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央中神学事始


    Index ~作品もくじ~

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    新連載。
    若き天才の転落。

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    1.
     ペドロ・ラウバッハは神童であった。齢12の時には既に天帝教の聖書すべてを諳(そら)んじていたどころか、当時既に定番の議題となっていた「ゼロ帝の閏週矛盾問題」に新たな説を提示し、神学府をざわつかせていたのである。
     それだけの稀有な才能と優秀な頭脳の持ち主を、絶大な権勢を奮い世界の支配者として振る舞う中央政府、そしてその中枢に位置する天帝教教会が放っておくはずもなく、彼は13歳にして神学府の研究者としての地位を与えられた。
     そして翌14歳の時、彼は要請を受けて、晩年のゼロ帝についての研究に着手した。「ゼロ帝は崩御の数年前から魔物にすり替わっていた」と言う聖書最後部の寓話――あの有名な「ゼロ帝偽勅事件」がどこまで真実であるのかを探ろうとしたのである。と言っても彼は寓話そのものを創作上のものだと疑っていたわけではなく、あくまで「どの勅令を発したところまでが本物のゼロ帝であったのか、即ち晩年に発された勅令には天帝としての正当性があったのか」を見極めるためである。

     これは中央政府の、いや、正確には代々の天帝の権威・権能に関わる、重大かつ重要な研究であると言えた。何故なら天帝の勅令と言動は、原則的に古い代に絶対的正当性があるとされており、古代の天帝が下した決定・決断を後世の天帝が覆すことは、決して許されていないからだ。
     だが当然、過去と現在では慣習・風習は異なる。古代の常識と習慣に則って行われたことが現代でも通用するとは限らず、むしろ文明・文化発展の妨げとなることも、往々にしてある。天帝本人にしても、一々馬鹿正直に代々天帝の言葉を忠実に守っていては、まともな施政・施策など行えるはずもない。そこで新たな天帝は、古い天帝たちの言動にどれほど正当性があるか――いや、「どこまで正当性を疑えるか」「どこまで正当性を廃せるか」を、専門家たる神学者たちに論じさせ、言質を取るのである。
     加えて、時代は双月暦305年――8代目天帝、オーヴェル帝が即位した直後である。彼ははっきり言えば愚鈍の類であったが、それでも彼なりに正義感を燃やしており、腐敗にまみれた政治を憂いていた。そこで即位してまもなく、彼は大改革を志し積極的な行動に出ようとしていたのだが、周囲の大臣たちはその行動の一つひとつを「それは初代の考えに反します」「4代の時に禁止令が出ております」などと言葉を立て並べ、ことごとく中止・撤回させていた。
     その度重なる妨害に業を煮やしたオーヴェル帝は、ついにはこう怒鳴った。「おことば、おことばと申すが、そのおことばは果たして本当にお歴々の帝たちが発されたことか!? 周囲の有象無象が神聖なるおことばを曲解し、己に都合良く書き換えたのではないのか!? 明確なる論拠を示さねば、朕は絶対に納得せぬぞ!」
     こうしたオーヴェル帝からの鶴声も受け、ペドロは意気揚々と自分の研究に没頭していったのである。

     ペドロは中央政府の古書庫に遺されていたゼロ帝の勅令状を確認し、彼のサインを鑑定した。その筆跡から、どの辺りまでがゼロ帝本人で、どの辺りから魔物にすり替わっていた偽物であるのかを見極めようとしたのである。そして700通以上にわたる勅令状を一つ残らず鑑定し終え――そのサインがすべて同一人物によって書かれたものであること、即ちこれら700あまりの勅令すべてを、間違い無く本物のゼロ帝が発していたことが分かってしまった。
     結論から言えば、この事実の発覚は天帝教にとって非常に好ましくないことであった。何故なら晩年のゼロ帝が下した勅令には苛烈かつ非人道的、加えて非常識なものも少なくなく、これを本当にゼロ帝本人が発したものであると天帝教教会が正式に認めれば、それまで完全無欠、無常の仁愛に満ちあふれた天帝教主神としてのイメージが、大きく損なわれてしまう。そうなれば、ただでさえ中央政府の腐敗で傾きかけている天帝教の評価・権威が、決定的に失墜しかねないからである。



     天帝教教会は大慌てで、完成直前であったその論文を焼却した。のみならず中央政府に働きかけてペドロを拘束させ、彼に「天帝家の権威失墜を企んだ思想犯」としての濡れ衣を着せ、それまでの輝かしい経歴をすべて真っ黒に塗り潰した挙げ句、終身刑を課して牢獄へと追いやったのである。
     ペドロの命運は、14歳にして尽きてしまった。
    央中神学事始 1
    »»  2021.02.15.
    ペドロの話、第2話。
    牢の中の信仰。

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    2.
     ほとんど外の光も入って来ない、常にひんやりとした湿気に包まれた牢獄の中で、ペドロは絶望していた。
    (僕の……僕の人生は……神学の世界で業績を挙げ、神学史に名を残すと言う僕の夢は……全部終わってしまった)
     中央政府の下では死刑、もしくは終身刑に課せられた人間には、慈悲も温情も一切与えられることは無い。一日二度の食事以外には、本も新聞も、紙一枚すらも与えられず、ましてや牢から出て自由行動や運動の機会が与えられることも、決して無い。
     ペドロもその例に漏れず、たった3メートル四方の、昼とも夜ともつかない、永遠に続くようにも思える無の世界に閉じ込められていた。そんな虚無にあっては、どんな知性もどんな意欲も、まるで意味を成さない。外の世界では常に聖書に触れ、その一言一句と真摯(しんし)に向き合ってきた神童ペドロも、この何も無い空間では何一つ、物を成すことはできなかった。



     そうして絶望に飲み込まれ、毎日をただ寝て過ごすばかりだったペドロの短い耳に――ある時、若い男の声が、切れ切れながらも届いた。
    「……そんな非道が……世界中が犠牲に……」「おい、うるさいぞ!」
     どうやら政治か何かを憂う男が、世の不条理に対して嘆き叫んだらしかったが、すぐに看守の怒声と、分厚い扉を蹴る音にさえぎられる。
    (無駄なことを)
     既に何ヶ月も独房の中で過ごし、最早聖書の文言を何一つ思い出せなくなっていたペドロは、その男の行いをただの愚行とあざけった。
     しかし男の声は、その後も度々続いた。他に聞くものも無いため、ペドロは男の話をぼんやり聞いていた。既に知性を失いかけていたペドロではあったが、それでも男の言葉に、錆び付きかけていた脳を動かし、思考を巡らせていた。
    (どうやら政治家だったらしい。誰か偉い人に逆らったか何かしたようだ。陛下と言っていた。まさか、天帝に楯突いたのだろうか? 馬鹿だな。逆らったらどうなるか、子供でも分かるだろうに。
     他にも誰か……エンターゲートとかバーミーとか……知らない名前だ。世界がその二人に牛耳られるとか何とか……もしかしてこの人、発狂でもしていたのだろうか? 僕にだって、世界が広いと言うことは分かっている。この大きな世界が、たった二人のモノにされてしまうなんてことが、あるはずが無い。誇大妄想もいいところだ。
     でも……何だか、声は真剣そのものだ。聞く限り、狂っているようには思えない。……彼は彼で、頭のいい人なのかも知れない。その頭の良さで、僕みたいな政治の門外漢にはさっぱり理解できない、何かを悟ったのか。
     でも、……だとしたら、何? こんな独房の中でどんな真理に行き着いたって、結局は無駄になるだけじゃないか。やっぱり、彼は馬鹿なんだろうな)

     しかし男の声が聞こえ始めてから、何週間か経った頃――突然、牢獄に爆音が轟き、ペドロは驚いて目を覚ました。
    「なっ……何!?」
     ペドロは分厚い扉に張り付き、高さ5センチもない窓に顔を押し付けて、音がしたらしい方を凝視した。
    「な、な……!?」
     男の声がする。そして彼に応じるように、別の男の声が聞こえてきた。
    「二度も言わせるな」
    「あ、う、うん」
    「さっさと逃げるぞ」
     もうひとりの男の言葉に、ペドロは驚愕した。
    (『逃げる』……!? だ、脱獄した!?)
     聞き間違いではないかと自分の耳を疑い、ペドロは耳を澄ませたが――それきり、どちらの声も聞こえなくなった。



     その後のことを知る術(すべ)はペドロにはなく、また当然ながら、誰かから伝えられるようなこともなかったが、それでもその日以来、あの男の声が聞こえなくなったことから、彼が脱獄したらしいことだけは確かだった。
     そしてそれが、ペドロの心にも一筋の光をもたらしたのだ。
    (あの男は毎日……毎日、世界を憂う言葉を口にしていた。毎日、己の身ではなく、この世にあまねく人々のことを思っていた。僕はそれを愚行だ、馬鹿な行いだとあざけっていたけれど、……果たして本当に、本当に、そうだったのか? あの男は己の境遇に絶望することなく、世界を救うことを本当に願っていた。こんな闇の中にあって、それでも世界を救わんとしていた。だからこそ神が――違うのかも知れないけれど、とにかく何かが――手を差し伸べたのだろう。
     僕はどうだ? 何かを成したか? いいや、成そうとしたのか? あきらめていたじゃないか。何も出来やしないと、すべてを捨てて寝転がっていただけじゃないか!
     僕も、……僕も何かをやろう。今、自分にできる、何かを)
    央中神学事始 2
    »»  2021.02.16.
    ペドロの話、第3話。
    「悪魔」の治世、その実情。

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    3.
     男がいなくなった後、ペドロは密かに、独房で聖書の暗誦を始めた。最初はほとんど思い出せず、己の衰えに愕然としたが、それでもかつて神童と謳われた青年である。
    「……第5項、ハンニバルは嘆き、己の情況を呪った。第6項、ハンニバルの前に狐の女が現れた。エリザであった。第7項、エリザはハンニバルを救い、ハンニバルに告げた。第8項、ハンニバル、剣を収めよ。敵は皆、昏倒させた。戦いは終わったのだ。第9項、ハンニバルはエリザに礼を述べた。エリザはハンニバルを抱きしめ、その苦労をねぎらった。第4章第1節第1項、……」
     記憶の糸を必死にたぐり、悪戦苦闘していたのもほんの2、3ヶ月の間であり、一度思い出してしまえば、聖書はペドロの頭の中に、ふたたびしっかりとしまい込まれた。
    「……ゼロはハンニバルに命じた。兵を率い、ノースポートを奪還せよと。……あ、もう日が暮れるな」
     明かり取りの狭い窓から差し込む光が赤みを帯びていることに気付いたところで、ペドロはぴたりと黙り込んだ。

     神学への希望と意欲を取り戻したペドロは、自らに「行」を課した。牢獄に日の光が差すと同時に聖書の暗誦を始め、日が落ちるまで延々と、休み無く続ける。その行が何の意味を成すのか、何が報われるのかは、彼本人にも分からない。それでも彼は、己の心に現れた希望の光を絶やさぬため、そして己が会得した唯一の技術を失わないために、毎日暗誦し続けた。



     その祈りが天に通じたのか――あるいは悪魔に通じたのかも知れないが――ついに双月暦314年、報われる時が訪れた。
     この年、中央政府は反乱組織によって首都への攻撃を受けた。その混乱の最中、最高権力者であったオーヴェル帝は部下に背かれ、暗殺された。首脳を失った中央政府は反乱軍に無条件降伏を決定し、反乱軍のリーダーであった元中央政府政務大臣、ファスタ卿に全権を明け渡した。ところがこのファスタ卿も謎の失踪を遂げてしまい、彼の側近であった「黒い悪魔」――克大火がその全権を奪取した。
     これにより、二世紀半にわたって神の威光を背にしてきた中央政府は崩壊。克大火を主権・最高意思決定者とする、一種の君主制に移行したのである。

     悪魔と畏れられた克大火であったが、政治運営のみに限定して述べるのであれば、彼は悪魔どころか民衆の英雄であった。
     まず彼は天帝一族と天帝教総本山を央北のはずれの街、マーソルに追いやり、また、中央政府の要職に就いていた高僧らも、軒並み罷免。中央政府全体にはびこっていた天帝教勢力を、完全に排除した。これにより「寄進」と称した悪質かつ無法な徴発・徴税は一切行われなくなり、人民の暮らしは大いに安定・向上した。
     その他、信教の自由を約束する、央中・央南の独立を承認するなど、彼は中央政府の主権でありながら、その中央政府の絶対的地位を自ら揺るがし、小規模化させるような――言い換えれば、人民を絶対的権力による支配体制から解放させ、その自由と権利を大いに認めるような施策を次々に行った。結局はそれがために316年、克大火は中央政府から「特別顧問」として主権の地位から退くように要請されてしまったが、この2年間に行われた政策は悪魔的どころか、後年の政治学においても「歴史上稀に見る善政」とまで評されるものであった。

     そして天帝教の敬虔な信者たるペドロにとっても、克大火は悪魔ではなかった。
     この2年間の自由主義的施策の一環として、克大火は政治犯・思想犯の恩赦を命じていた。即ち「黒い悪魔」の鶴声によって、ペドロは10年ぶりに、太陽の下に出ることができたのである。
    央中神学事始 3
    »»  2021.02.17.
    ペドロの話、第4話。
    堕落した神童。

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    4.
     自由の身となったペドロであったが、残念ながらその前途が多難であることに変わりは無かった。
     若き英才、期待の新星であった神学者が一転、思想犯として10年も獄中で過ごしていたのである。当然の如く、故郷からは戻ることを拒否されたし、学問一筋で生きてきた24歳が今更、どこかの職人に弟子入りすることも難しい。ましてや古巣の神学府が、天帝教の根幹を揺るがしかねない研究をしていた男を再雇用するはずもない。
     自身の持つ知識を活かせる場を得られぬまま、ペドロは央北の町を転々としつつ、二束三文の日雇い、月雇いで口を糊する放浪者として、さらに3年を無為に過ごした。

     その日の晩も、10時間にわたってただただ物を左から右、右から左に運ぶ――としかペドロには感じられなかった――労働を終えたペドロは、場末の安酒場の隅っこで縮こまるようにして、マメとベーコンをぼんやりと口に運んでいた。
    (……僕は一体……何をやってるんだろうか……)
     本来なら飲酒の習慣を身に着けるであろう時期を丸ごと牢獄で過ごしたため、ペドロには酒の飲み方も楽しみ方も、頼み方すらも分からない。テーブルの上に乗っている飲み物はワインでもビールでもなく、ただの水である。
    (何が楽しいんだろう……?)
     チラ、とカウンターに目をやると、いかにも上機嫌そうな狼獣人と短耳の男がげらげらと笑っている様子が見える。ペドロは自身の短い耳をそばだて、彼らの言葉を切れ切れながらも拾ってみたが――。
    「……でよ、……馬が……大穴……」
    「マジかよ……ぎゃははは……」
     ペドロの偏った知識では、彼らが何について話しているのか、皆目見当が付かなかった。
    (馬が穴に落ちて何がおかしいんだろう……?)
     それ以上彼らの会話を聞く気にもならず、ペドロはテーブルに視線を戻した。途端に今日の稼ぎの半分を使って注文した、乾いたマメとしなびたベーコンが視界に入り、ペドロはげんなりした。
    (僕は何がしたい? 何ができるんだ……?)
     ちなみに稼ぎの残り半分も、宿代と朝食代を払えば消えてしまう。己の手に残るものが何一つない生活を3年続けてきたことに――そして恐らくは、これからの10年、20年、あるいは死ぬまで同じ生活がひたすら続くことに――絶望し、ペドロは無意識にフォークを握りしめていた。
    (……僕がもうこの世から消えちゃっても……何も変わらないよな……)

     繰り返すが、ペドロが今いるここは、場末の安酒場である。決して王侯貴族や大富豪の類が出入りするような、品のいい場所では無い。
     なので――ペドロがフォークを握りしめたとほぼ同時に、その赤いメッシュの入った金髪の狐獣人が酒場の入口に現れた時、酒場にいた客たちも、カウンターに立っていた女将も、揃って息を呑み、黙り込んでしまった。その「狐」の毛並みは間違い無く世界最大の豪商一族、ゴールドマン家のものだったからである。
    「あ、すんまへんな。お邪魔しますで」
     癖のある口調で断りを入れつつ、狐獣人は酒場の中を一瞥する。
    「……んー」
     どうやら誰かを探している様子だが、見付けられなかったらしい。あごに手を当て思案した様子を見せた後、彼はいきなりこう叫んだ。
    「大卿行北記、第5章1節!」
    「は?」
     いきなりそんなことを言われても、そこにいた客も女将も、誰にも答えられるはずが無い――ペドロ以外は。
    「えっ、……エリザはシェロを訪ねた!」
     なので、ペドロはフォークを放り出して立ち上がり、思わず回答していた。
    「シェロは戸惑い尋ねた! 何故あなたが今になって、私を訪ねた、のか、……と」
     店中の視線が自分に集まっていることに気付き、ペドロは口をつぐみかけたが、狐獣人は促してくる。
    「続き言うて」
    「はっ、はい! ……エリザは言われた。あなたはくじけてはならない。また、逃げてもならない。あなたの後ろを見よ、あなたには幾百の、幾千の兵士が付いている。彼らは皆、あなたが命を下すことを望んでいる。繰り返し、はっきりと言う。あなたは逃げてはならない。シェロは決意した。エリザ、私はあなたのことばに従う。どんな頼みも引き受けよう。エリザは微笑まれた」
    「完璧ですな」
     狐獣人はにぃ、と口の端を上げ、ペドロの対面に腰掛けた。
    「なんですのん、ええ歳したお兄ちゃんがこんなシケたご飯食べはって……。もっと精の付くもん食べよし。女将さん、酒とご飯出したって。どっちも一番高いのん出してや」
    「しょ、少々お待ちを!」
     女将が血相を変え、大慌てで料理を作り出す。狐獣人はペドロに向き直り、もう一度ニヤ、と笑ってきた。
    「あんた、ペドロ・ラウバッハさん?」
    「え!? そ、そうですが」
     名前を言い当てられ戸惑うペドロに、狐獣人は己の名前を告げた。
    「私はニコル・フォコ・ゴールドマンっちゅうもんですわ。ちょとあんたに、頼みたいことがありましてな」
    央中神学事始 4
    »»  2021.02.18.
    ペドロの話、第5話。
    大商人からの依頼。

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    5.
     狐獣人が名前を告げた瞬間、店内がより一層、しんと静まり返る。何故ならその男の名はあの克大火すら黙らせたと言う、世界最高の大商人のものだったからである。
    「……え……あ、あの、……あの、『ニコル3世』!?」
     世情に疎いペドロでも、流石に彼の名と評判は知っている。
    「そうそう、そのニコル3世です」
     男はこくりとうなずき、話を続けた。
    「ちょっとあんたに、聖書作ってもらいたいんですわ」
    「せ、聖書を作る、ですって?」
     おうむ返しに尋ねたペドロに、3世はもう一度うなずく。
    「ええ。ちゅうてもあんたが全巻覚えとるのんとはちゃいますねん。私が言うてるんは『央中』天帝教の聖書ですわ」
    「おう、……央中? と言うとあのニセモ、……あ、い、いえ」
     偽物、と言いかけて、ペドロは慌てて口をつぐむ。何故ならその言葉を耳にしかけた3世が、彼をうっすらとではあるがにらんできたからである。
    「まあ、熱心な央北天帝教の人からしたらそう思てはりますやろけども、こっちはこっちでちゃんとしたもんやと思てますからな?」
    「す、すみません」
     ペドロが深々と頭を下げ、ようやく3世は相好を崩した。
    「ほんでも確かに、ニセモンや、パチモンやと思われても仕方無いっちゅう面があることは事実です。その最たる理由の一つがズバリ、まともな教義が無い、聖書らしきもんが無いっちゅうことにある。私はそう思とるんですわ」
    「だから聖書を作る、と?」
    「そう言うことですわ。ほんでもこんな話を央北天帝教の、神学府におる正規の学者先生らに頼むわけに行かへんっちゅうことは分かりますやろ?」
    「そりゃまあ……そうですよね。間違い無く断るでしょう」
    「央中天帝教を本格的な宗教に仕立てていくっちゅう話ですからな。言い換えたら、相対的に央北天帝教の地位を貶めるっちゅう話になりますから、そら『まともな』神学者やったら誰かてええ顔はしはりませんやろな」
    「それで『まともじゃない』僕を、ですか」
     ペドロなりに、精一杯の皮肉を込めてそう返したが、どうやら3世は意に介していないらしい。
    「ええ。あんた以上の適任はまず、おりませんやろな」
    「……」
     閉口するペドロに構わず、3世は話を進める。
    「どないです? やってみはります?」
    「こっ、断ると言ったら?」
    「ほーぉ」
     3世は頬杖を付き、斜に構えている。
    「ほんなら何ですか、このまんま明日も明後日もその次の日も、マメとベーコンひと皿だけの日を繰り返したいっちゅうんですな?」
    「……いや、……言ってみただけ、……です」
    「ですやろなぁ」
     女将が大急ぎで運んできた酒と料理にチラ、と目を向け、軽く手を振って応じながら、3世は続ける。
    「そらまあポーズでも何でも、一応は断っとかへんと央北天帝教信者としての面目が立ちませんわな。ええ、承知しとります。……で、その上でですけども、ちゃんと引き受けてしかる程度の条件を提示さしてもらいます。編纂中は月給として5万クラム、完成した暁には10億クラムをお渡しします。それでどないですやろ?」
    「じゅ……10億っ!?」
     3世の言葉に、店内は三度静まる。その成功報酬額は、そこにいる全員が生涯遊んで暮らせるだけの、途方も無い金額であったからだ。
    「め……めちゃくちゃだ!」
     思わず、ペドロは叫ぶ。
    「なんで僕なんかに、そんなめちゃくちゃな金額を出そうとするんですか!?」
    「単純な話です」
     3世はまたもニヤ、と笑う。
    「この仕事は10億の価値があるからです。ほんなら10億出すんは当然ですやろ?」
    「本気で言ってるんですか?」
    「本気も本気、大マジですわ」
    「で、でもっ」
     自分でもそれが何故なのか分からないまま、ペドロは抗弁しようとする。それをさえぎるように、3世が声を上げた。
    「もっぺん言いますで。あんた、明日も明後日もその次の日も、また次の日も、そして10年後も20年後も、マメとベーコンひと皿の生活でええんですか?
     いや、もっとはっきり言うたりましょか。あんたは死ぬまで『僕は何のために生きとるんやろか』とグダグダ考えて過ごすつもりですか? あんた、ええ加減その問いに答え出したいんとちゃいますか?」
     この3年、心の中に渦巻いていた苦悩を言い当てられ、ペドロは絶句する。
    「……!」
    「それともペドロさん、あんたは悩むこと自体が大好きっちゅうことですか? 答えを出せへんまま死ぬまで頭ん中で悶々し続けたいっちゅうんやったら、もうこれ以上は言いまへん。このまま帰らせてもらいますわ」
    「……っ、あっ、あのっ、ニコルさ、えっと、あ、3世っ」
     また、ペドロは立ち上がっていた。
    「ぼっ、僕は、……僕は、……僕は……答えを……出したいです……!」
    「ほんなら契約成立っちゅうことでええんですな?」
    「そ、それはもう、是非、……あっ、で、でもまだ月雇いの契約とか宿のこととか」
    「あー、はいはい」
     3世も立ち上がり、店の入り口を指し示した。
    「ほんならちゃっちゃと済ませてしまいましょか。……っと、女将さん。後で彼、また来ますやろから、席とご飯はこのまんまにしといてや。お会計と騒がせ賃は今出しときますさかい。ほな、よろしゅう」
     そう言って懐から袋いっぱいの金貨を出し、ニコル3世はさっさと店から出て行く。ペドロも慌てて、彼の後に付いて行った。
    央中神学事始 5
    »»  2021.02.19.
    ペドロの話、第6話。
    カネモチの力技。

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    6.
     ペドロが酒場を出たところで、ニコル3世は単刀直入に尋ねてきた。
    「どこで働いてはるんです?」
    「今はゴメス運送って言って、えっと、この通りを西に」
    「案内してもろてええです?」
    「あっ、はい」
     連れ立って歩き出したところで、3世は彼にいくつか質問する。
    「歳は?」
    「27です」
    「奥さんとか付き合うてる子とか、いてます?」
    「全然いません」
    「家は? ここには出稼ぎしとるとかそう言う話は?」
    「ありません。実家も追い出されました」
    「他に資産は、……あるわけあらへんな。ほな身一つっちゅうことですな」
    「そうなります」
    「なるほどなるほど」
     3世はチラ、とペドロを一瞥する。
    「あんたの話は、神学に詳しいある情報筋から聞いとります。『ヘンな研究していきなり投獄されよった子供がおる』と。旧政府下では期待の神童や何やと持てはやされとったけども、思想犯として10年に渡って投獄。ほんで3年前にタイカさん、……いや、カツミ氏の思想犯一斉恩赦を受けて釈放された、……っちゅうとこまではすぐ分かったんですが、その後の行方をたどるのには、ホンマ苦労しましたで」
    「はあ」
    「ほんでもさっきの答えを聞く限り、どうやら私の依頼を請けられるだけの力はちゃんと残っとるみたいですな。となれば後の心配は、身辺整理だけですな」
    「そうですね。でも」
     懸念を口にしかけたペドロをさえぎるように、ニコル3世が続ける。
    「私もそうヒマやありまへんから、ちゃっちゃと済ましてしまいましょ。……っと、ここですな?」
    「あ、はい。でもゴールド……」「邪魔しますでー」
     心配するペドロをよそに、3世はずかずかと事務所の中に入る。
    「なんだ? 今日はもう閉めてんだけど」
     事務所の奥から出てきた商会主に、3世が会釈する。
    「単刀直入にお話さしてもらいますで。ここのラウバッハ君ですけども、今日で契約期間、終わりにしたって下さい」
    「はあ?」
     途端に、商会主の顔に朱が差す。
    「何を寝言抜かしてやがる? そいつはあと3ヶ月はウチで……」「ほれ」
     相手の言葉をさえぎるように、3世はかばんから袋を取り出し、事務机にどかっと置く。袋の口からじゃらじゃらと音を立てて銀貨があふれてきた途端、商会主は目を点にした。
    「んなっ……!?」
    「これでどないです? 他に何や言うときたいこと、あらはりますか?」
    「……へ、へっへへへ」
     商会主はころっと態度を変え、ペドロにぎこちない笑みを向けた。
    「ご、ごくろうさん、ラウバッハ君! ありがとう! じゃあね!」
     商会主は袋をひったくるようにして抱え込み、そのまま事務所の奥へ走り去ってしまった。
    「はい一丁上がり。ほんで次、宿でしたな」
    「……え、……えー、……えええ?」
     ペドロは目の前で行われたことが現実とはとても思えず、呆然とするしかなかった。

     その後、宿屋でも同様のことを行い、ペドロの身辺はあっさり片付けられてしまった。3年間を素寒貧で過ごしてきたペドロには、「カネで言うことを聞かせる」などと言う話はどこか絵空事、自分には一生縁の無い、別世界の寓話程度にしか思っていなかったが、こうして実際に、ニコル3世が二度、三度とその「力技」を行使するところを見せ付けられ、すっかり辟易してしまった。
    「……なんか……その……何て言うか……汚い……って言うか……」
     思わず、ペドロはそんなことを口走ってしまったが、3世は意に介した様子をチラリとも見せない。
    「さっき言うた通りです。私は忙しい身ですからな、ごちゃごちゃ悪口陰口減らず口叩かれながらぐだぐだ交渉するより、二つ返事で了解してくれる方がええんですわ。向こうさんにしても、長々とごねられるよりも100万、200万をポンともらえる話をしてもろた方がありがたいでしょうしな。双方に利のある提案を、形として見せただけですわ」
    「……はあ」
     そう説明されても、ペドロにはまだ納得が行かない。しかし、彼の依頼を請けると言ってしまった以上は、彼のやることを黙って見ているしかなかった。
    央中神学事始 6
    »»  2021.02.20.
    ペドロの話、第7話。
    神話の血筋。

