花屋という言葉には、不思議とやわらかな余韻がありますよね。 たとえば、朝の通りを歩いていて、ふとガラス越しに花屋を見つけると、 なぜだか立ち止まってしまう。そこに並ぶ花の色や、少し湿った空気、 新聞紙の音や、水を替える静かな仕草――どれも日常の一場面なのに、 どこか時間の流れがゆるやかで、世界が一瞬やさしくなる気がします。 「花屋になりたい」という響きにも、そんなやわらかい憧れが漂っていて、 ただの職業名というより、“暮らしの中に美しさを見つけたい”という 小さな祈りみたいなものが隠れているように思うんです。 花を売ることよりも、花と向き合う時間そのものに意味がある。 季節の移り変わりや天気の機嫌に一喜一憂しながら、 一輪の花の色に今日の気分を重ねてしまう――そんな人の姿って、 どこか言葉を学ぶことにも似ている気がします。 一気に覚えることはできないけれど、毎日少しずつ触れて、 やがて自然と自分の中に馴染んでいく。 “花屋”という言葉には、そんなゆっくりとした成長のリズムが 息づいているような気がしてなりません。 ところで、現代では 英語は全ての日本人にとって 初めての、そして、半数強の人にとっては 唯一の外国語ですが、江戸時代は外国語と言えば オランダ語が主流だったのは みなさんご存知かと思います。 それで、福沢諭吉は江戸時代にオランダ語を学び、明治になって 英語に乗り換えた啓蒙思想家としても有名ですね。 当時はパソコンやネットはおろか、カセットレコーダーのような音響機器も存在せず、英語を覚えるのにも現代とは比べ物にならないくらい不便な時代でした。しかし、それでも、諭吉は英語の前にオランダ語を習得していて、オランダ語は英語に最も近い言語ということもあって、英語に対する抵抗も小さく、これは 私たちが逆立ちしても享受することのできない大きなアドバンテージだったはずです。そして、最初のうちは オランダ語の知識を駆使したと思われます。そこで、次の英文です。 e① "I want to be a florist." e② "I want to become a florist." 諭吉なら、「エゲレス語の be と become は、各々蘭語の zijn と worden に當るなり」という感じで 違いも容易に識別できたでしょう。 n① "Ik wil een bloemist zijn." n② "Ik wil een bloemist worden." ところが、明治になると オランダ語は途端に下火になり、代わって 英語が最初の外国語として学ばれるようになりました。そうすると、諭吉の手法は使えませんから、和訳するしかありません。 j①② 「私は花屋になりたい。」 このように、日本語だと ニュアンスの差が分からなくなります。 そこで質問ですが―― 「be」と「become」って、どちらも“〜になる”と訳せるのに、なんだか心の向きが違う気がしませんか? 前者には「すでにその姿を思い描いている穏やかさ」があり、後者には「そこへ向かって少しずつ変わっていく力強さ」がある。 同じ“なりたい”でも、「なりきっている夢」と「まだ途中の夢」とでは、心の景色が違うんですよね。 言葉って不思議で、単語ひとつの違いに、その人の時間の流れ方や世界の見え方まで滲む気がします。 もしあなたが「花屋になりたい」と思うとき、それは“もう花に囲まれている自分”を想像しているのか、“これから花に近づこうとする自分”を見ているのか―― あなたの中の「be」と「become」は、どんな未来の形を描いているでしょうか? ๑๐/๙
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