では地蔵菩薩の生まれ変わりとも言われており、古来より信仰の対象でもあります。鎌倉円応寺や京都の千本ゑんま堂が閻魔大王を祀っています。 キリスト教の地獄と仏教の地獄の違いは、魔王と閻魔大王の違いでもあります。キリスト教では地獄にいくと魔王のもとで永遠に苦しみます。仏教の閻魔大王は悪人を救うために存在しますから、地獄で長い時間をかけて罪を償い真人間になったら転生できます。この「輪廻転生」できるかできないかが大きな違いです。 ちなみに、世界中の原宗教、自然信仰では天国や地獄の概念がないことのほうが多いです。日本の神道(神社にいる神様ですね)も天国や地獄はありません。死んだら善人も悪人も黄泉の国に住んで永遠を過ごすだけ。「草葉の陰にいる」というのも神道の考えです。

私も全然詳しくないのですが、AIに聞いたのをまとめました↓ ①日本の地獄観は仏教(インド)→中国→日本の流れ。 ②世界的に似るのは人間の普遍的恐怖と文化交流の両方。 ③仏教の地獄は「有限刑務所」、キリスト教の地獄は「無期懲役」。 明治時代に翻訳で「Hell=地獄」とされた結果、似たものと誤解されやすくなった。 らしいです… ⚠︎合ってるかは分かりません。