Culture Vulture

ライター・近藤正高のブログ

「一故人」全記事リスト

ウェブサイト「cakes(ケイクス)」が2012年に開設されて以来、2022年にクローズするまで10年にわたって私が連載した「一故人」の全記事のタイトルと公開日をここにリストアップしておきます。そのときどきで亡くなった著名人の生涯を振り返った同連載は、2017年4月にスモール出版より単行本化されました。リスト中、単行本に収録した記事は「収」、未収録の記事は「未」で示しています。

2012年

タイトル 公開日 単行本収録
浜田幸一――不器用な暴れん坊のメディア遊泳術 9月11日
ニール・アームストロング――月着陸30年を経て明かされた真実 10月1日
樋口廣太郎――「聞くこと」から始めたアサヒビール再建 10月26日
春日野八千代――宝塚男役という「虚構」を生きた80年 11月2日
ノロドム・シアヌーク――「気まぐれ殿下」がカンボジアにもたらしたもの 11月30日
宮史郎――女の悲哀を歌っても醸し出す「道化の味」 12月11日
中村勘三郎(十八代目)――歌舞伎のタブーぎりぎりを疾走する 12月14日
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モハメド・アリ――アリが蟻に自分を重ね合わせたとき(初出:「cakes」2016年6月24日)

 1974年10月30日、アフリカ中西部のザイール(現・コンゴ民主共和国)の首都キンシャサで行われたボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチで、当時の王者ジョージ・フォアマンモハメド・アリが挑戦して勝利を収め、その7年前にベトナム戦争に反対して徴兵を拒否したために剥奪された王座を奪還しました。「キンシャサの奇跡」と呼ばれるこの歴史的な試合からきょうでちょうど50年ということで、アリが2016年に6月に亡くなったあとにウェブサイト「cakes」の拙連載「一故人」で彼の人生を顧みた回を再公開します。

対戦相手への挑発はプロレスが手本だった

《俺、俺たち(me,we)》

 これは、プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリ(2016年6月3日没、74歳)が即興でつくった詩だ。アメリカのジャーナリスト、ジョージ・プリンプトンが“英語で一番短い詩”と評するこの詩は、アリがハーバード大学の卒業式でスピーチを行なった際に、学生から求められてつくったものだという(映画『モハメド・アリ かけがえのない日々 [DVD]』)。年代ははっきりしないが、おそらく彼がすでに引退した1981年以降、パーキンソン症候群の治療を続けていたころと思われる。

 即興詩はアリの得意とするところだった。そのもっとも有名な一節は、「蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a butterfly,Sting like a bee)」だろう(なおFloatは厳密には「舞う」というよりも「漂う」というニュアンスに近いようだ)。これは1964年、アリが世界ヘビー級チャンピオンだったソニー・リストンに挑戦する直前、自分のボクシングを讃えてつくったものだ。まだ本名のカシアス・クレイを名乗っていた彼は、まさに蝶が漂うように、敵のパンチを巧妙に避けながらスピーディーにリング上を動き回り、そして相手に隙を見つけるやいなや蜂が刺すように攻撃した。リストンにもこうして勝利し、初めて王座を手にしたのである。

 アリは試合前、口をきわめて対戦相手を罵り、挑発することでも知られた。前出のリストンとの試合前には、記者たちを前にこんな詩を口にしている。

《(前略)さあ、クレイはノックアウトパンチをくり出すぜ(中略)パンチが決まって、熊公は リングからぶっ飛び上がるぜ リストンはなおもぐんぐん上昇し レフェリーはカウントできずに しかめっ面だぜ ソニーはなかなか落ちてこないぜ もうリストンの姿は見えねえ 観客は肝をつぶして大騒ぎだが レーダー基地がやつの姿をとらえるぜ 大西洋の上空のどこかにいるんだ(後略)》(トマス・ハウザー『モハメド・アリ: その生と時代 (シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション 14)』)

 大言壮語ともいえるこうした物言いは、じつは彼なりの演出であり、元はといえばプロレスを手本としていた。当時のトレーナーによれば、アリはプロになって2年目の1961年、試合になかなか客が集まらないので、プロモーターから「君の名前を売らなければだめだ」と言われ、プロレスラーのゴージャス・ジョージの試合を見て参考にするよう勧められたという。ゴージャスはリング上では派手に立ち回っていたのに、試合後の更衣室では一転、明敏で知的な人柄を見せてアリたちを驚かせた。そのときのゴージャスの教えは、「この商売には大げさな身振りはしかたがない。観客には俺が大嫌いだという者もいる。それでいいんだ。とにかくみんな俺の名前を覚えてくれるから」というものだったという(アンジェロ・ダンディー『勝つことを知った男: モハメド・アリを育てた名トレーナー』)。

 アリがスーパースターにのしあがったのは、圧倒的な強さばかりでなく、天性の詩の才能、さらにプロレスから学んだショーアップ術によるところも大きい。それらは、テレビが普及し、試合会場の観客ばかりか衛星中継を通じて世界中の人が観戦するようになった時代にあって、スターになるのに欠かせない要素であったともいえる。

数々の伝説に彩られた人生

 モハメド・アリ、旧名カシアス・クレイは1942年1月、アメリカ・ケンタッキー州ルイビルに生まれた。ボクシングとの出会いは12歳のとき。自転車を盗まれて、訴えに行った警官がたまたまボクシングを教えていたことから、ジム通いを始めたと伝えられる。

 その後のアリの歩みは、多くの伝説で彩られている。1960年、18歳で出場したローマオリンピックのライトヘビー級で金メダルを獲得、アリはそのメダルをしばらく肌身離さず持ち歩いていたが、ある日、レストランに入ったところ店主から「黒人に食わせるものはない」と注文を拒否されたことに激怒して、メダルは川へ投げ捨てたという。プロに転向したのはその前後のことだ。1964年に先述のとおりソニー・リストンを倒してチャンピオンになった直後には、キリスト教からイスラム教に改宗し、カシアス・X・クレイ、さらにモハメド・アリと改名した。

 1965年、アリは徴兵テストに合格する。ちょうどアメリカの介入したベトナム戦争が激化していたころで、戦線に送られる米兵には黒人の割合が極端に多かった。彼は翌年4月、「俺はベトコンと戦う気はない。やつらに黒ん坊呼ばわりされたことなど一度もないからだ」と徴兵を拒否する(ベトコンとは、当時アメリカが戦っていた南ベトナム解放民族戦線の俗称)。この行動に対し非難や脅迫があいつぎ、あげく67年4月にはニューヨーク州のボクシング・コミッションによってライセンスが停止され、それを受けて世界ボクシング協会WBA)もタイトルの剥奪を決める。同年には兵役忌避により懲役5年の実刑判決が下され、これを不服とするアリは裁判闘争を続けた。米最高裁実刑判決を破棄したのは71年6月のことだ。

 この間、アリのリング復帰のためプロモーターらが全米を奔走する。ほとんどの都市で試合開催を拒否されたが、やっと1970年10月、ジョージア州アトランタで復帰戦が行なわれる。相手は世界ヘビー級3位の白人ボクサー、ジェリー・クォーリーで、3ラウンドにテクニカルノックアウトにより勝利を収めた。アトランタには保守的なコミッションがなく、市民の理解に加え地元選出の黒人上院議員の支援もあって、試合を開催することができたのだ。

 1971年3月には、アリは自分の追放中にヘビー級世界王者となっていたジョー・フレイジャーに挑戦するも、プロ入り後初めて敗北を喫する。フレイジャーはその後、73年にジョージ・フォアマンにタイトルを奪われた。こうしてアリは、チャンピオンに返り咲くため今度はフォアマンに挑むことになる。

