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ライター・近藤正高のブログ

ニール・アームストロング――月着陸30年を経て明かされた真実(初出:「cakes」2012年10月1日)

アメリカが1972年に終了したアポロ計画以来、約半世紀ぶりに始動させた有人月探査「アルテミス計画」において、将来的に日本人宇宙飛行士も月面着陸することが今年(2024年)3月、日米間で合意されました。他方、6月には中国の無人探査機が月の裏側からのサンプルリターン(岩石などの試料の持ち帰り)に史上初めて成功しています。このように月に向けて世界的に関心が高まるなか、日本時間できょう2024年7月21日、1969年のアポロ11号による人類初の月面着陸から55周年を迎えました。これを記念する意味も込め、アポロ11号の船長で、人類で初めて月に降り立ったニール・アームストロングが2012年に82歳で亡くなったときに私が書いた記事を再公開します。

本記事の初出はコンテンツ配信サイト「cakes(ケイクス)」です。私は同サイトでオープンから10年にわたり、「一故人」と題して、そのときどきに亡くなった著名人の足跡をたどる記事を連載してきました。アームストロングをとりあげたのは第1回の浜田幸一に続く第2回目でした。今回の再公開にあたっては、加筆・修正は引用した資料のデータを一部補足するだけにとどめ、あとは初出時のままとしています。

一昨年のcakesの閉鎖にともない、「一故人」の記事は現在、単行本(スモール出版、2017年)に収録したもの以外読めない状態となっています。書いた当人である私もこれには忸怩たる思いでおり、今回の再公開をきっかけに、できれば同連載のすべての記事がこのブログで読めることを目指して、今後も随時こちらに掲載していければと考えています。なお、今回、私にとっては初めての試みとして、cakes初出時には有料公開だったことを踏まえ、大変恐縮ながら、再公開に際しても記事全文を読むには有料とさせていただきます。

本記事執筆にあたって参考にした文献は記事終わりにもあげていますが、有料部分に入っているのでこちらにもあげておきます(ただし、一部は現在入手が容易な文庫版などと差し替えました)。

余談ながら、おととい日本でも公開された『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』という映画は、アポロ11号は月に行かなかったという有名な陰謀論を逆手にとって、エンターテインメントとして楽しめる作品になっているそうです。月着陸をめぐる陰謀論については本記事でも後半で少し触れているので、興味のある方は参考文献にあげた『ファースト・マン』(映画化もされています)などとあわせてお読みいただけると幸いです。

「人が月に行く時代」もいまは昔

ぼくの通った小学校の図書室や学級文庫には、1970年代あたりに書かれた子供向けの本が結構あって、それを読んでいると「人が月に行く時代に……」というのがわりと決まり文句として出てきた記憶がある。しかし、その当時(1980年代)ですらもはや「人が月に行く時代」ではなくなっていた。NASAアメリカ航空宇宙局)の有人月飛行計画であるアポロ計画は、1972年のアポロ17号をもって終了していたからである。

「人が月に行く時代」を今風に言い換えるとしたら何になるだろうか。「人々が電話を持ち歩く時代」「個人がコンピュータを所有し、世界中に発信できる時代」……いくつか思い浮かぶものの、どれもしっくりこない。たしかにこの40年でテクノロジー、とりわけ情報技術は飛躍的に発達をとげたはずだが、月旅行とくらべるとやはりスケール感に欠ける。テクノロジーの進歩を端的に示すという点でも、「人が月に行く」以上のものはなかなかなさそうだ。

人が月に行くという計画はそもそも、1961年5月、前月のソ連による世界初の有人宇宙飛行にアメリカ国民がショックを受けるなか、ときの大統領ジョン・F・ケネディが「1960年代の終わりまでに人間を月に送りこむ」と宣言したことに始まる。はたしてその公約どおり、1969年、アポロ11号により人類初の月着陸が実現した。その船長を務め、月への第一歩を記した人物こそ、去る2012年8月25日に亡くなったニール・アームストロングである。

アームストロングの月着陸をめぐってはいくつか謎が残る。それらの真相を探ってみると、彼の人柄が垣間見える一方で、後世に向けた記録とはどうあるべきか考えさせられたりもする。まずは、あの有名な言葉をめぐる謎について見てみよう。

