ゴッドランドの経済学

 年末から一月にかけてむちゃくちゃ忙しいので、また他人のふんどしに頼る。教育話の続きはまたおあずけ。今回もまたbewaad殿経由だけれど、一部でおもしろい議論が展開されているようだ。

http://bewaad.sakura.ne.jp/index.rb?date=20070202


 生産性の高い人だけ集めたら、ものすごい生産力が実現できるとか、実はいまの世界に必要なものを作るには1/100の人手でいいはずだとか。楽しいな。ぼくも高校生くらいの頃に、よくそんなことを考えたものだ。
 そしてそれは別にぼくが優秀だから思いつくわけじゃない。みんなそんな話を読んだことがあるはずだ。ある大きな災厄をきっかけとして、某特殊部隊の少佐が神に選ばれたものだけの王国――人呼んで神の国、ゴッドランドを作ろうとする、という話をたぶんどこかで見たことがあるだろう。堕落した無能な将軍どものいない、優秀で高潔な軍人だけの国を作るんだ、と。だれでも一度や二度は思いつくことなんだ。

 でもそれを聞いてケンシロウは言うんだよ。「その考えがすでにまちがっていることがわからないのか」と。

 生産性の高い人だけを集めたら――気持ちはわかる。これはみんな考えることだ。まったく、オレの脚を引っ張るあいつとか、こいつとか、出張精算が10円ちがうとかで再提出を要求する経理部とか、残業や休日出勤にいちいち申請書を求めてくるXX部とか、みんなオレの生産性を下げるウンコどもばかり。こいつらがいなくなったらオレの生産性がいかに上がることか。やっても意味のない仕事を要求してくるこのクズ顧客。説明をまともに理解する能力すらなさそうなあいつとかこいつとか。なんでこんなのが給料もらっとるんじゃ! こういう連中を一網打尽でぶちころし、すっぱり話の通る、うてば響くような連中だけ集めて仕事をしたら、同じ仕事が半分以下の時間で終わりそうだ――みんながイメージするのはそういうことだ。いろんな仕事における、二八の法則というやつがある。ある集団の中では、二割の人間が八割の仕事をやっている、という説。その二割の生産性は高く、残り八割は生産性がとっても低い。実際の感覚でいうと、二割の生産性は高く、三割ほどはそこそこ、さらに三割はいなくてもいい存在で、残り二割はもう積極的に足を引っ張る足手まとい以外のなにものでもない。この最後の足手まとい二割を銃殺させてくれたら、この世は楽園と化すでありましょうぞ!

 が……多くの人はこの話の続きも知っているだろう。じゃあ、といってその生産性の高い二割の人だけを集めて仕事をさせてみる。すると、その二割の人々がまた二八に別れてしまうんだと。二割の八割は仕事をしなくなる。これが本当に実験の結果として観察されたものなのかどうかは知らない。でも、何となく実感にあう話でもある。実は生産性というのは、個体の生得的な能力で決まるんじゃないかもしれない。むしろ組織内の力学で決まるのかもしれない。ゴッドランドを作ってみたら、高潔で高いモチベーションを持った特殊部隊の人々の一部は結局堕落して、昔とあまり変わらない状態になっちゃうかもしれないのだ。

 もうちょっと具体的に考えてみよう。世の中には、どう考えても生産性の高くない仕事が山ほどある。コンビニの店員さんは生産性が高いと思う? 床屋さんは? うちの会社の経理は? 小学校の先生はどうだろう。トラックの運転手は? キャバクラのおネーチャンはどうだろう。歯医者は生産性が高いと思う? スタバの店員さんは? ラーメン屋のオヤジさんは? メイド喫茶の女中どもは? 生産性高くないよ? でもいなくなっちゃっていいの?

 いま挙げた職業が特別ってわけじゃない。実はサービス業の多くは、あまり生産性が高くないんだよ。優秀なプログラマたちは、自分たちの生産性がものすごく高いと思っている。でもかれらですら、実は五十歩百歩。だってしょせん人間がシコシコ書いてるんだもの。でも、だからこそ第三次産業/サービス産業は雇用吸収力がある。一次産業や二次産業は、がんがん機械化が進んでいて、労働生産性はむちゃくちゃ高い。でっかい自動車工場や火力発電所で働いている人の数はおどろくほど少ないから、労働生産性で見たら工場の工員さんのほうがずっと生産性が高いんだよ。