「打たれない」から「打たれてもかまわない」ボクシングへ

 フォアマンとの決戦の舞台となったのは、ザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサである。当時のザイール大統領、モブツは自ら変更した国の名を世界中に宣伝するため、1000万ドル(約3億円)というプロスポーツ史上空前のファイトマネーを支払うこともいとわなかった。もともとアリはファイトマネーとして500万ドルを要求していたし、またアメリカの黒人の故郷であるアフリカでの開催は、黒人の自立を訴える彼の主張にも合致した。

 キンシャサの戦いは、ジェームズ・ブラウンB.B.キングなどアメリカの黒人ミュージシャンによるコンサートがあわせて開催されるなど華々しいものとなった。試合は現地到着後、フォアマンが練習中にけがをしたためいったん延期されたのち、1974年10月30日に行なわれた。開始が早朝となったのは、全米のテレビのゴールデンタイムに合わせたためだ。

 事前の下馬評では、フォアマン有利と見る向きが圧倒的に多かった。何しろアリはボクシング界から3年半も追放されており、復帰後の対フレイジャー戦で往年のフットワークが見られなかったうえ、続く72年の対ノートン戦ではあごを砕かれて入院までしていたからだ。これに対し、当時25歳のフォアマンは破壊的なパンチ力でそれまで40戦全勝、うちKO勝ちはフレイジャーから王座を奪った試合を含め37回と最盛期にあった。アリのあごを打ち砕いたノートンも、たった2ラウンドで破っている。

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「風刺漫画なんかいらない?」転載にあたって――あらかじめ書かれた追悼文よ

 先月最後の月曜、9月30日にイラストレーターの山藤章二が亡くなった。その訃報に接し、ほぼ1年前、私が文学フリマで頒布した個人誌に書き下ろした風刺画に関する文章のなかで山藤氏についてかなりの文字数を費やして言及していたことを思い出した。

週刊朝日』連載の「山藤章二のブラック=アングル」に代表される彼の仕事を日本の風刺画の系譜のなかに位置づけてみたその拙文を改めて読み返すと、最後のまとめ方といい、亡くなる前年にして山藤先生を追悼してしまった……という感がある。せっかくなので今回、転載することにした。

 本文中で言及した「風の会」の風刺画が引き金となり起こってしまった事件については、山藤が亡くなった翌日深夜に、爆笑問題太田光が自身のラジオ番組で具体的なことは伏せながらも言及していた。そのとき太田が言っていたように、あのような事件があったのちも風刺画をやめなかった山藤の姿勢は改めて評価されるべきだと思う(たとえ事件の発端となった作品自体には問題があったにせよ)。

 それにしても、『朝日新聞』の訃報(9月30日17時46分配信)にコメントを寄せたやくみつるが、SNSなどが普及する昨今、風刺画に対する風当たりが強くなっているとして《山藤さんにはまだまだ先頭に立って、今日の混迷した状況を鋭く批評して欲しかった》と述べていたのにはあきれた。何を甘えたことを言っているのだろうか。そもそも、山藤は「ブラック=アングル」が2021年に終了した時点で、第一線からほぼ退いた状態だったというのに。コメントをとるなら、山藤が同業の和田誠と似顔絵が一番上手いのはあの人だと意見が一致した針すなお――朝日の政治面で一コマ漫画も描いている――か、同い年でいまなお週刊誌連載を続けている東海林さだおにしてほしかった(両氏ともすでにどこかでコメントを出していたりするのだろうか)。

 それにしても、山藤がライバルと見なし、互いに意識し合う存在であった和田誠が亡くなって5年後の命日のちょうど1週間前に亡くなったというのが、また因縁めいたものを感じてしまう。

 余談ながら、先日、伊藤若冲円山応挙がそれぞれ左隻と右隻を描いた屏風絵が発見されたというニュースがあったが、もし、冥界で山藤章二が二人で分担して屏風絵を描くとして、相手は誰がふさわしいのだろうか……てなことをちょっと考えた。

 やはり和田誠がもっとも適役なのだろうが、案外、山藤と同じく今年亡くなった高橋春男が善戦しそうな気もする。ある時期、「ブラック=アングル」のライバルは、和田の『週刊文春』の表紙よりも『サンデー毎日』での高橋の連載「大日本中流小市民」だったことは、知っている人には同意してもらえるはずだ。1988年の春先に坂本龍一アカデミー賞岡本綾子が米国女子ツアー(だったかな?)の大会で優勝したときには、両者ともそれを題材にしながら、高橋はメインにその二人(に加えて東京ドームコンサートで復活した美空ひばり)ではなく、阪神の監督に復帰してシーズン初勝利を果たした村山実を持ってくるというひねり技を見せた。ダリが死んだときには、山藤はこれをどう料理するのか高橋が予想してイラストレーションを描いたこともあったっけ。

 山藤章二といえば、転載した拙文でもその名前をあげた劇作家の飯沢匡は、山藤が若き日にその才能を見出してもらった恩人である。山藤が名乗った「戯れ絵師」も、もともとは飯沢から一勇斎(歌川)国芳を教えられて衝撃を受け、「戯れ絵」という呼び名だけこっそり拝借したのだという(『山藤章二 戯画街道』美術出版社、1980年)。飯沢は黒柳徹子NHK放送劇団で俳優を始めたころの恩師でもあるが、よくよく若い才能を世に送り出す名伯楽だったのだと思う。いまではほとんど顧みられることがないけれど、国会図書館デジタルコレクションではその著書がいくつか閲覧できる。『飯沢匡のもの言いモノロオグ』というエッセイ集など、半世紀近く前のものにもかかわらず、現在に通じる内容の文章もあったりしてなかなか面白い。

 かように山藤先生について書き出すと、あれこれ話が広がってしまって止まらない。今回はひとまずこのへんでやめて、転載は次のエントリーで!

風刺漫画なんかいらない?(初出:『近藤正高 書き下ろしエッセイ集 ぐちは云うまい こぼすまい』其の二、2023年11月)

 2021年の東京オリンピック直前、『毎日新聞』経済面のよこたしぎの一コマ漫画「経世済民術」(2021年6月5日付朝刊掲載分)が、ちょっとした“炎上”になった。

 折しもコロナ禍の最中であり、日本国内では、国際オリンピック委員会IOC)は巨額の放映権料などを得るため五輪を強行しようとしているなどといった批判も強かった。IOCのバッハ会長が「ぼったくり男爵」などと呼ばれたのもこの頃である。よこたは漫画のなかでIOCの首脳らを、同時期に亡くなった絵本作家エリック・カールの代表作『はらぺこあおむし』になぞらえ、利権をむさぼる青虫の姿で描いてみせたのだった。

よこたしぎ「経世済民術」(『毎日新聞』2021年6月5日付朝刊掲載分。原画はカラー)

 しかし、これに『はらぺこあおむし』の版元である偕成社の社長・今村正樹が同社ホームページ上で批判した(「風刺漫画のあり方について」、2021年6月7日配信)。

 そこで今村は、《風刺の意図は明らかで、その意見については表現の自由の点から異議を申し立てる筋合いではありませんが》と断りながらも、例の漫画には強い違和感を覚えざるをえなかったとして、《『はらぺこあおむし』の楽しさは、あおむしのどこまでも健康的な食欲と、それに共感する子どもたち自身の「食べたい、成長したい」という欲求にあると思っています。金銭的な利権への欲望を風刺するにはまったく不適当と言わざるを得ません》《風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつのだと思います。今回の風刺漫画は作者と紙面に載せた編集者双方の不勉強、センスの無さを露呈したものでした》と厳しく指摘した。