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    7.
     ニコル3世は確かに、多忙の人であるらしかった。
    「……うん、ほんなら500万で事足りるやろ、送金するわ。……ほんでな、南海のアレやけど……さよか、それやったらロクミンさんとこに一筆書いたら十分やな。……ホンマかいな、ほな私の方から先方さんに連絡しとくから……」
     3世の本拠地、ゴールドコースト市国に戻る船の上でも、彼はずっと魔術頭巾を頭に巻き、あちこちと連絡を取り合っていた。
    「ほんでな、……あ、ちょいゴメンな、10分くらいしてからまた連絡するわ」
     と、手持ち無沙汰で甲板に突っ立っていたペドロと目が合い、3世は頭巾を外してちょいちょいと手招きした。
    「な、なんでしょうか?」
     やって来たペドロに、3世は「あんな」と前置きしてから、こう続けた。
    「君、ホンマに青春丸ごとドブに捨てたんやなって」
    「な、……何ですって?」
    「連れて来てから毎日ずっと、甲板の上で朝から晩までボーッとしっぱなしやないか。海鳥かてもうちょっと表情あるで?」
    「そう言われたって……」
     ペドロがまごついている間に、3世は近くの長椅子に腰掛け、ペドロにも座るよう促す。
    「ま、ちょいお話しようや」
    「はあ」
     素直にペドロが座ったところで、3世は渋い表情を浮かべつつ腕を組む。
    「素直なんはええ。ええけどもな、27歳の態度やないな、それ」
    「そうですか」
    「何ちゅうかな、君、ええ意味での『クセ』が無いねんな。淡白っちゅうか、単調っちゅうか。こんな言い方したらアレやろけども、ムショ暮らし終わってからずっと、他人の言うこと片っ端からハイ、ハイ言うて過ごしてきたんやろ」
    「そうですね」
    「その理由は? 『特に反対する理由も無いですから』とか、そんなんか?」
    「ええ、まあ」
    「そやろなぁ」
     3世は空を仰ぎ、それからペドロの肩をポンと叩く。
    「人が反対する理由は大抵、自分が持っとる考えと合わへんからや。その『自分の考え』ちゅうもんは、これまでの人生で積み重ねてきた経験が素になる。君が反対も何もせえへんのは、その積み重ねがほとんどあらへんからやろうな。ま、流石に央中天帝教の聖書作ってって話は断りかけたけど、逆に言うたら、君が今持っとるもんはそれ、ただ一つなわけや。
     私がこんなこと言うんは図々しいやろけども、央中に来たら、君には絶対、色んな経験さしたる。私に対しても、面と向かって嫌や言えるくらいにな」
    「はあ……」
     と、3世の狐耳がピク、と動く。どうやら耳に付けていた飾りが、通信術を検知したらしい。
    「なんやな、10分待てっちゅうたのに……。ほな仕事に戻るわ」
    「あ、はい」
     3世はそそくさと立ち上がり、また頭巾を頭に巻き始めた。
    「『トランスワード:リプライ』。はいよ、ゴールドマンや。……あのな、あのとかそのとかいらんから、ちゃっちゃと用件言うてや。……うん、うん、……あーはいはいはい、それか。ほんならな……」
     話しながら、3世はどこかに歩き去って行く。彼の付き人たちも、それに追従してぞろぞろと移動していった。
    (やっぱり僕なんかとは、生きてる世界が違うんだなぁ。それとも、彼が相当の変わり者なのか)
     長椅子に座ったままでその後姿を見送りつつ、ペドロはため息をついた。
    (そう言えばゴールドマン家は、エリザを開祖とする一族だったっけ。エリザも相当な変わり者だったらしいけど、……ああ言う性格は血筋なのかな? 何しろエリザは、悪口を言われても笑って返したって話だし。『大卿行北記』第3章で、ゼロ帝から密かに誹(そし)られていることをハンニバルから伝えられたエリザが『悪口は手立ての一切を失った者の、最後の悪あがきだ』と笑って返した、と。
     多分3世も、その逸話を引用したんだろう。彼は彼で敬虔なんだろうな、……多分)
    央中神学事始 7
    »»  2021.02.21.
    ペドロの話、第8話。
    恩師との再会。

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    8.
     央中、ゴールドコースト市国に着いたペドロを待っていたのは、かつての恩師だった。
    「お久しぶりです、ラウバッハ君」
    「え? ……あっ、もしかして!?」
     驚くペドロに、その老いた狐獣人はにこりと微笑む。
    「ええ、私です」
    「お久しぶりです、マルティーノ先生。……あっ、じゃあ3世が仰っていた『神学に詳しい情報筋』って」
    「そう言うこっちゃ」
     3世もニコニコしながら、経緯を説明してくれた。



     ペドロは元々、央北の小さな農村の生まれであったが、幼い頃から非凡な才能を現していた彼に大成の機会を与えるべく、両親は彼を学校のある大きな街へ住まわせた。そこで出会ったのが、このヘイゼス・マルティーノ師だった。
     彼は歴史学者であり、厳密には神学の徒ではなかったが、それでも4世紀の双月世界において「歴史」とは、即ち「宗教史」である。少なからず神学にも通暁していたマルティーノ師は、神学者を志したペドロに手厚い指導・鞭撻を施し、のみならず、神学府への仕官の道まで手配してくれた。ペドロにとっては、他ならぬ恩師である。だがペドロが投獄された後、彼の研究内容を徹底的に隠蔽・抹消しようと天帝教教会が画策していること、彼の関係者や知人が次々狙われていることを人づてに聞いたマルティーノ師は、息子一家を伴って央中へと逃れた。
     央中へ移ったマルティーノ師は、この地でも己の研究を続けるべく、央中の実力者・名家を頼ろうとした。央中の名家と言えばゴールドマン家とネール家が双璧であるが、折り悪く双月暦306年のこの時、両家は熾烈な争いを繰り広げている最中であり、どちらに付くこともできなかった。そこでマルティーノ師は両家よりいくらか格が落ちるものの、中央政府から「大公」の爵位を賜っており、名目的には央中における天帝の名代である第三の名家、バイエル家を訪ねた。
     結果的にこれは、マルティーノ師にしばしの平穏をもたらした。前述の通りバイエル家はゴールドマン家、ネール家に比べて何かと格下に見られる存在である。何かの形で隆興しようと常に図っていた同家は、歴史学の分野において高名なマルティーノ師を破格の待遇で召し抱え、研究を続けさせたのである。

     ところがこの安息も、310年代のはじめ頃に崩れた。この頃から央中では深刻な不景気、いわゆる恐慌が発生しており、バイエル家もこの不況の波に呑まれてしまったのである。とても不急の事業に予算を割り当てられるような状況ではなくなってしまい、当然、マルティーノ師も解雇されてしまった。それでもいつかもう一度召し抱えられることを願いつつ、数年分の蓄えと息子の収入でどうにか細々と研究を続けていたマルティーノ師だったが、ついに315年、彼の人生最大の好機が訪れた。

     この2年前、ニコル3世は前金火狐商会総帥を追い出し、ネール家息女との結婚によって両家の和平を実現させ、新たな総帥となっていた。そして総帥としての事業の第一歩として、ゴールドコーストにて金火狐財団を創設し、大商人としての基盤を確立した。
     己の地盤を固めた3世は、続いて央中恐慌からの脱出、そして央中全域を中央政府から独立させるべく、十重二十重の工作を仕掛けた。その一環として大公位を譲り受けるべく、彼はバイエル家を訪ね、ここでマルティーノ師と出会ったのである。
     既にこの頃から央中天帝教の興隆を考えていた3世は、マルティーノ師を聖書編纂事業の主筆、最高責任者として招こうとしたが、マルティーノ師はこう答えて辞去した。
    「聖書を一から作るとなれば、5年、10年で終わるような仕事にはならないでしょう。自分は既に高齢で、事業の完遂まで生きながらえることができるとは思えません。もっと若い人間を主筆に据えるべきでしょう。
     そもそも私は歴史学者であり、神学者ではありません。である以上、私が書く書物が『聖書』として扱われることは無いでしょう。聖書をお作りになりたいのであれば、本職の神学者に依頼されるべきではないでしょうか」
     そしてさらに、「仮に央北天帝教の神学府へご依頼なさったとしても、央中天帝教の聖書を作るなどと言う話に、快く手を貸すはずがありません。依頼するとすれば、神学府と関わりの無い人間でなければならないでしょう」と付け加えた上で、ペドロの話を伝えたのである。



    「……と、そこまではまだええとしても」
     3世は肩をすくめ、ペドロに目を向けた。
    「あんたが釈放されてからの足取りを追うんは、ホンマに苦労しましたで。雲隠れしたんちゃうかと思うくらい、どこに行ってしもたんか全然分かりませんでしたからな。ほんでもこうしてここまで連れて来たわけですし、これからは張り切って仕事してもらいますで」
    「は……はい」
     この時、ペドロはそこはかとなく嫌な予感を覚えはしたものの――自分を主筆に据えての新たな聖書編纂事業と言う、己のすべてを懸けるに値する未曾有の大仕事を目の前にしては、その予感に目をつむらざるを得なかった。
    央中神学事始 8
    »»  2021.02.22.
    ペドロの話、第9話。
    聖書の誕生と正教会の成立。

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    9.
     聖書編纂事業の第一歩は、金火狐一族の人間らがそれぞれ所有していた古書を蒐集(しゅうしゅう)し、比較検討することから始まった。
     エリザは金火狐一族の開祖であり、双月暦1世紀を代表する偉人中の偉人、まさに「女神」である。彼女を記し、崇め、そして称える書物には事欠かなかったが、客観的かつ現実的に、彼女を一人の人間として分析している資料となると、ほぼ皆無に等しかった。それでも天才神学者ペドロと、老練の歴史学者マルティーノ師をはじめとする優秀な編纂チームが綿密に比較検討と考察を重ね、粉飾だらけの書物の山から、どうにかひとしずくの真実を絞り出すことに成功した。
     そして編纂事業を始めてから10年近くもの歳月が経過した327年、ようやくペドロたちは第1冊目となる央中天帝教の聖書、「央中平定記」を刊行したのである。

     この頃既に、ペドロは37歳となっていた。仕事漬けの日々のせいか、それとも生来の気質のせいか、未だに独身であったが、編纂チームの主筆としてリーダーシップを発揮し続けてきたこともあり、年相応の貫禄を身に着けてはいた。
     そのこともあって、「央中平定記」が刊行されてまもなく、ペドロは3世から新たな地位を打診された。
    「きょ、教主ですって? 私が?」
    「あんた以外おらんやろ」
     この10年間の間にさらに己が力を強め、誰一人逆らえぬほどの権勢を誇るようになった3世は、執務室の椅子にふんぞり返ったままで、ぴしゃりと言い切った。
    「央中天帝教の聖書について最も詳しく、最も研究しとるんは、間違い無くあんたや。そのあんたがやらな、誰がやるっちゅうんや」
    「3世、あなたの方が……」
     その提案に、3世はぺらぺらと手を振って返した。
    「そんなヒマも徳もあらへんからな。私がでけるんはカネ出して後ろ楯になることくらいや。ともかく、あんたが今日から『央中正教会』の教主、最高責任者や」
    「しかし……」
     口ごもるペドロをさえぎるように、3世は短く、しかし誰にも逆らえぬ語調で、こう続けた。
    「それで、ええな?」
    「……承知しました」



     こうして3世の強引な指名により、ペドロは央中天帝教を取りまとめる宗教組織、央中正教会の教主に任ぜられた。正教会は金火狐財団の管轄下にあり、依然としてペドロが3世の下に属する事実は変わりなかったが、それでも一組織の長である。ペドロには並々ならぬ信頼と敬意が向けられた。
     だが、それでもペドロは不満を抱いていた。それは地位に対してでも、3世に従属している境遇に対してでもなく、ひたすら己の仕事――聖書編纂に対してであった。
    「不足、……と考えているのですか?」
     すっかり髪も毛並みも真っ白になり、杖無しでは歩けぬほど老いさばらえたマルティーノ師に尋ねられ、ペドロは深くうなずいた。
    「ええ。エリザがゼロから姓を賜ってから、央中随一の権力者となるまでの経緯は、我々に可能な限りまとめ上げることができたと考えています。しかし逆に言えば、それだけなのです」
    「つまりラウバッハ君、君はそれ以前と以後の記録を集め、新たな聖書を作りたいと、そう考えているのですね」
    「その通りです」
    「ふーむ……」
     マルティーノ師は杖をいじりながら、思案にふける様子を見せる。
    「しかしそれ以前の記録、即ちエリザが『旅の賢者』モールに師事した頃については、全くと言っていいほど資料が存在しません。10年をかけてあれだけ探し回ったのです、その上で新たな資料を探ろうにも、見つけることはまず不可能でしょう。
     ですが一方で、エリザが央中の権力者となった後、中央政府との取引を本格化して以降についてであれば、恐らく央北を訪ねてみれば、多少なりとも集められるでしょう」
    「その点は私も考えていました。10年前であれば3世の力を以てしてもまだ、央北に強く働きかけることは難しかったでしょう。しかし世界全域に影響力を持つ立場となった今なら、例え央北天帝教であっても、3世の要請を断ることは、容易にできないはずです」
    「なるほど。……ラウバッハ君」
     マルティーノ師は笑みを浮かべながらも、しかし、どこかに毅然としたものをにじませる目で、ペドロにこう言った。
    「君は今や央中正教会の教主となり、央中天帝教を代表する立場にあります。である以上、央中天帝教を優位視する気持ちがあるのは、仕方の無いことです。そもそも、それ自体は咎められるようなことではありません。己の心の内は、誰にも侵されざるべき領域なのですから。
     ですが一方で、相手の内心には相手の信じるものが確固として存在することもまた事実であり、そしてそれは、誰にも咎め得ぬこと。それを侵すことは誰にも許されない、恥ずべき行いです。
     どうかそれを、忘れないようにして下さい」
    「……そうですね。銘肝します」
    央中神学事始 9
    »»  2021.02.23.
    ペドロの話、第10話。
    暴君の如く。

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    10.
     ペドロは3世に要請し、彼を伴って古巣の神学府を訪ねた。
    「ようこそゴールドマン卿、そしてラウバッハ卿」
     一見、にこやかに応じているようではあったが、ペドロは相手が複雑な思いを抱いて自分たちに接していることを察していた。
    「どうも、サラテガ枢機卿。お忙しい中、お手数おかけしますで」
     一方の3世は、言葉こそやんわりとしたものではあったが、その態度からは明らかに、相手を軽んじている気配がにじみ出ていた。その態度をたしなめる様子も無く、サラテガ卿はすっと頭を下げ、笑顔を作って応じてきた。
    「お気遣い、痛み入ります。本日のご用件について確認させていただきますが、我々の書庫を確認いたしたいとのお話でしたか」
    「ええ。央中天帝教の聖書編纂には、あなた方の持っとる資料が不可欠ですからな」
     ピク、とサラテガ卿の目尻が動いたが、3世に動じた様子は無い。
    「さようでございますか。私個人といたしましては、探求心のある方を応援することはやぶさかではございません。しかしですな、原則的に神学府の書庫は、一般開放を行ってはおりません。ですので私の一存では、すぐにはお返事がいたしかね……」
     と、サラテガ卿の返答をさえぎるように、3世はがしゃ、がしゃんと金袋を机に置いた。
    「本日中に色良いお返事がいただけるようでしたら、こちらを今すぐ寄進いたします。また、書庫の使用期間中は使用料をお支払いいたします。どうぞ、よろしくご検討なさって下さい」
    「……っ」
     金袋を見た瞬間のサラテガ卿の顔色を見て、ペドロも顔をひきつらせた。
    「3世、あの……」
     ペドロは思わず声を上げていたが、3世は彼をにらみつけて黙らせる。
    「今は私が話してんねん。君は大人しく座っとき」
    「……」
     それ以上何も言えず、ペドロは口をつぐむ。と、その間にサラテガ卿は人を呼び、二言、三言耳打ちした。
    「少々お待ち下さい。管理責任者を呼んでおります」
    「そうでっか」
     3世は机に出された紅茶をぐい、と一息に飲み、金袋をつかんだ。
    「ほんで、お次はなんです? その管理者さんが鍵番さん呼ばはるんですか? ほんで鍵番さんが『ちょうど今、鍵貸しとるとこなんですわ』とか言うて、その人探し回って2日、3日待って下さい言うて、ほんでそれっぽい人仕立ててその人に『鍵無くしましたわー』言わせて、いやーこれやと開けられませんなー、鍵作るんでもう1ヶ月待って下さーい、……ってとこですか。ずいぶん気ぃ長いことで」
    「えっ!? い、いや、私はそんな……」
    「あんたはやらんでも、他の誰かがいらん気ぃ利かしてやらはるかも知れませんな。ええですか、私は単純明快に話を進める方が好きですし、ありがたいんですわ。ヒマやありまへんからな。次々人呼んで人呼んであれやこれやグダグダグダグダしょうもない工作やらはるより、サラテガ枢機卿、あなたが今ここでスパっと動いてもろてええですか? それがでけへんっちゅうんやったら話はここまでです。当然お金は払いませんし、このまま帰らせてもらいます。
     ほなお茶、ごちそうさんでした。ラウバッハ卿、失礼しましょか」
     金袋をしまい込み、そそくさと席を立とうとしたところで、サラテガ卿は血相を変えた。
    「おっ、お待ち下さい! お待ち下さい! 分かりました! ご、ご案内いたします!」
    「そらどうも。ちゃっちゃとやって下さい」
     慌てて立ち上がり、僧衣の裾を持ち上げて、自ら応接室の扉を開け頭を垂れたサラテガ卿にぺら、と手を振って続いた3世に対し、ペドロはまだ、椅子から立ち上がれずにいた。
    「何をボーッとしてんねや。行くで」
     そのペドロに対しても、3世は横柄に声をかけ、動くよう促した。

     神学府への滞在中、3世は始終こんな調子で、我が物顔に振る舞っていた。当然、神学府の人間からは蛇蝎のごとく嫌われたが――。
    「滑稽やな」
     3世はそれを、鼻で笑っていた。
    「そんなに私が嫌やったら、さっさと追い出したったらええねん。それがでけへんのんは、私のカネが目当てやからや。まったく、『聖職者』が聞いて呆れるっちゅうもんや。なあ、ペドロ君?」
    「……」
     ペドロはマルティーノ師からの言葉を思い出し、3世をいさめようかとも考えたが、結局それはできなかった。それをすれば自分も3世からの制裁を受け、聖書編纂事業から外されてしまうおそれがあったからだ。
     この時代――誰も彼も3世に逆らうことはおろか、意見することすらもできなかった。
    央中神学事始 10
    »»  2021.02.24.
    ペドロの話、第11話。
    異教の聖人、信愛を説く。

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    11.
     克大火によって天帝教教会は、世界の中枢であるクロスセントラルから、辺境の港町マーソルへと放逐された。当然、神学府も追従する形となったのだが、その蔵書を移動させるだけでも、大変な苦労と出費を強いられた。
     前体制下――天帝教が中央政府の中核に位置し、存分に税を吸い上げていた頃であれば、資金面の問題など取るに足らぬ話であっただろうが、巨大な資金源から切り離された今となっては、それは重くのしかかってくる苦難に他ならなかった。彼らはこの十数年にわたって、新たな書籍も上梓できないばかりか、前述の蔵書に関しても、まともに管理できるはずもなく、クロスセントラルにまだ相当数の書籍が残されているような有様だった。
     それだけにニコル3世からの報酬は、のどから手が出るほど欲しかったのである。であるからこそ彼らは、3世の傍若無人な振る舞いに嫌な顔一つ見せず、粛々と従っていた。

     しかし当然ながら、陰ではしきりに憤慨し、彼に対する呪詛が吐き散らされていた。
    「今日も嫌味を言われたよ。『本の手入れはよおでけても、人には茶ぁ出す気遣いもでけませんねんな。随分しつけのおよろしいことで』だと」
    「まったく嫌な奴だ」
    「カネを出す話が無ければ、即刻叩き出してやるものを!」
    「……そこが問題だ。奴にはカネがあって、我々には無い。である以上、従うしか無い」
    「くそっ……」
     と、ペドロが偶然、そこへ通りかかる。
    「あ……」
     この時は3世が居はしなかったものの、彼らは顔をこわばらせ、一斉に頭を下げる。
    「申し訳ございません、ラウバッハ猊下」
    「あっ、いえ、そんな、とんでもないです!」
     元より腰の低いペドロも深々と低頭し、こう返した。
    「皆様には常ならぬご苦労をおかけしてしまい、大変申し訳無く存じます。どうか、せめて、私などには気兼ねなどなさらず、共に真理を追究する者として、対等の立場で接して下さい」
    「い、いや、しかし」
     まだわだかまった顔をしている彼らに、ペドロはもう一度頭を下げ、続けてこう述べた。
    「私は元々、神学府に拾われた身です。諸々の事情により追放されはしましたが、それでも私はあなた方に、並々ならぬ感謝の意を抱いています。そんな大恩ある方々にきゅうくつな思いをさせては、私は神に誹られるでしょう。かつて我が主であったゼロ・タイムズからも、そして新たに私を迎えて下さったエリザ・ゴールドマンにも」
    「……ラウバッハ猊下、お尋ねいたします」
     一人が、恐る恐る手を挙げる。
    「あなたの神は、一体どちらなのですか?」
    「それは、どちらをのみ信仰すべきと考えているのか、と仰りたいのでしょうか」
     尋ね返した上で、ペドロは落ち着いた声で答えた。
    「ゼロとエリザ、どちらか一方を信じた者は、もう一方への信仰を捨てなければならないものなのでしょうか? 私は違うと考えています。『北港奪還記』第5章において、ゼロはエリザに対し不信感を抱いていた節の発言を連ねていましたし、『大卿行北記』の端々においても、二人の間に確執があったことが語られています。しかし結局のところ、二人の関係が破綻をきたし、争ったとされることばは、全ての聖書のどこにも記されていません。である以上、ゼロを信じた者がエリザを疎む必要は無く、エリザを信じた者がゼロを軽んじる理由もまた、無いのです。
     故に私は、二柱の神のどちらをも信じ、どちらをも愛していると、はっきりと答えます」
    「ですが、3世は明らかに我々を、天帝教を軽んじ、嘲っています。なのにあなたは、違うと答えるのですか?」
     そう反論する者にも、ペドロは理知的に回答した。
    「ええ。重ねてお答えしますが、神を、そして人の信仰を侮辱すべき正当な理由など、この世にありはしません。『北港奪還記』第7章第2節第2項にもこうあります。ハンニバルは部下に説いた、己が常識を世界の常識と錯覚するなかれ、……と。3世にはまだ、神のおことばが真には理解できておらず、己の狭い了見で物事を判断してしまっている。たった今あなた方が尋ねたように、一方の神のみを信じるべし、もう一方を憎むべしと考えてしまっているのです」
    「あ……!」
     ペドロに説き伏せられ、彼らは目を見開く。
    「ですから、どうか神学の徒、有識の人であるあなた方には、より広く、より深く、そしてより明るく、神とそのおことばに、真摯に向き合っていただきたく存じます」
    「……仰る通りです。感服しました」
    「蒙が啓けた心地です」
    「ありがとうございます、ラウバッハ猊下」
     その場にいた者たちは、揃ってペドロに頭を下げた。



     ペドロの謙虚かつ、神学に対してどこまでも真剣な態度は――3世の態度があまりにも剣呑だったこともあいまって――神学府の者たちを心服させた。
     また、ペドロは「聖書編纂にはすべての蔵書を勘案しなければならない」と3世を説得して資金と人員を捻出させ、まだクロスセントラルに放置されたままだった書物と資料をすべて、マーソルへと移動させた。これにより神学府からは絶大な感謝と信頼を寄せられ、ペドロは神学府、そして天帝教教会でも再び、一目置かれる存在となった。

     そしてペドロの所期の目的であった新たな聖書編纂も330年、神学府の助力を得て完成にこぎつけた。この時まとめられた書は「二神交易記」と名付けられ、第2の聖書として公表された。こちらも「央中平定記」同様、並々ならぬ人気を博し、央中天帝教の者たちから絶大な支持を得た。
    央中神学事始 11
    »»  2021.02.25.
    ペドロの話、第12話。
    3世の罠。

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    12.
     2冊目の聖書が刊行され、央中天帝教の支持者、信奉者が増加するに伴い、その教主であるペドロに対する信用と信頼は、右肩上がりに増していった。
     こうなってくると――実に勝手なことに――3世は一転、ペドロの存在を疎み始めた。

    「独立……ですか?」
     331年、ペドロは3世の屋敷に呼び出され、彼から央中正教会を金火狐財団の一部門から、完全に独立した組織に改編してはどうかと打診された。
    「せや。何やかんや言うても、央中正教会もこの10年で相当大きくなったからな。もう十分、寄進でやりくりでける状況になっとるはずや。このまんま私がカネ出しっぱの状態も、君にはきゅうくつやろからな。君も私からやいやい言われて聖書書くより、自分の思うままにやってみたいやろ?」
    「いや……しかし……今まで3世が私の編纂事業に口を出されたことはございませんよね?」
    「ま、ま、今まではな。ほんでも歳食ってくるとな、色々いらん口出したくなるもんやねん。下手したら今まで書いてきたヤツまでケチ付けたなるかも分からん。そこできっちり財団から離れて、独立性を保てるようにした方がええんとちゃうやろか、と」
    「はあ」
     元来人の良いペドロは、3世の本心・本意に気付くことも無く、その提案を受け入れた。

     しかしこの提案がかえって正教会の独立性を損ね、より一層、3世による支配を強める結果となってしまった。
    「寄進で正教会の運営をまかなえる」として独立を果たしたものの、実際はそこまでの収入は得られなかった。と言うよりも獲得できる収入に対し、支出が大きすぎたのだ。即ち、財団から資金を与えられていた頃と同様の、大々的な活動を行ったために、あっと言うまに赤字経営に陥ってしまったのである。
     まもなく債務超過となり、1冊目の聖書を上梓した際にペドロが得た報酬10億クラムを投じてもなお足りず、事実上破綻した正教会が頼れるのは、3世を置いて他に無かった。だが3世は「あんたらがでける言うて独立したんやろ? 自分で何とかせえや」と冷たくあしらい、それでもなおすがってきた彼らに、「情け」と称して多額のカネを貸し付け、同時に金火狐商会の銀行・金融部門から、会計監査員・財務指導員を大量に出向させた。
     これにより正教会は莫大な負債で縛られ、完全に3世の言いなり、傀儡の存在となってしまった。その上で3世は正教会をそそのかして、この負債の原因が教主ペドロの資金濫用にあると糾弾させて、ペドロを教主の座から追い出してしまったのである。



     ふたたび野に下ることとなったペドロではあったが、それでも20年前のように、誰一人手を差し伸べる者の無い、不遇の中に落ちるようなことにはならなかった。関係修復を果たした神学府から招かれたのである。
     流石に異教徒となったペドロを正規雇用することは難しかったが、それを差し引いても、彼の見識と神学研究に対する姿勢は神学府の規範、鑑とするにふさわしかったことから、ペドロは客員教授として在籍することとなった。また、ペドロの恩師であるマルティーノ師も、同様の待遇で招聘されたのだが――。
    「どうしても、来てはいただけませんか……?」
    「ええ。山や海を渡るには、最早歳を取りすぎました。この老体では残念ながら、央北へ行くことはできないでしょう」
     マルティーノ師は市国に残ることを選び、ペドロに別れを告げた。その代わり――。
    「孫のロレーナを連れて行って下さい。私の欲目を差し引いても、優秀な娘です。きっと君の助けとなってくれるでしょう。彼女もこのまま市国に住み、3世の意向に沿うような研究をさせられるよりは、君の下に付いて真理を追求する道を選びたいと言っていましたから」
    「分かりました」
     こうしてペドロはマルティーノ師の孫娘、ロレーナを伴い、央北へと戻った。

     マルティーノ師は、未だ独身のペドロに娶(めあわ)せるつもりでロレーナを随行させた節があり、また、ロレーナの方も――20歳以上の年の差はあったものの――ペドロを敬愛しており、二人は央北に渡って2年後、結婚することとなった。
    央中神学事始 12
    »»  2021.02.26.
    ペドロの話、第13話。
    聖書をめぐる騒動。

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    13.
     神学府に出戻って以降も、ペドロは央中天帝教の聖書編纂を続けていた。正教会を追い出された身であるため、例え聖書が完成したとしても、それは外典扱い、まともな書物として扱ってもらえないのは明らかであったが、それでも彼は没頭していた。神学者、聖職者として以前に、彼自身がエリザと言う存在に惹かれていたからである。
     そして妻ロレーナや、異教であるはずの神学府からも厚い協力を得て336年、ペドロは3冊目となる聖書、「北方見聞記」を上梓した。これはエリザが二天戦争に従軍した頃の記録を元にしたものであり、単に生活の規範となる聖書としてだけではなく、英雄譚、戦記としての面白さも併せ持っていた。
     神学府から刊行されたこの本は央北、央中を問わず人気を博し、神学府にとっては空前の収益を記録し、ペドロは大いに感謝された。一方で央中正教会の人間も、これ以上聖書となる書物が製作されることは無いだろうと諦めていたところへの、この発刊である。3世の手前、この書物を大っぴらに持てはやすことはできなかったが、それでも密かに誰もが所有し、着実に広まっていた。