 まあそこらへんは何とかごまかそう。なんでも無料でくれるほど生産性の高いはずの優秀なグーグルのプログラマたちはゴッドランドにきていただきましょうか(でも、これも実際には別にグーグルの生産性が高いからではないことくらい、わかりそうなものだけれどなあ。ソフトウェアというものの複製コストがほとんどゼロだから、というだけのことなんだけれど。Linux や GNU が無償なのは、別にかかわっているプログラマたちの生産性が異様に高いから、ではないでしょう?)。一方、いま挙げたような職種の人々は、生産性が低いのでゴッドランドには入れないことにしよう。でも……そしたら生産性が高いはずの人たちが、余計な仕事をしなきゃいけない。生産性の高い人たちだって、おいしいコーヒーが飲みたくない? 一部のプログラマはスタバなしでは生きていけないとか言ってるよ? まあぼくが(ゴッドランドに入れていただけるとして)かわりにコーヒーいれてあげてもいい。でもその分、ぼくの本来の仕事はできなくなるよ。資料を届けるのに生産性の高い高潔な特殊部隊の軍人たちがいちいち直接出向いてたら無駄でしょ。結局そんなことをしてると、生産性が高いはずの人たちの生産性も下がっちゃうのだ。するとゴッドランドも思ったほど生産性は高くならないかもしれないぞ。

 こうして考え始めると、「生産性の高い人だけ集めて仕事をさせる」とかいった物言いが、だんだん意味不明になってくるだろう。実はこういうことを言う人々は、「生産性が高い」ということばの意味をきちんと考えていない。多くの人は「生産性が高い」という表現を、単に能力が高い、という意味で使っている。別にコンビニ店員をすべて排除しろといいたいわけではなく、コンビニ店員の中でも優秀な人だけを残せばいい、と。メイド喫茶だって、店のナンバーワンから上位五人くらいいればいい、と。医者や歯医者も優秀なやつだけいれば……でも、これも変でしょ。そうなったら本当に優秀な人たちが、たいしたことのない客――新入りやぼんくらでも十分こなせる相手――の対応で忙殺されることになり、その優秀性を発揮する機会はがくんと減る。するとかれらの優秀さの度合いも目立たなくなる。結局のところ「生産性の高い人/優秀な人だけを集めた世界」というのは……細かく考え始めると、実はあまり意味がないのだよ。さらに優秀な人は我の強い人も多いので、そういう人を集めるとけんかといがみあいに労力を費やしてかえって生産力が下がることも多いだろうし……

 実はこれ、かつてクルーグマンが「高付加価値産業」とか「国際競争力の高低」といったビジネス雑誌の通俗議論について似たような揶揄をしているので、『良い経済学、悪い経済学』でも読んでくださいな。

 いますでに人口の半数以上は働いていないし、実際には人口の一パーセントくらいが働けば必要なものは全部生産できるはず、とかいう議論も、いまと同じようにきちんと考え出すと成り立たない。その一パーセントの人は、残りの九九パーセントの人(いや完全なごくつぶしもいるだろうから、八〇パーセントくらいにまけてあげてもいいよ)が陰ひなたにサポートしているからこそいまの仕事ができるんだよ。その人たちが買い物するためのコンビニがあり、仕事が終わって宴会する寿司屋の職人さんがおり、必要な資料を届けてくれる宅配便の人たちがいて、家や家族の面倒を見てくれる奥さんや旦那がいるからこそ、その一パーセントの人は全人口を養えるだけの働きができるわけだ。労働統計に出てこないからって仕事してないわけじゃないですからね。多くの人は給料もらってなくても、世界においては価値創造をしているんだよ。就労者に入っていない主婦は、三食昼寝つきと陰口をたたかれることもあるけれど、ちゃんと働いている。「いや、うちの女房は家事なにもしませんで」という人はいるだろう。あと、本当に何もしていないヒッキーなニートの皆様もいるのかもしれない。でも幸か不幸か、それはまだ少数派だ。

 それを考えずに、人は仕事がないことに耐えられるか、一パーセントに養われる存在に甘んじられるか、という問題設定はそもそもがナンセンスだ。社会は持ちつ持たれつ、支え合うことで成立している。その一パーセントの人々が、他の人々とまったく無関係に世に必要な財やサービスを全部生産する、なんてことはあり得ないんだもん。やればできるのかもしれないけれど、それはえらく効率が悪い。いっぱい人がいるなら、優れた人が全部の仕事を一手に引き受けられたとしても、それぞれの人が自分の最も得意な部分に集中することで全体としてはいちばんいい効率が達成できる。これは経済学で最も理解しづらいとすらいわれる、比較優位という概念なんだけれど。

 ということで、これは発想自体がまちがっている。生産性が高いと自負しているあなたも、自分が無数の生産性が低い人たちの働きに支えられているという自覚を持たなきゃ。ねえケンシロウくん。



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