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黄輪雑貨本店 新館

蒼天剣 第3部

黄輪雑貨本店のブログページです。 小説や待受画像、他ドット絵を掲載しています。 よろしくです(*゚ー゚)ノ

    Index ~作品もくじ~

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    晴奈の話、第69話。
    銀髪の異邦人。

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    1.
    「人の出会いは不可思議で心躍る」と言ったのは、黒白戦争時の女傑、ネール大公である。
     ある出会いが、思いがけず生活や人生、そして世界すら変えることがある。黄晴奈とその男の出会いも、後世から見れば、歴史的な邂逅(かいこう)の一つだった。



     双月暦515年初秋、晴奈22歳の時。
    「父上! 母上! 明奈は、明奈はッ!?」
     晴奈は自分の故郷である黄海に、大慌てで舞い戻っていた。
     自分の妹である明奈がさらわれて以来、焔流との交流もその一因と言うこともあって、晴奈はここ数年故郷を訪れられなかったのだ。
     ところがつい先日、その妹がひょっこり帰って来たと言ううわさが、彼女の耳に入ったのである。無論、そんな吉報を聞いて、じっとしていられる晴奈ではない。
     彼女は故郷に戻るとすぐ、自分の家である黄屋敷の扉を蹴破るようにくぐり、玄関の大広間に飛び込んだ。
     と――央南ではまず見ることの無い、銀髪・銀目の、短耳の男が大広間のど真ん中に立っており、晴奈は面食らう。
    「ん? ……誰だ、お主?」
    「えーと、はは。……君は、誰かなぁ? メイナのお友達?」
     やはり、央南人では無いらしい。央南の言葉で話してはいるが、その発音は央南人の晴奈にとってはどこか、違和感を覚える。
     それでも言葉は通じるらしく、晴奈は探り探り、男に尋ねてみた。
    「いや、その、姉だが。……そうではなく、お主は何者か、と聞いているのだが」
     銀髪の男はへら、と笑って、こんな風に返してきた。
    「そっか、お姉さんかー。へー、キレイな人だなー」「名前は?」
     再度尋ねるが、男は一向に、晴奈の問いに答える様子が無い。
    「やっぱり『猫』は目の形がいいねぇー。ちょっと吊り目で、しゅっと縦長の細い瞳。うーん、エキゾチックな感じがするなー」
    (何を、ベラベラと……。えきぞちく、って何だ? 竹か?)
     名前や単語以外は異様なほど流暢であり、男はどうやら相当、央南語を熟知しているらしい。それに元々、口もうまいようだ。
    「名前は?」「それにその耳と尻尾、三毛ってところもまたいい! 黒い髪にすっごく映えてるよー」「な・ま・え・はッ!?」
     だが、晴奈がにらみつけようとも、怒鳴ろうとも、男はまったく応じない。それどころか――。
    「ねえ、お姉さん。名前は何て言うの?」「それは私が聞いているのだッ!」
     いよいよ晴奈は怒り出したが、それでも男は止まらない。
    「メイナから聞いたっけなー? えーと、何だっけ。レナだっけ? あ、セナだったかな? えーと、違うな、んー」「いい加減に……」
     晴奈がもう一度怒鳴ろうとした、その時――。
    「いい加減にしなさいよ、このナンパ男!」
     大広間の階上から、本が飛んできた。
    「あいたッ、……うー、く、く」
     本の角が後頭部に直撃し、男は頭を抱えてうずくまった。
    「痛いじゃないか、リスト。本は読むものであって、投げる道具じゃないよ」
    「出会いがしらに女を口説くヤツが、常識語ってんじゃないわよ!」
     男を罵倒しながら、大広間の階段を青い髪のエルフが下りてきた。
    「ホントに、ごめんなさいね。コイツバカだから、気にしないでいいわよ」
     リストと呼ばれたエルフは、恥ずかしそうに頭を下げつつ、男を軽く蹴った。
    「あ、ああ。まあ、その、……どうも」
     晴奈はまだうずくまったままのこの銀髪の男を、神妙な面持ちで見つめていた。



     会うなり晴奈を口説いたこの男こそ、後に世界のトップとなる「大徳」、エルス・グラッドである。
     二人は後に力を合わせ、幾多の戦いで活躍することになる――のだが、その最初の出会いにおいては、晴奈は不快感しか抱いていなかった。
    蒼天剣・邂逅録 1
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第70話。
    晴奈のひみつ、公開。

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    2.
    「め、明奈っ!」
     7年ぶりに見る成長した明奈を見て、晴奈は思わず彼女を抱きしめた。
    「きゃ、お姉さま?」
     明奈は目を白黒させていたが、晴奈は思いを抑えきれず、そのまままくし立てる。
    「ああ、良かった! 本当に良かった! 良く無事に、帰ってきてくれた!」
    「お姉さま、あの、苦しい……」
    「もう二度と、絶対に、黒炎に渡したりしない! 絶対に、姉ちゃんが守ってやるから!」
    「……はい、お姉さま。お久しゅう、ございます」
     戸惑った顔を見せつつ、明奈も晴奈を抱きしめ返した。



     明奈が黒鳥宮から助けられた経緯は、次の通り。
     エルスは元々、北方大陸にある王国の諜報員(スパイ)であり、ある任務のため部下を連れ、黒鳥宮に潜入していたところ、偶然明奈を発見し、保護したのだ。
     そのまま、一旦は北方に連れ帰ったが、エルスの上司であり、教官でもあるエドムント・ナイジェルと言う老博士がある事件に巻き込まれたため、そこから明奈を連れ、師弟ともども亡命。
     亡命先として選んだのが、明奈の故郷であるここ、黄海だったのである。

    「本当に、大変でしたわい」
     あごひげを生やし、丸眼鏡をかけたエルフ、ナイジェル博士はニコニコと笑いながら、前述の説明を晴奈に伝え終えた。
    「なるほど……、そのような経緯があったのですか。私にとっては真に重畳、行幸と称すべきお話です」
     晴奈は深々と、博士に向かって頭を下げた。
    「あ、いやいや。そうかしこまらず。
     ……ふーむ、セイナさん、と申されましたか。なるほど、妹さんと顔立ちが似ていらっしゃる。ですが比べてみると少し、精悍な顔つきをされていらっしゃいますな」
    「そ、そうですか?」
     そう言われて、思わず頬に手を当てる。
    (言われてみれば……。子供の頃はあまり気が付かなかったが、傍らの成長した明奈を眺めると確かに、顔立ちは良く似ていると思う。
     そしてこれも博士の言う通りだが、明奈の方が少し、おっとりした印象を受けるな)
     晴奈がしげしげと明奈を観察している間に、博士の方でも、晴奈を観察し終えたらしい。
    「ふむ……。身長も高く、一挙手一投足ごとに、着実に鍛えられた筋肉が出す力強さが見受けられる。そしてその、落ち着いた気配と所作。なかなか高度な精神修練と、高密度の修行を積んでいらっしゃるようですな。
     ズバリ、セイナさんは――焔流の剣士、それも練士か、師範代程度の手練。違いますかな?」
     博士の推察に、晴奈は目を丸くした。
    「い、いかにも。私は焔流の免許皆伝です、が……」
     自分の素性を初見で言い当てられ、晴奈は流石に博士を不気味に思った。
     と、それも見抜いたらしく、博士はゆっくり手を振って説明する。
    「ああ、いやいや。驚かせるつもりは無かったのですが。小生はこう言ったことを生業としておりまして。
     祖国では戦略研究を行っておりました。敵の動向をいち早く察することが重要なため、こうした洞察力をよく使います」
     博士は横に座っているエルスの肩を叩き、話を続けた。
    「こちらのエルス君も、人を見抜くのが得意でしてな。
     元々は魔術を教えておったのですが、そちらの方も割合筋が良かったので、小生の戦略思考術と洞察力をそっくり受け継がせております。
     さ、エルス。ちょいと力を見せてやりなさい」
     話を振られたエルスはヘラヘラ笑いながら、とんでもないことを――晴奈がこの直後、顔を真っ赤にして「無礼者!」と怒り出し、リストから「このバカ!」と怒鳴られ、しこたま殴られるようなことを言った。
    「うーん、上から77、51、79かな。すらっとしてるね。低脂肪乳って感じかな、はは」

     ひとしきり殴られ、頭に大きなコブを作ったエルスは、依然としてヘラヘラ笑いながら謝った。
    「ははは……、ゴメンゴメン。ちょっとしたギャグのつもりで言ったんだけどね」
    「どこがギャグよ!? セイナさん、引いてんじゃない! て言うかアタシも引くわ!
     アンタ本気で頭のネジ、1本2本飛んでんじゃないの!?」
     リストはまだ怒っているらしく、エルスにまくし立てる。
    「ホントに、このバカがとんでもないコトを……」
     リストはしきりに謝っている。彼女が少し気の毒になってきたので、晴奈は溜飲を下げた。
    「……いや。減るものでも無し、構わんさ」
     とは言え、口ではそう言いつつも、晴奈の内心はまだ、怒りが収まらない。
    「ま、そのですな。ちと、遊びが過ぎましたが、ともかくエルス君は、武術や魔術の腕も相当ですが、頭の方も良く回ります。
     しばらくこちらに滞在する予定なので、色々と央南の事情、それから常識をご指導、ご鞭撻いただければと」
     場を取り繕う博士の心情も察し、晴奈は大人しく振舞う。
    「……構いませんよ。まあ、こちらも北方の話を色々お聞きしたいところです。よろしくお願いします」
     晴奈は落ち着き払い、手を差し出す。エルスもニコっと笑いながら手を差し出し、普通に握手した。
     恐らくこの時も、エルスは何かするつもりであったようだが、それは彼の右側でにらんでいるエルフ二人に阻まれたため、流石に諦めたようである。
    蒼天剣・邂逅録 2
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、71話目。
    スパイを尾行するスパイとサムライ。

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    3.
     折角の再会と帰郷であるし、晴奈は当初、黄海にしばらく滞在することを考えていた。
    「まったく、ろくでもない!」
     だがエルスのせいで、その折角の機会を、晴奈は気分悪く過ごしていた。
    「忌々しい……。私が、明奈を助けたかったのに。何であんなバカが助けるんだか」
     文句をブツブツと唱えながら街を散策しつつ、ある通りに差し掛かったところで――。
    「ん? あの青い髪は」
     少し前を、青い髪のエルフが歩いているのが見える。
     晴奈は彼女にそっと、声をかけてみた。
    「もし、リスト殿?」
    「……! あ、セイナさん、でしたっけ」
     振り返ったリストは、どこか苛立たしそうに晴奈を見る。
    「あの、何か?」
    「いや、ただ声をかけただけ、ですが」
    「そう。悪いわね、忙しいから、また後でっ」
     そう言ってリストは、また前に向き直って歩き出す。
     視線を前に戻すと、少し先を「あのバカ」が妹、明奈を伴って歩いているのが見えた。
    「もしや、エルス殿と明奈を尾行されているのですか?」
    「な、何で分かったの!?」
     また、リストがこちらを向く。
    「いや、何故と問われても。一目瞭然では……」「と、とにかく! 邪魔しないで!」
     リストは早歩きで、エルスたちを追いかける。
    「あ、私も同行します、気になるので」
     晴奈もリストに続き、尾行に参加した。
    「しかし、一体何故、リスト殿はこのようなことを?」
     揃って物陰に隠れたところで、晴奈はリストに尋ねてみた。
    「あのスケベ、メイナを連れてあちこち回ってるのよ! きっとメイナを落そうと狙ってるんだわ!」
    「何と!?」
     リストの返答に、晴奈はまた苛立ちを募らせる。
    「おのれ、渡してなるものか……!」
    「でしょ!? だから、こうやって後を尾けてるのよ。もし手を出そうとしたら、コイツで無理矢理にでも止めるわ」
     そう言って、リストは腰に提げていた銃――近年開発された、新種の武器だそうだ。どのようにして使うのか、晴奈にはまったく見当が付かない――に手を添える。
    「ぜひとも、助太刀させていただきたい!」
    「ええ、その時はお願いね、セイナさん!」
     変に意気投合したらしく、晴奈とリストはがっちりと握手した。



     その後も2時間ほど、エルスたちはあちこちを回っていた。
     そのほとんどが商店や露店めぐりで、どうやら女物の小物を買い集めているらしい。
    「何よアレ!? 完璧にデートじゃないの!」
    「でえ、と?」
    「えっと、その、何て言ったらいいかな。……イチャイチャしてる、ってコトよ」
    「む、確かに……」
     言われてみれば、確かに二人の雰囲気は、知らない者が見れば恋人のようにも見える。晴奈の目にもそう見えてしまい、怒りをますます燃え上がらせていた。
     そのうちに日も傾き始め、エルスたちは黄屋敷の方へと向かっていく。
    「っと、隠れて隠れて」
     リストが物陰に晴奈を引っ張り込む。そのまま隠れてエルスたちが通り過ぎるのを待ち、また後をつける。
     と、エルスが急に立ち止まり、明奈に何かを話しかける。
    「……メイナ、これ……」
     二人の話し声は完全には聞き取れないが、どこか楽しそうにしている。
    「ほら、……見せたら、……きっと……」
    「そうかしら? ……それじゃ……」
     エルスが抱えていた袋から何かを取り出し、明奈に手渡す。遠目には良く分からないが、どうやら髪留めのようだ。
    「おー、可愛い。これは……似合う……」
    「まあ、エルスさんったら」
     エルスの言葉に嬉しそうに笑う明奈を見て、晴奈の怒りはついに爆発した。
    「も、もう……、我慢ならん!」
    「えっ、セイナ?」
     リストがその声に反応した時には既に、晴奈はエルスたちのすぐ後ろに迫っていた。

    「あ、そうだ。メイナ、これ今付けてみない?」
     帰り道に差し掛かったところで、エルスが袋を足元に下ろして中を探る。
    「さっきの髪留めでしょうか?」
    「そう、さっきの」
     エルスは袋の中から髪留めを取り出し、明奈に差し出す。
    「ほら、お揃いって言うのを見せたらさ、お姉さんもきっと喜ぶよ」
    「そうかしら? ……そうですね。それじゃ、付けてみますね」
     明奈は丸まった白い狐があしらわれた髪留めを、前髪に留めてみる。
     それを見て、エルスは口笛を吹いてほめちぎった。
    「おーぉ、可愛い。これは買って大正解だったね。お姉さんにも良く似合うだろうなぁ」
    「まあ、エルスさんったら」
     髪留めを付けた姉を想像し、明奈はクスクス笑っていた。

     そこに、怒り狂った晴奈が割り込んできた。
    「エルス・グラッド! 今すぐ、明奈から離れろッ!」
     いきりたつ晴奈とは正反対に、エルスはのほほんと笑っている。
    「うん? ああ、セイナさん」
    「ああ、では無いッ! 成敗してくれるッ!」
     ヘラヘラと笑うその顔が癪に障り、晴奈の怒りはさらに膨れ上がった。
     その怒気を察したのか、エルスはヘラヘラ笑いながらも、すっと拳法の構えを取る。外国の人間とは思えない、見事に隙の無い、完璧な構え方だった。
    「えっと、どうして怒ってるのか、良く分からないけれど……。何にもせずに、やられるわけには行かないよねぇ」
    「どうして、だと!? 本気で言っているのか、貴様ッ!」
     晴奈が先に刀を抜き、仕掛ける。ところが――。
    「えいっ」
     パンと、手を打つ音が響く。あろうことか、白刃取りである。
    「そん、な、……馬鹿な!?」
     焔流免許皆伝の晴奈の刀が――「燃える刀」ではないし、本気を出してはいなかったのだが――あっさりと防がれてしまい、晴奈は戦慄した。
    「ねえ、落ち着いてさ、話し合おうよ」
    「だ、黙れッ!」
     晴奈はエルスの腹に蹴りを入れて弾き飛ばそうとした。だが、その行動も読まれたらしく、エルスはぱっと刀から手を離して飛びのく。
    「やめて、お姉さま!」
     明奈が悲鳴じみた声を上げるが、晴奈の耳には入らない。二太刀、三太刀と繰り出すが、すべてひらりひらりとかわされる。
    (この男……、思っていたよりも、ずっと手強い! 『猫』の私と、遜色ない身のこなしだ)
     四太刀目を放とうとして、一瞬踏み留まる。
    (どうする? 焔を使うべきか?
     格下相手に使うのは、恥ではある。だが彼奴はどうやら、相当に強い。使っても恥にはなるまい。いや……、むしろ使わねば、勝負になるまい)
     晴奈は心の中を整理し、精神を集中させて、刀に炎を灯らせた。
    「火、か。それが焔流の真髄、ってやつかな。
     ねえ、セイナさん。本当にもうやめにしない? 不毛だと思うんだけど」
     エルスは笑い顔を曇らせて――それでも、「苦笑」と言った感じだが――和解を提案する。だが怒り狂った晴奈は、それを却下した。
    「断るッ! 勝負が付くまでだッ!」
    「そっか。じゃあ、うん。やるよ」
     エルスは再び構え直し、晴奈の攻撃に備えた。
     そのまま両者ともにらみ合ったところで――。
    「お姉さまッ!」
     明奈が二人の間に入り、晴奈の頬をはたいた。
    蒼天剣・邂逅録 3
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、72話目。
    仲直り。

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    4.
     突然の明奈の行動に晴奈は虚を突かれ、刀の炎が消える。
    「明奈?」
    「エルスさんの言う通りよ! こんな争いはやめて! 折角エルスさんが仲直りしようと思って、贈り物を一緒に……、あっ」
     明奈はしまったと言う顔をして、口を押さえる。エルスは頭をかきながら苦笑している。
    「あらら、言っちゃったかぁ。驚かせようと思ったのにな~。
     ……ん、まあ。この前さ、悪いことしちゃったから」
     そう言って、エルスは傍らに置いてあった包みから小箱を取り出す。
    「狐小物専門店って言うのがあってね。可愛いものがいっぱい置いてあったから、これを買ってみたんだ」
     晴奈は小箱を渡され、そろそろと開けてみた。中には、丸まった金色の狐を象った髪留めが入っている。
    「あ……」
     それを見て、晴奈の怒りは氷解した。と同時に、申し訳なさがこみ上げてくる。
    「あ、その……、その。大変、失礼しました、エルス殿」
     晴奈は顔を真っ赤にして、エルスに頭を下げた。
    「いいよ、別に。一度、焔流って剣技を間近で見てみたかったし、いいプレゼントになったよ。ありがとう、セイナさん」
     そう言ってエルスは笑い、続いてリストに近寄ってまた、小箱を渡した。
    「リストにもあげる。こーゆーの、欲しかったって言ってたからさ」
    「え、……アタシに?」
     箱を開けたリストは途端に顔と耳を真っ赤にして、エルスに背を向けた。
    「その、えーと。ありがたく、受け取ってあげるわ」
    「喜んでくれて嬉しいな~、はは。
     ……っと、そうだセイナ」
     エルスはもう一度、晴奈に向き直る。
    「良ければ僕のことは、普通にエルスって呼んでほしいんだ。堅苦しいのは、どうにも苦手なんだ」
    「ふむ。……分かった、エルス」
     晴奈ももう一度うなずき、改めて挨拶した。
    「お主のことを少し誤解していた。……その、今後とも、よろしくお願いしたい」
    「うん、よろしくセイナ」
     エルスはいつも通りの笑顔で、晴奈に返した。



     こうして晴奈とエルスは仲直りし、同時に互いを兵(つわもの)と認め、尊敬するようになった。
     交流するうち、晴奈は思っていたよりずっと、エルスの頭がいいこと――ナイジェル博士の言った通り、優れた洞察力と思考力、広く深い知識を有していることに気付いた。
     一方でエルスも、晴奈の実力の高さに感服し、女性に目が無い彼としては珍しく、口説くことをせずに、様々な話や稽古、囲碁などに興じていた。

     これより30年以上に渡り、二人の友情は続くこととなる。

    蒼天剣・邂逅録 終
    蒼天剣・邂逅録 4
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第73話。
    エルス流ナンパのテクニック。

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    1.
     エルス・グラッドと言う人物は、色々な意味で晴奈にとって不可解、不思議であり、初めて見る類の人間だった。
     考え方も、性格も、それまで出会ってきた者たちの中でも異質と言っていいほど、他人との隔たり、差異がある。無論、晴奈も「独特の性質を持つ者」なら数名ほど見たことはある。大抵そんな者たちは偏狭、偏執な性分で、人との交わりを極力避けていることが多い。
     ところがエルスはその点においてもまた、違う面を持っていた。



    「ねえねえお姉さん、ちょっと道、聞いてもいいかナ?」
    「あ、はい。何でしょうか?」
     故郷、黄海を散歩していた晴奈が、道端を歩いていた人間の女性に声をかけ、道を尋ねているエルスを見かけた。
    「えーと、港はどっちかナ? 僕、この街に着たばかりだかラ、良く分からなくテ」
     エルスのしゃべり方と話の内容に、晴奈は首をかしげた。
    (何だ、その片言は……? しゃべれるだろう、普通に。いや、普通どころか央南人と見紛うほど流暢に。
     それにお主、海路でこの街を訪れたと言っていたではないか。お主ほどの頭があれば道くらい、一度通れば簡単に覚えられるだろう?
     そもそも聞くなら私や明奈に聞けばいいものを、何故見ず知らずの者に尋ねる?)
    「あ、外国の方なんですね。えっと、そうですね……、あの大通りを右に進んで、3つ目の筋を左に入って……」「あ、あ、ちょっと待ってくださイ」
     エルスは慌てた素振りを見せ、女性の説明をさえぎった。
    「口だけじゃ、ちょっと分からないデス。良ければ、案内してほしいナー」
    「え、……うーん。それじゃ、付いてきてください」
     女性は少し困った顔を見せたが、エルスの頼みを了承した。エルスはニコニコ笑い、お礼を言う。
    「あー、ドモドモ。ありがとうございまス」
     そう言うなり、エルスは女性の手を握って引っ張っていった。
    「えっと、こっちの方でしたネ。それじゃ、行きましょウ」
    「え、あ、あの? あ、そっちなんですけど、手、あの、何故握られて……」
    「だって、もしはぐれたラ僕、迷子になっちゃいますかラ」
    「は、はあ……」
     そのままエルスは女性とともに、雑踏の中に消えた。

    「ただいまー」
     それから3時間後、エルスは仮住まいの黄家屋敷に戻ってきた。
    「おかえり、エルス」
     晴奈とともに大広間にいたリストが声をかけ、エルスはにこやかに返す。
    「いやー、央南っていいね。エキゾチックだ」
    「……?」
     唐突な感想に、晴奈はまた首を傾げる。
     と、エルスの襟元に何か、赤いものが付いているのに気付く。
    「エルス、襟に……」
    「うん? ……っと」
     エルスは襟に手を当て、すぐに引っ込めた。その仕草を見て、リストが尋ねる。
    「どしたの、エルス?」
    「ああ、ゴミが付いてたみたいだ」
    「ふーん」
     リストはそれだけ返して、広間から離れた。それと同時にエルスが晴奈に近付き、耳打ちする。
    「セイナ、困るよ~」
    「は?」
     エルスははにかみ、恥ずかしそうにささやく。
    「口紅なんか見つかったら、またリストに殴られちゃう」
    「……ようやくピンと来た。お主、昼間に出会った女を誘ったな?」
     晴奈のやや侮蔑が混じった問いに、エルスはにべもなく答える。
    「あれ、見てたんだ。……はは、大正解」
    「妙な片言まで使ってたぶらかすとは、本当に軟派な奴だな」
    「いいじゃないか。向こうだって喜んでたし」
     あっけらかんと返され、流石に晴奈も気分が悪くなる。
    「……」
     晴奈は憮然としつつ、リストの去った方向を向く。
    「どしたの、セイナ?」
     晴奈はすーっと息を吸い、大声を上げた。
    「リスト! またエルスの悪い虫が出たぞ!」
    「ちょ」
     エルスの笑顔が青ざめると同時に、なぜか1階にいたはずのリストが2階、大広間吹き抜けの廊下から襲い掛かってきた。
    「エルスッ!  アンタまた、何かしたのッ!?」
    「ぎゃーッ!?」
     エルスはリストに頭を踏みつけられ、床に顔をめり込ませた。



     独特の感性、思想を持つ変人でありながら、他人と深く接する「変わり者の中の変わり者」。
     それが「大徳」エルス・グラッドと言う人物だった。
    蒼天剣・大徳録 1
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第74話。
    大人物の人生哲学か、ナンパ男の言い訳か。

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    2.
    「あいたたた……」
     客間に運ばれたエルスは首と後頭部をさすりながら、ヘラヘラ笑っている。
    「セイナ、ひどいじゃないか」
    「元はと言えば、お主の行いが原因だろうが」
    「ま、そりゃそうだけどさ」
     リストはエルスを踏みつけた後も一通り怒り倒し、そのまま屋敷を出て行ってしまった。
    「まったく、何度怒らせれば気が済む?」
    「しょうがないさ、これは『趣味』の問題だし。ま、あの子は薬缶みたいな子だから、そのうちケロッとして戻ってくるさ」
    「……下衆な趣味だな。お主の頭に公序良俗と言う言葉は無いのか?」
    「うーん」
     エルスはそっぽを向き、両手を挙げる。
    「綺麗なご婦人がいたら、声をかけるのが紳士の礼儀かな、って」
    「大馬鹿者」
     今度は晴奈がエルスを叩いた。
    「あいたっ」
    「女をたぶらかして、何が紳士か」
    「そうですよ、エルスさん」
     明奈が洗面器と手拭を持って、客間に入ってきた。
    「あ、わざわざゴメンね、メイナ」
    「いえいえ。……本当にいけませんよ。北方ではどうなのか、良くは知りませんけれど。色恋に雑な方は、央南ではあんまり歓迎されませんよ」
     水にひたした手拭を絞りながら諭してくる明奈に、エルスはまた苦笑する。
    「あはは……、雑にしてるつもりはないんだけどね。誰であっても、真面目に付き合ってきたつもりだし」
    「それなら、リストさんとはどうなんですか?」
    「うん?」
     明奈から手渡された手拭を頭に当て、エルスは短くうなる。
    「んー……、どう、って?」
    「え……?」
    「僕が恋愛を楽しむことと、リストと何の関係があるの? あの子とは別に、付き合ってるわけじゃないんだけど」
     今度は明奈が憮然とした顔になる。
    「付き合ってない、って……。どう見てもリストさん、嫉妬してますよ」
    「そんなわけ無いじゃないか、はは」
     エルスは軽く笑い飛ばし、明奈の見解を否定する。
    「あの子とは一緒に仕事して、結構長い。それなりに信頼関係もあるし、嫌ってないのは確かさ。でも、いつも僕に向かって罵詈雑言を放つし、どう考えてもあの子が僕に恋愛感情を持ってる、って言うのはちょっと、無理じゃないかなぁ。
     それにあの子が僕と一緒に来たのは、僕の仕事に加担したからだよ。それに、博士のお孫さんでもあるし、どっちかって言うと付き添いって感じだ。怒るのはきっと、博士に恥をかかせないようにと、彼女なりに配慮してるからじゃないかな」
    「そう、ですか……?」
     まだ腑に落ちないと言う面持ちの明奈に、エルスはへら、と笑いかけた。
    「そう、だよ。第一、本当に僕のことが好きなら、足蹴にしないだろ? ほら、このコブ」
    「……ま、そうだな」
     エルスの後頭部の腫れを見た晴奈は、エルスの意見がもっともらしく感じた。
    「しかし……。お主、それだけ他人の洞察ができるのに、何故神経を逆なでするようなことばかりするのだ?」
    「んー、……他人の理解を得るより、自分の考えを実行に移すことを優先してるから、かな。
     確かに僕のやってることは、周りに理解を得られないとは思う。でも、何に対してもそう言うことはあるんじゃないかな」
    「……?」
     エルスの言葉の意味が分からず、晴奈も明奈も顔を見合わせてきょとんとする。
    「えっと、例えばね。
     僕はセイナじゃ無いから、セイナがいま何を考えて、何を大事にしてるかってことは、予想は付いても、完全に読みきれるわけじゃない。同じようにセイナも、僕の趣味や好きなものは分かっても、僕がいま何を考え、何をしたいかってことは、僕から言わないと分からないだろ?」
    「それは……、まあ」
    「もちろんそう言うことは、仲良くなっていくうちに自然と分かったりもするだろう。でも、そうなるまでには非常に時間がかかる。すべての人間関係においてそんな過程を経ていたら、その人と一緒にやりたいと思ってることは多分、何もできなくなる。
     理解には時間がかかるし、時には到底無理だって言うこともある。莫大な時間をかけてただ理解しようと考えるだけじゃ、時間の無駄遣いさ。だから、理解は二の次。先に、行動を取った方がいいと思うんだ。
     第一、行動してその結果を見せた方が、理解も早いだろうしね」
    「ふむ……」
     感心する晴奈を見て、エルスはまた笑った。
    「ま、博士の受け売りだけどね」



     それから2時間後。
     エルスの言う通り、リストは何事も無かったように夕食の前に戻ってきた。
    「ただいまー」
    「ああ、おかえりリスト」
     エルスが挨拶すると、リストはパタパタと手を振って会釈する。二人があまりに平然としているので、晴奈は思わずリストに尋ねた。
    「もし、リスト」
    「ん?」
    「怒ってないのか?」
    「ああ、さっきのアレ?」
     リストはまた、手をパタパタ振る。
    「毎度のコトだし。そりゃ、ムカッと来るけど蹴っ飛ばせば気、晴れるしね。
     アイツのやるコトに一々まともに相手してちゃ、気狂っちゃうわよ。アイツ、頭いいけどバカだし」
    「……そうか」
     リストの言い草に、晴奈は少し不愉快になった。
    (それは、あんまりでは無いだろうか)
     とは言え、そう思ったことを口にはしなかった――恐らく、理解してもらえないので。
    蒼天剣・大徳録 2
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第75話。
    大きな買い物。

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    3.
     黄屋敷にて、エルスの師、ナイジェル博士と、晴奈たち姉妹の父、紫明が、応接間で何枚かの書類に目を通していた。
    「ふむ、ここもいいですな」
    「こちらもなかなかですよ」
     二人が見ているのは、不動産のチラシである。
     元々エルスたちは、亡命を目的として黄海に移ってきた身である。故郷の北方にはしばらく戻れないため、当然、長期の滞在になる。
     となればずっと黄屋敷にいるわけにも行かないので、どこかに家か部屋を借りようかと考えた博士は、黄商会の宗主であり、この街の不動産も手がけている紫明に相談していたのだ。
     紫明も娘を助けてくれた恩人に感謝の意を表明しようと、熱心に家探しを手伝ってくれた。
    「ここも良さげですが、ちと高いか……」
    「それに街から少し離れていますし、あまりいい物件では無いですな。
     ……そうだ、こちらはいかがでしょうか?」
     紫明がある一件を博士に提示する。
    「ふむ、賃貸ではなく購入ですか。とは言え……、なるほど、ここから近い。それに購入と言うことを考えれば、かなり安めですな。
     一度、見てみましょうか」



     博士と紫明、そして付き添いに晴奈とエルスを加えた4人で、その物件まで足を運んだ。
    「ふむ、見た感じはまだ新しい。
     建物の外観を見るに、ここ10年以内に造られたように見える。中の柱や壁もしっかりしているし、長持ちしそうだ」
     エルスが壁や階段を触りつつ、博士に同意する。
    「しかし、良く見れば大掛かりな補修ですね、これ。いや、どちらかと言えば拡張工事なのかな? 随分手を加えてある。相当お金をかけて改築してありますねぇ。
     それに、なかなかおしゃれなデザインですね。ここ最近、央南で流行している建築様式だ。これが本当に、380万玄なんですか?」
     ちなみに「玄」と言うのは央南の通貨、玄銭のことである。
     なお参考として、黄海・黄商会の新入りの月収がおよそ3万玄、黄商会の年間収益が6、70億玄程度になっている。
     博士は北方を発つ際に家財道具を処分し、現在3千万玄近い金を持っている。買おうと思えば、買えないことはないのだが――。
    「ああ、書類の上では確かにそう書いておる。……じゃから、どうにも怪しくてな」
     疑問に思う博士に、紫明も同意する。
    「確かに。これだけの物件であれば、その4~5倍はしてもおかしくありません。ただ、私も同業者から簡単な情報を渡されただけですので、詳しい事情については……。
     そろそろ売主が来るのでその辺り、尋ねてみてはいかがでしょうか」
    「そうですな。……おや、あの『猫』の方ですかな?」
     話しているうちに、その売主が姿を現した。

     売主の姿に、晴奈は既視感を覚えた。
    (む……? この女性、どこかで見たような?)
     その猫獣人の女性は、確かに見覚えがある。だが、どこで会ったのかまでは、はっきりと思い出せない。
    「あの、黄不動産の方でしょうか?」
     女性は不安そうに尋ねてくる。
    「ああ、はい。私が代表の黄紫明です。楊さんで、お間違い無かったでしょうか」
     紫明が挨拶すると、女性はほっとしたように自己紹介を始めた。
    「はい、そうです。わたくし、楊麗花と申します。初めまして、黄さん」
    「初めまして。早速ですが中の方、拝見させていただいてもよろしいでしょうか」
     紫明は慣れた素振りで楊に応対している。楊はうなずき、家の扉を開けた。
    「既に家具など、中の荷物は処分しております。もしご購入される場合は、あらかじめご用意くださいね」
    「承知いたしました。少し質問させていただいても、よろしいでしょうか」
     博士は中をきょろきょろと見回しながら、楊に尋ねる。
    「何でしょうか?」
    「これほど程度のいい邸宅を、何故380万と言う破格の値でお売りに?」
    「ええ、それは……」
     博士に尋ねられた途端、楊の顔が曇る。
    「主人が先月、病で亡くなりまして。それで田舎の方に戻ろうかと考え、早急に処分したいと思い、安めに値を付けさせていただきました」
    「なるほど、そんな事情が……。これはとんだ失礼を」
    「いえ……」
     謝る博士に、楊は静かに首を振った。
    「幸い、主人はこの街で成功を収めまして。それなりの資産を遺してくれましたので、わたくしも娘も、しばらくは食うに困ることはございません」
     娘、と聞いて晴奈の脳裏にある人物が思い出された。
    (あ、そうか。……似ているが、この人ではない。それに『猫』ではなく、耳は短かった。私が見たのは恐らく……)
     晴奈はチラ、とエルスの方を見た。エルスも見返し、片目をつぶった。
    (……予想通りか)
     晴奈が見たと思ったのは楊本人ではなく、楊の娘――先日エルスが口説いた、あの女性だったのだ。

     博士と紫明、楊が相談している間、晴奈とエルスは彼らと少し離れたところで話をした。
    「ヨウ、って聞いてあれ? と思ったんだよ」
    「やはりか」
    「うん。あの子、楊柳花って名乗ってたし、顔立ちもすごく似てる。多分、レイカさんの娘さんだろうね。いやー、偶然ってすごい」
     ヘラヘラ笑っているエルスに、晴奈は呆れる。
    「悠長なことを言ってる場合か。もしここにその柳花嬢が現れたら、えらいことになるぞ」
    「え?」
     エルスの笑いが、一瞬止まる。
    「何で?」
    「何でって……、まずいだろう、どう考えても。売主の娘をたぶらかしたことが発覚すれば、この話が流れる可能性もある」
    「ああ……」
     エルスはまた、笑い出した。
    「はは……、よくよく考えれば、ちゃんと説明する間が無かったんだよね」
    「説明?」
    「んー……」
     エルスは話中の博士たちを確認し、晴奈に向き直る。
    「セイナ、僕とリューカが出会った時、どこまで見てたの?」
    「どこ、と言うと……、港に行く道を尋ねていたところまで、だな」
    「じゃ、その後のことは当然、知らないよね」
    「当たり前だ。知りたくもないが」
     晴奈の反応を見て、エルスはまた笑った。
    「やっぱり、誤解してる。じゃ、その後のことを話すね」



    「えっと……、あちらが港になります」
    「ふむー、そうですカ」
     柳花に港まで案内してもらったエルスは、ここで片言をやめた。
    「コホン。……リューカさん、ご親切にどうも。良ければお礼をさせていただきたいのですが」
    「え、え? あの、あれ? エルスさん、話し方……」
     あまりの変わりように、柳花は口を開けてぽかんとしている。
    「央南語は囲碁好きの教官に2年ほど、みっちり教えてもらいましたから。
     さ、海を眺めながらのお茶も、なかなか風流ですよ」
    「は、あ……」
     柳花は化かされたような顔つきで、エルスを見上げている。どうやら一種の思考停止状態に陥っているらしく、半ばエルスの言いなりになっていた。
    「ああ、あの店なんか良さそうですね。行きましょう、リューカさん」
    「え、あ、はい」
     エルスに手を引かれ、柳花はそのまま付いていってしまった。

    「へえ、お父さんが……」
     海沿いにあった喫茶店に入った後も、エルスは巧みな話術と心理操作術で柳花の素性を聞き出していった。
    「うん、一月ほど前に。それでお母さん、悲しいからこの街を離れて田舎に戻りたい、って言ってるの」
     柳花もエルスの柔和な物腰と優しい笑顔に警戒を解き、友達のように接している。
    「そうなんだ。じゃあ、もう家とかも処分したの?」
    「うん。すごく気に入ってたんだけど……」
     顔を曇らせる柳花を見て、エルスは腕を組んで軽くうなる。
    「うーん……、じゃ、気晴らしでもしよっか?」
    「え?」
    「悲しい時は笑わないと。ドンドン悲しくなっちゃうよ」
    「あ、うん……」
     唐突な提案と意見に、柳花は終始戸惑っているが、エルスは意に介さない。
    「じゃ、行こうか」
     そしてまた、唐突に行動する。傍から見れば強引だったが、柳花はなぜか、素直にうなずいてしまった。
    「う、うん」

     エルスは柳花を連れ、港から公園、繁華街や市場を回った。
     最初のころはまだ戸惑っていた柳花も、あちこち回るうちに自然と笑みが漏れ、楽しそうに振舞うようになった。
     やがて日も傾き始め、わずかに肌寒さを感じる時刻となり、エルスと柳花は帰路についた。
    「少しは、気が紛れたかな?」
    「うん、すごく……」
     いくつか贈り物もされ、柳花の手には大きな紙袋が提げられている。
    「本当に、楽しかった。ありがとね、エルスさん」
    「いやいや、お礼なんて……」
     エルスが謙遜しようとしたその時、柳花がいきなり抱きついてきた。
    「……お?」
    「ここを離れる前に、すごくいい思い出ができた。あたし、一生忘れないわ」
    「……はは、それはどうも」
     そのまま10分ほど、柳花はエルスを抱きしめていた。エルスの襟に付いていた口紅は、この名残だろう。



    「……本当に、それだけか?」
    「そうだよ」
     エルスの話を聞き終えた晴奈は、半信半疑でエルスの顔を見つめている。
    「本当だってば。いくら僕でも、初対面の子を口説き落としたりしないよ」
    「まあ、信じるか。お主が私にそんな嘘をついても、意味が無いからな」
     晴奈とエルスが話している間に、博士の方も話がまとまったようだ。
    「では、正式に契約させていただきます」
    「ありがとうございます」
     どうやら、博士はこの家を買うことにしたようだ。
    蒼天剣・大徳録 3
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第76話。
    意外と短気。

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    4.
     新居も決まり、早速エルスたちは家具の買出しに出た。
    「ふーむ、食器や棚はともかく、ベッドは流石に無いか」
     市場を回りながら、博士が残念そうにつぶやく。
    「央南の人は大抵、布団ですからねぇ」
    「まあ、無さそうなら造ってもらおうかの」
    「その方が早いでしょうねぇ」
     付き添いのエルスは適当に相槌を打ちながら、市場の売り物を眺めていた。
    「……お。エドさん、いいのがありますよ」
    「うん?」
     エルスの指差す方を向いた博士は、「ほう」と声を上げた。
    「なかなかの年季物じゃな。材質は、樫か。手入れも行き届いておる。……買ってしまうか?」
     露天の軒先にあったその碁盤を見て、博士はニヤリとエルスに笑いかける。エルスもニヤリと笑い返し、うなずく。
    「買ってしまいましょう」
    「ひゃひゃひゃ……」
     博士は特徴ある高い笑い方で返し、売主に声をかけた。
    「もし、店主。この碁盤、いくらかの?」
    「えーと、んー……、5千玄でいいや」
    「よし、買った」
    「まいどありー」
     即金で買い、博士は碁盤をエルスに持たせる。
    「ひゃひゃ、いい買い物をしたわい」
    「そうですね。後で一局、打ちましょうか」
    「そうじゃの、楽しみじゃ。……おう?」
     エルスたちの前を、少女が一人横切った。

    「どこかで、見たような……?」
     首をひねる博士をよそに、エルスは声をかける。
    「リューカさーん、こんにちはー」
    「……あっ」
     呼びかけられた少女は振り向き、エルスたちに駆け寄った。
    「こんにちは、エルスさん。久しぶりね」
    「どもども。ほら、エドさん、この前家を買った人の娘さんですよ」
    「おお、そうか。初めまして、えーと、リューカさん、でしたかな」
    「はい、楊柳花と言います。あ、母から家のこと、伺いました。ありがとうございます、博士」
     博士はニコニコと笑って返す。
    「いやいや、礼を言うのはこちらの方です。いい家をいただきまして……。こちらのグラッド君とはもう、お知り合いのようですな」
    「ええ、少し前に知り合いました。随分、面白い方で……」
     柳花も笑って博士に会釈する。
     なお、この間――。
    《エルス。お前さん、この子に手、付けたりしてやせんだろうな?》
     博士が手信号――北方の諜報員が使う、手を使った暗号――でエルスに尋ねていた。
    《まさか。友人ですよ》
     エルスも碁盤を持ったまま、指先で会話する。
    「お二人とも、家具をお求めにこちらまで?」
    《本当かのう? お前さん、手が早いからな》
    「そうなんだ。でも、なかなかいいのが無くってね。ついつい、余計なものばっかり買っちゃうんだ」
    《自分の先生に嘘をつくほど、僕はひねくれてませんよ》
    「その碁盤も?」
    《本当かのう……? ま、どちらでもええわい。後腐れないからのう》
    《……何ですか、それ》
    「うん、そうなんだ。僕も博士も、囲碁が大好きでね」
    《そのまんまの意味じゃ。引っ越す子じゃし、手を付けたところでゴタゴタせんじゃろうしな》
    「へぇ……。博士さん、お強いの?」
    《いくら何でも僕、怒りますよ? そんな言い方したら》
    《したらなんじゃい? ワシゃ、お前さんの先生じゃぞ? 師に文句垂れてどうする?》
    「ええ、少なくとも小生の故郷では一番だったと自負しております」
    「はは……」
    《『例え王侯貴族が相手でも間違いを正さなければ忠義とは言わない』ってエドさん言いませんでしたっけー? 言っておきますがこれ以上侮辱されたら僕に青い髪のお孫さんが乗り移って碁盤がとんでもない方向に飛んで行くかも知れませんがそれでもいいですね?》
     エルスの顔は笑いながらも、手信号が段々荒々しくなってくる。博士はそこで、ようやく退いた。
    《ま、ふざけるのもこの辺にしとくかの。信じておるて、お前さんはそんな下劣な真似なんかせんよ》
    《……なら、いいです》
    「確かエルスさんって、北方の人でしたよね。 博士さんも、北方の方なの?」
    「うん」
    「北方って、温和な人が多いのかな?」
     柳花の言葉に、エルスと博士は一瞬、きょとんとした。
    「え?」「それはまた、どう言う理由で……?」
    「だって、エルスさんも博士さんも、ずっとニコニコしてるから」
    「いやいや、そんなこと無いよ。中には好々爺みたいに見えて実は腹黒い人もいたりするから、出会った時は気をつけなよー?」
    「うふふ、そうするわ。……それじゃ、またね」
     柳花は軽く会釈して、その場を去った。残ったエルスと博士は、ほんの一瞬――周りを通る人々が気付かないくらいの、ごく短い時間――同時に、互いを睨んだ。
    (誰が腹黒いじゃと、このボケナス!)(僕エドさんが、なんて言ってませんよー?)
     すぐに二人ともにっこりと笑い、同時につぶやいた。
    「さ、帰って一局やるかの」「帰って一つ、打ちましょうか」
     笑いながらも、二人の間にはバチバチと火花が散っていた。



