その本の「はじめに」には、著者の「伝えたいこと」がギュッと詰め込まれています。この連載では毎日、おすすめ本の「はじめに」をご紹介します。今日は熊谷亮丸(監修)、大和総研(編著)の『 この一冊でわかる世界経済の新常識2025 』です。

【はじめに】

 2024年は激動の一年だった。

 2022年2月にロシアがウクライナに侵攻したことを受け、資源価格の高騰などを背景とする世界的なインフレ圧力が強まり、主要国の中央銀行は、近年では例を見ない急速かつ大幅な利上げに踏み切ったものの、2024年に入り、相次いで金融緩和姿勢に転換した。先行きの経済が予断を許さない状況にある中、中東情勢の混乱、米国を中心とする民主主義国と中国やロシアを中心とする権威主義国の対立、経済安全保障とサプライチェーンの動向、中国における不動産市況の低迷など、世界経済には不透明要因が山積している。

 国内に目を転じると、2024年10月には、岸田文雄総理が退陣し、石破茂政権が誕生した。

 石破総理は、2024年10月4日に行った所信表明演説において、地方創生を推進するべく交付金の予算倍増を打ち出すとともに、防災庁の設置などを訴えたものの、岸田政権の経済政策の骨格を踏襲する姿勢を示した。

 岸田政権は約3年にわたり日本経済の様々な課題に取り組み、一定の方向性を示した。2024年の春闘では33年ぶりの賃上げ率を達成し、名目GDP(国内総生産)は年率換算で600兆円、設備投資は100兆円を超えるなど、日本経済をデフレ脱却まであと一歩のところまで拡大させた。また、岸田政権は、①成長と分配の好循環を目指す「新しい資本主義」の推進、②こども未来戦略「加速化プラン」の策定、③防衛力の抜本的な強化、④「資産所得倍増プラン」の策定、⑤G7広島サミットの開催、⑥経済安全保障の強化、⑦強固な日米関係の構築、⑧日韓関係の正常化、⑨原発の再稼働やGⅩ(グリーントランスフォーメーション)などを含むエネルギー政策の転換、⑩DX(デジタルトランスフォーメーション)の推進、⑪最低賃金の大幅な引き上げといった、数々の実績を残した。

 しかしながら、日本経済の再生はまだ道半ばだ。これから、賃上げと投資がけん引するような成長型の経済を作っていかなくてはいけない。実質賃金が持続的に上昇していくか否かが大きなポイントで、労働生産性の向上や価格転嫁対策の強化などが必要になるだろう。

 「成長か、分配か?」という民主党政権時代から続く不毛な二元論がある。石破政権は分配をより重視しているとみられており、野党も圧倒的に分配にウエートを置いている。しかし、重要なのは成長と分配の二兎を追うことだ。

 また、わが国の金融市場では、石破政権は経済政策のプライオリティー(優先度)が低いとみる向きが少なくない。経済政策の全体像も明確に提示されたとは言い難い。労働市場改革や、スタートアップ(新興企業)への支援、規制改革、全世代型社会保障改革、資産運用立国の実現といった、本来優先度を高めるべき政策が置き去りにされる懸念も払拭できない。

 具体的に、これからわが国が取り組むべき課題は、以下の通りである。

 第一に、継続的な賃上げを実現するためには、労働生産性を引き上げることが喫緊の課題だ。

 そのためには、①企業の新陳代謝を促すことで、供給過多から企業が値下げ競争に陥っている現状を是正、②「失業なき労働移動」を進めて、経営者が好況期に社員の賃金を安心して引き上げられる環境を整備、③人的資本を中心とする無形資産投資を促進して、労働者の「エンプロイアビリティ(雇用され得る能力)」を向上、④GX、DX、規制改革、スタートアップの増加などを通じて、企業の成長期待を高める、⑤外国人高度人材の活用や女性のさらなる活躍を推進して、ダイバーシティ(多様性)を高め、イノベーション(技術革新)を起きやすくする、⑥デジタル化や組織のフラット化などを進めて、企業や政府の業務効率を改善、⑦コーポレート・ガバナンス(企業統治)を強化といった、労働生産性引き上げに向けた多面的な施策を同時並行的に講じるべきだ。