 おそらく、版元の社長が声を上げなければ、くだんの漫画はとくに注目されることもないまま忘れ去られていったはずである。しかし、批判が掲載されるやSNSなどで反響を呼ぶ。『毎日新聞』にもさまざまな意見が寄せられたといい、2週間後の同紙面では一連の批判に対する回答が掲載された。そこでは《今回の作品は肥大化するIOCを皮肉る風刺画で、絵本や作者をおとしめる意図はありませんでしたが、絵本作りに携わった方々や絵本の読者の皆さんを不快にさせたとすれば本意ではありません。皆さんからいただいたさまざまなご意見を真摯に受け止め、今後も洗練された風刺画をお届けできるよう紙面作りに努めてまいります》と釈明されていた(『毎日新聞』2021年6月19日付朝刊)。風刺漫画の趣旨を文章で説明しているのが何とも野暮だが、まあ意図を伝えるためには致し方ないし、新聞社としては妥当な対処であったとは思う。ただ、作者のよこた自身のコメントがなかったのが気になるが。

 今村正樹が引用された作品の版元として批判の声を上げたことは、風刺画のあり方について改めて議論を促すうえで大いに意義があったと思う。ただ、「風刺は引用する作品全体の意味を理解したうえでこそ力をもつもの」という考えには、それは一面では事実なのかもしれないが、どうも私としては全面的には受け入れがたい。たとえ作品の意味を完全に理解せずとも、結果的に見事な風刺になっている漫画は往々にしてあるような気がするし、反対に、本質をつかんだうえで絵にしても、どうも説明的になって風刺としては失敗ということもあるだろうからだ。

 仮に私が、くだんの『はらぺこあおむし』の漫画を元の絵本の内容を踏まえたうえで直すとするなら、腹いっぱい食べたあおむしがさなぎになって羽化してみれば、絵本ではきれいな蝶になるはずが、欲にまみれのバッハ会長の顔をした蝶が現れる……というようなものになるだろうか。やはりどうも説明的で、出来の悪いパロディにしかならない。

 私が冒頭にあげた、よこたしぎの漫画をめぐる反応で気になったのは、版元社長の批判以上に、その尻馬に乗ったかのようなSNSなどでのコメントだった。なかには「偲んで描く内容ではけっしてない」というのもあったらしいが、きっと、こういう人は日頃風刺画というものにほとんど接してこなかったのだろう。

 それにしても、よこたしぎの漫画をめぐる騒ぎを見ると、『週刊朝日』で45年にわたり連載された山藤章二の一コマ漫画「山藤章二のブラック=アングル」はうまくやっていたとつくづく思う。たとえば、連載が始まった1976年、小説家の武者小路実篤が亡くなったときには、この年発覚したロッキード疑獄にからめて、疑惑の焦点となっていた田中角栄小佐野賢治児玉誉士夫の顔を、生前の実篤が色紙に好んで描いた野菜になぞらえて描き、そこに「仲良き事は美しき哉」の文句を添えた。小佐野が国会での証人喚問で田中角栄との関係を問われ「刎頸の友」と答えたことに対する風刺である。

 山藤が周到なのは、そこに自らの分身であるブラック氏(サングラスをかけた髭面の男)を「贋作先生」と称し、「真理先生」たる実篤に怒られている姿を描き込んだことである。「真理先生」とはもちろん、実篤の代表作の題名からとられている。あらかじめこれは「贋作」だと断り、さらに作者に怒られる作者の分身を描くことで批判をかわしたともいえる。面白いのは、それでありながら、この漫画は実篤の楽天的な人生観のうさんくささをからかっているようにも解釈できることだ。山藤はまさに実篤の作品の本質を突いたのである。

山藤章二のブラック=アングル」(『週刊朝日』1976年4月30日号掲載分、『山藤章二のブラック=アングル』朝日新聞社、1978年所収。原画はカラー)

 同じことは編集者・コラムニストの天野祐吉も指摘しており、山藤との対談で直接褒めている。だが、本人に言わせると、《ぼくとしては、そこまで考えていたわけじゃないんですが(笑)、そういうことはままありますね。深読みしてくれる人がいる。あいつの描くものだから、何か隠し味があるに違いない、なんて思ってくれる人がいるんです》ということらしい(天野祐吉『広告の本』筑摩書房、1983年)。山藤の発言を額面どおりに受け取るなら、まさに先に私が書いた「たとえ作品の意味を完全に理解せずとも、結果的に風刺になっている」好例といえる。

 もっとも、山藤が意図せずして対象の本質を突くことができたのは、その画力に拠るところが大きい。武者小路実篤の色紙のパロディも、実物の描写そっくりだからこそ説得力を持ち、読者に思わず深読みさせてしまったのだろう。よこたしぎも、エリック・カールの原色のけばけばしいタッチを忠実に模写して同じ漫画を描いていたのなら、あれほど批判されることもなかったかもしれない。

 ここで思い出したのだが、山藤章二は自分の作品が発端となって、ネット炎上どころではない、もっと大きな事件を経験していたのだった。それは1992年に発表された「ブラック=アングル」の一作で、ちょうどそのころ参院選比例区に10名の候補を立てた政治団体風の会」を題材としたものである。そこでは、選挙事務所の看板の注文を受けたブラック氏が、党名を誤って「虱(しらみ)の会」と書いてしまい、党関係者らしきヤクザ風の男たちに「コラッ なめとんのか! わしら、アレか!!」などと責められる様子が描かれていた。画面の端には、「これはフィクションで、実在の党名とはカンケイありません」と一応断りが入れられていたとはいえ、選挙期間の最中ということもあり、『週刊朝日』7月24日号に掲載されるや、党代表で新右翼の運動家である野村秋介が掲載誌の版元である朝日新聞社に抗議を行った。

 山藤の作品としてはけっして出来がいいとは言いがたい。苦しまぎれという気さえする。「風の会」が参院選で擁立した候補者には漫才師の横山やすしもいたのだから、先に参院議員となっていた相方の西川きよしとそろって当選した場合の漫才予想など、得意とする調理法を選んだほうがよっぽど面白いものができたのではないか。

 だいたい、野村秋介のこれまでの活動をそれなりに知っていさえすれば、ヤクザ風の男たちが因縁をつけてくるなんて絵にはならなかったはずである。野村はそうした暴力団まがいの旧来の右翼に一貫して批判的な立場をとり、自らの活動とは一線を画してきたからだ。少なくともこの作品に限っていえば、先に引用した今村正樹の「風刺は引用する作品全体(この場合は人物)の意味を理解したうえでこそ力をもつもの」との指摘がそっくり当てはまる。

 野村は朝日に抗議を行った直後、山藤にも手紙を送ると、すぐに詫びる内容の返事が届き、「私個人としては、貴殿の心情、諒としました」(野村から山藤宛ての返信)と受け入れたという。朝日側も《このブラック・アングルは選挙期間中の公的な政党団体に対する表現としてはパロディーの範囲を超えている。公選法から見ても問題があると認識し、誠意をもって対応することに》し(『週刊朝日』1993年11月5日号)、野村の求めた面談にも朝日新聞出版局長ら幹部が応じ、翌1993年に入っても、歴史観や国家観など同社の報道姿勢全般について議論が重ねられた(そのやりとりは野村の遺著『さらば群青――回想は逆光の中にあり』〈二十一世紀書院、1993年〉で活字化されている)。