     その日は夜遅くまで碁石を叩きつける音が響いていたと、翌朝、目にくまを作ったリストが語っていた。
    蒼天剣・大徳録 4
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第77話。
    もう一度デート。

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    5.
    「仲が悪いのか、エルスと博士は?」
     リストから愚痴を聞いた晴奈は、そう尋ねた。
    「ん、いや、悪いってワケじゃないんだけどね」
     リストは明奈が淹れてくれたお茶をすすりつつ、話を続ける。
    「じーちゃん、ああ見えて口悪いし、結構無神経なトコあるし。で、エルスもいっつもヘラヘラ笑ってるけど、割と頑固で強情なところあるもん。
     だから時々、ケンカするのよ。まあ、普段は仲いいんだけどね」
    「ケンカするほど仲がいい……、と言うことですね」
     晴奈にお茶を出しつつ、明奈が相槌を打つ。
    「ま、そんなもんね」



    「ふあ、あ……」
     深夜遅くまで博士と碁を打ち続けたエルスは、しきりに生欠伸をしながら、郊外の丘に寝転んでいた。
    「エドさん、しつこいんだよなぁ……」
     目をつぶると、夕べの棋譜が浮かんでくる。
    「あー……、あそこはもうちょっと、抑えて打つべきだったなぁ」
     目を開け、棋譜を思い出しながら、空を指差して検討する。
    「あと、ここももうちょい、早めに打っていれば……、ふあぁ」
     夕べ満足に眠れなかったため、次第に眠気がやってきた。
    「……ちょっと、寝ようかな」
     もう一度目をつぶり、エルスは昼寝し始めた。

    「エルスさん、エルスさん……」
     誰かがエルスを呼んでいる。エルスはすっと目を開け、上半身を起こした。
    「誰かな?」
    「こっち、こっち」
     後ろを振り向くと、あの少女――柳花が座っていた。
    「ああ、こんにちは」
    「こんにちは、エルスさん。お昼寝?」
    「ああ、うん」
    「ごめんね、起こしちゃって」
     謝る柳花に、エルスはパタパタと手を振る。
    「いや、いいよ。どしたの、何か用かな?」
    「うん、あのね……」
     柳花の顔が曇る。
    「明日、黄海を出るの」
    「……そっか。それで、僕にお別れの挨拶を?」
    「うん。エルスさんや博士さんには、色々お世話になったし。出る前にもう一度、挨拶しておこうと思って」
    「ふむふむ。……でも、博士は今、寝てると思うな。夕べからちょっと、具合が悪かったし」
    「あら……」
     エルスは博士に会わせたくない――むしろ、自分が会いたくないので軽い嘘をついた。
    「それよりも、もう一度買い物に行かない?」
    「買い物に?」
    「そう。最後の記念にね」

     エルスは柳花を連れ、繁華街へと入る。
    「今日はどこに行くの?」
    「ちょっと裏に入ったところに、いい店があるんだ」
     そう言うとエルスは柳花の手を引き、細道へと入る。
    「ちょ、ちょっと。危なくない?」
    「大丈夫、大丈夫。僕がいるんだし」
     細い路地をすり抜け、エルスはある店の前で立ち止まった。
    「ここだ。良かった、開いてるみたいだ」
     トントンと戸を叩き、先にエルスが店の中に入る。
    「いらっしゃい」
     奥で新聞を読んでいた初老の猫獣人が、顔を上げて挨拶する。
    「こんにちは。あのー、作ってもらいたいモノがあるんですが」
    「んー?」
     老人は新聞をたたみ、のそのそとエルスのところまで歩いてきた。
    「何を作ってほしい?」
    「この子に似合う、うーん……、腕輪かな」
    「あいよ」
     老人はそう言うと、柳花の腕を取って手首を握った。
    「きゃ……」
    「ああ、すまん。見ないと作れんから」
    「は、はあ」
     老人は柳花から手を離し、またのそのそと奥へ消える。程なくして、カンカンと言う短く、高い音が聞こえてきた。柳花は握られた手首をさすりながら、エルスに向き直る。
    「ああ、ビックリした。いきなりつかんでくるんだもん」
    「ゴメンね、あのおじいさん、ぶっきらぼうな人だから。でも腕は確かだから。金属細工の職人なんだ」
    「ふうん。あ、でも腕輪って、作るのに時間がかかるんじゃない?」
    「ああ、それは大丈夫。この前、……っと」
     エルスは胸元から鎖でつないだ、2つの銀輪と1つの金輪が絡んだ首飾りを取り出す。
    「これ、作ってもらったんだけどね。すごく早かったんだ。確か、2時間くらい」
    「へえ……」
     柳花は奥の工房に目をやり、すぐにエルスへと視線を戻す。
    「ずっとこの街に住んでたけど、こんなお店があるなんて全然知らなかった。エルスさんって、すごいね」
    「はは、僕は昔から、物を探すのが得意だから。それでご飯食べてたしね」
     エルスと柳花が談笑していると、老人の奥さんらしき短耳が茶の乗った盆を持って、奥からひょこひょこと歩いてきた。
    「グラッドさん、でしたっけ。良かったらできるまで、ゆっくりしていってくださいな」
    「あ、すみません。それじゃ遠慮なく、いただきます」
     エルスは茶を手に取り、傍らに置いてある長椅子に腰かけた。
    「さ、そちらのお嬢さんもどうぞ」
    「あ、はい」
     柳花も茶を手に取り、エルスの横に座る。座ったところでエルスが、柳花の事情を伝える。
    「この子、明日引っ越すんです。それで、思い出作りにと思って」
    「まあ、そうなんですか。じゃあ、急がせないといけませんね」
     お盆を傍らに持ち、老婆はいそいそと奥へ戻っていった。すぐに奥から、ボソボソと話し声が聞こえてくる。
    「あなた、聞きました?」
    「ああ、1時間もあればできる」
    「そう、それならゆっくりしてもらってもいいかしらね」
    「俺にも茶をくれ」
    「はい、すぐに持ってきますね」
     老夫婦の話を聞いていた柳花は、クスクスと笑う。
    「なんか、いい雰囲気ね」
    「そうだね。落ち着くんだ、ここ。大通りから離れてて静かだし、ちょっと暗めだけど綺麗な店だし」
    「それもあるけど、あの二人がすごく仲良さそう」
     そう言って柳花はため息をつく。
    「はあ……。もしお父さんが生きてたら、あんな風に老けていったのかしら」
    「どうかな、商売人だったそうだし……」
    「そうね。死んじゃう直前まで、ずっと布団の中で『店は順調か?』ってお母さんに尋ねてたもの。……だから、死んじゃったのかな」
     柳花の顔が曇り、今にも泣きそうな声になる。
    「なんで落ち着いて休んでくれなかったんだろう。そしたら、病気も治ったかも知れないのに」
    「……うーん」
     柳花の悲しそうな横顔を見て、エルスは買った家について発見したことを思い出していた。
    蒼天剣・大徳録 5
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第78話。
    大徳のエルス・グラッド。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
     エルスは茶をすすりながら、ゆっくりとした口調で語り始めた。
    「お父さんは家族に不自由させたくないと思って、床の中でも仕事のことを考えていたんじゃないかな」
    「そうかしら……? あたし、小さい頃からずっと、お父さんに構ってもらった覚えがあんまり無い。たまに遊んでくれたけど、帰ると大抵すぐ寝ちゃうし、いつも『少しは休ませてくれ』って怒られたし……」
     エルスは茶を飲み干し、人差し指をピンと立てた。
    「あの家を買って、あれっと思ったことがあるんだ。最初君の家、小さめで2階は無かったんじゃない? で、改築したのは多分10年くらい前で、君がまだ小さい時かな。それに弟さんか妹さんもこの頃、生まれてるんじゃないかな」
    「え? ええ、そうだけど。確かに妹もいるけど、何で分かったの?」
    「まず、階段に手すりが大人用と子供用、2つあった。君が子供の時に改築してなきゃ、子供用の手すりなんか付けたりしない。
     しかも階段自体、かなり緩やかに造ってある。安全に気を遣った構造だよ。それに緩やかにしようとすればするほど階段は長くなるし、最初にあった家では到底造れない大きさだった。だから、お金が入った後で敷地をかなり多めに増やしたんだろうと推察できる。
     それからお風呂。最初のサイズより、随分大きくなってたみたいだね。おまけに、家の壁を一度壊してまで拡張した跡が見られた。きっと家族が増えて、みんなで入れるようにと思って造ったんだろうね。
     他にもかなり大幅に改築した跡が――それこそ、新しく造ったんじゃないかと思うくらいに――見られたし、相当手を加えてたと思うよ」
    「うそ……、そんなことまで分かるの、エルスさん」
    「さらに推理すると、君のお父さんは多分、10年くらい前にかなりの大成功を収めたんじゃないかな。
     最初は小さく、狭い家が、十数年で2倍、3倍もの大きさになってる。そして成功してからは、できるだけ広くて住みやすい家にしようと頑張った跡が、あちこちにあった。
     家族のことを考えた、いい家だよ。多分、最期まで商売のことを考えていたのも、自分が放っている間に失敗して、また貧乏になりはしないかって、不安だったんだと思うよ」
    「……そっか。そうかも知れない。全然、気に留めてなかったけど」
     柳花は茶の入った湯のみを両手で抱えたまま、目をつぶった。
    「……最後にもう一回だけ、家を見ていい?」
    「いいよ。……エドさん、いなきゃいいんだけど」
    「え?」
    「ああ、何でもない。こっちの話」
     と、奥から老夫婦が並んで戻ってきた。
    「できたぞ」
    「はい、どうぞ」
     老婆は老人から銀と金の輪が絡み合った腕輪を受け取り、柳花の左腕にはめた。
    「まあ、ぴったりね。すごく似合うわ」
    「そ、そうですか? ありがとうございます」
     柳花は顔を赤くして、ぺこりと頭を下げた。



     数日後、柳花が黄海を離れてしばらく経った頃。
    「はーぁ」
     黄海の道端で、珍しくため息をつきながら歩いているエルスを見て、晴奈が声をかけた。
    「どうした、らしくない」
    「ああ、セイナ。いやね、ちょっと寂しいなーって」
    「うん? ……ああ、柳花のことか」
     エルスは空を見上げ、またため息をつく。
    「折角できた友達が遠くに行っちゃうって言うのは、いつでも切ないね」
    「ああ、確かにな。分からなくは無い」
     晴奈もエルスの横に立ち、空に浮かぶ雲を眺める。
    「元気にしてるかなぁ」
    「しているといいな」
    「うん……」
     晴奈は寂しそうにするエルスの横顔を見て、思わず尋ねてみた。
    「なあ、エルス」
    「んー?」
    「何故、お主はそれほど人懐っこいのだ?」
    「え?」
     エルスが晴奈に顔を向け、首をかしげる。
    「どう言う意味?」
    「初めて出会う人間にほいほいと声をかけ、すぐに慣れ親しみ、数日過ごしただけでそれほど気にかける。大したお人好しだよ、お主は」
    「そっかなぁ」
     エルスは頭をポリポリとかきながら、腕を組んで考えこむ。
    「まあ、僕は人が好きだから」
    「それも、不可思議ではあるな」
    「何で?」
    「頭がいいから」
     エルスは晴奈の返答を聞いて、また首をかしげる。
    「ゴメン、頭いいって言ってもらったけど、ちょっと意味が分からないなぁ」
    「私の中では、策を弄する者は人を陥れるのが楽しみ、と言う印象がある。お主が柳花と最初に会った時も、不慣れな者の振りをして近付いていたし、あれは策を弄していると言えないだろうか」
    「はは……、確かにあれは策略と言えば策略かなぁ。でも、人をいじめるのが快感だなんて、そんなのエドさんみたいに因業な人だけだよ。
     そう言う人は人の痛みを知ったらそれにつけ込むけど、僕は人の痛みを知ったら、その痛みを和らげてあげようと思っちゃうから。
     それに、分からない振りをしたのは何も、彼女を苦しめるためにやったことじゃないしね。あくまで友達になろうと思ってやったことだよ」
    「……まったく、おかしな奴だ」
     晴奈はクス、と笑って、エルスの肩をポンポンと叩く。
    「何だか気に入った、お主のことが」
    「はは、それはどうも」
     エルスもクスクスと笑いながら、晴奈に背を向けて歩き去った。



     独特の感性、思想を持つ変人でありながら、他人と深く接する「変わり者の中の変わり者」。
     それが「大徳」エルス・グラッドと言う人物である。

    蒼天剣・大徳録 終
    蒼天剣・大徳録 6
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第79話。
    狙われる明奈。

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    1.
     明奈との再会を喜び、数週間を黄海で過ごした後、晴奈はまた紅蓮塞に戻った。

     その後ふたたび修行の日々を過ごし、年が明けた双月暦516年はじめ頃。晴奈は黒炎教団についての、不穏なうわさをしばしば耳にするようになった。
    「何でも『人質として得た教団員が脱走した』、『逃げた教団員は故郷の黄海に戻っている』と言うような話が、巷に多く上っているようです」
    「ふーむ……」
     晴奈からの報告に、重蔵は腕を組んでうなる。
    「わしの方でも、そう言ったうわさは多少耳に入れておる。察するにその、『脱走した教団員』と言うのは……」
    「ええ。ほぼ間違い無く私の妹、明奈のことでしょう。
     そしてさらに、『教団は逃げた教団員を奪取すべく、黄海に攻め込む準備を進めている』とも」
    「それが真実であれば、黄海で一騒動起こるのは確実じゃろうな」
    「と言うわけで、近いうちにまた、黄海へと戻りたく……」
     そう要請した晴奈に、重蔵は深くうなずき、快諾した。
    「うむ。故郷の一大事とあれば、ここでじっとしているわけにも行かんじゃろう。すぐに向かいなさい。
     ああ、それと念のため、うちの剣士を30名ほど連れて行きなさい。腕の立つ者をわしが見繕って、声をかけておく」
    「よろしいのですか?」
     思わぬ申し出に、晴奈は目を丸くする。
     その様子に笑みを返しながら、重蔵はこう返した。
    「黄家は我々に多大な寄進をしてくれておるし、黒炎の非道を許すわけにもいかん。何より晴さんの故郷じゃ。焔流の総力を挙げて護らねば、剣士の名折れじゃろう」
    「ありがとうございます、家元」

     重蔵の計らいにより、晴奈は焔流の剣士30余名を引き連れ、黄海へと戻った。
    「父上、ただいま戻ってまいりました」
    「おお、晴奈!」
    「明奈が狙われていると言う噂を聞きつけ、塞より護衛を連れて参りました」
    「そうか、そうか! うむ、焔の者たちと晴奈が来てくれれば安心だ!」
     晴奈の父、紫明は晴奈の手を堅く握りしめて喜んだ。とても昔、晴奈を紅蓮塞から連れ戻そうとした者と同一人物とは思えず、晴奈は苦笑した。



     しかし、運命とはやはり、皮肉なものであるらしい。
     通常なら何と言うことの無い行為が、いやむしろ、明奈を護ろうとしてやったことが、ふたたび彼女がさらわれる原因を作ってしまったのである。

     第一に、明奈が何の気無しに「甘いものが欲しい」と言ったこと。
     そのまま明奈が菓子を買いに行けば、当然、出歩いている時に拉致される危険がある。そのため、晴奈が代わりに買いに行くことを提案した。
    「でも、お姉さまにそんなことを頼むのは……」
     申し訳無さそうにする明奈に、晴奈は肩をすくめる。
    「いいよ、大した用事でもない。ほんの15分くらいだから、すぐ戻れるさ」
    「……そう、ね。では、お願いいたします」
     そんな感じで、晴奈も何の気無しに、街へと出て行った。

     そして第二に、晴奈が出たその直後、ナイジェル博士が黄家の屋敷に現れたこと。
    「博士、どうされたのですか? ご用があるなら、こちらから伺ったのに」
     尋ねる紫明に、博士は小声で説明を始める。
    「教団のうわさ、小生も聞いております。うわさが本当であれば、この屋敷はそう遠くないうちに襲撃されるでしょう。
     セイナさんが人手を集めて戻られたとは聞いておりますが、それでも教団員の人海戦術は、油断ならざる機動力と攻撃力を持っております。正面からのぶつかり合いになれば、いくら焔流剣士とて、分が悪い」
    「ううむ……」
     博士の説明に、紫明も表情を曇らせる。
    「まだそうなると決まったわけではありませんが……、もしも刃傷沙汰が起こると言うようなことになれば、黄海にとってはいい影響を及ぼすとは到底思えません。
     この黄海を治める者として、そんな悪評を立てられたくはありませんし、何より犠牲者が出るような結果になることは、誰にとっても良いことではありませんからな」
    「然り。となれば、犠牲だの傷害だのと言った凶事が起こる前に、騒動の中心人物、即ち娘さんを、騒動の中から離してしまうのがよろしいでしょう」
    「つまり、明奈をどこかに隠す、と?」
    「ええ。一つの案ですが、いかがでしょうか?」
     博士の提案に、紫明は大きくうなずいた。
    「ふむ、それがよろしいでしょう。しかし、どこに隠せば?」
    「小生が買った家があります。そこならば手練のエルスもおりますし、守りは堅いでしょう」
    「なるほど。では、善は急げです。すぐ、明奈を連れて行きましょう」
    「こちらでも、かくまう手配をしておきます。
     しかしくれぐれも、万全の警備で連れてきて下さい。敵にしても、護送の瞬間は『狙い目』ですから、……大人?」
     元来せっかちな紫明は、既にその場にいなかった。
    「……まあ、無茶はせんだろうが」
     博士は肩をすくめつつ、屋敷を後にした。

     だが、博士の予想とは裏腹に、紫明は性急な判断を下してしまっていた。
    「……と言うわけだ。すぐ向かおう」
    「でもお姉さまが、まだ戻られていませんし」
     ためらう明奈に、紫明は自分の主張を強く推す。
    「確かに晴奈が戻って来た後なら、より安全ではある。だがこう言うことは、手早く済ませなければならん。
     それに、晴奈でなくとも、焔流の剣士たちは大勢いらっしゃる。彼らで不足と言うこともあるまい。な、だから早めに向かおう、明奈」
    「……では、支度いたします」
     父を説得しきれず、明奈は身支度を整え、屋敷を出た。
     玄関を抜け、庭に出たところで、剣士たちがバタバタと近付いて来る。
    「ご令嬢! さあ、参りましょう!」
    「なあに、心配ご無用でございます!」
    「我々焔剣士がいれば、黒炎の奴らなどに手出しなど!」
    「……あの、みなさん」
     意気揚々と口上を並べ立てる剣士たちに、明奈は顔をしかめ、抑えようとする。
    「これは隠密行動ではないのですか? あまりに騒々しいと……」
    「いやいや、心配なさらず!」
    「辺りを見回りましたが、敵らしい者はおりません!」
    「どうぞご安心を、……ご、ぼっ?」
     大声を上げていた剣士たちの一人が突然、倒れる。
    「……ひ、っ」
     その背中に矢が突き刺さっているのを見て、明奈は悲鳴を上げた。
    「き、教団員か!?」
     明奈が危惧していた通り、騒ぎ過ぎたらしい――教団員たちがぞろぞろと、門や壁を越えて集まってきた。



     もし晴奈が早く戻ってきていれば、あるいは紫明が性急に行動しなければ、この後起こる悲劇は食い止められたかもしれない。
    蒼天剣・悪夢録 1
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第80話。
    悪魔の登場。

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    2.
    「くそ……。何故あんなに人が並ぶんだ? おかげで30分も待たされた。明奈も待ちわびているだろうし、早く戻らないと」
     昔からのクセか、晴奈はブツブツと文句をつぶやきながら、菓子袋を抱えて黄屋敷に戻ってきた。
    「……!?」
     と、黄屋敷の周りが騒がしいこと、そして、平和な街中に似合わぬ臭いが漂っていることに気付く。
    (血の臭い? ……まさか!?)
     何が起きたか瞬時に察し、晴奈は血の気がざーっと音を立てて引いていくのを感じた。
    (おいおい、冗談だろう!? 何故、私のいない時に限って!)
     人をかき分け、屋敷の門を潜って中に押し入る。
     庭や屋敷の広間、そして応接間などに剣士たちが固まっている。現状を把握しようと、彼らの声に耳を傾けたが――。
    「黄大人の娘御がさらわれたそうだ! 相手は黒炎の奴らに違いない!」
    「早く助け出さねば!」
    「助け出した者には褒美があるとか」
    「何? 金か?」
    「いや、この事態だ。ご令嬢を……、かも知れんぞ」
    「おお、まことか!?」
    「そうなれば、家督も……」
     彼らの勝手な話に、晴奈は憤慨した。
    「このたわけッ! 金や女目当てでここに来たのか、お前らッ!」
    「うひゃ……、せ、先生、あのっ」「やかましい! とっとと散れッ!」「は、はいっ」
    (人の妹を褒美だと!? モノ扱いするとは、馬鹿者どもめ! まったく、修行が足らぬ!)
     心の中で怒り散らしながら、晴奈は剣士たちを押し分けて応接間に入る。
     騒ぎを聞きつけたらしく、そこにはエルスとリスト、そして博士の三人が、頭に包帯を巻いた紫明と向かい合って座っていた。
     と、外の様子を眺めていたエルスが窓に晴奈が映っているのに気付いたらしく、背を向けたまま声をかける。
    「なーんかさ、騒いでるのは男ばっかりだよね。もしかして……」
    「そう。明奈狙いだ」
     晴奈は憮然とした口調で、エルスに答えた。
    「しかも、明奈の婿になれば黄家の財産も手に入るなどと抜かしている」
    「美少女と家督狙いか。さもしいのう」
     博士もエルス同様、呆れた目で窓の外の剣士たちを眺めていた。
     と、ここでエルスが晴奈に向き直る。
    「そう言えばセイナ、屋敷にいなかったの?」
    「ああ、用事から戻ってきた途端にこの騒ぎだ。
     まったく、私も明奈もつくづく運が悪い。何だって私のいない時にばかりさらわれるんだかな」
     エルスの問いに、晴奈は自嘲気味にため息をついて答えた。

     紫明の話では、教団員たちは護衛の剣士たちを倒した後、明奈だけを連れて逃げ去ったと言う。
     しかし事が起こったのはつい数十分前の話であり、焔流の剣士たちも街の自警団や州軍と共同で、厳戒態勢を敷いて街中を巡回している。
     その警戒の中、まだ日の高いうちに街の外に出るのは難しいため、黄海のどこかに潜んでいるだろうとの博士の予測により、何班かに分かれて街を捜索することにした。
    (明奈、無事でいてくれ……!)
     晴奈も焦る気持ちを押さえながら、街に繰り出した。



     街のあちこちで、焔流の剣士と黒炎教団の者が戦っている。
     晴奈たちの班も、戦っている者たちに手を貸して教団員たちを追い払い、蹴散らしていく。
     だが教団お得意の人海戦術により、いくら倒しても、どこからか増援が現れる。
    「ええいッ! しつこいッ!」
     明奈がさらわれてから既に1時間ほどが経っていたが、教団員たちがワラワラと沸いてくるため、思うように進めない。
    (こいつら、一体何人いるんだ!?)
     斬りつけ、蹴倒し、投げ飛ばし――晴奈一人だけで、すでに20名近く倒しているし、周りの剣士とも合わせれば、その倍以上は相手している。
    (毎度毎度、こいつらはワラワラと……!)
     それでも少しずつ、街を捜索していると――ドン、と言う重たい炸裂音が南の方、街外れの方角から聞こえた。
    「な、何だ!?」
    「一体……?」
     争っていた剣士も教団員も、その爆発に一瞬動きを止める。
    「……今だ!」
     晴奈は我に返り、まだ呆然としている者たちを突き飛ばし、かき分けて、その方向へと走って行った。

     街外れへとたどり着くと、そこには轟々と火柱が立っていた。
     と、その火柱を背に、明奈がこちらにかけて来るのを確認する。
    「明奈!」「お姉さま!」
     明奈は晴奈を見るなり、晴奈の胸に飛び込んできた。
    「大変、大変なの! 博士が、ナイジェル博士が、黒炎様に……!」
    「……何だって?」
    「黒炎様……、大火様が、博士と……!」
     その言葉を聞いた瞬間、晴奈に戦慄が走った。
    蒼天剣・悪夢録 2
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第81話。
    黒の中の黒。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
    (克大火が、ここに……!?)
     その名を聞き、晴奈の心はひどく高揚した。
    「明奈……。悪いが、付いてきてくれ」
    「お姉さま?」
    「ここに置いていけば、危険だ。……でも」
    「でも?」
    「……」
     無意識に足が動く。明奈の手を引いたまま、燃え上がる野原に歩き出す。
    「お姉さま……?」
     不意に、免許皆伝の試験を受けた時、重蔵と話したことが思い出される。
    ――意味も無く戦えば、無為――
    ――無意味な戦いは、失わせる――
    ――戦いを繰り返せば、行き着く先は修羅の世界――
    (だが、見てみたい……!
     克大火は無双の剣豪と聞く。本当にいるのなら、一体どのような奴なのか、この目で確かめたい。
     そして、機、あらば――戦ってみたい)
     晴奈の剣士としての興味、誇りが刺激される。
     既に明奈はここにいるし、後は安全な場所に逃げれば、それで終わる話である。わざわざ戦う意味は無いのだ。
    (それでもこの先にいると言う剣豪を、この目で見てみたい)
     そんな思いが、晴奈を突き動かしていた。



     意味の無いことと分かっていても、晴奈はなぜか戦いそのものに惹かれていた。

     無論、理性では無駄な戦いはしてはならないと弁えているし、そのことは免許皆伝以来、ずっと頭の中で繰り返し唱え、十二分に配慮し、気を付けている。だがそれでも、心のどこかで戦いへの欲求があるのだ。
     勿論、そんな浅ましい欲求など、今まで師匠や友人たちと一緒にいる時、表面に出したことは無い。それどころか、自分自身もそんな恐ろしい感情は、今の今まではっきりとは自覚していなかった。
     しかしこの時、晴奈ははっきりと己の心の中に潜む「戦うこと、それ自体への欲求」が、表へとあふれ出ているのを、ひしひしと感じていた。
    (私は、修羅になりかけているのかな)



     目の前に、それはいた。
     爪先から髪、皮手袋、衣服や肌の色まで全身真っ黒な男が、そこら中に倒れた剣士たちから流れるおびただしい血と、周囲の草木やあばら家を焼く炎が撒き散らされた焼け野原の前で、エルフの老人を背後から突き上げていた。
    「俺に敵うと思っていたのか?」
    「が、ふ……」
     男は老人をゆっくりと――周囲を焦土と化させ、何人もの人間を惨たらしく殺した者が、同時にこれほど優雅な動きを見せるのかと、晴奈は怖気を感じた――優しく、地面に横たわらせる。
     老人は背中から胸にかけて、老人が使っていたであろう魔杖で貫かれている。どう見ても、致命傷である。
    「とは言え力量と戦術の有効性は、認めてやろう。俺としたことが、少し手間取ってしまったからな」
     男はそう言うと老人の前で屈み込み、両手を合わせた。
     老人は、ナイジェル博士その人だった。

     いつの間にか、明奈はいない。どうやら怯え、どこかに逃げたようだ。
     だが――あれほど妹を心配した者とは同一人物と、自分でも思えないくらい――晴奈は安心していた。
    (邪魔は、消えた)
     そんな風に考えながら、晴奈は一歩、前へ踏み出す。
    「……克、大火殿とお見受けする」
     屈み込んでいた男が、背中を見せたまま立ち上がる。
     背の高い晴奈よりさらに頭一個ほど高い、かなりの長身であり、ただ立つだけでも、胃をつかまれるような凄味がある。
    「いかにも」
    「た……」
     晴奈は何か言葉を発しようとしたが、胸中が定まらない。自分でも何を言おうとしたのか分からないまま、言葉が途切れてしまった。
    「た?」
     大火が何の感情も込めない、乾いた声で聞き返してくる。
     晴奈は何とか頭を動かし、口上を作る。
    「……そこの御仁は、私の妹の恩人だ。それを殺したお前は、私の仇……」「ほざくな、戯言を」
     その一言に、晴奈は身震いした。大火はクックッと、鳥のように短く笑う。
    「お前に言っておく。嘘はもう少しうまくつくことだ、な」「う、っ……」
     大火はくるりと身をひるがえし、顔を見せた。細い目と、その中にある、一切光を返さない暗黒の瞳が晴奈を射抜く。
    「口では仇だの、敵だのと抜かしているが、心は別の色に燃えている。とても怒りや悲しみ、雪辱の念を抱いているとは思えんな」
    「で、ではっ、どうだと言うのだ!?」
     心の中に、一歩、また一歩と踏み込まれていく感触を覚える。
    「喜んでいる。まるで世紀の財宝を見つけた冒険者だな。俺に会えたことが、それほど嬉しいのか?」
    「ち、違う! 私は……」「いいや、違わんな」
     大火は実際に一歩、晴奈に向かって踏み出す。その一歩は、晴奈にとっては心の奥底に踏み込まれるような印象を受けた。
    「隠すな、『猫』。狩猟動物の血が、お前には流れているのだろう? お前は今、俺と戦いたがっているのだ。
     そう、『これほど手ごたえのある獲物は、二人といない。例えこの戦いが意味を持たずとも、ただ純粋に、当代最高の剣士と仕合ってみたい』と、そう考えている」
    「あ、う……」
     一言一句に至るまで心の内を読まれた晴奈は、全身を何百、何千もの針で突き刺されるような恐怖を覚えた。
    (ダメだ……! 勝てない! 彼奴は私のはるか上から、私を見下ろしているのだ!
     どうやって地上を這う猫が、天空を翔ぶ大鴉を仕留められよう……!)
     みるみる、晴奈の気力が削がれる。抜こうと手をかけていた刀が、抜けなくなる。足がガクガクと震え、立っているのさえやっとだった。
     その様子を眺めていた大火は足を止め、またクックッと笑った。
    「臆したか。ならば戦う理由は何もあるまい。こちらとしても、この地での『散策』に概ね満足したのでな。
     では、失礼する」



     気が付けば、晴奈は博士の骸の前に、ぺたんと座っていた。
     と、後ろから声をかけられる。
    「セイナ、タイカ・カツミはドコ!?」
     リストの声だったが、晴奈は振り返ることができなかった。
     泣いていたからだ。
    蒼天剣・悪夢録 3
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第82話。
    黒の次は、白。

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    4.
     博士の葬儀が終わったその夜。
     晴奈は一人、寝室の床に座って、たそがれていた。
    (私は、何と愚かな……)
     誇り高き剣士である自分が、己の欲望に操られ、しかも敵にそれを看破されてしまった。さらには気迫をぶつけられただけで身動きできなくなると言う、完膚なき負け方である。
    (まったく無様だな……)
     何もする気が起きず、晴奈はただぼんやりと尻尾をいじっていた。

     部屋の戸を叩く音がする。続いて、弱々しい声が聞こえる。
    「お姉さま、いらっしゃいますか?」
    「ああ、明奈。いるよ」
     そう答えると、静かに戸を開けて明奈が入ってきた。
    「どうした、明奈?」
    「あの、眠れなくて」
    「そうか」
     そう言って、明奈は晴奈の横に座る。
     顔を合わせないまま、二人はじっと座っていた。
    「お姉さま、あの」
    「何だ?」
    「……いいえ、何でも」
     時折、明奈が何かを言おうとするが途中で口をつぐみ、しばらく沈黙が続く。
     30分ほどそうしているうち、また明奈が口を開く。
    「……怖かった」
    「……そうか」
     そこで晴奈は、明奈が小さく震えていることに気付いた。明奈は怯えるような眼で、晴奈をチラ、と見てまた顔をそらず。
    「黒炎様のお姿も、博士が亡くなったことも。それから、お姉さまのお顔も」
    「顔? 私の?」
     晴奈は顔を向けて聞き返したが、明奈は目を合わさない。
    「黒炎様のことを伝えた時、お姉さまはとても怖い顔をしていらっしゃったわ。まるで、鬼か悪魔か、そう言った何か、恐ろしいもののようだった」
    「鬼、か」
     怯えた顔でぽつりぽつりと放たれる明奈の言葉が、晴奈の心をずきんと痛めた。
    (やはり、修羅になりかけていたと言うことか)
     晴奈はぎゅっと、明奈の肩を抱く。
    「お姉さま?」
    「……まったく、私は無様だ。鬼にもなりきれず、克大火に気迫負けした。かと言って聖人にもなれず、お前を放っておいた。
     中途半端に、どちらも投げ出したんだ。まったく、ひどい有様だ」
     愚痴の途中から、晴奈はポロポロと涙をこぼしていた。明奈も泣いている。
    「本当に、ひどい。何もかも、ひどかった」
    「うん……」



     泣いているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。
     晴奈は、夢を見ていた。

     夢の中でも、隣には明奈がいる。
    「お姉さま、見て!」
     と、その明奈が叫ぶ。
     彼女の指差した方を見ると、そこにはまばゆい光が瞬いていた。
    「何だ、あれは?」
    《人をアレとか、言わないでほしいなぁ》
     すぐ近くから男とも女ともつかない、中性的な声が聞こえてくる。晴奈も明奈も、きょろきょろと辺りを見回す。
    「どなた?」「誰だ?」
    《目の前にいるじゃないか、ホラ!》
     いつの間にか光は消え、そこには銀と黒の瞳をした、洋風の衣装に身を包んだ、銀髪に白い毛並みの猫獣人が立っていた。
    「あなたは……?」
    《好きなように呼びなよ、白猫とでも、何とでも。ホラホラ、落ち込んでる場合じゃないよ、二人とも》
     辺りの風景が、ガラリと変わる。晴奈たちはいつの間にか、白い花をふんだんに飾った白い部屋の中にいた。
    《立って話もし辛いだろ? 座りなよ、セイナ、メイナ》
     白猫はどこからか現れた簡素な白い椅子を指差し、晴奈たちに座るよう促した。
    「落ち込んでいる場合ではない、とはどう言う意味だ?」
     晴奈たちが座ったところで、白猫も別の椅子に座る。
    《数日のうちに黒炎教団がまた攻め込んでくるのさ》
     白猫の言葉に、晴奈は耳を疑った。
    「何だと、また!?」
    《良く考えてよセイナ。奴らはまだ、目的を達成してないんだよ。メイナはまだ、コウカイにいるんだから。
     だから攻めて来るのさ。今度は生半可な数じゃない。5万人規模に及ぶ、重厚な物量作戦を仕掛けてくる。こうなると戦争だよ、最早》
    「ご、5万人!? 馬鹿な!
     確かにこれまでも、教団は人海戦術での攻めを主体としてきたが、兵の数はせいぜい、数千人程度だったはずだ!
     それを5万にも増員するだと!? 一体何故、そこまでして我々を襲うのだ!?」
    《理由は3つある。一つはメンツだよ。キミたち焔流とはかなり因縁が深いから。
     しかもココ数年、キミたちの方が勝ち越してる。相当アタマに来てるはずだよ。だよね、メイナ?》
     白猫に尋ねられ、明奈はぎこちなく頭を縦に振る。
    「え、ええ。確かに、わたしがいた頃はずっと、焔流打倒の声が強かったように思います」
    《だろ? で、二つ目の理由は教区の拡大だ。ま、コレは言ったそのまんまだし裏も無いから説明はしない。
     で、最後の理由。教主の息子の一人が、昔ケガを負わされた奴の妹が、教団にいたって知っててさ。怒り半分、色欲半分でその子を奪おうとしてるんだ》
     白猫の話に、二人は顔を見合わせる。
    「ウィルバーか……!?」
    「そう言えばウィルバー様、何かとわたしにお声をかけて……」
    「つまり明奈を狙って、街ごと奪う気か!」
    「黄家のわたしとの縁が結ばれれば、自然に黄海に対する教団の影響力が強くなり、ひいては央南西部への教化が進むでしょうね」
    「そうなれば私との関係から、焔流の顔も丸つぶれ――なるほど、三つの理由が合わさる」
    「何て、いやらしい……!」
     二人の様子を眺めながら、白猫は話を続ける。
    《く、ふふっ。イヤだよねぇ、そんなの。だから、ボクはキミたちを助けてやろうと思うんだ。
     策を授けよう。エルスに助けを求めるんだ。彼は『知多星』ナイジェル博士の愛弟子だからアタマもいいし、何より軍事関係全般に強い。
     彼を総大将にすえて戦えば、まず負けるコトは無い》
    「エルスに、か?」「でも、エルスさんは……」
     晴奈と明奈は、再度顔を見合わせる。
    「確かに実力は認めるが、しかし……」
    「ええ、エルスさんは教団や焔流とは無関係ですし、ましてや央南の人間でもありませんし」
    「ああ。無関係の人間を巻き込むのは、気乗りがしない」
     だが、白猫は人差し指を立て、二人の思索をさえぎる。
    《文句は聞かない。って言うかボクに言っても仕方無い。コレは彼の運命でもあるんだから。
     言っとくけど、エルス・グラッドは大物だよ。いや、コレから大物になる。この一件は彼が世に名を馳せる、その第一歩になるんだ。
     無関係だからだとか、央南人じゃないからとか、そんな理屈は言うだけ無駄だ。それよりも彼を助けた方が、キミたちにとってもずっといい。分かった、二人とも?》
    「え、でも」「その」
     反論しようとする晴奈たちを、白猫はにらみつける。
    《わ、か、っ、た!?》
    「は、はい」「わ、分かった」
     その剣幕に、二人は思わず承諾する。その返事を聞き、白猫は満足げにうなずいた。
    《うん、よし。じゃあその誓い、立ててもらうよ》
    「えぇ?」「自分で誓わせておいて、一体何を言うんだ?」
    《いーからいーから。ま、そんなに難しいコトじゃない。
     ただ水色の着物着て、エルスのトコに挨拶に行ってくれればいいだけ。ちょーどいい具合に、用事もできるから》
    「はあ……? それくらいなら、構いませんが」「まあ、やってみようか」
    《く、ふふっ。それじゃ頑張るんだよ、晴明姉妹》
     白猫は席を立ち、その場を後にする。

     そこで晴奈は、不思議な夢から覚めた。
    蒼天剣・悪夢録 4
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第83話。
    本物の、夢のお告げ。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     目を覚まし、晴奈は辺りを見回すが、明奈はいなかった。どうやら自分より早く起きて、自分の部屋に戻ったらしい。
    (あの夢は一体……?)
     ぼんやりとしながらも、晴奈は着替えを始める。
     と、衣装棚にあった水色の着物が目に入る。
    (水色の着物、か。まあ、夢だろうが)
     あまり信じてはいなかったが、どうしても気になったので、晴奈はそれを着た。
     部屋を出たところで丁度、隣にある明奈の部屋の戸も開く。
    「ああ明奈、おは……」「あ、お姉さま。おは……」
     挨拶しかけて、晴奈は絶句した。明奈も目を見開き、驚いている。
     何故なら明奈も、水色の着物を着ていたからだ。

     朝食の後、晴奈と明奈――晴明姉妹は父、紫明に呼ばれた。
    「どうされたのですか、父上?」
    「うむ、実は……」
     紫明は浮かない顔で、懐から一通の手紙を取り出した。
    「今朝早く、文が投げ込まれたのだ。どうやら黒炎教団からのものらしい」



    「黄海及び黄商会の宗主、黄紫明殿へ

     昨日、我らが同志、メイナ・コウの身柄引き渡しを願い出ようとしたところ、そちらの友軍である焔流一派に妨害され、多数の被害者を出した。
     その責を問うため、3日後にふたたび身柄確保に乗り出す所存である。万が一、焔流の者がその席にいた場合、我々は実力を以って、そちらに用件を受諾していただくように対処するであろう。
     無論我々は、円満な話し合いによって交渉がまとまることを望んでいる。そちらでも、黄州及び央南西部の平和と黄商会の利益の観点を鑑み、十分に検討していただくよう、考慮されたし。

    黒炎教団 大司教 央南方面布教活動統括委員長 ワルラス・ウィルソン2世」



    「これは……」
     手紙を読んだ晴奈は思わず、手紙を破り捨てそうになった。だが何とかこらえて、父の話を聞く。
    「ああ、字面では穏やかな話し合いを望んでいるとのことだが、十中八九、明奈を強奪するつもりなのだろう」
    「『願い出ようとした』だの、『被害者を出した』だの……、嘘もいいところだ!」
     憤慨する晴奈に対し、紫明は浮かない顔をしている。
    「私としては、その……」
    「父上?」
     言いにくそうにする父を見て、明奈は父の胸中を察する。
    「前回同様、わたしの身柄でこの街と商会の平和が保たれるならば、彼らの要求に応じようと、そうお答えするつもりでしょう?」
    「あ、いや、その……」
     明奈は落ち着き払った、堂々とした態度で応対する。
    「昔とは違って、わたしも大きくなりました。自分の身の振りは、自分で決めさせてくださいませ」
    「いや、しかし……」
     一方、紫明は言葉を濁し、明奈の言葉にうなずこうとしない。
     そんな父の態度を見て、晴奈は歯噛みする。
    (何故だ父上、どうして一言『分かった』と言わない?
     ……ああ、この人はいまだ昔と変わらぬのか。娘は自分の所有物だと言う、その考えがまだ抜けていないのか)
     そう悟り、晴奈の怒りはますます燃え上がる。
     たまらず声を上げようとした、その時――明奈が姉の心中を代弁した。
    「昔の、お父さまの庇護の下にあった時のわたしであれば、わたしはお父さまの言う通りに従ったでしょう。
     しかし、わたしも大人になりました。この先お父さまの考えに従い、そのまま教団に渡ったならば、わたしの身は一体どうなると思います?」
    「どう、って」
    「恐らく教主のご子息が無理矢理に、わたしを娶ろうとされるでしょう」
     この一言に、紫明は「むう……」と声を漏らす。
    「もしそれが実現すれば、きっと黄家は絶えてしまいます。教団にすべてをむしりとられて」
    「……」
     明奈はなお、毅然とした態度で父を説得する。
    「ねえ、お父さま。重ねて申し上げますが、昔とは違うのです。
     今なら剣を極めたお姉さまがいらっしゃいます。エルスさんたちも、協力してくださるでしょう。戦う力は、十分にあるはずです。
     今、相手の要求をはねつけなければ、10年後、20年後の黄海と央南西部はきっと、黒く染まってしまいます。わたしは嫌ですよ、この愛すべき街が黒海などと言う名になってしまっては。
     敵の言いなりになって1年、2年の安息を得るより、今こそ決別、打倒して10年、20年、いえ、100年の繁栄を勝ち取る方が、懸命な判断ではないでしょうか?」
    「……そうだな」
     明奈の説得に紫明はようやくうなずき、もう一通懐から手紙を出した。
    「これは?」
    「お前の言う通りかもしれないな、明奈。教主の息子から、こんな手紙が来ていたのだ」
     紫明は晴奈に手紙を渡し、読むよう促した。
     読み始めた晴奈は、途中で――今度はこらえる気など毛頭起こらず――手紙を破り捨てた。
    「……下衆が!」
    「お姉さま?」
    「まったくウィルバーめ、どこまで色狂いか! 明奈と自分は、前世から夫婦になる定めだとか、明奈の自分に対する気持ちは分かっている、自分は全力を以ってそれに応えるだとか、滅茶苦茶なことを書いているんだ!」
    「何ですって……!」
     冷静だった明奈も、この時ばかりは流石に嫌そうな顔をした。紫明は一瞬顔を伏せてため息をつき、そして決意に満ちた目を二人に見せた。
    「明奈、お前の話で、私の目は覚めたよ。……断固、黒炎と戦おう」