 第二に、労働市場改革に真正面から取り組む必要がある。

 わが国では正規雇用者と非正規雇用者の年収格差が固定化していることが、結婚・未婚の格差につながっている。こうした観点からは、正規雇用者と非正規雇用者の格差是正を最重要の政策課題と位置づけ、同一労働同一賃金ガイドラインの見直しや、非正規雇用者の待遇改善に関する取り組み状況について非財務情報の開示対象に加えることなどが肝要だ。

 加えて、わが国の労働生産性を上昇させる成長戦略という観点からも、労働市場改革こそが「宝の山」である。労働生産性の高い企業への労働者の分布が米国並みになることや、企業や個人の人的資本投資が米国並みに活性化することで、経済全体でも生産性のさらなる向上が見込める。さらに、年金改革で第3号被保険者制度の見直しや働き方に中立な制度の導入により「収入の壁」の解消が実現し、また「不本意非正規」や「L字カーブ」の解消も進めば、労働投入量が増加することも期待できる。大和総研の試算では、これらの政策効果がフルに発現すれば、中長期的には、わが国の潜在GDPが最大12%(約70兆円)程度押し上げられる可能性がある。

 第三に、わが国の成長戦略の柱として、GXとDXを不退転の決意で推進すべきだ。

 GXに関しては、経済と環境の好循環実現に向けたカーボンプライシング(炭素税、排出量取引など)の導入に加えて、鉄鋼会社、自動車部品会社などの円滑なトランジション(移行)をサポートすることなども重要だ。

 また、DXについては、日本企業の勝機は、デジタルや人工知能(AI)のような「ソフト」で「バーチャル」な世界だけで勝負せずに、これらを「ハード」で「リアル」な製造業や建設業と融合させる点にあるので、こうした分野への支援策も強化してほしい。

 第四に、第三のポイントなどとも密接に関係するが、成長戦略の「一丁目一番地」である規制改革には、引き続きしっかりと取り組むべきだ。特に、医療・教育分野のデジタル化や、エネルギー分野の規制改革などが極めて重要である。新たな政策課題として急速に国民の注目度が増している「ライドシェア(自動車の相乗り)」に関する規制改革も、迅速に進めてほしい。

 第五に、全世代型社会保障改革こそが、公的な分配戦略の柱となる。

 わが国では急速な高齢化の進行に伴い、医療・介護の費用が増加し、これを支える現役世代の保険料の負担が非常に重くなっている。その結果、賃上げを行っても保険料の増加で相殺されて、可処分所得が伸びず、消費に回らない。

 今後は「人生100年時代」なので、負担能力のある高齢者には支え手に回っていただき、医療提供体制の改革や社会保障給付の効率化などを通じて、現役世代の負担増を抑える一方で、勤労者皆保険の実現や少子化対策の強化などに取り組むことが肝要だ。

 また、終身雇用社会から転職社会への移行を見据えた、セーフティーネットの再編も最重要課題の一つである。

 ここで中核をなすのは、スウェーデンなどで普及している「アクティベーションプログラム(職業訓練・コーチング・就業体験などの就労移行支援プログラム)」の拡充・多様化を柱とする、積極的労働市場政策の推進だろう。加えて、①同一労働同一賃金の原則の厳格な適用、②生活困窮者対策の充実、③働き方改革の継続、④フリーランスのための所得補償制度の創設、⑤リカレント教育の深掘り、⑥兼業・副業の促進、⑦働き方やライフコースに中立的な税制改正の実施なども課題となる。生活困窮者などへのきめ細かいプッシュ型支援の拡充には、デジタル化の推進、マイナンバーの普及が必要だ。将来的には、企業ではなく、弱い立場の個人により一層焦点を当てて、産業と企業の新陳代謝や、「失業なき労働移動」を前提としつつ、個人の命とくらしを守るというインクルーシブ(包摂的)な政策を実現すべきだ。

 第六に、政府は、国民に適正な負担を求めることを正面から訴え、財政健全化を図るべきだ。岸田政権の財政運営に関しては、防衛力強化、少子化対策、GX、半導体産業への支援などの分野を中心に、「受益(歳出)の拡大ばかりを先行させて、負担増(財源確保)については先送りしてきた」と批判する向きが少なくない。