 同年10月20日には、「風の会」のメンバーや言論人らによるシンポジウムの席上で出版局長の橘弘道が陳謝をし、野村はその開会前に朝日新聞東京本社で社長の中江利忠との面談にのぞんだ。朝日本社での話し合いはなごやかな雰囲気で進んだという。だが、朝日側が一区切りつけようとしたところで、野村は持参した拳銃を取り出したかと思うと、自ら命を絶つにいたる。山藤のショックはそうとうなものだったのだろう、事件の翌週発売の『週刊朝日』の「ブラック=アングル」は休載となった。

 ひょっとすると、野村秋介の事件を、2015年に起きた、フランスの風刺週刊新聞『シャルリー・エブド』の本社がイスラム過激派に襲撃され、同紙の編集長で風刺漫画家のシャルボニエら一二名が殺害された事件と重ね合わせる向きもあるかもしれない。たしかに風刺画への抗議ということでは同じだが、そこでとられた方法はもちろん、また矛先を向けられた側の姿勢など、細かく見ていくと両事件はまるで性質の異なる出来事といったほうがいい。

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和田誠――イラストレーターという職業を世に知らしめる(初出:「cakes」2019年11月18日)

 イラストレーターでグラフィックデザイナーや映画監督としても活躍した和田誠が亡くなってから、きょう10月7日で5年が経ちました。これに合わせて、亡くなった翌月にウェブサイト「cakes」の拙連載「一故人」で彼をとりあげた回をここに再掲載します。

異例ずくめだった『週刊文春』の表紙絵

週刊文春』の表紙絵が、担当していたイラストレーターの和田誠(2019年10月7日没、83歳)の亡くなる2年前から、描き下ろしではなく過去の作品の再掲となっていたのを知る人はどれだけいただろうか。ひょっとしたら、かなりコアな読者ぐらいしか気づいていなかったかもしれない。私も、人から言われるまで知らなかった。和田が描き下ろしをやめ、事実上降板したのは2017年、表紙絵が2000回に達したのを区切りとしてだった。このときすでに仕事で絵を描くことが難しくなっていたと、没後あきらかにされた(『週刊文春』2019年11月14日号)。

 和田が『週刊文春』で表紙絵を手がけるようになったのは、1977年5月12日号からである。同誌の表紙はそれまで女優の写真が飾ってきた。それを新たに編集長となった田中健五(のちの文藝春秋社長・会長)が、雑誌の雰囲気をガラリと変えようと思い立ち、和田にイラストレーションを依頼したのだ(ちなみに彼は「イラスト」と略すのを好まなかったので、この記事でも正しく「イラストレーション」と表記する)。

 和田は仕事場に訪れた田中から依頼を受け、二つ返事で飛びつきたいところを口ごもった。その5年前、『週刊サンケイ』(現『SPA!』)の表紙を、4年ほど担当しながら自分の都合で降りてしまった苦い体験があったからだ。同誌では毎週、時の人の似顔絵を描いていたが、一般向けの週刊誌だけに、もっぱら大衆的な人物の絵が求められた。ときどき和田からちょっと渋めでも絵として面白くなりそうな人物を描きたいと希望しても、なかなか受け入れられない。そのうちに欲求不満が嵩じて、結局、降板してしまったのである。

週刊文春』の表紙でも、ひょっとしたら似顔を求められるのではないか。かといって、似顔以外に何を描けばいいのかとっさには思い浮かばない。口ごもってしまったのはそのためだが、田中は「数日後に連絡するから考えてください」と猶予を与えた。後日、田中は2人の編集部員をともなって再訪する。和田によれば、このとき次のようなやりとりがあったという。

《ぼくはお引き受けすることを明言し、「似顔絵を望まれていますか」ときいた。「それは他誌の記憶があるので望んではいない」ということだった。「ではどういう絵を描いたらいいでしょう」「ご自由に」「自由は嬉しいけど何かヒントをください」……ややあって編集部のお一人が「強いて言えば都会のメルヘンかなあ」と発言された。「都会のメルヘンですか」「いやいや、ちょっと浮かんだから言ってみたまでです。あくまでご自由に」/そんな具合で明確な注文がないまま締切の日を迎え、鳥がエアメールの封筒を咥えている絵を描いたのだった》和田誠『表紙はうたう』)

 グラフィックデザイナーでもある和田は、表紙絵を引き受けると同時に、表紙のデザインも自分でやり、誌名のロゴも変えさせてもらった。ロゴは目立とうとして斬新なデザインにするのではなく、オーソドックスだけど新しいものになるよう心がけた(『本の話』2008年11月号)。

 表紙絵のスタイルも、それまで自分が発表していないまったく新しいものにしようと決める。「ご自由に」と言われたので、逆に自分で制約をつくり、グワッシュ不透明水彩絵の具)でケント紙に原寸で描くという手法に絞り、タッチもリアルにして、できるだけ細部まで描き込むことにした。

 1回目の原画を編集者に渡すと、題名を訊かれて戸惑ったという。しばし考えて、エアメールを描いたので、「エアメール・スペシャル」とつけた。スイング時代のジャズの曲名である。以来、画題は音楽のタイトルから借りるようになる。タイトルは絵を描いてから探すことのほうが多いが、ときには歌のイメージ、あるいは曲名に出てくる事柄をそのまま描くこともあった。

 絵のモチーフについては、表紙を始めた当初こそ、打ち合わせ時の編集者の言葉どおりメルヘンぽくしたり、ひとひねりしたりして描いていたが、そのうちにモチーフそのものの魅力を引き出す方向へ変わっていったという(『表紙はうたう』)。モチーフ選びには毎号苦労しつつも、描かれたものは季節物や風景、動植物、食べ物などじつに多岐におよぶ。始めた当初にはまた、表紙にその号の特集記事の見出しが1行か2行入り、和田がその形・色・場所を指定していた。だが、そのうちに、「あれがないとすっきりするんですけど」と申し出て、ときどき見出しの入らない号をつくってもらうようになる。1988年9月からは一切入れないと、当時の編集長が決めた。駅の売店など立ち読みのできない場所にも置かれる週刊誌にとって、表紙の見出しは内容を知らせる唯一の手立てだけに、それをなくしたのは英断といえる。

 時の人物が登場しないうえ見出しが入らない表紙は、週刊誌では異例だろう(同じくイラストレーションを用いた『週刊新潮』の表紙には、ときどきではあるが見出しが入る)。時事的な要素をまったく入れなかったわけではない。親交のあった作家の吉行淳之介やジャズピアニストの八木正生が亡くなったときには、それぞれ故人の好きだったカクテルやウイスキーを描き、追悼の意を込めた。2001年のアメリ同時多発テロのあとには、倒壊したワールドトレードセンターを含むニューヨーク・マンハッタンの風景を裏表紙も使って描いている。2007年の長崎の原爆忌にあわせて当地の平和祈念像を描いたのは、そのころ「原爆はしょうがなかった」という政治家の発言に怒りを覚えたからでもあった。だが、いずれも作者の意図を抜きにしても十分に作品として成立し、時間が経ってもけっして古びない絵になっている。だからこそ、再掲してもまったく違和感がない。

 そもそも『週刊文春』の表紙にかぎらず、和田のイラストレーションには、時の流れからちょっと外れた雰囲気があった。年齢を重ねてもタッチが枯れることがなかった。和田と同年代で、やはり週刊誌で長らくイラストレーションの連載を続けている山藤章二は、1983年に彼と対談した際、《和田さんの絵は時間とあんまり関係ない絵だからね。ごく一般的な目で見ると、とても四十七歳の男が描いた絵だとは思われない。古めかしさとか、ある種の格調とか重厚さ、年寄りの知識がどこかに臭うという感じがしないでしょう。(中略)年齢不詳だよ、このイラストレーターは》と評した。これに対し当人は《逆に言うと、若い時から、作風があんまり若くなかったのかもしれないね》と返している(和田誠和田誠インタビューまたは対談』)。ここで和田の経歴を振り返ってみよう。

