岸田文雄首相がきょう8月14日、9月に予定される自民党総裁選への不出馬を表明し、それにともない首相を辞任する方向となりました。このタイミングに合わせ、いまから16年前の2008年9月(北京五輪の翌月)に当時の首相・福田康夫の辞任発表を受けて、ウェブサイト「日経ビジネス・オンライン」の「日刊新書レビュー」*1に書いた書評を再掲載します。
レビューでとりあげた『総理の辞め方』での歴代首相の辞任劇・退任劇の“6類型”(本文参照)でいえば、今回の岸田首相は、支持率が低下し、自民党内からもトップを替えなければ次の選挙を戦えないとの声が高まっていたことから、「流れに逆らえない辞任」ということになるでしょうか。
ついでなので、本文でとりあげた福田康夫以降の首相たちについても、私なりに例の6類型に当てはめてみると……福田辞任の翌2009年の総選挙で民主党への政権交代を許した麻生太郎と、その民主党政権の鳩山由紀夫と野田佳彦は「結果責任による辞任」、自党内からも上がった辞任を求める声に従わざるをえなかった菅直人と菅義偉は今回の岸田と同じく「流れに逆らえない辞任」、二度目の政権を担当した安倍晋三は「未練のある辞任」とも「再起を目指した辞任」とも言えそうです。
なお、『総理の辞め方』の著者である本田雅俊(経済行政アナリスト、現・金城大学客員教授)は現在、共同通信のウェブサイトでコラムを連載しています。その最新回(2024年8月9日配信)では、岸田首相が総裁選への出馬を表明する「Xデー」を8月28日と予想しながらも、一方で《もちろん、出馬を断念する可能性も低くはない》として、《その場合、尊敬する池田勇人首相(当時)に倣い、スポーツの祭典への敬意から、パラリンピックの閉幕を待って、9月9日あたりに退陣を表明するかもしれない》と書いていました。実際にはお盆のさなかの8月14日となったわけですが、本田氏の書いたように、1964年の東京五輪閉幕後に病気を理由に勇退した池田勇人に倣ってなのか、パリオリンピックの閉幕の直後となりました。
蛇足ながら、本文の引用文中に出てくる、福田康夫の座右の銘だという勝海舟の言葉「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張」はもともと、勝が福沢諭吉からその論説「痩我慢の説」について発表前に感想を求められて、書き送った返書のなかに出てくるものです。福沢はくだんの論説のなかで、勝が幕臣時代、薩摩・長州に対して、まだ勝敗が決していないにもかかわらず、あっさり和議を結んで江戸城を明け渡したことを、《立国の要素たる瘠我慢の士風を傷(そこな)うたるの責(せめ)は免(まぬ)かるべからず》と批判していました。それに対し勝は「自分の出処進退は自分で決める、批評は他人の主張である」との意味の言葉を返したわけです。
この事実を私はつい最近、花田清輝のエッセイ「「慷慨談」の流行」(『もう一つの修羅』講談社文芸文庫、1991年所収)で知ったのですが、花田が《勝海舟の返事は、味気なく、素っ気ない。しかし、わたしには、そこから、「機があるのだもの、機が過ぎてから、なんといったって、それだけのことサ」というかれの声がひびいてくるようにおもわれる》と書くように、勝としては福沢の言い分に「わかっちゃいねーなー」というのが正直なところだったでしょう。その心情は、辞任会見で記者に向かって思わず「あなたとは違うんです」と言い放ってしまった福田のそれにもつながっているはずです。
(以下、再録)
『総理の辞め方』本田雅俊著(PHP新書、2008年7月)
評者の読了時間:4時間10分