     勿論、この状況でただ一人、業を煮やしたのは3世である。放逐したはずのペドロが、この期に及んでまだ聖書を書いていたこと、そしてその聖書が新たな人気を博したこと、さらには徹底的に評判を貶めたはずのペドロが再評価されてしまったことに、3世は憤慨した。
     そして翌年の337年、3世は実力行使に出た。「『北方見聞記』は正教会を追い出された破戒僧が正当な権利無く製作した、正教会を貶める書物である」と、正教会に主張させたのである。さらにはこの書物で得た利益に対しても、ペドロ及び天帝教教会に受け取る権利は無いとし、それまで得た収益全額と、その20倍に相当する巨額の賠償金、さらにペドロの逮捕・処刑までをも請求させた。
     当然、こんな法外な額を天帝教教会が支払えるはずも無く、ましてや当代最高の神学者、聖書編纂の第一人者であるペドロに罰を与えてよしとするはずも無い。天帝教教会側はこれらの無法な請求が正教会の主張とは到底考えられない、3世の利己的な要求でしかないとして、断固反対した。
     これを受けて3世は、主張が自分自身のものであると悪びれる様子も無く認めた上で、この要求が通るまで央北天帝教信者、及び央北天帝教に通じる商会・商店との取引と融資をすべて停止すると答えた。当然、こんなことをされては天帝教教会の収入は激減してしまう。慌てた天帝教教会は神学府に、ペドロを引き渡すよう命令したが――。
    「そんなことはできるはずもございません」
     神学府のトップ、サラテガ枢機卿はその要求をきっぱり跳ね除けた。
    「考えてもみて下さい。その要求を呑むことは即ち、我々が央中天帝教の、いや、ゴールドマンの言いなりになったと、世界中から認識されると言うことです。もし要求を呑めば、以後、我々がどれほど努力を重ねたとしても、決して人々は、天帝教を神聖なもの、規範とすべきものとは見なさないでしょう。あの悪逆非道の『狐』に、いや、カネの力に屈した、単なる拝金主義者の集団として嘲られ、軽んじられる日々が待つのみです」
     この主張ももっともなものであり、天帝教教会も考えを改め、3世の要求を再度退けた。だが一方、3世が温情など見せるはずも無く、彼は宣言通りに経済制裁を実行した。



     以後、340年までの3年間、央北の経済は大幅に冷え込むこととなったが――それでも天帝教教会も、神学府も、そしてペドロも屈服することは無かった。
     そしてその内に、2つの転機が訪れることとなった。
    央中神学事始 13
    »»  2021.02.27.
    ペドロの話、第14話。
    正教会の内乱と、新たな宗教の台頭。

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    14.
     339年、ペドロに対し苛烈な要求を突きつけ、央北天帝教に対して歪んだ制裁を続ける3世を諌めるべく、マルティーノ師は最期の力を振り絞って抗議行動に出た。
    「あなた方がこうして人々の模範、標(しるべ)となれたのは誰のおかげですか? 他ならぬラウバッハ君の功績によるものでしょう? その恩を忘れたのですか? あなた方が聞くべきは神のおことば、エリザ・ゴールドマンのおことばではないのですか? 決してニコル・フォコ・ゴールドマンのおことばでは無いはずです。
     彼女はこう言ったはずです。『我々は戦うべからず。戦う者らがいればその仲立ちをし、互いに矛を収めさせよ』と。しかるに今、ニコル3世が行っていることは一体何ですか? 自ら戦いを仕掛け、世間が燃える様をニタニタと笑いながら眺めているのです。もしエリザがこの街に降臨されれば、必ずやニコル3世のほおを叩き、叱りつけるでしょう。『アンタなにアホなコトしよるんや』と」
     マルティーノ師は央中正教会の人々を集めてこう叱咤し、3世にこれ以上付き従わぬよう皆を説得した。そしてその翌日――激怒した3世が彼の拘束に動く前に、マルティーノ師はこの世を去った。
     マルティーノ師の、命を懸けたこの行動と説得の言葉に心動かされぬ者はおらず、これ以降、央中正教会の一部で、3世への抗議集会を繰り返す者が続出した。3世も過敏に反応し、市国の警察権力である公安局を操り集会を襲わせたが、それも却って市民に、3世への反感を強めさせる結果となった。

     加えて翌340年、央中天帝教を根底から揺るがす出来事が起こった。
     ゴールドコースト市国からほど近いカーテンロック山脈にて、あの克大火を現人神として信奉する者たちが、新たに宗教を拓いたのである。彼らは「黒炎教団」と呼ばれ、わずかずつではあるが、しかし確実に、信者数を増やしていた。当然、市国にもその波が押し寄せ、3世の言いなりとなっていた央中正教会を見限り、改宗する者も現れ始めた。
     これは央中正教会にとって、致命的とも言える状況であった。黒炎教団の信者数が増加すれば、本拠地が侵されることになる。団結し、彼らを追い出さなければ、逆に自分たちが逐われる羽目になりかねない。
     そして3世本人にとっても、これは危機に他ならなかった。自分の息がかかった人間ばかりであれば、いくら反感を抱かれようと危害が及ぶ可能性は少ないが、自分の力が及ばぬ人間ばかりが集まれば、いつ何時、襲撃を受けてもおかしくない。ましてや30年前に、3世が「大交渉」の場で克大火を下した事実がある。それを「3世が克大火を侮辱した」と曲解した乱暴な信者が、いわれの無い仇討ちに及ぶ可能性もある。
     何としてでも市国に、黒炎教団の勢力を招いてはならなかったのである。



     市国内で高まる反発と黒炎教団の脅威――内憂外患を抱えた3世は、正教会の結束を高めるため、いともあっさりと経済制裁を解除し、ペドロへの要求を取り下げた。その上で「北方見聞記」を第3の聖書として認めた上、ペドロを央中正教会に引き戻し、教主に復位させることを提案した。
     この厚顔無恥な対応に、市国の市民たちも央中正教会も、そして神学府も呆れ返ったが、ただ一人、ペドロは柔和に応じた。
    「経緯がどうあれ、私の書物が聖書として認められることは、大変な名誉です。提案を全面的に受け入れます。
     ただし、教主への復位は丁重にお断りしたします。3世と私の距離が再び近づけば、またこのような騒ぎが起こるかも知れませんから」
     ペドロは央中正教会に戻ってからも、特別研究員として引き続き、聖書の編纂に当たることとなった。
    央中神学事始 14
    »»  2021.02.28.
    ペドロの話、第15話。
    北の邦での研究。

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    15.
     央北滞在中に2人の子供に恵まれ、4人家族となっていたペドロ一家は、10年ぶりに央中へと戻って来た。だが、やはり10年前と変わらず、3世はペドロを疎んじていたようだった。戻ってまもなく、3世がこんな提案を持ちかけて来たからである。
    「北方へ……?」
    「せや。ほれ、あの……、『北方見聞記』やったかなんか、君、出したやんか? まあ、あれはあれで問題は無いとは思うねん、思うねんけどもな、何ちゅうか、まあ、もうちょっと、ええ感じにでけるんちゃうかなって」
    「はあ」
     3世が言うには、北方ジーン王国の知り合いが多数の蔵書を有しており、それを調べれば聖書の内容を拡充できるのではないかとのことだったが、この提案は明らかに、ペドロを央中から遠ざけさせようとする意思が見て取れた。
     だが、ペドロはその提案に、素直に従った。
    「承知しました。ではお言葉に従い、北方を訪ねることといたします」
     ペドロ自身、「北方見聞記」に不足した部分を感じていたし、二天戦争が行われた地に向かえば、より精細な描写ができることは確かでもある。どこまでも聖書編纂を第一に考えるペドロは、妻子を置いて単身、北方へ渡った。



     ペドロの評判は北方にも届いていたらしく、彼は到着するなり、王国付の文官に笑顔で出迎えられた。
    「ようこそおいで下さいました、ラウバッハ卿。私はジーン王国財務大臣補佐官の、オットー・フロトフと申します。今回、あなたのご案内を仰せつかりました。よろしくお願いいたします」
    「よろしくお願いいたします。……財務大臣のお付きの方がご案内を?」
    「ええ。ゴールドマン卿は以前、財務大臣補佐に相当する役職に就いておられた経験がございまして。その縁で、私の方に話が来た次第です」
    「さようでしたか」
    「ただ、それを抜きにしましても、あなたのおうわさはかねがね伺っております。よろしければ詳しくお話をさせていただきたいのですが……」
    「私の拙い話でよろしければ、いくらでも構いません」
     ペドロの返答に、フロトフ補佐官はぴょこんと熊耳を立てた。
    「いえいえ、とんでもない! 実は私も『北方見聞記』を拝読いたしまして……」
     こうして王国首都フェルタイルに着くまでの間に、ペドロとフロトフ補佐官はすっかり親密になった。

     フェルタイルに到着し、王国の資料庫に通されたところで、ペドロはもう一人、ある男に出くわした。
    「あなたがゴールドマン卿から紹介されたラウバッハ卿か?」
    「ええ、私がペドロ・ラウバッハで……」「自己紹介は結構。あなたに興味は無い。私はエイハブ・ナイジェル。この資料庫の管理を任されている。その内転属するつもりだがね。どこでも勝手に見て構わないが庫外への持ち出しは禁ずる。貸与もしない。閲覧は9時から18時まで。整理整頓を心がけてくれ。以上」
     半ばまくし立てるように説明し、そのナイジェル氏はどこかに立ち去ってしまった。
    「あ、あの……?」
    「ああ言う人です。悪い人では無いとは思うのですが、あまり話はされない方がよろしいかも知れません、……精神衛生上の意味で」
    「はあ……」
     戸惑いはしたが、ともかくフロトフ補佐官の言う通り、ペドロはナイジェル氏と極力接触しないよう気を付けつつ、資料を集めることにした。

     ジーン王国の資料庫はペドロにとって、非常に有益だった。質の高い資料が山のようにあり、神学府での研究だけでは不足していた情報を、十分に補完することができた。
    「しかし何故、これだけの書物がここにあるのでしょうか? いえ、不似合いと言うわけではありません。私の目からすれば、ここは神学府にも引けを取らない蔵書量です。一体誰がどのようにして、これだけの収集をなさったのか、と」
    「さあ……? 申し訳ありませんが、私もあまり学の深い方ではないので……」
     ペドロを気に入り、度々彼の元を訪ねてきていたフロトフ補佐官に聞いても、要領を得ない答えが返って来るばかりである。
    「もしかしたらナイジェルさんが詳しいのかも知れませんが、……正直に言って、あまり声をかけない方がいいでしょう。相当偏屈な人のようですから」
    「ふーむ……」
     フロトフ補佐官に止められたものの、元来好奇心旺盛な性質のペドロは、ある時ついに、ナイジェル氏に話しかけることにした。

     この何と言うことも無さそうなペドロの行動が、後に央中全土を混乱に陥れた大事件――「子息革命」のきっかけとなる。
    央中神学事始 15
    »»  2021.03.01.
    ペドロの話、第16話。
    ナイジェル氏との邂逅。

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    16.
     率直に言えば、ナイジェル氏は己の知識をひけらかすことを快感とする類の人間だった。
    「ふむ、そこに気が付いたか。いや、確かに世界中の図書館やら資料庫やらを漁り渡るような人種でなければ、気付くはずもなかろう。確かにここは世界有数の蔵書量を誇っている。いいや、中央政府文化院や神学府など足元にも及ばんほどにだ。それには3つの理由がある」
     ペドロが資料庫について尋ねた途端、それまでのうっとうしがっていた様子はたちまち消え、ニタニタと嬉しそうに笑いながら、まくし立ててきたのである。
    「ほうほう。それは一体?」
     一方で、あらゆる知識・知恵に幅広い興味を示すペドロは、彼の――他の人間であれば辟易し、3分と経たず逃げ出すような、自慢と他者への蔑視に満ちた傲慢な内容の――話にも、真剣に耳を傾けている。
    「1つ、元よりこのジーン王国では数多の軍閥による衝突が絶えない。その中でジーン王家が優位に立つためには、より高次かつ広範な戦略理論を必要とする。あなたは知らないかも知れないが、このジーン王国には戦略研究室なる部署があり、その初代室長となったのはあの『千里眼鏡』ファスタ卿なのだ。彼は戦略を何より重要視しており、ここの蔵書の戦略に関する書物は、ほとんど彼が室長時代に集めた、あるいは自ら執筆したものなのだ」
    「さようでしたか。ええ、確かに『二天戦争における人心掌握策実例集』などにも、ファスタ卿の名前が連なっておりました」
    「ほう! あなたもあれを読んだのか? うむ、あれは実に素晴らしい出来だ。エリザと言えば一般に商売やら魔術やらで語られがちだが、こと戦略においても、一線を画す実績を挙げた人間だ。その手腕が事細かに、かつ、極めて理論的に解析された書は、これ以外には無いと言っても過言ではないからな」
     そしてペドロには、彼の偉ぶった話をしっかり受け止めて適切に返せるだけの鷹揚さと、知力が備わっていた。
    「おっと……、話が逸れてしまったか。あー、と、2つ目だが、この国、と言うよりもこの北方地域は以前、ノルド王国――正確にはノルド『統一』王国と呼ばれるが――による支配がなされていたことはご存知か?」
    「ええ、存じております」
    「では統一王国成立の経緯は?」
    「統一王国初代国王ペテル・ノルドが第4代天帝の姪、メルリナ・タイムズと結託して北方全土を侵略・征服した後、双月暦76年に中央政府からの独立を宣言した、……と言う説が一般的とされているようですね」
    「そう、即ち第4代イオニス帝が姪をペテルに嫁がせたことをきっかけに勃興した統一王国をこらしめんと中央政府が巨兵を差し向けるも、北海での戦いで中央軍がまさかの敗北。その責を第3代ハビエル帝に取らせ帝位を簒奪したと、……ああ、いや、済まない。また脱線したようだな」
    「いえ、そのお話で察しが付きました。イオニス帝が簒奪計画の一環としてメルリナにクラム王国王位を貸し与えた際、まだ若かったメルリナにいわゆる『箔』を付けるべく、数多くの品を贈ったと言われておりますね」
    「おお、それもご存知とは! そう、その通りだ! その寄贈品の中に、中央政府から持ち出された書物も多数含まれているのだ。イオニス帝は暴君だ、邪智暴虐の帝だと酷評されてはいたが、文化面に対する造詣は非常に深かったと言われている。当然、贈った書物も選りすぐりのものばかりだったのだ」
    「道理で、道理で。この世に3冊しか現存していないはずの『天帝教征北記』初版をこの資料庫で見た時は、我が目を疑ったものです。さような経緯でこちらに収まっていたわけですな」
     ペドロの深い知識と話を先読みできる洞察力、そしてどこまでも穏やかに話に耳を傾ける態度に、ナイジェル氏はすっかり気を許したらしい。彼を知る他の者が見れば気味悪がりそうなほどの満面の笑顔で、より一層饒舌に語り出した。
    「それにも気付くとは! 流石と言う他無い。そちらについても話を深めたいところだが……、ともかく続きを話そう。3つ目についてだ。エリザの三大発明と言えば何か、当然ご存知だな?」
    「三大発明、……ふむ、造船技術、金属加工、そして活版印刷でしたか。ああ、つまりエリザが二天戦争に従軍していた頃、こちらで興した出版事業が……」
    「その通り! エリザが去った後も出版業は残っており、当然の結果として、数多くの書物が作られた。無論、時代の経過とともに消失してしまったものもあるだろうが、そもそもの製造点数が多い以上、現存する数も多いと言うわけだ。
     ……いやしかし、これほど話が合う方だったとは思いもよらなかった。今まで邪険にしていて、本当に勿体無いと思う」
    「ではこれから、交流を深めて参りましょう」
    「ああ、是非とも」



     これ以降、両者は親睦を深め、ついには344年、ペドロが研究を終えて帰郷する際、資料庫管理の職を辞して付いて来てしまうほど、ナイジェル氏はペドロに心酔した。ペドロも優秀な研究者が増えることを大いに喜び、以後357年まで、ナイジェル氏は央中正教会で研究に携わることとなった。
    央中神学事始 16
    »»  2021.03.02.
    ペドロの話、第17話。
    斜陽の大商人。

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    17.
     北方での研究の甲斐あって、「北方見聞記」改訂版は初版以上の好評を博した。そしてその主筆であるペドロも、既に教主の職を辞して10年以上経っているにもかかわらず、その評価と人気は衰えることを知らなかった。

     一方で3世の評判は、次第に陰りを濃くしていた。316年の大交渉で央中を中央政府から独立させ、大規模な再開発計画を打ち出し、央中に見果てぬ希望を与えた頃までは、彼には無限とも思える期待と羨望が寄せられていたが、再開発が終息を迎えて何年も経ち、ペドロをめぐる経済制裁で央北と、央北天帝教を必要以上に痛めつける痴態を世界中に晒して以降は、彼のことを悪し様に罵り、金火狐一族との取引を自ら打ち切る者も現れ始めていた。
     加えてこの経済制裁が、「眠れる獅子」を呼び起こしてしまった。3世、いや、正確には金火狐財団の系列商店・商会との取引・融資が完全停止した期間中、央北の人々も、そして克大火を封じ込めて議会制に移行した中央政府も、ただ手をこまねいていたわけではない。彼らなりに金火狐からの経済的自立・成長を実現させるべく、試行錯誤を繰り返していたのである。その努力は経済制裁が終息して以降も続けられており、347年のこの時には、前述の通り金火狐と手を切ってしまってもどうにかできるだけの経済圏が、央北に形成され始めていたのである。
     かつての栄光が曇り、影響力を失いつつある上、3世もこの頃齢60に達し、いよいよ己の思うままに体を動かすことも難しくなり始めていた。



     そんな斜陽の最中にあった3世が出してきた提案は、ペドロを少なからず困惑させた。
    「幼少期のエリザを?」
    「せや。そこは一番の神秘っちゅうても過言やない。逆に言うたら、そこをみんな、知りたいんとちゃうやろかと思うんよ」
    「仰ることは分かるのですが、しかし、現実的に無理な内容ではないでしょうか」
     この提案に対し、ペドロは当然、難色を示した。
    「『央中平定記』より以前の内容、即ちエリザがゼロの力を借りて故郷の怪物を掃討するより前の話は、そもそも資料自体が存在していません。口伝や詩歌すら、ネール家にほんの数曲あった程度なのです」
    「むしろその謎があるが故に、エリザの神秘性が保たれていると言っても過言では無い」
     二人の話に、この頃ペドロの右腕となり、博士と呼ばれるようになっていたナイジェルも口を挟む。
    「仮にその謎を暴いて、案外何と言うことも無い、平凡でありきたりの幼少期であったことが判明したら、神秘性が損なわれてしまうことになる。折角ここまで築き上げた『狐の女神』像を、わざわざ毀損することは無いはずだ。私はその提案を却下する」
    「お前の言うことなんか聞いてへんねん。黙っとけや」
     ナイジェル博士をにらみつけ、3世はペドロに向き直る。
    「そこの長耳がわちゃわちゃ言うてたけども、あんたは分かるやろ? 謎を謎のまんまで残しとけへんっちゅう気持ちは。それともあんたにはここが限界か? 目の前に横たわる大きな謎に、手ぇも足も出せまへんわとあきらめるんか?」
    「確かに私も研究者のはしくれです。自分の能力で明らかにできる謎があるのならば、己の命を懸けてでも解明したいとは考えております。
     しかし先程申し上げたように、そもそも元となるべき資料が無いとなれば、制作のしようがありません。それでも無理に作るとなれば、それはもう創作、根拠の無い勝手な想像で作られた『ウソ』になってしまいます。それではただの寓話、おとぎ話と同然です。決して人々の尊敬と信仰を集めるような書物にはならないでしょう」
    「ちゅうことはや」
     3世はまったく引き下がらず、こう尋ねてきた。
    「資料があれば作れるわけやな?」
    「論理的に申せばそうなります。……まさか3世、その資料をお持ちであると?」
    「いや、私は持ってへん。せやけど持ってそうなヤツは1人、心当たりがあんねん」
    「なんですって!?」
     驚くペドロに、3世はニヤっと笑みを向けた。
    「ちゅうてもな、住所不定、自称『賢者』の、めちゃめちゃ怪しいお姉ちゃんやけどもな」
    「……そうか、モール・リッチ!」
     3世から怒鳴られ、ふてくされていたナイジェル博士が顔を上げる。
    「彼は央北天帝教の聖書に、エリザの師であったと記されていた。であれば幼少期のエリザを知っていて当然と言うわけか」
    「そう言うこっちゃ」
     今度はナイジェル博士に笑いかけ、3世はさも切り札を出したと言いたげな表情を浮かべた。
    「実は私も昔、彼女に会ったことがあんねん。ちゅうても当時はまだ私もペーペーのヒヨッコで、ホンマに彼女がモール本人やとは思てへんかったけどもな。ほんでも古い付き合いがあることやし、居場所探して私が会いたい言うてると伝えたら、すぐ来てくれるはずや」
    「さ、探す?」
    「では今、彼がどこにいるか分からない、と?」
     一転、ナイジェル博士とペドロはがっかりした声を漏らす。それでも3世は、自信満々に答えた。
    「金火狐の力があったらチョイチョイや。ま、すぐ見つかるはずや。期待して待っとき」

     3世はそんな風に、軽く言い放ったものの――実際にモールが見つかるまでには、2年を要した。
    央中神学事始 17
    »»  2021.03.03.
    ペドロの話、第18話。
    最後の謎を知る者。

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    18.
     モール・リッチ――央北天帝教において「三賢者」の一角と称される人物であり、「彼」は「旅の賢者」とも呼ばれている。残る二人「時の賢者」ゼロ・タイムズ、そして「幻の賢者」ホウオウ、この三人によって現代における魔術の基本理論が確立されたとされてきたが、克大火や黒炎教団の件もあって、この説は近年、疑問視され始めている。
     便宜上「彼」と呼ばれることが多く、央北天帝教の聖書「降誕記」および「天帝昇神記」においても男性として扱われているが、一方でペドロたちが集めた資料の中では女性であるかのような表現も多数見られ、性別ははっきりしていない。なお、実際に出会ったと言う3世も、女性であったと記憶しているらしい。
     その他、種族も猫獣人であったり長耳であったりとはっきりせず、当然、年齢すらも不詳の人物である。

    「つまり正体不明と」
    「結論的にはそうなるのでしょうね」
     そのモールが央北で発見されたとの知らせを受け、ペドロとナイジェル博士は再び、3世に呼び出されていた。
    「そうなると発見されたその人物が、本当に本物であるか判断が難しいと思われるのだが、3世には何か、証明できる手立てがあると?」
    「エリザが持っとった魔杖があるやろ?」
     尋ねられ、ペドロが答える。
    「ええ。『ロータステイル』ですね」
    「あれと対になった魔杖があるっちゅう話も知っとるな?」
     今度はナイジェル博士が答える。
    「確か『ナインテイル』だったな。エリザの師であったモールが所有していたと、……ふむ。その魔杖を比較照合すれば証明できるわけか」
    「そう言うこっちゃ。ほんで、既に照合も終わっとる。『ロータステイル』はウチの家宝やからな、そう簡単に模造品なんか作られへんよう、厳重に保管されとる。その模造不可能な『ロータステイル』そっくりのもんを持ってはるっちゅうことは……」
    「即ち彼がそのモール本人である、と。……あ、『彼』でよろしかったでしょうか?」
     ペドロに尋ねられ、3世は肩をすくめた。
    「今回は『彼女』やな。ほんで『猫』やて」
    「どのようにして捕捉を? 聖書中でも散々、剣呑な性格であったとされているが、そう簡単に言うことを聞くような性質では無いだろう」
    「お前みたいにな」
     ナイジェル博士にそう返しつつも、3世は説明してくれた。
    「あのお姐ちゃん、ヘボのクセにカジノやら賭場やらで調子に乗って、大金賭けよるお調子もんの性格しとるからな。賭場の立っとるとこ行ってそう言うヤツ探して、さっき言うた杖持っとったらソイツで間違い無いっちゅうわけや。
     で、今回も――私が出会った時もそうやったんやけども――大負けして200万ほど借金しとったとこに声掛けて杖を確認して、どうも本人っぽいっちゅうことでカネ貸したってな」
    「どうせそのカネもスってしまったのだろう。で、借金のカタとして拘束したわけか」
    「ほぼ正解やな」
     3世はニヤッと笑い、こう続けた。
    「貸したカネで当たるんは当たったらしいわ。ほんでも10分で3割増える貸しにしとったからな。1時間ほっとって、1000万近くに増えたところで返しに来よったけども……」
    「勝った分を全額獲られ、それでもまだ残った借金で引っ張って来た、と」
    「そう言うこっちゃ」
    「ひどい方だ」
     ペドロは率直にそう口走ったが、3世はやはり、意に介していないようだった。
    「ま、借金やら何やらは捕まえるための方便みたいなもんやしな。用事済ましたら反故にしたって構わへんわ。ちゅうわけで、や」
     3世は傍らに置いていた杖をつかみ、先端をペドロに向けた。
    「今から会って話してき」
     こうしてペドロと、そしてナイジェル博士の2人は央北へ飛び、モールを訪ねることとなった。
    央中神学事始 18
    »»  2021.03.04.
    ペドロの話、第19話。
    礼を示す。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    19.
     ペドロもナイジェル博士も、長年の研究でエリザが必ずしも聖人君子の類ではないことを把握していたし、その師とされるモールについても、相応の性格であろうことを察していた。
    「……ふん」
     それ故、ベッドの上でとぐろを巻き、肌着姿で煙草をふかす、退廃的な彼女の姿を目にしても、両者ともたじろいだり愕然としたりするようなことは無かった。
    「半月もこんなトコに閉じ込めといたかと思ったら、今度は坊さんのお説教? あんたら、ケンカ売ってるね? 私を誰だと思ってんのかねぇ、まったく」
     うっすらにらみつけてくるモールに対し、ペドロは床に正座して深々と頭を下げた。
    「長期にわたる不当な拘留で大変なご不便、ご迷惑をおかけいたしましたこと、誠に申し訳無く存じます」
    「あん?」
    「賢者モール・リッチ様。いかようなご叱責も、甘んじて受ける所存です。誠心誠意、お詫び申し上げます」
    「……」
     モールは煙草をぷっと床に吐き捨て、のそりと立ち上がった。
    「アンタが責任者?」
    「そのように捉えていただいて差し支えございません。元を申せば、私のはしたなき欲求故に行われたことです」
    「その言い方だとさ」
     モールは土下座するペドロの前に座り込み、彼の後頭部に視線を落とす。
    「首謀者が他にいるみたいな感じだよね。ってかさアンタ、見た目からしてソコまで金回り良さそうなタイプでも、カネで人を釣ろうってタイプでも無さそうだしね。ソイツはドコにいるね? 後ろの長耳でも無さそうだしさ」
    「ここにはおりません。高齢故、出歩くことが困難な身でして」
    「アンタだって結構なお歳に見えるけどね。アンタ以上にヨボヨボだっての? いや、はっきり言ってやるね。んなもん詭弁さ。ソイツはココまで来る気も無いし、顔も見せたくないワケだ。私をこーして閉じ込めといて、自分は関係ありませんってツラしたいってワケさね。どーせ名前も出すなって言ってんだろ?」
    「いいえ」
     ペドロは顔を上げ、率直に答えた。
    「そのように言い付けられた事実はございませんので、お答えいたします。あなたを拘束するよう命じたのはニコル・フォコ・ゴールドマンその人です」
    「何だって? フォコが? ……あんの野郎」
    「しかし――重ね重ね申し上げますが――元はと申せば、私があなたからお話を伺いたいと願い出たからこそ、行われたことです。すべての責任は私にございます。私にいたせることであれば、どうぞ、何なりとお申し付け下さい」
    「話、話って、アンタ一体私に何を聞きたいね?」
     尋ねてきたモールに、ペドロは正座の姿勢を崩さぬまま答えた。
    「エリザ・ゴールドマンの幼少期について、可能な限り詳しく伺いたいのです」
    「は?」
     けげんな顔をし、モールが続いて尋ねる。
    「なんでそんなコト聞きたいね?」
    「私の生涯を懸けた事業の完成のためでございます」
    「大きく出たもんだね。アンタ、何してる人?」
    「聖書の編纂を行っております」
    「聖書? ……私もソコまで詳しかないけど、エリザの話聞きたいってコトは、央中天帝教ってヤツだろ? エリザの話なんてソコら中探せばいくらでもあるだろうに」
    「山のようにございますが、いずれも事実を事実のまま描いたものではございません。私はひたすらに、真実を求めているのです」
    「そんで私なら、マジでエリザのちっさい頃を見てるはずだろうって? なるほどね」
     モールはベッドに座り直し、胸元から新たな煙草を取り出した。
    「火ちょうだい」
    「はっ……」
     ペドロは言われるがまま、マッチを机から取り、彼女の煙草に火を点けた。
    「はっきり言っとくけどね、私ゃ坊さんみたいな祈って唱えて説教すんのが職業ってヤツは大っキライだし、カネで言うコト聞かそうなんてヤツもクソだと思ってるね。そもそもそんな頼み、受ける理由が無いしね。だから引き受けようなんて気は、さらっさら無い。……だけども」
     モールは紫煙をふーっと天井に向けて吐き、ペドロに顔を向けた。
    「アンタは今、煙草の灰だらけの床に頭こすりつけて頼み込むだなんて最大限の礼儀を示してくれたワケだし、ソレを無碍にするってんじゃ、悪いのは私になるね。
     だからその礼儀に答えて、アンタの願いを聞いてやるね」