教師の似顔絵に熱中した中高時代

 和田誠は1936年4月、大阪に生まれた。両親は東京の人で、父・精は築地小劇場の旗揚げに参加後、現在のNHK大阪放送局に入ってラジオ番組の演出を担当していた。だが、戦争末期に解雇され、東京に戻る。小学生だった和田は空襲を避けて千葉の親戚宅に疎開し(このころ通った小学校の1年先輩に長嶋茂雄がいたという)、終戦後に東京で再び親兄弟と暮らすようになった。

 終戦の翌年、小学4年生のとき、担任の先生がその日の授業を始める前に新聞に載っていた政治漫画の話をしてくれた。それは当時の人気漫画家・清水崑が描いたものだった。和田は帰宅してその漫画を見たのをきっかけに似顔絵に興味を持ち、清水の絵を模写するようになる。もともと絵を描くのは幼いころから好きだった。中学に入ると、清水が中学時代に各教科の先生の似顔だけでつくった時間割をエッセイ集に載せているのを見て、自分もやってみようと思い立つ。それから毎日、授業中は先生の顔のスケッチに励んだ。ようやく時間割が完成したのは高校2年のときで、同級生に見せると好評を博す。

 ちょうどそのころ、国立近代美術館で「世界のポスター展」を見て感銘を受け、「ポスターを描く人になりたい」と思った。そこで高校を卒業すると多摩美術大学の図案科に進む。まだデザインではなく図案と呼ばれていた時代だった。3~4年のとき、グラフィックデザイナーの山名文夫が教授につき、授業ががぜん面白くなる。出される課題が、架空の広告雑誌の表紙を描いたり、電化製品を一つ選んで新聞広告をつくったりと具体的だったからだ。大学3年のときには、日本宣伝美術会(日宣美)の公募展で、『夜のマルグリット』という映画のポスターが初出品ながら最高賞の日宣美賞を受賞する。当時、新人の登竜門と目された賞だけに、和田はにわかに注目され、東芝のテレビコマーシャルのアニメーション制作や、雑誌に似顔絵を描く仕事が舞い込んだ。

会社員時代に広がった交友関係

 大学を卒業した1959年、広告制作会社のライトパブリシティに入社する。アートディレクターの信田富夫が創業した同社には当時、企画部長に向秀男(コピーライター)、美術部長に村越襄(アートディレクター)、写真部チーフに早崎治(写真家)、メンバーにグラフィックデザイナーの田中一光細谷巌、デザイナー兼イラストレーターの伊坂芳太良らがいた。和田のあとにはデザイナー兼イラストレーターの山下勇三、カメラマンの篠山紀信、コピーライターの土屋耕一秋山晶、のちにアートディレクターとして活躍する浅葉克己などが入ってきた。いずれも広告界をはじめ各分野で大きな足跡を残すクリエイターたちである。

 入社1年目、専売公社(現JT)にいた大学の先輩の勧めで、新たに発売されるタバコのパッケージのコンペに参加する。先輩は和田個人に依頼したつもりだったようだが、彼は社長に断って会社の仕事として引き受けた。6種類の案を提出し、そのうち青地にアルファベットで記された銘柄と光を抽象化したデザインをあしらったものが選ばれた。こうして和田がパッケージをデザインしたタバコ「ハイライト」は、翌60年6月に発売される。

 1960年には亀倉雄策や原弘・山城隆一などベテランのグラフィックデザイナーを中心にデザインプロダクション・日本デザインセンターが設立された。同社にはライトパブリシティから田中一光が移籍し、和田は彼が担当していた東洋レーヨン(現・東レ)のテトロン(ポリエステル)系商品の広告の仕事を引き継ぐ。その後も専売公社のタバコ「ピース」の雑誌広告やキヤノンの新聞広告などを担当し、和田はグラフィックデザイナー、イラストレーターとして腕を磨いた。

 初めて著書を出したのも1960年だった。東レの仕事のため月2~3度、土屋耕一らとともに先方の本社へ会議に出向いたが、お偉方が話すときは、退屈なのでスケッチブックに落書きをしていた。それはなぜかゾウを題材にしたひとコマ漫画ばかりだった。ゾウの漫画は会議のたびに増えていき、ついにはスケッチブックいっぱいになる。それを同僚たちが見て面白がっていたところ、社長の信田の目に留まり、「本にしてあげようか」と言ってくれたのだ。こうしてスケッチブックから21点の絵を選び、『21頭の象』と題して、自費出版のような形ではあるが和田の絵本第1作が出版された。このとき、社長からは「本が出るとそれを見て君に仕事をしてくれという人がきっと出てくると思う。そのときはちゃんと会社を通してすること」と釘を刺されたという。

 すでにこの時点で、和田は会社以外の仕事もいくつかやっていた。後年の著書では、《社長はそれを知っていたのに頭ごなしに叱らず、婉曲に言ってくれたのだと思う。ぼくのほうは会社以外の仕事といっても広告はやらなかったし儲かる仕事もやっていない。というより、ほとんどタダの仕事ばかりだった。それなりにスジを通していたつもりなのだ》と、社長の計らいに感謝しつつ、“内職”するにしても自分なりに会社に義理立てていたことを強調している(和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』)。

 会社外の仕事では、たとえば、新宿の映画館・日活名画座や、赤坂の草月会館でのジャズコンサート「草月ミュージック・イン」のポスター、NHKテレビの『みんなのうた』の第1回作品となった「誰も知らない」谷川俊太郎・作詞)のアニメーションなどを手がけたほか、雑誌に依頼されて何ページか誌面のレイアウトや編集を請け負うこともしばしばだった。初めて書籍を装丁したのもライトパブリシティ在籍中で、学生時代から知り合いだった詩人の寺山修司に頼まれ、彼と湯川れい子の編著『ジャズをたのしむ本』(1961年)の装丁を手がけた。他方で、『21頭の象』をきっかけに知り合った児童文学者の今江祥智の紹介で、童話の挿絵などの仕事を受ける一方、今江や詩人の高橋睦郎、SF作家の星新一などにお話を書いてもらい、和田が絵をつけた絵本を自腹であいついで出版した。

 このころにはまた、日本デザインセンターにいた宇野亜喜良横尾忠則とも、職場が同じ銀座ということもあり、よく一緒に昼食をとった。いずれも和田と同じくデザイナーとして仕事をしながら、イラストレーターでもあり、まだ日本では市民権を得ていなかったイラストレーターという職業の存在を世の中に知らせたいと夢を語り合っていた。

雑誌の歴史に画期をつくった『話の特集

 こうしてライトパブリシティに勤めながら広がった交友関係が、もっとも効果的に発揮されたのが、1965年暮れに創刊した月刊誌『話の特集』の仕事だった。同誌編集長の矢崎泰久からは、その前年にも、ホテル協会より持ちこまれた客室用の豪華雑誌の仕事で協力を求められたことがあった。このとき、和田がアートディレクターとしてビジュアル面を一手に担い、篠山紀信横尾忠則らにも参加してもらってテスト版をつくったものの、結局、ホテル協会の賛同を得られず、創刊にまではいたらなかった。

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樹木希林――内田裕也と久世光彦と、時々、森繁(初出:「cakes」2018年10月15日)

俳優の樹木希林が2018年に亡くなってから、きょう9月15日で丸6年が経ち、7回忌を迎えました。これに合わせて、亡くなったちょうど1ヵ月後に彼女の人生を「cakes」の拙連載「一故人」でたどった回を再掲載します。