9月に入ってすぐ福田首相が辞任を表明した。一体何があったのか、首相の会見を見ただけではまだよくわからないが、あまりにも唐突だということは間違いない。 まあ、8月初旬に、首相と麻生太郎氏とのあいだで政権禅譲の密約があったとする説がささやかれた時点で、この政権もそんなに長いことはないなとは思っていたが、まさかこんなにも早く終焉が訪れようとは思わなかった。ちょうど同じころ本書を上梓した著者は、果たして事態をどこまで予想していたのだろうか。
本書は、そんな一夜にしてタイムリーになってしまった「総理の辞め方」というテーマを通して戦後の歴代首相を紹介するものである。
この手の本はえてして首相の業績に対し高みから評価を下しがちだが(その最たる例は福田和也の『総理の値打ち』だろう)、本書は批判すべきところは批判しつつ、どの首相に対しても慰労の拍手を送るという姿勢で書かれている。
たとえば、史上2度目の社会党首班内閣で首相を務めた村山富市(トンちゃんという愛称でも親しまれた)は、在任中に起きた阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件への対応のまずさから、その危機管理能力が問われた。本書でも当然ながらその点については指摘されている。
だが著者は、村山が実は首相就任の前年、1993年の総選挙には出馬せず、椎間板ヘルニアを患った夫人に孝行することを宣言していたというエピソードを紹介し、さらにはその文章の終わりにこんな一文を記している。
《トンちゃんは紛れもなく市井の人なのである。ちなみに、阪神・淡路大震災のとき、ヨシヱ夫人は村山にも内緒で被災地に赴き、一般の人たちに交じって黙々とボランティア活動に従事していたという。ある意味で似たもの夫婦なのかもしれない》
著者は内閣官房副長官の秘書などを経て、現在、政策研究大学院大学准教授を務めているが、少なからず政治の前線で活動していたからこそ、このようなきわめて人間くさいエピソードを添えることを心がけたのではないだろうか。
信念を貫いた人、未練たらたらな人
このトンちゃんも含めて、著者は冒頭で歴代首相の辞任劇・退任劇を、以下のように6つの類型に分けている。かっこ内はそれらの類型に該当する首相の名だ。
・「美しき辞任」(鳩山一郎・石橋湛山・岸信介・池田勇人・小泉純一郎)
・「淡白な辞任」(東久邇宮稔彦王・鈴木善幸・細川護煕・村山富市)
・「結果責任による辞任」(片山哲・芦田均・佐藤栄作・宮沢喜一・安倍晋三)
・「未練のある辞任」(幣原喜重郎・吉田茂・海部俊樹・羽田孜・橋本龍太郎)
・「再起を目指した辞任」(田中角栄・福田赳夫・中曽根康弘・竹下登・森喜朗)
・「流れに逆らえない辞任」(三木武夫・大平正芳・宇野宗佑・小渕恵三)
興味深いのは、辞任の類型が同じだからといって、政権担当期間も同じぐらいだというわけではないことである。たとえば、石橋内閣は東久邇宮・羽田に次ぐ憲政史上3番目の短命政権だったが、石橋と同じく「美しき辞任」に分類される小泉は、周知のとおり、佐藤・吉田に次ぎ戦後3位となる長期政権を担当した。
もちろん、上記のような著者による首相の分類はかなり主観的なものだ。たとえば、日米新安保条約の成立をきっかけに岸信介が政権を退いたのを「美しき辞任」だとするのは、その直前まで国民のあいだで激しく展開された反安保闘争を考えれば、首をひねる向きもあるだろう。また、岸自身としても憲法改定という最終目標があったわけで、まったく未練を残さずにやめたわけではけっしてなかったに違いない。 本書では「未練のある辞任」に分類されているが、意外や「美しき辞任」ともいえるのではないかと感じたのは、1994年に約2ヶ月だけ非自民連立政権を率いた羽田孜の辞任劇である。
羽田内閣は発足直後より、当時野党だった自民党から不信任案を突きつけられ、その可決はあきらかという局面に陥っている。このとき、羽田には不信任案が可決されても衆院を解散し、国民に信を問うことで政権の延命をはかるという道もあった。というか、政界ではそれが常套手段なのだが、結局、羽田はそれをしなかった。なぜか?