 第七に、「資産所得倍増プラン」を含む「資産運用立国」の実現に向けた施策を継続することが肝要である。2024年には、非課税投資枠の拡大や投資期間の無期限化などを柱とする「新NISA(少額投資非課税)制度」がスタートしたこともあり、わが国にとって長年の課題であった「貯蓄から投資へ」という資金シフトの実現に向けた期待感が非常に高まっている。

 筆者は、今後、わが国において、これらの経済政策がより一層進展することを大いに期待している。

 グローバル経済が歴史的な転換点を迎える中、今後、日本経済は再生することができるのだろうか?

 今後のわが国が進むべき方向性を検討する上では、グローバルな視点が不可欠だ。私たちの日常生活には「世界経済」に関するニュースがあふれている。毎日、テレビを見たり新聞を読んだりしていると、世界経済に関する様々なニュースが目に入ってくるが、容易には、その背景などを理解できないことが多いのではないだろうか。

「日本経済に関するニュースを見ているだけでも、変化が激しくて先を読むことが難しいのに、世界経済の動きともなると、複雑な要素が絡み合っていて現状を理解するだけでも大変……」

 こうした読者の皆様の切実な悩みにお応えする目的で企画された、『この一冊でわかる 世界経済』シリーズも、おかげさまで今年10年目を迎えた。

 本書では、大和総研の選りすぐりのエコノミストたちが、世界経済を理解する上で必要な基礎知識を、やさしく、わかりやすく解説する。そして、これらの基礎知識を踏まえて、先行きの世界経済の展望を多面的に考察する。この一冊さえ読めば、世界経済に関する基礎知識を習得すると同時に、世界経済の展望が簡単に頭に入る構成になっている。

 本書の構成、および、各章の概要は以下の通りである。

 「第1章 グローバルリスク 社会と経済が激しく流動化する中で警戒すべきリスクとは」では、ヒト・モノ(とサービス)・カネの三つの方面から、今後発生し得る選択肢や警戒すべきリスクを指摘した。まずヒトの流動化によって世論の分断は深まり、それに伴う政治体制の変容は民主主義や国際協調の退潮、地政学リスクの頻発など様々なリスクをもたらした。またモノの流動化によって、サプライチェーンにおいても、物流においても、エネルギーにおいても供給制約が半ば常態化するようになった。今後は安定性とコスト負担のバランスがカギとなる。そしてカネの流動化によって、カネ余りが近年の高インフレの一因となり、そこには金融・経済危機の芽も潜んでいる。

 「第2章 米国経済 新政権誕生が揺るがす景気の軟着陸期待」では、利下げサイクルに入った米国において、雇用が急激に悪化するリスクとインフレ減速が停滞するリスクの双方がくすぶり続けることに加え、大統領選挙の結果が経済の先行きを大きく左右する点を指摘する。トランプ氏が当選するケースでは、厳格な移民規制や追加関税措置によるインフレが最大のリスクだ。他方で、ハリス氏が当選するケースでは、法人税等の増税策や厳格なAI規制の導入等により、米国の経済活力が低下することがリスクとなる。また、大統領選挙の結果は、金融システムの安定性を左右する、米国大手銀行の資本規制にも影響を及ぼすことを指摘している。

 「第3章 欧州経済 危機対応からの転換で見えてきた新たな課題」では、インフレ率の沈静化を受けて2024年に開始した欧州中央銀行(ECB)の利下げサイクルは、2025年も緩やかなペースで継続する可能性が高いこと、累次の危機対応で悪化した財政についてはさらなる緊縮が必要であることを指摘する。一方で、競争力の強化が欧州における最重要課題となっており、欧州議会選挙を経て発足した新体制の下、EUでは財政再建と投資拡大の両立に向けた議論が進められていくと見込まれる。

