日本の食用史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 18:46 UTC 版)
「日本の獣肉食の歴史」も参照 『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条、俗に言う「魏志倭人伝」では、「倭国(日本)に牛馬はいない」と書かれており、この記述を信じるなら、当時は牛そのものが日本にはいなかったようである。牛が日本に入ってきたのは、古墳時代の頃とされる。 『日本書紀』には、神武天皇の東征において、弟猾なる者が天皇一行を持て成した折に「牛酒(ししさけ)」を献上したという記述が見られ、これは牛肉と酒のことではないかという研究がある。 この他、642年(『日本書紀』皇極天皇元年6月25日条)に、牛馬を生贄(いけにえ)にした例などもあるが、内容としては、道教の雨乞い儀式で生贄にするも効き目がなかったため、仏教の悔過を行ったというものであり、労働力たる牛馬を神に奉げる大陸渡来の文化である。また675年(天武天皇5年)4月17日 (旧暦)のいわゆる肉食禁止令(『日本書紀』)で、4月1日 (旧暦)から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(牛・馬・犬・猿・鳥)の肉食を禁止されていた。一方、庶民にとって一般的な食肉であった鹿や猪は、禁止されなかった。 『古語拾遺』(9世紀成立)には、「大地主神が田を作る日に、牛肉を田人に食べさせた」とあり、田作りに利用された動物を食べるという点では合鴨農法と同じである。 戦国時代には、ルイス・フロイスの『日欧文化比較』によると「ヨーロッパ人は牝鶏や鶉・パイ・プラモンジュなどを好む。日本人は野犬や鶴・大猿・猫・生の海藻などをよろこぶ」 「ヨーロッパ人は犬は食べないで、牛を食べる。日本人は牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」との記述があり、牛肉はあまり一般的な食材ではなかったようである。一方で、松永貞徳著『慰草』(1652年)によると京都などでもひろくワカ(葡: Vaca)として牛が食べられていたという。キリスト教イエズス会の宣教師が、信者に対して牛肉を振る舞ったり、『細川家御家譜』には、小田原征伐の際、キリシタン大名の高山右近が、蒲生氏郷や細川忠興に牛肉料理を振る舞ったことが記されている。江戸時代の1690年(元禄3年)近江彦根藩は「牛肉味噌漬」を「薬喰い」として作り売っていた。健康増進や病人の養生のために食用されていたが、食用家畜として飼育されている牛は皆無だったことから、極めて高価な「薬」であったらしい。ただし廃用農耕牛は肉質は硬いが毒があるわけではなく、実際にはこれが食用に回されていた。 彦根藩主井伊家は毎年徳川将軍家(江戸)と徳川御三家(名古屋、和歌山、水戸)に「牛肉味噌漬」などを献上していた。水戸藩主の徳川斉昭は、大の肉好きとして知られており、彦根から近江の牛を贈られた時には、返礼の手紙を書いている。また、同時代には牛肉の栄養に着目、寒い時期に乾肉を生産していた。江戸ではももんじ屋などで食べるようになった。幕末期、桑名藩藩士が記した『桑名日記』には、孫に牛肉を買ってきて食べさせたという記述があり、せがまれた末に4日間も食べさせたと記されており、当時から美味として知られていた。 このように、日本でも古くから牛肉が食べられていたものの、広く食べられ始めたのは、明治の文明開化以降であり、牛なべ屋(すき焼き)が流行した。また、1872年(明治5年)1月24日、明治天皇が牛肉を食べたといわれているが、皇族用の御料牧場では肉牛は飼養管理されていない(2011年現在)。この日本での牛肉事情であるが、国産牛肉が一頭ずつ大切に肥育する飼育方法が長らく採られていたため、従来は豚肉よりも高価な肉とされていた。しかし1991年(平成3年)4月からの牛肉の輸入自由化によって日本国外から安価な牛肉が入ってくるようになったため、家庭の食卓に頻繁に上るようにもなっている。
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