その理由は、羽田たちの宿願だった小選挙区制度が、前年の細川内閣での政治改革関連法の成立により実行に向け端緒についていたものの、その区割りがまだ画定していなかったことにある。
つまり、この時点で羽田が衆院を解散しても、従来の中選挙区制で選挙を実施せねばならなかったのだ。自民党を離党してまで政治改革の実現に心血をそそいできた彼にとって、それは時計の針を戻すことにほかならなかった。それゆえに、羽田は衆院を解散せず、未練を残しつつも内閣総辞職の道を選んだのである。
小沢一郎のいいなりというイメージを抱かれがちな羽田政権だけれども(それはたしかに一面では真実なのだが)、このことは、もっと記憶されていいことかもしれない。
羽田孜は結局、何らかの実績を残す前に、自身の信念を貫く形で首相の座を退いたわけだが、信念を貫くとともに実績を残した首相も当然いる。しかし、だからといって彼らがみな「美しき辞任」を迎えたというわけでもないのがまた興味深い。
たとえば、吉田茂はサンフランシスコ講和条約、佐藤栄作は沖縄返還協定と、おのおのその締結をもって身を引いていれば有終の美を飾ることができたとは、以前からよくいわれてきたことだ。けれども実際には両者とも辞め時を誤ってしまう。
佐藤のばあい、なかなかやめなかったことで自民党内での求心力を失い、最後は後継者を指名することもできなかった。あげくの果てには首相退任の記者会見で、新聞記者を追い出し、ひとりテレビカメラを前に国民に向けてあいさつを行ない不評を買った(やってることは、ドラマ『CHANGE』におけるキムタク総理とほとんど変わりなかったのだが)。
思えば、2005年の総選挙で党を大勝に導き、任期を延長しようと願えばかなったはずの小泉純一郎が、意外にもあっけなく(というほどでもなかったか)退いたのは、こうした前例を反面教師にしたのかもしれない。まあ、郵政民営化の実現が、講和条約や沖縄返還に匹敵する歴史的な業績かどうかはともかくとして。
さて、福田さんはどの「辞め方」?
さて、もう一度冒頭の話に戻ると、先述の6つの類型のうち今回の福田首相の辞任はどれに当てはまるのだろうか。
「ほかの人に託したい」という辞任の理由といい、内閣改造からまもなくしてという状況といい、ほぼ一年前の安倍晋三の辞め方と似ている点は多い。が、参院選で敗北し結局「結果責任による辞任」に追いこまれた安倍とは一線を画す。しいて当てはめるなら、「淡白な辞任」というのがもっとも近いかもしれない。
なお、本書では福田首相について次のように書かれている。
《福田の座右の銘は「行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張」であるという。これは勝海舟の言葉であり、出処進退は自分で決めるべきだという意味である。自民党総裁選挙の討論会で、記者からの「首相の資質とは何か」との質問に、福田は「辞める時の決断」だとも答えている》
そもそも福田首相は、大学卒業後は石油会社に就職し、夫人とも「政治家にはならない」と宣言して結婚したという。だが、1976年、サラリーマン生活にピリオドを打ち、首相就任直前の父・赳夫の秘書となる。政界を引退した父のあとを継ぐのは1990年だ。
父の赳夫は現役時代、田中角栄や大平正芳などと激しい権力闘争を繰り広げた。それを秘書として目の当たりにした福田首相は、政界に入ってからも権力というものに対し淡白で、いつもどこかで辞め時というものを考えていたのかもしれない。思えば、森~小泉内閣と継続して務め、歴代最長の在任記録を更新した官房長官も、過去の国民年金未納の疑惑が浮上すると、あっさりとやめてしまった。
今回の辞任劇は結局のところ、辞め方にこだわり続けた首相が、最後の最後で自らの信念を通した、というのが真相に近いのではないか。たしかに、このままでは検討している法案を国会で通すのは難しく、総選挙になっても苦戦を強いられ、政権交代の可能性も十分にありうるとなれば、まわりから引導を渡されず自らの決断で辞めるにはいまの時期ぐらいしかなかったはずだ。
ついでにいえば、「毀誉は他人の主張」という言葉もまた福田首相にふさわしいと思う。辞任会見の最後で、首相は記者から「人ごとのように感じる」と追及され、「私は自分自身を客観的に見ることができる」と不快感をあらわにしていたが、本人にとっては、自分の決断を他人がどう評価しようと、そんなことは二の次ということなのだろう。
そう考えると、これほどまでに座右の銘に忠実に行動した首相というのも、かつていなかったような気がする。結局業績らしい業績はほとんど残せなかったが、その一点だけにおいて、福田康夫の名は歴史に刻まれるべきではないだろうか。
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