舌禍事件で名ディレクターと絶交

女優の樹木希林(2018年9月15日没、75歳)は、自分の発言が原因で、同志ともいうべき人物と約20年にわたり絶交状態になったことがある。その相手とは演出家の久世光彦(てるひこ)だ。久世は樹木の特異な才能を高く買い、1970年代にTBSのディレクター、プロデューサーとして手がけたホームドラマでは必ず彼女を出演させてきた。

だが、二人の関係は突如として断たれた。それは1979年、『ムー一族』の打ち上げパーティーでのこと。このとき、スピーチに立った樹木は、ドラマに出演していた若手女優が久世の子供を妊娠していると暴露した。会場には取材陣も詰めかけ、あらかじめ「私がこれから言うことは記事にしないでください」と釘を刺したが、それはさすがに無理筋というもの、すぐにスポーツ紙や週刊誌で報じられ、一大スキャンダルへと発展する。結局、久世は責任をとってTBSに辞職願いを出し、フリーとなる。

樹木が見たところ、久世は妻と離婚していないのに別の女性とそのような関係になったがために、『ムー一族』が最終回に近づくにつれボルテージが下がり、仕事がおざなりになっていたという(田山力哉『脇役の美学』。以下、参考文献について詳細は記事終わりのリストを参照)。それが彼女には許せず、くだんの発言につながった。後年のインタビューでは、《出演者がみんな、女性のことで久世さんを軽蔑しだした。だから、これまでのことはチャラにして、パーッとやりましょうよ、というつもりだった。それが裏目に出た》とも振り返っている(『朝日新聞』2007年1月13日付)。

もう少し歳を重ねてからの樹木なら、もっと穏便に事を収めることもできたかもしれない。しかし当時の彼女としてみれば、これまでお互い真剣になってドラマをつくってきた同志が、私的な事情で仕事をおろそかにすることにどうしても耐えられなかったのだろう。

このエピソード一つをとっても、樹木の高いプロ意識がうかがえる。やはり久世の演出によるドラマ『時間ですよ』(1970年)では、樹木(当時の芸名は 悠木千帆(ゆうきちほ)だが、この記事での呼称は樹木希林で統一する)が堺正章らとギャグを演じる場面が人気を集めたが、脚本の向田邦子はこの場面には何も書かず、彼女たちにすべて任せていた。これに対し樹木は、自分たちは徹夜でギャグをつくっているのに、なぜ脚本のクレジットには向田の名前しかないのかと抗議したこともあったらしい(小林竜雄『久世光彦vs.向田邦子』)。

演技に力を注ぐ一方で彼女は、いつ女優をやめてもいいと言ってはばからなかった。実際、本業のかたわら、不動産を購入して収入源としていた。《私も言いたいことを言いますから、ケンカして仕事がなくなっても生きていけるように》というのがその理由である(『週刊朝日』2016年5月27日号)。

仕事ではけっして手を抜かないが、俳優という職業にこだわっていたわけではない。矛盾しているようでいて、それを納得させてしまうものが彼女にはあった。その人柄はいかにして育まれたのか、探ってみることにしよう。

無口な少女がテレビの人気者になるまで

樹木希林は1943年1月、東京に生まれた。結婚前の本名は中谷啓子。父はもともと警察官だったが、のちに薩摩琵琶奏者となった。彼女は俳優として絶妙な「間」で笑いを誘ったが、それは父親ゆずりのものらしい(『朝日新聞』2007年1月6日付)。一方、母は戦後、池袋で飲食店を始め(のちに店は横浜に移る)、一家を支えてきた。

幼少期の彼女はめったに口をきかなかった。4~5歳のころ家の中2階から1階に転落した事故が原因で、おねしょをするようになり、それに強い引け目を感じていたからだという。だが、それも鍼灸師にかかるなどして、しだいに治っていった。中学に進むころには《普通に口を利くようになって、いつのまにかケンカっ早くて生意気な人間になっていた》(『朝日新聞』2018年5月10日付)。

俳優の道に進んだのは成り行きだった。高校卒業を前に、父から「おまえは結婚しても夫とうまくいくかわからないから、食いっぱぐれないよう手に職を持て」と薬科大学に行って薬剤師になるよう勧められた。しかし、もともと数学が苦手だったうえ、旅行先の北海道でスキー中に骨折し、受験を断念。けがのため卒業式にも出られず、途方に暮れていたところ、新聞で「新劇の3劇団が研究生を募集」という記事を見つける。新劇3劇団とは文学座俳優座劇団民藝を指し、樹木はこのうち文学座を受験、合格した。決め手は、試験のとき相手のセリフをよく聞いていたからだと、のちに劇団の大先輩の長岡輝子から教えられた。少女時代、口をきけなかった分、周囲をよく見て、よく聞いていたのが活きたらしい(『朝日新聞』2018年5月11日付)。

こうして彼女は1961年、文学座付属演劇研究所の1期生となる。同期には橋爪功小川真由美寺田農北村総一朗、最初の結婚相手となる岸田森(しん)らがいた。デビューにあたり、悠木千帆という芸名を父につけてもらう。

研究所での身体訓練などは後年、役立つことになるが、当時の樹木は芝居をずっと続ける気はなかった。そんな彼女が最初に注目されたのは、舞台ではなくテレビだった。1964年、TBSで放送されたホームドラマ七人の孫』でお手伝いさんの役に起用され、森繁久彌演じる一家の長との掛け合いがウケて、たちまち人気者となったのだ。

同番組でアシスタントディレクターを務めていた久世光彦によれば、この役は交代で書いていた脚本家の一人が唐突に登場させたもので、樹木は文学座より急遽呼ばれた若手のなかから適当に選ばれたにすぎなかった。セリフも「ご隠居さん、もう遅いから帰りましょ」という一言のみ。それを彼女は、「ちょっと頭の回転が遅そうな感じで、しかも、どことも知れぬ地方訛りで」やったところ(森繁久彌久世光彦『大遺言書』)、面白いということになった。もっとも、当人に言わせると、出番までさんざん待たされたのに怒って、セリフをひどくつっけんどんに言ったのが、たまたまウケたのだという(『週刊平凡』1966年6月9日)。

それからというもの、台本に書かれていなくても、ご隠居のそばにはいつもお手伝いさんがいることになり、出番はどんどん増えた。普段から人間を観察し、芝居に活かすということなど、森繁との共演を通して学んだことも少なくない。ただ、出番は増えてもギャラは変わらないし、撮影が夜中までかかるのでくたびれてしまった。このため、好評につき続編が決まり、森繁も「あの子が出るなら」と続投に応じたにもかかわらず、彼女はオファーをいったん断っている。そこへTBSの局長が飛んできたので、ギャラを100%アップすると約束させて、やっと承諾したのだとか(『朝日新聞』2018年5月15日付)。

この間、1965年に同期の岸田森と結婚、翌年1月にはそろって文学座を退団する。新婚時代、夫妻の自宅には編集者の津野海太郎や詩人の長田弘、俳優から演出家へ転身を考えていた蜷川幸雄など多彩な人たちが出入りし、自前で劇団を立ち上げる計画を練った。こうして66年6月、劇団「六月劇場」が旗揚げし、岸田と樹木の新居に劇場を設けた(なお、蜷川は結局この劇団には参加しなかった)。ちょうど既存の演劇にアンチテーゼを掲げる小劇場運動が盛んになりつつあった時期である。

仲間内でも稼ぎ頭だった樹木は、しょっちゅう劇団に制作費を貸していたという。そもそも文学座時代から、ドラマ以外にCMにも出演し、同期の誰よりも稼いでいたので、みんなで飲むとなるとカネを払うのはいつも彼女だった。

