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ライター・近藤正高のブログ

さくらももこ―― グータラなまる子、働き者のももこ(初出:「cakes」2018年10月1日)

ちびまる子ちゃん』などの作品で知られるマンガ家のさくらももこが2018年に亡くなってから、きょう8月15日で丸6年が経ち、七回忌を迎えました。これに合わせて、訃報が伝えられたのち「cakes」の拙連載「一故人」で彼女をとりあげた回をこちらに転載します。

目下、一昨年の高松を振り出しに「さくらももこ展」が全国各地を巡回中です(10月5日からは東京・六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催予定)。私も先月、名古屋の松坂屋美術館で開かれたのを観に行ったのですが、数ある展示品のなかでも、さくらが小学校の卒業文集に寄せた作文のうまさに驚きました。本文でも紹介したように、彼女がのちにエッセイをマンガで描いたらどうかと思いつくきっかけとなる、短大推薦希望者のための模擬テストで書いた作文を絶賛されたという話も、小学生時代の作文を読んで納得できました。

今年は『ちびまる子ちゃん』の舞台となる(作中のまる子が小学3年だった)1974年から半世紀という年でもあります。これは以前、べつのところで書いたことですが、1974年は、『ちびまる子ちゃん』のテレビアニメが始まった1990年の時点でいえば、たかだか16年前にすぎません。それにもかかわらず、当時25歳の女性マンガ家の描くその世界観は幅広い世代のノスタルジーを喚起することになりました。

ひるがえって、いま25歳の作家が、16年前の2008年を舞台に自身の小学校時代を描いたとして、果たして『ちびまる子ちゃん』ほどに広く共感を呼ぶことができるかとなると、なかなか難しいように思います。そう考えてみると、1974年は、日本人が懐かしいと思える最大公約数ともいうべきギリギリの時代設定だったのかもしれません。

ちびまる子ちゃん』の雑誌連載が始まった1986年から、アニメ化されるまでの時期はちょうどバブル景気の時代と重なります。そのなかで自作がブームになれば、思わず浮かれてしまってもおかしくはないでしょう。しかし、本文でも紹介したように、さくらはけっして浮き足立つことなく、むしろ冷静に自分を見つめ直すいい機会となったと語っていました。そのことに改めて感服させられます。

先述の展覧会では、マンガにとどまらず、エッセイ、アニメの脚本、絵本、ラジオのパーソナリティと多方面におよんださくらの仕事の全貌を捉えることができます。『ちびまる子ちゃん』に、まる子が青島幸男になりたいと家族に宣言してあきれられるというエピソードがありましたが(集英社刊の単行本・第7巻所収「その55『まる子 みんなにばかにされる』の巻」)、多岐におよぶばかりでなく、いまも彼女の作品が人気を持続しているのを見ると、すでに青島幸男を超えたと言ってもいいのではないでしょうか。一体なぜ、彼女はそれほどまでにさまざまな仕事に力を入れて取り組むことができたのか、拙文を読めばきっとわかっていただけるはずです。

親友が「社長さんみたい」と感心するほどのしっかり者

《私は働き者ですが、まる子は怠け者です。私はしっかり者ですが、まる子はだらしがない。しっかりしろよと言いたくなります》(『MOE』1999年11月号)

マンガ家のさくらももこ(2018年8月15日没、53歳)は、《さくらさんとまるちゃんのいちばん違うところは?》との質問に対し、こんなふうに答えた。「まるちゃん」とは言うまでもなく、さくらの代表作『ちびまる子ちゃん』の主人公である小学3年生の女の子を指す。

ちびまる子ちゃん』はエッセイマンガと銘打ち、小学生のころの作者をモデルにしていることを思えば、先のさくらの回答はちょっと意外にも思える。事実、次の発言にもあるとおり、彼女自身、子供のころは「怠け者」で「だらしがなかった」ことを認めている。

《高校まではテレビを見たり、漫画を読んでばっかりで、グータラしていたんですよ。三年寝太郎なんていうものじゃないくらい、馬鹿みたいに寝ていましたし。母親が「情けないよ、この子は」と、泣いちゃったくらいですからね。「こんな子を産んで損したよ、私は」って(笑)》(『週刊文春』1992年12月17日号)