     こうしてモールから直接、エリザの幼年時代について聞き出したペドロは――中には荒唐無稽な内容も散見されたが、「礼儀に答える」と言った彼女の言葉を信じて――そのすべてを「モール師事記」として編纂、351年に上梓した。
     奇想天外かつ大言壮語が並ぶモールの話を、当代最高の編集人ペドロが絶妙にまとめ、聖書として昇華させたこの書物は、やはり空前の好評を博した。当然、ペドロの評判も前以上に上がったが、反対に3世には「賢者モールをカネで買おうとした」との悪評が立ち、その人気にはより一層の、深い影が落ちることとなった。

     央北から広まったこの醜聞はやがて3世にも伝わり、彼はまたも激怒した。この醜聞がモール本人が流したものであることは明らかであり――仮にペドロたちが流したのならば、市国で広まるはずであるため――彼はモールにしかるべき制裁を加えるべく、躍起になって彼女の再捜索を命じたが、モールはもう二度と、3世の張った網にかかることは無かった。

     そしてこの暴挙が、3世の命脈を断つ決定点となった。
    央中神学事始 19
    »»  2021.03.05.
    ペドロの話、第20話。
    博士の復讐。

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    20.
     時間と場所は349年、モールが拘束されていた宿に戻る。
     話し疲れ、休憩を取っていたモールのところへ、ナイジェル博士が訪ねて来た。
    「休憩中、失礼する」
    「失礼なんかしないでほしいんだけどね」
    「言葉の綾だ。用がある」
    「私にゃ無いね」
     つっけんどんに対応するモールに、ナイジェル博士はこう切り出した。
    「3世には腹が立つだろう?」
    「そりゃまあねぇ」
    「私もだ」
    「へーぇ?」
     煙草を口にくわえたまま、モールはナイジェル博士を横目で捉える。
    「何されたね?」
    「あらゆる嫌がらせを受けている。基本的に私と言う人間が気に入らんらしい」
    「ま、人間関係ダメな時はダメだろうしね。で?」
    「少しばかり『お返し』をしてやろうと考えている」
    「少しで済むかねぇ?」
     そう問われ、ナイジェル博士の顔がこわばる。
    「どうしてそんなことを?」
    「私にわざわざ声かけて『仕返ししよう』なんて、少しで済む話じゃなさそうだしね」
    「……」
     しばらく黙り込んでいたが、やがて決心したような面持ちで、ナイジェル博士は話を再開した。
    「あなたにお願いする内容自体は単純だ。今回の経緯を、悪しざまに吹聴してくれればそれでいい」
    「何て言ってほしいね?」
    「どうとでも。とにかく3世が悪者になるように、そして、あなたが吹聴した本人だと分かるような内容で」
    「私と分かるように?」
     モールは煙草を床に捨て、ナイジェル博士を薄目でにらんだ。
    「そうなりゃ増上慢ストップ高状態のフォコは間違い無く、私を追い回すだろうね」
    「だが相手の手の内も知っていて、捕まえようと目論んでいることも分かっていれば、あなたは捕まるような方ではない。そうだろう?」
    「まーね」
    「決して捕まえられない相手を捕まえようと血道を上げている間に、私は別の工作を仕掛けるつもりだ。それが功を奏せば、3世に大きなダメージを与えられるだろう」
    「やっぱりオオゴトになるんじゃないね。……ま」
     新しい煙草を手に取り、モールはニヤッと笑った。
    「40年ほど前にしてあげたお説教を、すっかり忘れてるみたいだしね。ここいらでちょっと、痛い目見させとかなきゃならないね」
    「説教?」
    「こう言ったのさ――全人類の中で自分が一番だなんてコトを決める権利なんか、誰にだって無い。君自身にさえもね、……ってね」



     3世が執拗にモールを捜索していたその陰で、ナイジェル博士は密かに3世の子供たちを招集していた。
    「話と言うのは、他でも無い。君たちもそろそろ『親離れ』してみてはどうかと思ってね」
    「はあ……?」
     この頃、3世の子供世代はいずれも30代後半から40代半ばとなっており、金火狐財団の要職に就いた者もいたが、ここに集められた3人はそうではなく、はっきり言えば凡庸な者たちばかりだった。大した仕事もせず、また、大任を与えられることも無く、半ば遊び呆け、半ば飼い殺しとなっているような彼らに、ナイジェル博士はずばりと言ってのけた。
    「君たちはいずれも既に家庭を持ち、子供もいる身だ。傍から見れば成功せし者と言えるだろう。だが、感じはしないかね? 配偶者、あるいは子供から、『そろそろ大きな仕事をしないの?』『そろそろ偉くなれないの?』『この人はあのニコル3世の血を引いているはずなのに』『この人はあの金火狐一族のはずなのに』と言いたげな視線を」
    「う……」
     子供たちは、揃って苦い顔をする。
    「とは言え、その主たる理由は君たちが無能だからでも、いつまでも子供気分でいるからでもあるまい? ズバリ言ってやろう。3世がいつまでもいつまでも引退も隠居もせず、金火狐一族総帥の座に収まり続けているからに他ならない」
    「いや、しかし、長姉のイヴォラは市政局長になりましたし、公安局にも……」「では君たちはいつそうなるのかね?」
     問われるが、誰も答えない。
    「答えてやろうか? 答えは『いつまでもなれない』だ。その理由も言ってほしいかね?」
    「……」
    「沈黙は肯定と受け取るぞ。どうだ?」
    「……」
    「よろしい。でははっきり言ってやろう。君たち姉弟は全員が全員、3世に愛されてはいない。もっとはっきり言えば、君たち3名がその、愛されていない側の人間だ」
    「……っ」
    「愛されていないから機会も地位も与えられず、十分なカネも与えられない。他の姉弟には十分以上に与えられていたモノが、だ」
    「な、ナイジェルさん、あなた……っ」
     一人が憤った顔をし、立ち上がりかけたが、ナイジェル博士はやんわりと手をかざしてさえぎる。
    「しかし勘違いしないでもらいたいが、私は君たちをさげすむつもりも憐れむつもりも毛頭無い。むしろ私は君たちを評価している。だからこそ、機会を与えに来たのだ」
     この言葉に、3人はまた揃って首をかしげる。
    「機会?」
    「そうとも。君たちが晩成できる、最後の機会をだ」
     ナイジェル博士はそう言って、ニヤッと悪辣な笑みを浮かべた。
    央中神学事始 20
    »»  2021.03.06.
    ペドロの話、第21話。
    子息革命。

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    21.
     350年の暮れ、ナイジェル博士はペドロの元を去った。別れの言葉も無く、突然消息を絶ってしまったのである。ペドロは右腕であった彼がいなくなり困惑したものの、既にこの時「モール師事記」は概ね完成しており、ナイジェル博士がいなくても大きな支障は無く、翌年無事に刊行された。



     それから3年後の354年――ネール家が突然、「大公位」の割譲を宣言した。
     元々、旧中央政府は代々天帝に対する功労者に爵位を授け、その格に応じて、州から町村単位での支配権を認めていたのだが、その中でも大公位は央南、または央中全域を支配する者に与えられる、最大級の爵位である。旧政府下においては別の一族、バイエル家に与えられていた央中大公位であったが、前述の通りこれは3世によって買い取られ、妻の実家であるネール家に贈られていた。
     その後は3世による事実上の支配が続いており、この大公位は形骸化していたのだが、ネール家当主がその支配権を7つに割譲し、1つは大公位を継いでいた自分自身に、そして残りは自分の子供3名と、そしてあろうことか3世の子供――ナイジェル博士に扇動されたあの3名に分け与えたのである。

     それだけならば単に名目上の利権委譲でしかないのだが、6名はこの割譲された大公位を大義名分として、央中各地の州を実効支配したのである。
     対内的には3世の子供たちは日陰者、親の七光りで細々と生きる半端者でしかなかったが、対外的には「金火狐一族総帥の子息」と言う、山吹色に光り輝く箔が付いている。その威を借りた上、さらに大公位と言う玉虫色の箔を上乗せした彼らに恐れをなした各州はあっさり平伏し、支配権を明け渡してしまった。こうして央中各地の支配権を得た彼らは国家としての独立を宣言した上、大公位を割譲した者同士で貿易協定を結んだ。
     事実上これは、央中におけるすべての市場から金火狐財団を追い出すブロック経済圏の形成に他ならず、それまで世界の覇権を握っていた財団と市国は一転、窮地に追い込まれた。3世が何十年も手塩にかけて育て、巨大な市場に成長させた央中全域が、市国に牙を向いたのである。
     央中全域の貿易によって莫大な利益を獲得し続けてきた市国にとってこれは、致命傷とも言える状況だった。そもそも330年代後半から、もう一つの巨大市場であった央北から背を向けられていたこともあり、市国の経済はブロック経済圏の形成後から、見る見る間に悪化していった。にもかかわらず、3世はこの事実を「半端者のバカ息子どもがわがまま言うてるだけや」と意に介さず、なおもモール捜索に傾注した。
     だが、事態は彼が考えているよりももっと悪化していき――ついに357年、3世の長子である市政局長イヴォラが顔を真っ青にし、市国財政がデフォルト(債務不履行)寸前であることを伝えられてようやく、3世は自身が致命的状況に置かれていることを理解したのである。その報告は即ち、市国が金火狐財団の収益と債券で運営できなくなったこと、言い換えれば、財団のカネと信用が尽きたことをも意味していたからだ。
     ようやく目の前に迫る危機に気付いた3世は、大慌てで財団全体の事業計画見直しを図った。だが央中のブロック経済と央北の反財団態勢の前には成す術が無く、また、他の地域での経済活動拡大を推し進めようにも、財団が息を吹き返すまで経済規模を成長させるには数十年かかる見通しであることが判明し、老い先短い3世にはもう、打つ手が無くなってしまった。

     3世は屈辱をこらえ、ブロック経済圏を築いた央中各国と貿易協定を結ぶべく使者を送ったが、どこも異口同音にこう返すばかりだった――「我々は決してニコル・フォコ・ゴールドマン、そして彼の配下の人間とは交渉を行わない」と。
     進退を窮めた財団はついに、3世に総帥引退を要求した。
    央中神学事始 21
    »»  2021.03.07.
    ペドロの話、第22話。
    最後の依頼。

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    22.
     第4冊目となる「モール師事記」を刊行した後も、ペドロは変わらず聖書編纂事業に勤しんでいた。一方で、歳を重ねるごとに妄執を強め、剣呑な行動を繰り返す3世に、さしもの聖人ペドロも辟易しており、彼は352年、今度は南海へと旅立った。建前上は「エリザの最晩年についての資料を集めること」を目的としたものであったが、3世から距離を置きたいと言う思いも、少なからず彼の中にはあった。

     その3世から357年、市国に戻ってきて欲しいと直接頼まれ、ペドロは面食らっていた。
    「一体どうされたのですか? あなたが今更、……その、私に声をおかけになるなど」
    《頼みがあんねん》
     魔術を通じてペドロの耳に届いた3世の声は、いつになく憔悴したものだった。
    《君は私が知る限り、最高の文章書きや。君にしか頼まれへんことやねん》
    「聖書の件……ではありませんよね」
    《せや》
     3世はぽつりぽつりと、経緯を説明した。
    《その……な。私、ボチボチ、……な。ボチボチ、……総帥、辞めんねん》
    「なんですって?」
    《色々あってん。……いや、……せやな、君にはちゃんと説明しとかなな。私のバ、……子供らがな、ちょっと、反乱っちゅうかな、独立……、そう、独立しよってな、まあ、ほんでな、……子供らが協力して、私を、っちゅうか、財団を央中の商売ごとから全部、締め出しよってんな。ほんならもう、どないもこないも、……な、でけへんくなってしもてな。……で、財団のやつらみんな、私やもうアカン、頭すげ替えろっちゅうて、……って、わけや》
    「……そうですか」
     そのまま両者とも黙り込み、沈黙が流れる。そこで沈黙を破ったのは、父同様に神学者となり彼の旅に同行していたペドロの長子、ヤゼスだった。
    「3世、それで父に頼みたいこととは、一体……?」
    《……ああ、せやったな》
     以前の3世であれば、話に割って入った者を恫喝じみた口調で怒鳴りつけ、黙らせるところであったが、この時の彼は素直に、ヤゼスに答えた。
    《まあ、今言うた通り、総帥辞めよっかっちゅう話になったわけやけども、せやから言うて、じゃあコイツ総帥にするわ、みたいにすぐには決められへん。私がそんな風に決めたところで、そんなん誰も納得しいひんやろ。『どうせコイツ3世の傀儡やろ』と思われて、そっぽ向かれるんがオチや》
    「一理ございますね」
    《と言って、他の局長やら何やらが無理無理推しても同じことやんか? ほんで今んとこ、誰を後継者にするかで揉めとるワケや。せやけどそんなもんを話し合いで決めようと思ても、簡単に決められるもんとちゃう。と言うて、このまんまあーでもないこーでもないと言い合いしとっても、時間の無駄や。で、ある程度ルール定めた上で、投票したらどないやっちゅう話になってんねん》
    「ルール?」
    《公平を期すために、っちゅうことでな。今んとこ、私と局長らの最高幹部で何人か指名して、そいつらん中から選ぶ形にしようと考えとる。で、その指名するヤツについて、条件を定めようっちゅうわけや。条件があんまりにも違いすぎたら、選ぶも選ばへんも無いからな》
    「ふむ」
    《ほんで、次の総帥を決めた後のこともや。次のヤツがまた私みたいに何十年も居座っとったら、また同じことの繰り返しになるかも分からん。任期とか権利みたいなんも、この際まとめて決めたろう思てるんよ。他にも決めといた方がええことあれば、まとめて話す感じでな》
    「そこで私を交えてルールの策定を行う、と」
    《そう言うこっちゃ。繰り返しやけど、あんたは私が知る限り一番の字書きや。いや、一番の知識人、良識ある賢者や。あんたが話に加わってくれへんかったら、どないもこないもならん。
     頼むわ、ラウバッハ君》

     長年に渡る確執はあったが、恩人とも言える男の窮状を察したペドロ父子は、大急ぎで収集した資料をまとめて船に飛び乗り、市国への帰途に就いた。
    央中神学事始 22
    »»  2021.03.08.
    ペドロの話、第23話。
    革命の顛末。

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    23.
     5年ぶりに市国に戻ったペドロ父子は、すぐさま3世を訪ねた。
    「久しぶりやな。そんなに変わってへんみたいやし」
    「3世もお変わりないようで」
     そう言ったものの、ペドロの目には、3世の衰えぶりがはっきりと映っていた。
    「挨拶はこの辺でしまいや。早速、仕事の話や」
     しかし3世の心の中には辛うじて、仕事に対する意欲と情熱は残っていたようだった。杖を付きつつも、彼はしっかりした足取りで執務机に腰掛け、書類を手早く机上に並べていったからだ。
    「現時点で最高幹部から出た意見や。これを加味した上で、君にはルール策定をしてもらうつもりや。で、明日も会議があるけども、君にも参加してもらいたいんよ」
    「承知いたしました」
     ペドロとヤゼスは書類に目を通し、内容を検討する。
    「ざっと見た限りでは、ある程度意見は一致しているように思えますね、父さん」
    「そうだね。恐らくは幹部陣同士での話し合いも、何度と無く行われていたのだろう」
    「……」
     と、3世が椅子にもたれかかり、ぼんやりした顔で眺めていることに気付き、ペドロが声をかける。
    「如何なさいましたか?」
    「ん? あ、いや、……何ちゅうか、君ら仲ええなと思てな」
     3世は肩をすくめ、こう続ける。
    「私が子供らとまともに話したんは、もう何十年も前やからな。仕事の関係で向こうから御用聞きに来ることはちょくちょくあったけども、少なくとも私の方からは、四半世紀は声掛けてへんねん。……やからかな、こんなことになったんは」
    「3世……」
    「しゃあない、しゃあない。自業自得っちゅうヤツやろ。もう少し目ぇかけたったら、ちょっとは話もちゃうかったやろけど」

     こうしてペドロ父子の尽力によって358年のはじめ、財団の運営と各幹部の権限に関する規則書――「財団典範」が制定され、これに則って総帥選出選挙が行われた。その結果、市政局長イヴォラの娘、即ち3世の孫娘でもあるエリザ・トーナ・ゴールドマンが新たな総帥に選ばれた。



     そしてその後の調査で、央中全域を騒がせたこの「子息革命」について、ある事実が判明した。
     首謀者は前述の通り、ネール家現当主とその子供たち、そして3世の子供たち7名だったが、彼らを焚き付け、言葉巧みに誘導した人物が他にいることが分かった。それは他でもない、あのエイハブ・ナイジェル博士であり、「傲岸不遜の3世に鉄槌を下す」「央中域内の不平等を是正する」などと巧言令色を振りまいて己の行動を正当化していたが、結局は私利私欲のために行動していたことは、誰の目にも明らかだった。何故なら彼はネール公国と新興国6カ国から、顧問料として莫大な報酬と利権を手に入れていたからである。
     彼こそがこの騒動の張本人であるとして、財団は彼の拘束・処罰を各国に求めたが、経営が傾き、影響力の弱まった財団に与する者は央中内におらず、結局ナイジェル博士への追及はうやむやになってしまった。

     その一方、財団の最後の意地として、離反した3名とその家族、そして血縁者については永久に金火狐一族から除籍することを決定した。また、この騒動に加担したネール家に対しても無期限の取引停止、即ち事実上の絶縁を言い渡した。
     この決定に際し、3世の妻でもあり、離反者3名の母親でもあり、かつ、ネール家の人間でもあったランニャは立場を問われたが――。
    「いいよ、別に」
     彼女は特に子供たちや実家の肩を持つ様子も無く、全面的に同意したと言う。
    「ってかむしろさ、こっちから願い下げだよ。こんなことすりゃ央中丸ごと大騒ぎになるって、誰にだって分かるだろう? だのに、ろくに後先も考えず加担するなんて、つくづく救いようの無いヤツらさ。きっと母さん――先代当主だって、許しやしない。『他人のそれらしい意見にコロッと騙されてホイホイ乗っかるようなバカなんぞ、こっちから放り捨ててやりゃいいさ』とか言うだろうさ、きっと」



     彼女の言葉は後に、騒動に加担した者たち全員に、重くのしかかってくることとなった。独立を果たした不肖の子供たちも、そしてネール家も、独立当初は相応に栄華を極め、人々の期待を集めはしたものの、数年、十数年と経つ内、次第に才能の乏しさと実力の無さを露呈し、みるみる間に人心と信用、そして資産をも失い、凋落した。
     なお、ナイジェル博士は散々彼らを食い物にして財産を築いたものの、同時に深い恨みも抱えることとなった。難を逃れるため故郷の北方へ舞い戻ったものの、そこでも財産を付け狙う者たちが跡を絶たず、晩年はすっかり人間不信になり、一人寂しく生涯を閉じたと言う。家族にも一時期恵まれはしたが、それもまた、彼の遺産狙いのために骨肉の争いを繰り返し、結局は散り散りになってしまった。

     世紀単位で時代の流れを見るに――「子息革命」は3世の一強体制を崩し、彼の時代を終わらせはしたものの、結局のところ彼を追い落とした者たちが成り代わって栄光を手にすることは無く、一人の覇者も出さぬまま、あっさり終焉した形となった。
    央中神学事始 23
    »»  2021.03.09.
    ペドロの話、最終話。
    ピリオド。

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    24.
     総帥交替が行われてまもなく、3世が死去したとの知らせが市国に広まった。しかし、「現総帥は死亡の事実を把握していなかった」、「葬儀の場には遺体が無かった」など、本当に亡くなったのか疑問を抱かせるような要素がいくつもあり、人々は「3世は財団の急進派に暗殺された」、「3世はどこかに逃げ延び、再起の機会を図っている」などと、口々にうわさした。

     一方、ペドロは360年に第5冊目となる聖書、「狐の女神記」を刊行した。それと同時に、彼もまた、神学者としての引退を宣言した。
    「これで女神エリザの一生を、私に出来得る限り書き留めることができました。これ以上を成そうとするならば、それはもう、彼女の一生に無い出来事を創作する他にございません。となれば彼女の実像を歪め、嘘で塗り固めることになります。それは彼女への冒涜に他なりません。彼女を神として敬愛するが故に、私はここで筆を折るべきでしょう。
     私が成すべき仕事は、ここまででございます」
     ペドロ夫妻は市国を離れ、二人目の息子、ビートの住む田舎町に移り住み、いち牧師として後の生涯を過ごした。

     彼はビートに、こんなことを話したと伝えられている。
    「夢を見たのだけれど、それはとても不思議な夢だったよ。
     その中で私は、24歳になっていた。不遇を囲い、安酒場の豆とベーコンだけでどうにか食いつないでいた頃だ。そして目の前には、豆とベーコンが置いてあった。だから一瞬、今までの人生は私が見ていた夢なんじゃないかと思ってしまったよ。
     そこにお客さんがやって来た。3世だ。出会った当時と同じ、27歳の姿だった。3世は店の入口で大声を出した。『大卿行北記、第5章1節!』と。そう、彼が私を探すために問うた言葉だ。勿論、私は答えた。一言一句、間違い無くね。そうしたら3世はニヤッと笑って、こう続けたんだ。『ほな次、央中平定記の第11章3節はどないや?』とね。それも当然、私は答えた。他ならぬ私の作だからね。これも淀みなく答えてみせた。3世は笑っていた。『やるやないか。ほんならモール師事記の第21章6節は?』これも答えた。……と思うだろう? うむ、その通り。そんな章は無いんだ。全部で19章だからね。だから私は無いと答えた。3世は肩をすくめて、私の対面に座った。『ゴメンな。実は読んでへんかってん』と言われたよ。
     そこで3世は、私に頭を下げた。『君にはホンマに申し訳無いことしてしもたな。元はと言えば僕が頼んで、市国に来てもろたのにな。この30年、しょうもないことばっかりして、君にはめちゃめちゃ迷惑掛けてしもたわ。……せやから、まあ、お詫びっちゅうたらアレやけども、こないだ全部読ましてもらってん。いや、ホンマにええ出来やったわ。恐れ入った。君はホンマにええ仕事したわ。ありがとうな、ホンマに』
     3世は席を立ち、こう言ってきた。『僕ももうそろそろ、いこか思てんねん。君もボチボチどないや?』と言われたけれど、断っておいたよ。『ようやく面と向かって嫌や言うたと思たら、ここでかいな』と苦い顔をされてしまったけど、久しぶりに、目の前の豆とベーコンを楽しみたかったからね。……でもまた、近い内に誘われると思う。その時は相伴するつもりだ」
     そしてこの話をしてから1週間後――ペドロ・ラウバッハはこの世を去った。



     かつては「央北天帝教の無心から逃げる方便」「経典無きニセ宗教」と蔑まれた央中天帝教は、ペドロ、そして3世の長年にわたる努力により、いつしか権威ある宗教として、確固たる地位を確立するに至った。併せて、ペドロが編纂した5冊の聖書は央中天帝教の根源として、そして誰もが学び、守るべき規範として、長きに渡って尊ばれるものとなった。
     そしてペドロ自身もまた、央中天帝教最大の聖人として、そして4世紀最大の文人として慕われることとなり、彼が没した町には今も、巡礼者が絶えないと言う。

    央中神学事始 終
    央中神学事始 24
    »»  2021.03.10.

    新連載。
    若き天才の転落。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     ペドロ・ラウバッハは神童であった。齢12の時には既に天帝教の聖書すべてを諳(そら)んじていたどころか、当時既に定番の議題となっていた「ゼロ帝の閏週矛盾問題」に新たな説を提示し、神学府をざわつかせていたのである。
     それだけの稀有な才能と優秀な頭脳の持ち主を、絶大な権勢を奮い世界の支配者として振る舞う中央政府、そしてその中枢に位置する天帝教教会が放っておくはずもなく、彼は13歳にして神学府の研究者としての地位を与えられた。
     そして翌14歳の時、彼は要請を受けて、晩年のゼロ帝についての研究に着手した。「ゼロ帝は崩御の数年前から魔物にすり替わっていた」と言う聖書最後部の寓話――あの有名な「ゼロ帝偽勅事件」がどこまで真実であるのかを探ろうとしたのである。と言っても彼は寓話そのものを創作上のものだと疑っていたわけではなく、あくまで「どの勅令を発したところまでが本物のゼロ帝であったのか、即ち晩年に発された勅令には天帝としての正当性があったのか」を見極めるためである。

     これは中央政府の、いや、正確には代々の天帝の権威・権能に関わる、重大かつ重要な研究であると言えた。何故なら天帝の勅令と言動は、原則的に古い代に絶対的正当性があるとされており、古代の天帝が下した決定・決断を後世の天帝が覆すことは、決して許されていないからだ。
     だが当然、過去と現在では慣習・風習は異なる。古代の常識と習慣に則って行われたことが現代でも通用するとは限らず、むしろ文明・文化発展の妨げとなることも、往々にしてある。天帝本人にしても、一々馬鹿正直に代々天帝の言葉を忠実に守っていては、まともな施政・施策など行えるはずもない。そこで新たな天帝は、古い天帝たちの言動にどれほど正当性があるか――いや、「どこまで正当性を疑えるか」「どこまで正当性を廃せるか」を、専門家たる神学者たちに論じさせ、言質を取るのである。
     加えて、時代は双月暦305年――8代目天帝、オーヴェル帝が即位した直後である。彼ははっきり言えば愚鈍の類であったが、それでも彼なりに正義感を燃やしており、腐敗にまみれた政治を憂いていた。そこで即位してまもなく、彼は大改革を志し積極的な行動に出ようとしていたのだが、周囲の大臣たちはその行動の一つひとつを「それは初代の考えに反します」「4代の時に禁止令が出ております」などと言葉を立て並べ、ことごとく中止・撤回させていた。
     その度重なる妨害に業を煮やしたオーヴェル帝は、ついにはこう怒鳴った。「おことば、おことばと申すが、そのおことばは果たして本当にお歴々の帝たちが発されたことか!? 周囲の有象無象が神聖なるおことばを曲解し、己に都合良く書き換えたのではないのか!? 明確なる論拠を示さねば、朕は絶対に納得せぬぞ!」
     こうしたオーヴェル帝からの鶴声も受け、ペドロは意気揚々と自分の研究に没頭していったのである。

     ペドロは中央政府の古書庫に遺されていたゼロ帝の勅令状を確認し、彼のサインを鑑定した。その筆跡から、どの辺りまでがゼロ帝本人で、どの辺りから魔物にすり替わっていた偽物であるのかを見極めようとしたのである。そして700通以上にわたる勅令状を一つ残らず鑑定し終え――そのサインがすべて同一人物によって書かれたものであること、即ちこれら700あまりの勅令すべてを、間違い無く本物のゼロ帝が発していたことが分かってしまった。
     結論から言えば、この事実の発覚は天帝教にとって非常に好ましくないことであった。何故なら晩年のゼロ帝が下した勅令には苛烈かつ非人道的、加えて非常識なものも少なくなく、これを本当にゼロ帝本人が発したものであると天帝教教会が正式に認めれば、それまで完全無欠、無常の仁愛に満ちあふれた天帝教主神としてのイメージが、大きく損なわれてしまう。そうなれば、ただでさえ中央政府の腐敗で傾きかけている天帝教の評価・権威が、決定的に失墜しかねないからである。



     天帝教教会は大慌てで、完成直前であったその論文を焼却した。のみならず中央政府に働きかけてペドロを拘束させ、彼に「天帝家の権威失墜を企んだ思想犯」としての濡れ衣を着せ、それまでの輝かしい経歴をすべて真っ黒に塗り潰した挙げ句、終身刑を課して牢獄へと追いやったのである。
     ペドロの命運は、14歳にして尽きてしまった。

    央中神学事始 1

    2021.02.15.[Edit]
    新連載。若き天才の転落。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. ペドロ・ラウバッハは神童であった。齢12の時には既に天帝教の聖書すべてを諳(そら)んじていたどころか、当時既に定番の議題となっていた「ゼロ帝の閏週矛盾問題」に新たな説を提示し、神学府をざわつかせていたのである。 それだけの稀有な才能と優秀な頭脳の持ち主を、絶大な権勢を奮い世界の支配者として振る舞う中央政府、そしてその中枢に位置す...