     紫明の決意も固まったため、晴奈たちはエルスに助太刀を願い出ようと、彼の住んでいる屋敷へと向かっていた。
    「ねえ、お姉さま」
    「ん?」
    「水色の着物、エルスさんへの用事。これって」
    「……やっぱり明奈も、あの夢を?」
     明奈はコクリと、小さくうなずく。
    「ええ、白猫さんの夢よね。もし、あの方の言ったことが本当なら」
    「5万の軍勢が攻めてくる、か。ぞっとしないな」
    「きっと本当でしょうね。
     彼女の言葉はとても風変わりだったけれど、内容はとても真面目でした。わたしたちの身を案じてくれる気持ちは、真実だと思います」
    「ああ、私もそう、……彼女? いや、言われてみれば、確かに女とも取れる顔立ちと声をしていたが、しかし自分のことを『ボク』と呼んでいたような。彼奴は男では無いのか?」
    「え、そう……、だったかしら。……どっちでしょうね?」
     二人は夢の内容を思い返し、やがてクスクスと笑い始めた。
    「くく、考えれば考えるほど、分からない」「そうね、うふふ」



     この後、晴奈たちの願いを聞き入れ、エルスは協力を快諾してくれた。
     すぐに黒炎教団に対する部隊が組織され、エルスは隊長、晴奈が副隊長となった。
     そしてこれより――黒炎との戦いが、始まる。

    蒼天剣・悪夢録 終
    蒼天剣・悪夢録 5
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第84話。
    3度目の戦い、始まる。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
    「僧兵長、間もなく黄海に到着します」
    「ん、そうか」
     馬車の中から、狼獣人の青年がのそっと、首を出す。
    「のどが渇いた」「あ、ではお持ちします」
     兎獣人の従者が、いそいそとどこかに走り去る。僧兵長と呼ばれた青年は、その間に馬車を降り、肩や首の関節をポキポキと鳴らして体を解す。程なくして従者が、ポットとカップを持って戻ってきた。
    「お持ちしました」「ん」
     青年は横柄にうなずき、従者からカップを受け取って、中の飲み物を一息に飲み干す。
    「ふう……。やはり、眠気覚ましにはコーヒーが一番だな。特に、悪夢を見た時には」
    「悪夢、ですか?」
     青年はカップを従者に返し、伸びをしながら応える。
    「ああ、昔の話だ。焔の砦に攻め込んだ時、不覚を取ってな。その時の夢を見ると、いつも気が重くなる。今でも夢の中で、忌々しく蘇ってくる」
    「そんなことが……。では、今回は雪辱戦、と言うことですね」
    「ああ、そうなるな」
     青年――ウィルバーはもう一度カップを受け取り、無造作にあおった。
    「特に、オレを愚弄したあの『猫』と、その仲間。あいつらだけは絶対、仕留めてやる」



    「確かか?」
    「はい、黒荘に住む同門が、確かに馬車に乗る姿を確認したと。ほぼ確実に、指揮官役であろう、との、……黄先生?」
     伝令の報告を受け、晴奈は腕を組んで黙り込む。そのまま固まっていたので、伝令は不安そうに晴奈を見つめている。
    「動いて、セイナ」
     見かねたエルスが晴奈に声をかけた。
    「……ああ、下がって良し」
     伝令はほっとした様子で、そのまま部屋を出て行った。エルスはクスクス笑いながら、椅子に座り直して書類を整理する。
    「セイナ、よっぽどそのウィルバーって男が気になるんだねぇ」
    「気色の悪い言い方を……」
     晴奈は手を振りながら、エルスに応える。
    「ああ、ゴメンゴメン。まあ、宿敵って感じだね、今の態度から見ると」
    「まあ、そうだな。そうなる」
     晴奈はエルスの向かいに座り、エルスの書いていた書類に目を通す――どうやら黄海周辺の地図と、兵法の類らしい。
    「強いのかな?」
    「ああ、かなりの手練だ。うわさでは教団でも有数の、棍術の使い手になっているとか」
    「ふーん」
     エルスは書類をトントンとまとめながら、話を続ける。
    「セイナも強いじゃないか」
    「まあ、な。……昔、一度だけ負けているが」
    「でも……」
     エルスは席を立ち、セイナに微笑みかける。
    「負ける気、無いんだろ?」
    「無論だ」
     晴奈もニヤリと笑って返した。

     教団員の黄海襲撃から三日後、教団は大軍を送り込んでふたたび黄海に攻め込もうとしていた。襲撃の情報を聞きつけた晴奈たちは急遽、街の守りを固めて再襲撃に備えていた。
    「現在、街の周囲に教団の姿はありません」
    「そうか。何かあったらまた、報告してくれ」
     伝令が去った後、エルスはニコニコ笑いながら、晴奈に話しかけた。
    「ねえ、セイナ。まだ間があるだろうから、碁でも打たない?」
    「……ふむ。確かにいつ来るか分からぬ敵を、ただ待つと言うのも無粋か。いいだろう、一局お手合わせ願おうか」
    「よし、それじゃちょっと待っててね~」
     エルスは嬉しそうに、いったん部屋を出る。少しして、かなり使い込まれた様子の碁盤と碁石を持って、戻ってきた。
    「ほう、なかなかの年季物だな。北方でも、碁は流行っているのか?」
    「うん。エドさん――博士が若い頃から碁の名人で、ずっと普及させていたんだって」
    「そうだったのか……。それほどの腕前ならば一度、お手並みを拝見してみたかったものだ」
     晴奈はそう言いながら碁石を握る。エルスも握りながら話を続ける。
    「エドさんは強かったよ。多分死んだ今でも誰かと、打ってるんじゃないかな」
    「……」
     博士の死を耳にする度、晴奈の心は少し痛む。
     あの時、自分の欲をさっさと振り切って駆けつけていれば、博士は助かったかもしれない。そして、大火と戦うために博士を口実にしたことも、晴奈にとっては大きな恥であった。
    (死人をダシに使うなど、誇りある人間のすることではない。まったく私は、浅ましい……)
     そうして心の中で、自分を責めていると――。
    「ありゃ? セイナ、本気出してない、よね?」「……不覚」
     いつの間にか後手のエルスに大きく囲まれ、負けていた。
    蒼天剣・因縁録 1
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、85話目。
    「戦略家」エルス、本領発揮。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
    「アンタら、何遊んでんのよ!」
     囲碁の対局が進み、5戦目を迎えたところでリストが呼びに来た。
    「ん、何かあったの、リスト?」
    「あった、じゃ無いわよ! 敵がもう、すぐそこまで来てんのよ!」
    「ありゃ、そっかー……。折角、2勝2敗ってところだったのになぁ。じゃ、また後で続きやろっか」
    「そうだな。きっちり片を付けたいところだ」
     晴奈とエルスは少し名残惜しさを感じながらも、リストの後に続いた。街の南西部へ進みながら、リストから状況について説明を受ける。
    「ざっと説明するとね。街の南西門から、約10キロ西南西のところに敵の先発隊が3~4隊いるらしいわ。そこからさらに南に3キロほど下ったところに、本隊が陣を構えてるみたいよ」
     説明しているうちに、南西門へ到着する。
    「そっか、なるほど。……よし、みんなを呼んで」
     エルスは短くうなずくと、周囲の剣士たちを呼び集めて輪を作った。
    「それじゃ作戦を説明するから、よく聞いておいて。
     敵は恐らく街を囲んでいる壁を崩し、そこから侵入するつもりだろう。でも、あえてそれは放っておこう」
     エルスの言葉に剣士たちは驚き、どよめく。
    「な、何故?」
    「一体どう言うつもりだ?」
    「ま、落ち着いて聞いて、聞いて。
     簡単に言うとね、それらと戦っても相手にはまったく痛手が無いんだよ、『下っ端』だから。それに相手の数は半端じゃない。いくらみんなが体力自慢、力自慢って言っても、数があまりにも多すぎる。全部相手してたら屈強な剣士といえども、力尽きて倒れるのがオチだよ。
     それよりももっと効果的で、敵に大きな痛手を負わせる方法がある」
     エルスは懐から書類を取り出し――先ほど書いていた兵法と地図だ――皆に見せる。
    「報告によれば、敵の本陣はここから13キロ離れた場所にあるらしい。そこには間違いなく、この大部隊を指揮している者がいるはずだ。で、それを倒す」
    「なるほど、頭を叩くと言うわけか」
     晴奈の相槌に、エルスは大きくうなずく。
    「そう言うこと。教団は人海戦術や物量作戦を得意とする、大掛かりな組織。そう言った組織は得てして『上』の権力が非常に強く、『下』の意思が希薄だ。
     だから指揮官を倒してしまえば残った大部隊は混乱し、その結果最も執りやすく被害の少ない作戦、つまり撤退を選ぶだろう」

     協議の結果、エルスは南西門周辺での指揮を担当し、晴明姉妹とリスト、そして手練の剣士十数名が敵本陣に忍び込むことになった。
     晴奈たちは黄海のもう一つの出入り口、南東門から敵部隊に気付かれないようにそっと抜け出し、街道を横切って森の中に入り、そこから敵本陣に向かって進み始めた。
    「敵が壁を崩すまで、恐らく3~4時間はかかる。それまでに敵本陣に攻め込み、頭を獲るぞ! 全速、前進ッ!」
    「おうッ!」
     晴奈の号令に、剣士たちは拳を振り上げて付き従う。森の中を分け入り、一直線に西へと進んでいく。
     だが、はじめの頃は黙々と付いてきた剣士たちも、時間が経つに連れて段々と不安を口にし始める。
    「本当に、街を放っておいて良いものか……?」
    「もし間に合わなかったら、えらいことになるぞ」
    「やはり、戻って防衛に努めた方が……」
     ブツブツと騒ぐ剣士たちに、晴奈とリストの特徴的な耳がピクピクとイラつき始める。その耳に、決して彼女らに言ってはならない一言が飛び込んできた。
    「大体あの外人、信用できるのか?」
     聞こえた途端、二人はギロリと後ろを睨んだ。
    「アンタら、ふざけたコトくっちゃべってると、その軽い口ごと、頭吹っ飛ばすわよ!」
    「くだらぬ妄想をほざくな、お前らッ! 黙って進め!」
     剣士たちはその剣幕に圧され、それきり不安を口にすることは無くなった。



     ほぼ同じ頃、ウィルバーはほんのわずかながら、ぞくりと殺気を感じた。
    (……? ん……、何だ、今の『気』は?)
     くるりと辺りを見回すが、それらしいものは何も見えない。
    「おい」
     不安を感じ、横にいた従者に声をかける。
    「はい、何でございましょう?」
     かけたものの、それほど強く不安を感じたわけではないため、やんわりと命じる。
    「……ん、まあ、念のため、見回りを強化するよう、皆に指示しておいてくれ」
    「はあ……?」
     従者は首をかしげ、ウィルバーの言葉を繰り返す。
    「見回りの強化、ですか?」
    「そうだ。少し、気になってな。まあ、ちょっとでいいんだ」
    「必要ないと思われるのですが……。奴らは街を守るので精一杯でしょうし」
     従者の言葉にうなずきかけたが、そこでまた、ウィルバーの心中に不安がよぎる。
    「ん……。まあ、確かに、そうかも知れない。だが、気になってな。頼んだぞ」
    「はあ、そうですか。では、まあ、伝えてまいります」
     従者はのそのそとウィルバーの側を離れる。残ったウィルバーは心の中で毒づいた。
    (はっ! まったく、気の無い素振りだな! このオレが、『やれ』と言ってるだろうが!)

     ウィルバーから離れた従者は、途端に態度を変えて愚痴をこぼす。
    「フン、まったく心配性なお坊ちゃんだ!」
     ポットを乱暴につかみ、直接口に付けて飲みだす。
    「来るわけない! あんな馬鹿で粗雑な剣士どもが、目先の敵、先発隊を相手にしないわけが無いんだ! 無駄だ、無駄! だーれが、見回りなんかするかっての!」
     周りに誰もいないため、従者の愚痴は止まる気配が無い。もう一度ポットを上げて、二口目を飲んでから、さらに愚痴を続けようとした。
     ところが顔の上に上げていたポットが、パンと言う音と共に突然、破裂した。当然、中の液体とポットの破片が従者の顔に降り注ぐ。
    「ぎえ……!? っちゃ、熱ちちちっ!」
     顔を押さえ、何が起こったのか分からずもがく。
     だが、その途中で意識が飛んだ。鳩尾を、内臓が飛び出すかと思うほど強く蹴っ飛ばされたからだ。
    蒼天剣・因縁録 2
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、86話目。
    因縁、三度目。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
    「よし!」
     倒れ込み、ピクリとも動かなくなった兎獣人を確認し、晴奈は満足げにうなずく。
    「全員集合だ!」
     晴奈は刀に火を灯して合図を送り、森の中で待機している剣士たちを呼び寄せる。
     集合後、明奈とリストが晴奈の元に駆け寄った。
    「どう、すごいでしょ?」
     リストが自慢げにクルクルと銃を回して見せびらかす。晴奈はその様子に苦笑しながらも、素直にほめる。
    「ああ、あれほど遠くから攻撃できるとは。なかなか便利な武器だな、銃と言うのは」
    「アンタも使ってみたくなった?」
     晴奈はまた苦笑して、刀の柄を叩いた。
    「いやいや、私にはこれが一番だ。……さてと」
     皆が集合し終えたところで、晴奈が次の行動を命令する。
    「雑魚には構うな! 頭を探して討て!」
     晴奈の号令に従い、剣士たちは2、3人ごとに固まり、四方に散る。
     残った晴奈と明奈、リストも同様に3人で集まり、敵将ウィルバーを捜索し始めた。

     当初はできる限り隠密な行動を心がけていたのだが、敵の数が多いためか何班か見つかってしまったらしく、陣内は次第に騒がしくなる。
     晴奈たちも例外ではなく、何度も教団員たちに発見され、その都度応戦しなくてはならなかった。
    「くそ、面倒だ!」
     相手の多さに痺れを切らした晴奈は、目の前にいた教団員に向かって飛びかかる。
    「どけッ!」
     目前まで迫っても勢いを殺さず、そのまま突っ込んでいく。
    「ぎゃっ!?」
     棍を構えていた教団員の腕に脚をかけ、踏み台にして跳び、敵の包囲網を無理矢理抜けた。
    「どけどけッ、邪魔立てすると刀錆にするぞッ!」
     寄ってくる敵をかわし、斬り捨て、晴奈は陣内を駆け回る。
    「どこだ、ウィルバー! 出て来い! この黄晴奈が相手になるぞ!」
     そうやって名乗りを上げているうちに、横から声が飛んできた。
    「そんなにオレと勝負したいのか、『猫』ッ!」

     晴奈が横を向くと同時にウィルバーが駆け込み、棍を放つ。晴奈はそれをかわし、刀を払う。ウィルバーもこれを避け、二人は間合いを取って対峙した。
    「久しぶりだな。つくづく、因縁が深いと見える」
    「ああ、確かにな。何だかんだ言って、会うのはこれでもう3回目だ」
     ウィルバーは妙に嬉しそうに笑っている。
    「2度の戦いで、オレの考え方は劇的に変わった。女と見て侮ることは、もうしない。
     お前は間違い無くオレの好敵手、オレの目標だよ」
     妙にほめ言葉を並べるウィルバーを不審に思い、晴奈は刀を構え直す。
    「何のつもりだ、ウィルバー? 一体何が言いたい?」
    「単刀直入に言おう。オレと組まないか、セイナ?」
     突然の申し出に、晴奈は面食らった。
    「何だと?」
    「お前の妹、メイナのことはそれなりに気に入ってるし、娶りたいとも考えている。
     もし結ばれればセイナ、お前はオレの縁者になる。その上でオレと組み、その実力を振るって君臨すれば、お前も教団の権力者だ。何でも思いのまま、一生栄華を極めていられるぞ。
     どうだ、悪い話じゃないだろう?」
     ウィルバーはニヤリと笑い、右手を差し出す。
     握手を求めてくるウィルバーをしばらく見つめた後、晴奈はフン、と鼻を鳴らした。
    「笑止。お前如き犬っころにくれてやるほど、妹は安くない。何よりお前の右腕などと言う肩書きは、私には吊り合わぬ。
     対価が低すぎて、私の食指はピクリとも動かん」
     晴奈のにべもない言葉に、ウィルバーの笑顔は凍りついた。
    「ク、クク、ク……、そうか、ああ、そうか。あくまでオレに、たてつくと言うんだな?
     そんなら話は終わりだ! ここで果てろ、セイナ!」
     ウィルバーは棍を振り上げ、飛びかかってきた。

     晴奈はウィルバーの初弾を、刀をかざして防ぐ。
     その瞬間、晴奈の両手に重たい衝撃が走り、刀と棍の間から火花が飛び散る。
    「む、……ッ!」
     受けきれず、体をひねって棍を左に流す。すかさずウィルバーが蹴りを放ち、晴奈のあごを狙ってくる。
    「甘いッ!」
     向かってきた左脚を紙一重で避け、刀から左手を離し、右手を利かせて刀で鋭い山を描く。その軌跡がわずかにウィルバーの脚を捕らえ、さく、さくと二度斬る。
    「……ッ、速いな!」
     ウィルバーの僧兵服が裂け、ふくらはぎと太ももに赤い筋がにじむ。
     だが、ウィルバーはその傷を気にかける様子も無く、棍を手首だけで振って、鞭のようにしならせて突いてきた。
    「っと!」
     晴奈は刀を構え直して縦一直線に振り下ろし、棍を叩き落す。棍は当たらずに済んだが、刀から金属同士がぶつかる鋭い音と、何かがこすれるような、気味の悪い音が響く。
     その音が耳に入った瞬間晴奈は舌打ちし、反面、ウィルバーは笑みを浮かべた。
    「ハハ……、どうした? 今の音は何だ、セイナ?」
    「チッ、なまくらめ」
     晴奈の刀の、その中ほどの刃が欠けていたからだ。



     同時刻、リストたちも敵の包囲を切り抜け、晴奈を探していた。
    「ホント、アンタのお姉ちゃんってこーゆー時、無鉄砲よね!」
    「すみません、本当に」
     明奈が謝るが、リストの怒りは収まらない。
    「大体さ、『メイナは絶対守ってやる』とか何とかカッコつけてたくせに、この前だってアンタをほっといて、カツミと戦おうとしてたんでしょ?
     言うコトとやるコトが違うなんて、そこからしてろくなヤツじゃないわよ」
     姉の悪口を言われ、普段温厚な彼女にしては珍しく、明奈は目を吊り上がらせる。
    「そんな言い方、無いんじゃないですか?
     お姉さまは確かに一人で動くことが多い方ですけれども、心の中では皆さんのこと、全体のことをきちんと考えていらっしゃいます。
     リストさんこそ人のことを簡単に悪く言って! それこそ人をろくに見ない、いい加減な方です!」
    「何ですって!?」
     明奈とリストの間に、険悪な空気が立ち込める。
     と――遠くから、鋭い金属音が響いてきた。
    「……!?」「何、今の!?」
     まるで分厚い鋼板に散弾を放ったような異様な音を聞きつけ、二人はそちらへと向かった。
    蒼天剣・因縁録 3
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第87話。
    黄海防衛戦、ひとまず終息。

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    4.
    「くそ……!」
     晴奈は真っ二つに折れた刀を見下ろし、悪態をつく。
    「くそ……!」
     ウィルバーが立て続けに放った棍が、晴奈の刀を折ってしまったのだ。
     仕方無く脇差を抜いたものの、こちらは長さも切れ味も、刀より大分劣る。劣勢に立たされた晴奈は、ポタポタと冷や汗が流れていた。
    「どうやらオレの勝ちらしいな。どうする? 今なら介錯してやらなくも無いぜ? 姉の無残な屍なんか、妹に見せたいもんでもないだろ?」
     居丈高に振る舞うウィルバーに、晴奈は虚勢を構える。
    「勝負はまだ付いてはいない!」
     晴奈は懸命に脇差を振り回すが、三節棍の長さには到底太刀打ちできない。加えて大柄なウィルバーの手足の長さは、長身の晴奈でも分が悪い。
     攻撃はウィルバーに余裕でかわされ、かわしざまにひらりひらりと棍が飛んでくる。その一撃一撃が、晴奈をじわじわと弱らせていく。
    「くッ……!」
     打つ手が見い出せず、晴奈の消耗がじわじわと積もっていく。
     その劣勢を見抜いたらしく、ウィルバーがより一層の攻勢に出た。
    「それッ!」
     勢い良く棍が突き出され、晴奈は脇差を構え、それを防ぐ。しかしその衝撃を削ぎきれず、晴奈は体勢を崩す。
    「ハハ、これでオレの勝ちだ!」
     棍が跳ね返ってきたところで、ウィルバーは棍をつなぐ鎖に指をかけた。
    「……!」
     そこが支点となり、三節棍全体が回転する。鎖を指で吊ったまま、ウィルバーは腕をぐるりと回した。指にかかった棍に勢いが付き、晴奈に向かって飛んでいく。
     一瞬のうちに、防いだはずの棍が自分に戻っていく。だがよろけた晴奈には、それをかわず余裕が無い。
    (これは、あの時と……!)
     7年前、ウィルバーに負けた時の記憶が、晴奈の脳裏に蘇る。このままでは7年前と同じように、棍は晴奈の額を割ることになる。
    (た……、倒れてなるものか! 二度も同じ辱めを受けて、倒れてしまうわけには行かぬ!)
     晴奈は歯を食いしばり、迫り来る棍を凝視した。

     ところが、ここで信じられないことが――少なくとも、三節棍の達人であるウィルバーにとっては、まずありえないと断言するようなことが起きた。
     宙を飛び、晴奈に向かっていた三節棍が、突然上に跳ね上がったのだ。
    「……は?」
     ウィルバーの鋭い目が真ん丸になる。晴奈も驚き、言葉を失う。
     続いて棍は、もう一度空中で跳ねる。ウィルバーはまだ驚いたままだ。晴奈は相手より一瞬早く我に返り、驚いているウィルバーをにらむ。
     また棍が跳ねたところで、ようやくウィルバーが晴奈の方に目を向けたが、既に遅かった。
    「しまっ……!」
     晴奈が脇差を振り上げ、ウィルバーに迫る。ウィルバーは体をひねるが避け切れず、脇差が左肩に食い込む。
    「ぐ……、ッ」
     晴奈は脇差から手を離し、肩を押さえてのけぞったウィルバーの腹を蹴り、そのまま転倒させた。
     そしてくるくると宙を飛んでいた棍が、ウィルバーの顔に落ちていく。
     一瞬の間を置いて、ボキ、と言う鈍い音が、晴奈の耳に届いた。



    「……うう」「おお、気が付かれましたか、僧兵長!」
     ウィルバーは動く馬車の中で目を覚ました。起きようとしたところで、腹と肩、そして顔全体に痛みを感じ、思わずえずく。
    「う、げ」
    「あ、あ、安静になさってください」
     横にいる従者は、すまなそうな顔をしている。顔に包帯が巻かれたその様子は、垂れた兎耳と相まって、とても情けなく映る。
    「ろうなっら……、ああん?」
     ウィルバーはしゃべろうとしたところで、自分の発音がおかしいことに気付く。
    「あ、まはか」
     口を触ってみると、前歯の感触が無い。どうやら三節棍が当たった時、折れてしまったらしい。
    「くほ……、なはけねえ」
    「そ、それで、その、ですね」
     従者は泣きそうな顔で報告する。
    「あの、僧兵長のですね、その、御身がですね、危ういと、その、感じましてですね、はい、あの、これはまずいなと、そう、そんな風に、あの、思いましてですね、……その、撤退、を、ですね、はい、いたしまして、はい」
    「……てめえ」
     ウィルバーは体中の痛みも忘れ、従者の兎耳を力任せに引っ張った。
    「あ、痛い、痛いです、お止めください、僧兵長、痛い、痛い!」
    「らから、気ほ付けろっへ言っはんら、オレは! この、大マヌケめ!」

    「かたじけない、リスト」
    「へっへーん」
     リストがまた、銃をクルクル回して見せびらかしている。
     先程の戦いで、リストがウィルバーの三節棍を狙撃していたのだ。
    「ま、とっさにとは言え、うまく行って良かったわ。メイナの強化術のおかげね」
    「いえ、そんな……」
     ウィルバーが倒されたことが陣内に伝わり、教団は大急ぎで撤退を始めた。
     晴奈たちもその間に他の剣士たちを集め、戦闘地域から離脱。今は既に、黄海の壁が見える辺りまで戻って来ていた。
    「もう教団のヤツらはいないわね。作戦終了、と」
     リストは銃を収め、晴明姉妹に笑いかける。
    「さ、戻ろっか、セイナ、メイナ」
    「ええ、そうしましょう」
    「そうだな。エルスもきっと待ちかねている」



     その後、数回にわたって教団は人員を増やし、黄海の制圧を試みたが、黄海側も焔流や州軍などと連携し、応戦を続けた。
     これが2年半に渡って続き、央南西部・中部を騒がせた、央南抗黒戦争の始まりである。
     そしてそれは同時に、戦略家「大徳」エルス・グラッドと、剣豪「蒼天剣」黄晴奈、この二人の伝説の、始まりでもあった。

    蒼天剣・因縁録 終
    蒼天剣・因縁録 4
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第88話。
    教団の神様。

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    1.
    「どけ、そこの木炭!」
     目の前にいる「狼」からいきなり罵倒され、男は少し戸惑ったような素振りを見せたが、男は素直に横へ退いた。
    「フン」
     その黒い狼獣人はこれ見よがしに肩を怒らせて、男の前を通る。
     と、男が口を開く。
    「一つ聞く」
     男の問いかけに対し、罵倒した「狼」――ウィルバー・ウィルソンは、横柄な態度を返す。
    「……あ? 何か用かよ」
    「余程いらついていると見えるが、それを俺に振る理由があるのか?」
    「知るか、ボケ!」
     ウィルバーは男を押しのけながら、半ば吠えるように怒鳴りつけ、そのまま去っていった。
     男は真っ黒な外套に付いた手形をはたき落とし、ポツリとつぶやいた。
    「なるほど、な」

    「ウィリアム。お前が俺を、遠い央北からわざわざ呼んだ理由をつい先刻、把握した」
    「は……」
     黒い男は目の前にいる、いかにも宗教家と言った風体の狼獣人に向かって、足を組んだまま話を始める。
    「大方、あの『差し歯』の小僧はお前のせがれだろう?」
     男よりはるかに老けた容貌の、一見こちらの方が年長者と思われる「狼」が、へりくだったしぐさで男にコーヒーを注ぎながら、質問に応える。
    「お気付きでしたか」
    「何と言ったか――ああ、そうそう。ウィルマだったか――お前の曾祖母にそっくりだ。誰彼噛みつく様が、良く似ている。
     その父親は本当に人のいい奴だったのだが。お前のように、な」
     男の言葉に、「狼」は顔を赤らめる。
    「はは……。開祖からご存知でいらっしゃると、直近の家人の話をするのは気恥ずかしいですな、どうも……」
    「ククク……。何故ウィルソン家は『極端』なのだろうな」
     男は「狼」の注いだコーヒーをくい、と飲み込む。
    「極端、と言うと?」
    「大体、3タイプに分かれている。
     一つ、お前のように、素直で親しみの持てる奴。
     一つ、ワーナー、それと最近では、ワルラスだったか――狡猾で、打算的な奴。
     そしてお前のせがれのように、粗暴でやかましい奴。……何年経っても、この手の輩は相手が面倒でたまらん」
     男はまた、鳥のようにクク、と笑う。
    「本当に、不肖のせがれでして……」
     平身低頭し、恥ずかしさを紛らわせていた「狼」は、そこで男のカップが空になっていたことに気付いた。
    「あ、タイカ様。お代わりは如何でしょう?」
    「ああ、是非いただこう」
     黒い男――克大火はニヤリと笑って、カップを差し出した。
    「もし開祖が1番目のタイプで無かったら、俺はこうしてここで、うまいコーヒーを飲むことは無かっただろうな、……クク」



     516年初めの黄海防衛戦に端を発した央南抗黒戦争は、精鋭揃いの焔流とエルスの優れた戦略、黒炎教団の豊富な資産と人員が拮抗し、半年が過ぎた516年夏になってもなお、勢いが落ちること無く続いていた。
     焔流剣士たちの実力、また、エルスの手練手管をもってしてもこの膠着状態から抜けられずにいたため、エルスと晴奈、紫明の3人は黄屋敷にて、抜本的な打開策を検討していた。
    「やっぱり、こちら側の一番のネックは、人員の少なさにある。みんな、かなり疲労の色が濃い」
     エルスの言葉に、晴奈が反論しようとする。
    「そんなことは無い。我々は鍛え方が違う。少しくらいの……」「そう言う問題じゃないよ、セイナ」
     卓から半立ちになった晴奈を、エルスがやんわりと抑える。
    「実際に起こっている問題として、若手や壮年の剣士たちの中にはもう、疲労や怪我でほとんど身動きできなくなっている人もいるらしいじゃないか。この半年ほとんど、休むことなく戦い続けているんだからね。
     この状況を鑑みるに――言い方は少し悪いけど――『手駒』がいないことが問題なんだ。教団の下っ端みたいに、いわゆる『歩』の役割をしてくれる人がいないから、将や班長クラスの人間を、一歩兵と兼用で使っている状態だ。
     これじゃ1人当たりのタスク、処理能力が到底、現状に追いつかない。数字で言うなら、こちら側1人に対して、相手は5人も10人もかかって来てる状態なんだ。兵法の基本から言えば、こんな状況に留まるなら、逃げた方がましだ。
     でもそう言う状況で、君たちは逃げないだろ? 真っ向から相手してるよね」
    「当たり前だ」
    「それが災いしてるし、相手の司令官にしても、狙ってきてるポイントなんだろう。ただでさえ少ない人材を、片っ端から消耗させて自滅させるのが狙いなんだよ。
     人使いの荒い今の状況じゃ、優秀な人材もいずれ使い潰す羽目になる。数で対抗できなきゃ、いずれは押し切られちゃうよ」
    「ふむ……。つまりは人員を大量に確保せねば、と言うことか」
     ここで紫明が、考え込む様子を見せる。それを見て、晴奈が尋ねた。
    「父上、何か策が?」
    「うむ。晴奈、私が央南連合幹部の一員であることは知っているだろう?」
     それを聞いて、エルスも尋ねてくる。
    「央南連合? 確か央南の政治同盟……、でしたね?」
    「うむ。そこに人員を貸してもらうよう、頼んでみるのはどうだろうか」
     紫明の提案に、エルスはにこっと笑ってうなずく。
    「なるほど。確かに連合軍なら、かなりの数が確保できそうですね。戦力としても申し分無い」
    「央南の安寧秩序を第一とする連合ならば、西部侵略を押し進める黒炎と戦っていると告げれば、手を貸してくれるだろう」
    「よし、それじゃ早速、お願いに行きましょう」
     エルスはうなずき、紫明の案を採った。
    蒼天剣・権謀録 1
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第89話。
    疑惑の「狐」との対面。

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    2.
     央南には、厳密な意味での「国」が無く、州が集まってそれぞれ自治を行う「連邦制」を執っている。
     かつては国王を主権とする国が、央南全土にわたって存在していたのだが、その国は暴虐の限りを尽くして人民を苦しめ、やがて人民との間で戦争が勃発。その結果、国は滅びた。
     そして、その後に群雄割拠してできたいくつかの小国の間でも央南統一を掲げた戦いが起こり、長きにわたって戦乱が続いた。
     その長い戦いの果てに、「誰か一人が王になろうとしても納まるまい」と悟った央南の権力者たちが話し合い、央南をいくつかの州に分けた。そしてその州をまとめる宗主たちが集まり、彼らを幹部として、央南の政治体制や州間の意見調整、域外との外交方針を取り決める組織を築き上げた。
     これが央南連合の始まりである。



     晴奈とエルス、紫明の3人は央南中部の街、天玄に到着し、連合の本拠となっている屋敷、天玄館へと向かった。
    「父上」
    「うん?」
     屋敷内の様子を一瞥した晴奈が、紫明にそっと声をかける。
    「何と言いますか、ここは黄屋敷とは大分、趣が異なっておりますね」
    「ふむ、まあ、確かにな」
     天玄館の中はどこも騒々しく、多くの人が書類や何かの機材を持って、バタバタと行き交っている。
    「黄屋敷は静かな場所でしたが、こちらは何と言うか、……にぎやかな」
     言葉をにごした晴奈に対し、エルスは正直に述べる。
    「まあ、ぶっちゃけると騒々しいところだよね」
     紫明も肩をすくめ、それに応じた。
    「連合の本拠地であるからな。あちこちから嘆願や請願が押し寄せてくるから、この騒々しさも仕方の無いことだ。
     とは言え、懸念はある。この繁忙からすると、主席も手一杯であるかも知れん。こちらの話を真摯に聞いてくれるかどうか」

     紫明の予想通り――連合の主席、狐獣人の天原桂は両手を交差し、晴奈たちの目の前に「×」を作った。
    「いやー無理です」
     そのにべもない回答に、紫明は渋い顔をする。
    「やはり難しいですか」
    「いやいや。難しいじゃなく、無理。まったく無理なんです」
     天原はもう一度、「×」を作る。
     と、エルスはつぶさに情況を尋ね、天原主席に食い下がる。
    「兵士は回せませんか?」
    「はい。無理無理、無理なんです」
    「一人も?」
    「ええ。ダメ、絶対」
    「何か今現在、問題を抱えていらっしゃるのですか?」
    「ええ、あります。一杯。たくさん。目が回るほど」
    「教えていただいても?」
    「ん、まあ、はい。じゃ、こちらをご覧ください」
     天原は机から書類を乱雑に取り出し、晴奈たちの前に並べていく。
    「大きな問題としては、こちら。東部地域でですね、大規模な水害が起こっていまして、それを解消するために、2割ほど人員を送ってまして」
    「残り8割は?」
    「こちらに、1割。で、こっちにも。あと、これと、これと、これと……」
     天原は次々に、書類を積み上げていく。そのあまりの量に、晴奈と紫明は唖然とする。
    「ね? これじゃ、とてもとても……」「あのー」
     ここでエルスが書類の束をつかみ、進言した。
    「良ければご意見させていただいても、よろしいですか?」

    「ね? ここの物資を使えば、わざわざここから輸送しなくても良くなります。恐らく作業日数は、3分の1以下に収まるかと」
    「はあ……」
     一見、乱雑で混沌とした状況でも、戦略家のエルスが見ればいくつかの活路、打開策が見つけられた。
    (ふむ、これなら話もまとまるか……?)
     晴奈は期待を持って紫明に目配せしたが、紫明は表情を曇らせている。
    (いや……、やはり主席は断るつもりらしい)
    (え……?)
     紫明が示した通り、天原は仕事が片付いて喜ぶどころか、先ほどよりさらに憂鬱そうな――まるで言い訳ばかりする子供が言葉に詰まり、すねたような――顔をする。
    「あ、のー」
     そしてたまらずと言った様子で、天原が口を開いた。
    「それでですね……、あ、はい」
     応じたエルスに、天原はたどたどしく、こう切り出した。
    「そのー、えーと。何て言いますかねー、まあ、……契約、の話をしたいんですが」
    「契約ですか?」
     なぜかこの時、エルスの目が――相変わらず、ヘラヘラ笑いながらも――鋭く光った。
    「グラッドさんが私の手助けをしていただく代わりに、そちらの要請――対黒炎用の人員をご用意させていただきます。そう言う話ならどうでしょうか?」
    「……うーん」
     この提案に、エルスが悩む様子を見せる。晴奈もこの提案を呑むことに、不安を覚えた。
    (むう……。もし手伝うことになれば、きっとエルスは天玄に留まることになるだろう。その間の、黄海での指揮が不安ではあるが……)
     この提案に対し、エルスはやんわりとした回答を返した。
    「そうですね、そう言ったお話となると、僕一人では即決できません。持ち帰って検討させていただいても?」



    「ふむ」
     聖堂の梁の上で、大火は下にいる者たちを見下ろしていた。高く、明かりのない天井のため、大火がいることに下の者たちは気付いていない様子である。
    「クク……、またあの小僧か」
     聖堂の壇上ではウィルバーがだるそうに、かつて大火が記した書を読み上げている。
     どうやら本日の音読の担当は彼であるようだが、明らかにやる気が見られない。
    「であるからしてー、えー、魔術師とはー、えー、契約を重んじー、えーと、それを最大の術とするのである。はい、おしまい」
    「クッ」
     そのやる気の無い様子を見て、大火は噴き出す。
    「おいおい、三流大学の呆けたじじいか、お前は」
     大火のそんなつぶやきが聞こえるはずも無く、ウィルバーは経典を乱雑に書架へ投げ込み、皆に聖堂を出るよう促す。
    「ほれ、終わったんだからさっさと出ろ。修行に行け、ほれ」
     ウィルバーに言われるがまま、教団員たちはぞろぞろと聖堂を後にする。
     と、最後に出ようとした尼僧を見て、ウィルバーは声をかける。
    「おい、そこの」
    「はい、何でしょうか?」
     ウィルバーは助平そうに笑い、にじり寄ってくる。
    「ふむふむ、なかなかの上玉……、もとい、鍛錬を積んでいるな。どうだ、オレと一緒に修行しないか?」
    「え、ええ? あの、いえ、わたし、一人で……」
    「いいじゃないか、な?」
     口説こうとしているウィルバーを見て、大火は舌打ちした。
    「……下衆め。ろくでもないことを」
     すっと、大火が消える。その一瞬後、尼僧もウィルバーの目の前から、ポンと消えた。
    「なあ、いい……だ、ろ? あれ? おい? おーい?」

    「あの、やめて……、え?」
     尼僧はいつの間にか聖堂の外に立っており、きょとんとしている。
    「あれ?」
     呆然としたままの尼僧の頭をぽんぽんと叩き、大火はこう諭した。
    「今後は最後に出るのを控えておけ。あんな不埒者の小僧と関わりたくなければ、な」
    「あ、はい、ありがとうござい……ます? あの……?」
     依然、きょとんとした顔のまま、尼僧はぱち、とまばたきする。
     その一瞬の間に、大火は姿を消していた。
    蒼天剣・権謀録 2
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第90話。
    ほの見える、黒い政治戦略。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
    「ウィルバーについての調査結果だが、結論から言うならば、あれをウィルソン家の人間であるとは、容易には信じられん、な。とんだ愚物だ」
    「ううむ……」
     大火の評価に、教団の教主であり、ウィルバーの父親でもあるウィリアム・ウィルソン4世は悲しそうな顔をした。
    「お前や兄弟、親類のいる前ではそれなりにへつらってはいたが、いざその目が届かぬ場に移れば、途端に態度が変わった。
     不必要に家名や職位をかざして威張り散らし、女の尻を追いかけ、おまけに禁じていたはずの酒もどこからかくすねて、取り巻き共と酒盛りまでしている。
     やりたい放題とはまさにこのことだろう」
    「そうですか……」
     報告を聞き終えた途端、ウィリアムは顔を覆い、がっくりとうなだれた。
    「わざわざタイカ様御自らにご足労いただいて、この体たらくとは。全く情けない限りです。
     では、契約の履行と……」「ああ、それについてだが」
     もう一度頭を垂れかけたウィリアムを、大火が止める。
    「せがれの不始末を、親のお前が尻拭いするのは解決にならんだろう? あいつ自身でその債務を払わなければ、反省には結びつくまい」
    「と、言うと」
    「自分のツケは、自分で支払わせるのが筋と言うものだ。
     お前と交わした契約は、あいつに履行してもらうとしよう。何を支払ってもらうかはいずれ、本人に伝えておく」



    「契約だなんだって言う言葉は、タイカ・カツミの語録や黒炎教団の経典なんかでよく用いられるそうです」
     エルスは検討のために用意された個室で、話を切り出した。
    「この『契約』と言う言葉に関しては、かなり多くの書物で言及されています。教義としても扱われていて、曰く『契約は公平にして対等の理』とか何とか。
     今時そんな言い回しを使うのは、真面目な商人か、熱心な教団員くらいです。でもアマハラさんは、どう解釈しても前者ではありません」
    「何の話をしている?」
     けげんな顔を向けた紫明に、エルスは説明を続ける。
    「結論から言えば、アマハラさんはどうも怪しいですね。
     僕たちの要請なんか、連合軍の規模を考えれば簡単に受け付けられるはずです。でも彼はあれこれ言い訳して、応じる様子をまったく見せなかった。
     それに仕事の仕方にも疑問があります。あれらはちょっと仕事のできる人なら、とっくに終わっているような簡単な作業でした。むしろアマハラさんは、連合の仕事を停滞させているかのように手を回している節さえあります。
     おまけに対黒炎隊の中でブレーン、参謀となっている僕をいきなり引き抜くなんて話も、突飛な判断と思えます。そして何より、『契約』なんて言い回しをしたことも妙です。まるで教団員みたいですよ」
    「エルス、まさかお主、天原主席が教団員だと言うのか?」
     晴奈の言葉に、エルスはこくりとうなずいた。
    「うん、可能性は非常に高い。教団員でなくとも、教団と何らかの強い関わりがあるだろう」
    「ば、バカな!」
     紫明がバンと卓を叩いて立ち上がり、エルスの意見を否定する。
    「か、彼は連合の主席だぞ!? もしも彼が、教団と通じていると言うのならばっ」
    「ええ、大変なことです。元々、央南連合は黒炎教団に対して否定的、敵対的な姿勢を執っていますからね。それに今回の、我々の戦いの件に即して考えてみても、挟撃の可能性が出てきますからね。
     しかしそう考えると、あの件に対する連合の行動に、辻褄が合うんですよ」
    「あの件とは?」
    「昔、加盟州である黄海を教団によって占領された時、連合がまったく介入も軍派遣もしなかった、その理由です」
    「あ……!」
     エルスの論拠を聞き、紫明の顔が青ざめる。
    「ま、まさか……、そんな」
    「ともかく今日のところは、天原氏には『話がまとまらなかったのでもう一日、教義の時間を欲しい』と返答しておきましょう」
    「……うむ」
     苦い顔のまま、紫明がうなずき、立ち上がる。
     晴奈も立ち上がったところで、エルスがつぶやいた。
    「こんな回りくどい策を巡らす人間が教団にいるとすれば、ワルラス卿かな」
    「誰だ? まさか教団に知り合いがいるのか?」
     晴奈の問いに、エルスは手を振って否定する。
    「いや、名前と評判くらいしか知らないけどね。
     ワルラス・ウィルソン2世。黒炎教団教主の弟で、いま52、3くらいの狼獣人。央南方面の布教を任されてる大司教だよ。
     かなり頭が良くて、非常に狡猾な性格だとか。いかにもこんなことを考えそうなタイプだよ」
    「ふむ。……そう言えばワルラスと言えば昔、うちに送られた文で見た覚えのある名だな」



