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江戸時代(幕末)に、農民でも、月に一回、男性が家の外に出てはいけない日があったと聞いたことがある気がするのですが、本当にそんなことがあったのでしょうか? 武州だったと思います。

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回答(1件)

江戸時代と言われてもざっくりし過ぎていて、まぁ二月おきくらいに庚申待ちはあったと思うので、それでこもって徹夜したんじゃないですかね? この場合は男も女も大人なら寝ている間に三尸の虫が出ていって、天帝に「こいつこんな悪さしてやがりましたぜ」と報告するそうなので、起きていれば三尸は出て行かれず天帝に悪行がバレることもないと。 まぁこの三尸ってのはよく子供や赤ん坊が夜泣きしたりむずがったり、かんしゃく起こしたりするのを「疳の虫」と言ったり、上司や先生や教授や先輩や機嫌が悪くて「虫の居所が悪いから気を付けろ」と同僚や友達がささやいてくれるときの虫ですな。 武家さんからお百姓さんまで今と違って必要な小物は買って済ませるわけにもいかず、あれこれと自分で縄を結って工作しないといけなかったので丸一日どこにも行かれず、夜通し起きてないといけないってのはなかなか厳しかったでしょうね。 武州といえばこちとら生まれは板橋で、ジャカルタシンガポール育ちの生粋の埼玉県民なのですが、やたらと庚申塔は見かけるし、庚申と言えばお猿さんの青面金剛さんじゃないか?と思うものの、なんか牛頭さんなのか馬頭さんなのか彫った人がよく分からずにやってるような気がしたりお寺さんや氷川さんの境内にちょこんとあったり、習合だったんだなぁ、神仏分離令を発するまではごった煮だったんだなぁと昔を垣間見たりすることができます。 それで、自分のジジババに庚申塔がなんなのかを聞くと、通り一遍の↑のような解説はしてくれたものの、祖母が同じような事を聞いた時にその祖母は「聞いた事はあるけど、なんかやった覚えはない」だそうで、どの程度浸透してたのかはちょっと謎ですよね。まぁ祖母が対象ヒト桁の生まれで、その祖母は安政の生まれだったかな?(お墓で墓誌みないと分からん)当たり前だけれどどちらも故人。 バリバリに庚申講も存在していた時分と思われ、明治あたりまではたまーに流しの山伏と巫女さんがいたそうで(験坐と寄り坐しってやつか)よく分からん読経をしては、退治もしたらしいです。 まだまだオカルトが幅を利かせていたというか、そういうモノが効力を持っていた時代ですかね。 まぁ、そんなのもあったらしいということで。

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