そんな怠け者がマンガ家になってからは一変する。マンガの連載だけでなく、自作の『ちびまる子ちゃん』や『コジコジ』がテレビアニメになると脚本を手がけた(原作者のマンガ家が脚本まで書くのは珍しい)。文才も発揮し、『もものかんづめ』(1991年)をはじめ、エッセイ集は次々とベストセラーとなる。このほかにもイラストや絵本の仕事をこなし、テレビドラマの脚本やラジオ番組のパーソナリティを担当したこともあった。多忙をきわめた当時、彼女はこんなことを語っている。

《私、とにかく仕事が好きなんです。今の仕事が終わってもまたすぐに、先の仕事をやるぐらい好きなんです。(中略)オフにしようと思えばできるんですけれど、やりたい仕事が急にきて、それができないのは嫌だから、ふだんの仕事はなるべく早目にやっておくんです。(中略)すごく仕事がたて込んでいる時は、体力が尽きてもう描けなくなったという時に二時間ぐらい仮眠を取って、また起きて……という感じで。だから、連続何十時間も起きていることもありますよ。ふだんは朝寝て、お昼起きて……睡眠時間は四、五時間ですね。(中略)八時間も寝ると、寝過ぎで、体調が悪くなっちゃうんですよ》(前掲)

かつては寝てばかりで親に泣かれた彼女だが、このころには逆に「少しは休んでよ」と心配されるまでになっていた。本人いわく《きっとなりたかった漫画家になれて張り合いがあるから、チャキチャキやっているんでしょうね》(前掲)。

忙しいなかでも、作家の吉本ばななやコピーライターの糸井重里など各方面に交友関係を広げた。女優の賀来千賀子もその一人で、さくらのエッセイを読んでファンレターを送ったのを機に親しくつきあうようになったという。その親友から見て、さくらももこはこんな人物であった。

《さくらさんは、子供の部分と大人の部分が同居してる方。だからすごく純粋な、子供らしい可愛らしい“まる子ちゃん”の部分もあるし、まるちゃんの中にも、非常にシビアにものを見ている部分ってありますよね、なんていうのかな……たとえば社長さんみたいな視点でものを見るようなキャパの大きいところもあるんです。私、何度言ったかしら、「しっかりしてるよね」「ほんとにえらいね」って。いつも「そんなことないヨ」って笑ってますけどね》NHKトップランナー」制作班・編『トップランナー VOL.5』)

後年、さくらが最初の夫と離婚するに際し、賀来は自分の家族とともに協力することになる。なかでも引っ越し先の手配など実務的なことをいちばん手伝ってくれたのが、賀来の兄だった。彼は流通大手のセゾングループに勤務しており、社長秘書を担当したこともあるという。

しばらくして彼が転職を考えていると知ったさくらは、自分のプロダクションに入ってもらえないかと画策。賀来とともに数度にわたって説得した結果、スカウトに成功する。このとき、さくらが《もしも私が死んだら、書店では一応“さくらももこ遺作フェア”というのをやってくれるでしょう。そんな時こそお兄ちゃんの力が必要なんです》などと自分の没後のことまで持ち出して説得する様子は、エッセイ集『さくら日和』にユーモアたっぷりにつづられている。ともあれ、会社の経営のため必要な人材をめざとく見つけ、獲得に動いたのは、賀来の言うとおり「社長さん」らしい手腕をうかがわせる。

かつてはまる子と同じグータラだった女の子が、いかにして変わっていったのか。その足跡をたどってみることにしよう。

さくらももこ」はもともと芸名だった!?

さくらももこは1965年5月、静岡県に生まれた。出身地は『ちびまる子ちゃん』にも出てくるとおり、清水市(現在の静岡市清水区)である。実家は八百屋を営んでいた。

小学生のころは授業をまるで聞かない子供だったようだ。たとえば学校の外から焼き芋屋の売り声が聞こえてくると、《お芋、おいしそうだな。いま、ここを抜け出して買いに行ったら、まにあうかな。あっ、今日はお金を持っていない。明日からお金用意しておかなけりゃ……。そうだ、お小づかいもらっていないや。お年玉、今年は少なかったのはなぜだろうか……》などと次々と空想が膨らんできたという(さくらももこもものかんづめ』文庫版「巻末お楽しみ対談」)。参観日に来た母親に上の空でいるのを見破られ、注意されたこともあった。

母親に怒られることはしょっちゅうだったが、どこか釈然としないものを感じていた。本人の言い分はこうだ。

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