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    ペドロの話、第2話。
    牢の中の信仰。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     ほとんど外の光も入って来ない、常にひんやりとした湿気に包まれた牢獄の中で、ペドロは絶望していた。
    (僕の……僕の人生は……神学の世界で業績を挙げ、神学史に名を残すと言う僕の夢は……全部終わってしまった)
     中央政府の下では死刑、もしくは終身刑に課せられた人間には、慈悲も温情も一切与えられることは無い。一日二度の食事以外には、本も新聞も、紙一枚すらも与えられず、ましてや牢から出て自由行動や運動の機会が与えられることも、決して無い。
     ペドロもその例に漏れず、たった3メートル四方の、昼とも夜ともつかない、永遠に続くようにも思える無の世界に閉じ込められていた。そんな虚無にあっては、どんな知性もどんな意欲も、まるで意味を成さない。外の世界では常に聖書に触れ、その一言一句と真摯(しんし)に向き合ってきた神童ペドロも、この何も無い空間では何一つ、物を成すことはできなかった。



     そうして絶望に飲み込まれ、毎日をただ寝て過ごすばかりだったペドロの短い耳に――ある時、若い男の声が、切れ切れながらも届いた。
    「……そんな非道が……世界中が犠牲に……」「おい、うるさいぞ!」
     どうやら政治か何かを憂う男が、世の不条理に対して嘆き叫んだらしかったが、すぐに看守の怒声と、分厚い扉を蹴る音にさえぎられる。
    (無駄なことを)
     既に何ヶ月も独房の中で過ごし、最早聖書の文言を何一つ思い出せなくなっていたペドロは、その男の行いをただの愚行とあざけった。
     しかし男の声は、その後も度々続いた。他に聞くものも無いため、ペドロは男の話をぼんやり聞いていた。既に知性を失いかけていたペドロではあったが、それでも男の言葉に、錆び付きかけていた脳を動かし、思考を巡らせていた。
    (どうやら政治家だったらしい。誰か偉い人に逆らったか何かしたようだ。陛下と言っていた。まさか、天帝に楯突いたのだろうか? 馬鹿だな。逆らったらどうなるか、子供でも分かるだろうに。
     他にも誰か……エンターゲートとかバーミーとか……知らない名前だ。世界がその二人に牛耳られるとか何とか……もしかしてこの人、発狂でもしていたのだろうか? 僕にだって、世界が広いと言うことは分かっている。この大きな世界が、たった二人のモノにされてしまうなんてことが、あるはずが無い。誇大妄想もいいところだ。
     でも……何だか、声は真剣そのものだ。聞く限り、狂っているようには思えない。……彼は彼で、頭のいい人なのかも知れない。その頭の良さで、僕みたいな政治の門外漢にはさっぱり理解できない、何かを悟ったのか。
     でも、……だとしたら、何? こんな独房の中でどんな真理に行き着いたって、結局は無駄になるだけじゃないか。やっぱり、彼は馬鹿なんだろうな)

     しかし男の声が聞こえ始めてから、何週間か経った頃――突然、牢獄に爆音が轟き、ペドロは驚いて目を覚ました。
    「なっ……何!?」
     ペドロは分厚い扉に張り付き、高さ5センチもない窓に顔を押し付けて、音がしたらしい方を凝視した。
    「な、な……!?」
     男の声がする。そして彼に応じるように、別の男の声が聞こえてきた。
    「二度も言わせるな」
    「あ、う、うん」
    「さっさと逃げるぞ」
     もうひとりの男の言葉に、ペドロは驚愕した。
    (『逃げる』……!? だ、脱獄した!?)
     聞き間違いではないかと自分の耳を疑い、ペドロは耳を澄ませたが――それきり、どちらの声も聞こえなくなった。



     その後のことを知る術(すべ)はペドロにはなく、また当然ながら、誰かから伝えられるようなこともなかったが、それでもその日以来、あの男の声が聞こえなくなったことから、彼が脱獄したらしいことだけは確かだった。
     そしてそれが、ペドロの心にも一筋の光をもたらしたのだ。
    (あの男は毎日……毎日、世界を憂う言葉を口にしていた。毎日、己の身ではなく、この世にあまねく人々のことを思っていた。僕はそれを愚行だ、馬鹿な行いだとあざけっていたけれど、……果たして本当に、本当に、そうだったのか? あの男は己の境遇に絶望することなく、世界を救うことを本当に願っていた。こんな闇の中にあって、それでも世界を救わんとしていた。だからこそ神が――違うのかも知れないけれど、とにかく何かが――手を差し伸べたのだろう。
     僕はどうだ? 何かを成したか? いいや、成そうとしたのか? あきらめていたじゃないか。何も出来やしないと、すべてを捨てて寝転がっていただけじゃないか!
     僕も、……僕も何かをやろう。今、自分にできる、何かを)

    央中神学事始 2

    2021.02.16.[Edit]
    ペドロの話、第2話。牢の中の信仰。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. ほとんど外の光も入って来ない、常にひんやりとした湿気に包まれた牢獄の中で、ペドロは絶望していた。(僕の……僕の人生は……神学の世界で業績を挙げ、神学史に名を残すと言う僕の夢は……全部終わってしまった) 中央政府の下では死刑、もしくは終身刑に課せられた人間には、慈悲も温情も一切与えられることは無い。一日二度の食事以外には、本も新...

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    ペドロの話、第3話。
    「悪魔」の治世、その実情。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     男がいなくなった後、ペドロは密かに、独房で聖書の暗誦を始めた。最初はほとんど思い出せず、己の衰えに愕然としたが、それでもかつて神童と謳われた青年である。
    「……第5項、ハンニバルは嘆き、己の情況を呪った。第6項、ハンニバルの前に狐の女が現れた。エリザであった。第7項、エリザはハンニバルを救い、ハンニバルに告げた。第8項、ハンニバル、剣を収めよ。敵は皆、昏倒させた。戦いは終わったのだ。第9項、ハンニバルはエリザに礼を述べた。エリザはハンニバルを抱きしめ、その苦労をねぎらった。第4章第1節第1項、……」
     記憶の糸を必死にたぐり、悪戦苦闘していたのもほんの2、3ヶ月の間であり、一度思い出してしまえば、聖書はペドロの頭の中に、ふたたびしっかりとしまい込まれた。
    「……ゼロはハンニバルに命じた。兵を率い、ノースポートを奪還せよと。……あ、もう日が暮れるな」
     明かり取りの狭い窓から差し込む光が赤みを帯びていることに気付いたところで、ペドロはぴたりと黙り込んだ。

     神学への希望と意欲を取り戻したペドロは、自らに「行」を課した。牢獄に日の光が差すと同時に聖書の暗誦を始め、日が落ちるまで延々と、休み無く続ける。その行が何の意味を成すのか、何が報われるのかは、彼本人にも分からない。それでも彼は、己の心に現れた希望の光を絶やさぬため、そして己が会得した唯一の技術を失わないために、毎日暗誦し続けた。



     その祈りが天に通じたのか――あるいは悪魔に通じたのかも知れないが――ついに双月暦314年、報われる時が訪れた。
     この年、中央政府は反乱組織によって首都への攻撃を受けた。その混乱の最中、最高権力者であったオーヴェル帝は部下に背かれ、暗殺された。首脳を失った中央政府は反乱軍に無条件降伏を決定し、反乱軍のリーダーであった元中央政府政務大臣、ファスタ卿に全権を明け渡した。ところがこのファスタ卿も謎の失踪を遂げてしまい、彼の側近であった「黒い悪魔」――克大火がその全権を奪取した。
     これにより、二世紀半にわたって神の威光を背にしてきた中央政府は崩壊。克大火を主権・最高意思決定者とする、一種の君主制に移行したのである。

     悪魔と畏れられた克大火であったが、政治運営のみに限定して述べるのであれば、彼は悪魔どころか民衆の英雄であった。
     まず彼は天帝一族と天帝教総本山を央北のはずれの街、マーソルに追いやり、また、中央政府の要職に就いていた高僧らも、軒並み罷免。中央政府全体にはびこっていた天帝教勢力を、完全に排除した。これにより「寄進」と称した悪質かつ無法な徴発・徴税は一切行われなくなり、人民の暮らしは大いに安定・向上した。
     その他、信教の自由を約束する、央中・央南の独立を承認するなど、彼は中央政府の主権でありながら、その中央政府の絶対的地位を自ら揺るがし、小規模化させるような――言い換えれば、人民を絶対的権力による支配体制から解放させ、その自由と権利を大いに認めるような施策を次々に行った。結局はそれがために316年、克大火は中央政府から「特別顧問」として主権の地位から退くように要請されてしまったが、この2年間に行われた政策は悪魔的どころか、後年の政治学においても「歴史上稀に見る善政」とまで評されるものであった。

     そして天帝教の敬虔な信者たるペドロにとっても、克大火は悪魔ではなかった。
     この2年間の自由主義的施策の一環として、克大火は政治犯・思想犯の恩赦を命じていた。即ち「黒い悪魔」の鶴声によって、ペドロは10年ぶりに、太陽の下に出ることができたのである。

    央中神学事始 3

    2021.02.17.[Edit]
    ペドロの話、第3話。「悪魔」の治世、その実情。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 男がいなくなった後、ペドロは密かに、独房で聖書の暗誦を始めた。最初はほとんど思い出せず、己の衰えに愕然としたが、それでもかつて神童と謳われた青年である。「……第5項、ハンニバルは嘆き、己の情況を呪った。第6項、ハンニバルの前に狐の女が現れた。エリザであった。第7項、エリザはハンニバルを救い、ハンニバルに告げた。...

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    ペドロの話、第4話。
    堕落した神童。

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    4.
     自由の身となったペドロであったが、残念ながらその前途が多難であることに変わりは無かった。
     若き英才、期待の新星であった神学者が一転、思想犯として10年も獄中で過ごしていたのである。当然の如く、故郷からは戻ることを拒否されたし、学問一筋で生きてきた24歳が今更、どこかの職人に弟子入りすることも難しい。ましてや古巣の神学府が、天帝教の根幹を揺るがしかねない研究をしていた男を再雇用するはずもない。
     自身の持つ知識を活かせる場を得られぬまま、ペドロは央北の町を転々としつつ、二束三文の日雇い、月雇いで口を糊する放浪者として、さらに3年を無為に過ごした。

     その日の晩も、10時間にわたってただただ物を左から右、右から左に運ぶ――としかペドロには感じられなかった――労働を終えたペドロは、場末の安酒場の隅っこで縮こまるようにして、マメとベーコンをぼんやりと口に運んでいた。
    (……僕は一体……何をやってるんだろうか……)
     本来なら飲酒の習慣を身に着けるであろう時期を丸ごと牢獄で過ごしたため、ペドロには酒の飲み方も楽しみ方も、頼み方すらも分からない。テーブルの上に乗っている飲み物はワインでもビールでもなく、ただの水である。
    (何が楽しいんだろう……?)
     チラ、とカウンターに目をやると、いかにも上機嫌そうな狼獣人と短耳の男がげらげらと笑っている様子が見える。ペドロは自身の短い耳をそばだて、彼らの言葉を切れ切れながらも拾ってみたが――。
    「……でよ、……馬が……大穴……」
    「マジかよ……ぎゃははは……」
     ペドロの偏った知識では、彼らが何について話しているのか、皆目見当が付かなかった。
    (馬が穴に落ちて何がおかしいんだろう……?)
     それ以上彼らの会話を聞く気にもならず、ペドロはテーブルに視線を戻した。途端に今日の稼ぎの半分を使って注文した、乾いたマメとしなびたベーコンが視界に入り、ペドロはげんなりした。
    (僕は何がしたい? 何ができるんだ……?)
     ちなみに稼ぎの残り半分も、宿代と朝食代を払えば消えてしまう。己の手に残るものが何一つない生活を3年続けてきたことに――そして恐らくは、これからの10年、20年、あるいは死ぬまで同じ生活がひたすら続くことに――絶望し、ペドロは無意識にフォークを握りしめていた。
    (……僕がもうこの世から消えちゃっても……何も変わらないよな……)

     繰り返すが、ペドロが今いるここは、場末の安酒場である。決して王侯貴族や大富豪の類が出入りするような、品のいい場所では無い。
     なので――ペドロがフォークを握りしめたとほぼ同時に、その赤いメッシュの入った金髪の狐獣人が酒場の入口に現れた時、酒場にいた客たちも、カウンターに立っていた女将も、揃って息を呑み、黙り込んでしまった。その「狐」の毛並みは間違い無く世界最大の豪商一族、ゴールドマン家のものだったからである。
    「あ、すんまへんな。お邪魔しますで」
     癖のある口調で断りを入れつつ、狐獣人は酒場の中を一瞥する。
    「……んー」
     どうやら誰かを探している様子だが、見付けられなかったらしい。あごに手を当て思案した様子を見せた後、彼はいきなりこう叫んだ。
    「大卿行北記、第5章1節!」
    「は?」
     いきなりそんなことを言われても、そこにいた客も女将も、誰にも答えられるはずが無い――ペドロ以外は。
    「えっ、……エリザはシェロを訪ねた!」
     なので、ペドロはフォークを放り出して立ち上がり、思わず回答していた。
    「シェロは戸惑い尋ねた! 何故あなたが今になって、私を訪ねた、のか、……と」
     店中の視線が自分に集まっていることに気付き、ペドロは口をつぐみかけたが、狐獣人は促してくる。
    「続き言うて」
    「はっ、はい! ……エリザは言われた。あなたはくじけてはならない。また、逃げてもならない。あなたの後ろを見よ、あなたには幾百の、幾千の兵士が付いている。彼らは皆、あなたが命を下すことを望んでいる。繰り返し、はっきりと言う。あなたは逃げてはならない。シェロは決意した。エリザ、私はあなたのことばに従う。どんな頼みも引き受けよう。エリザは微笑まれた」
    「完璧ですな」
     狐獣人はにぃ、と口の端を上げ、ペドロの対面に腰掛けた。
    「なんですのん、ええ歳したお兄ちゃんがこんなシケたご飯食べはって……。もっと精の付くもん食べよし。女将さん、酒とご飯出したって。どっちも一番高いのん出してや」
    「しょ、少々お待ちを!」
     女将が血相を変え、大慌てで料理を作り出す。狐獣人はペドロに向き直り、もう一度ニヤ、と笑ってきた。
    「あんた、ペドロ・ラウバッハさん?」
    「え!? そ、そうですが」
     名前を言い当てられ戸惑うペドロに、狐獣人は己の名前を告げた。
    「私はニコル・フォコ・ゴールドマンっちゅうもんですわ。ちょとあんたに、頼みたいことがありましてな」

    央中神学事始 4

    2021.02.18.[Edit]
    ペドロの話、第4話。堕落した神童。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 自由の身となったペドロであったが、残念ながらその前途が多難であることに変わりは無かった。 若き英才、期待の新星であった神学者が一転、思想犯として10年も獄中で過ごしていたのである。当然の如く、故郷からは戻ることを拒否されたし、学問一筋で生きてきた24歳が今更、どこかの職人に弟子入りすることも難しい。ましてや古巣の神学府が...

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    ペドロの話、第5話。
    大商人からの依頼。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     狐獣人が名前を告げた瞬間、店内がより一層、しんと静まり返る。何故ならその男の名はあの克大火すら黙らせたと言う、世界最高の大商人のものだったからである。
    「……え……あ、あの、……あの、『ニコル3世』!?」
     世情に疎いペドロでも、流石に彼の名と評判は知っている。
    「そうそう、そのニコル3世です」
     男はこくりとうなずき、話を続けた。
    「ちょっとあんたに、聖書作ってもらいたいんですわ」
    「せ、聖書を作る、ですって?」
     おうむ返しに尋ねたペドロに、3世はもう一度うなずく。
    「ええ。ちゅうてもあんたが全巻覚えとるのんとはちゃいますねん。私が言うてるんは『央中』天帝教の聖書ですわ」
    「おう、……央中? と言うとあのニセモ、……あ、い、いえ」
     偽物、と言いかけて、ペドロは慌てて口をつぐむ。何故ならその言葉を耳にしかけた3世が、彼をうっすらとではあるがにらんできたからである。
    「まあ、熱心な央北天帝教の人からしたらそう思てはりますやろけども、こっちはこっちでちゃんとしたもんやと思てますからな?」
    「す、すみません」
     ペドロが深々と頭を下げ、ようやく3世は相好を崩した。
    「ほんでも確かに、ニセモンや、パチモンやと思われても仕方無いっちゅう面があることは事実です。その最たる理由の一つがズバリ、まともな教義が無い、聖書らしきもんが無いっちゅうことにある。私はそう思とるんですわ」
    「だから聖書を作る、と?」
    「そう言うことですわ。ほんでもこんな話を央北天帝教の、神学府におる正規の学者先生らに頼むわけに行かへんっちゅうことは分かりますやろ?」
    「そりゃまあ……そうですよね。間違い無く断るでしょう」
    「央中天帝教を本格的な宗教に仕立てていくっちゅう話ですからな。言い換えたら、相対的に央北天帝教の地位を貶めるっちゅう話になりますから、そら『まともな』神学者やったら誰かてええ顔はしはりませんやろな」
    「それで『まともじゃない』僕を、ですか」
     ペドロなりに、精一杯の皮肉を込めてそう返したが、どうやら3世は意に介していないらしい。
    「ええ。あんた以上の適任はまず、おりませんやろな」
    「……」
     閉口するペドロに構わず、3世は話を進める。
    「どないです? やってみはります?」
    「こっ、断ると言ったら?」
    「ほーぉ」
     3世は頬杖を付き、斜に構えている。
    「ほんなら何ですか、このまんま明日も明後日もその次の日も、マメとベーコンひと皿だけの日を繰り返したいっちゅうんですな?」
    「……いや、……言ってみただけ、……です」
    「ですやろなぁ」
     女将が大急ぎで運んできた酒と料理にチラ、と目を向け、軽く手を振って応じながら、3世は続ける。
    「そらまあポーズでも何でも、一応は断っとかへんと央北天帝教信者としての面目が立ちませんわな。ええ、承知しとります。……で、その上でですけども、ちゃんと引き受けてしかる程度の条件を提示さしてもらいます。編纂中は月給として5万クラム、完成した暁には10億クラムをお渡しします。それでどないですやろ?」
    「じゅ……10億っ!?」
     3世の言葉に、店内は三度静まる。その成功報酬額は、そこにいる全員が生涯遊んで暮らせるだけの、途方も無い金額であったからだ。
    「め……めちゃくちゃだ!」
     思わず、ペドロは叫ぶ。
    「なんで僕なんかに、そんなめちゃくちゃな金額を出そうとするんですか!?」
    「単純な話です」
     3世はまたもニヤ、と笑う。
    「この仕事は10億の価値があるからです。ほんなら10億出すんは当然ですやろ?」
    「本気で言ってるんですか?」
    「本気も本気、大マジですわ」
    「で、でもっ」
     自分でもそれが何故なのか分からないまま、ペドロは抗弁しようとする。それをさえぎるように、3世が声を上げた。
    「もっぺん言いますで。あんた、明日も明後日もその次の日も、また次の日も、そして10年後も20年後も、マメとベーコンひと皿の生活でええんですか?
     いや、もっとはっきり言うたりましょか。あんたは死ぬまで『僕は何のために生きとるんやろか』とグダグダ考えて過ごすつもりですか? あんた、ええ加減その問いに答え出したいんとちゃいますか?」
     この3年、心の中に渦巻いていた苦悩を言い当てられ、ペドロは絶句する。
    「……!」
    「それともペドロさん、あんたは悩むこと自体が大好きっちゅうことですか? 答えを出せへんまま死ぬまで頭ん中で悶々し続けたいっちゅうんやったら、もうこれ以上は言いまへん。このまま帰らせてもらいますわ」
    「……っ、あっ、あのっ、ニコルさ、えっと、あ、3世っ」
     また、ペドロは立ち上がっていた。
    「ぼっ、僕は、……僕は、……僕は……答えを……出したいです……!」
    「ほんなら契約成立っちゅうことでええんですな?」
    「そ、それはもう、是非、……あっ、で、でもまだ月雇いの契約とか宿のこととか」
    「あー、はいはい」
     3世も立ち上がり、店の入り口を指し示した。
    「ほんならちゃっちゃと済ませてしまいましょか。……っと、女将さん。後で彼、また来ますやろから、席とご飯はこのまんまにしといてや。お会計と騒がせ賃は今出しときますさかい。ほな、よろしゅう」
     そう言って懐から袋いっぱいの金貨を出し、ニコル3世はさっさと店から出て行く。ペドロも慌てて、彼の後に付いて行った。

    央中神学事始 5

    2021.02.19.[Edit]
    ペドロの話、第5話。大商人からの依頼。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 狐獣人が名前を告げた瞬間、店内がより一層、しんと静まり返る。何故ならその男の名はあの克大火すら黙らせたと言う、世界最高の大商人のものだったからである。「……え……あ、あの、……あの、『ニコル3世』!?」 世情に疎いペドロでも、流石に彼の名と評判は知っている。「そうそう、そのニコル3世です」 男はこくりとうなずき、話を続けた...

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    ペドロの話、第6話。
    カネモチの力技。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
     ペドロが酒場を出たところで、ニコル3世は単刀直入に尋ねてきた。
    「どこで働いてはるんです?」
    「今はゴメス運送って言って、えっと、この通りを西に」
    「案内してもろてええです?」
    「あっ、はい」
     連れ立って歩き出したところで、3世は彼にいくつか質問する。
    「歳は?」
    「27です」
    「奥さんとか付き合うてる子とか、いてます?」
    「全然いません」
    「家は? ここには出稼ぎしとるとかそう言う話は?」
    「ありません。実家も追い出されました」
    「他に資産は、……あるわけあらへんな。ほな身一つっちゅうことですな」
    「そうなります」
    「なるほどなるほど」
     3世はチラ、とペドロを一瞥する。
    「あんたの話は、神学に詳しいある情報筋から聞いとります。『ヘンな研究していきなり投獄されよった子供がおる』と。旧政府下では期待の神童や何やと持てはやされとったけども、思想犯として10年に渡って投獄。ほんで3年前にタイカさん、……いや、カツミ氏の思想犯一斉恩赦を受けて釈放された、……っちゅうとこまではすぐ分かったんですが、その後の行方をたどるのには、ホンマ苦労しましたで」
    「はあ」
    「ほんでもさっきの答えを聞く限り、どうやら私の依頼を請けられるだけの力はちゃんと残っとるみたいですな。となれば後の心配は、身辺整理だけですな」
    「そうですね。でも」
     懸念を口にしかけたペドロをさえぎるように、ニコル3世が続ける。
    「私もそうヒマやありまへんから、ちゃっちゃと済ましてしまいましょ。……っと、ここですな?」
    「あ、はい。でもゴールド……」「邪魔しますでー」
     心配するペドロをよそに、3世はずかずかと事務所の中に入る。
    「なんだ? 今日はもう閉めてんだけど」
     事務所の奥から出てきた商会主に、3世が会釈する。
    「単刀直入にお話さしてもらいますで。ここのラウバッハ君ですけども、今日で契約期間、終わりにしたって下さい」
    「はあ?」
     途端に、商会主の顔に朱が差す。
    「何を寝言抜かしてやがる? そいつはあと3ヶ月はウチで……」「ほれ」
     相手の言葉をさえぎるように、3世はかばんから袋を取り出し、事務机にどかっと置く。袋の口からじゃらじゃらと音を立てて銀貨があふれてきた途端、商会主は目を点にした。
    「んなっ……!?」
    「これでどないです? 他に何や言うときたいこと、あらはりますか?」
    「……へ、へっへへへ」
     商会主はころっと態度を変え、ペドロにぎこちない笑みを向けた。
    「ご、ごくろうさん、ラウバッハ君! ありがとう! じゃあね!」
     商会主は袋をひったくるようにして抱え込み、そのまま事務所の奥へ走り去ってしまった。
    「はい一丁上がり。ほんで次、宿でしたな」
    「……え、……えー、……えええ?」
     ペドロは目の前で行われたことが現実とはとても思えず、呆然とするしかなかった。

     その後、宿屋でも同様のことを行い、ペドロの身辺はあっさり片付けられてしまった。3年間を素寒貧で過ごしてきたペドロには、「カネで言うことを聞かせる」などと言う話はどこか絵空事、自分には一生縁の無い、別世界の寓話程度にしか思っていなかったが、こうして実際に、ニコル3世が二度、三度とその「力技」を行使するところを見せ付けられ、すっかり辟易してしまった。
    「……なんか……その……何て言うか……汚い……って言うか……」
     思わず、ペドロはそんなことを口走ってしまったが、3世は意に介した様子をチラリとも見せない。
    「さっき言うた通りです。私は忙しい身ですからな、ごちゃごちゃ悪口陰口減らず口叩かれながらぐだぐだ交渉するより、二つ返事で了解してくれる方がええんですわ。向こうさんにしても、長々とごねられるよりも100万、200万をポンともらえる話をしてもろた方がありがたいでしょうしな。双方に利のある提案を、形として見せただけですわ」
    「……はあ」
     そう説明されても、ペドロにはまだ納得が行かない。しかし、彼の依頼を請けると言ってしまった以上は、彼のやることを黙って見ているしかなかった。

    央中神学事始 6

    2021.02.20.[Edit]
    ペドロの話、第6話。カネモチの力技。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -6. ペドロが酒場を出たところで、ニコル3世は単刀直入に尋ねてきた。「どこで働いてはるんです?」「今はゴメス運送って言って、えっと、この通りを西に」「案内してもろてええです?」「あっ、はい」 連れ立って歩き出したところで、3世は彼にいくつか質問する。「歳は?」「27です」「奥さんとか付き合うてる子とか、いてます?」「全然いま...

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    ペドロの話、第7話。
    神話の血筋。

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    7.
     ニコル3世は確かに、多忙の人であるらしかった。
    「……うん、ほんなら500万で事足りるやろ、送金するわ。……ほんでな、南海のアレやけど……さよか、それやったらロクミンさんとこに一筆書いたら十分やな。……ホンマかいな、ほな私の方から先方さんに連絡しとくから……」
     3世の本拠地、ゴールドコースト市国に戻る船の上でも、彼はずっと魔術頭巾を頭に巻き、あちこちと連絡を取り合っていた。
    「ほんでな、……あ、ちょいゴメンな、10分くらいしてからまた連絡するわ」
     と、手持ち無沙汰で甲板に突っ立っていたペドロと目が合い、3世は頭巾を外してちょいちょいと手招きした。
    「な、なんでしょうか?」
     やって来たペドロに、3世は「あんな」と前置きしてから、こう続けた。
    「君、ホンマに青春丸ごとドブに捨てたんやなって」
    「な、……何ですって?」
    「連れて来てから毎日ずっと、甲板の上で朝から晩までボーッとしっぱなしやないか。海鳥かてもうちょっと表情あるで?」
    「そう言われたって……」
     ペドロがまごついている間に、3世は近くの長椅子に腰掛け、ペドロにも座るよう促す。
    「ま、ちょいお話しようや」
    「はあ」
     素直にペドロが座ったところで、3世は渋い表情を浮かべつつ腕を組む。
    「素直なんはええ。ええけどもな、27歳の態度やないな、それ」
    「そうですか」
    「何ちゅうかな、君、ええ意味での『クセ』が無いねんな。淡白っちゅうか、単調っちゅうか。こんな言い方したらアレやろけども、ムショ暮らし終わってからずっと、他人の言うこと片っ端からハイ、ハイ言うて過ごしてきたんやろ」
    「そうですね」
    「その理由は? 『特に反対する理由も無いですから』とか、そんなんか?」
    「ええ、まあ」
    「そやろなぁ」
     3世は空を仰ぎ、それからペドロの肩をポンと叩く。
    「人が反対する理由は大抵、自分が持っとる考えと合わへんからや。その『自分の考え』ちゅうもんは、これまでの人生で積み重ねてきた経験が素になる。君が反対も何もせえへんのは、その積み重ねがほとんどあらへんからやろうな。ま、流石に央中天帝教の聖書作ってって話は断りかけたけど、逆に言うたら、君が今持っとるもんはそれ、ただ一つなわけや。
     私がこんなこと言うんは図々しいやろけども、央中に来たら、君には絶対、色んな経験さしたる。私に対しても、面と向かって嫌や言えるくらいにな」
    「はあ……」
     と、3世の狐耳がピク、と動く。どうやら耳に付けていた飾りが、通信術を検知したらしい。
    「なんやな、10分待てっちゅうたのに……。ほな仕事に戻るわ」
    「あ、はい」
     3世はそそくさと立ち上がり、また頭巾を頭に巻き始めた。
    「『トランスワード:リプライ』。はいよ、ゴールドマンや。……あのな、あのとかそのとかいらんから、ちゃっちゃと用件言うてや。……うん、うん、……あーはいはいはい、それか。ほんならな……」
     話しながら、3世はどこかに歩き去って行く。彼の付き人たちも、それに追従してぞろぞろと移動していった。
    (やっぱり僕なんかとは、生きてる世界が違うんだなぁ。それとも、彼が相当の変わり者なのか)
     長椅子に座ったままでその後姿を見送りつつ、ペドロはため息をついた。
    (そう言えばゴールドマン家は、エリザを開祖とする一族だったっけ。エリザも相当な変わり者だったらしいけど、……ああ言う性格は血筋なのかな? 何しろエリザは、悪口を言われても笑って返したって話だし。『大卿行北記』第3章で、ゼロ帝から密かに誹(そし)られていることをハンニバルから伝えられたエリザが『悪口は手立ての一切を失った者の、最後の悪あがきだ』と笑って返した、と。
     多分3世も、その逸話を引用したんだろう。彼は彼で敬虔なんだろうな、……多分)

    央中神学事始 7

    2021.02.21.[Edit]
    ペドロの話、第7話。神話の血筋。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -7. ニコル3世は確かに、多忙の人であるらしかった。「……うん、ほんなら500万で事足りるやろ、送金するわ。……ほんでな、南海のアレやけど……さよか、それやったらロクミンさんとこに一筆書いたら十分やな。……ホンマかいな、ほな私の方から先方さんに連絡しとくから……」 3世の本拠地、ゴールドコースト市国に戻る船の上でも、彼はずっと魔術頭巾を頭...

