先月最後の月曜、9月30日にイラストレーターの山藤章二が亡くなった。その訃報に接し、ほぼ1年前、私が文学フリマで頒布した個人誌に書き下ろした風刺画に関する文章のなかで山藤氏についてかなりの文字数を費やして言及していたことを思い出した。
『週刊朝日』連載の「山藤章二のブラック=アングル」に代表される彼の仕事を日本の風刺画の系譜のなかに位置づけてみたその拙文を改めて読み返すと、最後のまとめ方といい、亡くなる前年にして山藤先生を追悼してしまった……という感がある。せっかくなので今回、転載することにした。
本文中で言及した「風の会」の風刺画が引き金となり起こってしまった事件については、山藤が亡くなった翌日深夜に、爆笑問題の太田光が自身のラジオ番組で具体的なことは伏せながらも言及していた。そのとき太田が言っていたように、あのような事件があったのちも風刺画をやめなかった山藤の姿勢は改めて評価されるべきだと思う(たとえ事件の発端となった作品自体には問題があったにせよ)。
それにしても、『朝日新聞』の訃報(9月30日17時46分配信)にコメントを寄せたやくみつるが、SNSなどが普及する昨今、風刺画に対する風当たりが強くなっているとして《山藤さんにはまだまだ先頭に立って、今日の混迷した状況を鋭く批評して欲しかった》と述べていたのにはあきれた。何を甘えたことを言っているのだろうか。そもそも、山藤は「ブラック=アングル」が2021年に終了した時点で、第一線からほぼ退いた状態だったというのに。コメントをとるなら、山藤が同業の和田誠と似顔絵が一番上手いのはあの人だと意見が一致した針すなお――朝日の政治面で一コマ漫画も描いている――か、同い年でいまなお週刊誌連載を続けている東海林さだおにしてほしかった(両氏ともすでにどこかでコメントを出していたりするのだろうか)。
それにしても、山藤がライバルと見なし、互いに意識し合う存在であった和田誠が亡くなって5年後の命日のちょうど1週間前に亡くなったというのが、また因縁めいたものを感じてしまう。
余談ながら、先日、伊藤若冲と円山応挙がそれぞれ左隻と右隻を描いた屏風絵が発見されたというニュースがあったが、もし、冥界で山藤章二が二人で分担して屏風絵を描くとして、相手は誰がふさわしいのだろうか……てなことをちょっと考えた。
やはり和田誠がもっとも適役なのだろうが、案外、山藤と同じく今年亡くなった高橋春男が善戦しそうな気もする。ある時期、「ブラック=アングル」のライバルは、和田の『週刊文春』の表紙よりも『サンデー毎日』での高橋の連載「大日本中流小市民」だったことは、知っている人には同意してもらえるはずだ。1988年の春先に坂本龍一がアカデミー賞、岡本綾子が米国女子ツアー(だったかな?)の大会で優勝したときには、両者ともそれを題材にしながら、高橋はメインにその二人(に加えて東京ドームコンサートで復活した美空ひばり)ではなく、阪神の監督に復帰してシーズン初勝利を果たした村山実を持ってくるというひねり技を見せた。ダリが死んだときには、山藤はこれをどう料理するのか高橋が予想してイラストレーションを描いたこともあったっけ。
山藤章二といえば、転載した拙文でもその名前をあげた劇作家の飯沢匡は、山藤が若き日にその才能を見出してもらった恩人である。山藤が名乗った「戯れ絵師」も、もともとは飯沢から一勇斎(歌川)国芳を教えられて衝撃を受け、「戯れ絵」という呼び名だけこっそり拝借したのだという(『山藤章二 戯画街道』美術出版社、1980年)。飯沢は黒柳徹子がNHK放送劇団で俳優を始めたころの恩師でもあるが、よくよく若い才能を世に送り出す名伯楽だったのだと思う。いまではほとんど顧みられることがないけれど、国会図書館デジタルコレクションではその著書がいくつか閲覧できる。『飯沢匡のもの言いモノロオグ』というエッセイ集など、半世紀近く前のものにもかかわらず、現在に通じる内容の文章もあったりしてなかなか面白い。
かように山藤先生について書き出すと、あれこれ話が広がってしまって止まらない。今回はひとまずこのへんでやめて、転載は次のエントリーで!