Culture Vulture

ライター・近藤正高のブログ

モハメド・アリ――アリが蟻に自分を重ね合わせたとき(初出:「cakes」2016年6月24日)

 1974年10月30日、アフリカ中西部のザイール(現・コンゴ民主共和国)の首都キンシャサで行われたボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチで、当時の王者ジョージ・フォアマンモハメド・アリが挑戦して勝利を収め、その7年前にベトナム戦争に反対して徴兵を拒否したために剥奪された王座を奪還しました。「キンシャサの奇跡」と呼ばれるこの歴史的な試合からきょうでちょうど50年ということで、アリが2016年に6月に亡くなったあとにウェブサイト「cakes」の拙連載「一故人」で彼の人生を顧みた回を再公開します。

対戦相手への挑発はプロレスが手本だった

《俺、俺たち(me,we)》

 これは、プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリ(2016年6月3日没、74歳)が即興でつくった詩だ。アメリカのジャーナリスト、ジョージ・プリンプトンが“英語で一番短い詩”と評するこの詩は、アリがハーバード大学の卒業式でスピーチを行なった際に、学生から求められてつくったものだという(映画『モハメド・アリ かけがえのない日々 [DVD]』)。年代ははっきりしないが、おそらく彼がすでに引退した1981年以降、パーキンソン症候群の治療を続けていたころと思われる。

 即興詩はアリの得意とするところだった。そのもっとも有名な一節は、「蝶のように舞い、蜂のように刺す(Float like a butterfly,Sting like a bee)」だろう(なおFloatは厳密には「舞う」というよりも「漂う」というニュアンスに近いようだ)。これは1964年、アリが世界ヘビー級チャンピオンだったソニー・リストンに挑戦する直前、自分のボクシングを讃えてつくったものだ。まだ本名のカシアス・クレイを名乗っていた彼は、まさに蝶が漂うように、敵のパンチを巧妙に避けながらスピーディーにリング上を動き回り、そして相手に隙を見つけるやいなや蜂が刺すように攻撃した。リストンにもこうして勝利し、初めて王座を手にしたのである。

 アリは試合前、口をきわめて対戦相手を罵り、挑発することでも知られた。前出のリストンとの試合前には、記者たちを前にこんな詩を口にしている。

《(前略)さあ、クレイはノックアウトパンチをくり出すぜ(中略)パンチが決まって、熊公は リングからぶっ飛び上がるぜ リストンはなおもぐんぐん上昇し レフェリーはカウントできずに しかめっ面だぜ ソニーはなかなか落ちてこないぜ もうリストンの姿は見えねえ 観客は肝をつぶして大騒ぎだが レーダー基地がやつの姿をとらえるぜ 大西洋の上空のどこかにいるんだ(後略)》(トマス・ハウザー『モハメド・アリ: その生と時代 (シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション 14)』)

 大言壮語ともいえるこうした物言いは、じつは彼なりの演出であり、元はといえばプロレスを手本としていた。当時のトレーナーによれば、アリはプロになって2年目の1961年、試合になかなか客が集まらないので、プロモーターから「君の名前を売らなければだめだ」と言われ、プロレスラーのゴージャス・ジョージの試合を見て参考にするよう勧められたという。ゴージャスはリング上では派手に立ち回っていたのに、試合後の更衣室では一転、明敏で知的な人柄を見せてアリたちを驚かせた。そのときのゴージャスの教えは、「この商売には大げさな身振りはしかたがない。観客には俺が大嫌いだという者もいる。それでいいんだ。とにかくみんな俺の名前を覚えてくれるから」というものだったという(アンジェロ・ダンディー『勝つことを知った男: モハメド・アリを育てた名トレーナー』)。

 アリがスーパースターにのしあがったのは、圧倒的な強さばかりでなく、天性の詩の才能、さらにプロレスから学んだショーアップ術によるところも大きい。それらは、テレビが普及し、試合会場の観客ばかりか衛星中継を通じて世界中の人が観戦するようになった時代にあって、スターになるのに欠かせない要素であったともいえる。