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    ペドロの話、第8話。
    恩師との再会。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    8.
     央中、ゴールドコースト市国に着いたペドロを待っていたのは、かつての恩師だった。
    「お久しぶりです、ラウバッハ君」
    「え? ……あっ、もしかして!?」
     驚くペドロに、その老いた狐獣人はにこりと微笑む。
    「ええ、私です」
    「お久しぶりです、マルティーノ先生。……あっ、じゃあ3世が仰っていた『神学に詳しい情報筋』って」
    「そう言うこっちゃ」
     3世もニコニコしながら、経緯を説明してくれた。



     ペドロは元々、央北の小さな農村の生まれであったが、幼い頃から非凡な才能を現していた彼に大成の機会を与えるべく、両親は彼を学校のある大きな街へ住まわせた。そこで出会ったのが、このヘイゼス・マルティーノ師だった。
     彼は歴史学者であり、厳密には神学の徒ではなかったが、それでも4世紀の双月世界において「歴史」とは、即ち「宗教史」である。少なからず神学にも通暁していたマルティーノ師は、神学者を志したペドロに手厚い指導・鞭撻を施し、のみならず、神学府への仕官の道まで手配してくれた。ペドロにとっては、他ならぬ恩師である。だがペドロが投獄された後、彼の研究内容を徹底的に隠蔽・抹消しようと天帝教教会が画策していること、彼の関係者や知人が次々狙われていることを人づてに聞いたマルティーノ師は、息子一家を伴って央中へと逃れた。
     央中へ移ったマルティーノ師は、この地でも己の研究を続けるべく、央中の実力者・名家を頼ろうとした。央中の名家と言えばゴールドマン家とネール家が双璧であるが、折り悪く双月暦306年のこの時、両家は熾烈な争いを繰り広げている最中であり、どちらに付くこともできなかった。そこでマルティーノ師は両家よりいくらか格が落ちるものの、中央政府から「大公」の爵位を賜っており、名目的には央中における天帝の名代である第三の名家、バイエル家を訪ねた。
     結果的にこれは、マルティーノ師にしばしの平穏をもたらした。前述の通りバイエル家はゴールドマン家、ネール家に比べて何かと格下に見られる存在である。何かの形で隆興しようと常に図っていた同家は、歴史学の分野において高名なマルティーノ師を破格の待遇で召し抱え、研究を続けさせたのである。

     ところがこの安息も、310年代のはじめ頃に崩れた。この頃から央中では深刻な不景気、いわゆる恐慌が発生しており、バイエル家もこの不況の波に呑まれてしまったのである。とても不急の事業に予算を割り当てられるような状況ではなくなってしまい、当然、マルティーノ師も解雇されてしまった。それでもいつかもう一度召し抱えられることを願いつつ、数年分の蓄えと息子の収入でどうにか細々と研究を続けていたマルティーノ師だったが、ついに315年、彼の人生最大の好機が訪れた。

     この2年前、ニコル3世は前金火狐商会総帥を追い出し、ネール家息女との結婚によって両家の和平を実現させ、新たな総帥となっていた。そして総帥としての事業の第一歩として、ゴールドコーストにて金火狐財団を創設し、大商人としての基盤を確立した。
     己の地盤を固めた3世は、続いて央中恐慌からの脱出、そして央中全域を中央政府から独立させるべく、十重二十重の工作を仕掛けた。その一環として大公位を譲り受けるべく、彼はバイエル家を訪ね、ここでマルティーノ師と出会ったのである。
     既にこの頃から央中天帝教の興隆を考えていた3世は、マルティーノ師を聖書編纂事業の主筆、最高責任者として招こうとしたが、マルティーノ師はこう答えて辞去した。
    「聖書を一から作るとなれば、5年、10年で終わるような仕事にはならないでしょう。自分は既に高齢で、事業の完遂まで生きながらえることができるとは思えません。もっと若い人間を主筆に据えるべきでしょう。
     そもそも私は歴史学者であり、神学者ではありません。である以上、私が書く書物が『聖書』として扱われることは無いでしょう。聖書をお作りになりたいのであれば、本職の神学者に依頼されるべきではないでしょうか」
     そしてさらに、「仮に央北天帝教の神学府へご依頼なさったとしても、央中天帝教の聖書を作るなどと言う話に、快く手を貸すはずがありません。依頼するとすれば、神学府と関わりの無い人間でなければならないでしょう」と付け加えた上で、ペドロの話を伝えたのである。



    「……と、そこまではまだええとしても」
     3世は肩をすくめ、ペドロに目を向けた。
    「あんたが釈放されてからの足取りを追うんは、ホンマに苦労しましたで。雲隠れしたんちゃうかと思うくらい、どこに行ってしもたんか全然分かりませんでしたからな。ほんでもこうしてここまで連れて来たわけですし、これからは張り切って仕事してもらいますで」
    「は……はい」
     この時、ペドロはそこはかとなく嫌な予感を覚えはしたものの――自分を主筆に据えての新たな聖書編纂事業と言う、己のすべてを懸けるに値する未曾有の大仕事を目の前にしては、その予感に目をつむらざるを得なかった。

    央中神学事始 8

    2021.02.22.[Edit]
    ペドロの話、第8話。恩師との再会。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -8. 央中、ゴールドコースト市国に着いたペドロを待っていたのは、かつての恩師だった。「お久しぶりです、ラウバッハ君」「え? ……あっ、もしかして!?」 驚くペドロに、その老いた狐獣人はにこりと微笑む。「ええ、私です」「お久しぶりです、マルティーノ先生。……あっ、じゃあ3世が仰っていた『神学に詳しい情報筋』って」「そう言うこっちゃ」...

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    ペドロの話、第9話。
    聖書の誕生と正教会の成立。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    9.
     聖書編纂事業の第一歩は、金火狐一族の人間らがそれぞれ所有していた古書を蒐集(しゅうしゅう)し、比較検討することから始まった。
     エリザは金火狐一族の開祖であり、双月暦1世紀を代表する偉人中の偉人、まさに「女神」である。彼女を記し、崇め、そして称える書物には事欠かなかったが、客観的かつ現実的に、彼女を一人の人間として分析している資料となると、ほぼ皆無に等しかった。それでも天才神学者ペドロと、老練の歴史学者マルティーノ師をはじめとする優秀な編纂チームが綿密に比較検討と考察を重ね、粉飾だらけの書物の山から、どうにかひとしずくの真実を絞り出すことに成功した。
     そして編纂事業を始めてから10年近くもの歳月が経過した327年、ようやくペドロたちは第1冊目となる央中天帝教の聖書、「央中平定記」を刊行したのである。

     この頃既に、ペドロは37歳となっていた。仕事漬けの日々のせいか、それとも生来の気質のせいか、未だに独身であったが、編纂チームの主筆としてリーダーシップを発揮し続けてきたこともあり、年相応の貫禄を身に着けてはいた。
     そのこともあって、「央中平定記」が刊行されてまもなく、ペドロは3世から新たな地位を打診された。
    「きょ、教主ですって? 私が?」
    「あんた以外おらんやろ」
     この10年間の間にさらに己が力を強め、誰一人逆らえぬほどの権勢を誇るようになった3世は、執務室の椅子にふんぞり返ったままで、ぴしゃりと言い切った。
    「央中天帝教の聖書について最も詳しく、最も研究しとるんは、間違い無くあんたや。そのあんたがやらな、誰がやるっちゅうんや」
    「3世、あなたの方が……」
     その提案に、3世はぺらぺらと手を振って返した。
    「そんなヒマも徳もあらへんからな。私がでけるんはカネ出して後ろ楯になることくらいや。ともかく、あんたが今日から『央中正教会』の教主、最高責任者や」
    「しかし……」
     口ごもるペドロをさえぎるように、3世は短く、しかし誰にも逆らえぬ語調で、こう続けた。
    「それで、ええな?」
    「……承知しました」



     こうして3世の強引な指名により、ペドロは央中天帝教を取りまとめる宗教組織、央中正教会の教主に任ぜられた。正教会は金火狐財団の管轄下にあり、依然としてペドロが3世の下に属する事実は変わりなかったが、それでも一組織の長である。ペドロには並々ならぬ信頼と敬意が向けられた。
     だが、それでもペドロは不満を抱いていた。それは地位に対してでも、3世に従属している境遇に対してでもなく、ひたすら己の仕事――聖書編纂に対してであった。
    「不足、……と考えているのですか?」
     すっかり髪も毛並みも真っ白になり、杖無しでは歩けぬほど老いさばらえたマルティーノ師に尋ねられ、ペドロは深くうなずいた。
    「ええ。エリザがゼロから姓を賜ってから、央中随一の権力者となるまでの経緯は、我々に可能な限りまとめ上げることができたと考えています。しかし逆に言えば、それだけなのです」
    「つまりラウバッハ君、君はそれ以前と以後の記録を集め、新たな聖書を作りたいと、そう考えているのですね」
    「その通りです」
    「ふーむ……」
     マルティーノ師は杖をいじりながら、思案にふける様子を見せる。
    「しかしそれ以前の記録、即ちエリザが『旅の賢者』モールに師事した頃については、全くと言っていいほど資料が存在しません。10年をかけてあれだけ探し回ったのです、その上で新たな資料を探ろうにも、見つけることはまず不可能でしょう。
     ですが一方で、エリザが央中の権力者となった後、中央政府との取引を本格化して以降についてであれば、恐らく央北を訪ねてみれば、多少なりとも集められるでしょう」
    「その点は私も考えていました。10年前であれば3世の力を以てしてもまだ、央北に強く働きかけることは難しかったでしょう。しかし世界全域に影響力を持つ立場となった今なら、例え央北天帝教であっても、3世の要請を断ることは、容易にできないはずです」
    「なるほど。……ラウバッハ君」
     マルティーノ師は笑みを浮かべながらも、しかし、どこかに毅然としたものをにじませる目で、ペドロにこう言った。
    「君は今や央中正教会の教主となり、央中天帝教を代表する立場にあります。である以上、央中天帝教を優位視する気持ちがあるのは、仕方の無いことです。そもそも、それ自体は咎められるようなことではありません。己の心の内は、誰にも侵されざるべき領域なのですから。
     ですが一方で、相手の内心には相手の信じるものが確固として存在することもまた事実であり、そしてそれは、誰にも咎め得ぬこと。それを侵すことは誰にも許されない、恥ずべき行いです。
     どうかそれを、忘れないようにして下さい」
    「……そうですね。銘肝します」

    央中神学事始 9

    2021.02.23.[Edit]
    ペドロの話、第9話。聖書の誕生と正教会の成立。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -9. 聖書編纂事業の第一歩は、金火狐一族の人間らがそれぞれ所有していた古書を蒐集(しゅうしゅう)し、比較検討することから始まった。 エリザは金火狐一族の開祖であり、双月暦1世紀を代表する偉人中の偉人、まさに「女神」である。彼女を記し、崇め、そして称える書物には事欠かなかったが、客観的かつ現実的に、彼女を一人の人間と...

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    ペドロの話、第10話。
    暴君の如く。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    10.
     ペドロは3世に要請し、彼を伴って古巣の神学府を訪ねた。
    「ようこそゴールドマン卿、そしてラウバッハ卿」
     一見、にこやかに応じているようではあったが、ペドロは相手が複雑な思いを抱いて自分たちに接していることを察していた。
    「どうも、サラテガ枢機卿。お忙しい中、お手数おかけしますで」
     一方の3世は、言葉こそやんわりとしたものではあったが、その態度からは明らかに、相手を軽んじている気配がにじみ出ていた。その態度をたしなめる様子も無く、サラテガ卿はすっと頭を下げ、笑顔を作って応じてきた。
    「お気遣い、痛み入ります。本日のご用件について確認させていただきますが、我々の書庫を確認いたしたいとのお話でしたか」
    「ええ。央中天帝教の聖書編纂には、あなた方の持っとる資料が不可欠ですからな」
     ピク、とサラテガ卿の目尻が動いたが、3世に動じた様子は無い。
    「さようでございますか。私個人といたしましては、探求心のある方を応援することはやぶさかではございません。しかしですな、原則的に神学府の書庫は、一般開放を行ってはおりません。ですので私の一存では、すぐにはお返事がいたしかね……」
     と、サラテガ卿の返答をさえぎるように、3世はがしゃ、がしゃんと金袋を机に置いた。
    「本日中に色良いお返事がいただけるようでしたら、こちらを今すぐ寄進いたします。また、書庫の使用期間中は使用料をお支払いいたします。どうぞ、よろしくご検討なさって下さい」
    「……っ」
     金袋を見た瞬間のサラテガ卿の顔色を見て、ペドロも顔をひきつらせた。
    「3世、あの……」
     ペドロは思わず声を上げていたが、3世は彼をにらみつけて黙らせる。
    「今は私が話してんねん。君は大人しく座っとき」
    「……」
     それ以上何も言えず、ペドロは口をつぐむ。と、その間にサラテガ卿は人を呼び、二言、三言耳打ちした。
    「少々お待ち下さい。管理責任者を呼んでおります」
    「そうでっか」
     3世は机に出された紅茶をぐい、と一息に飲み、金袋をつかんだ。
    「ほんで、お次はなんです? その管理者さんが鍵番さん呼ばはるんですか? ほんで鍵番さんが『ちょうど今、鍵貸しとるとこなんですわ』とか言うて、その人探し回って2日、3日待って下さい言うて、ほんでそれっぽい人仕立ててその人に『鍵無くしましたわー』言わせて、いやーこれやと開けられませんなー、鍵作るんでもう1ヶ月待って下さーい、……ってとこですか。ずいぶん気ぃ長いことで」
    「えっ!? い、いや、私はそんな……」
    「あんたはやらんでも、他の誰かがいらん気ぃ利かしてやらはるかも知れませんな。ええですか、私は単純明快に話を進める方が好きですし、ありがたいんですわ。ヒマやありまへんからな。次々人呼んで人呼んであれやこれやグダグダグダグダしょうもない工作やらはるより、サラテガ枢機卿、あなたが今ここでスパっと動いてもろてええですか? それがでけへんっちゅうんやったら話はここまでです。当然お金は払いませんし、このまま帰らせてもらいます。
     ほなお茶、ごちそうさんでした。ラウバッハ卿、失礼しましょか」
     金袋をしまい込み、そそくさと席を立とうとしたところで、サラテガ卿は血相を変えた。
    「おっ、お待ち下さい! お待ち下さい! 分かりました! ご、ご案内いたします!」
    「そらどうも。ちゃっちゃとやって下さい」
     慌てて立ち上がり、僧衣の裾を持ち上げて、自ら応接室の扉を開け頭を垂れたサラテガ卿にぺら、と手を振って続いた3世に対し、ペドロはまだ、椅子から立ち上がれずにいた。
    「何をボーッとしてんねや。行くで」
     そのペドロに対しても、3世は横柄に声をかけ、動くよう促した。

     神学府への滞在中、3世は始終こんな調子で、我が物顔に振る舞っていた。当然、神学府の人間からは蛇蝎のごとく嫌われたが――。
    「滑稽やな」
     3世はそれを、鼻で笑っていた。
    「そんなに私が嫌やったら、さっさと追い出したったらええねん。それがでけへんのんは、私のカネが目当てやからや。まったく、『聖職者』が聞いて呆れるっちゅうもんや。なあ、ペドロ君?」
    「……」
     ペドロはマルティーノ師からの言葉を思い出し、3世をいさめようかとも考えたが、結局それはできなかった。それをすれば自分も3世からの制裁を受け、聖書編纂事業から外されてしまうおそれがあったからだ。
     この時代――誰も彼も3世に逆らうことはおろか、意見することすらもできなかった。

    央中神学事始 10

    2021.02.24.[Edit]
    ペドロの話、第10話。暴君の如く。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -10. ペドロは3世に要請し、彼を伴って古巣の神学府を訪ねた。「ようこそゴールドマン卿、そしてラウバッハ卿」 一見、にこやかに応じているようではあったが、ペドロは相手が複雑な思いを抱いて自分たちに接していることを察していた。「どうも、サラテガ枢機卿。お忙しい中、お手数おかけしますで」 一方の3世は、言葉こそやんわりとしたもので...

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    ペドロの話、第11話。
    異教の聖人、信愛を説く。

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    11.
     克大火によって天帝教教会は、世界の中枢であるクロスセントラルから、辺境の港町マーソルへと放逐された。当然、神学府も追従する形となったのだが、その蔵書を移動させるだけでも、大変な苦労と出費を強いられた。
     前体制下――天帝教が中央政府の中核に位置し、存分に税を吸い上げていた頃であれば、資金面の問題など取るに足らぬ話であっただろうが、巨大な資金源から切り離された今となっては、それは重くのしかかってくる苦難に他ならなかった。彼らはこの十数年にわたって、新たな書籍も上梓できないばかりか、前述の蔵書に関しても、まともに管理できるはずもなく、クロスセントラルにまだ相当数の書籍が残されているような有様だった。
     それだけにニコル3世からの報酬は、のどから手が出るほど欲しかったのである。であるからこそ彼らは、3世の傍若無人な振る舞いに嫌な顔一つ見せず、粛々と従っていた。

     しかし当然ながら、陰ではしきりに憤慨し、彼に対する呪詛が吐き散らされていた。
    「今日も嫌味を言われたよ。『本の手入れはよおでけても、人には茶ぁ出す気遣いもでけませんねんな。随分しつけのおよろしいことで』だと」
    「まったく嫌な奴だ」
    「カネを出す話が無ければ、即刻叩き出してやるものを!」
    「……そこが問題だ。奴にはカネがあって、我々には無い。である以上、従うしか無い」
    「くそっ……」
     と、ペドロが偶然、そこへ通りかかる。
    「あ……」
     この時は3世が居はしなかったものの、彼らは顔をこわばらせ、一斉に頭を下げる。
    「申し訳ございません、ラウバッハ猊下」
    「あっ、いえ、そんな、とんでもないです!」
     元より腰の低いペドロも深々と低頭し、こう返した。
    「皆様には常ならぬご苦労をおかけしてしまい、大変申し訳無く存じます。どうか、せめて、私などには気兼ねなどなさらず、共に真理を追究する者として、対等の立場で接して下さい」
    「い、いや、しかし」
     まだわだかまった顔をしている彼らに、ペドロはもう一度頭を下げ、続けてこう述べた。
    「私は元々、神学府に拾われた身です。諸々の事情により追放されはしましたが、それでも私はあなた方に、並々ならぬ感謝の意を抱いています。そんな大恩ある方々にきゅうくつな思いをさせては、私は神に誹られるでしょう。かつて我が主であったゼロ・タイムズからも、そして新たに私を迎えて下さったエリザ・ゴールドマンにも」
    「……ラウバッハ猊下、お尋ねいたします」
     一人が、恐る恐る手を挙げる。
    「あなたの神は、一体どちらなのですか?」
    「それは、どちらをのみ信仰すべきと考えているのか、と仰りたいのでしょうか」
     尋ね返した上で、ペドロは落ち着いた声で答えた。
    「ゼロとエリザ、どちらか一方を信じた者は、もう一方への信仰を捨てなければならないものなのでしょうか? 私は違うと考えています。『北港奪還記』第5章において、ゼロはエリザに対し不信感を抱いていた節の発言を連ねていましたし、『大卿行北記』の端々においても、二人の間に確執があったことが語られています。しかし結局のところ、二人の関係が破綻をきたし、争ったとされることばは、全ての聖書のどこにも記されていません。である以上、ゼロを信じた者がエリザを疎む必要は無く、エリザを信じた者がゼロを軽んじる理由もまた、無いのです。
     故に私は、二柱の神のどちらをも信じ、どちらをも愛していると、はっきりと答えます」
    「ですが、3世は明らかに我々を、天帝教を軽んじ、嘲っています。なのにあなたは、違うと答えるのですか?」
     そう反論する者にも、ペドロは理知的に回答した。
    「ええ。重ねてお答えしますが、神を、そして人の信仰を侮辱すべき正当な理由など、この世にありはしません。『北港奪還記』第7章第2節第2項にもこうあります。ハンニバルは部下に説いた、己が常識を世界の常識と錯覚するなかれ、……と。3世にはまだ、神のおことばが真には理解できておらず、己の狭い了見で物事を判断してしまっている。たった今あなた方が尋ねたように、一方の神のみを信じるべし、もう一方を憎むべしと考えてしまっているのです」
    「あ……!」
     ペドロに説き伏せられ、彼らは目を見開く。
    「ですから、どうか神学の徒、有識の人であるあなた方には、より広く、より深く、そしてより明るく、神とそのおことばに、真摯に向き合っていただきたく存じます」
    「……仰る通りです。感服しました」
    「蒙が啓けた心地です」
    「ありがとうございます、ラウバッハ猊下」
     その場にいた者たちは、揃ってペドロに頭を下げた。



     ペドロの謙虚かつ、神学に対してどこまでも真剣な態度は――3世の態度があまりにも剣呑だったこともあいまって――神学府の者たちを心服させた。
     また、ペドロは「聖書編纂にはすべての蔵書を勘案しなければならない」と3世を説得して資金と人員を捻出させ、まだクロスセントラルに放置されたままだった書物と資料をすべて、マーソルへと移動させた。これにより神学府からは絶大な感謝と信頼を寄せられ、ペドロは神学府、そして天帝教教会でも再び、一目置かれる存在となった。

     そしてペドロの所期の目的であった新たな聖書編纂も330年、神学府の助力を得て完成にこぎつけた。この時まとめられた書は「二神交易記」と名付けられ、第2の聖書として公表された。こちらも「央中平定記」同様、並々ならぬ人気を博し、央中天帝教の者たちから絶大な支持を得た。

    央中神学事始 11

    2021.02.25.[Edit]
    ペドロの話、第11話。異教の聖人、信愛を説く。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -11. 克大火によって天帝教教会は、世界の中枢であるクロスセントラルから、辺境の港町マーソルへと放逐された。当然、神学府も追従する形となったのだが、その蔵書を移動させるだけでも、大変な苦労と出費を強いられた。 前体制下――天帝教が中央政府の中核に位置し、存分に税を吸い上げていた頃であれば、資金面の問題など取るに足らぬ...

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    ペドロの話、第12話。
    3世の罠。

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    12.
     2冊目の聖書が刊行され、央中天帝教の支持者、信奉者が増加するに伴い、その教主であるペドロに対する信用と信頼は、右肩上がりに増していった。
     こうなってくると――実に勝手なことに――3世は一転、ペドロの存在を疎み始めた。

    「独立……ですか?」
     331年、ペドロは3世の屋敷に呼び出され、彼から央中正教会を金火狐財団の一部門から、完全に独立した組織に改編してはどうかと打診された。
    「せや。何やかんや言うても、央中正教会もこの10年で相当大きくなったからな。もう十分、寄進でやりくりでける状況になっとるはずや。このまんま私がカネ出しっぱの状態も、君にはきゅうくつやろからな。君も私からやいやい言われて聖書書くより、自分の思うままにやってみたいやろ?」
    「いや……しかし……今まで3世が私の編纂事業に口を出されたことはございませんよね?」
    「ま、ま、今まではな。ほんでも歳食ってくるとな、色々いらん口出したくなるもんやねん。下手したら今まで書いてきたヤツまでケチ付けたなるかも分からん。そこできっちり財団から離れて、独立性を保てるようにした方がええんとちゃうやろか、と」
    「はあ」
     元来人の良いペドロは、3世の本心・本意に気付くことも無く、その提案を受け入れた。

     しかしこの提案がかえって正教会の独立性を損ね、より一層、3世による支配を強める結果となってしまった。
    「寄進で正教会の運営をまかなえる」として独立を果たしたものの、実際はそこまでの収入は得られなかった。と言うよりも獲得できる収入に対し、支出が大きすぎたのだ。即ち、財団から資金を与えられていた頃と同様の、大々的な活動を行ったために、あっと言うまに赤字経営に陥ってしまったのである。
     まもなく債務超過となり、1冊目の聖書を上梓した際にペドロが得た報酬10億クラムを投じてもなお足りず、事実上破綻した正教会が頼れるのは、3世を置いて他に無かった。だが3世は「あんたらがでける言うて独立したんやろ? 自分で何とかせえや」と冷たくあしらい、それでもなおすがってきた彼らに、「情け」と称して多額のカネを貸し付け、同時に金火狐商会の銀行・金融部門から、会計監査員・財務指導員を大量に出向させた。
     これにより正教会は莫大な負債で縛られ、完全に3世の言いなり、傀儡の存在となってしまった。その上で3世は正教会をそそのかして、この負債の原因が教主ペドロの資金濫用にあると糾弾させて、ペドロを教主の座から追い出してしまったのである。



     ふたたび野に下ることとなったペドロではあったが、それでも20年前のように、誰一人手を差し伸べる者の無い、不遇の中に落ちるようなことにはならなかった。関係修復を果たした神学府から招かれたのである。
     流石に異教徒となったペドロを正規雇用することは難しかったが、それを差し引いても、彼の見識と神学研究に対する姿勢は神学府の規範、鑑とするにふさわしかったことから、ペドロは客員教授として在籍することとなった。また、ペドロの恩師であるマルティーノ師も、同様の待遇で招聘されたのだが――。
    「どうしても、来てはいただけませんか……?」
    「ええ。山や海を渡るには、最早歳を取りすぎました。この老体では残念ながら、央北へ行くことはできないでしょう」
     マルティーノ師は市国に残ることを選び、ペドロに別れを告げた。その代わり――。
    「孫のロレーナを連れて行って下さい。私の欲目を差し引いても、優秀な娘です。きっと君の助けとなってくれるでしょう。彼女もこのまま市国に住み、3世の意向に沿うような研究をさせられるよりは、君の下に付いて真理を追求する道を選びたいと言っていましたから」
    「分かりました」
     こうしてペドロはマルティーノ師の孫娘、ロレーナを伴い、央北へと戻った。

     マルティーノ師は、未だ独身のペドロに娶(めあわ)せるつもりでロレーナを随行させた節があり、また、ロレーナの方も――20歳以上の年の差はあったものの――ペドロを敬愛しており、二人は央北に渡って2年後、結婚することとなった。

    央中神学事始 12

    2021.02.26.[Edit]
    ペドロの話、第12話。3世の罠。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -12. 2冊目の聖書が刊行され、央中天帝教の支持者、信奉者が増加するに伴い、その教主であるペドロに対する信用と信頼は、右肩上がりに増していった。 こうなってくると――実に勝手なことに――3世は一転、ペドロの存在を疎み始めた。「独立……ですか?」 331年、ペドロは3世の屋敷に呼び出され、彼から央中正教会を金火狐財団の一部門から、完全に独...