     大火が帰った後――。
    「兄上。何か隠しごとをなさっておいでですな」
     ウィリアムは弟、ワルラスに問いつめられていた。
    「な、何を言うんだ、ワルラス」
     根が正直なウィリアムは、傍目に分かるほど動揺する。
    「大方、ウィルバーのことで何か画策しているのでしょう。
     確かに彼に対して、あまりいい評判を聞きません。それに最近では、黄州の戦いで何度か手痛い敗北を喫しているとも。最近の荒れ様もきっと、そこに原因があるのでしょう」
    「まあ、そうだろうな。だが最近のあいつは、少々目に余るところが……」「まあ、まあ」
     嘆くウィリアムを、ワルラスがなだめる。
    「人間、時には勢いを落とし、愚かしく惑う時期もあるでしょう。大成する者なら、なおさら。きっとウィルバーも、そんな時期に入っているのですよ」
    「そうだろうか」
    「そうですとも! これは彼に与えられた試練、そう思って気長に見ておやりなさい」
    「……うーむ」
     ウィリアムは小さくうなずき、その場を後にした。

     ウィリアムの姿が見えなくなったところで、ワルラスは静かに眼鏡を直しながら、ぼそっとつぶやいた。
    「アンタは黙って、おろおろしていればいいんだ。どうせ平凡陳腐なアンタのことだ、大したなど何も、できやしないんだからな」
    蒼天剣・権謀録 3
    »»  2008.10.09.
    晴奈の話、第91話。
    エルスの迎撃作戦。

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    4.
    《アマハラくん》
     夜遅く、天玄館の主席室に声が響く。黙々と書類をいじっていた天原は、その声に狐耳をピンと立てた。
    「ウィルソン台下ですか? 少々お待ちを」
     天原はそっと、部屋の入口に鍵をかける。そして壁際の本棚を動かし、その裏にあった魔法陣の描かれた壁をさらす。
    「『扉』は開けました。どうぞ、おいでくださいませ」
    《ありがとう》
     魔法陣が紫色に輝き、その中央からするりと、ワルラス卿が現れた。
    「少し、気になる件を聞いたのでね。取り急ぎ、こちらに伺った次第だ」
    「黄氏の件、でございますね」
     天原はワルラスに近付き、そっと耳打ちする。
    「まあ、やはりと言いますか。あのグラッドと言う男、なかなかに頭が切れるようでして。密談の様子を盗聴していた者から、私の正体に気付いたようだ、との報告が」
    「ふむ。それは、少しまずいかもしれない。
     グラッドとか言う者自体は連合の関係者では無いし央南人でも無いから、仮に君のことを吹聴されても、さして問題は無い。
     だが黄州の権力者であり、連合幹部の人間であるコウ氏にその話を広められれば……」
    「私の地位、ひいては台下の央南教化計画にも、大きな打撃がある、と」
     心配そうに見つめる天原を見て、ワルラスも眉を曇らせる。
    「ああ、確かに多少なりとも被害は出るだろう。
     が、それは『もしもそうなれば』の話だ。そうならなければ良い。意味は分かるね、天原くん?」
     ワルラスの問いに、天原は眼鏡をキラリと輝かせて答える。
    「は……、心得ております。今夜中にも、手配いたします」
    「よろしく頼む。では、失礼」
     そう言ってワルラスは席を立ち、魔法陣へと歩き、その向こう側へと進む。その直後カチ、と音を立て、魔法陣から光が消えた。



     既に天玄館を後にし、晴奈たちは宿に戻っていた。時刻は真夜中を過ぎ、赤と白の月が、わずかに窓際を明るくしている。
     と、その光が何かにさえぎられ、部屋に届かなくなる。光の代わりに黒い服を着た者たちが2人、3人と部屋に入ってきた。
     黒ずくめたちは目標を確認しようと床に近付いていく。だが、その目標――晴奈、エルス、そして紫明の姿はいずれも、床に無かった。
    「……!?」
     黒ずくめたちは一瞬顔を見合わせ、うろたえる様子を見せる。
    「ここで合ってるよ」
     と、上から声が聞こえる。黒ずくめたちがそちらを向いた瞬間――。
    「ほい」「ぎゃー……ッ!」
     黒ずくめの一人が窓から勢い良く、投げ飛ばされた。
    「でも、何も言わずにいきなり夜這いって言うのは感心しないなー。誠実じゃないもん。やるなら堂々と正面突破だよ。そうじゃなきゃ、女の子はなかなか振り向いてくれないよ?」
     エルスが窓から顔を出し、頭から地面に突っ込んだ黒ずくめに笑いかけた。
    「な、何故我々が来ると……!?」
    「あのね、『アマハラさんが怪しい』って言ってるのに、『アマハラさんが用意してくれた部屋は怪しくない』って理屈は通らないと思うよ。
     君たちに話を聞かれてたことも知ってたし、こうして襲ってくるって言うのも、予想が付いてたんだよね~」
     そう言って苦笑しながら、エルスは二人目の肩と帯をつかみ、背負うように勢い良く引っ張った。
    「えい」「わー……ッ!」
     2人目も同様に、窓の外へと飛んでいく。残った黒ずくめは、「ひぃ」と叫び、自分から窓の外へ飛び出し、逃げていった。
    「ふー。……じゃ、頼んだよセイナ」

     逃げた黒ずくめは大急ぎで天玄館に戻っていく。裏口に入り、隠し階段を登り、秘密の通路を抜ける。そして晴奈たちの暗殺を指示した黒幕、天原のところに舞い戻った。
    「殿……!」
    「どうしました、そんなに慌てて? 成功したのですか?」
    「あの、それが、その……」「ああー」
     天原の顔色が悪くなる。
    「分かりました。あなたの後ろを見て、何もかも」
     黒ずくめはそっと、振り返る。振り返った瞬間に刀を鎖骨にぶつけられ、そのまま気を失った。
    「安心しろ、峰打ちだ」
     黒ずくめの背後にいた晴奈は、そう言って刀を納めた。
    蒼天剣・権謀録 4
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第92話。
    強敵、出現。

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    5.
     晴奈はキッと天原を睨みつける。
    「天原主席。これで言い逃れはできないぞ。
     教団員と思しき黒ずくめ2名はエルスが捕らえ、残った1人もこうして親玉、つまりあなたのところに戻るのを確認した。最早、弁解の余地は無い」
     真っ青になった天原は硬直している。が、突然笑い出した。
    「ヒ、ヒ……、ヒヒッ、そう思うか、本当にそう思うのか!」
     そう叫ぶなり、天原はブツブツと何かを唱える。
    「魔術か!」
     晴奈は素早く刀を抜き、炎を灯して構える。
    「お前らが消えれば証拠なんか、どうとでもできる! 『アイシクルエッジ』!」
     天原が向けた掌から、にゅっと氷柱が飛び出す。晴奈はそれを刀で弾き、間合いを詰める。
    「それ以上、抗うな」
    「断る! 全力で抗う!」
     天原はさらに氷柱を撃ち出す。
     だが氷は炎と相性が悪く、焔流の剣豪相手では氷の魔術など、大した武器にはならなかった。
    「それッ! はいッ! でやあッ!」
     次々と打ち出される氷柱を晴奈はいとも簡単に弾き、溶かし、天原との距離を縮めていく。
    「観念しろ、天原!」
    「いやだッ! 逃げるッ! 『ホワイトアウト』!」
     術を唱えた瞬間、辺りに白い煙が立ち込める。敵を幻惑させる、目くらましの術である。
     煙が立ち込めると同時に、先程晴奈が通ってきた隠し通路の方から、足音が遠のきつつ聞こえてきた。どうやら敵わないと見て、逃げ出したらしい。
    「む……! 逃がさんぞッ!」
     晴奈も隠し通路に飛び込み、天原の後を追った。

    「ヒィ、ヒィ」
     天原は半泣きで天玄館を出た。夜道を駆け、必死で晴奈から逃げようとする。
    「誰か、誰かいませんか!」
     天原は誰もいないはずの夜道に、声をかける。
    《はっ。殿、こちらでございます》
     ところが、虚空から低い男の声が返ってきた。
    「おお、篠原くん! 来てくれましたか!」
    《殿の危急とあらば、どこへでも馳せ参じます》
    「流石、流石ですよ! ……そうだ、篠原くん! これから女剣士がやってきます。流派はあの、焔流です」
    《……!》
     姿は見えないが、息を呑む気配は伝わる。
    「あなたの、あなたの剣術、『新生焔流』で、細切れにしてしまいなさい!」
    《……御意》
     そこでようやく、骸骨のように痩せた、眼の窪んだ男――種族までは頭巾を被っているので分からない――が姿を現す。
     と同時に、晴奈が追いついてきた。
    「天原ッ! そこになおれ!」
    「……ヒヒヒヒ。断る、断りますよ黄さん!」
     天原は篠原の後ろに隠れ、居丈高に笑う。
    「さあ、やっておしまいなさい! その間に、私は『例の場所』に行きます!」
    「承知」
     篠原はわずかにうなずき、晴奈と対峙した。

     篠原と向かい合った瞬間、晴奈の耳と尻尾が毛羽立った。
    (……こやつ、できるな?)
    「名乗っておこう」
     篠原は大儀そうな低い声で名乗る。
    「某、篠原龍明と申す。新生焔流、篠原派開祖だ」
    「焔流だと!?」
     敵が自分と同じ流派だとは素直に信じられず、晴奈は思わず声を上げる。
    (いや……しかし、確かに刀の構えには、焔流の面影があるように見える)
     生気の無い目を向けながら、篠原が尋ねてくる。
    「殿に聞いたが、貴様も焔流の者だそうだな」
    「いかにも。本家焔流免許皆伝、黄晴奈だ」
    「なるほど。確かに腕は立つようだが……」
     気だるそうに篠原がつぶやいた直後、晴奈は尋常ではない殺気を感じ、一歩退く。
     次の瞬間、自分が立っていた場所を斜めに、地割れが走った。
    「ふむ、勘もいい。某の『地断』を見切るとは」
     篠原の刀から、チリチリとした音が響いている。
    (この貫通性……、『火射』の派生形か? 地面がこのように、バッサリ斬れるとは)
     と、篠原が晴奈の背後に目を向ける。
    「……もう一人、いたか」
     するとガサガサと音を立て、茂みからエルスが現れた。
    「はは、僕のスニーキング(潜伏術)もまだまだだなぁ」
     エルスは晴奈の横に立ち、ト型の武器――トンファー(旋棍)を取り出して構える。
    「アマハラさん、逃げちゃったかぁ。えーと、シノハラさんだっけ。一つ提案するけど」
    「何だ?」
    「僕らの目的はアマハラさんの確保だったけど、逃げられちゃったから目的不達成。で、シノハラさんの目的はアマハラさんが逃げ切るまでの、僕らの足止めでしょ?
     僕らの目的は達成できなかったし、シノハラさんの目的は達せられた。双方にとって最善の策は、ここで僕らと戦わず、このまま離れることだと思うんだけど」
     エルスの提案を聞いた篠原は、馬鹿にしたように口角を上げた。
    「愚論だ。某、黄の殺害を命じられている」
     それだけ言うと篠原は晴奈との距離を詰め、斬りかかってきた。篠原が踏み込んだ瞬間、晴奈も反応する。
    「りゃあッ!」
     晴奈と篠原、二人の刀がぶつかり合い、高い金属音が夜道に響き渡る。篠原は意外そうにぴくりと片眉を上げ、晴奈に声をかける。
    「ふむ……、弾き飛ばすつもりだったのだが。女と侮ったが、思ったより胆力がある」
    「この黄晴奈、なめてもらっては困る」
     晴奈はトンと後ろに下がり、刀に火を灯す。
    「『火射』!」
    「むうっ」
     晴奈の放った「飛ぶ剣閃」は、確実に篠原を捉える。だが――。
    「『火閃』!」
     篠原は「爆ぜる剣閃」で晴奈の技を跳ね返した。
    「な……ッ!?」「危ない、セイナ!」
     エルスが晴奈の腕をつかみ、横に投げる。それと同時に、迫り来る炎を魔術で防ぐ。
    「『マジックシールド』!」
     エルスの作った魔術の盾に自分の技が防がれたのを見て、篠原は顔をしかめた。
    「なるほど、お前の言う通りのようだ。この状況では一向に、決着するまい」
     篠原は刀を納め、身をひるがえした。
    「黄。そして、グラッドと言ったか。この決着は、いずれ付けさせてもらおう」
    「待て、篠原ッ!」
     晴奈が呼び止めたが、篠原はそのまま闇に紛れ、姿を消した。
    蒼天剣・権謀録 5
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第93話。
    風雲急を告げる。

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    6.
     某所。
    「ふー」
     央中風の大きな椅子にもたれた天原はため息をつき、天井に向かって声をかけた。
    「篠原くんは、戻りましたか?」
    《いえ、まだ戻っておりません》
    「そうですか。意外に、てこずっているのかな。
     はー……、猫女に追い掛け回されてのどが渇きました。飲み物を持ってきてください」
     少し間を置き、部屋の戸を開けて黒ずくめの少女が現れる。
    「失礼します、殿」
    「ありがとう、藤川くん」
    「いえ……」
     飲み物を用意した黒ずくめ、藤川は小さく頭を下げ、部屋を出ようとした。
    「あ、ついでに」
    「はい、何でしょうか」
    「天玄館の執務室に行き、棚の後ろにある魔法陣を消してきてもらえますか? 台下が万一あちらに現れたら、大変なことになるでしょうから」
    「かしこまりました」
     藤川はもう一度頭を下げ、部屋を出た。
    「あ、お頭……」
    「今、戻った」
     扉の向こうで、藤川と篠原の話し声がする。すぐに篠原が戸口から顔を出す。
    「殿、ただいま戻りました」
    「ご苦労様でした、篠原くん。あの猫女は、片付けてくれましたか?」
     篠原は首を振り、窪んだ目をさらに落ち窪ませる。
    「恐れながら……。邪魔が入り、退却いたした次第です」
    「ほーぉ」
     篠原の報告を聞いた途端、天原の顔が不満げに歪む。
    「じゃあ何ですか、篠原くんともあろう者が何もできず、戻ってきたと?」
    「面目ございません」
     天原はしばらく篠原を睨みつけていたが、もう一度ため息をつき、眼鏡を外して横を向いた。
    「……まあ、いいです。後は、つけられてないでしょうね?」
    「はい」
    「なら、そっちは問題無しですね。
     多分、黄大人が央南連合に介入して私の素性も知れるでしょうから、天玄に入ることはできなくなるでしょう。一応、天原家の財産の一部はここに蓄えてありますけれど、まだ大部分が天玄に残ってますからねぇ。それを失うのも嫌ですし、ウィルソン台下からのご勅命を無碍にもできませんし。
     近いうち天玄に攻め込んで、連合代表の地位復権に臨まないといけませんねぇ」
     天原は眼鏡を拭きながらチラ、と篠原を見る。
     篠原は彼と視線を一瞬だけ合わせ、背を向けつつ答えた。
    「……我ら篠原派焔流一同、殿のご命令とあらば、いかような任務にも就く所存です」
    「ええ、頼りにしていますよ」



     翌日、天玄は大騒ぎになった。
     連合の代表が、実は敵対している黒炎教団と通じていたことが公になり、天玄館に激震が走った。と同時に、これまで天原が手がけていた業務のほとんどに不正――連合への業務妨害が行われていたことも発覚し、連合は大慌てで事態の収拾に当たった。
     その際にエルスが知恵を貸したことと、黄商会が多額の資金援助を行ったこともあって、次の主席には紫明が就任することとなった。
     これにより紫明は連合軍を自由に動かせるようになり、所期の目的であった黄海への援軍も達成された。

     しかしこの騒動により、晴奈の胸中にはある不安が沸いていた。
    (一体、天原はどこに雲隠れしたのだ? あの卑怯そうな男のことだ、恐らく天玄に舞い戻ろうと画策するだろう。恐らく、実力行使によって。
     そしてあの男、篠原龍明。焔流剣士と名乗り、確かに焔流の技も持っていた。何より気になるのが、あの『地面を叩き斬った』技。もしや、あの時イチイ殿を屠ったのは、篠原に縁ある者では無いのか?)
     考えれば考えるほど、天原と篠原の周りに不気味な影が見え隠れする図が浮かんでくる。
    (探らねばなるまい。今一度、紅蓮塞に戻るとしよう)
     と、晴奈の不安を感じ取ったらしく、エルスが声をかけてきた。
    「セイナ、あの男の調査をするんだろ? 焔流って言ってたから、晴奈の修行場に行くつもりだよね?」
     晴奈は腕を組み、エルスの笑い顔をけげんな表情で見つめる。
    「いつもながら、どうしてお主は私の心を読めるのか。……その通りだ」
    「なら、僕も付いていくよ」
     思いもよらない提案に、晴奈は目を丸くする。
    「何?」
    「これは、僕の勘なんだけど」
     珍しく、エルスの顔から笑みが薄れた。
    「何かすごく、危険な匂いがするんだ。あのアマハラ御大と、シノハラと言う侍から。
     彼らを放っておいたらきっと、戦争どころじゃなくなる。そんな気が、するから」
     エルスの言葉に、晴奈も無言でうなずいた。
     晴奈もまた、エルスと同じ危機感を、うっすらとではあるが抱いていたからだ。

    蒼天剣・権謀録 終
    蒼天剣・権謀録 6
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第94話。
    幸せ一杯なご夫婦。

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    1.
     新たに現れた謎の敵、「新生」焔流剣士の篠原の素性を探るため、晴奈は焔流の総本山、紅蓮塞へと戻って来ていた。
    「へぇー、ここが紅蓮塞かぁ。厳格な場所だって聞いてたけど、意外にのどかな街なんだね」
     市街地を見回すエルスに、晴奈はぱたぱたと手を振る。
    「いや、ここはまだ市街だ。修行場はあっちにある」
     晴奈の示す方を見て、エルスと明奈は同時に声を上げた。
    「……へぇ」「何だか、物々しいですね」
    「霊場だからな。それに、敵に攻め込まれることを想定し、迷路のような造りになっている。私から離れると、迷い込んでしまうぞ」
    「はは、それは気を付けないとね」
     ちなみに晴奈が紅蓮塞へ戻るにあたって、エルスと明奈が同行していた。
     情報収集と分析、そしてその応用・活用にかけては、エルスの右に出る者はいない。エルス自身も「一度行ってみたい」と申し出ていたため、こうして随行したのである。
     また、明奈も同じように願い出ていたことと、晴奈の師匠である雪乃からも、かねてから「会ってみたい」と言っていたこともあり、エルス同様に付いてきていた。



    「まあ、本当に……」
     雪乃は明奈を見るなり、興味深そうな声を上げた。
    「似てるわね、あなたに。一回りちっちゃい晴奈、って感じ。後ろで髪をまとめたら、本当にそっくりかも」
    「はは……、明奈が戻ってきてからずっと、そう言われております。子供の時分はあまり、そう評されることは無かったのですが」
     晴奈は照れ臭くなり、しきりに猫耳をしごいている。一方、エルスも興味深そうに雪乃を眺めていた。
    「それで、こちらの外人さんは?」
    「あ、申し遅れました」
     エルスはぺこ、と頭を下げて自己紹介をする。
    「僕はセイナの友人で、エルス・グラッドと申します。お会いできて光栄です、ユキノさん」
     つられて雪乃も会釈する。
    「あ、はい。焔雪乃と申します。晴奈の師匠で、この紅蓮塞で師範を勤めております」
    「いやぁ、セイナの師匠と聞いて、美しい人を想像していましたが、それ以上ですね。非常にお優しい印象を受けます。とても柔らかな美しさが出ていますね」
     エルスの口が妙に回り出したことに気付き、晴奈が後ろから小突く。
    「おい、エルス。言っておくが……」
    「ああ、分かってる分かってる。僕は人妻を口説いても、小さい子のいるお母さんは口説かないよ」
    「あら……?」
     エルスの言葉に、雪乃は戸惑った様子を見せた。
    「なぜわたしに、子供がいると? まだ晴奈にも言ってなかったのに」
    「え? 師匠、お子さんが? い、いつ?」
     今度は晴奈が目を丸くする。
     雪乃は顔を赤らめ、嬉しそうに、しかしまだ疑問の残った顔でうなずいた。
    「ええ、1ヶ月前に産まれたの。あなたが塞を離れた頃には、まだわたしたちもできたことに気付いてなかったんだけどね。
     あーあ、驚かせようと思ったのに。どうして分かっちゃったのかしら」
     エルスが苦笑しつつ、種明かしをする。
    「はは、折角の吉報に水を差してしまいまして、申し訳ありません。
     まず、夫さんがいると言うことは、その指輪で分かりました。そしてお子さんがいらっしゃると言うことは……」
     エルスは自分の服をトントンと叩く。
    「その着物、胸周りや帯の位置がこれまで着ていたであろう位置と若干、合っていらっしゃいませんね。となると、この数ヶ月で何か、大きく体型が変わるようなことがあったと言うことです。
     その点とご結婚されていると言うことと合わせて、そう予想しました」
    「まあ……」
     雪乃は口に手を当て、驚いた様子を見せた。
    「随分、名探偵でいらっしゃるのね。……でも」
     雪乃はエルスに笑いかけ、たしなめた。
    「人妻も、口説いちゃダメよ」
    「はは、失礼しました」
     これもエルスの人心掌握術なのか、それとも雪乃が特別人懐っこいのか――二人は会って数分もしないうちに、すっかり打ち解けていた。

     続いて晴奈たちは雪乃に連れられ、良太と、雪乃たちの子供のいるところに向かった。
    「良太は今、書庫に?」
    「ううん、家元のところにいるわ」
    「ふむ、家元にも用事があったところです。丁度良かった」
     晴奈たちは焔流家元、重蔵の部屋の前に立ち、戸を叩いた。
    「失礼します、家元」
    「お、その声は晴さんじゃな。久方ぶりじゃの、入りなさい」
    「はい」
     戸を開けると、重蔵が耳の長い赤ん坊を抱いて座っていた。横には良太もいる。
    「姉さん。お久しぶりです」
    「久しぶりだな、良太。……家元、長らく留守にいたしまして」
    「おうおう、構わん構わん。……して、後ろのお二人は?」
     晴奈の後ろにいたエルスと明奈が前に出て、揃って挨拶する。
    「お初にお目にかかります。エルス・グラッドと申します。諸事情あって、北方からこちらに移住しました。現在、対黒炎教団隊の総司令を務めております」
    「初めまして、焔先生。黄晴奈の妹の、明奈と申します」
    「ほうほう、大将さんに晴さんの妹さんとな? これはまた、興味深い面々が参られましたな」
     重蔵は子供を良太に渡し、立ち上がって一礼した。
    「拙者、焔流家元、焔重蔵と申します。
     して、晴さん。ここに戻ってきたのは単に、良太たちの娘を見に来ただけではあるまい? 顔にそう書いてあるぞ」
    「はい、その通りです」
     晴奈は表情を改め、重蔵にゆっくりと尋ねた。
    「家元、篠原龍明と言う剣士について、何かご存知ではありませんか?」
    「……篠原じゃと?」
     その名前を聞いた途端、重蔵の目が険しく光る。
    「ご存知でいらっしゃいましたか」
    「存じている、どころか……」
     重蔵は吐き捨てるように答えた。
    「あやつはこの紅蓮塞を潰そうとしたのじゃ。忘れるわけがなかろう!」
    蒼天剣・魔剣録 1
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第95話。
    焔流の内紛。

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    2.
     詳しい話をするため、晴奈とエルス、そして重蔵の三人は人払いをし、重蔵の私室に移った。
    「15年以上昔、この紅蓮塞に『三傑』と呼ばれた、才気あふれる剣士たちがおったんじゃ。
     一、『剛剣』こと楢崎瞬二。一、『霊剣』こと藤川英心。そして最後の一人が『魔剣』こと、篠原龍明。
     彼ら三人は同年代の剣士たちの中でも非常に抜きん出ており、いずれはこの紅蓮塞を背負って立つ人間になるだろうと評されておった。
     わしもその三人を非常に気に入っておったし、喧嘩別れさえしておらなんだら、三人のいずれかを晶良――娘の婿にしたいとまで思っておった。
     事件が起きたのは確か、双月暦が新世紀を迎えて間も無い頃か……。突然、篠原が謀反を起こしたのじゃ。門下生十数名をたぶらかし、『新生焔流』を名乗って、わしの命を狙いに来た。わしも今よりはまだ若かったし、楢崎と藤川の助けもあったから、結果的には撃退することができた。
     その後、当然篠原は塞を離れ、以後の行方は杳として知れん」
     重蔵はそこで言葉を切り、晴奈を見る。
    「しかし晴さん、どこでその名を?」
    「数日前、天玄でそう名乗る者と対峙しました。こちらにいるエルスの助けを借り、何とか撃退できたのですが……」
    「なるほど、そうか……」
     重蔵は一瞬、エルスを見る。
    「忌憚無くわしの見当を言えば、晴さん。
     エルスさんがいなければ、十中八九、晴さんは死んでおったな」
    「な……」
     面食らう晴奈を差し置いて、エルスも遠慮無く、重蔵の意見にうなずく。
    「まあ、そうでしょうね。単純に1対3の死闘で仕留められない相手を、1対2の状態で退かせられたのは、奇跡に近いと言えますね」
    「そう言うことじゃ。それに付け加えるならば、楢崎も藤川も、今の晴さん以上に強かった。その二人にわしの力を加えた、三人の剣豪を跳ね返す篠原の底力にはさしものわしも、恐れ入ったものじゃ。
     無論、楢崎も藤川も、かなりの痛手を負った。楢崎は半年近く寝込み、免許皆伝を得る機を一時、逃してしまった。藤川も片腕を潰され、『五体満足を必須とする』と言う免許皆伝の資格を失い、塞を去ってしまったのじゃ。
     無傷だったのはわしだけ――弟子を護ることができず、今でも忸怩たる思いをしておる」
     重蔵は腕を組み、それきり黙った。



     一方、雪乃と良太の部屋で、明奈は雪乃たちの娘、小雪を見せてもらっていた。。
    「可愛いですね、小雪ちゃん」
    「うふふ……」「えへへ……」
     子供をほめられ、雪乃と良太の二人は揃って、気恥ずかしそうに微笑む。その様子を見ていた明奈は、ため息混じりにこうつぶやいた。
    「はぁ……、何だかうらやましいです、お二人が」
    「ん?」
    「幸せそうだな、と」
     良太はきょとんとし、不思議そうに尋ねる。
    「明奈さんは、幸せじゃないんですか?」
    「……いえ、そう言うわけでは」
     明奈はそうにごしたが、雪乃が続いてこう尋ねてきた。
    「晴奈から、確か黒炎教団に7年囚われていたと聞いたけれど……?」
    「あ、はい」
    「何とか戻ってこられた今でも、まだ身柄を狙われているとも聞いたわ。となれば幸せだって言い切るのは、ちょっとためらってしまうわよね」
    「いえ、やっぱり幸せですよ」
     明奈は首を振り、静かに応える。
    「今はお姉さまが守ってくださいますから。時々、一人でどこかに飛んで行ってしまわれますけれど、本当に危険が迫ったら、きっと来てくださいますもの」
    「あー、まあ、確かに姉さん……、晴奈さんは突っ走る人ですねぇ。いつだったか、一人で黒鳥宮へ行こうとしたことがある、とか言っていましたし」
    「え?」
     良太の一言に、明奈と雪乃が驚いた声をあげた。
    「初耳ね、それ。いつのこと?」
    「あ……、しまった。内緒にしてくれ、って言われてたのに」
     良太は頭をかきつつ、晴奈が黒荘へ行っていた話を二人に打ち明けた。
    「へぇ……。あの時、そんなことしてたのね」
     話を聞いた雪乃は、納得した顔でうなずいた。
    「まあ、晴奈らしいと言えば、らしいわね。……明奈さん、どうしたの?」
    と、明奈は指折り、何かを数えている。
    「えっと、今が516年で、3年前の出来事ってことは、513年で……、へぇ」
    「ん?」
    「あのですね、一度本当にわたし、危なかった時があるんですよ」
     明奈は小雪の頭を撫でながら、その思い出を語る。
    「ウィリアム猊下のご子息に、ウィルバーと言う方がいらっしゃるんですが、この方が本当に好色で。教団の尼僧に、良く声をかけておられるんです。
     それで、わたしも声をかけられまして、危うく部屋に閉じ込められそうになったんです」
    「あのウィル坊やがねぇ……」
    「それは、災難でしたね」
     雪乃と良太は眉をひそめ、明奈の話を聞いている。
    「でも、猊下にそのことがばれて。温厚な猊下も、その時は流石に怒っていらっしゃいました。その後折檻されたりして、ウィルバー様はしばらく手を出さないようになりました。
     それで……、その事件が、513年の初めに起こったんですよ」
    「……つまり、晴奈姉さんの勘が働いて、あの時助けに行った、と?」
     良太はけげんな顔をして、雪乃の顔を見る。雪乃は腕を組み、首をかしげていた。
    「そこまでは何とも言えないけれど」
     雪乃は明奈に、にっこりと微笑みかけた。
    「もしそうなら、いいお姉さんね。本当に、大事に思っている証拠よ」



    「……うーむ」
     しばらく黙り込んでいた重蔵が、不意に立ち上がった。
    「家元?」
    「わし自身体にガタも来ておるし、うまく教えられるか分からん。それにうまく決まればまさに必殺じゃが、成功させるのは極めて難しいし、実戦で使えるか分からん以上、教える価値は無いかも知れん。
     半ば失敗作と言ってもいいし、この技は墓まで持って行こうかと思っておったが……」
     重蔵は床の間に飾ってあった刀を取り、晴奈に声をかけた。
    「晴さん。一つ、わしの編み出した技を教えておこう。
     その時運良く決まり、篠原を追い払った技――『炎剣舞』を」
    蒼天剣・魔剣録 2
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第96話。
    秘剣伝承。

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    3.
     これまで晴奈は、焔重蔵が武器を持った姿を二度見たことがある。
     一度目は、晴奈が入門した時。そして二度目は、良太が入門して間も無い時。そのどちらも、重蔵は並々ならぬ気迫と技量を持って、晴奈たちにその力を見せた。
     しかし、長年焔流家元として、多くの剣士たちの鑑とされた重蔵も、寄る年波には勝てないらしい。三度目に見た、その刀を持った姿は――。
    (……老いた、か)
     背筋こそしゃんと伸びてはいるものの、まくられた袖から見える腕は筋肉が落ち、大分しわがより、皮膚が垂れ下がっている。
     その老いさばらえた姿に、晴奈は少なからず落胆していた。
    「ふぃー。すー……、はー……」
     修行場の中央に立った重蔵は腕を大きく振り、深呼吸を始める。非常にゆっくり、一呼吸に10秒近く時間をかけている。
    (随分、深い呼吸だ。気合いを入れているのだろうな)
    「すぅー……、はぁー……」
     重蔵の呼吸が、依然ゆっくりとしながらも荒くなっていく。そこで晴奈は重蔵の変化を、視覚的に確認した。
    (む……? 家元の、体が……?)
     重蔵の体が一呼吸ごとに、大きく見える。
     よくよく見てみれば、体の大きさは元のままだ。だが、体を取り巻く「空気」――剣気とでも称せばいいのか――が、じわじわと重蔵の体から広がっていくようにも見えた。
    「はあぁー……。
     晴さん。目を見開き、耳をそばだて、肌をあわ立てて、良く感じなされ。今のわしには一度しか、できん技じゃからのう」
     重蔵は晴奈に背を向け、刀を構えた。

     空気が弾ける音が聞こえた。
     ぼむ、と硬い鞠のはじけるような、空気の震える音。
     そして立て続けに、地面が爆ぜる音。
     凝らした晴奈の眼には、重蔵の姿が飛び飛びに映る。
     恐るべき速度で、剣舞を舞っているのだ。
     空気の弾ける音は、刀を振るう音。
     地面の爆ぜる音は、地面を蹴る音。
     そして重蔵が立ち止まった瞬間、晴奈は空気が燃え立ち、弾け、切り裂かれたのを、その眼で確かに見た。

    「……!」
    「こ、これが、『炎剣舞』、じゃ。ハァハァ……。
     基本は、焔流剣技『火刃』、『火閃』、そして、『火射』の組み合わせ、じゃが……、ゼェゼェ、太刀筋ごとの、絶妙の、機を見切り、連携させる、ことで……、このように、空気は、瞬時に、煮える。
     その猛烈な熱を、刀に込め、敵に浴びせれば、……ゴホ、ゴホッ」
     重蔵が咳き込み、地面に膝を着く。晴奈は慌ててその身を抱きしめ、介抱した。
    「い、家元!」
    「す、すまんが晴さん、ちと、疲れた。部屋まで、負ぶっていってくれんかの」



    「おじい様、もう歳なんですから無茶しないでくださいよ~」
     部屋に運ばれるなり横になった重蔵を心配し、良太が駆けつけた。二人きりになったところで、重蔵は横になったまま恥ずかしそうに笑う。
    「はは……、面目無いわい。予想以上に、力が落ちておった。
     まあ、しかし。晴さんに我が奥義を余すところなく見せられただけ、重畳と言うものじゃ。もう悔いは無いのう」
    「大げさですよ、もう……」
     良太は苦笑しつつ重蔵のそばを離れ、部屋に戻ろうとした。
    「……良太」
     と、重蔵が呼び止める。
    「何でしょう?」
    「もしわしが……、近いうちに亡くなったら」
    「ちょ、縁起でもないですよ、おじい様」
     目を丸くした良太をにらみつけ、重蔵が続ける。
    「聞け。……わしが亡くなったら、雪さんを当面、家元代理にしておいてくれ。お前たちの子が成人し、免許皆伝を得るまでは」
    「雪乃さんを……?」
    「雪さんはしっかりした人間じゃし、腕も立つ。彼女なら、紅蓮塞を支えられるじゃろう」
     良太は困った顔をしつつも、重蔵を見返す。
    「……おじい様、気落ちしすぎですよ。根が頑丈なんですから、まだまだ長生きしますよ」
     そのまま、良太と重蔵は見つめ合い――やがて重蔵が根負けした。
    「……はは、ま、そうじゃな。くだらんことを言うてしもうたのう」

     晴奈は重蔵を運んだ後、また修行場へと戻っていた。
    (『炎剣舞』……)
     刀を構え、重蔵の動きを頭の中で繰り返す。
    (太刀筋の連携と、呼吸、動作の緩急から生まれる、絶大な威力の集約、集合)
     まずは、覚えている限りで刀を振るい、その動作を真似る。刀に火を灯し、一振りごとに焔流剣技を繰り出す。
    (まずは『火刃』。最も基礎、基本の『燃える剣閃』)
     刀を振るうと、わずかに炎がたなびき、その紅い筋を刀の後ろに一瞬、残す。
    (続いて『火閃』。瞬時に熱をばら撒き、空気を焼く『爆ぜる剣閃』)
     一振りすると、一拍遅れて、空気の爆ぜる音が響く。
    (そして『火射』。地面を伝い、炎を敵にぶつける『飛ぶ剣閃』)
     振り下ろした瞬間地面に炎が伝わり、そのまま黒く焦げた軌跡を残して火柱が走る。
    (この三種の連携、……と言うが)
     汗だくになるまで何十回と振るってみたが、重蔵のように辺り一面煮え立つと言うようなことは、一向に起こらない。
    (……難しいな、まったく)
     結局、その日一日中、晴奈はずっと「炎剣舞」の習得に励んだが、残念ながら一度も、晴奈の満足が行くような出来には至らなかった。
     多少の不安を残したまま、この日の修行は終わった。
    蒼天剣・魔剣録 3
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第97話。
    遺恨の傷痕。

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    4.
     某所、天原の隠れ家。
    「災難でしたね、アマハラ君」
    「ええ、本当に。まったく焔流には、ほとほと手を焼かされますよ」
     事情を聞きつけたワルラス卿が、天原の元を訪ねていた。
    「まあまあ、アマハラ君。それを言っては、シノハラ君たちに悪い」
    「おっと、そうでした。では言い換えて……、『旧』焔流には、ほとほと手を焼かされる、と」
    「はは……」
     天原はぱた、と手を叩き、茶を持って来させる。
    「黒茶を」
    「ただいまお持ちいたします」
     手を叩いてすぐに、黒頭巾をした女性――頭巾の端から猫耳が見えている――が、茶器と椀を持って現れた。
    「おお、早かった。いつもながら準備がよろしいですね、竹田くんも、皆さんも」
    「殿のご用命に、いつでも応えられるようにと」
    「ほう……」
     猫獣人、竹田の言葉に、ワルラスは感心した声をあげる。
    「いい部下をお持ちですね、アマハラ君は。部下と言う者はすべからく、こう言う出来る人間を持ちたいものです。私の甥などは本当に、愚物でして」
    「ああ、ウィルバーくんですか。おうわさは、かねがね……。現在は央南西部の侵攻……、おっと、教化に当たっているとか」
    「ええ、そうです。しかし、まあ……、アマハラ君も知っているでしょうが、あの二人の奸計にいつも絡め取られて、毎度毎度敗走、失敗すると言う体たらくでして」
     憎々しげに首を振るワルラスを見て、天原は小さくうなずく。
    「ああ、黄とグラッドですか。確かにあの二人は曲者ですねぇ。……そうだ、こんなのはどうでしょうか?」
    「うん?」
    「私も台下も、いくつか共通の悩みと、目標を持っています。黄とグラッドに手を焼き、央南西部、及び中部の教化にてこずっている。
     しかしですね、悩みと言うのは似通ったものが二つ合わされば、逆に転機となるのですよ」
    「ふむ……?」
     天原は手をさすりつつ、ワルラスに献策する。
    「あの二人を狙えば、その目標は達せられます。幸いにも我々には、多くの手駒がある。そしてもう一つ、『足』もあります。
     これに台下の頭脳を加えれば、どんな街も紙細工も同然。あっという間に攻め落とし、黒く染められましょう」
    「なるほど、なるほど。私もそれには同感です。
     それにもう一つ、あのグラッドと言う男の思考には、ある弱点を見つけています。そこを突いた策で攻めれば、我々の目標も達せられるでしょう」
     黒い「狼」と白い「狐」は、同時にニタニタと笑った。

     一方その頃、篠原は座禅を組みながら、昔を思い返していた。
    (あの『猫』は確かに俺より格下だった。だが、あの気迫は一流。……思い出す、昔俺が紅蓮塞にいた時のことを。
     既に家元は壮年も過ぎ、老境に達しようかと言う歳だった。体も痩せ、どう見ても苦戦する相手では無かった。瞬二も英心も確かに手強かったが、奴らは一太刀、二太刀であっさり沈んだ。俺は三人ともまるきり、敵とは見なしてはいなかった。
     だが……! 家元、焔重蔵だけは違っていた。俺の刀を4太刀浴びてなお、倒れるどころか向かってきた。確かに瞬二や英心よりは軽い怪我であっただろう。だが、それを差し引いても、あの二人とはまるで、質が違う。
     凡庸な奴らであれば、一太刀入れられれば怯み、退く。それが英心たちの敗因だった。逃げれば逃げるほど、面白いようにこちらの太刀は奴らの体に食い込み、半端に立ち向かうよりも深手を負う。
     だが家元は違った。どれだけ太刀を入れられようと、退かぬ。決死の覚悟を持って、踏み込んでくる。死をも省みず、攻め入ってくるあの気迫――負けたのは、奴よりはるかに強健な肉体と技量を持っていたはずの、俺だった。
     俺は『強い奴』など恐れん。本当に恐ろしきは『退かぬ奴』だ。退かぬ奴に俺の『魔剣』は通じない。それどころか俺の予想を上回る立ち回りで圧倒し、俺を恐れさせ……っ)
     重蔵の鬼気迫る顔を思い出し、篠原の胃は凍ったように絞めつけられる。
    「う、ぐ……」
     篠原は腹を押さえ、その痛みをこらえる。手を当てているうちに痛みは和らぎ、篠原は額に浮いた汗を拭った。
    (あれからもう、何年も経ったと言うのに)
     篠原は上を脱ぎ、自分の裸を見る。
    (この傷はなお、俺を捕らえ、痛め続けている)
     篠原の胸から腹全体にかけて、ひどい火傷と刀傷の痕が残っている。篠原は立ち上がり、己の中で膨れ上がる激情をこらえきれず、叫んだ。
    「この傷が癒えぬ限り、俺は本家を敵と見なす!
     見ていろ、重蔵……! お前の門下にいる者はみな、血祭りに上げてくれるぞ!」

    蒼天剣・魔剣録 終
    蒼天剣・魔剣録 4
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第98話。
    引き続き情報収集。

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    1.
    「リョータ君、奥さんとはどうなの?」
    「ふえ?」
     良太とともに紅蓮塞の廊下を歩いていたところで、エルスはそう尋ねてみた。
    「アツアツ?」
    「え、えっと、まあ、……はい」
     恥ずかしがる良太の反応が面白く、エルスはさらに聞き込んでみる。
    「そっかー、そうだよね、お子さんもいるし。結婚して、何年くらい?」
    「えーと、2年……、くらいです」
    「じゃ、まだ新婚さんだね~」
    「ええ、はい」
     エルスは腕を組み、しみじみとした口調になる。
    「その若さで、あんなキレイな奥さんと子供もいて、しかもこの城の主に、すごく近い身。権力も持っている。うらやましくなっちゃうな、はは……」
    「そんな、僕なんて……」
     良太の顔が、少し曇る。
    (おっと、この話題は地雷だったかな?)
     それを横目でチラ、と見たエルスはさらりと話題を変える。
    「そう言やセイナから聞いたんだけどさ、ここの書庫ってかなり大きいんだよね?」
    「え? ええ、少なくとも央南西部では、随一の規模らしいですよ。おじい様のおじい様くらいから、僕みたいに本が大好きな方がずっと、家元として続いていたそうですから」
    「へぇ……」

     晴奈がひたすら重蔵から教わった奥義「炎剣舞」を体得しようと躍起になっていた頃、エルスは天原の素性や天玄の妖怪事件、篠原の過去などを調べるため、良太に頼んで書庫へと案内してもらっていた。
    「ここが書庫です」
    「おー……、確かに大きいなぁ」
     中を覗きこみ、エルスは感心した。
    (てっきり、道楽家の書架みたいなのを想像していたけど、これは確かに、王国の資料室に勝るとも劣らない規模だな。書庫番のリョータ君についてきてもらって正解だった)
     書庫の入口から見回してみるが、明らかに蔵書数が多く、エルスは資料を自力で探すことを早々に諦めた。
    「えーと、それじゃまずは……、名士録ってここにあるかな?」
    「う、……名士録、ですか」
     良太が一瞬嫌そうな顔をしたので、エルスは首をかしげる。
    「……? 名士録に何か、嫌な思い出でもあるの?」
    「い、いえ。えっと、こっちです」
     良太はプルプルと首を振り、すぐに名士録を持って来てくれた。
    「『天原桂(あまはら けい) 狐獣人 男性 475~ 天原財閥宗主、第41代央南連合主席』。
     アマハラについてはこれだけかぁ。もうちょっと何か、詳しい資料は無いかな?」
    「うーん、もう少し詳しいもの……、あ、これなんかどうでしょう?」
     良太は席を立ち、何冊かの本をすぐに持ってきてくれた。
    「ふむ……、『天原家の歴史 ~央南の名家 五~』、『天原篠語録』、『天玄時事 506~510年・511~515年』、『国際魔術学会会報 第906号(499年上半期) 央南語訳版』、……何で会報?」
    「あ、天原氏がここに論文を寄稿していたんです」
    「……へぇ。リョータ君、もしかして書庫の本、全部読んでるの?」
     良太は恥ずかしそうに笑ってうなずく。
    「はい、一通り読みました」
    「さすが書庫番だなぁ。……後は、『央南連合議事録 第93号・第94号』と。ふむ……」
     エルスは良太の持ってきてくれた本を、上から順に読み進めていった。