数々の伝説に彩られた人生

 モハメド・アリ、旧名カシアス・クレイは1942年1月、アメリカ・ケンタッキー州ルイビルに生まれた。ボクシングとの出会いは12歳のとき。自転車を盗まれて、訴えに行った警官がたまたまボクシングを教えていたことから、ジム通いを始めたと伝えられる。

 その後のアリの歩みは、多くの伝説で彩られている。1960年、18歳で出場したローマオリンピックのライトヘビー級で金メダルを獲得、アリはそのメダルをしばらく肌身離さず持ち歩いていたが、ある日、レストランに入ったところ店主から「黒人に食わせるものはない」と注文を拒否されたことに激怒して、メダルは川へ投げ捨てたという。プロに転向したのはその前後のことだ。1964年に先述のとおりソニー・リストンを倒してチャンピオンになった直後には、キリスト教からイスラム教に改宗し、カシアス・X・クレイ、さらにモハメド・アリと改名した。

 1965年、アリは徴兵テストに合格する。ちょうどアメリカの介入したベトナム戦争が激化していたころで、戦線に送られる米兵には黒人の割合が極端に多かった。彼は翌年4月、「俺はベトコンと戦う気はない。やつらに黒ん坊呼ばわりされたことなど一度もないからだ」と徴兵を拒否する(ベトコンとは、当時アメリカが戦っていた南ベトナム解放民族戦線の俗称)。この行動に対し非難や脅迫があいつぎ、あげく67年4月にはニューヨーク州のボクシング・コミッションによってライセンスが停止され、それを受けて世界ボクシング協会WBA)もタイトルの剥奪を決める。同年には兵役忌避により懲役5年の実刑判決が下され、これを不服とするアリは裁判闘争を続けた。米最高裁実刑判決を破棄したのは71年6月のことだ。

 この間、アリのリング復帰のためプロモーターらが全米を奔走する。ほとんどの都市で試合開催を拒否されたが、やっと1970年10月、ジョージア州アトランタで復帰戦が行なわれる。相手は世界ヘビー級3位の白人ボクサー、ジェリー・クォーリーで、3ラウンドにテクニカルノックアウトにより勝利を収めた。アトランタには保守的なコミッションがなく、市民の理解に加え地元選出の黒人上院議員の支援もあって、試合を開催することができたのだ。

 1971年3月には、アリは自分の追放中にヘビー級世界王者となっていたジョー・フレイジャーに挑戦するも、プロ入り後初めて敗北を喫する。フレイジャーはその後、73年にジョージ・フォアマンにタイトルを奪われた。こうしてアリは、チャンピオンに返り咲くため今度はフォアマンに挑むことになる。

「打たれない」から「打たれてもかまわない」ボクシングへ

 フォアマンとの決戦の舞台となったのは、ザイール(現コンゴ民主共和国)の首都キンシャサである。当時のザイール大統領、モブツは自ら変更した国の名を世界中に宣伝するため、1000万ドル(約3億円)というプロスポーツ史上空前のファイトマネーを支払うこともいとわなかった。もともとアリはファイトマネーとして500万ドルを要求していたし、またアメリカの黒人の故郷であるアフリカでの開催は、黒人の自立を訴える彼の主張にも合致した。

 キンシャサの戦いは、ジェームズ・ブラウンB.B.キングなどアメリカの黒人ミュージシャンによるコンサートがあわせて開催されるなど華々しいものとなった。試合は現地到着後、フォアマンが練習中にけがをしたためいったん延期されたのち、1974年10月30日に行なわれた。開始が早朝となったのは、全米のテレビのゴールデンタイムに合わせたためだ。

 事前の下馬評では、フォアマン有利と見る向きが圧倒的に多かった。何しろアリはボクシング界から3年半も追放されており、復帰後の対フレイジャー戦で往年のフットワークが見られなかったうえ、続く72年の対ノートン戦ではあごを砕かれて入院までしていたからだ。これに対し、当時25歳のフォアマンは破壊的なパンチ力でそれまで40戦全勝、うちKO勝ちはフレイジャーから王座を奪った試合を含め37回と最盛期にあった。アリのあごを打ち砕いたノートンも、たった2ラウンドで破っている。

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