その後、1969年に六月劇場が劇団「自由劇場」と合同で「演劇センター68/69」を組織したのを境に、樹木は劇団からフェードアウトする(岸田と別れたのもほぼ同時期だった)。演劇センターは、やがて黒いテントを張った仮設劇場での公演から「黒テント」と呼ばれ、小劇場運動の一翼を担うことになる。なお、樹木は六月劇場の結成前からの仲間で、黒テントの座付作家だった山元清多(きよかず)を、『時間ですよ』の台本作家としてテレビの世界に引き入れている。以来、山元は久世と組んで、のちにはホームドラマの枠を突き破るような異色作『ムー』や『ムー一族』などを手がけた。

樹木がデビューしたころ、新劇の役者のあいだでは、テレビは三流の役者が出るところで、CMにいたっては「出ると芸が荒れる」とまで言われていた。しかし、彼女は気にせず、テレビにもCMにも請われるがままに出演した。おかげで、自分は役者というより、むしろ芸能人でいるという意識のほうが強くなったという。

《役者はみんな役作りをするんだけど、私の場合そこにもう一つ、『世の中はもうこういうものに飽きているな』とか『観たくなくなっているな』とか『こういうものを欲しがっているな』とか、そういうことを何となく感じるタイプなのよ》(『SWITCH』2016年6月号)

彼女を精神的死から救った内田裕也

世の中の流れや視聴者の欲求を意識することは、久世光彦との仕事でより深められたに違いない。1974年、31歳のときには、久世の演出するホームドラマ寺内貫太郎一家』に、一家の長である貫太郎の母・きんばあさんの役で出演する。このとき、髪を脱色し、シワのない手を隠すため、指先を切った手袋をはめるなどして、おばあさんになりきった。このドラマをもっておばあさん役は彼女のハマり役となる。

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さくらももこ―― グータラなまる子、働き者のももこ(初出:「cakes」2018年10月1日)

ちびまる子ちゃん』などの作品で知られるマンガ家のさくらももこが2018年に亡くなってから、きょう8月15日で丸6年が経ち、七回忌を迎えました。これに合わせて、訃報が伝えられたのち「cakes」の拙連載「一故人」で彼女をとりあげた回をこちらに転載します。

目下、一昨年の高松を振り出しに「さくらももこ展」が全国各地を巡回中です(10月5日からは東京・六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催予定)。私も先月、名古屋の松坂屋美術館で開かれたのを観に行ったのですが、数ある展示品のなかでも、さくらが小学校の卒業文集に寄せた作文のうまさに驚きました。本文でも紹介したように、彼女がのちにエッセイをマンガで描いたらどうかと思いつくきっかけとなる、短大推薦希望者のための模擬テストで書いた作文を絶賛されたという話も、小学生時代の作文を読んで納得できました。

今年は『ちびまる子ちゃん』の舞台となる(作中のまる子が小学3年だった)1974年から半世紀という年でもあります。これは以前、べつのところで書いたことですが、1974年は、『ちびまる子ちゃん』のテレビアニメが始まった1990年の時点でいえば、たかだか16年前にすぎません。それにもかかわらず、当時25歳の女性マンガ家の描くその世界観は幅広い世代のノスタルジーを喚起することになりました。

ひるがえって、いま25歳の作家が、16年前の2008年を舞台に自身の小学校時代を描いたとして、果たして『ちびまる子ちゃん』ほどに広く共感を呼ぶことができるかとなると、なかなか難しいように思います。そう考えてみると、1974年は、日本人が懐かしいと思える最大公約数ともいうべきギリギリの時代設定だったのかもしれません。

ちびまる子ちゃん』の雑誌連載が始まった1986年から、アニメ化されるまでの時期はちょうどバブル景気の時代と重なります。そのなかで自作がブームになれば、思わず浮かれてしまってもおかしくはないでしょう。しかし、本文でも紹介したように、さくらはけっして浮き足立つことなく、むしろ冷静に自分を見つめ直すいい機会となったと語っていました。そのことに改めて感服させられます。

先述の展覧会では、マンガにとどまらず、エッセイ、アニメの脚本、絵本、ラジオのパーソナリティと多方面におよんださくらの仕事の全貌を捉えることができます。『ちびまる子ちゃん』に、まる子が青島幸男になりたいと家族に宣言してあきれられるというエピソードがありましたが(集英社刊の単行本・第7巻所収「その55『まる子 みんなにばかにされる』の巻」)、多岐におよぶばかりでなく、いまも彼女の作品が人気を持続しているのを見ると、すでに青島幸男を超えたと言ってもいいのではないでしょうか。一体なぜ、彼女はそれほどまでにさまざまな仕事に力を入れて取り組むことができたのか、拙文を読めばきっとわかっていただけるはずです。

親友が「社長さんみたい」と感心するほどのしっかり者

《私は働き者ですが、まる子は怠け者です。私はしっかり者ですが、まる子はだらしがない。しっかりしろよと言いたくなります》(『MOE』1999年11月号)

マンガ家のさくらももこ(2018年8月15日没、53歳)は、《さくらさんとまるちゃんのいちばん違うところは?》との質問に対し、こんなふうに答えた。「まるちゃん」とは言うまでもなく、さくらの代表作『ちびまる子ちゃん』の主人公である小学3年生の女の子を指す。

ちびまる子ちゃん』はエッセイマンガと銘打ち、小学生のころの作者をモデルにしていることを思えば、先のさくらの回答はちょっと意外にも思える。事実、次の発言にもあるとおり、彼女自身、子供のころは「怠け者」で「だらしがなかった」ことを認めている。

《高校まではテレビを見たり、漫画を読んでばっかりで、グータラしていたんですよ。三年寝太郎なんていうものじゃないくらい、馬鹿みたいに寝ていましたし。母親が「情けないよ、この子は」と、泣いちゃったくらいですからね。「こんな子を産んで損したよ、私は」って(笑)》(『週刊文春』1992年12月17日号)

そんな怠け者がマンガ家になってからは一変する。マンガの連載だけでなく、自作の『ちびまる子ちゃん』や『コジコジ』がテレビアニメになると脚本を手がけた(原作者のマンガ家が脚本まで書くのは珍しい)。文才も発揮し、『もものかんづめ』(1991年)をはじめ、エッセイ集は次々とベストセラーとなる。このほかにもイラストや絵本の仕事をこなし、テレビドラマの脚本やラジオ番組のパーソナリティを担当したこともあった。多忙をきわめた当時、彼女はこんなことを語っている。

《私、とにかく仕事が好きなんです。今の仕事が終わってもまたすぐに、先の仕事をやるぐらい好きなんです。(中略)オフにしようと思えばできるんですけれど、やりたい仕事が急にきて、それができないのは嫌だから、ふだんの仕事はなるべく早目にやっておくんです。(中略)すごく仕事がたて込んでいる時は、体力が尽きてもう描けなくなったという時に二時間ぐらい仮眠を取って、また起きて……という感じで。だから、連続何十時間も起きていることもありますよ。ふだんは朝寝て、お昼起きて……睡眠時間は四、五時間ですね。(中略)八時間も寝ると、寝過ぎで、体調が悪くなっちゃうんですよ》(前掲)

かつては寝てばかりで親に泣かれた彼女だが、このころには逆に「少しは休んでよ」と心配されるまでになっていた。本人いわく《きっとなりたかった漫画家になれて張り合いがあるから、チャキチャキやっているんでしょうね》(前掲)。

忙しいなかでも、作家の吉本ばななやコピーライターの糸井重里など各方面に交友関係を広げた。女優の賀来千賀子もその一人で、さくらのエッセイを読んでファンレターを送ったのを機に親しくつきあうようになったという。その親友から見て、さくらももこはこんな人物であった。