    (『……天原家は黒白戦争直後、央南八朝時代に名を成した狐獣人、天原榊(旧名、中野榊)を起源とする……』

    『……次期当主のことを考えると億劫になる。どう見ても次男の櫟(いちい)の方が指導者として見れば優秀なので……』

    『……507年、天原家の当主であった天原篠氏が逝去(享年67歳)。次期当主には次男の櫟氏(26歳)が有力とされていたが失踪中のため、長男の桂氏(32歳)が当主と……』

    『……512年8月30日未明、天玄南区赤鳥町を歩いていた早田こずえさん(猫・女性)が路上で正体不明の動物に遭遇した。早田さんにけがは無く、動物も治安当局が到着した時には現場および付近におらず、近隣住民は不安な……』

    『……512年9月11日早朝、天玄川沿市在住の桐村惣太さん(短耳・男性)が仕事のため職場に向かう途中、正体不明の動物に遭遇、逃走し、警察に通報した。桐村さんにけがは無く、治安当局は先日、南区赤鳥町で起こった事件と関係があるのでは無いかと……』

    『……天原桂(狐・男性 天神大学魔術院博士課程在籍)……幻術の効果集約プロセス②部分において、ある種の雷属性関数を用いたところ……3秒程度ではあるが幻覚(術使用者がその効果を予想、想像している内容)が実体化すると言う結果が得られ……錬金術の最終目標の一つ、生命創造への足がかりとなるのでは無いだろうか……』

    『……全会一致により、第41代連合主席に天原桂氏が選出された……今回、議員30名のうち18名が欠席と言う不安な事態となったが、天原氏の采配により混乱が抑えられ、今後の活躍に期待が……』

    『……黄海への黒炎教団侵攻と言う非常事態に見舞われ、今回の緊急会議は多大な緊張感をはらんでいた……天原主席の判断により武力介入は避け、教団との話し合いによる平和的交渉を行うことが決定された。現在黄海にて軟禁されている黄紫明氏に連絡を取り、上記の内容を伝えることに……』)



     一通り読み終え、エルスは軽くため息をついて立ち上がった。
    「ああ……、疲れた。アマハラについては大体分かったから、戻ろっか」
    「え? ええ、はい」
     唐突に席を離れ、そのまま書庫を出たエルスに、良太も慌てて後をついていった。
    蒼天剣・術数録 1
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第99話。
    権謀・術数、合わせて深い策略のこと。

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    2.
    「やっぱり黄海侵攻の際に連合が動かなかったのは、アマハラのせいだったんだよ」
    「そうか……」
     エルスが書庫から晴奈の部屋に戻ってきたところで、丁度晴奈も戻ってきた。そこでエルスは書庫で調べた内容といくつかの考察を、晴奈に伝えた。
    「連合の議事録を調べてみたら、どうも裏で手を回して代表になったっぽいんだよね。
     30前までずっと学者だったのに、いきなり政治の世界に飛び込んでリーダーシップを取れるなんて、まず無理な話だもの。
     代表になった時も議員30名の半分以上がいきなり欠席してるって話だし、何らかの不正が行われた可能性は非常に高い」
    「ほう」
     続いてエルスは、天原が当主になった経緯も洞察、推理した。
    「まず確認なんだけどさ――セイナから聞いたんだけど――リョータ君は昔、妖狐に出会ったって? イチイって名前の」
    「あ、はい。確かに会いました」
     良太がうなずいたところで、エルスは話を続ける。
    「それで、アマハラが天原家の当主になった時の記録を調べてみたら、丁度その頃、天原櫟(いちい)って言う、次期当主を目されていた人物が行方不明になっていたとあった。
     セイナたちがエイコウで遭遇した事件と照らし合わせれば、恐らくその妖狐、イチイはアマハラの弟さんに間違い無いだろう。アマハラは大学院時代、生命に関連した研究を行っていたみたいだから、恐らくその研究を悪用してイチイさんを妖狐に変えてしまったんだろうね」
    「やっぱり、そう思いますか」
     神妙な顔をする良太を見て、エルスはこくりとうなずく。
    「まあ、これまでにそんな術が発表されたって話は、僕も聞いたこと無いんだけどね。もしそんな術が実在するんなら、魔術学、いや、現代科学が崩壊しちゃうよ。
     で、話を戻すけど。ここまでの流れについて、ある仮説を立ててみよう。まず、学者肌のアマハラ自身には大した政治手腕は無いとして、じゃあこの9年間、曲がりなりにも央南連合を率いてこられたのは何故か?」
    「誰かが、知恵を貸していたと?」
     晴奈の回答に、エルスはまた小さくうなずいた。
    「その線が濃い。
     そしてもう一つ。央南に古くから君臨し、今なお絶大な政治的権力を誇る天原家。アマハラは何故、弟のイチイさんをわざわざ妖狐にして隠し、天原家当主の座に就いたんだろう?」
    「それは……、その権力を奪うためでは?」
     今度は良太が答えたが、エルスは人差し指を立てて否定した。
    「それは、ちょこっとおかしい。
     さっきも言ったように、アマハラは元々学者だった。しかも、名誉ある魔術学会の会報に名前が載るほどの業績を上げる、優秀な学者だ。そのまま学者でいれば、それなりの社会的権力は手に入るはずだったろう。
     だけど、彼はいきなり政治家に転身。わざわざ弟を消すようなことをしてまでその地位を手に入れたのは、何故なんだろう?」
    「む……?」
    「えーと……」
     晴奈も良太も、顔を見合わせてうなる。
     と、3人から離れて話を聞いていた雪乃が手を挙げた。
    「どうしても、『政治的な』権力がほしかったと言うことかしら?」
    「恐らく、それだ。何が何でも央南を動かせる権力が、彼はほしかった。……と言うより、必要だったんだろう。
     ここでまた一つ、別のことを考えてみよう。他に誰か、これほど央南支配を強く望む人が誰か、いなかったかな?」
     この質問に対しても、同じように話の輪から離れていた明奈が、恐る恐る手を挙げる。
    「もしかして、ですが……、ワルラス台下のことを仰りたいのですか?」
     エルスはニヤリと笑い、明奈に向かって親指をぐっと上げてみせた。
    「うん、そうだ。
     つまり、すべての流れはこうだ。元々からワルラス卿は、央南支配を望んでいた。しかし央南西部から武力行使による教化は、時間がかかりすぎるしコストも馬鹿にならない。
     それよりも央南に密通者を作って、その人を傀儡(かいらい)にして政治を執った方が断然、効果的だ。そこで、央南に強い影響力を持ち、かつ、自分の言いなりになりそうな人物を探していた。例えば政治に興味を持たず、何らかの取引で動くような人物を。
     そこで見つけたのがアマハラ。天原家の御曹司で、政治に疎い魔術学者。教団が持つ魔術書か何かを取引材料にして、彼をそそのかしたんだろう」
    「教団の魔術は黒炎様仕込みですし、基本的に門外不出ですから、確かに価値は高いですね。魔術師の方なら、欲しがると思います」
     明奈の補足に「ありがとう」と応え、エルスは話を続ける。
    「彼はアマハラをそそのかし、天原家を継がせて政治的権力を握らせた。そして、央南連合にもあれこれ手を回して、その権力もつかませ――こう考えると、さっき言っていた『入れ知恵をした人物』と言うのも容易に推察できる。央南支配を目論むワルラス卿なら、口を出さないはずが無いからね。
     つまりこの数年、央南はワルラス卿による傀儡政治が続いていたことになる」
     エルスの結論を聞き、そこにいた全員が青ざめた。
    「そんな……、じゃあ、僕たちはずっと、黒炎教団の手の上にいたと言うんですか!?」
    「信じられないわね……」
     雪乃夫妻は呆然としている。
     逆に、晴奈は目を吊り上がらせて怒りをあらわにした。
    「ふざけた所業だ! 何としてでも、天原を捕らえねばならぬな」
     晴奈の憤りに、エルスはニコニコしながら応じる。
    「そうだね。戻ったら早速、捜索してみよう。
     明日はシノハラの情報を集めることにしよう。今日のところはもう休むよ。一日中、書庫の中にいたし」
     首をコキコキと鳴らし、エルスは席を立とうとした。
     と、良太が手を挙げる。
    「あ、エルスさん。よろしかったら今晩、ご一緒に食事なんかいかがでしょうか?」
    「え? いいんですか?」
     良太に続き、雪乃もにこっと笑う。
    「そうね、折角だから。
     それに愛弟子とも、久々に杯を酌み交わしたいところだし。晴奈もいいわよね?」
     雪乃の誘いに、晴奈も笑みを返した。
    「勿論です。明奈も参加させてよろしいでしょうか?」
    「ええ、是非」
    蒼天剣・術数録 2
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第100話。
    ほのぼの。

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    3.
     晴奈たちが紅蓮塞で夕食をとっていた、丁度その頃。
    「すまんな、チェスター君」
    「いいわよ、これも仕事だしー。……はーぁ」
     黄海の黄屋敷にて、紫明とリストがどっさりと積まれた書類に判子を押していた。
     元よりそうした書類仕事は少なくなかったのだが、紫明が主席になって以降はさらにその量が増え、紫明は前にもまして多忙の日々を送っていた。
     とは言え、普段はエルスとリストが補佐に回ってくれるため、紫明の負担もいくらか減るのだが、この時はエルスが紅蓮塞に行ってしまっており、二人はいつもより長めに、机に張り付いたままになっていた。
    「この調子だと、今日もまた泊まってもらうかも……」
    「えぇ?」
     申し訳無さそうにつぶやいた紫明に、リストは気だるい声を上げる。
    「勘弁してよぉ……」
    「まあ、夕食はご馳走するから」
    「そりゃ、コウさん家のご飯はすっごく美味しいけど。でもさー、ハッキリ言って」
    「うん?」
     リストは書類の山から顔を上げ、吠える。
    「あののんきバカがセイナと一緒に紅蓮塞まで行っちゃうから、そのしわ寄せがこっちに来てんのよ! しかも、『ちょっとした旅行って感じかなー』とか言い捨てくし!
     アンタのせいでこっちは死にそうになってるってのに、アイツ今頃『いやー、温泉って本当にいいもんだねー』とか言ってんのよ、絶対!」
    「ま、ま、チェスター君、落ち着いて。……お返しに、グラッド君だけ残して、晴奈と明奈とで、旅行にでも行ってしまえばいい」
    「……それもいいわね。でもさ、コウさん」
     リストは書類に視線を戻しつつ、紫明に尋ねる。
    「今回、セイナたちとエルスを行かせたけど、不安じゃないの?」
    「うん?」
    「だって、スケベと美人姉妹よ」
    「……ああ、問題は無いだろう、きっと。
     グラッド君は好色とは聞いているが、晴奈はまずなびかん。明奈に言い寄るにしても、晴奈がまず許さんだろう」
     そううそぶいた紫明に、リストはけらけらと笑った。
    「あはは、なるほどねー」



     夕食が終わり、晴奈たちは風呂に入っていた。
    「師匠……、その、何と言いますか、その」
    「ん?」
    「変わられましたね、大分」
     雪乃は汗を拭きながら、「そうかしら?」と聞き返す。
    「ええ。特に、その……、一部、大きく」
    「ああ、そうね。ちょっとね、うん」
     晴奈の言葉の裏に気付き、師弟揃って顔を赤くする。
    「やっぱり、小雪が生まれたからね。あと、まだちょっと腰周りが太いのよねぇ」
    「そうですか? ぱっと見た感じでは、その辺りはそれほど変わってはいないように思えますが」
    「あら、そう? それなら、いいかな」
     嬉しそうな顔をしつつ、雪乃は明奈の方に目をやる。
    「明奈さんと晴奈、似てるなーって思ってたけど、……やっぱり違うところ、あるのね」
    「むう」
     晴奈もチラ、と明奈を見て、うなだれながら湯船に頭を沈めた。
    「でもお姉さまの方が、背は高いんですよ。すらっとしてて、綺麗ですし」
    「……そうかな」
     猫耳の辺りまで沈んでいた晴奈の頭が、ぷかっと浮き上がる。
    「わたしなんて、運動不足で太っているだけですよ」
     それを聞いて、また晴奈が沈んでいく。
    「……都合のいい肥満だな、それは。胸と尻だけ太るのか」
     明奈は慌てた顔をして、話題を変えた。
    「あ、あの、えっと。家元様、お体の方は大丈夫なのでしょうか? ご夕食の時、お姿を見かけませんでしたが」
    「ええ、さっき様子を見に行ったら、『寝たら回復した』って言ってたわ。今は男湯の方で、良太たちと一緒に入ってるはずよ」
    「そうですか……。少し、心配でしたので」
    「大丈夫よ、おじい様は。根が頑丈な方ですもの」
     晴奈がまた顔を挙げ、話に加わる。
    「良太も、同じことを言っていましたね。『根が頑丈だから、長生きするに決まっている』と笑い飛ばしていました」
    「あら、そうなの。……うふふ」

    「ほーれ、綺麗にしてやるぞー」
     男湯の方では、重蔵が小雪を洗っていた。後ろで見ている良太が、心配そうな顔をしている。
    「あの、優しくお願いしますね」
    「分かっとるわい、ふんっ」
     重蔵は後ろを振り返り、舌を出して良太を黙らせる。
    「それなら、えっと、はい……」
     湯船につかりながら様子を見ていたエルスは、クスクスと笑っている。
    「押しが弱いよー、リョータ君。父親ならもっと頑張らないとー」
    「は、はい……。あの、おじい様。僕が……」「黙っとれ」「……はい」
     気の弱い良太はしゅんとした様子で、湯船に入ってきた。
    「……僕、へたれです」
    「まあまあ……。まあ、孫もひ孫も可愛いんだろうね、本当に」
    「でしょうねぇ」
     エルスはニヤニヤしながら、博士の思い出を語り出した。
    「僕の師匠にナイジェル博士って言う人がいたんだけどね、この人も子沢山、孫沢山の人なんだ。で、央南に引っ越して来た時もお孫さんを一人連れてきてたんだけど、やっぱり可愛かったんだろうね、良くお小遣いあげたり物をあげたりしてたよ」
    「へぇ……」
    「……そのお孫さんに不条理に殴られた時も、僕が悪者にされたしね」
    「あ、あら……、そうですか」
     と、小雪を洗い終わった重蔵が湯船に入ってきた。
    「ナイジェル……、と言うのは、エドムント・ナイジェルか? 長耳の」
    「ほえ? 家元さん、博士をご存知なんですか?」
     思いもよらない反応に、エルスは目を丸くした。
    「昔の囲碁友達じゃった。負けん気の強い奴で、よく夜明けまで打っておった」
    「博士は央南に何年か滞在していたと聞いています。その口ぶりだと昔から、性格は変わってないみたいですね」
    「今はどうしておるんじゃ?」
     重蔵の質問に、エルスは一瞬言葉を詰まらせる。
    「……亡くなりました。今年の初めに」
    「そうか……。因業で偏狭で不躾で嫌味で頑固な奴じゃったし、もう少し長生きするものと思うておったがのう」
     場が湿っぽくなってしまったので、エルスは慌てて湯船からあがる。
    「そろそろあがりますねー。あ、良かったら小雪ちゃん、連れて行きますよ」
    「おう、すまんなエルスさん」
     くるりと振り返ったエルスを見て、良太は一瞬目を見開き、うなだれながら湯船へと沈んだ。重蔵は笑ってエルスの後ろ姿を見送る。
    「ははぁ……、やはり外人は違うのう、ははは」
    「うぐ……、自信、失くしそうです……」
    蒼天剣・術数録 3
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第101話。
    人が堕ちていく様子。

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    4.
     次の日もエルスは良太を伴い、書庫に篭っていた。
    「今度はシノハラの情報集めだ。どんな人だったのか、それから目的は何か、今はどこにいるのか。その辺りを調べていこう」
    「お会いした時、おじい様から伺いませんでしたっけ?」
     きょとんとする良太に、エルスは「んー……」と低くうなり、ゆっくりと説明した。
    「まあ、もう少し前後関係なり、周辺なりを洗い出しておこうかなってね。
     普段ならあんまりこんなことしないんだけど、対峙した時、ちょこっと嫌なものを感じたんだ。何て言うか、んー……、異常な『昏さ』を見たんだ」
    「昏(くら)さ?」
    「まともな状況判断ができてないんだ。と言うよりも、自分で判断することを放棄しているって感じかな。
     シノハラと会った時、僕は彼に『アマハラは無事逃げたんだから、戦う意味は無い。だからこのまま帰ってくれないか』って交渉してみた。でも結果は×。命令最優先って態度で攻撃してきた。
     現場判断を優先するなら、この場合はさっさと引いた方が話は早いし、後々もし戦うことになった場合、手の内をさらけ出して不利になることも無いのにね。
     もっとも、僕らにすぐ勝てると考えての行動かもしれないけど」
    「そんなものですか」
    「ああ、そんなもんだよ。
     で、この手の人間に一般論は通用しないし、説得はまず無理。かと言って非常に強かったから、真正面から戦うのも骨が折れる。
     だから弱点か、弱点となりそうなものを探そうと思ってね」
    「なるほど……」
     エルスの見解を聞き、良太も彼の考えを理解したらしく、書庫の奥から古びた本を持ってきてくれた。
    「奥に封印してあった、塞に残されていった日記です。人の日記を見せるのは、あまり気が乗りませんが……」
     日記の表紙には、「篠原龍明」と書かれている。エルスは目を丸くし、笑顔を作ってそれを受け取った。
    「これはすごい掘り出し物だ。ありがとう、リョータ君」
    「あ、はい……。あの、あんまり公言は」
    「勿論しないよ。大丈夫、大丈夫」
     エルスは小さく頭を下げながら席に座り、日記を開いた。



    「501年 2月26日
     家元と話す。いつもながら含蓄のあるお言葉に、ただただ感銘するばかりだ。自分もあのような、本物の剣士になりたいものだ。

     501年 3月5日
     楢崎、藤川と稽古をする。藤川は間もなく免許皆伝の試験を受けると言う。内容が内容だけに口を出すことはできないが、せめて無心に打ち込ませることで、焦りを抑えさせてやろう。

     501年 3月7日
     藤川が試験に落第した。ひどく落ち込んでいたが、仕方ない。気を取り直し、もう一度挑んで欲しい」



    「なんか、……普通の日記ですね。エルスさんが言ってたような、昏い感じじゃないです」
     横で見ていた良太が、ぼそっと感想を漏らす。
    「……うーん」
     エルスはそれに答えず、ページをめくった。



    「501年 3月12日
     楢崎も近いうち、試験を受けることになりそうだ。先に免許皆伝を得た身であるし、力量も自分の方が上だから、明日は試験にふさわしいか見てやることにしよう。

     501年 3月15日
     藤川が怒っている。何でも、自分は傲慢だと言うのだ。内省してみたが、自分は傲慢と言われる筋合いが無い。自分の力量は寸分無く把握しているつもりだ。藤川は試験の失敗で少し、疲れているのだろう。年長者の自分に向かってあんな言を吐くとは、前後不覚もはなはだしい。

     501年 3月19日
     家元から訓告を受けた。内容は先日藤川が自分に向けて言い放ったのと同義。愕然とした。家元は自分のことを、寸分も理解してくれていなかったようだ。と言うよりも、家元の頭は藤川と同格だったらしい。なるほど、自分を理解してくれない、いや、できないわけだ。

     501年 3月22日
     家元に対して抱いた感想を風呂の折、楢崎に伝えた。楢崎は困った顔でそのような考えは不遜では無いだろうか、もう少し落ち着いた方がいいと答えてきた。彼も藤川並みだったようだ。

     501年 3月27日
     若い門下生の稽古に付き合った。女ながら筋が良い。休憩中に細々とした話をする。自分を慕ってくれているらしく、久々に心が澄んだ。

     501年 4月2日
     またあの門下生に出会い、稽古をつけた。「猫」だからだろうか、恐ろしく俊敏で鋭い太刀捌きを見せる。名前を聞いてみたところ、竹田朔美と名乗った。さくみ……、珍しい名前だ。また休憩中に話をする。つい、休憩時間を大幅に超えてしまった。なかなか面白い考えをする娘だった」



    「これは恋の話、ですかねぇ? ……なんちゃって」
     横でまた、良太が口を挟む。
    「はは、面白いね。でももっと面白いことがずっと書かれていたこと、気付いてるかな?」
    「え? と言うと、……何でしょうか?」
    「偉そうだと思わなかった?」
    「ああ、まあ、それは少し」
    「だろう? 僕には、彼の人物像がありありと浮かんできた。
     自分では真面目で厳格な、みんなから目標とされる人物だ、……と思っているようだけど、実際はひどく頑固で、他人を常に自分より下に見ている。
     さらに幻想を抱きやすく、思い込みが多い。そしてその幻想が現実と食い違う場合、ひどい拒否反応、否定的感情を抱く。
     他人の意見を受け入れず、自分の思い込みで行動する。そして他人に否定されると、例え相手がつい先ほどまで尊敬していた人物であろうと、強い拒絶感を抱く」
    「はあ……」
     エルスは首をコキコキと鳴らしつつ、話を続ける。
    「でもね、こう言う人も心のどこかでやっぱり、『人に良く見られたい』と感じている。自分が正しいのは疑わないけれど、それが人に受け入れられないと、ひどく不安になる」
    「ああ、それは感じました。3月下旬の日記は少し、情緒不安定って感じでしたよね」
    「うん。で、ここからが少し、怖いところだ。
     このまま誰からも相手にされず、孤立したらきっと、『自分が悪かったのかも知れない』と寂しがる。そこでようやく、本当に内省しただろう。結局のところ、人間は他人がいないと安心できない生き物だから、他人とある程度はすり合わせないと生きていけない。
     でも彼は、その傲慢な考えを理解し、応援してくれる人に出会ってしまった……、と言うわけだねぇ」
     そう言ってページをめくったところで、エルスは苦笑した。
    「……ああ、ダメなパターンに入っちゃったよ。
     もしもこのサクミさんと言う女性が、頭が良く、洞察力に長け、さらに野心を持っていたとしたら、シノハラは陥落させられ、彼女の手先になっちゃうだろうね。
     会って話し込まれでもしたら、一発で堕ちる」



    「501年 4月7日
     朔美は本当に自分を分かってくれている。出会ってまだ一月も経っていないと言うのに、自分は彼女に心酔してしまっている。これではいけない。剣の腕が鈍ってしまう。気を引き締めなければ。朔美とは会わない方がいいだろう。

     501年 4月8日
     嗚呼! この馬鹿めが! 朔美と、会って、……嗚呼!

    (501年 4月9~12日まで、何も書かれていない)

     501年 4月13日
     自分は何とくだらぬことで惑うていたものか。朔美がいてくれるのだ。彼女が付いていてくれるならば、自分にできぬことなど何も無い。

     501年 4月15日
     朔美と計画を練った。やはり、あのじじいを消さねばならぬだろう。

     501年 4月17日
     朔美があの計画に賛同する門下生たちを集めてきてくれた。何と頼もしいことか。是が非でもあのじじいを殺し、この紅蓮塞を乗っ取らねば」



    「……この1ヵ月後に、シノハラの謀反か。
     ワルラス卿とアマハラの野心、そしてシノハラとサクミさんの邂逅、焔流の内紛――これは、ひどく複雑な話だったんだねぇ」
     日記を閉じ、エルスはしばらく天井を見上げ、考え込む。
    (しかしあと一つ、いや二つか、謎が残る。アマハラとシノハラが出会った理由ときっかけ、それから現在に至っても、シノハラがアマハラのところに身を置いている、その理由。
     ああ、もう一つあった。彼の弱点……。まあ、これについては、ヒントくらいは得たかな)
    蒼天剣・術数録 4
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第102話。
    新たな戦いの始まり。

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    5.
     晴奈たちのところに戻ろうと、エルスたちが腰を上げたその時だった。
    「エルス! 大変だ!」
     書庫の扉を開け、晴奈がバタバタとエルスたちに近寄ってきた。
    「どうしたんですか、姉さん?」
     面食らった様子で声をかける良太に、晴奈はコホンと咳払いして説明する。
    「先程、黄海から速達で文が届いた。天玄に、天原の手勢が攻め込んだらしい。現在応戦中とのことだ」
    「いつの手紙?」
    「3日前の日付だ。ここから天玄まで、早足で行っても10日はかかる。急がねば、エルス!」
    「ああ、すぐ向かおう」
     急かす晴奈にうなずきつつ、エルスは良太に頭を下げた。
    「ありがとう、リョータ君。助かったよ。奥さんとおじいさんに、よろしく言っておいてね」
    「え、ええ」
     まだ目を丸くしたままの良太を残し、晴奈とエルスは書庫を飛び出す。
    「お姉さま!」
     と、書庫を出たところで、明奈も合流する。
    「明奈、出立の準備はできたか?」
    「ええ。あの、お姉さま。このまま徒歩で行くと、大分かかってしまいます」
    「ああ、急がねば」
     が、踵を返しかける晴奈の手を、明奈が握って引き止める。
    「ですので、わたしに考えが」
    「うん?」
     そのまま明奈に案内され、晴奈とエルスは彼女に付いて行く。
     広間に着いたところで、明奈は大きめの巾着袋から、6畳ほどの大きさの布を引っ張り出した。
    「こんなこともあろうかと、用意しておいたんです」
    「何だ、これは?」
    「黒炎教団に伝わる秘伝、『移動法陣』です」
     明奈は布を広げ、呪文が書かれた紙を手に取る。それを見ていたエルスが、半ば驚いた様子で微笑む。
    「もしかして『テレポート』? すごいねメイナ、そんな術も使えるんだ。僕が聞いた話じゃ、かなり大掛かりな装置がいるって聞いたけど」
     そう尋ねたエルスに、明奈は表情を曇らせた。
    「ええ、教団にいた時にこっそり写しを取っていたんです。脱走目的で。
     でもエルスさんの言う通り、本来ならもっと安定性を高めるために、より大きい魔法陣と人員を必要とするんです。
     恐らくこの状況で運用すると、2人を送るのが精一杯ですし、入口、出口とも、一回で焼き切れてしまうでしょうね」
     これを聞いて、エルスは肩をすくめた。
    「ありゃ、そうか。便利になるかと思ったけど」
    「そもそも、あの……、わたし、未熟なので成功するか、保障が無いんです」
    「……構わないさ。一か八かだとしても、早く行ける手段が使えそうなら、迷わず使う」
     エルスに続き、晴奈も明奈の肩に手を置き、優しく声をかけた。
    「ありがとう、明奈。お前がいてくれて、本当によかった」
    「こちらこそ頼りにしていただけて嬉しいです、お姉さま」
     話している間に明奈の準備が整い、布に描かれた魔法陣が紫色に輝き始める。
    「うまく行きそうです! 1、2の3、で天玄に飛ばします! 二人とも、乗って!」
    「分かった。それじゃ行ってくるね、メイナ」
     エルスは迷い無く、ポンと布の上に乗る。晴奈も明奈から手を離し、エルスに続く。
    「それじゃ……、行きます! 1、2の、……」
     明奈は組んでいた手を解き、布をつかむ。
    「3!」
     次の瞬間、空気が歪んだ。

    「……お、っとっと」
     世界が一瞬で切り替わり、晴奈とエルスは同時によろける。
    「ここは……」
    「天玄館の、客間だ。……へぇ」
     エルスはきょろきょろと部屋を見回し、焦げた床を見て口笛を吹いた。
    「メイナ、本当にいい子だね」
    「何?」
    「変な意味じゃないよ。こうやって無事、成功させてくれたってことだよ。きっと彼女、ものすごく熱心に研究したんだろうね」
    「そうだな。……明奈」
     晴奈は床を撫でながら、妹の名前をつぶやく。
     そしてすぐに立ち上がり、エルスの目を見据えた。
    「さあ、また戦いが始まる。存分に戦い抜こうぞ!」
    「勿論さ。気合入れていこう、セイナ!」
     晴奈とエルスは手をがっしりと組み、互いの闘志に火を入れた。



    《皆さん、今が絶好の機会です!》
     黒装束に身を包んだ者たちの頭に、天原のキンキンとした声が響く。
    《陽動作戦の効果は絶大でした! 今、天玄は混乱状態にあります! ここで天玄館を襲い、街を制圧すれば作戦は完了です!
     さあ今一度、僕に天玄を贈りなさい! 何の遠慮も、躊躇いもいりません! 街を燃やしても気にしません! 家中から盗んじゃってもいいです! 何なら50人や100人くらい殺しちゃっても、一向に構いません!
     何が何でも、作戦を成功させるのですよっ!》
     天原の偏執的な叫びを聞き、先頭に立っていた篠原はため息をつく。
    「皆の者。殿はああ言っているが、剣士の誇りを忘れるな。誇り高く、任務を全うしろ。それが真の忠義と言うものだ。
     では、作戦を開始する」
     篠原の抑揚の無い号令に、黒装束たちは深々とうなずき、四方に散っていった。残った篠原は、すぐ背後にいた二名の黒装束に声をかける。
    「……朔美、霙子。俺を、どう思う」
    「どう、とは?」
     霙子と呼ばれた少女が尋ねると、篠原は低い声をさらに重たく落して答える。
    「バカ殿にこびへつらい、録を食む毎日。隠密行動で、見たくも無い人の粗を探す毎日。あれほど憎んでいた黒炎教団に与し、あの黒狼の欲求を満たす毎日――俺は今、己を恐ろしく恥じている」
     肩を落とす篠原に、竹田が手を添える。
    「あなた、疲れてらっしゃるのよ。大丈夫、目的はもうすぐ叶うわ」
    「そう、かな」
    「そうよ。わたしたちの力があればいずれ、あのバカ殿の裏をかける。
     ワルラス卿だって、いつも央南にいるならまだしも、普段はあの『屏風裏』に隠れているのだから、きっとやり込めることができるわ。
     もう少しで悲願が叶うのよ、あなた」
     竹田の声援に、うなだれていた篠原は胸を張って応える。
    「……そうだな。この恥辱も、いずれは報われる。そのはずだ。
     さあ、今は道化でいるとしよう。あの館を落とし、殿のご機嫌取りをせねばな」
    「その調子よ、あなた。さ、霙子ちゃんも行きましょう」
    「はい、義母様」
     篠原たち三名も、天玄へと足を進め始めた。

    蒼天剣・術数録 終
    蒼天剣・術数録 5
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第103話。
    一抹の不安。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     晴奈とエルスが天玄館の執務室に向かうと、そこには既に紫明と、対黒炎隊の幹部たちが集まっていた。
    「……!? は、早いな、晴奈?」
     主席の椅子に座っていた紫明が、まるで幽霊を見たかのような顔で出迎える。
    「ええ、明奈が魔術でここまで送ってくれました」
     晴奈の説明で、紫明はようやく表情を崩した。
    「ふ、ふむ、そうか、道理で」
    「それよりも父上、状況は如何に?」
    「ああ、現在は落ち着いている。
     つい数日前まで、天玄の東及び北東から多数の軍勢――姿を見た者によれば、黒炎教団らしき者だったそうだ――が攻め込み、我々はその防衛にかかりっきりだった。連合軍だけでは心もとなくなり、黄海にいた対黒炎隊まで、大半を動員するほどにな」
    「教団が? それは変でしょう」
     エルスが手を挙げ、質問する。
    「教団の本拠地はご存知の通り、央南の最西部、屏風山脈にあります。攻め込むとすれば、西側からのはずです。
     西側から東へ回り込んだにしても、北には天神湖が、南には天神川が伸びていますし、かなりの手間を負います。教団が来たとするなら、つじつまが合わない気がしますね」
    「うむ、私も同意見だ。しかし、前線にいた将たちからも、確かに黒炎の者らしいと言う報告が上がっている。これまで何度も戦ったのだから、見間違いと言うこともあるまい」
    「ふむ……」
     エルスは腕を組み、そのまま考え込む。紫明は晴奈に顔を向け、話を続ける。
    「特にここ3日ほどは攻勢が激しく、後一息で前線が押し破られるかと言うところだったが、昨日になって……」「アタシが計画してたアレが、やっと揃ったのよ。それで一斉攻撃して、撃退したの」
     紫明の横にいたリストが自慢げな様子で、話に入ってくる。
    「アレ、とは?」
    「コレよ、コレ」
     リストは腰に提げていた銃を机の上に置いて、紫明の説明を継ぐ。
    「黄商会に頼んで、銃の量産をしてもらってたのよ。教団にはまだ、銃に対する戦法が確立されてないからきっと有効だろうって、アンタ言ってたし」
     考え込んでいたエルスが顔を上げ、リストに尋ねる。
    「成果はどうだったの?」
    「アンタの言う通りだったわ。アイツら、すっごくビビッてた。あっと言う間に逃げて行ったわよ」
     自慢気に語るリストに、エルスはけげんな顔を返しつつ、もう一度尋ねる。
    「全員?」
    「ええ、みーんな。よっぽど怖かったのね、ホント田舎者だわ」
    「うーん……? 全員、かぁ」
     エルスは手の関節を鳴らしながら考え込む。
    「それだとかなりマヌケな一団になっちゃうなぁ。変だよ」
    「は? ドコが変なのよ」
    「戦略的に不利な東側から攻め込んだ上に、新兵器に驚いて全軍撤退なんて、これじゃ何のために来たのか分からない。わざわざ大軍を率いてやって来る意味が無い。
     結果から考えれば、もっと小規模な戦力を投入するべきだ。これじゃまるで、僕たちの眼前で騒ぐために出てきたとしか思えない」
    「何が言いたい、エルス?」
     晴奈が尋ねてみたが、エルスは答えない。
    「……うーん」

     ともかくリストが銃士隊を結成し迎撃したところ、敵はすべて撤退。一日経った現在は敵の姿も見えず、依然緊張状態が続いていると言う。
    「また黒炎がやって来次第、銃士隊によって迎撃、撃退しようと考えているのだが、どうだろうか?」
    「うーん」
     紫明が尋ねるが、エルスはまだ腕を組んだまま、動かないでいる。
    「うーん、以外に言うことは無いのか」
    「うーん」
     晴奈が声をかけても、一向に返事を返さない。
    「いい加減にしなさいよ、アンタ呪いの置物かなんかなの?」
     リストが後ろから殴る。
    「いたっ」
    「いいの? 悪いの? どっちかさっさと言いなさいよ」
    「……うーん」
    「うーんて言わないっ」
    「あ、ゴメンゴメン。そうだな、何もしないよりはいいかな。何人いるの?」
    「アタシを抜いて36人。4分隊ね」
    「そっか。じゃあ、街の四方に配備して巡回してもらおう。っと、狙撃班はいる?」
    「無いわ。製造のモデルにした銃が近接戦闘向けだったし。今造ってみてもらってるけど、実用化はまだ無理ね」
    「じゃあ、巡回だけかな、今できるのは。あと、既存の軍にも厳戒態勢を執るよう伝えておいて。それじゃお願いするよ、リスト」
    「りょーかいっ」
     リストは軽く敬礼して、執務室を後にした。
    「妙に嬉しそうだったな、リスト」
    「ああ、彼女は銃が大好きだから。半分趣味も入ってる」
    「ふむ……。そうだ、エルス」
     晴奈は会って以来抱えていた疑問をぶつけてみた。
    「今さらで少々恐縮なのだが、『じゅう』とは一体、何だ? リストが使っていたのを何度か見たが、何がどうなっているのか、さっぱり分からぬ」
    「んー、まあ簡単に言うと、火薬で弾を発射して、敵にぶつける器械だね。
     元々火薬自体、央中の金火狐一族が起源らしいんだけどね、その金火狐一族の中核、金火狐商会ってところが銃を開発したらしいんだ。
     でも魔術に比べたら射程が短いし、一撃あたりのダメージは刀剣類に劣る。だもんで、金火狐商会はすぐ見切りを付けちゃって、製造から1~2年くらいで、早々に開発を放棄したんだ。それが20年くらい前の話」
    「うん? リストは今年で19歳と聞いていた覚えがあるが……、20年前に放棄されたと言うなら、何故リストが銃を扱っているのだ? そもそもリストは北方人だろう?」
    「うん、央中では20年前に放棄したんだけど、その開発者が北方に渡ったんだよ。『銃器の可能性を諦めきれない』って言ってね。
     で、その開発者が北方の軍事顧問だったナイジェル博士に会って熱心に推して、博士も『携行性の高さと熟練するまでに要する訓練期間が刀剣類や魔術に比べて圧倒的に短い。安定して質の高い戦力を確保・維持するには持って来いだ』って結論付けて、北方での銃器開発を後押ししたのさ。
     その関係で、ナイジェル博士の孫であるリストもガンマニアになっちゃったってわけ」
    「なるほど」
    「……ふーん」
     と、エルスは机に置かれたままの銃を手に取り、掌でくるくると向きを変えつつ、しげしげと眺める。
    「『黄光一〇三号』、か。黄商会ブランドの銃、第一号になりそうですね。……あれ」
    「どうした?」
     紫明が尋ねたが、エルスはすぐには答えず、銃を分解し始めた。
    「な、何を?」
     紫明がぎょっとしている間に銃は全パーツが完全に分解され、机に並べられた。
    「なかなか苦心されてるようですね」
    「う、うむ。銃と言うのはうわさには聞けど、実物を見たのはチェスター君のものだけだったからな。銃弾からして、製造が困難だったよ」
    「でしょうねー……。まだ、大分粗い」
     銃を組み立て直しながら、エルスは不安そうにつぶやいた。
    「薬莢の出来が粗くて、隙間があります。このままだと発射時、弾速が大きく落ちる可能性がありますね。それに各可動部の噛み合わせにも難がある。
     汚れや湿気があると、作動しないかも知れませんね。最悪、腔発の恐れもある」
    「え……!?」
     紫明の顔が、ひどく不安そうに歪む。それを見ていた晴奈が思わず吹き出した。
    「父上、心配性もほどほどになさらねば。
     ここ数日は気温が下がり、空気も大分乾いております。気候も安定しておりますし、エルスの言うような問題は起こらないでしょう」
    「まあ、そうか……」
    「それに私とエルスもおりますし、十分防ぎ切れるはずです。ご安心を、父上」
     晴奈の言葉に、紫明はようやく表情を緩めた。
     対照的に、エルスは珍しく眉をひそめている。
    (敵のちぐはぐな侵攻と不自然な撤退。対するのは、精度の低い銃をたのみにする銃士隊。
     ……何だか不安だなぁ)
     エルスは何も言わず、執務室を出て行った。
    蒼天剣・神算録 1
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第104話。
    渦巻く風。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     天玄館の屋上に上がったエルスは、空を見上げる。
    (空気は確かに乾いているけれど、この風は……)
     風は強く、一方向に流れていかない。北風かと思えば、突然南からの突風が来る。
    (博士が昔、言ってたっけ――央南の秋が終わる頃に、ある季節風が吹く。その際、その鍵状の地形が関係して、空気が巨大な渦を巻く。結果、央南の中心部に突然、低気圧が発生し、天候が急変する、と。そして、このテンゲンは央南のまさにど真ん中。
     そんな不安定な天候なら、いきなり雨が降ってきてもおかしくない。もし野外戦の最中に降ってきたら、あの銃はまず、使えなくなるだろうな。
     それに焔流の人たちも、雨天での戦闘は苦手だと言っていた。焔流と雨は相性が悪いらしいし、敵はそこを狙って来るかも知れない)
     遠くに見える街の壁を一通り見渡し、考察を続ける。
    (東及び、北東からの侵攻。何故、本拠地に近い西から来なかったのだろうか? 壁がもろかったとか? でもここから見る限りでは、もろそうには見えない。一応、後で確認しておこう。
     他に考えられるのは、コウカイからの援軍を恐れての迂回かな? でも、元々はコウカイ侵攻を主目的としていたんだし、それならコウカイを攻めた方が、話は早い。
     アマハラ氏の要請でテンゲンに攻め入ったとしても、こちら側の主力がテンゲンに集結しているこの局面でわざわざこちらに来るよりも、近くて防衛力が低下したコウカイを先に攻め落とし、それからテンゲン周辺を囲んだ方が楽で簡単なのは明らかだ。教団にしても、標的であるこちらの動向を丸っきりつかんでないわけが無いだろうし、対黒炎隊がこっちに来てることは知ってるはずだ。
     じゃあ何故、東から来たんだろう? どうしても東から来なければならない、そんな理由が見当たらない。……あるいは、東から来た方が楽だったのかな? 例えば陽動作戦を狙って、東側に兵力を蓄えていた、とか。
     まあ、これは考えられなくは無い。西側から本隊、東側から別働隊と言う挟撃作戦はなかなか悪くない。東側から攻めている間に西側からも大量に兵を寄せれば、かなり効果的だ。
     もしこれが正解なら、東側の兵力は大分少ないはず。いつものような人海戦術は使えなくなるだろうな。となれば東側を強襲し、それから西側の警戒を厳重にしておけばいいか。うん、こちらに十分な勝機はある)
     エルスの読みはある程度当たっていたが――彼はこの時既に、自分が「どうやって今、ここに来たのか」を忘れていた。



    「どうもどうも皆さん」
     集まった教団員たちに、壇上にいる天原が会釈をする。
    「この度は天玄教化計画への参加、ご苦労様です。
     えー、黒鳥宮からの天候予測を先程、ワルラス台下から直々に賜りました。これによれば一両日中に天候は急変し、半日以上は土砂降りが続くとのことです。
     先日のあなた方による陽動により、彼らは銃だか九だかと言う色モノの武器に意味無く自信を持っているでしょう。
     ところがですよ! 我々の調べにより、あの武器は湿気に弱いことが判明しています! そしてあの焔流も、雨の中では火が出せず、威力が大幅に落ちることが分かっています!
     つ・ま・り、土砂降りの中ふたたび攻め込めば、奴らは自分たちの得意とする武器、剣技、戦術がまったく使えなくなるのです!
     もうこんなのは、道端の石を拾いに行くより簡単な作業ですよ! 雨が降り次第、攻め込んじゃってください! ここで勝てば間違いなく、台下より恩賞が賜られるでしょう!
     いや、それよりも! この私から直々に、報奨金を振舞ってあげます!」
     天原は次第に弁舌の熱気を上げ、あれこれと語り始めた。内容は教団員に対する扇動から、やがて焔流に対する侮辱や黄家への誹謗中傷に変わり、そこから央南の歴史に言及し、さらに天原家の伝統へと脈絡無く話を続け、最後には自分の魔術理論と、それが教団にどれだけ寄与できるかを一通り話し終えたところで――。
    「あー、ちょっと話し込んでしまいましたね。疲れました。
     じゃ、そう言うことであとよろしく」
     どうやら言いたいことを言い切ったらしく、天原は滅茶苦茶な「壮行演説」を締めくくり、壇上を後にした。
    「……何だ、あのアホは? グダグダグダグダ、勝手に熱吹きやがって。
     何を言ってたのか、さっぱり分かんねえ」
     最前列でこの演説を聞いていた僧兵長、ウィルバーは天原がいなくなった途端、天原に劣らぬ悪口雑言を漏らし始めた。
    「あのバカさ加減で、オレより位の高い大司祭とは恐れ入るぜ、まったく。ワルラス叔父貴、頭に穴でも空いてるんじゃないのか?
     あんなアホを大司祭にするくらいなら、オレがなった方が教団のためになるっての。なあ、みんな」
     ウィルバーの問いかけに、周りの教団員たちはぎこちなくながらも、首を縦に振る。
    「だよなぁ。あんなヤツが指揮を執るとか、ありえねー。あんなのに従ってたら、絶対全滅しちまうよ。
     なあ、お前ら。アイツの言うことなんか無視しようぜ。オレたちはオレたちで、現場判断で進もう」
     本来ならばウィルバーの言うことは重大な規律、戒律の違反なのだが――確かにウィルバーの言う通り、この作戦において天原は当てになりそうも無いため、ウィルバーの提案に皆は素直にうなずいた。

    「ヒヒヒ、ウフフフフ……」
     一方、さっさと自分の部屋に戻った天原は一人、ほくそ笑んでいた。
    「いやぁ、楽しみだなぁ。一時はどうなるかと思ったけど、これでようやく天玄に帰れる。もうこんな隠れ家でコソコソしなくて済むと思うと、フ、フヒヒ……、思わずにやけてしまう」
     天原は辺りを見回し、ぱた、と手を叩く。
    「お茶をお願いします」
     だが、いつまで経っても返事が返ってこない。
    「お茶」
     もう一度手を叩くが、反応が無い。
    「……おっと、そうだ。皆さん出払っていました、そう言えば」
     狐耳を撫でつけながら、天原はまた辺りを見回す。
    「面倒臭いなぁ。お茶飲みたいのに」
     しばらく椅子にもたれ、もう一度辺りを見回す。
    「……仕方無い。自分で淹れるか」
     のろのろと立ち上がり、給湯室へと足を進める。
    「あー、教団の人にやってもらってもいいかなぁ? せっかく500人も回してもらったんだし。一人くらい手伝いに来てもらってもいい気がするんだけどなぁ」
     給湯室に続く廊下を進む途中で、天原は地下倉庫と地上とを結ぶ窓に差しかかる。
    「そもそも500人で足りるのかなぁ。もうちょっと、呼んだ方がいいかなぁ」
     倉庫の窓を開け、中を覗きこむ。
    「これがあれば、いくらでも呼べるんだし。もっと増やしてもらっても、いいよねぇ」
     倉庫の床には巨大な魔法陣――黒鳥宮へと連結された「移動法陣」が描かれていた。



    「ねえ、セイナ」
     天玄を囲む壁を一通り確認し終えた後、エルスは晴奈に相談していた。
    「どうした、エルス?」
    「ずっと教団が東側から攻めてきた理由を考えていたんだ。
     で、真っ先に考えたのは壁。もしかしたら東側がもろくなってて、そこから攻め込もうとしてたのかなって」
    「なるほど、出かけたのはそのためか。どうだった?」
    「壁はかなり頑丈にできてた。どこにもひび割れや、もろくなっていたところは無かった」
    「その点は問題無しか。他に理由として考えられるのは?」
     晴奈に尋ねられ、エルスは考察を伝える。
    「恐らく、東側の兵は陽動部隊だ。本命は恐らく、西から来る」
    「根拠は?」
    「それを説明する前に、言っておくことがある。多分、明日か明後日には大雨が降る。リストの持ってる銃士隊は使えなくなる。それから焔の技も」
    「何だと?」
     晴奈は窓の外に目をやり、けげんな顔をする。
    「晴れているではないか」
    「今日はね。でも、風がかなり強い。天候が不安定になる前触れだよ」
    「むう……。お主の言うことが確かであれば、確かに我々には不利に働く」
    「そこに付け入る策を図っていると、僕は読んでいるんだ。で、東側から来たと言う事実と照らし合わせて、一番可能性があるのはそれかな、と」
     エルスの話を聞き、晴奈は首をかしげる。
    「『可能性』、か」
    「うん、まだ確実じゃない。もう少し調べてから結論を出す。とりあえず、現時点での予想は挟み撃ちだ」
     ニコニコと笑うエルスに対し、晴奈は納得できない様子を見せる。
    「……エルス、以前に」
    「うん?」
    「お主は『現状把握よりも行動を優先した方が、物事はうまく運ぶ』と言ったな?」
    「うん、そうだけど?」
    「……あ、いや。何でもない」
    「そっか」
     晴奈はもう一度窓の外を見て、部屋を後にした。
    蒼天剣・神算録 2
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第105話。
    割と仲良し?