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    ペドロの話、第13話。
    聖書をめぐる騒動。

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    13.
     神学府に出戻って以降も、ペドロは央中天帝教の聖書編纂を続けていた。正教会を追い出された身であるため、例え聖書が完成したとしても、それは外典扱い、まともな書物として扱ってもらえないのは明らかであったが、それでも彼は没頭していた。神学者、聖職者として以前に、彼自身がエリザと言う存在に惹かれていたからである。
     そして妻ロレーナや、異教であるはずの神学府からも厚い協力を得て336年、ペドロは3冊目となる聖書、「北方見聞記」を上梓した。これはエリザが二天戦争に従軍した頃の記録を元にしたものであり、単に生活の規範となる聖書としてだけではなく、英雄譚、戦記としての面白さも併せ持っていた。
     神学府から刊行されたこの本は央北、央中を問わず人気を博し、神学府にとっては空前の収益を記録し、ペドロは大いに感謝された。一方で央中正教会の人間も、これ以上聖書となる書物が製作されることは無いだろうと諦めていたところへの、この発刊である。3世の手前、この書物を大っぴらに持てはやすことはできなかったが、それでも密かに誰もが所有し、着実に広まっていた。

     勿論、この状況でただ一人、業を煮やしたのは3世である。放逐したはずのペドロが、この期に及んでまだ聖書を書いていたこと、そしてその聖書が新たな人気を博したこと、さらには徹底的に評判を貶めたはずのペドロが再評価されてしまったことに、3世は憤慨した。
     そして翌年の337年、3世は実力行使に出た。「『北方見聞記』は正教会を追い出された破戒僧が正当な権利無く製作した、正教会を貶める書物である」と、正教会に主張させたのである。さらにはこの書物で得た利益に対しても、ペドロ及び天帝教教会に受け取る権利は無いとし、それまで得た収益全額と、その20倍に相当する巨額の賠償金、さらにペドロの逮捕・処刑までをも請求させた。
     当然、こんな法外な額を天帝教教会が支払えるはずも無く、ましてや当代最高の神学者、聖書編纂の第一人者であるペドロに罰を与えてよしとするはずも無い。天帝教教会側はこれらの無法な請求が正教会の主張とは到底考えられない、3世の利己的な要求でしかないとして、断固反対した。
     これを受けて3世は、主張が自分自身のものであると悪びれる様子も無く認めた上で、この要求が通るまで央北天帝教信者、及び央北天帝教に通じる商会・商店との取引と融資をすべて停止すると答えた。当然、こんなことをされては天帝教教会の収入は激減してしまう。慌てた天帝教教会は神学府に、ペドロを引き渡すよう命令したが――。
    「そんなことはできるはずもございません」
     神学府のトップ、サラテガ枢機卿はその要求をきっぱり跳ね除けた。
    「考えてもみて下さい。その要求を呑むことは即ち、我々が央中天帝教の、いや、ゴールドマンの言いなりになったと、世界中から認識されると言うことです。もし要求を呑めば、以後、我々がどれほど努力を重ねたとしても、決して人々は、天帝教を神聖なもの、規範とすべきものとは見なさないでしょう。あの悪逆非道の『狐』に、いや、カネの力に屈した、単なる拝金主義者の集団として嘲られ、軽んじられる日々が待つのみです」
     この主張ももっともなものであり、天帝教教会も考えを改め、3世の要求を再度退けた。だが一方、3世が温情など見せるはずも無く、彼は宣言通りに経済制裁を実行した。



     以後、340年までの3年間、央北の経済は大幅に冷え込むこととなったが――それでも天帝教教会も、神学府も、そしてペドロも屈服することは無かった。
     そしてその内に、2つの転機が訪れることとなった。

    央中神学事始 13

    2021.02.27.[Edit]
    ペドロの話、第13話。聖書をめぐる騒動。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -13. 神学府に出戻って以降も、ペドロは央中天帝教の聖書編纂を続けていた。正教会を追い出された身であるため、例え聖書が完成したとしても、それは外典扱い、まともな書物として扱ってもらえないのは明らかであったが、それでも彼は没頭していた。神学者、聖職者として以前に、彼自身がエリザと言う存在に惹かれていたからである。 そして妻...

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    ペドロの話、第14話。
    正教会の内乱と、新たな宗教の台頭。

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    14.
     339年、ペドロに対し苛烈な要求を突きつけ、央北天帝教に対して歪んだ制裁を続ける3世を諌めるべく、マルティーノ師は最期の力を振り絞って抗議行動に出た。
    「あなた方がこうして人々の模範、標(しるべ)となれたのは誰のおかげですか? 他ならぬラウバッハ君の功績によるものでしょう? その恩を忘れたのですか? あなた方が聞くべきは神のおことば、エリザ・ゴールドマンのおことばではないのですか? 決してニコル・フォコ・ゴールドマンのおことばでは無いはずです。
     彼女はこう言ったはずです。『我々は戦うべからず。戦う者らがいればその仲立ちをし、互いに矛を収めさせよ』と。しかるに今、ニコル3世が行っていることは一体何ですか? 自ら戦いを仕掛け、世間が燃える様をニタニタと笑いながら眺めているのです。もしエリザがこの街に降臨されれば、必ずやニコル3世のほおを叩き、叱りつけるでしょう。『アンタなにアホなコトしよるんや』と」
     マルティーノ師は央中正教会の人々を集めてこう叱咤し、3世にこれ以上付き従わぬよう皆を説得した。そしてその翌日――激怒した3世が彼の拘束に動く前に、マルティーノ師はこの世を去った。
     マルティーノ師の、命を懸けたこの行動と説得の言葉に心動かされぬ者はおらず、これ以降、央中正教会の一部で、3世への抗議集会を繰り返す者が続出した。3世も過敏に反応し、市国の警察権力である公安局を操り集会を襲わせたが、それも却って市民に、3世への反感を強めさせる結果となった。

     加えて翌340年、央中天帝教を根底から揺るがす出来事が起こった。
     ゴールドコースト市国からほど近いカーテンロック山脈にて、あの克大火を現人神として信奉する者たちが、新たに宗教を拓いたのである。彼らは「黒炎教団」と呼ばれ、わずかずつではあるが、しかし確実に、信者数を増やしていた。当然、市国にもその波が押し寄せ、3世の言いなりとなっていた央中正教会を見限り、改宗する者も現れ始めた。
     これは央中正教会にとって、致命的とも言える状況であった。黒炎教団の信者数が増加すれば、本拠地が侵されることになる。団結し、彼らを追い出さなければ、逆に自分たちが逐われる羽目になりかねない。
     そして3世本人にとっても、これは危機に他ならなかった。自分の息がかかった人間ばかりであれば、いくら反感を抱かれようと危害が及ぶ可能性は少ないが、自分の力が及ばぬ人間ばかりが集まれば、いつ何時、襲撃を受けてもおかしくない。ましてや30年前に、3世が「大交渉」の場で克大火を下した事実がある。それを「3世が克大火を侮辱した」と曲解した乱暴な信者が、いわれの無い仇討ちに及ぶ可能性もある。
     何としてでも市国に、黒炎教団の勢力を招いてはならなかったのである。



     市国内で高まる反発と黒炎教団の脅威――内憂外患を抱えた3世は、正教会の結束を高めるため、いともあっさりと経済制裁を解除し、ペドロへの要求を取り下げた。その上で「北方見聞記」を第3の聖書として認めた上、ペドロを央中正教会に引き戻し、教主に復位させることを提案した。
     この厚顔無恥な対応に、市国の市民たちも央中正教会も、そして神学府も呆れ返ったが、ただ一人、ペドロは柔和に応じた。
    「経緯がどうあれ、私の書物が聖書として認められることは、大変な名誉です。提案を全面的に受け入れます。
     ただし、教主への復位は丁重にお断りしたします。3世と私の距離が再び近づけば、またこのような騒ぎが起こるかも知れませんから」
     ペドロは央中正教会に戻ってからも、特別研究員として引き続き、聖書の編纂に当たることとなった。

    央中神学事始 14

    2021.02.28.[Edit]
    ペドロの話、第14話。正教会の内乱と、新たな宗教の台頭。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -14. 339年、ペドロに対し苛烈な要求を突きつけ、央北天帝教に対して歪んだ制裁を続ける3世を諌めるべく、マルティーノ師は最期の力を振り絞って抗議行動に出た。「あなた方がこうして人々の模範、標(しるべ)となれたのは誰のおかげですか? 他ならぬラウバッハ君の功績によるものでしょう? その恩を忘れたのですか?...

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    ペドロの話、第15話。
    北の邦での研究。

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    15.
     央北滞在中に2人の子供に恵まれ、4人家族となっていたペドロ一家は、10年ぶりに央中へと戻って来た。だが、やはり10年前と変わらず、3世はペドロを疎んじていたようだった。戻ってまもなく、3世がこんな提案を持ちかけて来たからである。
    「北方へ……?」
    「せや。ほれ、あの……、『北方見聞記』やったかなんか、君、出したやんか? まあ、あれはあれで問題は無いとは思うねん、思うねんけどもな、何ちゅうか、まあ、もうちょっと、ええ感じにでけるんちゃうかなって」
    「はあ」
     3世が言うには、北方ジーン王国の知り合いが多数の蔵書を有しており、それを調べれば聖書の内容を拡充できるのではないかとのことだったが、この提案は明らかに、ペドロを央中から遠ざけさせようとする意思が見て取れた。
     だが、ペドロはその提案に、素直に従った。
    「承知しました。ではお言葉に従い、北方を訪ねることといたします」
     ペドロ自身、「北方見聞記」に不足した部分を感じていたし、二天戦争が行われた地に向かえば、より精細な描写ができることは確かでもある。どこまでも聖書編纂を第一に考えるペドロは、妻子を置いて単身、北方へ渡った。



     ペドロの評判は北方にも届いていたらしく、彼は到着するなり、王国付の文官に笑顔で出迎えられた。
    「ようこそおいで下さいました、ラウバッハ卿。私はジーン王国財務大臣補佐官の、オットー・フロトフと申します。今回、あなたのご案内を仰せつかりました。よろしくお願いいたします」
    「よろしくお願いいたします。……財務大臣のお付きの方がご案内を?」
    「ええ。ゴールドマン卿は以前、財務大臣補佐に相当する役職に就いておられた経験がございまして。その縁で、私の方に話が来た次第です」
    「さようでしたか」
    「ただ、それを抜きにしましても、あなたのおうわさはかねがね伺っております。よろしければ詳しくお話をさせていただきたいのですが……」
    「私の拙い話でよろしければ、いくらでも構いません」
     ペドロの返答に、フロトフ補佐官はぴょこんと熊耳を立てた。
    「いえいえ、とんでもない! 実は私も『北方見聞記』を拝読いたしまして……」
     こうして王国首都フェルタイルに着くまでの間に、ペドロとフロトフ補佐官はすっかり親密になった。

     フェルタイルに到着し、王国の資料庫に通されたところで、ペドロはもう一人、ある男に出くわした。
    「あなたがゴールドマン卿から紹介されたラウバッハ卿か?」
    「ええ、私がペドロ・ラウバッハで……」「自己紹介は結構。あなたに興味は無い。私はエイハブ・ナイジェル。この資料庫の管理を任されている。その内転属するつもりだがね。どこでも勝手に見て構わないが庫外への持ち出しは禁ずる。貸与もしない。閲覧は9時から18時まで。整理整頓を心がけてくれ。以上」
     半ばまくし立てるように説明し、そのナイジェル氏はどこかに立ち去ってしまった。
    「あ、あの……?」
    「ああ言う人です。悪い人では無いとは思うのですが、あまり話はされない方がよろしいかも知れません、……精神衛生上の意味で」
    「はあ……」
     戸惑いはしたが、ともかくフロトフ補佐官の言う通り、ペドロはナイジェル氏と極力接触しないよう気を付けつつ、資料を集めることにした。

     ジーン王国の資料庫はペドロにとって、非常に有益だった。質の高い資料が山のようにあり、神学府での研究だけでは不足していた情報を、十分に補完することができた。
    「しかし何故、これだけの書物がここにあるのでしょうか? いえ、不似合いと言うわけではありません。私の目からすれば、ここは神学府にも引けを取らない蔵書量です。一体誰がどのようにして、これだけの収集をなさったのか、と」
    「さあ……? 申し訳ありませんが、私もあまり学の深い方ではないので……」
     ペドロを気に入り、度々彼の元を訪ねてきていたフロトフ補佐官に聞いても、要領を得ない答えが返って来るばかりである。
    「もしかしたらナイジェルさんが詳しいのかも知れませんが、……正直に言って、あまり声をかけない方がいいでしょう。相当偏屈な人のようですから」
    「ふーむ……」
     フロトフ補佐官に止められたものの、元来好奇心旺盛な性質のペドロは、ある時ついに、ナイジェル氏に話しかけることにした。

     この何と言うことも無さそうなペドロの行動が、後に央中全土を混乱に陥れた大事件――「子息革命」のきっかけとなる。

    央中神学事始 15

    2021.03.01.[Edit]
    ペドロの話、第15話。北の邦での研究。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -15. 央北滞在中に2人の子供に恵まれ、4人家族となっていたペドロ一家は、10年ぶりに央中へと戻って来た。だが、やはり10年前と変わらず、3世はペドロを疎んじていたようだった。戻ってまもなく、3世がこんな提案を持ちかけて来たからである。「北方へ……?」「せや。ほれ、あの……、『北方見聞記』やったかなんか、君、出したやんか? ま...

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    ペドロの話、第16話。
    ナイジェル氏との邂逅。

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    16.
     率直に言えば、ナイジェル氏は己の知識をひけらかすことを快感とする類の人間だった。
    「ふむ、そこに気が付いたか。いや、確かに世界中の図書館やら資料庫やらを漁り渡るような人種でなければ、気付くはずもなかろう。確かにここは世界有数の蔵書量を誇っている。いいや、中央政府文化院や神学府など足元にも及ばんほどにだ。それには3つの理由がある」
     ペドロが資料庫について尋ねた途端、それまでのうっとうしがっていた様子はたちまち消え、ニタニタと嬉しそうに笑いながら、まくし立ててきたのである。
    「ほうほう。それは一体?」
     一方で、あらゆる知識・知恵に幅広い興味を示すペドロは、彼の――他の人間であれば辟易し、3分と経たず逃げ出すような、自慢と他者への蔑視に満ちた傲慢な内容の――話にも、真剣に耳を傾けている。
    「1つ、元よりこのジーン王国では数多の軍閥による衝突が絶えない。その中でジーン王家が優位に立つためには、より高次かつ広範な戦略理論を必要とする。あなたは知らないかも知れないが、このジーン王国には戦略研究室なる部署があり、その初代室長となったのはあの『千里眼鏡』ファスタ卿なのだ。彼は戦略を何より重要視しており、ここの蔵書の戦略に関する書物は、ほとんど彼が室長時代に集めた、あるいは自ら執筆したものなのだ」
    「さようでしたか。ええ、確かに『二天戦争における人心掌握策実例集』などにも、ファスタ卿の名前が連なっておりました」
    「ほう! あなたもあれを読んだのか? うむ、あれは実に素晴らしい出来だ。エリザと言えば一般に商売やら魔術やらで語られがちだが、こと戦略においても、一線を画す実績を挙げた人間だ。その手腕が事細かに、かつ、極めて理論的に解析された書は、これ以外には無いと言っても過言ではないからな」
     そしてペドロには、彼の偉ぶった話をしっかり受け止めて適切に返せるだけの鷹揚さと、知力が備わっていた。
    「おっと……、話が逸れてしまったか。あー、と、2つ目だが、この国、と言うよりもこの北方地域は以前、ノルド王国――正確にはノルド『統一』王国と呼ばれるが――による支配がなされていたことはご存知か?」
    「ええ、存じております」
    「では統一王国成立の経緯は?」
    「統一王国初代国王ペテル・ノルドが第4代天帝の姪、メルリナ・タイムズと結託して北方全土を侵略・征服した後、双月暦76年に中央政府からの独立を宣言した、……と言う説が一般的とされているようですね」
    「そう、即ち第4代イオニス帝が姪をペテルに嫁がせたことをきっかけに勃興した統一王国をこらしめんと中央政府が巨兵を差し向けるも、北海での戦いで中央軍がまさかの敗北。その責を第3代ハビエル帝に取らせ帝位を簒奪したと、……ああ、いや、済まない。また脱線したようだな」
    「いえ、そのお話で察しが付きました。イオニス帝が簒奪計画の一環としてメルリナにクラム王国王位を貸し与えた際、まだ若かったメルリナにいわゆる『箔』を付けるべく、数多くの品を贈ったと言われておりますね」
    「おお、それもご存知とは! そう、その通りだ! その寄贈品の中に、中央政府から持ち出された書物も多数含まれているのだ。イオニス帝は暴君だ、邪智暴虐の帝だと酷評されてはいたが、文化面に対する造詣は非常に深かったと言われている。当然、贈った書物も選りすぐりのものばかりだったのだ」
    「道理で、道理で。この世に3冊しか現存していないはずの『天帝教征北記』初版をこの資料庫で見た時は、我が目を疑ったものです。さような経緯でこちらに収まっていたわけですな」
     ペドロの深い知識と話を先読みできる洞察力、そしてどこまでも穏やかに話に耳を傾ける態度に、ナイジェル氏はすっかり気を許したらしい。彼を知る他の者が見れば気味悪がりそうなほどの満面の笑顔で、より一層饒舌に語り出した。
    「それにも気付くとは! 流石と言う他無い。そちらについても話を深めたいところだが……、ともかく続きを話そう。3つ目についてだ。エリザの三大発明と言えば何か、当然ご存知だな?」
    「三大発明、……ふむ、造船技術、金属加工、そして活版印刷でしたか。ああ、つまりエリザが二天戦争に従軍していた頃、こちらで興した出版事業が……」
    「その通り! エリザが去った後も出版業は残っており、当然の結果として、数多くの書物が作られた。無論、時代の経過とともに消失してしまったものもあるだろうが、そもそもの製造点数が多い以上、現存する数も多いと言うわけだ。
     ……いやしかし、これほど話が合う方だったとは思いもよらなかった。今まで邪険にしていて、本当に勿体無いと思う」
    「ではこれから、交流を深めて参りましょう」
    「ああ、是非とも」



     これ以降、両者は親睦を深め、ついには344年、ペドロが研究を終えて帰郷する際、資料庫管理の職を辞して付いて来てしまうほど、ナイジェル氏はペドロに心酔した。ペドロも優秀な研究者が増えることを大いに喜び、以後357年まで、ナイジェル氏は央中正教会で研究に携わることとなった。

    央中神学事始 16

    2021.03.02.[Edit]
    ペドロの話、第16話。ナイジェル氏との邂逅。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -16. 率直に言えば、ナイジェル氏は己の知識をひけらかすことを快感とする類の人間だった。「ふむ、そこに気が付いたか。いや、確かに世界中の図書館やら資料庫やらを漁り渡るような人種でなければ、気付くはずもなかろう。確かにここは世界有数の蔵書量を誇っている。いいや、中央政府文化院や神学府など足元にも及ばんほどにだ。それには...

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    ペドロの話、第17話。
    斜陽の大商人。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    17.
     北方での研究の甲斐あって、「北方見聞記」改訂版は初版以上の好評を博した。そしてその主筆であるペドロも、既に教主の職を辞して10年以上経っているにもかかわらず、その評価と人気は衰えることを知らなかった。

     一方で3世の評判は、次第に陰りを濃くしていた。316年の大交渉で央中を中央政府から独立させ、大規模な再開発計画を打ち出し、央中に見果てぬ希望を与えた頃までは、彼には無限とも思える期待と羨望が寄せられていたが、再開発が終息を迎えて何年も経ち、ペドロをめぐる経済制裁で央北と、央北天帝教を必要以上に痛めつける痴態を世界中に晒して以降は、彼のことを悪し様に罵り、金火狐一族との取引を自ら打ち切る者も現れ始めていた。
     加えてこの経済制裁が、「眠れる獅子」を呼び起こしてしまった。3世、いや、正確には金火狐財団の系列商店・商会との取引・融資が完全停止した期間中、央北の人々も、そして克大火を封じ込めて議会制に移行した中央政府も、ただ手をこまねいていたわけではない。彼らなりに金火狐からの経済的自立・成長を実現させるべく、試行錯誤を繰り返していたのである。その努力は経済制裁が終息して以降も続けられており、347年のこの時には、前述の通り金火狐と手を切ってしまってもどうにかできるだけの経済圏が、央北に形成され始めていたのである。
     かつての栄光が曇り、影響力を失いつつある上、3世もこの頃齢60に達し、いよいよ己の思うままに体を動かすことも難しくなり始めていた。



     そんな斜陽の最中にあった3世が出してきた提案は、ペドロを少なからず困惑させた。
    「幼少期のエリザを?」
    「せや。そこは一番の神秘っちゅうても過言やない。逆に言うたら、そこをみんな、知りたいんとちゃうやろかと思うんよ」
    「仰ることは分かるのですが、しかし、現実的に無理な内容ではないでしょうか」
     この提案に対し、ペドロは当然、難色を示した。
    「『央中平定記』より以前の内容、即ちエリザがゼロの力を借りて故郷の怪物を掃討するより前の話は、そもそも資料自体が存在していません。口伝や詩歌すら、ネール家にほんの数曲あった程度なのです」
    「むしろその謎があるが故に、エリザの神秘性が保たれていると言っても過言では無い」
     二人の話に、この頃ペドロの右腕となり、博士と呼ばれるようになっていたナイジェルも口を挟む。
    「仮にその謎を暴いて、案外何と言うことも無い、平凡でありきたりの幼少期であったことが判明したら、神秘性が損なわれてしまうことになる。折角ここまで築き上げた『狐の女神』像を、わざわざ毀損することは無いはずだ。私はその提案を却下する」
    「お前の言うことなんか聞いてへんねん。黙っとけや」
     ナイジェル博士をにらみつけ、3世はペドロに向き直る。
    「そこの長耳がわちゃわちゃ言うてたけども、あんたは分かるやろ? 謎を謎のまんまで残しとけへんっちゅう気持ちは。それともあんたにはここが限界か? 目の前に横たわる大きな謎に、手ぇも足も出せまへんわとあきらめるんか?」
    「確かに私も研究者のはしくれです。自分の能力で明らかにできる謎があるのならば、己の命を懸けてでも解明したいとは考えております。
     しかし先程申し上げたように、そもそも元となるべき資料が無いとなれば、制作のしようがありません。それでも無理に作るとなれば、それはもう創作、根拠の無い勝手な想像で作られた『ウソ』になってしまいます。それではただの寓話、おとぎ話と同然です。決して人々の尊敬と信仰を集めるような書物にはならないでしょう」
    「ちゅうことはや」
     3世はまったく引き下がらず、こう尋ねてきた。
    「資料があれば作れるわけやな?」
    「論理的に申せばそうなります。……まさか3世、その資料をお持ちであると?」
    「いや、私は持ってへん。せやけど持ってそうなヤツは1人、心当たりがあんねん」
    「なんですって!?」
     驚くペドロに、3世はニヤっと笑みを向けた。
    「ちゅうてもな、住所不定、自称『賢者』の、めちゃめちゃ怪しいお姉ちゃんやけどもな」
    「……そうか、モール・リッチ!」
     3世から怒鳴られ、ふてくされていたナイジェル博士が顔を上げる。
    「彼は央北天帝教の聖書に、エリザの師であったと記されていた。であれば幼少期のエリザを知っていて当然と言うわけか」
    「そう言うこっちゃ」
     今度はナイジェル博士に笑いかけ、3世はさも切り札を出したと言いたげな表情を浮かべた。
    「実は私も昔、彼女に会ったことがあんねん。ちゅうても当時はまだ私もペーペーのヒヨッコで、ホンマに彼女がモール本人やとは思てへんかったけどもな。ほんでも古い付き合いがあることやし、居場所探して私が会いたい言うてると伝えたら、すぐ来てくれるはずや」
    「さ、探す?」
    「では今、彼がどこにいるか分からない、と?」
     一転、ナイジェル博士とペドロはがっかりした声を漏らす。それでも3世は、自信満々に答えた。
    「金火狐の力があったらチョイチョイや。ま、すぐ見つかるはずや。期待して待っとき」

     3世はそんな風に、軽く言い放ったものの――実際にモールが見つかるまでには、2年を要した。

    央中神学事始 17

    2021.03.03.[Edit]
    ペドロの話、第17話。斜陽の大商人。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -17. 北方での研究の甲斐あって、「北方見聞記」改訂版は初版以上の好評を博した。そしてその主筆であるペドロも、既に教主の職を辞して10年以上経っているにもかかわらず、その評価と人気は衰えることを知らなかった。 一方で3世の評判は、次第に陰りを濃くしていた。316年の大交渉で央中を中央政府から独立させ、大規模な再開発計画を打ち...

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    ペドロの話、第18話。
    最後の謎を知る者。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    18.
     モール・リッチ――央北天帝教において「三賢者」の一角と称される人物であり、「彼」は「旅の賢者」とも呼ばれている。残る二人「時の賢者」ゼロ・タイムズ、そして「幻の賢者」ホウオウ、この三人によって現代における魔術の基本理論が確立されたとされてきたが、克大火や黒炎教団の件もあって、この説は近年、疑問視され始めている。
     便宜上「彼」と呼ばれることが多く、央北天帝教の聖書「降誕記」および「天帝昇神記」においても男性として扱われているが、一方でペドロたちが集めた資料の中では女性であるかのような表現も多数見られ、性別ははっきりしていない。なお、実際に出会ったと言う3世も、女性であったと記憶しているらしい。
     その他、種族も猫獣人であったり長耳であったりとはっきりせず、当然、年齢すらも不詳の人物である。

    「つまり正体不明と」
    「結論的にはそうなるのでしょうね」
     そのモールが央北で発見されたとの知らせを受け、ペドロとナイジェル博士は再び、3世に呼び出されていた。
    「そうなると発見されたその人物が、本当に本物であるか判断が難しいと思われるのだが、3世には何か、証明できる手立てがあると?」
    「エリザが持っとった魔杖があるやろ?」
     尋ねられ、ペドロが答える。
    「ええ。『ロータステイル』ですね」
    「あれと対になった魔杖があるっちゅう話も知っとるな?」
     今度はナイジェル博士が答える。
    「確か『ナインテイル』だったな。エリザの師であったモールが所有していたと、……ふむ。その魔杖を比較照合すれば証明できるわけか」
    「そう言うこっちゃ。ほんで、既に照合も終わっとる。『ロータステイル』はウチの家宝やからな、そう簡単に模造品なんか作られへんよう、厳重に保管されとる。その模造不可能な『ロータステイル』そっくりのもんを持ってはるっちゅうことは……」
    「即ち彼がそのモール本人である、と。……あ、『彼』でよろしかったでしょうか?」
     ペドロに尋ねられ、3世は肩をすくめた。
    「今回は『彼女』やな。ほんで『猫』やて」
    「どのようにして捕捉を? 聖書中でも散々、剣呑な性格であったとされているが、そう簡単に言うことを聞くような性質では無いだろう」
    「お前みたいにな」
     ナイジェル博士にそう返しつつも、3世は説明してくれた。
    「あのお姐ちゃん、ヘボのクセにカジノやら賭場やらで調子に乗って、大金賭けよるお調子もんの性格しとるからな。賭場の立っとるとこ行ってそう言うヤツ探して、さっき言うた杖持っとったらソイツで間違い無いっちゅうわけや。
     で、今回も――私が出会った時もそうやったんやけども――大負けして200万ほど借金しとったとこに声掛けて杖を確認して、どうも本人っぽいっちゅうことでカネ貸したってな」
    「どうせそのカネもスってしまったのだろう。で、借金のカタとして拘束したわけか」
    「ほぼ正解やな」
     3世はニヤッと笑い、こう続けた。
    「貸したカネで当たるんは当たったらしいわ。ほんでも10分で3割増える貸しにしとったからな。1時間ほっとって、1000万近くに増えたところで返しに来よったけども……」
    「勝った分を全額獲られ、それでもまだ残った借金で引っ張って来た、と」
    「そう言うこっちゃ」
    「ひどい方だ」
     ペドロは率直にそう口走ったが、3世はやはり、意に介していないようだった。
    「ま、借金やら何やらは捕まえるための方便みたいなもんやしな。用事済ましたら反故にしたって構わへんわ。ちゅうわけで、や」
     3世は傍らに置いていた杖をつかみ、先端をペドロに向けた。
    「今から会って話してき」
     こうしてペドロと、そしてナイジェル博士の2人は央北へ飛び、モールを訪ねることとなった。

    央中神学事始 18

    2021.03.04.[Edit]
    ペドロの話、第18話。最後の謎を知る者。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -18. モール・リッチ――央北天帝教において「三賢者」の一角と称される人物であり、「彼」は「旅の賢者」とも呼ばれている。残る二人「時の賢者」ゼロ・タイムズ、そして「幻の賢者」ホウオウ、この三人によって現代における魔術の基本理論が確立されたとされてきたが、克大火や黒炎教団の件もあって、この説は近年、疑問視され始めている。 便...