《さくらさんは、子供の部分と大人の部分が同居してる方。だからすごく純粋な、子供らしい可愛らしい“まる子ちゃん”の部分もあるし、まるちゃんの中にも、非常にシビアにものを見ている部分ってありますよね、なんていうのかな……たとえば社長さんみたいな視点でものを見るようなキャパの大きいところもあるんです。私、何度言ったかしら、「しっかりしてるよね」「ほんとにえらいね」って。いつも「そんなことないヨ」って笑ってますけどね》NHKトップランナー」制作班・編『トップランナー VOL.5』)

後年、さくらが最初の夫と離婚するに際し、賀来は自分の家族とともに協力することになる。なかでも引っ越し先の手配など実務的なことをいちばん手伝ってくれたのが、賀来の兄だった。彼は流通大手のセゾングループに勤務しており、社長秘書を担当したこともあるという。

しばらくして彼が転職を考えていると知ったさくらは、自分のプロダクションに入ってもらえないかと画策。賀来とともに数度にわたって説得した結果、スカウトに成功する。このとき、さくらが《もしも私が死んだら、書店では一応“さくらももこ遺作フェア”というのをやってくれるでしょう。そんな時こそお兄ちゃんの力が必要なんです》などと自分の没後のことまで持ち出して説得する様子は、エッセイ集『さくら日和』にユーモアたっぷりにつづられている。ともあれ、会社の経営のため必要な人材をめざとく見つけ、獲得に動いたのは、賀来の言うとおり「社長さん」らしい手腕をうかがわせる。

かつてはまる子と同じグータラだった女の子が、いかにして変わっていったのか。その足跡をたどってみることにしよう。

さくらももこ」はもともと芸名だった!?

さくらももこは1965年5月、静岡県に生まれた。出身地は『ちびまる子ちゃん』にも出てくるとおり、清水市(現在の静岡市清水区)である。実家は八百屋を営んでいた。

小学生のころは授業をまるで聞かない子供だったようだ。たとえば学校の外から焼き芋屋の売り声が聞こえてくると、《お芋、おいしそうだな。いま、ここを抜け出して買いに行ったら、まにあうかな。あっ、今日はお金を持っていない。明日からお金用意しておかなけりゃ……。そうだ、お小づかいもらっていないや。お年玉、今年は少なかったのはなぜだろうか……》などと次々と空想が膨らんできたという(さくらももこもものかんづめ』文庫版「巻末お楽しみ対談」)。参観日に来た母親に上の空でいるのを見破られ、注意されたこともあった。

母親に怒られることはしょっちゅうだったが、どこか釈然としないものを感じていた。本人の言い分はこうだ。

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はからずも予言の書?~『総理の辞め方』本田雅俊著(初出:「日経ビジネス・オンライン」2008年9月3日)

 岸田文雄首相がきょう8月14日、9月に予定される自民党総裁選への不出馬を表明し、それにともない首相を辞任する方向となりました。このタイミングに合わせ、いまから16年前の2008年9月(北京五輪の翌月)に当時の首相・福田康夫の辞任発表を受けて、ウェブサイト「日経ビジネス・オンライン」の「日刊新書レビュー」*1に書いた書評を再掲載します。

 レビューでとりあげた『総理の辞め方』での歴代首相の辞任劇・退任劇の“6類型”(本文参照)でいえば、今回の岸田首相は、支持率が低下し、自民党内からもトップを替えなければ次の選挙を戦えないとの声が高まっていたことから、「流れに逆らえない辞任」ということになるでしょうか。

 ついでなので、本文でとりあげた福田康夫以降の首相たちについても、私なりに例の6類型に当てはめてみると……福田辞任の翌2009年の総選挙で民主党への政権交代を許した麻生太郎と、その民主党政権鳩山由紀夫野田佳彦は「結果責任による辞任」、自党内からも上がった辞任を求める声に従わざるをえなかった菅直人菅義偉は今回の岸田と同じく「流れに逆らえない辞任」、二度目の政権を担当した安倍晋三は「未練のある辞任」とも「再起を目指した辞任」とも言えそうです。

 なお、『総理の辞め方』の著者である本田雅俊(経済行政アナリスト、現・金城大学客員教授)は現在、共同通信のウェブサイトでコラムを連載しています。その最新回(2024年8月9日配信)では、岸田首相が総裁選への出馬を表明する「Xデー」を8月28日と予想しながらも、一方で《もちろん、出馬を断念する可能性も低くはない》として、《その場合、尊敬する池田勇人首相(当時)に倣い、スポーツの祭典への敬意から、パラリンピックの閉幕を待って、9月9日あたりに退陣を表明するかもしれない》と書いていました。実際にはお盆のさなかの8月14日となったわけですが、本田氏の書いたように、1964年の東京五輪閉幕後に病気を理由に勇退した池田勇人に倣ってなのか、パリオリンピックの閉幕の直後となりました。

 蛇足ながら、本文の引用文中に出てくる、福田康夫座右の銘だという勝海舟の言葉「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張」はもともと、勝が福沢諭吉からその論説「痩我慢の説」について発表前に感想を求められて、書き送った返書のなかに出てくるものです。福沢はくだんの論説のなかで、勝が幕臣時代、薩摩・長州に対して、まだ勝敗が決していないにもかかわらず、あっさり和議を結んで江戸城を明け渡したことを、《立国の要素たる瘠我慢の士風を傷(そこな)うたるの責(せめ)は免(まぬ)かるべからず》と批判していました。それに対し勝は「自分の出処進退は自分で決める、批評は他人の主張である」との意味の言葉を返したわけです。

 この事実を私はつい最近、花田清輝のエッセイ「「慷慨談」の流行」(『もう一つの修羅』講談社文芸文庫、1991年所収)で知ったのですが、花田が《勝海舟の返事は、味気なく、素っ気ない。しかし、わたしには、そこから、「機があるのだもの、機が過ぎてから、なんといったって、それだけのことサ」というかれの声がひびいてくるようにおもわれる》と書くように、勝としては福沢の言い分に「わかっちゃいねーなー」というのが正直なところだったでしょう。その心情は、辞任会見で記者に向かって思わず「あなたとは違うんです」と言い放ってしまった福田のそれにもつながっているはずです。

(以下、再録)

『総理の辞め方』本田雅俊著(PHP新書、2008年7月)

評者の読了時間:4時間10分

 9月に入ってすぐ福田首相が辞任を表明した。一体何があったのか、首相の会見を見ただけではまだよくわからないが、あまりにも唐突だということは間違いない。 まあ、8月初旬に、首相と麻生太郎氏とのあいだで政権禅譲の密約があったとする説がささやかれた時点で、この政権もそんなに長いことはないなとは思っていたが、まさかこんなにも早く終焉が訪れようとは思わなかった。ちょうど同じころ本書を上梓した著者は、果たして事態をどこまで予想していたのだろうか。

 本書は、そんな一夜にしてタイムリーになってしまった「総理の辞め方」というテーマを通して戦後の歴代首相を紹介するものである。

 この手の本はえてして首相の業績に対し高みから評価を下しがちだが(その最たる例は福田和也の『総理の値打ち』だろう)、本書は批判すべきところは批判しつつ、どの首相に対しても慰労の拍手を送るという姿勢で書かれている。

*1:日経ビジネス・オンライン」で複数の執筆者が持ち回りで連載していたもの。ただし、2009年の同サイトのリニューアルにともない、それまでに掲載されたすべてのレビューは、担当の編集者や執筆陣には何の断りもなしに削除されてしまったため(←これ、強調)、現在は読むことができない。自分が執筆した分についてはこれを機に本ブログに転載していきたい。

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