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     翌日、正午過ぎ。
    「なんか今日、肌寒いわね」
     リストが両手を組み、寒そうな様子で晴奈が泊まる部屋にやってきた。
    「コートかなんか無い?」
    「外套か? そこにある、私の羽織で良ければ」
     一人で碁を詰めていた晴奈が壁にかけてある、藍色の羽織を指差す。
    「ちょっと借りるね。……おー、あったかーい」
    「それは良かった。しかし、リストたちは北方の生まれだろう? 寒さには強いと思っていたが」
    「あー、確かに寒いけど、防寒具が充実してるから。今頃だととっくに冬の対策が済んでるくらいだもん。それにアタシ、ちょこっと冷え性だし」
    「ほう」
     晴奈は立ち上がり、リストの手を握ってみる。
    「む……、氷のようだ。そこで座っていてくれ。火をもらってくる」
    「ありがと、セイナ」
     晴奈は給湯室に向かい、火のついた炭を何本か持って戻ってきた。
    「持ってきたぞ。そこの火鉢を部屋の中央に置いてくれ」
    「コレ? よいしょ……、っと」
     火鉢に炭をくべると、間も無く火鉢に置いてあった炭にも火が移り、部屋はじんわりと暖まってきた。
    「はー……、あったかぁい。もーホント、今日寒いのよね」
    「エルスの言では、今日か明日くらいに雨が降ると言っていた」
     晴奈の言葉に、リストは露骨に嫌そうな顔をする。
    「えぇ? この寒いのに雨? 勘弁してよぉ、風邪引いちゃうじゃない」
    「私に言われてもなぁ」
    「それに雨だと、今持ってる銃弾がしけっちゃうかも」
    「エルスもそれは危惧していたな。そこで攻め込まれたら、かなり厳しくなる」
     火鉢にかじりつくように暖を取っていたリストが、晴奈に首を向ける。
    「……エルスエルスって、アンタ気にし過ぎじゃない、エルスのコト?」
    「そうか?」
     きょとんとする晴奈を見て、リストはぷい、と首を戻す。
    「……アタシが気にし過ぎかな。気にしないで、セイナ」
    「ああ、そうする。……リスト、ところで一つ聞くが」
    「何?」
    「エルスのことをどう思っているのだ?」
     聞いた途端、リストの肩と長い耳がビクッと震える。
    「は、はぁ? いきなり何変なコト聞くのよ? あ、あんないっつも笑ってるようなヤツ、気になんかしたコトないわよ、ふんっ」
    「(どう見ても、随分気にかけているようにしか見えないのだが)
     ……そうか。おかしなことを聞いてすまなかった。その、なんだ、……菓子でも持って来ようか?」
    「そ、そうね。もらおっかな、うん」
     二人は一瞬見つめ合い、気まずそうに笑った。



    「ほら、雨が降りそうですよ」
    「そうですね」
     窓の外を嬉々として見つめている天原に対し、ウィルバーはむすっとした顔で茶菓子をむさぼっている。
    (ったく、何でこんな学者崩れの相手なんかしなきゃなんねーんだ)
    「……まずっ」
     と、天原が茶を口に含むなり、大げさな仕草とともに顔をゆがめる。
    「何ですか、この苦さは? 下水じゃないですか、まるで」
    「失礼ですがアマハラ卿、茶はその苦味と言いますか、渋味を楽しむものですよ」
     茶を淹れたウィルバーの従者が、おずおずと返答する。
     すると天原はバン、と茶器を机に叩きつけて反論した。
    「何を馬鹿げたことを! お茶と言うのはもっとこう、甘いものでしょう!?」
    「は……?」
     従者とウィルバーが顔を見合わせ、目配せする。
    (おい、コイツ何言ってるんだ? 茶が甘い? こんなもんだろ、茶の味って)
    (はい、間違いなく。恐らく、いつも飲まれているものは、砂糖を入れておられるのではないかと)
    (……ガキか、コイツは)
     呆れつつも、ウィルバーはこう提案する。
    「じゃあ、砂糖でもお持ちしましょうか」
     しかしこれを聞いて、天原はさらに怒りをあらわにしてきた。
    「砂糖、入ってなかったんですか!? 茶って言うのは普通入ってるもんでしょ、砂糖!
     まったく、こんな一般常識も無いなんて、教主のご子息が聞いて呆れますね!」
     天原の罵倒にウィルバーのこめかみが跳ねるが、拳を堅く握って何とかこらえる。
    (キレんな、俺……。今コイツをボコっても、後で叔父貴に締め上げられるだけだ。こんなくだらねーコトで怒って、何になる)
     ウィルバーは平静を装って、従者に砂糖を持ってくるよう指示した。
    「……すみませんね。配慮が足りませんでした」
    「まあ、いいです。気にしませんよ、僕は心が広いですから」
     天原はふんぞり返り、ウィルバーをあからさまに見下しながら、話題を変えてきた。
    「ところで、ウィルバー僧兵長。一つ、面白い話をしてあげましょうか」
    「……何です?」
     ウィルバーは「面白い話」には思えなかったため、ぶっきらぼうに応じたが、天原は構う様子も無く続ける。
    「1年前、黒鳥宮に北方の諜報員が侵入したことがありましたよね」
    「ええ、そう聞いています」
    「実はですね、現在央南連合軍を直接指揮しているのはなんと、その諜報員らしいのです」
    「へえ?」
     思いもよらない話に、怒り気味だったウィルバーも興味を引かれる。
    「さらにですね、黄海防衛にもその諜報員が絡んでいたとか」
    「何でスパイ風情がそんなコトを……?」
    「何でも、その諜報員の教育に当たったのがあの『知多星』、ナイジェル博士なんだそうで」
     聞きなれない単語に、ウィルバーは首をかしげる。
    「ち、た、……ちた、せい? と言うと?」
    「北方のジーン王国ではですね、武勲を挙げた者には『武星』、優れた研究実績を挙げた者には『知星』の称号が贈られるんですよ。
     で、ナイジェル博士はその『知星』勲章をなんと、8個も持っているんだそうです」
    「『知星』が8個で、『知多星』ですか。アタマ良さそうですね」
    「ええ、彼の半世紀以上に渡る王国軍への参与で、その軍事力は3倍以上になったとも言われています。
     そんな智者が直々に指導した男ですから司令官、戦略家としても、相当な腕前を持っているんでしょう」
    「なるほど。……しかし、そうなると今回の作戦、ちょっともろ過ぎないですか? そんなアタマ良さそうなヤツ相手だと、破られるんじゃないですか?」
     ウィルバーの指摘を受け、天原は「待ってました」と言わんばかりに、ニタニタと笑い出した。
    「そう、そこなんですよ僧兵長! そこが今回の作戦の狙いなんです!」
    「どう言う意味です?」
    「言ったでしょう、今回の指揮官は元諜報員だと! その前歴が、彼の目を狂わせるのです!」
    「諜報員の、前歴が……?」
     天原の言わんとすることがまったく分からず、ウィルバーは詳しく尋ねようとする。
    「それは、どう言う……」「お待たせしました、アマハラ卿。砂糖をお持ちいたしました」
     ところがそこで、従者の邪魔が入ってしまう。
    「ああ、ご苦労様です。
     ……そうですね、詳しい説明はこの、苦々しいお茶を飲んでからにしましょうか」
     天原は砂糖の入った小瓶をつかみ、茶器の中にザラザラと投入していった。
    蒼天剣・神算録 3
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第106話。
    エルスの急所。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     さらに時間は経ち、夕闇が迫り始めた頃。
    「うーん」
     また、エルスがうなっていた。見かねた晴奈が、背後から尋ねる。
    「どうした?」
    「腑に落ちないんだよねぇ」
    「挟み撃ち、と言う予想がか?」
    「そうなんだよ。確かに推測の域を出ない、って言うことも不安なんだけど、それよりも距離的に問題のある作戦なんだよね」
     迷いがちに話すエルスに、晴奈も同意する。
    「それは私も感じていた。いくら有効な策とは言え、教団にとってはあまりに本拠地から遠いからな」
    「そうなんだよ。彼らの本拠地、黒鳥宮からここまでは、どんなに軽装でも一ヶ月近くはかかる。兵站(へいたん)――補給路や退路、通信網――の問題を考えると、いくらなんでも遠すぎるし。
     だもんで、悩んでるんだ。『何のために東から』って言う、最初の疑問から離れられないんだよね。もうあまり、時間が無いのに……」
    「まあ、焦るな。まだ雨は降っていないし、日も暮れていない。そもそも今日攻めてくるとも限らぬ。
     まだまだ時間はあるはずだ。結論を急ぐこともあるまい」
    「まあ、それもそうなんだけどね。……職業病かなぁ」
     エルスは恥ずかしそうに頭をかきながら笑う。
    「職業病?」
    「元々、諜報員だったからねぇ。敵陣の真っ只中に忍び込む仕事だから、どうしても急いで考える癖が付いちゃうんだよ。
     即判断、即行動でないと、敵に囲まれて袋叩きに遭っちゃう可能性もある」
    「なるほど、それで『理解より行動』か」
    「そう言うこと」



    「と言うわけです」
    「なるほど。それは確かに、スパイらしいと言えばらしいですね」
     少し時間は戻り、天原とウィルバーの会話に戻る。
    「この作戦の本領は、相手に疑念を抱かせることにあります。
     わざと戸惑うような情報を与え、混乱させるわけです。『本当にこんな作戦を取るのか?』と疑心暗鬼にさせる、この点が重要なんですよ。
     さらにですよ、混乱しているところに情報を与えます。これで相手は、我々の意図を見抜く」
    「見抜いちゃまずいじゃないですか」
     驚くウィルバーに対し、天原は人差し指を振る。
    「チッチッチ……、そこなんですよ。そこがこの作戦の、本当に効果的なところなんです。
     例えば僧兵長、あなたが道を歩いていて、その前方に落とし穴があったとしましょう。あなたは直前でそれを見つけた。どうしますか?」
    「そりゃ、避けますよ」
    「そうでしょう? しかし避けた……、いや、避けさせたところにもう一つ、落とし穴があれば?」
    「……!」
     ウィルバーは作戦の真意に気付き、息を呑んだ。
    「相手は急いで判断する性質の人間ですから、こう言う罠には楽しくなるくらい引っかかりますよ。『何故ここに、こんな分かりやすい落とし穴があるのか?』と言う疑念を抱く前に、避けてくれるんですからね、ヒヒヒ……」
     ウィルバーは無言のまま、茶をすする。
    (なるほど……。確かにこりゃ、すげー作戦だ。少なくともオレなら、簡単に引っかかるだろうな。
     学者崩れと甘く見てたが、……まあ、多少は叔父貴の入れ知恵もあるだろうが)
     ウィルバーは天原の狡猾さに、素直に感心した。



     地図を眺めてうなるエルスを放って、晴奈は天玄館を散策していた。
    (……むう)
     窓の外はどんよりと曇り、今にも雨を降らせようと言わんばかりに、雲がゴロゴロと鳴っている。
    (まずいな、これは。本当に今降られて攻め入られては、我々はかなり不利になる)
     晴奈の心にも、不安な黒い雲が覆い始めていた。
    (確かに心配だな。もしここで攻め込まれれば、我々の剣技はその本領を発揮できぬ。リストたちの銃も使い物にならなくなる。敵もなかなか侮れぬな)
     不安でたまらなくなり、晴奈はまたエルスのところに戻った。
    「うーん」
     まだ、エルスはうなり続けている。
    「エルス、お主の言う通りだった。外はいつ、雨が降ってもおかしくない具合になっている」
    「そっか。嫌な予想が当たっちゃったな、はは……」
     いつも笑い顔ですましているエルスも、今回ばかりは力なく笑っている。
    「悩んでいる一番の理由は、対策が講じられないことなんだ。
     こちらの不利は、天気の問題だから仕方が無い。でもその分、何が起こるか推測できるし、把握もしやすいから補助の計画も立てられる。
     だからそっちについては、もう準備を整えるようリストに言ってあるんだ」
    「そうか。それなら多少は安心できるな」
    「だけど敵の出方がはっきりしない。どう言う攻め方をするのか、いまだに確信が持てない。さっきは『挟み撃ちだろう』なんて言ったけれど、もしこれがハズレだったら、大変なことになる」
    「むう……」
     エルスは自信なさげに、もう一つの可能性を語る。
    「他に考えられることとしては、本当に東からじゃなく、西から来るのが主力部隊だと言う可能性。だけどこれも昨日言った通り、地形的な理由で不可解な面がある。
     この謎が解ければ、どうにか対策も講じられるんだけどねぇ」
    「……まあ、少しは気分転換でもしたらどうだ? これ以上一人で煮詰まっていても、解決案は出るまい」
    「ま、そりゃそうだ。……お茶でも飲みに行こうか」
     エルスは肩をポキポキと鳴らし、伸びをした。
    蒼天剣・神算録 4
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第107話。
    落とし穴を避けた先に、また落とし穴。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     晴奈とエルスは二人で連れ立ち、給湯室へと向かう。
    「リスト……、はいないんだった。今、準備してもらってるから」
    「おいおい、大丈夫か?」
     ぼんやりとした顔で笑っているエルスを見て、晴奈は不安げに尋ねる。
     エルスの方も取り繕うようなことをせず、素直に応じた。
    「流石に疲れてるね、はは。
     こう言う時、リストにお茶を淹れてもらうとシャキッとするんだけどねぇ」
    「確かにリストの茶はうまいな。私も好きだ」
     そんなことをしゃべっているうちに、二人は給湯室に到着した。
    「……おっと。今、使ってますか? お茶を入れたいんですが、お邪魔しても?」
     給湯室の中では、三角巾に割烹着姿の、眼鏡をかけた黒髪の猫獣人が湯を沸かしていた。
    「あ、大丈夫ですよ。皆さんにお配りしようと思っておりましたから。
     よろしければ一杯、いかがでしょうか?」
    「あ、それじゃいただきます」
    「では、私もお言葉に甘えて」
     猫獣人は慣れた手つきで、二人に茶を差し出す。
    「……お?」
    「これは……」
     茶を飲んだ晴奈とエルスは、同時に声をあげる。
    「うまい!」
    「ええ、お茶の淹れ方には自信がありますのよ」
    「うん、これはリストにも勝るとも劣らない味だ。なんかビックリしちゃったよ、はは……」
     エルスは憔悴した、力ない笑顔から一転、満面の笑みを浮かべる。「猫」も嬉しそうに、エルスにお辞儀をした。
    「そう言っていただけるととても嬉しいです、大将さん」
    「はは、どうも」
     と、「猫」は首をかしげ、こう尋ねてきた。
    「そう言えば大将さんと黄先生は、ここ何日かお姿を拝見いたしませんでしたが……」
    「ええ、少し調べ物をしておりまして」
     晴奈が答えると、「猫」はさらに質問をぶつけてくる。
    「もしかして、黄先生の妹さんも調査に向かわれてました?」
    「ええ、そうです」
    「あ、やっぱり。妹さんのお姿も見えなかったものですから。
     ところで妹さん、確か黒炎教団にいらっしゃったのですよね?」
     あまり尋ねられたくない話なので、晴奈は不機嫌な態度を取って答える。
    「……ええ、おりました。それが、何か?」
    「いえね、黒炎教団と言えば、『黒い悪魔』の伝説がありますでしょう?」
     晴奈の気持ちを汲んだらしく、エルスが代わりに答える。
    「ええ、色々あるようですね」
    「わたしもあんまり、教団にはいい印象を持ってはいないのですけれど、『黒い悪魔』の伝説は何だかおとぎ話のようで好きなんですよ。ほら、アレとか」
    「アレ、……って?」
    「ほら、アレですよ。えっと、……そうそう! 一瞬で世界を回ったって言う」
    「ああ、テレ……」
     言いかけたエルスの口がこわばる。
    「……しまった! それか、狙いは!」
     エルスはぐい、と茶を一息に飲み、晴奈の手を引っ張った。
    「セイナ! 相手の狙いが分かった! 奴らは東に本隊を置いている! 挟撃と見せかけて、本当の狙いは西側に警戒して薄くなった、東側の警備を破ることにあったんだ!」
    「な、何だと? 落ち着いて話せ、エルス」
    「奴らの狙いはこうだ。
     奴らは元から、東からの攻略を狙っていたんだ。西側からの本隊とか、そんなものは初めから無かったんだ。恐らく最初の攻撃は、僕を混乱させるためにやったんだろう」
    「しかし、東からは……」
    「そこなんだよ。『東からはありえない』、そう思わせたかったんだよ。普通に東から攻めれば、兵の数がどうしても少なくなってしまう。だから、本命は西から――それが常道なんだ、普通の敵であればね。
     でも、相手は黒炎教団。タイカ・カツミの魔術を使える集団だ。その本領を発揮すれば、こんな撹乱作戦はたやすい」
    「意味が分からない。結論を言ってくれ、エルス」
     痺れを切らした晴奈が尋ねると、エルスは自信たっぷりにこう答えた。
    「『移動法陣』だよ。あれを使って、大量に兵を送れるんだ」
     これを聞いて、晴奈も合点が行く。
    「そうか、なるほど! 確かにあれを使えば、東から攻めても兵が尽きることは無いな」
    「こうしちゃいられない。早く準備を整えよう、セイナ」
    「ああ、急ごう」
     晴奈も茶を飲み干し、黒い猫獣人に茶器を返す。
    「馳走になった、ご婦人」
    「ごちそうさまでしたっ」
     晴奈とエルスは礼を言い、その場から走り去った。

    「おそまつさまでした、と。……うふふっ」
     給湯室に残った猫獣人は、二人の姿が見えなくなったところでニヤリと笑った。
    「狙い通りね。ここまで簡単に引っかかってくれるなんて」
     猫獣人は三角巾を取り、割烹着を脱ぐ。そして棚に隠しておいた黒装束と黒頭巾を取り出しながら、独り言をつぶやく。
    「これでわたしの作戦は完了。後はよろしくね、霙子、龍さん」
     黒装束をまとい、黒頭巾を被ったこの「猫」こそ――15年前篠原を篭絡し、以後彼の片腕として、また妻として過ごしてきた女性、竹田朔美であった。
    蒼天剣・神算録 5
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第108話。
    豪雨の中の修羅場。

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    6.
     敵の策略に「気付いた」エルスは大急ぎで軍備を東側に固めるよう、天玄中に知らせた。その甲斐あって雨が本降りになる前には、軍の防衛網が完成した。
    「敵はこの雨に乗じてやって来るはずだ! 全員警戒を怠らず、防衛に努めてくれ!」
    「おう!」
     エルスの号令に、晴奈を筆頭とする全兵士たちが応えた。

     日が落ちた今、既に雨は土砂降りとなり、地面の大部分をぬかるみに変えている。危惧していた通り、このままでは黄商会製の銃は使用不可能、焔剣士たちも得意の炎を使えないと言う状況に陥っていた。
     とは言えこの状況に関してはは既に想定しており、一応の対処法もエルスが講じ、伝えている。
    「まあ、急ごしらえだからちょっと不安だけど、これで辛うじて銃士隊は動ける」
    「ホントに突貫工事よね。ま、この雨なら燃やされたりしないでしょ」
     銃を使えるよう、街のあちこちに木製の覆いを被せて雨除けを作り、しっかりと乾かした銃器類を武器貯蔵庫から濡らさぬよう運び出し、天玄の中とその周辺でのみ使用できるように配備したのだ。
    「後は跳弾で味方や非戦闘員に弾を当てないよう、注意してね。……っと、セイナたちの方は」
    「エルス。……この対策は甚(はなは)だ、不安なのだが」
     晴奈がべっとりと油に塗れた刀を手にしたまま、エルスに声をかける。
    「さっきやってみたら、ちゃんと火が点いたじゃないか」
    「それは、そうだが。……刀が錆びないか心配だ」
    「大丈夫、油じゃ金属は錆びないよ」
    「……むう」
     晴奈だけではなく、他の焔剣士全員の刀にも油が塗られている。無理矢理に、刀に火が点くようにしているのだ。
    「剣は錆びないだろうが、剣士の誇りが錆びそうだ。こんな子供だましを……」
    「いいから。戦いは正攻法だけじゃ勝てない。時にはそんな子供だましも使わないと、勝てなかったりするもんだよ」
    「うーむ」
     晴奈はまだ納得が行かなかったが、エルスから戦いの勝ち負けに言及されては、返す言葉も無い。
    「……まあ、善処する」
     わだかまりつつも、晴奈は持ち場へと向かった。



    「いやがるぜ……」
     高い木の上で単眼鏡を覗き、天玄の様子を見ていたウィルバーは、天玄の東門へと向かう晴奈の姿を見つけ、毒づいた。
    「セイナ、今度こそお前を屈服させてやるぜ」
     ウィルバーはそうつぶやくと単眼鏡をたたみ、そのまま前方へと跳ぶ。枝や葉に当たることなく着地し、周りで待機していた教団員たちに号令をかけようとする。
    「さあ、お前ら! 今から……」《これからいよいよ天玄に入ってもらいます!》
     ところが「隠れ家」に潜んでいた天原が、魔術による通信でウィルバーをさえぎり、まくし立てる。
    《相手は既に役立たずの集団です! 奴らがどうあがいても我々の勝ちは揺るぎません! 必ずや、必ずや天玄を制圧し、ワルラス台下の教化計画推進と焔流打倒、それから私の家と財産と主席の座の確保を……》「うるせえ! 黙らせろ!」「はっ……、『フォースオフ』」
     たまりかねたウィルバーが側近に指示し、天原の術を遮断させた。
    「……コホン。邪魔が入っちまったな。まあ、とにかくだ! 今からテンゲンを再攻撃する!
     奴らの攻撃手段は既に封じられている! だが油断するなよ! 敵方にはかなりの智将がいると言う情報を得ている! 不利な現状をカバーし、何らかの代替手段を持っているかも知れない! 十分警戒し、怯まず攻め込め!」
    「御意!」
     教団員たちは両手を合わせて合掌し、ウィルバーに応える。
    「よし、それじゃ全員、進めッ!」
     ウィルバーの号令と共に、教団員たちは泥水を跳ね上げて駆け出し、天玄へとなだれ込んでいった。

     暗闇の中から怒号と大量の足音が響いてくる。
    「来たな……!」
     東門前にいた焔剣士たちは刀を抜き、構える。だが、まだ火は灯さない。「焔流剣術は使えない」と高をくくっている相手をギリギリまでひきつけ、油断させて一挙に潰そうと言う狙いである。
    「まだだ、まだ姿は見えない!」
    「動くなよ……!」
    「もっとひきつけろ! この位置ならば銃士隊の援護もある!」
     門前には焔剣士だけではなく、連合軍の兵士も陣取っている。彼らも武器を構え、いつでも敵に突入できるよう、神経を研ぎ澄ませて待機していた。
     晴奈はその中心に立ち、刀に手をかけて号令を発しようと構えていた。
    「……」
     晴奈は一言も発さず、目の前の暗闇を凝視する。
    「間も無く来る! 全員、用意しろ!」
     そう言って晴奈は刀を抜き、正眼に構えた。焔剣士たちも同様に構え、列を成す。
    「……今だッ! 灯せぇッ!」
     晴奈の号令とほぼ同時に、東門はにわかに明るくなる。
     するとすぐ目前まで迫っていた教団員たちの驚いた顔が、ほのかに浮かび上がった。
    「火が……!」
    「この雨でも、使えるのか!?」
     騒ぐ教団員たちの中から、晴奈にとって聞き覚えのある声が響き渡る。
    「怯むな! こんなもん想定内だ! 進め、進めッ!」
     が、一瞬立ち止まり、動きが鈍った教団員に対し、今か今かと待ち構え、飛び出していった剣士・兵士たちとでは、攻める速度が違う。
     教団員たちの中に剣士たちがなだれ込み、教団員はバタバタとなぎ倒されていく。
    「くっそ、立ち止まるんじゃねえ! 押せ、押せぇッ!」
     それでも、数で圧倒的に勝る教団側は諦めない。倒れた教団員の上をドカドカと突き進み、第二陣が押し寄せてくる。
    「門上方、射撃用意!」
     門の向こうからリストの声が響き、続いて門の上に作られた即席の射撃台からパン、パンと銃声が降ってくる。
     なだれ込む第二陣は次々に胸や腹を押さえ、あるいはのけぞり、その進攻が阻まれる。
    「チッ……! 銃まで普通に使えんのかよ!? どこのバカだ、『役立たず』なんて吹かしやがったのは!?
     第三陣、突っ込めッ!」
     ぶっきらぼうな号令と共に、教団の第三陣が現れる。
     激しい雨の降る中、戦場は文字通りの泥沼と化していた。
    蒼天剣・神算録 6
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第109話。
    2つ目の落とし穴は、地獄への片道切符。

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    7.
     既に修羅場となっている門から大分離れた天玄館の司令室で、エルスは指示を送っていた。
    「戦況は?」
    「今のところ、こちらが押し返しております!」
    「焔流の人たちは?」
    「黄副指令を先頭として我が軍と共闘し、最前線で防衛に努めております!」
    「ふむ。銃器は問題無く作動してる? 備蓄は大丈夫?」
    「はい! 現場からは『問題無い』との報告が……、あ」
    「ん? どしたの?」
     伝令は少し逡巡し、報告を続ける。
    「えーと、チェスター隊長から『ジャンジャン弾よこさないと後で蜂の巣にするわよ』と」
    「ああ、大丈夫大丈夫。ちゃんと送る。他、東門以外からの敵は?」
    「おりません。今のところ、東門からの進軍のみです」
    「そっか。じゃあ、東以外三方への警戒はこれまでと同様に行ってくれ。あと、毒舌銃士さんのお達し通り銃弾を送るよう、武器保管班に指示を伝えてくれ」
    「了解!」
     伝令はさっと敬礼し、すぐに立ち去った。エルスは椅子に座り、戦況を反芻する。
    (やっぱり、東からの大部隊が本命だった。武器や焔に関しては問題無く使えているし、今のところ防ぎ切っている。これ以上の問題や状況の悪化は、無いかな)
     状況がこちらに有利であることを確信し、エルスの緊張がわずかに緩む。
    「……のど、渇いたなぁ」
    「お茶をお持ちしましょうか?」
     エルスのつぶやきを、ちょうど窓を拭いていた給仕が聞きつける。
    「うーん、じゃあ、もらおうかな」
    「かしこまりました」
     給仕はぺこりと頭を下げ、司令室から出ようとした。
    「あ、そうだ」
     そこでエルスが先程の猫獣人を思い出し、呼び止める。
    「良かったら、……えっと、名前は知らないんだけど、30代半ばくらいで眼鏡をかけた、黒髪の『猫』の女の人がいますよね?
     その人に淹れてもらいたいんだけど、お願いできるかな?」
     エルスの説明に、給仕はけげんな顔をした。
    「え、……っと?」
    「あ、分かりにくかったかな」
    「いえ、その……、眼鏡をかけた、黒髪の、猫獣人の女性、ですか?」
    「うん、そうだけど」
    「……いたかしら? ちょっと、探してきます」
    「え? ええ、お願いします」
     給仕は首をかしげながら、部屋を後にした。
     その様子を見て、エルスの胸中に窓の外と同様の、重たげな暗雲が立ち込め始める。
    (……何だ? この、嫌な予感は? 何かが引っかかる)
     エルスはもう一度、戦況を思い返す。
    (僕の予想通りの、東側からの進攻。不安視されていた戦法も、問題無く使用できた。敵は今、十分に撃退できている。この状況で何を悩むんだ、僕は?
     うまく行き過ぎて悩むなんて、まるでエドさんみたいな……)
     博士のことを思い出し、エルスの笑みが凍りついた。



     数年前、かつて二人が北方にいた頃。
    「戦場でワシが怖いのはな、エルス」
    「エドさん、戦場行かないじゃないですか」
     それは指導の合間に交わされた、他愛ない会話だった。
    「話の腰を折るな、バカモン。まあ、戦場で怖いのはじゃな、『お膳立てが整いすぎている』ことじゃな」
    「はあ……?」
    「考えてもみなさい。自分の思い通りにならん敵地の真っ只中で、妙に敵がいない。妙にすんなり進める。妙に目標物に近づける。こんな状況を、怪しいとは思わんか?」
    「まあ、そう言われてみると、それは怪しいですね」
     エルスの答えに博士は深々とうなずき、こう続けた。
    「こんな時は、逆に警戒すべきじゃ。安心しきったところを陥れる、卑劣な罠が張り巡らされとるかも知れん、と」
    「はは、そんなことがあったら気を付けることにしますよ」



    (よくよく考えたら、思い通りに行き過ぎる。
     雨対策はともかくとして、西からは敵が来ないで東からだけ来ると思ったら、本当にその通りになった。これ、もっとよく考えてみたらおかしいじゃないか。
    『移動法陣』が使えるんだったら、東だけじゃなく、例えば東西南北全面に出入りできるポイントを作って一挙に攻めるような、もっと効果的で圧倒的な戦術だって立てられたはず。なのに何故、一ヶ所からだけ攻めるなんて言う『ぬるい』方法を執ったんだ?
     もしかしてこれは、注意と兵、物資を一ヶ所に集めさせて、別方向から攻撃、もしくは固まった兵を一網打尽にする作戦では……!?)
     エルスの顔から笑顔が消える。
     同時に司令室の扉が開き、困った様子の給仕が顔を覗かせた。
    「あ、あの。先程仰っていた方、やっぱりいらっしゃいませんでした。同僚も、見たことが無いと」



     東門の裏でしきりに指示を送っていたリストが、声をからして叫んでいる。
    「ホラ、もっと撃つ! もっと弾バラ撒く! ボサッとしてるとアタシが頭、撃ち抜くわよ!」
     辺りは硝煙が立ち込め、雨の湿気と相まって、まるで濃霧の中にいるような状態だった。
    「ソコ、弾幕薄い! 何やって……」
     リストはもう一度活を入れようと、怒鳴りかけた。
     だが、辺りが妙に静まり返っていくことに気付く。
    (……妙ね? 銃声が少な過ぎる。サボりにしたって、こんな一斉に……?)
    「ちょっと、ソコ……」
     声をかけようとしたところで、リストは何者かに腕をつかまれ、口を布でふさがれる。
    「な!? 何の、つも、り……、よ……」
     口に押し当てられた布に何らかの薬が染み込んでいたらしく、リストの意識は急激に薄れていく。
     間も無く、門周辺からは一発の銃声も聞こえなくなった。

     その異変に、晴奈も気付いた。
    「……!? リスト、どうした!? 援護してくれ!」
     大声で叫ぶが、リストの声が返ってこない。銃と言う援護を失い、連合軍と焔剣士たちは次第に押され始めた。
    「くそ、退却だ! このままでは……」
     晴奈が命令しようとしたその時、ドドドド、と低く重たい音があたりに響く。
     途端に、晴奈の脳はがくんと揺れた。
    「……!?」
     耳の奥で、低い爆音が幾重にも渡って反響する。
    「これ、は……、あの、ま、じゅつ、……?」
     晴奈の脳裏に一瞬、4年前英岡で妖狐と戦った時の体験が浮かぶ。
     だが、次の一瞬で意識が飛び、何が起こったのか把握できないまま、晴奈と焔剣士、連合軍、そして――敵方の教団員たちまでもが、その場に倒れ込んだ。
    蒼天剣・神算録 7
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第110話。
    怒りの空中コンボ。

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    8.
     あの黒い猫獣人に惑わされたと気付いたエルスは、天玄館にいた兵士を半数引き連れて東門へと急いだ。
    (何てことだ……! こんな罠に引っかかるなんて!)
     だが、時は既に遅かった。
    「これは……!」
     覆いのほとんどが割られ、地面に落ちた銃や、箱に収まったままの銃弾はずぶ濡れになっている。門も破られ、その向こうにいるはずの兵士、剣士、さらには教団員までもが、どこにもいない。
    「何が、どうなっているんだ?
     ……みんな、警戒してくれ! まだ敵がいるかも知れない!」
     エルスの指示に従い、兵士たちは武器を構えて周囲を見回す。
     と――。
    「あら、大将さん直々にいらっしゃったのね」
    「君は……!」
     エルスの前に、黒ずくめの猫獣人が現れる。頭巾の隙間からわずかに見えた目には、眼鏡がかけられている。
    「その声、……さっきの『猫』さんかな」
    「動かないで!」
     エルスが構えようとしたところで、「猫」が牽制する。
    「下手なことをすれば、彼女がどうなっても知らないわよ」
    「彼女……?」
    「猫」がパチンと指を鳴らすと、彼女同様黒装束に身を包んだ者が数名現れる。そしてそのうちの一人が、青い髪の少女を抱きかかえている。
    「リスト!」「動かないでって言ったでしょう!」
     エルスが叫ぶと同時に、エルスの足元に何かが突き立てられる。
    「わ、……っとと」
    「猫」は両手に長細い、短剣のようなものを何本か持っている。
    「苦無(くない)か。随分珍しい武器を使いますね、サクミさん」
    「え?」
    「猫」が驚いたような声をあげる。その様子を見たエルスの顔に、久々に笑顔が戻る。
    「当たり、ですか。紅蓮塞で、色々と調べ物をしたんですよ。
     その中で見つけた『竹田朔美』と言う猫獣人が、当時20歳そこそこ。多分、シノハラと一緒に出奔したでしょうし、こないだ出くわしたシノハラと同じような服装だ。さっき確認した素顔も30代半ばに見えたから、年齢的にも合う。
     だから多分、あなたがサクミさんなんだろうなと予想しました」
    「ご明察。随分頭が回るようね。でも今回ばかりは下手を売ったわね、大将さん」
     自分の素性を看破された「猫」、朔美は、エルスをあざけるような口調で応じる。
     エルスは普段通りの笑顔を浮かべ、自己紹介した。
    「エルスです。エルス・グラッドと言います、僕の名前」
    「そう。じゃあエルスさん、本題に入りましょうか」
     朔美はエルスにしゃなりとした歩調で近付きながら、話を切り出す。
    「単刀直入に言うわ。天玄と黄海を明け渡しなさい。それからあなたは、央南から出て行って。それともう一つ、黄晴奈、黄明奈姉妹を我々に引き渡して」
    「呑まなければ?」
    「ここで死んでもらうわ、みんな」
     朔美の言葉と黒装束たちの威圧感に、周りの兵士は皆、ぶるっと震える。
     だがエルスだけは、ニコニコと笑うだけで動じない。
    「そっか。うーん」
    「悩むような話じゃないでしょ? この子の命が惜しかったら、言う通りになさい」
    「うーん」
    「牛歩戦術のつもり? さっさと答えなさい」
    「うーん」
    「……わたしをバカにしてるの? いい加減にしないと、本当に殺すわよ」
    「うーん……、じゃあ、答えはこうだ」
     眼前まで迫り、苦無を振り上げた朔美に対し、エルスはウインクする。
     そして次の瞬間、エルスの姿は消えた。
    「……!?」
     朔美は目の前で消えた相手を探し、辺りを見回す。
    「いやー、呑めないもん」
     エルスの飄々とした声と共にドゴ、と言う音が響く。
    「僕、央南から出たら結構まずいんですよね。央中だと教団に狙われるし、央北はきな臭くて何に巻き込まれるか分かったもんじゃないし」
     今度は二連続で、ドゴ、ドゴと音が鳴る。朔美が黒装束たちの方へ振り返り、3人足りないことを確認する。
    「それにセイナもメイナも大事な友人です。友達を売るなんて僕にはできませんよ」
     ようやくエルスの姿が現れる。と同時に、リストを抱えている者の隣にいた黒装束が吹き飛び、近くの建物にドゴ、と音を立ててぶつかった。
    「テンゲンとコウカイを売るなんて言うのも、論外。僕を信じて兵隊を貸してくれた街を、僕の一存でホイホイ渡したりなんかできませんって。
     だから答えは、全面的ノー。でも死にたくも無いし、リストを死なせたくも無い。だからこうして、人払いをさせてもらいました。
     さあ、残るは君と、サクミさんだけ。今ならまだ、笑ってすましてもいいですけど。どうされます?」
     にっこりと笑いかけたエルスに、朔美は舌打ちする。
    「チッ……、予想外だったわ。まさかうちの子たちが、こんなあっさりやられるなんて。……でも、引き下がらないわよ、わたしも」
     朔美はくい、とあごをしゃくり、残った黒装束に逃げるよう指示する。黒装束は短くうなずき、エルスに背を向けて走り出した。
    「待て!」「こっちの台詞よ!」
     ヒュンと音を立て、エルスのすぐ横を苦無が飛んで行く。
    「足止めさせてもらうわよ、エルスさん」
    「……いい加減にした方がいい」
     エルスの笑みが、また消えた。

     エルスは顔をくい、と朔美に向ける。
    「僕はしばらく、怒ったことが無いんだ。だから、自分の怒った顔がどんなだったか、思い出せない」
    「何を言ってるの?」
    「サクミさんは、見たいの? 僕の怒った顔を」
     エルスは淡々と語りかける。
    「……!?」
     エルスを見た途端、朔美の体が震え出す。
     普段はヘラヘラと笑っている分細まり、滅多に見ることのできないその開かれた目に射抜かれただけで、朔美は言葉を失った。
    「僕にとってセイナやメイナは友達だけど、リストはもっともっと大事な子なんだ。彼女に手を出す奴は……」
     エルスの姿が、また消える。
     と同時に、朔美の体が通常ではありえないほどくの字に折れ曲がり、空中に浮き上がった。
    「げ……ッ!?」
     朔美は血を吐きながら、宙を舞う。
    「僕が許さない」
     宙を浮いていた朔美の体が、もう一段上に跳ね上がる。
    「ぐは……!?」
     初弾で朔美をはねたエルスが、空中でもう一度攻撃したのだ。
     二度も強烈な打撃を喰らい、血の雨を撒き散らしながら宙を舞う朔美は、全身の骨をギシギシと軋ませて、さらに空高く飛んで行く。
    「や、やめ、てぇ……」
     絞り出すような朔美の声が聞こえてきたが、憤怒に任せたエルスの攻撃は止まらない。
     雲の切れ間からうっすらと伸びた月の光に照らされたエルスと、今にもひっくり返りそうになっている朔美の目が合った。
     エルスの顔はまるで、鬼神のような形相をしていた。
    「い、いや……、嫌ーッ!」
     朔美の絶叫は、地面に叩き落されるまで続いた。



     雨に打たれる感覚が無くなる。
    (雨が、やんだのか……、いや……)
     後ろの方ではまだ、雨音が聞こえている。
    (誰だ……、私を、どこへ……)
     誰かが腕と足をつかみ、どこかに引きずっていく。晴奈は抵抗しようとするが、体に力が入らない。
    (何者だ……)
     自分を運んだ者たちは何も言わず、どこかに去っていく。
    (これは……、何が……、……背中、と、腕に、何か、当たっている……)
     ひどく重たいまぶたをこじ開け、辺りを伺う。
    (……人? 私の、周りに、人が……)
     背中の感覚と、ひどく狭まった視界で、横になった人間が数名いることを把握する。
    (ここは……、馬車か? 運ばれる……? 一体、どこへ……)
     そこでまた、晴奈の意識が遠くなった。

     先程まで戦場だった門前から、黒い幌を付けた何台もの荷馬車が、静かに動き出す。
     後には誰も、いなくなった。

    蒼天剣・神算録 終
    蒼天剣・神算録 8
    »»  2008.10.10.
    晴奈の話、第111話。
    篠原の過去。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     まるで滝のように降り注いでいた雨は、夜の半ばに差し掛かった頃、唐突にやんだ。
     夜空は急速に晴れ渡り、風がまた、激しく吹き荒ぶ。水気をたっぷりと含んでいた空気は、北へと流れていった。