月での第一声から抜け落ちた「a」

アポロ11号は1969年7月16日、フロリダ州ケネディ宇宙センターから打ち上げられた。月周回軌道に乗ったのち、7月20日、司令船コロンビアから切り離された月着陸船イーグルは月の「静かの海」に着陸する。着陸船にはアームストロングと同船パイロットのバズ・オルドリンが乗りこんでいた。もうひとりの飛行士であるマイケル・コリンズは司令船に残り、月面での活動を終えた着陸船とふたたびドッキングするまで待機する。ちなみに3人はみな1930年生まれで、アームストロングは翌月5日に39歳の誕生日を迎えようとしていた。

アメリカ東部夏時間で1969年7月20日午後10時56分(日本時間で翌21日午前11時56分)、アームストロングは月着陸船のハッチを開けるとはしごを降り、まず左足から月面への第一歩を踏み出した。このときの彼の「ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ(It's one small step for a man, one giant leap for mankind.)」という言葉はあまりに有名だ。

しかしこのときNHKのテレビ中継で同時通訳を務めていた西山千は、この言葉を「人類の非常に小さな第一歩です」と訳してしまった。というのも、月から伝えられる音声があまりにも不鮮明で、後半の「one giant leap for mankind」の部分が聞き取れなかったからだ。たしかに当時の映像を見ると、これをとっさに聞き取るのは同時通訳のプロ、いや英語のネイティブスピーカーでも難しいのではないかと思わせる。事実、西山はのちに、全米ネットワークのひとつCBSテレビの名物キャスターだったウォルター・クロンカイトも聞き取れなかった(それも宇宙センターのあるヒューストンで音声を聞いていたにもかかわらず)と人づてに聞き、少しなぐさめられたような気がしたという。

“世紀の誤訳”の原因には、「for a man」の「a」が聞こえなかったというのもあったのだろう(西山の著書の引用でもこの「a」が抜けている)。これについては長年議論されてきたが、結局明確な答えは出ていない。一説には、宇宙から音声を送るシステムの制約から音が一部落ちてしまったといわれている。しかしのちにアームストロング本人が語っているように、《そこにその単語が入るような間はなかったように聞こえる》(ジェイムズ・R・ハンセン『ファーストマン』下巻)。とすれば、単に「a」を言い忘れただけなのだろうか。彼自身は、実際のところは思い出せない、滑舌が悪いからマイクで拾えなかったのかもしれないとも語ったうえで、次のように弁明している。

《しかしそこそこの人なら、私がわざわざ無意味な言葉を発するようなことはなかったし、この言葉に意味を持たせるには“a”を入れるしかないので、私は当然“a”を入れたつもりだったことをわかってくれるだろう。だから時が経てば(中略)言うべきだが言わなかったかもしれない“a”はもちろん意識にはあったことを、みんながわかってくれるはずだと思いたい》(前掲書)

彼はまた、自分の言葉を歴史家にどのように引用してほしいかと訊ねられ、おどけ気味に「かぎ括弧でくくってほしい」とだけ答えたという。

5枚しかない月面での彼の写真

アポロ11号の月面着陸をめぐる謎をいまひとつあげるなら、月面でのアームストロングを撮ったスチール写真が5枚しかないということだ。それも体の一部とか後姿とか、露出不足で姿を確認するのもやっとというものだったりして、正面からはっきりと彼をとらえた写真は1枚も撮られていない。

よく知られる、月面でカメラをまっすぐと見据えた宇宙飛行士の写真は、オルドリンを撮ったものだ。この写真のなかでアームストロングは、オルドリンのバイザーに反射して映りこんでいる。これもカウントしてやっと5枚、なのだ。

スチールカメラは一台しかなく、それも月面での活動中にはほとんどアームストロングが持っていて、オルドリンに渡されたのはほんのわずかの時間だけだったという。もっとも、アームストロングによれば、いつカメラを受け渡すかはあらかじめスケジュールに織りこまれていたようだ。オルドリンとしてもただ任務にしたがって写真を撮っただけで、そこにアームストロングを撮るという任務は含まれていなかった。