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    ペドロの話、第19話。
    礼を示す。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    19.
     ペドロもナイジェル博士も、長年の研究でエリザが必ずしも聖人君子の類ではないことを把握していたし、その師とされるモールについても、相応の性格であろうことを察していた。
    「……ふん」
     それ故、ベッドの上でとぐろを巻き、肌着姿で煙草をふかす、退廃的な彼女の姿を目にしても、両者ともたじろいだり愕然としたりするようなことは無かった。
    「半月もこんなトコに閉じ込めといたかと思ったら、今度は坊さんのお説教? あんたら、ケンカ売ってるね? 私を誰だと思ってんのかねぇ、まったく」
     うっすらにらみつけてくるモールに対し、ペドロは床に正座して深々と頭を下げた。
    「長期にわたる不当な拘留で大変なご不便、ご迷惑をおかけいたしましたこと、誠に申し訳無く存じます」
    「あん?」
    「賢者モール・リッチ様。いかようなご叱責も、甘んじて受ける所存です。誠心誠意、お詫び申し上げます」
    「……」
     モールは煙草をぷっと床に吐き捨て、のそりと立ち上がった。
    「アンタが責任者?」
    「そのように捉えていただいて差し支えございません。元を申せば、私のはしたなき欲求故に行われたことです」
    「その言い方だとさ」
     モールは土下座するペドロの前に座り込み、彼の後頭部に視線を落とす。
    「首謀者が他にいるみたいな感じだよね。ってかさアンタ、見た目からしてソコまで金回り良さそうなタイプでも、カネで人を釣ろうってタイプでも無さそうだしね。ソイツはドコにいるね? 後ろの長耳でも無さそうだしさ」
    「ここにはおりません。高齢故、出歩くことが困難な身でして」
    「アンタだって結構なお歳に見えるけどね。アンタ以上にヨボヨボだっての? いや、はっきり言ってやるね。んなもん詭弁さ。ソイツはココまで来る気も無いし、顔も見せたくないワケだ。私をこーして閉じ込めといて、自分は関係ありませんってツラしたいってワケさね。どーせ名前も出すなって言ってんだろ?」
    「いいえ」
     ペドロは顔を上げ、率直に答えた。
    「そのように言い付けられた事実はございませんので、お答えいたします。あなたを拘束するよう命じたのはニコル・フォコ・ゴールドマンその人です」
    「何だって? フォコが? ……あんの野郎」
    「しかし――重ね重ね申し上げますが――元はと申せば、私があなたからお話を伺いたいと願い出たからこそ、行われたことです。すべての責任は私にございます。私にいたせることであれば、どうぞ、何なりとお申し付け下さい」
    「話、話って、アンタ一体私に何を聞きたいね?」
     尋ねてきたモールに、ペドロは正座の姿勢を崩さぬまま答えた。
    「エリザ・ゴールドマンの幼少期について、可能な限り詳しく伺いたいのです」
    「は?」
     けげんな顔をし、モールが続いて尋ねる。
    「なんでそんなコト聞きたいね?」
    「私の生涯を懸けた事業の完成のためでございます」
    「大きく出たもんだね。アンタ、何してる人?」
    「聖書の編纂を行っております」
    「聖書? ……私もソコまで詳しかないけど、エリザの話聞きたいってコトは、央中天帝教ってヤツだろ? エリザの話なんてソコら中探せばいくらでもあるだろうに」
    「山のようにございますが、いずれも事実を事実のまま描いたものではございません。私はひたすらに、真実を求めているのです」
    「そんで私なら、マジでエリザのちっさい頃を見てるはずだろうって? なるほどね」
     モールはベッドに座り直し、胸元から新たな煙草を取り出した。
    「火ちょうだい」
    「はっ……」
     ペドロは言われるがまま、マッチを机から取り、彼女の煙草に火を点けた。
    「はっきり言っとくけどね、私ゃ坊さんみたいな祈って唱えて説教すんのが職業ってヤツは大っキライだし、カネで言うコト聞かそうなんてヤツもクソだと思ってるね。そもそもそんな頼み、受ける理由が無いしね。だから引き受けようなんて気は、さらっさら無い。……だけども」
     モールは紫煙をふーっと天井に向けて吐き、ペドロに顔を向けた。
    「アンタは今、煙草の灰だらけの床に頭こすりつけて頼み込むだなんて最大限の礼儀を示してくれたワケだし、ソレを無碍にするってんじゃ、悪いのは私になるね。
     だからその礼儀に答えて、アンタの願いを聞いてやるね」



     こうしてモールから直接、エリザの幼年時代について聞き出したペドロは――中には荒唐無稽な内容も散見されたが、「礼儀に答える」と言った彼女の言葉を信じて――そのすべてを「モール師事記」として編纂、351年に上梓した。
     奇想天外かつ大言壮語が並ぶモールの話を、当代最高の編集人ペドロが絶妙にまとめ、聖書として昇華させたこの書物は、やはり空前の好評を博した。当然、ペドロの評判も前以上に上がったが、反対に3世には「賢者モールをカネで買おうとした」との悪評が立ち、その人気にはより一層の、深い影が落ちることとなった。

     央北から広まったこの醜聞はやがて3世にも伝わり、彼はまたも激怒した。この醜聞がモール本人が流したものであることは明らかであり――仮にペドロたちが流したのならば、市国で広まるはずであるため――彼はモールにしかるべき制裁を加えるべく、躍起になって彼女の再捜索を命じたが、モールはもう二度と、3世の張った網にかかることは無かった。

     そしてこの暴挙が、3世の命脈を断つ決定点となった。

    央中神学事始 19

    2021.03.05.[Edit]
    ペドロの話、第19話。礼を示す。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -19. ペドロもナイジェル博士も、長年の研究でエリザが必ずしも聖人君子の類ではないことを把握していたし、その師とされるモールについても、相応の性格であろうことを察していた。「……ふん」 それ故、ベッドの上でとぐろを巻き、肌着姿で煙草をふかす、退廃的な彼女の姿を目にしても、両者ともたじろいだり愕然としたりするようなことは無かった。「...

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    ペドロの話、第20話。
    博士の復讐。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    20.
     時間と場所は349年、モールが拘束されていた宿に戻る。
     話し疲れ、休憩を取っていたモールのところへ、ナイジェル博士が訪ねて来た。
    「休憩中、失礼する」
    「失礼なんかしないでほしいんだけどね」
    「言葉の綾だ。用がある」
    「私にゃ無いね」
     つっけんどんに対応するモールに、ナイジェル博士はこう切り出した。
    「3世には腹が立つだろう?」
    「そりゃまあねぇ」
    「私もだ」
    「へーぇ?」
     煙草を口にくわえたまま、モールはナイジェル博士を横目で捉える。
    「何されたね?」
    「あらゆる嫌がらせを受けている。基本的に私と言う人間が気に入らんらしい」
    「ま、人間関係ダメな時はダメだろうしね。で?」
    「少しばかり『お返し』をしてやろうと考えている」
    「少しで済むかねぇ?」
     そう問われ、ナイジェル博士の顔がこわばる。
    「どうしてそんなことを?」
    「私にわざわざ声かけて『仕返ししよう』なんて、少しで済む話じゃなさそうだしね」
    「……」
     しばらく黙り込んでいたが、やがて決心したような面持ちで、ナイジェル博士は話を再開した。
    「あなたにお願いする内容自体は単純だ。今回の経緯を、悪しざまに吹聴してくれればそれでいい」
    「何て言ってほしいね?」
    「どうとでも。とにかく3世が悪者になるように、そして、あなたが吹聴した本人だと分かるような内容で」
    「私と分かるように?」
     モールは煙草を床に捨て、ナイジェル博士を薄目でにらんだ。
    「そうなりゃ増上慢ストップ高状態のフォコは間違い無く、私を追い回すだろうね」
    「だが相手の手の内も知っていて、捕まえようと目論んでいることも分かっていれば、あなたは捕まるような方ではない。そうだろう?」
    「まーね」
    「決して捕まえられない相手を捕まえようと血道を上げている間に、私は別の工作を仕掛けるつもりだ。それが功を奏せば、3世に大きなダメージを与えられるだろう」
    「やっぱりオオゴトになるんじゃないね。……ま」
     新しい煙草を手に取り、モールはニヤッと笑った。
    「40年ほど前にしてあげたお説教を、すっかり忘れてるみたいだしね。ここいらでちょっと、痛い目見させとかなきゃならないね」
    「説教?」
    「こう言ったのさ――全人類の中で自分が一番だなんてコトを決める権利なんか、誰にだって無い。君自身にさえもね、……ってね」



     3世が執拗にモールを捜索していたその陰で、ナイジェル博士は密かに3世の子供たちを招集していた。
    「話と言うのは、他でも無い。君たちもそろそろ『親離れ』してみてはどうかと思ってね」
    「はあ……?」
     この頃、3世の子供世代はいずれも30代後半から40代半ばとなっており、金火狐財団の要職に就いた者もいたが、ここに集められた3人はそうではなく、はっきり言えば凡庸な者たちばかりだった。大した仕事もせず、また、大任を与えられることも無く、半ば遊び呆け、半ば飼い殺しとなっているような彼らに、ナイジェル博士はずばりと言ってのけた。
    「君たちはいずれも既に家庭を持ち、子供もいる身だ。傍から見れば成功せし者と言えるだろう。だが、感じはしないかね? 配偶者、あるいは子供から、『そろそろ大きな仕事をしないの?』『そろそろ偉くなれないの?』『この人はあのニコル3世の血を引いているはずなのに』『この人はあの金火狐一族のはずなのに』と言いたげな視線を」
    「う……」
     子供たちは、揃って苦い顔をする。
    「とは言え、その主たる理由は君たちが無能だからでも、いつまでも子供気分でいるからでもあるまい? ズバリ言ってやろう。3世がいつまでもいつまでも引退も隠居もせず、金火狐一族総帥の座に収まり続けているからに他ならない」
    「いや、しかし、長姉のイヴォラは市政局長になりましたし、公安局にも……」「では君たちはいつそうなるのかね?」
     問われるが、誰も答えない。
    「答えてやろうか? 答えは『いつまでもなれない』だ。その理由も言ってほしいかね?」
    「……」
    「沈黙は肯定と受け取るぞ。どうだ?」
    「……」
    「よろしい。でははっきり言ってやろう。君たち姉弟は全員が全員、3世に愛されてはいない。もっとはっきり言えば、君たち3名がその、愛されていない側の人間だ」
    「……っ」
    「愛されていないから機会も地位も与えられず、十分なカネも与えられない。他の姉弟には十分以上に与えられていたモノが、だ」
    「な、ナイジェルさん、あなた……っ」
     一人が憤った顔をし、立ち上がりかけたが、ナイジェル博士はやんわりと手をかざしてさえぎる。
    「しかし勘違いしないでもらいたいが、私は君たちをさげすむつもりも憐れむつもりも毛頭無い。むしろ私は君たちを評価している。だからこそ、機会を与えに来たのだ」
     この言葉に、3人はまた揃って首をかしげる。
    「機会?」
    「そうとも。君たちが晩成できる、最後の機会をだ」
     ナイジェル博士はそう言って、ニヤッと悪辣な笑みを浮かべた。

    央中神学事始 20

    2021.03.06.[Edit]
    ペドロの話、第20話。博士の復讐。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -20. 時間と場所は349年、モールが拘束されていた宿に戻る。 話し疲れ、休憩を取っていたモールのところへ、ナイジェル博士が訪ねて来た。「休憩中、失礼する」「失礼なんかしないでほしいんだけどね」「言葉の綾だ。用がある」「私にゃ無いね」 つっけんどんに対応するモールに、ナイジェル博士はこう切り出した。「3世には腹が立つだろう?」...

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    ペドロの話、第21話。
    子息革命。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    21.
     350年の暮れ、ナイジェル博士はペドロの元を去った。別れの言葉も無く、突然消息を絶ってしまったのである。ペドロは右腕であった彼がいなくなり困惑したものの、既にこの時「モール師事記」は概ね完成しており、ナイジェル博士がいなくても大きな支障は無く、翌年無事に刊行された。



     それから3年後の354年――ネール家が突然、「大公位」の割譲を宣言した。
     元々、旧中央政府は代々天帝に対する功労者に爵位を授け、その格に応じて、州から町村単位での支配権を認めていたのだが、その中でも大公位は央南、または央中全域を支配する者に与えられる、最大級の爵位である。旧政府下においては別の一族、バイエル家に与えられていた央中大公位であったが、前述の通りこれは3世によって買い取られ、妻の実家であるネール家に贈られていた。
     その後は3世による事実上の支配が続いており、この大公位は形骸化していたのだが、ネール家当主がその支配権を7つに割譲し、1つは大公位を継いでいた自分自身に、そして残りは自分の子供3名と、そしてあろうことか3世の子供――ナイジェル博士に扇動されたあの3名に分け与えたのである。

     それだけならば単に名目上の利権委譲でしかないのだが、6名はこの割譲された大公位を大義名分として、央中各地の州を実効支配したのである。
     対内的には3世の子供たちは日陰者、親の七光りで細々と生きる半端者でしかなかったが、対外的には「金火狐一族総帥の子息」と言う、山吹色に光り輝く箔が付いている。その威を借りた上、さらに大公位と言う玉虫色の箔を上乗せした彼らに恐れをなした各州はあっさり平伏し、支配権を明け渡してしまった。こうして央中各地の支配権を得た彼らは国家としての独立を宣言した上、大公位を割譲した者同士で貿易協定を結んだ。
     事実上これは、央中におけるすべての市場から金火狐財団を追い出すブロック経済圏の形成に他ならず、それまで世界の覇権を握っていた財団と市国は一転、窮地に追い込まれた。3世が何十年も手塩にかけて育て、巨大な市場に成長させた央中全域が、市国に牙を向いたのである。
     央中全域の貿易によって莫大な利益を獲得し続けてきた市国にとってこれは、致命傷とも言える状況だった。そもそも330年代後半から、もう一つの巨大市場であった央北から背を向けられていたこともあり、市国の経済はブロック経済圏の形成後から、見る見る間に悪化していった。にもかかわらず、3世はこの事実を「半端者のバカ息子どもがわがまま言うてるだけや」と意に介さず、なおもモール捜索に傾注した。
     だが、事態は彼が考えているよりももっと悪化していき――ついに357年、3世の長子である市政局長イヴォラが顔を真っ青にし、市国財政がデフォルト(債務不履行)寸前であることを伝えられてようやく、3世は自身が致命的状況に置かれていることを理解したのである。その報告は即ち、市国が金火狐財団の収益と債券で運営できなくなったこと、言い換えれば、財団のカネと信用が尽きたことをも意味していたからだ。
     ようやく目の前に迫る危機に気付いた3世は、大慌てで財団全体の事業計画見直しを図った。だが央中のブロック経済と央北の反財団態勢の前には成す術が無く、また、他の地域での経済活動拡大を推し進めようにも、財団が息を吹き返すまで経済規模を成長させるには数十年かかる見通しであることが判明し、老い先短い3世にはもう、打つ手が無くなってしまった。

     3世は屈辱をこらえ、ブロック経済圏を築いた央中各国と貿易協定を結ぶべく使者を送ったが、どこも異口同音にこう返すばかりだった――「我々は決してニコル・フォコ・ゴールドマン、そして彼の配下の人間とは交渉を行わない」と。
     進退を窮めた財団はついに、3世に総帥引退を要求した。

    央中神学事始 21

    2021.03.07.[Edit]
    ペドロの話、第21話。子息革命。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -21. 350年の暮れ、ナイジェル博士はペドロの元を去った。別れの言葉も無く、突然消息を絶ってしまったのである。ペドロは右腕であった彼がいなくなり困惑したものの、既にこの時「モール師事記」は概ね完成しており、ナイジェル博士がいなくても大きな支障は無く、翌年無事に刊行された。 それから3年後の354年――ネール家が突然、「大公位」の...

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    ペドロの話、第22話。
    最後の依頼。

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    22.
     第4冊目となる「モール師事記」を刊行した後も、ペドロは変わらず聖書編纂事業に勤しんでいた。一方で、歳を重ねるごとに妄執を強め、剣呑な行動を繰り返す3世に、さしもの聖人ペドロも辟易しており、彼は352年、今度は南海へと旅立った。建前上は「エリザの最晩年についての資料を集めること」を目的としたものであったが、3世から距離を置きたいと言う思いも、少なからず彼の中にはあった。

     その3世から357年、市国に戻ってきて欲しいと直接頼まれ、ペドロは面食らっていた。
    「一体どうされたのですか? あなたが今更、……その、私に声をおかけになるなど」
    《頼みがあんねん》
     魔術を通じてペドロの耳に届いた3世の声は、いつになく憔悴したものだった。
    《君は私が知る限り、最高の文章書きや。君にしか頼まれへんことやねん》
    「聖書の件……ではありませんよね」
    《せや》
     3世はぽつりぽつりと、経緯を説明した。
    《その……な。私、ボチボチ、……な。ボチボチ、……総帥、辞めんねん》
    「なんですって?」
    《色々あってん。……いや、……せやな、君にはちゃんと説明しとかなな。私のバ、……子供らがな、ちょっと、反乱っちゅうかな、独立……、そう、独立しよってな、まあ、ほんでな、……子供らが協力して、私を、っちゅうか、財団を央中の商売ごとから全部、締め出しよってんな。ほんならもう、どないもこないも、……な、でけへんくなってしもてな。……で、財団のやつらみんな、私やもうアカン、頭すげ替えろっちゅうて、……って、わけや》
    「……そうですか」
     そのまま両者とも黙り込み、沈黙が流れる。そこで沈黙を破ったのは、父同様に神学者となり彼の旅に同行していたペドロの長子、ヤゼスだった。
    「3世、それで父に頼みたいこととは、一体……?」
    《……ああ、せやったな》
     以前の3世であれば、話に割って入った者を恫喝じみた口調で怒鳴りつけ、黙らせるところであったが、この時の彼は素直に、ヤゼスに答えた。
    《まあ、今言うた通り、総帥辞めよっかっちゅう話になったわけやけども、せやから言うて、じゃあコイツ総帥にするわ、みたいにすぐには決められへん。私がそんな風に決めたところで、そんなん誰も納得しいひんやろ。『どうせコイツ3世の傀儡やろ』と思われて、そっぽ向かれるんがオチや》
    「一理ございますね」
    《と言って、他の局長やら何やらが無理無理推しても同じことやんか? ほんで今んとこ、誰を後継者にするかで揉めとるワケや。せやけどそんなもんを話し合いで決めようと思ても、簡単に決められるもんとちゃう。と言うて、このまんまあーでもないこーでもないと言い合いしとっても、時間の無駄や。で、ある程度ルール定めた上で、投票したらどないやっちゅう話になってんねん》
    「ルール?」
    《公平を期すために、っちゅうことでな。今んとこ、私と局長らの最高幹部で何人か指名して、そいつらん中から選ぶ形にしようと考えとる。で、その指名するヤツについて、条件を定めようっちゅうわけや。条件があんまりにも違いすぎたら、選ぶも選ばへんも無いからな》
    「ふむ」
    《ほんで、次の総帥を決めた後のこともや。次のヤツがまた私みたいに何十年も居座っとったら、また同じことの繰り返しになるかも分からん。任期とか権利みたいなんも、この際まとめて決めたろう思てるんよ。他にも決めといた方がええことあれば、まとめて話す感じでな》
    「そこで私を交えてルールの策定を行う、と」
    《そう言うこっちゃ。繰り返しやけど、あんたは私が知る限り一番の字書きや。いや、一番の知識人、良識ある賢者や。あんたが話に加わってくれへんかったら、どないもこないもならん。
     頼むわ、ラウバッハ君》

     長年に渡る確執はあったが、恩人とも言える男の窮状を察したペドロ父子は、大急ぎで収集した資料をまとめて船に飛び乗り、市国への帰途に就いた。

    央中神学事始 22

    2021.03.08.[Edit]
    ペドロの話、第22話。最後の依頼。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -22. 第4冊目となる「モール師事記」を刊行した後も、ペドロは変わらず聖書編纂事業に勤しんでいた。一方で、歳を重ねるごとに妄執を強め、剣呑な行動を繰り返す3世に、さしもの聖人ペドロも辟易しており、彼は352年、今度は南海へと旅立った。建前上は「エリザの最晩年についての資料を集めること」を目的としたものであったが、3世から距離を...

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    ペドロの話、第23話。
    革命の顛末。

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    23.
     5年ぶりに市国に戻ったペドロ父子は、すぐさま3世を訪ねた。
    「久しぶりやな。そんなに変わってへんみたいやし」
    「3世もお変わりないようで」
     そう言ったものの、ペドロの目には、3世の衰えぶりがはっきりと映っていた。
    「挨拶はこの辺でしまいや。早速、仕事の話や」
     しかし3世の心の中には辛うじて、仕事に対する意欲と情熱は残っていたようだった。杖を付きつつも、彼はしっかりした足取りで執務机に腰掛け、書類を手早く机上に並べていったからだ。
    「現時点で最高幹部から出た意見や。これを加味した上で、君にはルール策定をしてもらうつもりや。で、明日も会議があるけども、君にも参加してもらいたいんよ」
    「承知いたしました」
     ペドロとヤゼスは書類に目を通し、内容を検討する。
    「ざっと見た限りでは、ある程度意見は一致しているように思えますね、父さん」
    「そうだね。恐らくは幹部陣同士での話し合いも、何度と無く行われていたのだろう」
    「……」
     と、3世が椅子にもたれかかり、ぼんやりした顔で眺めていることに気付き、ペドロが声をかける。
    「如何なさいましたか?」
    「ん? あ、いや、……何ちゅうか、君ら仲ええなと思てな」
     3世は肩をすくめ、こう続ける。
    「私が子供らとまともに話したんは、もう何十年も前やからな。仕事の関係で向こうから御用聞きに来ることはちょくちょくあったけども、少なくとも私の方からは、四半世紀は声掛けてへんねん。……やからかな、こんなことになったんは」
    「3世……」
    「しゃあない、しゃあない。自業自得っちゅうヤツやろ。もう少し目ぇかけたったら、ちょっとは話もちゃうかったやろけど」

     こうしてペドロ父子の尽力によって358年のはじめ、財団の運営と各幹部の権限に関する規則書――「財団典範」が制定され、これに則って総帥選出選挙が行われた。その結果、市政局長イヴォラの娘、即ち3世の孫娘でもあるエリザ・トーナ・ゴールドマンが新たな総帥に選ばれた。



     そしてその後の調査で、央中全域を騒がせたこの「子息革命」について、ある事実が判明した。
     首謀者は前述の通り、ネール家現当主とその子供たち、そして3世の子供たち7名だったが、彼らを焚き付け、言葉巧みに誘導した人物が他にいることが分かった。それは他でもない、あのエイハブ・ナイジェル博士であり、「傲岸不遜の3世に鉄槌を下す」「央中域内の不平等を是正する」などと巧言令色を振りまいて己の行動を正当化していたが、結局は私利私欲のために行動していたことは、誰の目にも明らかだった。何故なら彼はネール公国と新興国6カ国から、顧問料として莫大な報酬と利権を手に入れていたからである。
     彼こそがこの騒動の張本人であるとして、財団は彼の拘束・処罰を各国に求めたが、経営が傾き、影響力の弱まった財団に与する者は央中内におらず、結局ナイジェル博士への追及はうやむやになってしまった。

     その一方、財団の最後の意地として、離反した3名とその家族、そして血縁者については永久に金火狐一族から除籍することを決定した。また、この騒動に加担したネール家に対しても無期限の取引停止、即ち事実上の絶縁を言い渡した。
     この決定に際し、3世の妻でもあり、離反者3名の母親でもあり、かつ、ネール家の人間でもあったランニャは立場を問われたが――。
    「いいよ、別に」
     彼女は特に子供たちや実家の肩を持つ様子も無く、全面的に同意したと言う。
    「ってかむしろさ、こっちから願い下げだよ。こんなことすりゃ央中丸ごと大騒ぎになるって、誰にだって分かるだろう? だのに、ろくに後先も考えず加担するなんて、つくづく救いようの無いヤツらさ。きっと母さん――先代当主だって、許しやしない。『他人のそれらしい意見にコロッと騙されてホイホイ乗っかるようなバカなんぞ、こっちから放り捨ててやりゃいいさ』とか言うだろうさ、きっと」



     彼女の言葉は後に、騒動に加担した者たち全員に、重くのしかかってくることとなった。独立を果たした不肖の子供たちも、そしてネール家も、独立当初は相応に栄華を極め、人々の期待を集めはしたものの、数年、十数年と経つ内、次第に才能の乏しさと実力の無さを露呈し、みるみる間に人心と信用、そして資産をも失い、凋落した。
     なお、ナイジェル博士は散々彼らを食い物にして財産を築いたものの、同時に深い恨みも抱えることとなった。難を逃れるため故郷の北方へ舞い戻ったものの、そこでも財産を付け狙う者たちが跡を絶たず、晩年はすっかり人間不信になり、一人寂しく生涯を閉じたと言う。家族にも一時期恵まれはしたが、それもまた、彼の遺産狙いのために骨肉の争いを繰り返し、結局は散り散りになってしまった。

     世紀単位で時代の流れを見るに――「子息革命」は3世の一強体制を崩し、彼の時代を終わらせはしたものの、結局のところ彼を追い落とした者たちが成り代わって栄光を手にすることは無く、一人の覇者も出さぬまま、あっさり終焉した形となった。

    央中神学事始 23

    2021.03.09.[Edit]
    ペドロの話、第23話。革命の顛末。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -23. 5年ぶりに市国に戻ったペドロ父子は、すぐさま3世を訪ねた。「久しぶりやな。そんなに変わってへんみたいやし」「3世もお変わりないようで」 そう言ったものの、ペドロの目には、3世の衰えぶりがはっきりと映っていた。「挨拶はこの辺でしまいや。早速、仕事の話や」 しかし3世の心の中には辛うじて、仕事に対する意欲と情熱は残っていた...

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    ペドロの話、最終話。
    ピリオド。

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    24.
     総帥交替が行われてまもなく、3世が死去したとの知らせが市国に広まった。しかし、「現総帥は死亡の事実を把握していなかった」、「葬儀の場には遺体が無かった」など、本当に亡くなったのか疑問を抱かせるような要素がいくつもあり、人々は「3世は財団の急進派に暗殺された」、「3世はどこかに逃げ延び、再起の機会を図っている」などと、口々にうわさした。

     一方、ペドロは360年に第5冊目となる聖書、「狐の女神記」を刊行した。それと同時に、彼もまた、神学者としての引退を宣言した。
    「これで女神エリザの一生を、私に出来得る限り書き留めることができました。これ以上を成そうとするならば、それはもう、彼女の一生に無い出来事を創作する他にございません。となれば彼女の実像を歪め、嘘で塗り固めることになります。それは彼女への冒涜に他なりません。彼女を神として敬愛するが故に、私はここで筆を折るべきでしょう。
     私が成すべき仕事は、ここまででございます」
     ペドロ夫妻は市国を離れ、二人目の息子、ビートの住む田舎町に移り住み、いち牧師として後の生涯を過ごした。

     彼はビートに、こんなことを話したと伝えられている。
    「夢を見たのだけれど、それはとても不思議な夢だったよ。
     その中で私は、24歳になっていた。不遇を囲い、安酒場の豆とベーコンだけでどうにか食いつないでいた頃だ。そして目の前には、豆とベーコンが置いてあった。だから一瞬、今までの人生は私が見ていた夢なんじゃないかと思ってしまったよ。
     そこにお客さんがやって来た。3世だ。出会った当時と同じ、27歳の姿だった。3世は店の入口で大声を出した。『大卿行北記、第5章1節!』と。そう、彼が私を探すために問うた言葉だ。勿論、私は答えた。一言一句、間違い無くね。そうしたら3世はニヤッと笑って、こう続けたんだ。『ほな次、央中平定記の第11章3節はどないや?』とね。それも当然、私は答えた。他ならぬ私の作だからね。これも淀みなく答えてみせた。3世は笑っていた。『やるやないか。ほんならモール師事記の第21章6節は?』これも答えた。……と思うだろう? うむ、その通り。そんな章は無いんだ。全部で19章だからね。だから私は無いと答えた。3世は肩をすくめて、私の対面に座った。『ゴメンな。実は読んでへんかってん』と言われたよ。
     そこで3世は、私に頭を下げた。『君にはホンマに申し訳無いことしてしもたな。元はと言えば僕が頼んで、市国に来てもろたのにな。この30年、しょうもないことばっかりして、君にはめちゃめちゃ迷惑掛けてしもたわ。……せやから、まあ、お詫びっちゅうたらアレやけども、こないだ全部読ましてもらってん。いや、ホンマにええ出来やったわ。恐れ入った。君はホンマにええ仕事したわ。ありがとうな、ホンマに』
     3世は席を立ち、こう言ってきた。『僕ももうそろそろ、いこか思てんねん。君もボチボチどないや?』と言われたけれど、断っておいたよ。『ようやく面と向かって嫌や言うたと思たら、ここでかいな』と苦い顔をされてしまったけど、久しぶりに、目の前の豆とベーコンを楽しみたかったからね。……でもまた、近い内に誘われると思う。その時は相伴するつもりだ」
     そしてこの話をしてから1週間後――ペドロ・ラウバッハはこの世を去った。



     かつては「央北天帝教の無心から逃げる方便」「経典無きニセ宗教」と蔑まれた央中天帝教は、ペドロ、そして3世の長年にわたる努力により、いつしか権威ある宗教として、確固たる地位を確立するに至った。併せて、ペドロが編纂した5冊の聖書は央中天帝教の根源として、そして誰もが学び、守るべき規範として、長きに渡って尊ばれるものとなった。
     そしてペドロ自身もまた、央中天帝教最大の聖人として、そして4世紀最大の文人として慕われることとなり、彼が没した町には今も、巡礼者が絶えないと言う。

    央中神学事始 終

    央中神学事始 24

    2021.03.10.[Edit]
    ペドロの話、最終話。ピリオド。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -24. 総帥交替が行われてまもなく、3世が死去したとの知らせが市国に広まった。しかし、「現総帥は死亡の事実を把握していなかった」、「葬儀の場には遺体が無かった」など、本当に亡くなったのか疑問を抱かせるような要素がいくつもあり、人々は「3世は財団の急進派に暗殺された」、「3世はどこかに逃げ延び、再起の機会を図っている」などと、口々...

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