     天玄北にある天神湖。その周囲三方をぐるりと囲む小さな山、天神山の中腹で止まった黒い荷馬車から、黒い頭巾を被った者たちが数名降りてくる。
    「やあやあ、ご苦労様でした」
     彼らの前に天原が現れ、嬉しそうに尻尾を揺らしながら、彼らに近付く。
    「……」
     黒頭巾たちは一言も発さず、天原の前に並んで直立する。最後に荷馬車を降りてきた、痩せ型の短耳――篠原だけが、天原に応える。
    「殿、お申し付けの通り、東門にて交戦していた者をすべてこちらまで運び出しました。
     処分は如何になさいますか?」
    「そうですねー、半分は実験室横の倉庫に監禁、残り半分は『売る』用に、第3地下倉庫に押し込んどいてください」
    「殿、それではワルラス卿から怪しまれるでしょう。800人動員しておいて、一人も戻ってこないと言うのは……」
     篠原の指摘に、天原は腕を組みつつ言い訳を考える。
    「んー、まあ、ワルラス台下には『意外に相手が粘って、共倒れになった』とでも言っておきましょう。あちらへの報告は全滅とでも」
    「いや、しかし。一人も残らないのは、流石にいぶかしがられるかと」
     篠原の反論に天原は一瞬顔をしかめるが、間を置いて「そうですね……」とうなずく。
    「じゃあ、使い物になりそうも無い、重体の人だけ台下に返しておきますか。それなら納得もされるでしょう」
    「……承知いたしました」
    「よろしくお願いしますよ。
     ……ウフフ。台下には悪いですが、これだけ実験材料が集まればホクホクと言うものですよ。敵方と合わせて、およそ1000人! そのうち半分の500人を、やりたい放題いじくり回せるわけですよ!
     しかも、これまでは『あの組織』からずーっと人を買ってばっかり、失敗作を処分してもらってばっかりでしたが、今回は残り半分、500人を大量に売りつけることができますからねぇ。僕はより良い顧客と見られ、今後もっといい条件で売ってもらえるようになるでしょう」
     天原は嬉々とした口調で、捕まえた者たちの処分――人体実験と人身売買について語り出す。篠原はできるだけ無表情で聞いていたが、内心は始終、天原に毒づいていた。
    (この下衆、外道が……ッ! 人間を何だと思っているのだ!)
     篠原は改めて、この主人と己が相容れないことを実感していた。



     朔美と共に紅蓮塞を離れてからの2年、篠原は不遇の日々を過ごしていた。
     免許皆伝こそすれ、家元に刃を向けた謀反人である。大っぴらに焔流を名乗ることはできない。かと言って新たに剣術流派を立ち上げても、まったくの無名であるし人は集まらない。
     それでもどうにか十数名の弟子を取ることはできたが、皆貧しく、名のある流派に入ることを許されなかった未熟者たちである。金も力も無い者ばかりが集まり、篠原一派はますます困窮した。
     そこに現れたのが、藤川であった。

    「篠原、聞いたぜ……。お前、随分左前になっちまったそうじゃねえか」
     片腕を無くしているため、藤川は左手で握手してきた。篠原がその手を握るなり、藤川は篠原をなじった。
    「俺の腕を斬って、家元に刃向かってまで得た人生がそれか?
     情けねえたあ、思わねえのか?」
    「黙れ、藤川。お前如きに、俺の生き方は分かるまい」
     胸を反らし、手を払いのけて突っぱねようとする篠原に対し、藤川は馬鹿にしたようにニタニタと笑う。
    「そりゃ、分かるもんか。落ちぶれたお前と違って、俺は絶頂なんだからよ」
    「……何だと?」
    「実はな、俺は今あるお方の隠密をしている。片腕でちと衰えたとは言え、俺の『霊剣』がここで非常に役立ってんだ。
     どうよ、篠原? ちっとばかし、俺と話をする気はねえか?」
     一派の資金繰りと働き口に困っていた篠原は、藤川の話を聞くことにした。
     藤川も塞を離れた後、半年ほど流浪の日々を送っていたと言う。知り合い筋を回り、片腕の自分でも就ける仕事は無いかと探していたのだが、そこで秘密裏に、天原桂の母であり、当時の当主であった天原篠からの声がかかったのだ。
    「音も無く敵を討ち、妖怪や霊魂のごとく斬り進む、これぞ『霊剣』の極意。……ってな評判が受けて、俺は天原御大に気に入られた。
     あの方も政界の大物だからな、要人暗殺の人手がほしいってことで、俺が選ばれたんだ」
    「暗殺だと!? 藤川、正気か!?」
     うろたえる篠原を見て、藤川はケタケタと笑い出す。
    「正気も正気、まっとうな人間だよ俺は。
     こう見えても表では、悠々自適に暮らしていられる。仕事が無い日は昼まで寝て、のんびり庭いじりができる。庭いじりが終わったらダラダラ市場に出かけて、娘のために人形やオモチャを2、3個ホイホイ買って帰れる。ついでに酒も買って、夜まで呑んで、またぐっすり、たっぷり眠れる。
     正直な話、最近じゃあお前に腕斬られて、却って良かったって気までしてきてるんだぜ、ケケケ」
    「何を馬鹿な! そこまで堕したか、藤川!?」「ああん? 何寝ぼけてやがる、篠原」
     藤川はニヤニヤと笑いつつ、さらに自分の暮らしぶりを語る。
    「他にも、彼女から見合いだの家だのも勧められてな。表向きは、本当に夢みたいな生活ができる。まあ、裏ではちと汚いことしなきゃなんねえが、本当に美味しい商売だぜ、これは。
     なあ、篠原。お前、困ってるんだろ? 金は無い、名声も無い、おまけに仕事の口も無いと来てる。キレイゴト、言ってる場合か?」
     藤川のこの言葉に、篠原は折れた。
    蒼天剣・霊剣録 1
    »»  2008.10.12.
    晴奈の話、第112話。
    利用する者、される者。

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    2.
     藤川の紹介で、篠原一派は天原家の当主、天原篠と会った。
    「まあ、これはなかなかの傑物ね。お強そうだこと」
     それが篠原と対面した時の、篠の第一声であった。篠原とその一派はすぐに、篠の隠密として召し抱えられることになった。
     篠原の正直な感想として、篠の下での生活は非常に過ごしやすいものだった。当時の政局が安定していたせいか、思っていたよりも汚い仕事はせずに済んだ。せいぜいが篠に隠れて行われている会合、会議の盗聴、もしくは天玄を離れた要人の尾行、監視と言った内容で、篠原は己の剣を汚さずに済んだと、胸を撫で下ろしていた。
     天原桂の監視をするまでは。



    「龍明さん。折り入って、ご相談があるのです」
     篠から「内密に、早急にお願いしたい件がある」と伝えられ、篠原は篠の元を訪れた。
    「息子の桂が、最近頻繁に天玄を出入りしているのです。
     最初は大学院の関係かと思っていたのですが、つい先日学校の方から『姿を見せていない』と連絡を受けまして、不審に思ったのです。
     しかし、大変な変わり者ですが自分の息子には変わりありませんし、あまり露骨に問いただすのもどうかと思いまして、こうして龍明さんに来ていただいたのです」
    「はあ……」
     篠はためらいがちに、用件を伝える。
    「ですのでしばらくの間、桂を監視してほしいのです。
     素性の良くない者とみだりに会い、それでもしも感化されるようなことがあれば、天原家の恥になります。そうならないように、桂の動向を陰で見ていていただけませんか?」
    「ふむ……。何故、某に?」
    「英心さんには現在、私の弟夫婦を監視してもらっています。こちらも少し、怪しげな動向が見られたので……。他に手が空いている者もいるのですが、桂には顔が割れております。
     ですので入って間も無い龍明さんにしか、お頼みできないことなのです」
    「なるほど。……承知いたしました、殿」
    「よろしくお願いします、龍明さん」

     結論から言えば、篠の予感は的中していた。
     篠原は朔美と協力し、桂が天玄の南東にある小さな街、柳丘に出入りしていることを突き止め、その後を追った。
     そして桂がとある喫茶店で黒髪の「狼」と面会する様子を、二人は天井裏から密かに観察していた。
    「あれは誰だ?」
    「あの黒い僧服、そして紋章。間違い無いわ、あれは黒炎教団の者よ」
     会っていた相手は、当時から既に教団の権力者であったワルラス卿であった。
    「何故、央南のこんなど真ん中に、黒炎の者が? それに何故、桂さまと話を?」
    「分からないわ。もう少し詳しく、話を聞いてみましょう」
     二人は聞き耳を立て、会話の内容を盗み聞く。
    「本当に感激です、ウィルソンさん。僕の論文をこんなに評価してくださるなんて」
    「いやいや、当然の評価ですよ。むしろ、この内容を理解できず、でたらめな酷評をする教授の方がおかしい」
    「へへ、恐縮です……」
     当時の桂はまだ28で、今のように偏執じみた言動は見せていなかった。魔術研究が大好きな、まだまだ常識のある変わり者でしかなかった。
    「実はですね、アマハラくん。君の頭脳と魔術に対する深い理解力を見込んで、お願いがあるのです」
    「お願い、ですか?」
    「ええ、私たちの教団のことはご存知でしょう? 黒炎様から多数の経典、教本を賜り、その通読、実践にいそしんでいるのですが、一つ、解釈が困難なものがありましてね」
     そう言ってワルラスは懐から一冊の本を取り出す。
    「読んでみてください」
    「は、はい。……むむ、これは、……なかなか」
     教本を開いた桂は深くうなり、しきりに眼鏡を直しつつ読み始めた。
    「……ふむ。……へぇ。……嘘だろ!?」
    「いえいえ、黒炎様は嘘や冗談がお嫌いな方です。ここに書いてあるのは紛れも無い真実、……のはずですが、どうにも納得が行かない箇所がありまして」
    「なるほど、そこを解明したいと。……少しお時間をいただいても、よろしいでしょうか?」
    「ええ、構いません。どれくらいかかりますか?」
    「そうですね……、半月、いや、1週間で」
    「分かりました。それではまた次週、この場所で」
     ワルラスは一礼して席を立ち、桂を残して店を出て行く。
     残った桂は、嬉しそうな笑い声をあげていた。
    「……ウフ、フフフフ」

     その後も何度か桂とワルラスの会話を盗聴し、篠原たちはワルラスの意図を見抜いた。
     ワルラスは黒鳥宮に納められている貴重な教本、魔術書を交換条件として、桂に天原家の家督を継ぐよう指示していたのだ。
    「ワルラス卿は央南への布教を任されているらしいの。桂さまに近付いたのはきっと、彼を傀儡として央南の実権を握るためよ」
    「央南の実権? どう言うことだ、朔美」
    「天原家の家督を桂さまが継げば、自動的に政治地盤も彼のものになるわ。そう、政界の重鎮である篠さまの権力がそのまま、桂さまに移るのよ」
    「ワルラス卿の狙いはそれか……!」
     朔美はため息をつきながら、その後の政局を予想する。
    「篠さまは既に齢60を越えている。恐らく、寿命はあと10年ほどでしょうね。その後桂さまが天原家を継ぎ、連合の主席に収まれば、後はワルラス卿の思い通りに央南を動かせるわ。
     まさに暗黒の時代の到来、ね」
    「そんな馬鹿なことが起こると言うのか!? 焔流が必死で、西の端でせき止めてきた黒炎の勢力が、そんなに易々となだれ込むと言うのか!」
    「起こりうるわ。あのワルラスと言う男、相当にしたたかで強運よ。よくもまあ、これほど都合よく『役立つ操り人形』が現れたものね」
     朔美の桂に対する表現に、篠原は顔をしかめる。
    「朔美、いくらなんでもその言い方は」
    「間違って無いわよ。あのお坊ちゃんは自分のやりたいことしか眼に映らない愚物。
     もしわたしがワルラスなら、『自分の野望を満たす美味しい獲物』にしか見えないわね」
     言い切ったところで、朔美は腕を組んだ。
    「……わたしが、ワルラスなら、……ね」
     何かを考えだし、沈黙が流れる。焦れた篠原が尋ねてみたが、朔美は何も答えなかった。

     その時はまだ、朔美は「このことはしばらく、篠さまには内緒にしましょう。わたしに、考えがあるの」としか言わなかった。
     朔美の頭の良さを良く分かっている篠原は、素直に朔美の言うことに従い、そのまま結論を待つことにした。
    蒼天剣・霊剣録 2
    »»  2008.10.13.
    晴奈の話、第113話。
    英岡妖狐事件の発端。

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    3.
     桂の監視を始めてから2ヶ月が経った頃、ようやく朔美は篠原に結論を述べた。
    「わたしたちもワルラス卿に乗っかりましょう」
    「な、何っ!?」
     朔美は驚く篠原をなだめ、計画をそっと伝える。
    「ねえ、あなた。もしこのまま桂さまが主席になり、ワルラス卿の傀儡政治が始まったら、央南は滅茶苦茶になるわ。
     このまま桂さまを放っておく? それとも大義のために消す?」
     篠原はこの提案をすぐにはうなずけず、逡巡する。
    「む、う……」
     その戸惑いも見越していたらしく、朔美がたたみ掛ける。
    「そして、もう一つ考えがあるの。桂さまはあの通り、浮世離れした人よ。きっと天原家の財産も有効に使えずに食い潰してしまうわ。
     央南政治に深く関わり、長く良く治めてきた天原家の清浄な家督を、こんな馬鹿殿がでたらめに使って崩していくことを考えたら、もっと良識ある、大義ある人間が使った方が良くないかしら?」
    「それは、まあ、そうかも知れんが」
     篠原は朔美の論じていることが詭弁であると分かってはいても、反論できない。
    「分かるでしょ? このまま桂さまを放っていてはきっと、央南の汚点になるわ。だからわたしたちもワルラス卿の策略に加担して、桂さまを消しましょう。
     そしてゆくゆくは天原家の財産も吸い取って、わたしたちが取って代わりましょうよ」
    「……むう」
     反論したいが、篠原の弁舌では朔美に到底敵わない。篠原は結局、朔美の策に同意した。

    「桂さま……」「ひゃっ!?」
     篠原と朔美は、桂が研究室として使っている別宅に忍び込んだ。
    「だ、誰です!?」
     目を白黒させている桂に対し、篠原たちは静かに自己紹介を行う。
    「某、天原家隠密の篠原と申します。そしてこちらは、妻の朔美です」
    「はじめまして、桂さま」
     続いて二人は、篠が桂の調査を頼んでいたこと、そしてその関係でワルラス卿と密会したのを確認したことを説明した。
    「そ、そうですか。えっと、じゃあ、あの、僕のことを、母上に報告なさるんですか?」
    「その件で、お話にあがりました。
     忌憚無く意見いたしますが、恐らく数年のうちに篠さまは倒れ、あなたか、弟の櫟さまが次の当主になるでしょう」
    「ええ、まあ。多分そうなるでしょうね」
    「我々はそれを見越し、先んじて桂さまにお目通り願いたく参上いたしました」
     篠原の目的を聞いた桂はきょとんとする。
    「へ? えっと、じゃあ、母上が亡くなった後、僕の下に就いてくれる、と?」
    「その通りでございます」
     それを聞いて一瞬、桂の顔がほころぶが、すぐに曇る。
    「でも、無理ですよ。櫟の方が、政治に詳しいですし。人当たりもいいですから、間違いなく次の当主はあいつになります。僕に就いてくださっても、きっと無駄になっちゃいますよ」
    「ええ、皆そう思っているようです。同僚の藤川を筆頭として、彼の派閥は既に櫟さまに取り入っております」
     そこで朔美がうつむいた桂の横に立ち、やんわりと、しかし桂の不利をごまかすことなく、話を続ける。
    「でしょう? だから僕になんか……」「ですが、もしも櫟さまがいなくなれば一体、どうなるでしょうか?」
     桂は顔を上げ、目を見開く。
    「それは、どう言う……」「そのままの意味です。櫟さまには、いなくなっていただきましょう」



     それから数ヶ月が過ぎた頃、天原家で事件が起こった。
    「英心さん! 龍明さん! 櫟が、櫟がどこにもいないのです!」
    「な、何ですって!?」「それは一大事ですな、殿」
     驚き、二の句が告げない藤川に対し、篠原は平然を装って、篠に尋ねる。
    「確か今、櫟さまは天玄を出ておられると伺っておりますが」
    「ええ、ゆくゆくは私の後を継がせようと考え、央南各地を遊説させておりました。
     ですがつい先程、大月から『到着予定日を過ぎても一向に現れない』との連絡が入り、ここでようやく行方不明になったことが発覚しまして……」
    「じゃあ、大月へ行く途中で誘拐されたか、あるいは失踪したか……」
     藤川の顔色は真っ青になっている。
     その様子を横目で眺め、篠原は朔美が言っていたことを思い返す。
    (『藤川は既に櫟さまへ取り入っている』と言う話は確かなようだな)
    「何か手がかりは無いんですか?」
     その藤川の問いに、篠は力無く首を振って返す。
    「それが、まったく……。
     英心さんも、龍明さんも、急いで櫟の捜索を行ってください。もしあの子がいなくなれば、私は……!」
     そう言って、篠は顔を覆った。

    「ほ、本当に、やっちゃい、ました、ね」
     桂は始終、震えていた。
     目の前には袋を被せられ、その上から縄で幾重にも縛られた桂の弟、櫟が座っている。
    「うう、うー」
     櫟が何か言おうとしているが猿ぐつわを噛ませてあるため、彼はうなることしかできない。
    「藤川は大月への途上で誘拐されたと判断し、現在その方面を探し回っています。
     ここに櫟さまがいることには、まったく気付いていないかと」
     篠原の報告に桂は一瞬安心した表情を見せるが、すぐに不安な目つきで朔美に尋ねる。
    「そ、そうですか。……どうしましょう?」
    「どうしましょう、とは?」
    「櫟を、この後どうしておけばいいんでしょうか? このまま放っておくわけにも」
    「ああ、そうですね。それじゃ、殺しましょう」
    「ちょっ」「うぐっ!?」
     怯える桂と櫟を見て、朔美はクスクスと笑う。
    「嫌だ、と?」
    「そりゃそうですよ! じ、実の弟ですよ!?」
    「でも、このまま置いておくわけにも行きませんよ。殺すか、口を利けなくしないといけませんよ」
    「そ、そうですよね。
     ……じゃ、じゃあ。殺す代わりに、あの、実験台に……。それなら、殺すわけじゃないし、まだ、その方が……」
    「では、そうしましょう。ちなみに、どんな実験を?」
     桂はうつむきがちに、しかし――どこか楽しそうに、ぼそっと答えた。
    「に、人間を、その、人間以外の、……何て言うか、怪物にすると言うか、そんな実験です」
    蒼天剣・霊剣録 3
    »»  2008.10.14.
    晴奈の話、第114話。
    伏線の交差。

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    4.
    「畜生、見つからねえ!」
     藤川とその手下たちは天玄から大月へと伸びる街道を何度も行き来し、櫟の行方を探り回っていた。
     しかし連日の捜査にもかかわらず、成果は一向に上がっていなかった。
    「見たってヤツはいねーのか?」
    「街道沿いの町村をしらみつぶしに当たってみましたが、それらしい報告は一件も……」
    「くそ……」
     手がかり一つ得られず、藤川は頭を抱えてうなる。
     手下たちは心配そうに、そんな藤川を見つめていた。
    「どうしましょう、お頭。このまま櫟さまがいなくなってしまうと……」
    「バカ言ってんじゃねえよ、まったく! そんな簡単に、いなくなられてたまっかよ。
     大月で見たって言う話も無かったのか?」
    「はい。見た者はいませんでした」
    「そうか。……もしかしたらよぉ」
     藤川はあごに手を当てて無精ひげをこすりつつ、推測を口に出す。
    「ハナっから大月にも、この街道にも来てねえのかも知れねえな」
    「と、言いますと?」
    「櫟坊ちゃんは天玄でかどわかされたかも知れねえ、ってことだ。一度天玄に戻って探してみようぜ」
    「承知!」
     藤川と手下たちは踵を返し、天玄へと戻っていった。



    「僕が今手がけている研究、最初はこの本がきっかけでした」
     そう言って桂は一冊の本を机に置いた。
    「これは?」
    「クリスとか言う『狐』の商人から買った本です。初めて読んだ時はドキドキが止まりませんでした、本当に。
     魔術、いや、錬金術の究極の夢が、具体的な形で描かれていたんですからね」
    「どう言う意味ですか?」
     朔美が尋ねた途端、桂の顔が非常に嬉しそうにほころぶ。
    「命を、命を創れるんですよ! 人形でも、そこらの木や岩でも、命を与えて人間にできるんです! 今までこの、究極の術を実現できた者は一人もいません!
     そう、あの『黒い悪魔』克大火でさえも! 彼にそんな伝説は一つも無いんですからね!」
     桂は上気した顔で、自分の発見を語る。
    「でもですね、カミサマが知らないような術だとは言え、やっぱり錬金術の原則『公平にして絶対』の、あの法則は成り立ってました。何かを代償にしないと、命を創れないんだそうです。
     その商人には義理の娘がいたんですが、何でも昔、どこかの古美術商が、その子を人形から創り上げたとか――その子が元は人形だったって証拠も、見せてもらいましたよ――でも、その古美術商は代償を定めなかったせいで、自分が人形になってしまい、死んでしまったとか。
     ともかく、この本は本物でした。試しにほら、このねずみを代償にして……」
     そう言って桂は、机に置いてあったねずみの置物を手に取る。
    「まあ、どう見てもこれは置物ですけど。でも、こっちを見てもらえば……」
     桂は一旦部屋から離れ、すぐに籠を持って戻ってきた。
    「……!」「うそ、そんな……」
    「元が懐中時計だったからでしょうか。この『ねずみ』、毎日きちっと同じ時間にエサをねだるんです。可愛いでしょ?」
     籠の中には鎖の尾を振りながらカチカチと音を立てる、真鍮色のねずみがちょこんと座っていた。
     驚く二人を見て、桂の魔術講義はいよいよ熱を帯び始める。
    「それで、他の術も色々試してみたんですけどね。これだけはまだ、試してなかったんですよ」
     桂が指し示した頁を見るが、篠原も朔美も、その内容が把握できない。
    「えっと……?」「何と書いてあるのです?」
    「ああ、すみません。えーとですね、そのまんま約すと『人間を人間から外す呪』」
    「……?」
     きょとんとする二人を見て、桂は嬉しそうに笑う。
    「簡単に言うと、人間を怪物に変える術、です」
    「それを、櫟さまに試すのですね」
    「……はい。殺すよりは、まだいいかなって」
     桂はまたうつむき――しかし、どこか嬉しそうな表情をして――本を手に取った。



    「お頭! やはり、櫟坊ちゃんは天玄でさらわれた可能性が高いようです。店や市場を探ったところ、行方不明になったと思われる日の前後、何人かに目撃されていました。
     その一方で、街の外で見たと言う者は一人も無く……」
     手下の報告を聞き、藤川は無精ひげを撫でながらため息を漏らす。
    「はー……。そっか、やっぱり俺の勘に間違いは無かったか。で、どの辺りで見かけたか、聞いてるか?」
    「はい。南区の赤鳥町で目撃されたのが、最後でした。恐らく、その近辺で行方不明になったものと」
    「よっしゃ! それじゃ全員戻ってきたところで、赤鳥町をしらみ潰しに探すぜ!」
    「承知! ……っと、もう戻ってきてますよ、お頭」
    「おう、そっか。
     ……全員って言やあ、篠原のヤツは何してやがんだ? 殿から俺と一緒に探すよう、命じられてたはずなんだがな」
     そう言って、藤川がイラついた様子を見せたところで――。
    「どうした、藤川?」
     その篠原が、ひょいと藤川たちの輪に割り込んできた。
    「あっ、篠原! てめえ、今まで何してやがったんだ!?」
    「お前たちこそ何をしている。往来でこんなに目立つ集まり方をして、隠密の自覚があるのか?」
    「そりゃこっちの台詞だ! 人が汗水垂らして方々探し回ってたってのに、今頃ノコノコ現れやがって」
     憮然とした顔をする藤川に、篠原は平然とこう返す。
    「我々は我々で、独自に探っていたのだ。なあ、朔美」
    「ええ、今の今まで、ずーっとね」
     篠原の後ろにいた朔美も、何事も無かったように答える。
     そんな二人に、藤川は左手をバタバタと振るいながら悪態をつく。
    「いけしゃあしゃあと、よくもまあ吹かしやがるぜ!
     まあいい、何か手がかりはあったりすんのか?」
    「ああ。この近辺で見たと言う話を、何件か聞いた」
    「そうかよ。まあ、そこら辺は俺たちと同等だな。じゃあ、手分けして探すぜ」
    「おう」
     藤川たちの捜査陣に篠原たちも加わり、数日間をかけて赤鳥町での捜索が行われた。



     だが、必死の捜索にもかかわらず、藤川たちは結局、櫟を見付けることはできなかった。ひどく落胆した藤川と篠に対し、篠原たちは表面上落ち込んだように見せかけつつも、内心では喜んでいた。
     いや――喜んだのは朔美と、桂だけである。篠原は己の主君を苦しめたことを、非常に後悔していた。
    蒼天剣・霊剣録 4
    »»  2008.10.15.
    晴奈の話、第115話。
    真実を告げる手紙。

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    5.
     息子を失った心労からか、篠はがっくりと老け込み、健康を著しく損ねた。そして双月暦507年、失意のうちにこの世を去った。
     篠の存命中、篠の弟である椹(さわら)やその娘、棗などが当主になってはどうかとも提案されたが、どう言うわけか椹は篠が亡くなる2週間前に倒れ、棗もどこかへ雲隠れしてしまった。
     候補者が次々と消え、最後に残ったのは桂だけとなった。



    「ああ、ひでえ有様だ」
     主を失い、次の主君に就きそびれた藤川は、茫然自失の状態となっていた。
     かつては栄華を極めた家も、いつの間にか妻が去り、友人や手下も離れ、すっかり荒みきっていた。残っているのはわずかな金と刀、そして娘の霙子だけとなっていた。
    「くそ……、すまねえ、霙子。お父ちゃんのせいで、こんな苦しくて寒い思いをさせちまって」
    「ううん、いいの。へいきだよ」
     左手に抱える霙子の気遣いに、藤川は思わず涙がこぼれそうになる。
    「……っと、目にゴミ入っちまった。
     ま、しゃあねえか。6年前に逆戻りしたってだけだし、お前がいるだけ俺は幸せ者だ」
     藤川は霙子を抱き上げたまま、玄関に向かう。
    「一から出直しだ。付いてきてくれよ、霙子」
    「うんっ。
     ……あれ、お父ちゃん。おてがみ、とどいてるよ?」
     霙子が郵便受けからはみ出している、白い封筒に気が付く。
    「お? 霙子、ちっと降りてくれ」
    「はーい」
     霙子を腕から降ろし、封筒を手に取る。
    「……あー、と。霙子、封筒開けてくんねえかな。お父ちゃん、手が片方しかねえからよ」
    「はーい。……よいしょっ」
     霙子に封を切ってもらい、藤川は手紙に目を通す。
    「……!? 何だと……、いや……、まさか。しかし、それだと辻褄が合いやがる……」
     手紙を読み、藤川は愕然とする。
    「畜生……! もっと早く気が付きゃあ!」
    「お父ちゃん?」
    「……霙子、ちっとだけ、ここで待っててくんな。お父ちゃん、やんなきゃなんねえことができたからよ」
     藤川は霙子を玄関に待たせ、どこかへと走り去っていった。
    「お父ちゃん……」
     霙子は玄関に捨てられた手紙を手に取り、眺めた。
    「えっと、……かわ……こころさまへ。このようなおて……を……お……しすることをご……、わかんないや」



    「藤川英心様へ

     このようなお手紙を突然お渡しすることを、ご容赦ください。
     わたくしは常々、不安でなりませんでした。櫟おじ様がいなくなり、桂おじ様が増長された頃から、このようなことが起こるのではないかと危惧していたのです。

     先日、父が倒れたことはご存知かと思います。表向きには突然死としておりましたが、実は刀で斬られ、殺されたのです。父の体には手紙が添えられており、『この件を公表すれば、貴様らの命は無い』と書かれていたため、この件を伝えることができませんでした。

     そしてわたくしも、命を狙われております。ついこの前、突然黒ずくめの者たちに囲まれたのです。その際は偶然通りかかった、樫原と言う剣士様にお助けいただき、事無きを得たのですが、いつ何時、同じ目に遭うやも知れません。
     わたくしは樫原様の助言に従い、彼の故郷へと避難することにいたしました。

     わたくしはその黒ずくめの者が何者か、また、櫟おじ様を誘拐したのが何者か、知っているつもりです。
     これらは間違い無く、桂おじ様の仕業でしょう。桂おじ様が抱えている隠密たちがやったことだろうと、確信しております。

     藤川様も篠伯母様に就いていた隠密であると言うことは、重々承知しております。ですが、現在桂おじ様に就いてはいないと言うことも承知している故、このような手紙を出させていただきました。

     わたくしの父、そして櫟おじ様の仇を討って、とは申しません。できる限り早急に、その街を離れられた方がよろしいかと思われます。桂おじ様は間違いなく、篠伯母様の裏を知っている者たちを全員、消すおつもりです。
     娘様ともども、どうかご自愛なさるようお願い申し上げます。

    天原棗より」



    (棗嬢ちゃん、ありがとよ。間抜けな俺も、ようやくからくりが分かった。全部あの、篠原の大バカ野郎の仕業だったんだな。
     くそ……! 俺があいつを呼び込まなきゃ、こんなことにはならなかったってか!?)
     藤川は心中で己をなじりつつ、篠原の家へと向かった。
     だが、その途中で――。
    「藤川英心! 殿のご命令により、お命頂戴いたす!」
     篠原の放った隠密たちが、藤川の行く手を阻む。
    「うるせえ、雑魚どもがッ!」
     しかし片腕とは言え、一時は篠原と並び称された剣の達人である。音も無く刀を抜き、逆手に構え、風のように敵の間をすり抜ける。
    「ま、待て、……ぐはっ!?」
    「逃がすか、……ぎゃあっ!?」
     藤川が抜けた直後、敵はバタバタと倒れていく。
    (音も無く敵を討ち、妖怪や霊魂のごとく斬り進む、これぞ『霊剣』の極意なり、……ってな)
     その後も何度か篠原一派に遭ったが、どれも藤川の敵ではない。
     藤川は一直線に突き進み、ついに篠原の家に到着した。
    蒼天剣・霊剣録 5
    »»  2008.10.16.
    晴奈の話、第116話。
    霊剣V.S.魔剣。

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    「篠原ああッ! 出て来いやあああッ!」
     篠原の家に到着した藤川は、あらん限りの大声で篠原を呼んだ。
    「今、行く。……待っていろ」
     ぽつりと篠原の声が返ってくる。少しして玄関が開かれ、篠原と朔美が姿を見せる。
    「用件は、聞くまでも無いようだな。気付いたのだろう?」
    「ああ、そうだ。……イカれてんのか、てめえ」
     藤川は刀を向け、猛々しく怒鳴る。
    「家元に続いて、篠さまにまで謀反を起こすか、この狂人がッ!」
    「……結果として、そうなってしまったな」
    「何が『結果として』だ!? てめえが櫟坊ちゃんをさらったからこうなったんだろうがッ!」
    「……」
     篠原はうつむき、藤川から目をそらす。代わりに朔美が話し始めた。
    「藤川さん、どうか落ち着いて。これも天原家の、いいえ、央南のためを思ってやったことなのよ」
    「ああん?」
    「藤川さんも知っての通り、天原桂は政治家としては無能よ。でもわたしたちが桂を担ぎ上げることで、わたしたちは桂を、そして天原家、さらには央南政治をいいように操ることができる。その方が、桂が政治を執るよりどんなに……」「朔美ぃ」
     藤川の額に、青筋が走る。
    「それ以上、その良く回る口を開いてくれるなよ? でねーと、二度と閉じられないようにパックリさばくかも分からんぜ?」
     藤川は朔美を突き飛ばし、唾を吐きかける。
    「俺はこの外道と話をしてんだよ! 黙ってろ、雌猫がッ!」
    「……」
     真っ青になっている篠原に、藤川は畳み掛ける。
    「答えろよ、篠原。てめえ、天原家と焔流と俺の人生引っかき回して、何が面白えんだ?」
    「……」
    「大体、昔っからてめえはそうだった。自分ではお行儀が良くてよく気が付く、有能な人間だと思ってんだろうが、周りにとっちゃうっとうしい厄介者以外の何者でもねえんだよ。
     てめえがやってきたことはみんな俺たちの、俺の邪魔にしかなってねえんだよ! 焔流での謀反も、今回のことも、俺にとっちゃ腕を失い、塞を追い出され、主君を失ったって言う凶事中の大凶事だ!
     何が焔流のためだ! 何が央南のためだ! この疫病神め!」
    「……」
     返す言葉も無く、篠原は立ち尽くす。
     と、地面に倒れたままの朔美がぼそっとつぶやいた。
    「あなた、悩んでいらっしゃるのなら」
    「黙ってろって言っただろうが!」
     藤川が怒鳴るが、朔美は構わず言い切った。
    「悩ます人を消してしまえばいいじゃない」
    「……そうする、か」
     篠原は刀に手をかけた。藤川は一歩退き、篠原にもう一度怒鳴る。
    「篠原、てめえは使いっ走りかよ、その女の!」
     篠原は答えず、刀を抜く。
    「自分は悪くない、すべて朔美の指示通りにやっただけです、ってか! 大の男がそんな体たらくで、恥ずかしいたあ思わねえのか!?
     てめえはもう、侍でも剣士でもねえ! 俺が成敗してやらあ!」
     藤川も刀を構え、互いににらみ合った。

     正直なところ、篠原の心は相当参っていた。刀を構え、藤川と対峙するも、心の中は千々に乱れていた。
    (何故……、何故こんなことになっているのだ)
     藤川がゆらりと動き、篠原に迫る。
    (待て、藤川……)
     基本的に、藤川の動きは非常にゆっくりとしたものだが、何故か攻撃の瞬間だけが、目で追えない。
    (こいつの言う通りだ……。俺のやってきたことは何だったのだ?)
     それでも何とか太刀筋を読み、藤川の攻撃を弾く。
    「チッ……! 頭ン中は腐ってるくせして、剣の腕は衰えてねえってか!」
    (思えば俺はひたすら、朔美に踊らされている。家元に反逆したのも、天原家を混乱させたのも、すべて朔美の意志であり、俺のものでは無い)
     また、藤川の動きがつかめなくなる。はっと気が付いた時には、篠原の額から血がダラダラと流れ出していた。
    (俺は、俺は……、何をしているのだ? 一体、何がしたい?)
    「オラッ!」
     藤川がまた刀を振るう。何とか受けるが、篠原の体勢は大きく崩れた。
    (しまった……!)
     藤川がここで、刀を順手に持ち帰る。勝機と見て、とどめを刺すつもりらしい。
    「往生しやがれッ!」
     篠原はこれまでかと覚悟し、藤川が振り上げた刀を凝視していた。

     だが――藤川は刀を振り上げたまま、静止する。
    「……?」
    「て、めえ、この……」
     藤川がかすれた声で何かを言おうとしたが、言葉は途中から血の塊に変わった。
     そのまま藤川のひざががくりと落ち、背中に何かが刺さっているのが見えた。
    「……朔美?」
     二人の後方にいた朔美が、手を伸ばしている。もう一方の手には、長細い投擲武器――苦無が握られている。
    「危ないところだったわね、あなた」
    「とことん……、腐りやがったな……、後ろから襲わせるか……」
     倒れた藤川が、息も絶え絶えに非難する。
    「ち、違う……」「自分は関係、ありません、ってか……?」
     うろたえた篠原を見て、藤川は最期の力を振り絞ってなじる。
    「もう、てめえはおしまいだ……。己の、腕一つで、勝負が付けらんねえ。付く前に、誰かに、助けを、出されちまうほど、情けなく映ったって、こった……。
     改めて、言うぜ……。てめえは、もう、侍、でも、剣士でも、……無い」
     篠原は何も言えず、ただボタボタと汗を流し、棒立ちになっている。それを見ていた朔美が、冷たく言い放つ。
    「まだ息があるわ。とどめを刺してちょうだい、あなた」
     その言葉を聞いた篠原の、最後の良心が揺れる。
    (まただ……! また、朔美は俺を操ろうとしている! いかん! ここでまた言いなりになっては……)「言いなりになってはいかん、と?」「……!」
     朔美は篠原の動揺を見抜き、淡々と言い放つ。
    「ねえ、あなた。生きることは苦しいわよね。何故、苦しいんだと思う?」
    「な、何を……?」
    「自分の行動に、責任が伴うからよ。
     今日やったことが、明日誰かに非難されるかも知れない。そう考えただけで、大抵の人は今日の行いを悩むわ。
     でも、誰にも非難されないと分かっていれば、悩むかしら?」
    「朔美、一体……」
    「それなら、話は簡単じゃない。
     あなたが今、苦しんでいるのは、藤川が責任を追及しているから。そうじゃない? でも彼がいなくなったら、もう苦しまずに済むわよ」
    「う、う……」
    「篠原、聞くな……、そんな、下劣な屁理屈を、納得しちまったら、もはや……」
     死の淵にいる藤川が説得するが、朔美は無視して続ける。
    「これからも、そうしていけばいい。
     苦しいのなら、その苦しみを消せばいいのよ。そうすればずっと、楽でいられるのよ」
    「……」
     篠原はぶるぶると震えながら、いつの間にか落としていた刀を拾う。藤川はそれを見上げ、今にも消え入りそうな声でつぶやいた。
    「もはや、人ですらねえよ……。飼われた獣だ、てめえは」
     篠原は刀を構え、勢い良く振り下ろした。



     いつまで経っても父が帰ってこないため、霙子はべそをかき始めていた。
    「ひっく、ひっく……、お父ちゃん、まだぁ……?」
     がらんとした玄関に、夕日が差し込んでいる。と、その光が2つの影にさえぎられる。
    「……お父ちゃん?」
     霙子が顔を上げると、そこには父の友人だった篠原夫妻が立っていた。夕日を背にし、二人の顔は良く見えないが、声で彼らだと分かる。
    「霙子ちゃん、お待たせ」
     猫獣人の影が、優しげな声で自分を呼ぶ。
    「おばちゃん、お父ちゃんは?」
    「ちょっと、遠いところへ行かなきゃならなくなったの。しばらく、わたしたちと一緒にいてちょうだい」
    「え……?」
    「すまない……」
     今度は非常に疲れきった、低い男の声。霙子は何かあったのだろうと、直感で分かった。しかし何があったのか、聞くことはできなかった。
     二人が死神のように、真っ黒に染まって見えたからだ。

     それからの9年間、篠原一派は天原桂とワルラス卿の背後で暗躍し続けた。
     家督と政治地盤を継いだ桂を央南連合の主席に就かせるために、連合の議員たちをそれと分からない形で足止めし、主席に納まった後もなお、傀儡政治を持続させるために画策した。
     こうして央南連合は9年に渡り、政治腐敗に冒された。
    蒼天剣・霊剣録 6
    »»  2008.10.17.
    晴奈の話、第117話。
    人間の証明。

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    7.
     いつの間にか雨がやみ、白い満月が雲の切れ間から顔をのぞかせる。
     エルスの頭も、ようやく冷え切った。
    「っと、流石にやり過ぎたか。生きてるかな?」
     エルスはぬかるんだ地面に突っ伏した朔美を、少し離れたところから確認する。朔美の半身が沈んでいる泥水が、わずかに波打っているのが見て取れた。
    「生きてる、生きてる。……でも、まだもう一頑張りしなきゃいけない、かな」
     エルスは上を向き、声をかける。
    「そこのお嬢さん。いくらなんでもそこまで殺気を放たれると、スニーキングも何もあったもんじゃないと思うんだけど」
     次の瞬間、月を背にして黒い影が飛び出し、エルスの目の前に降り立った。現れたのは鋭い目をした、短耳の少女だった。
    「あなた、名前は?」
    「人に名前を聞く前に、自分の名前を名乗るのが央南の礼儀じゃ無かったかな?」
     エルスがそう言うと、少女は素直に頭を下げた。
    「ごめんなさい。あたしは篠原、……ううん、藤川霙子」
    「エーコちゃん、か。僕はエルス・グラッドだ。
     その台詞から察するに、君が放っていた殺気は僕に対するものじゃなく、サクミさんに対するものなのかな?」
    「何でそう思ったの?」
     にらむ霙子に、エルスはにこっと笑って返した。
    「紅蓮塞って言うところで調べ物をしていて、今君が名乗った二つの苗字を聞いたんだ。だから、二人の関係が深いことは知っていたんだ。
     で、シノハラとサクミさんが率いている集団の中に、フジカワの姓を名乗る君がいた。これだけで想像力豊かな人なら、気付きもするさ。
     大方、シノハラとサクミさんがフジカワさんを殺して、その娘だった君を養女にした。君はその事件を知っていて、ずっと復讐の機会を狙ってた、……ってところじゃないかな」
     霙子はエルスの顔をじっと見つめ、クスクスと笑い出した。
    「あなた、面白い人ね。……正解。あたしも直接見たわけじゃないけど、間違い無くこの女はお父ちゃん……、藤川英心を殺しているわ。
     お父ちゃんに宛てられた手紙があって、あたしはその手紙を読めるようになるまで、大事にとっておいたの。それで読んでみて、やっぱりって思った。幸いにも、こいつらはあたしが何も知らないと思って、隠密の訓練をつけてくれた。
     あたしはいつか、その技を使って殺してやろうと狙っていたのよ」
     霙子の独白を聞いたエルスは、ポリポリと頭をかいている。
    「そっか。うーん、でも……」
     エルスは霙子の横を通り過ぎ、倒れたままの朔美に近寄る。
    「一応、生かしておかなきゃ。シノハラの急所は間違い無く、この人だし」
    「そうね。確かにそいつはお頭、篠原を操ってきた黒幕。こいつが死ねばきっと、篠原一派はガタガタになるわ」
    「うん、そうだろうね。でも生かしておきたいんだ。色々聞きたいこともあるし」
     エルスはそう言ってチラ、と門の外を見る。
    「後、すごく気になってることがある。門前に異常なほど、人がいない。共倒れになったにしても、死体が無いのはおかしい。
     君たちが連れ去ったのかな?」
    「そうよ。元々から、そう言う計画だったのよ。
     教団員は囮。最初からこの東門に兵士たちを集め、一網打尽にするつもりだったの。常々手を焼いていた手練たちを捕まえて、あなたたちの兵力を一挙に落すのが、ワルラス卿の狙いだった。
     でも、殿の考えは少し違う。教団員も焔剣士も一緒くたにして、自分の実験材料にしようとしているの。強い肉体であればあるほど、実験も成功しやすいらしいから。教団員の中にも、実験の素材になりそうな人は一杯いたし」
     計画を聞いたエルスは苦笑し、腕を組んでうなる。
    「うーん、思っていた以上の狂人ぶりだなぁ。それは一刻も早く、助け出さないといけない」
    「そうね。……良かったら、案内したげよっか?」
    「いいの?」
     思いもよらない提案にエルスは驚いたが、しかしすぐ、その言葉の裏を読む。
    「条件とかある感じかな」
    「ええ」
    「でもサクミさんを殺すって言うのは却下」
     にべも無いエルスの態度に、霙子はむくれる。
    「何でよ? 聞きたいことって、東門のことじゃないの? 教えたじゃない」
    「それだけじゃないし、そう言う問題じゃない」
     エルスは優しく、ポンポンと霙子の頭を撫でる。
    「いいかい、エーコちゃん。彼女を殺したら、君は彼らと同じ地獄に落ちちゃうよ」
    「わけ分かんない。ともかく、あたしはこいつらが許せないのよ。だから殺すの」
     霙子は朔美を指差し、にらむ。
     エルスは依然、笑みを浮かべながら、彼女をやんわりと諭す。
    「親の仇だからって自分勝手に殺しちゃ、必ずどこからか恨みを買うよ」
    「そんなの構いやしないわ」
     霙子の頑固な反応に、エルスは軽くため息をつく。
    「そこだよ、地獄に落ちるって言ってるのは。
     彼らは主君や自分の欲望に任せて人を傷つけた。これは悪いことだって誰もが分かることだし、だから君は許せない。
     だけど同じように、君の欲望に任せて彼らを殺すことは、それとどう違うの?」
    「それ、は……」
     エルスは霙子の頭から手を離し、優しく笑いかける。
    「知恵と理性を持つ真っ当な人間なんだから、欲望や抑圧に負けて、道を踏み外しちゃいけない。道を踏み外せばその末路は、ここで泥まみれになってるこの人みたいになる。
     君は、この人と同じ目に遭いたい? この人みたいになりたいの?」
    「……」
     霙子は応えず、ただ目の前に倒れたままの朔美を見つめていた。
    蒼天剣・霊剣録 7
    »»  2008.10.18.
    晴奈の話、第118話。
    晴奈とウィルバーの共闘。