しかし、一方でアポロ12号(1969年11月打ち上げ)の宇宙飛行士アラン・ビーンが言うように、打ち上げ前には地上でのシミュレーションの一環として、写真撮影を何度も練習していたのだから、撮り逃すなどということは本来ありえないとの意見もある。

だとすれば、オルドリンはわざとアームストロングを撮らなかったのではないか……と、つい、そんな疑念を抱いてしまう。事実、オルドリンは地球帰還後にそのような指摘をされた。だがそう言われたオルドリンは激しく否定したという。《[引用者注――そう言われて]喧嘩せずに言い返すことなんてできるかい? 要するに、仲間割れさせるようなことを言われたんだが、ニールも僕も仲間割れしたいなんて一つも思っていなかった》(ハンセン、前掲書)。この一件については、オルドリンの言葉を信じるしかなさそうだ。

当のアームストロングは、オルドリンが自分の写真を撮る理由はなかったし、撮るべきだなどとは思わなかったと、寛大さを見せている。それよりも何より、彼は歴史的ミッションを成功させるという任務に集中しており、自分の写真を残すということにまで頭が回らなかったのだろう。

月着陸後、沈黙をたもった理由

最後にとりあげる謎は、地球に帰還してからのアームストロングの言動に関するものだ。彼は1971年にNASAを引退すると、シンシナティ大学で航空宇宙工学の教授を79年まで務めた。その後は実業界で活動する一方、86年のスペースシャトルチャレンジャー号爆発事故では、大統領の諮問する事故調査委員会に参加している。

宇宙飛行士のなかには地球に帰還後、心境の変化から信仰を深めるなど浮世離れしていく人も多いなかで、アームストロングはそういうこともなく、表舞台で活動を続けた。しかしそれにもかかわらず、彼は長らく宇宙飛行についてほとんど語ってこなかった。オルドリンやコリンズがわりと早い段階で著書を出し、アポロ11号での飛行を回顧したのに対し、アームストロングが公式の伝記のため口を開いたのはじつに月着陸から30年以上を経てからだった。

沈黙のひとつの理由は、彼の職業意識にあるのかもしれない。シンシナティ大学の教授時代、彼は新聞記者を相手に「一体どのくらい時間が経てば、わたしが宇宙飛行士とみなされるのが終わるんだろう?」とぼやいたという。

少年時代から飛行機に強い関心のあったアームストロングは、16歳のとき、自動車免許よりも先に飛行機操縦免許を取っている。1947年に海軍士官候補生として入学したパデュー大学では、途中3年間の兵役期間(戦闘機パイロットとして朝鮮戦争に従軍もしている)を挟んで工学を学んだ。卒業後はNACA(アメリカ航空諮問委員会。NASAの前身)に民間人のテストパイロットとして就職、超音速戦闘機に搭乗する日々を送った。そして1962年、宇宙飛行士2期生に応募、その4年後にはジェミニ8号で初めて宇宙飛行を経験している。

だが彼のなかでは生涯を通して、自分はテストパイロットや宇宙飛行士である以前に、航空工学のエンジニアであるという意識があったらしい。先のぼやきも、宇宙飛行士は自分の本来の職業ではないという思いから発せられたものだろう。そう考えていたのなら、長年宇宙飛行について沈黙を続けてきたのも納得がゆく。

それ以上に大きな理由として、彼のなしとげた仕事があまりにもスケールが大きかったため、うっかり変なことを口走ろうものなら、迷惑をこうむる人が出てきたり、自分や家族が傷つけられる恐れがあるといった判断もあったのではないか。「時が熟した」として出版を許可した伝記『ファーストマン』はかなりデリケートな事情もつまびらかにしつつも、そこに出てくるアームストロングの証言にはなおも慎重さを感じさせる。

近年になってアポロは月に行っていない、陰謀だと主張する人々が現れ、インターネットなどを通じて世界中に広まった。それを信じた人も少なくなく、なかにはアームストロングに直接、世界をだましたことに対し謝罪するよう手紙を送りつけてきた者もいたという。

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