 「第4章 中国経済 構造問題の対処に苦慮──不動産不況と人口減少」では、中国政府による住宅需要テコ入れ策は短期的に奏功しても、実需層が急速に減少する中、中長期的には厳しい状況が続き、最善のケースが「縮小均衡」による景気減速だと結論づけている。不動産価格が大きく下落する場合、わが国の「失われた20(30)年」のように、中国経済は長期低迷局面を迎える可能性がある。また、今後数十年にわたり覇権を争うことになるとみられる米国と中国だが、米国の人口は増え続ける一方で、中国の人口は大幅に減少していく。人口動態一つとっても米国の優位性は明らかであり、長期的に見ても米中の経済規模逆転の可能性は極めて低いとの見立てだ。

 「第5章 新興国経済 成長加速の見通しだが、米国に左右されやすい環境続く」では、2025年は多くの新興国の成長率が利下げを契機に加速する見通しであるが、米国に左右されやすい状況が続くとしている。特に、米連邦準備理事会(FRB)の利下げペースと、米国経済が景気後退を回避できるかという2点には注意が必要だ。さらに、米国の保護主義的な政策が、中国との「デカップリング」を加速させるリスクにも注意したい。脱中国の恩恵を受けてきたASEANに特に悪影響が及びやすいためだ。第3次モディ政権が始まったインドでは、労働と土地の法改正・施行、外資開放政策、教育水準の引き上げへの取り組みに注目したい。

 「第6章 日本経済① 緩やかな景気回復を見込むも下振れリスクに注意」の概要は以下の通りだ。2024年春闘での賃上げ率が33年ぶりの高さとなるなど、所得環境は改善に向かっている。実質GDP成長率は2024年度で前年比+0.8%、2025年度で同+1.3%と見込む。一方、数年間続いた円安・ドル高の流れは転換点を迎え、仮に大幅な円高が生じれば、「賃金と物価の好循環」の実現が阻害されかねない。2000年以降、日本の国際競争力は輸送機械などで改善したが、電気機械では低下した。デジタル赤字も相まって、貿易・サービス収支は赤字拡大が続く可能性がある。これらの課題への対応には、人的資本投資の拡大や、安全性を最優先に原発を最大限活用することなどが求められる。

 「第7章 日本経済② 金融政策正常化の課題とデフレ脱却後の日本経済の姿」で指摘するように、日銀の金融政策は「異例」の金融緩和策から「普通」の金融緩和策へと転換したが、この転換が実質GDPを下押しする度合いは2026年初めで0.1%弱にとどまる。2%程度の物価上昇が定着すると見込まれるが、経済がデフレ均衡からインフレ均衡に移行するだけでは実質的な成長率はさほど高まらない。各種政策の成果を積み上げて自然利子率を高めることが重要だ。また、中長期的には長期金利の上昇に警戒が必要だ。日銀の国債保有残高が減少する中、国債の海外保有比率が高まることで長期金利は7%程度まで上昇し、実質GDPを6.5%程度下押しするリスクがある。

 「第8章 生成AI 生成AIが描く日本の職業の明暗とその対応策」では、生成AIが日本の労働市場、特に職業に与える影響に焦点を当て、他に類を見ない独自のビッグデータ分析を通じて考察した。分析の結果、弁護士や経営コンサルタント、AIエンジニアなどの職業には雇用・所得面でプラスの影響が、プログラマーや一般事務、パラリーガル、データ入力などの職業にはマイナスの影響が示唆された。政府にはリカレント教育の推進やジョブ型雇用の導入、労働者保護の強化など、具体的な対策が求められるだろう。さらに個人レベルでは、リーダーシップや共感力、問題解決能力などの非認知能力も含めた総合的なスキルアップが必要となる。

 本書は、ビジネスパーソンの方々が通勤時間などにも気軽に読める、面白くてためになる本を目指している。世界経済に関心があるすべての読者の皆様のお役に少しでも立てれば、望外の幸せである。

 本書の出版に当たり、平素より懇切なご指導を賜っている、大和証券グループ本社の中田誠司取締役会長、荻野明彦代表執行役社長、日比野隆司特別顧問、大和総研の望月篤代表取締役社長、中曽宏理事長にも、謝辞をお伝えしたい。

 なお、本書の内容や見解はあくまで個人的なものであり、筆者たちが所属する組織とは関係ない。もし記述に誤りなどがあれば、その責めは筆者たち個人が負うべきものである。

 2024年10月

熊谷亮丸(大和総研 副理事長 兼 専務取締役 調査本部長)

【目次】

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