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    8.
    「……い! おい! 起きろ、セイナ!」
     誰かが体をゆすっている。晴奈は重たいまぶたをこじ開け、その相手を見た。
    「……うう、ん、ウィルバー? ……ウィルバーだと!?」
    「お、ようやく起きた。早いとこ脱出するぜ、ホラ!」
     ウィルバーが無理矢理に、晴奈の腕を引っ張る。
    「何をする! 離せ、無礼者!」
    「目、覚ませって! 早いとこ脱出しねーと、俺たち細切れに解剖されちまうぞ!」
    「……? 何を言って……」
     尋ねようとしたところで、記憶が断片的に蘇ってくる。
    「……む? 確か、私は天玄で、お前と戦っていたはず」
    「そーそー、そうだよ。んで、いきなり誰かが『ショックビート』使って横槍入れやがったんだよ。だからオレたちは気を失って、ここまで運ばれてきたんだ」
    「そう、か。……解剖と言うのは、一体何のことだ?」「しっ」
     ウィルバーが何かに気付き、慌てて晴奈の口を押さえる。晴奈はウィルバーの手をはがそうとしたが、とても真剣な目つきだったため、素直に手を止めた。
     と、二人がいた部屋に薄い光が差し込む。そしてドサドサと言う音と共に、十数名の人間が放り込まれた。
    「はい、次」
    「はいよ」
     少し間を置いて、また人が放り込まれる。光が弱くてよく分からないが、どうやら東門で戦っていた教団員と剣士、そして連合軍の兵士のようだ。
    「後いくつ残ってたっけ」
    「2台分」
     光の向こう側から、ボソボソと声が聞こえてくる。やがて光は途切れ、晴奈とウィルバーはふたたび薄闇の中に取り残された。
     ウィルバーはそろそろと手を離し、状況を説明する。
    「さっきから何度か、あーやって人が運ばれて来るんだ。お前はついさっき運ばれてきた」
    「そうか。彼奴らは一体、何者だ?」
    「アマハラ大司祭の抱えてる隠密部隊だ。会話を聞いたところでは、どうやらオレたちはヤツの実験台にさせられるらしい」
    「実験台だと!?」
    「バカ、声でけえよ!」
     ウィルバーはもう一度、晴奈の口を押さえた。
    「ともかくだ。ここでぼんやり寝転んでたら、明日には紫色に光る標本にでもされかねない。次に人が運ばれてくる前に、急いで脱出しようぜ」
     晴奈はコクコクとうなずき承知した。ウィルバーがもう一度手を離したところで、晴奈が質問する。
    「他の者たちは?」
    「助ける余裕は無い。ともかく、オレたちが脱出するのが最優先だ」
    「何だと?」
    「落ち着けって。いくらなんでも、このまんま見捨てるつもりはねーよ。これでもオレは、こいつらを率いる役目に就いてんだからな。
     まず、第一にやらなきゃならないのは、オレたちが先に出て、こいつらを助け出せる手段を確保することだ。そうだろ?」
    「そう言うことならば、まあ、良しとしようか。……む、刀が」
     晴奈は腰に手を当て、自分の武器が奪われているのに気付いた。
    「まあ、当然っちゃ当然だろ。無力化しなきゃ集めた意味ねーからな。しばらくは素手で行動しなきゃならねーけど、ま、セイナなら大丈夫だろ」
    「馴れ馴れしく呼ぶな。私とお前は敵同士だぞ」
     憮然とする晴奈に、ウィルバーは軽口を叩く。
    「何ならオレのこと、ウィルって呼んでいいぜ。オレの愛称だ」
    「何を馬鹿な。脱出するのに協力し合うのはやぶさかではない。だが、馴れ合う必要など無いだろう」
    「へーへー、お堅いこって」
     ウィルバーは両手を挙げ、静かに部屋の壁を探り始めた。
    「……ここだ。ここが、さっき開いてたところだな。……外に人はいないみたいだ。セイナ、蹴破るぜ」
    「承知した」
     晴奈とウィルバーは同時に扉を蹴る。
     二、三度蹴りつけたところでミシミシと音を立て、扉が破れた。
    「よし、急いで出るぞ!」「おう!」
     人がいないのをもう一度確認し、晴奈たちは廊下を走った。

     しばらく黙っていた霙子が、不意に口を開く。
    「……エルスさん。この女、どうするの?」
    「とりあえず、牢に入れる。それから尋問するつもりだよ。彼女には要人暗殺やその教唆、央南連合転覆の謀議など、かなりの重犯罪容疑がある。
     確定すれば、確実に終身刑だろうね」
    「そう。……じゃあ、それでもいいかな」
     霙子はエルスの手を取り、ぎゅっと握りしめる。
    「条件、ちょっと変えるわ。こいつだけじゃなく、篠原龍明も牢にぶち込んで。約束すれば、教えたげる」
    「そのつもりだよ。……じゃあ、案内してもらおうかな」
     エルスは優しく笑いかけ、もう一度霙子の頭を撫でた。

     天原の隠れ家から少し離れた、天神湖のほとり。
     ボロボロの外套をまとった狐獣人がくんくんと鼻を鳴らす。
    「……間違い無いね。かなり濃い魔力を感じるね。かなり大規模に、魔術実験を行っているみたいだね。ようやくあの本を見つけられる、かねぇ?」
     狐獣人は拳を握りしめ、ぽつりとつぶやいた。
    「待っててね、雪花。必ずあの本、持って帰ってあげるからね」
     狐獣人の姿をしたモールは、その魔力源へと向かった。



     天原を狙い、様々な人間がその場に集まっていく。決戦の時は、近付いていた。

    蒼天剣・霊剣録 終
    蒼天剣・霊剣録 8
    »»  2008.10.19.

    晴奈の話、第69話。
    銀髪の異邦人。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
    「人の出会いは不可思議で心躍る」と言ったのは、黒白戦争時の女傑、ネール大公である。
     ある出会いが、思いがけず生活や人生、そして世界すら変えることがある。黄晴奈とその男の出会いも、後世から見れば、歴史的な邂逅(かいこう)の一つだった。



     双月暦515年初秋、晴奈22歳の時。
    「父上! 母上! 明奈は、明奈はッ!?」
     晴奈は自分の故郷である黄海に、大慌てで舞い戻っていた。
     自分の妹である明奈がさらわれて以来、焔流との交流もその一因と言うこともあって、晴奈はここ数年故郷を訪れられなかったのだ。
     ところがつい先日、その妹がひょっこり帰って来たと言ううわさが、彼女の耳に入ったのである。無論、そんな吉報を聞いて、じっとしていられる晴奈ではない。
     彼女は故郷に戻るとすぐ、自分の家である黄屋敷の扉を蹴破るようにくぐり、玄関の大広間に飛び込んだ。
     と――央南ではまず見ることの無い、銀髪・銀目の、短耳の男が大広間のど真ん中に立っており、晴奈は面食らう。
    「ん? ……誰だ、お主?」
    「えーと、はは。……君は、誰かなぁ? メイナのお友達?」
     やはり、央南人では無いらしい。央南の言葉で話してはいるが、その発音は央南人の晴奈にとってはどこか、違和感を覚える。
     それでも言葉は通じるらしく、晴奈は探り探り、男に尋ねてみた。
    「いや、その、姉だが。……そうではなく、お主は何者か、と聞いているのだが」
     銀髪の男はへら、と笑って、こんな風に返してきた。
    「そっか、お姉さんかー。へー、キレイな人だなー」「名前は?」
     再度尋ねるが、男は一向に、晴奈の問いに答える様子が無い。
    「やっぱり『猫』は目の形がいいねぇー。ちょっと吊り目で、しゅっと縦長の細い瞳。うーん、エキゾチックな感じがするなー」
    (何を、ベラベラと……。えきぞちく、って何だ? 竹か?)
     名前や単語以外は異様なほど流暢であり、男はどうやら相当、央南語を熟知しているらしい。それに元々、口もうまいようだ。
    「名前は?」「それにその耳と尻尾、三毛ってところもまたいい! 黒い髪にすっごく映えてるよー」「な・ま・え・はッ!?」
     だが、晴奈がにらみつけようとも、怒鳴ろうとも、男はまったく応じない。それどころか――。
    「ねえ、お姉さん。名前は何て言うの?」「それは私が聞いているのだッ!」
     いよいよ晴奈は怒り出したが、それでも男は止まらない。
    「メイナから聞いたっけなー? えーと、何だっけ。レナだっけ? あ、セナだったかな? えーと、違うな、んー」「いい加減に……」
     晴奈がもう一度怒鳴ろうとした、その時――。
    「いい加減にしなさいよ、このナンパ男!」
     大広間の階上から、本が飛んできた。
    「あいたッ、……うー、く、く」
     本の角が後頭部に直撃し、男は頭を抱えてうずくまった。
    「痛いじゃないか、リスト。本は読むものであって、投げる道具じゃないよ」
    「出会いがしらに女を口説くヤツが、常識語ってんじゃないわよ!」
     男を罵倒しながら、大広間の階段を青い髪のエルフが下りてきた。
    「ホントに、ごめんなさいね。コイツバカだから、気にしないでいいわよ」
     リストと呼ばれたエルフは、恥ずかしそうに頭を下げつつ、男を軽く蹴った。
    「あ、ああ。まあ、その、……どうも」
     晴奈はまだうずくまったままのこの銀髪の男を、神妙な面持ちで見つめていた。



     会うなり晴奈を口説いたこの男こそ、後に世界のトップとなる「大徳」、エルス・グラッドである。
     二人は後に力を合わせ、幾多の戦いで活躍することになる――のだが、その最初の出会いにおいては、晴奈は不快感しか抱いていなかった。

    蒼天剣・邂逅録 1

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第69話。銀髪の異邦人。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1.「人の出会いは不可思議で心躍る」と言ったのは、黒白戦争時の女傑、ネール大公である。 ある出会いが、思いがけず生活や人生、そして世界すら変えることがある。黄晴奈とその男の出会いも、後世から見れば、歴史的な邂逅(かいこう)の一つだった。 双月暦515年初秋、晴奈22歳の時。「父上! 母上! 明奈は、明奈はッ!?」 晴奈は自分の...

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    晴奈の話、第70話。
    晴奈のひみつ、公開。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
    「め、明奈っ!」
     7年ぶりに見る成長した明奈を見て、晴奈は思わず彼女を抱きしめた。
    「きゃ、お姉さま?」
     明奈は目を白黒させていたが、晴奈は思いを抑えきれず、そのまままくし立てる。
    「ああ、良かった! 本当に良かった! 良く無事に、帰ってきてくれた!」
    「お姉さま、あの、苦しい……」
    「もう二度と、絶対に、黒炎に渡したりしない! 絶対に、姉ちゃんが守ってやるから!」
    「……はい、お姉さま。お久しゅう、ございます」
     戸惑った顔を見せつつ、明奈も晴奈を抱きしめ返した。



     明奈が黒鳥宮から助けられた経緯は、次の通り。
     エルスは元々、北方大陸にある王国の諜報員(スパイ)であり、ある任務のため部下を連れ、黒鳥宮に潜入していたところ、偶然明奈を発見し、保護したのだ。
     そのまま、一旦は北方に連れ帰ったが、エルスの上司であり、教官でもあるエドムント・ナイジェルと言う老博士がある事件に巻き込まれたため、そこから明奈を連れ、師弟ともども亡命。
     亡命先として選んだのが、明奈の故郷であるここ、黄海だったのである。

    「本当に、大変でしたわい」
     あごひげを生やし、丸眼鏡をかけたエルフ、ナイジェル博士はニコニコと笑いながら、前述の説明を晴奈に伝え終えた。
    「なるほど……、そのような経緯があったのですか。私にとっては真に重畳、行幸と称すべきお話です」
     晴奈は深々と、博士に向かって頭を下げた。
    「あ、いやいや。そうかしこまらず。
     ……ふーむ、セイナさん、と申されましたか。なるほど、妹さんと顔立ちが似ていらっしゃる。ですが比べてみると少し、精悍な顔つきをされていらっしゃいますな」
    「そ、そうですか?」
     そう言われて、思わず頬に手を当てる。
    (言われてみれば……。子供の頃はあまり気が付かなかったが、傍らの成長した明奈を眺めると確かに、顔立ちは良く似ていると思う。
     そしてこれも博士の言う通りだが、明奈の方が少し、おっとりした印象を受けるな)
     晴奈がしげしげと明奈を観察している間に、博士の方でも、晴奈を観察し終えたらしい。
    「ふむ……。身長も高く、一挙手一投足ごとに、着実に鍛えられた筋肉が出す力強さが見受けられる。そしてその、落ち着いた気配と所作。なかなか高度な精神修練と、高密度の修行を積んでいらっしゃるようですな。
     ズバリ、セイナさんは――焔流の剣士、それも練士か、師範代程度の手練。違いますかな?」
     博士の推察に、晴奈は目を丸くした。
    「い、いかにも。私は焔流の免許皆伝です、が……」
     自分の素性を初見で言い当てられ、晴奈は流石に博士を不気味に思った。
     と、それも見抜いたらしく、博士はゆっくり手を振って説明する。
    「ああ、いやいや。驚かせるつもりは無かったのですが。小生はこう言ったことを生業としておりまして。
     祖国では戦略研究を行っておりました。敵の動向をいち早く察することが重要なため、こうした洞察力をよく使います」
     博士は横に座っているエルスの肩を叩き、話を続けた。
    「こちらのエルス君も、人を見抜くのが得意でしてな。
     元々は魔術を教えておったのですが、そちらの方も割合筋が良かったので、小生の戦略思考術と洞察力をそっくり受け継がせております。
     さ、エルス。ちょいと力を見せてやりなさい」
     話を振られたエルスはヘラヘラ笑いながら、とんでもないことを――晴奈がこの直後、顔を真っ赤にして「無礼者!」と怒り出し、リストから「このバカ!」と怒鳴られ、しこたま殴られるようなことを言った。
    「うーん、上から77、51、79かな。すらっとしてるね。低脂肪乳って感じかな、はは」

     ひとしきり殴られ、頭に大きなコブを作ったエルスは、依然としてヘラヘラ笑いながら謝った。
    「ははは……、ゴメンゴメン。ちょっとしたギャグのつもりで言ったんだけどね」
    「どこがギャグよ!? セイナさん、引いてんじゃない! て言うかアタシも引くわ!
     アンタ本気で頭のネジ、1本2本飛んでんじゃないの!?」
     リストはまだ怒っているらしく、エルスにまくし立てる。
    「ホントに、このバカがとんでもないコトを……」
     リストはしきりに謝っている。彼女が少し気の毒になってきたので、晴奈は溜飲を下げた。
    「……いや。減るものでも無し、構わんさ」
     とは言え、口ではそう言いつつも、晴奈の内心はまだ、怒りが収まらない。
    「ま、そのですな。ちと、遊びが過ぎましたが、ともかくエルス君は、武術や魔術の腕も相当ですが、頭の方も良く回ります。
     しばらくこちらに滞在する予定なので、色々と央南の事情、それから常識をご指導、ご鞭撻いただければと」
     場を取り繕う博士の心情も察し、晴奈は大人しく振舞う。
    「……構いませんよ。まあ、こちらも北方の話を色々お聞きしたいところです。よろしくお願いします」
     晴奈は落ち着き払い、手を差し出す。エルスもニコっと笑いながら手を差し出し、普通に握手した。
     恐らくこの時も、エルスは何かするつもりであったようだが、それは彼の右側でにらんでいるエルフ二人に阻まれたため、流石に諦めたようである。

    蒼天剣・邂逅録 2

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第70話。晴奈のひみつ、公開。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2.「め、明奈っ!」 7年ぶりに見る成長した明奈を見て、晴奈は思わず彼女を抱きしめた。「きゃ、お姉さま?」 明奈は目を白黒させていたが、晴奈は思いを抑えきれず、そのまままくし立てる。「ああ、良かった! 本当に良かった! 良く無事に、帰ってきてくれた!」「お姉さま、あの、苦しい……」「もう二度と、絶対に、黒炎に渡したりしない...

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    晴奈の話、71話目。
    スパイを尾行するスパイとサムライ。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     折角の再会と帰郷であるし、晴奈は当初、黄海にしばらく滞在することを考えていた。
    「まったく、ろくでもない!」
     だがエルスのせいで、その折角の機会を、晴奈は気分悪く過ごしていた。
    「忌々しい……。私が、明奈を助けたかったのに。何であんなバカが助けるんだか」
     文句をブツブツと唱えながら街を散策しつつ、ある通りに差し掛かったところで――。
    「ん? あの青い髪は」
     少し前を、青い髪のエルフが歩いているのが見える。
     晴奈は彼女にそっと、声をかけてみた。
    「もし、リスト殿?」
    「……! あ、セイナさん、でしたっけ」
     振り返ったリストは、どこか苛立たしそうに晴奈を見る。
    「あの、何か?」
    「いや、ただ声をかけただけ、ですが」
    「そう。悪いわね、忙しいから、また後でっ」
     そう言ってリストは、また前に向き直って歩き出す。
     視線を前に戻すと、少し先を「あのバカ」が妹、明奈を伴って歩いているのが見えた。
    「もしや、エルス殿と明奈を尾行されているのですか?」
    「な、何で分かったの!?」
     また、リストがこちらを向く。
    「いや、何故と問われても。一目瞭然では……」「と、とにかく! 邪魔しないで!」
     リストは早歩きで、エルスたちを追いかける。
    「あ、私も同行します、気になるので」
     晴奈もリストに続き、尾行に参加した。
    「しかし、一体何故、リスト殿はこのようなことを?」
     揃って物陰に隠れたところで、晴奈はリストに尋ねてみた。
    「あのスケベ、メイナを連れてあちこち回ってるのよ! きっとメイナを落そうと狙ってるんだわ!」
    「何と!?」
     リストの返答に、晴奈はまた苛立ちを募らせる。
    「おのれ、渡してなるものか……!」
    「でしょ!? だから、こうやって後を尾けてるのよ。もし手を出そうとしたら、コイツで無理矢理にでも止めるわ」
     そう言って、リストは腰に提げていた銃――近年開発された、新種の武器だそうだ。どのようにして使うのか、晴奈にはまったく見当が付かない――に手を添える。
    「ぜひとも、助太刀させていただきたい!」
    「ええ、その時はお願いね、セイナさん!」
     変に意気投合したらしく、晴奈とリストはがっちりと握手した。



     その後も2時間ほど、エルスたちはあちこちを回っていた。
     そのほとんどが商店や露店めぐりで、どうやら女物の小物を買い集めているらしい。
    「何よアレ!? 完璧にデートじゃないの!」
    「でえ、と?」
    「えっと、その、何て言ったらいいかな。……イチャイチャしてる、ってコトよ」
    「む、確かに……」
     言われてみれば、確かに二人の雰囲気は、知らない者が見れば恋人のようにも見える。晴奈の目にもそう見えてしまい、怒りをますます燃え上がらせていた。
     そのうちに日も傾き始め、エルスたちは黄屋敷の方へと向かっていく。
    「っと、隠れて隠れて」
     リストが物陰に晴奈を引っ張り込む。そのまま隠れてエルスたちが通り過ぎるのを待ち、また後をつける。
     と、エルスが急に立ち止まり、明奈に何かを話しかける。
    「……メイナ、これ……」
     二人の話し声は完全には聞き取れないが、どこか楽しそうにしている。
    「ほら、……見せたら、……きっと……」
    「そうかしら? ……それじゃ……」
     エルスが抱えていた袋から何かを取り出し、明奈に手渡す。遠目には良く分からないが、どうやら髪留めのようだ。
    「おー、可愛い。これは……似合う……」
    「まあ、エルスさんったら」
     エルスの言葉に嬉しそうに笑う明奈を見て、晴奈の怒りはついに爆発した。
    「も、もう……、我慢ならん!」
    「えっ、セイナ?」
     リストがその声に反応した時には既に、晴奈はエルスたちのすぐ後ろに迫っていた。

    「あ、そうだ。メイナ、これ今付けてみない?」
     帰り道に差し掛かったところで、エルスが袋を足元に下ろして中を探る。
    「さっきの髪留めでしょうか?」
    「そう、さっきの」
     エルスは袋の中から髪留めを取り出し、明奈に差し出す。
    「ほら、お揃いって言うのを見せたらさ、お姉さんもきっと喜ぶよ」
    「そうかしら? ……そうですね。それじゃ、付けてみますね」
     明奈は丸まった白い狐があしらわれた髪留めを、前髪に留めてみる。
     それを見て、エルスは口笛を吹いてほめちぎった。
    「おーぉ、可愛い。これは買って大正解だったね。お姉さんにも良く似合うだろうなぁ」
    「まあ、エルスさんったら」
     髪留めを付けた姉を想像し、明奈はクスクス笑っていた。

     そこに、怒り狂った晴奈が割り込んできた。
    「エルス・グラッド! 今すぐ、明奈から離れろッ!」
     いきりたつ晴奈とは正反対に、エルスはのほほんと笑っている。
    「うん? ああ、セイナさん」
    「ああ、では無いッ! 成敗してくれるッ!」
     ヘラヘラと笑うその顔が癪に障り、晴奈の怒りはさらに膨れ上がった。
     その怒気を察したのか、エルスはヘラヘラ笑いながらも、すっと拳法の構えを取る。外国の人間とは思えない、見事に隙の無い、完璧な構え方だった。
    「えっと、どうして怒ってるのか、良く分からないけれど……。何にもせずに、やられるわけには行かないよねぇ」
    「どうして、だと!? 本気で言っているのか、貴様ッ!」
     晴奈が先に刀を抜き、仕掛ける。ところが――。
    「えいっ」
     パンと、手を打つ音が響く。あろうことか、白刃取りである。
    「そん、な、……馬鹿な!?」
     焔流免許皆伝の晴奈の刀が――「燃える刀」ではないし、本気を出してはいなかったのだが――あっさりと防がれてしまい、晴奈は戦慄した。
    「ねえ、落ち着いてさ、話し合おうよ」
    「だ、黙れッ!」
     晴奈はエルスの腹に蹴りを入れて弾き飛ばそうとした。だが、その行動も読まれたらしく、エルスはぱっと刀から手を離して飛びのく。
    「やめて、お姉さま!」
     明奈が悲鳴じみた声を上げるが、晴奈の耳には入らない。二太刀、三太刀と繰り出すが、すべてひらりひらりとかわされる。
    (この男……、思っていたよりも、ずっと手強い! 『猫』の私と、遜色ない身のこなしだ)
     四太刀目を放とうとして、一瞬踏み留まる。
    (どうする? 焔を使うべきか?
     格下相手に使うのは、恥ではある。だが彼奴はどうやら、相当に強い。使っても恥にはなるまい。いや……、むしろ使わねば、勝負になるまい)
     晴奈は心の中を整理し、精神を集中させて、刀に炎を灯らせた。
    「火、か。それが焔流の真髄、ってやつかな。
     ねえ、セイナさん。本当にもうやめにしない? 不毛だと思うんだけど」
     エルスは笑い顔を曇らせて――それでも、「苦笑」と言った感じだが――和解を提案する。だが怒り狂った晴奈は、それを却下した。
    「断るッ! 勝負が付くまでだッ!」
    「そっか。じゃあ、うん。やるよ」
     エルスは再び構え直し、晴奈の攻撃に備えた。
     そのまま両者ともにらみ合ったところで――。
    「お姉さまッ!」
     明奈が二人の間に入り、晴奈の頬をはたいた。

    蒼天剣・邂逅録 3

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、71話目。スパイを尾行するスパイとサムライ。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 折角の再会と帰郷であるし、晴奈は当初、黄海にしばらく滞在することを考えていた。「まったく、ろくでもない!」 だがエルスのせいで、その折角の機会を、晴奈は気分悪く過ごしていた。「忌々しい……。私が、明奈を助けたかったのに。何であんなバカが助けるんだか」 文句をブツブツと唱えながら街を散策しつつ、ある通りに...

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    晴奈の話、72話目。
    仲直り。

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    4.
     突然の明奈の行動に晴奈は虚を突かれ、刀の炎が消える。
    「明奈?」
    「エルスさんの言う通りよ! こんな争いはやめて! 折角エルスさんが仲直りしようと思って、贈り物を一緒に……、あっ」
     明奈はしまったと言う顔をして、口を押さえる。エルスは頭をかきながら苦笑している。
    「あらら、言っちゃったかぁ。驚かせようと思ったのにな~。
     ……ん、まあ。この前さ、悪いことしちゃったから」
     そう言って、エルスは傍らに置いてあった包みから小箱を取り出す。
    「狐小物専門店って言うのがあってね。可愛いものがいっぱい置いてあったから、これを買ってみたんだ」
     晴奈は小箱を渡され、そろそろと開けてみた。中には、丸まった金色の狐を象った髪留めが入っている。
    「あ……」
     それを見て、晴奈の怒りは氷解した。と同時に、申し訳なさがこみ上げてくる。
    「あ、その……、その。大変、失礼しました、エルス殿」
     晴奈は顔を真っ赤にして、エルスに頭を下げた。
    「いいよ、別に。一度、焔流って剣技を間近で見てみたかったし、いいプレゼントになったよ。ありがとう、セイナさん」
     そう言ってエルスは笑い、続いてリストに近寄ってまた、小箱を渡した。
    「リストにもあげる。こーゆーの、欲しかったって言ってたからさ」
    「え、……アタシに?」
     箱を開けたリストは途端に顔と耳を真っ赤にして、エルスに背を向けた。
    「その、えーと。ありがたく、受け取ってあげるわ」
    「喜んでくれて嬉しいな~、はは。
     ……っと、そうだセイナ」
     エルスはもう一度、晴奈に向き直る。
    「良ければ僕のことは、普通にエルスって呼んでほしいんだ。堅苦しいのは、どうにも苦手なんだ」
    「ふむ。……分かった、エルス」
     晴奈ももう一度うなずき、改めて挨拶した。
    「お主のことを少し誤解していた。……その、今後とも、よろしくお願いしたい」
    「うん、よろしくセイナ」
     エルスはいつも通りの笑顔で、晴奈に返した。



     こうして晴奈とエルスは仲直りし、同時に互いを兵(つわもの)と認め、尊敬するようになった。
     交流するうち、晴奈は思っていたよりずっと、エルスの頭がいいこと――ナイジェル博士の言った通り、優れた洞察力と思考力、広く深い知識を有していることに気付いた。
     一方でエルスも、晴奈の実力の高さに感服し、女性に目が無い彼としては珍しく、口説くことをせずに、様々な話や稽古、囲碁などに興じていた。

     これより30年以上に渡り、二人の友情は続くこととなる。

    蒼天剣・邂逅録 終

    蒼天剣・邂逅録 4

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、72話目。仲直り。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 突然の明奈の行動に晴奈は虚を突かれ、刀の炎が消える。「明奈?」「エルスさんの言う通りよ! こんな争いはやめて! 折角エルスさんが仲直りしようと思って、贈り物を一緒に……、あっ」 明奈はしまったと言う顔をして、口を押さえる。エルスは頭をかきながら苦笑している。「あらら、言っちゃったかぁ。驚かせようと思ったのにな~。 ……ん、まあ。こ...

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    晴奈の話、第73話。
    エルス流ナンパのテクニック。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     エルス・グラッドと言う人物は、色々な意味で晴奈にとって不可解、不思議であり、初めて見る類の人間だった。
     考え方も、性格も、それまで出会ってきた者たちの中でも異質と言っていいほど、他人との隔たり、差異がある。無論、晴奈も「独特の性質を持つ者」なら数名ほど見たことはある。大抵そんな者たちは偏狭、偏執な性分で、人との交わりを極力避けていることが多い。
     ところがエルスはその点においてもまた、違う面を持っていた。



    「ねえねえお姉さん、ちょっと道、聞いてもいいかナ?」
    「あ、はい。何でしょうか?」
     故郷、黄海を散歩していた晴奈が、道端を歩いていた人間の女性に声をかけ、道を尋ねているエルスを見かけた。
    「えーと、港はどっちかナ? 僕、この街に着たばかりだかラ、良く分からなくテ」
     エルスのしゃべり方と話の内容に、晴奈は首をかしげた。
    (何だ、その片言は……? しゃべれるだろう、普通に。いや、普通どころか央南人と見紛うほど流暢に。
     それにお主、海路でこの街を訪れたと言っていたではないか。お主ほどの頭があれば道くらい、一度通れば簡単に覚えられるだろう?
     そもそも聞くなら私や明奈に聞けばいいものを、何故見ず知らずの者に尋ねる?)
    「あ、外国の方なんですね。えっと、そうですね……、あの大通りを右に進んで、3つ目の筋を左に入って……」「あ、あ、ちょっと待ってくださイ」
     エルスは慌てた素振りを見せ、女性の説明をさえぎった。
    「口だけじゃ、ちょっと分からないデス。良ければ、案内してほしいナー」
    「え、……うーん。それじゃ、付いてきてください」
     女性は少し困った顔を見せたが、エルスの頼みを了承した。エルスはニコニコ笑い、お礼を言う。
    「あー、ドモドモ。ありがとうございまス」
     そう言うなり、エルスは女性の手を握って引っ張っていった。
    「えっと、こっちの方でしたネ。それじゃ、行きましょウ」
    「え、あ、あの? あ、そっちなんですけど、手、あの、何故握られて……」
    「だって、もしはぐれたラ僕、迷子になっちゃいますかラ」
    「は、はあ……」
     そのままエルスは女性とともに、雑踏の中に消えた。

    「ただいまー」
     それから3時間後、エルスは仮住まいの黄家屋敷に戻ってきた。
    「おかえり、エルス」
     晴奈とともに大広間にいたリストが声をかけ、エルスはにこやかに返す。
    「いやー、央南っていいね。エキゾチックだ」
    「……?」
     唐突な感想に、晴奈はまた首を傾げる。
     と、エルスの襟元に何か、赤いものが付いているのに気付く。
    「エルス、襟に……」
    「うん? ……っと」
     エルスは襟に手を当て、すぐに引っ込めた。その仕草を見て、リストが尋ねる。
    「どしたの、エルス?」
    「ああ、ゴミが付いてたみたいだ」
    「ふーん」
     リストはそれだけ返して、広間から離れた。それと同時にエルスが晴奈に近付き、耳打ちする。
    「セイナ、困るよ~」
    「は?」
     エルスははにかみ、恥ずかしそうにささやく。
    「口紅なんか見つかったら、またリストに殴られちゃう」
    「……ようやくピンと来た。お主、昼間に出会った女を誘ったな?」
     晴奈のやや侮蔑が混じった問いに、エルスはにべもなく答える。
    「あれ、見てたんだ。……はは、大正解」
    「妙な片言まで使ってたぶらかすとは、本当に軟派な奴だな」
    「いいじゃないか。向こうだって喜んでたし」
     あっけらかんと返され、流石に晴奈も気分が悪くなる。
    「……」
     晴奈は憮然としつつ、リストの去った方向を向く。
    「どしたの、セイナ?」
     晴奈はすーっと息を吸い、大声を上げた。
    「リスト! またエルスの悪い虫が出たぞ!」
    「ちょ」
     エルスの笑顔が青ざめると同時に、なぜか1階にいたはずのリストが2階、大広間吹き抜けの廊下から襲い掛かってきた。
    「エルスッ!  アンタまた、何かしたのッ!?」
    「ぎゃーッ!?」
     エルスはリストに頭を踏みつけられ、床に顔をめり込ませた。



     独特の感性、思想を持つ変人でありながら、他人と深く接する「変わり者の中の変わり者」。
     それが「大徳」エルス・グラッドと言う人物だった。

    蒼天剣・大徳録 1

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第73話。エルス流ナンパのテクニック。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. エルス・グラッドと言う人物は、色々な意味で晴奈にとって不可解、不思議であり、初めて見る類の人間だった。 考え方も、性格も、それまで出会ってきた者たちの中でも異質と言っていいほど、他人との隔たり、差異がある。無論、晴奈も「独特の性質を持つ者」なら数名ほど見たことはある。大抵そんな者たちは偏狭、偏執な性分で、人...

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    晴奈の話、第74話。
    大人物の人生哲学か、ナンパ男の言い訳か。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
    「あいたたた……」
     客間に運ばれたエルスは首と後頭部をさすりながら、ヘラヘラ笑っている。
    「セイナ、ひどいじゃないか」
    「元はと言えば、お主の行いが原因だろうが」
    「ま、そりゃそうだけどさ」
     リストはエルスを踏みつけた後も一通り怒り倒し、そのまま屋敷を出て行ってしまった。
    「まったく、何度怒らせれば気が済む?」
    「しょうがないさ、これは『趣味』の問題だし。ま、あの子は薬缶みたいな子だから、そのうちケロッとして戻ってくるさ」
    「……下衆な趣味だな。お主の頭に公序良俗と言う言葉は無いのか?」
    「うーん」
     エルスはそっぽを向き、両手を挙げる。
    「綺麗なご婦人がいたら、声をかけるのが紳士の礼儀かな、って」
    「大馬鹿者」
     今度は晴奈がエルスを叩いた。
    「あいたっ」
    「女をたぶらかして、何が紳士か」
    「そうですよ、エルスさん」
     明奈が洗面器と手拭を持って、客間に入ってきた。
    「あ、わざわざゴメンね、メイナ」
    「いえいえ。……本当にいけませんよ。北方ではどうなのか、良くは知りませんけれど。色恋に雑な方は、央南ではあんまり歓迎されませんよ」
     水にひたした手拭を絞りながら諭してくる明奈に、エルスはまた苦笑する。
    「あはは……、雑にしてるつもりはないんだけどね。誰であっても、真面目に付き合ってきたつもりだし」
    「それなら、リストさんとはどうなんですか?」
    「うん?」
     明奈から手渡された手拭を頭に当て、エルスは短くうなる。
    「んー……、どう、って?」
    「え……?」
    「僕が恋愛を楽しむことと、リストと何の関係があるの? あの子とは別に、付き合ってるわけじゃないんだけど」
     今度は明奈が憮然とした顔になる。
    「付き合ってない、って……。どう見てもリストさん、嫉妬してますよ」
    「そんなわけ無いじゃないか、はは」
     エルスは軽く笑い飛ばし、明奈の見解を否定する。
    「あの子とは一緒に仕事して、結構長い。それなりに信頼関係もあるし、嫌ってないのは確かさ。でも、いつも僕に向かって罵詈雑言を放つし、どう考えてもあの子が僕に恋愛感情を持ってる、って言うのはちょっと、無理じゃないかなぁ。
     それにあの子が僕と一緒に来たのは、僕の仕事に加担したからだよ。それに、博士のお孫さんでもあるし、どっちかって言うと付き添いって感じだ。怒るのはきっと、博士に恥をかかせないようにと、彼女なりに配慮してるからじゃないかな」
    「そう、ですか……?」
     まだ腑に落ちないと言う面持ちの明奈に、エルスはへら、と笑いかけた。
    「そう、だよ。第一、本当に僕のことが好きなら、足蹴にしないだろ? ほら、このコブ」
    「……ま、そうだな」
     エルスの後頭部の腫れを見た晴奈は、エルスの意見がもっともらしく感じた。
    「しかし……。お主、それだけ他人の洞察ができるのに、何故神経を逆なでするようなことばかりするのだ?」
    「んー、……他人の理解を得るより、自分の考えを実行に移すことを優先してるから、かな。
     確かに僕のやってることは、周りに理解を得られないとは思う。でも、何に対してもそう言うことはあるんじゃないかな」
    「……?」
     エルスの言葉の意味が分からず、晴奈も明奈も顔を見合わせてきょとんとする。
    「えっと、例えばね。
     僕はセイナじゃ無いから、セイナがいま何を考えて、何を大事にしてるかってことは、予想は付いても、完全に読みきれるわけじゃない。同じようにセイナも、僕の趣味や好きなものは分かっても、僕がいま何を考え、何をしたいかってことは、僕から言わないと分からないだろ?」
    「それは……、まあ」
    「もちろんそう言うことは、仲良くなっていくうちに自然と分かったりもするだろう。でも、そうなるまでには非常に時間がかかる。すべての人間関係においてそんな過程を経ていたら、その人と一緒にやりたいと思ってることは多分、何もできなくなる。
     理解には時間がかかるし、時には到底無理だって言うこともある。莫大な時間をかけてただ理解しようと考えるだけじゃ、時間の無駄遣いさ。だから、理解は二の次。先に、行動を取った方がいいと思うんだ。
     第一、行動してその結果を見せた方が、理解も早いだろうしね」
    「ふむ……」
     感心する晴奈を見て、エルスはまた笑った。
    「ま、博士の受け売りだけどね」



     それから2時間後。
     エルスの言う通り、リストは何事も無かったように夕食の前に戻ってきた。
    「ただいまー」
    「ああ、おかえりリスト」
     エルスが挨拶すると、リストはパタパタと手を振って会釈する。二人があまりに平然としているので、晴奈は思わずリストに尋ねた。
    「もし、リスト」
    「ん?」
    「怒ってないのか?」
    「ああ、さっきのアレ?」
     リストはまた、手をパタパタ振る。
    「毎度のコトだし。そりゃ、ムカッと来るけど蹴っ飛ばせば気、晴れるしね。
     アイツのやるコトに一々まともに相手してちゃ、気狂っちゃうわよ。アイツ、頭いいけどバカだし」
    「……そうか」
     リストの言い草に、晴奈は少し不愉快になった。
    (それは、あんまりでは無いだろうか)
     とは言え、そう思ったことを口にはしなかった――恐らく、理解してもらえないので。

    蒼天剣・大徳録 2

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第74話。大人物の人生哲学か、ナンパ男の言い訳か。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2.「あいたたた……」 客間に運ばれたエルスは首と後頭部をさすりながら、ヘラヘラ笑っている。「セイナ、ひどいじゃないか」「元はと言えば、お主の行いが原因だろうが」「ま、そりゃそうだけどさ」 リストはエルスを踏みつけた後も一通り怒り倒し、そのまま屋敷を出て行ってしまった。「まったく、何度怒らせれば気が済む...

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    晴奈の話、第75話。
    大きな買い物。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     黄屋敷にて、エルスの師、ナイジェル博士と、晴奈たち姉妹の父、紫明が、応接間で何枚かの書類に目を通していた。
    「ふむ、ここもいいですな」
    「こちらもなかなかですよ」
     二人が見ているのは、不動産のチラシである。
     元々エルスたちは、亡命を目的として黄海に移ってきた身である。故郷の北方にはしばらく戻れないため、当然、長期の滞在になる。
     となればずっと黄屋敷にいるわけにも行かないので、どこかに家か部屋を借りようかと考えた博士は、黄商会の宗主であり、この街の不動産も手がけている紫明に相談していたのだ。
     紫明も娘を助けてくれた恩人に感謝の意を表明しようと、熱心に家探しを手伝ってくれた。
    「ここも良さげですが、ちと高いか……」
    「それに街から少し離れていますし、あまりいい物件では無いですな。
     ……そうだ、こちらはいかがでしょうか?」
     紫明がある一件を博士に提示する。
    「ふむ、賃貸ではなく購入ですか。とは言え……、なるほど、ここから近い。それに購入と言うことを考えれば、かなり安めですな。
     一度、見てみましょうか」



     博士と紫明、そして付き添いに晴奈とエルスを加えた4人で、その物件まで足を運んだ。
    「ふむ、見た感じはまだ新しい。
     建物の外観を見るに、ここ10年以内に造られたように見える。中の柱や壁もしっかりしているし、長持ちしそうだ」
     エルスが壁や階段を触りつつ、博士に同意する。
    「しかし、良く見れば大掛かりな補修ですね、これ。いや、どちらかと言えば拡張工事なのかな? 随分手を加えてある。相当お金をかけて改築してありますねぇ。
     それに、なかなかおしゃれなデザインですね。ここ最近、央南で流行している建築様式だ。これが本当に、380万玄なんですか?」
     ちなみに「玄」と言うのは央南の通貨、玄銭のことである。
     なお参考として、黄海・黄商会の新入りの月収がおよそ3万玄、黄商会の年間収益が6、70億玄程度になっている。
     博士は北方を発つ際に家財道具を処分し、現在3千万玄近い金を持っている。買おうと思えば、買えないことはないのだが――。
    「ああ、書類の上では確かにそう書いておる。……じゃから、どうにも怪しくてな」
     疑問に思う博士に、紫明も同意する。
    「確かに。これだけの物件であれば、その4~5倍はしてもおかしくありません。ただ、私も同業者から簡単な情報を渡されただけですので、詳しい事情については……。
     そろそろ売主が来るのでその辺り、尋ねてみてはいかがでしょうか」
    「そうですな。……おや、あの『猫』の方ですかな?」
     話しているうちに、その売主が姿を現した。

     売主の姿に、晴奈は既視感を覚えた。
    (む……? この女性、どこかで見たような?)
     その猫獣人の女性は、確かに見覚えがある。だが、どこで会ったのかまでは、はっきりと思い出せない。
    「あの、黄不動産の方でしょうか?」
     女性は不安そうに尋ねてくる。
    「ああ、はい。私が代表の黄紫明です。楊さんで、お間違い無かったでしょうか」
     紫明が挨拶すると、女性はほっとしたように自己紹介を始めた。
    「はい、そうです。わたくし、楊麗花と申します。初めまして、黄さん」
    「初めまして。早速ですが中の方、拝見させていただいてもよろしいでしょうか」
     紫明は慣れた素振りで楊に応対している。楊はうなずき、家の扉を開けた。
    「既に家具など、中の荷物は処分しております。もしご購入される場合は、あらかじめご用意くださいね」
    「承知いたしました。少し質問させていただいても、よろしいでしょうか」
     博士は中をきょろきょろと見回しながら、楊に尋ねる。
    「何でしょうか?」
    「これほど程度のいい邸宅を、何故380万と言う破格の値でお売りに?」
    「ええ、それは……」
     博士に尋ねられた途端、楊の顔が曇る。
    「主人が先月、病で亡くなりまして。それで田舎の方に戻ろうかと考え、早急に処分したいと思い、安めに値を付けさせていただきました」
    「なるほど、そんな事情が……。これはとんだ失礼を」
    「いえ……」
     謝る博士に、楊は静かに首を振った。
    「幸い、主人はこの街で成功を収めまして。それなりの資産を遺してくれましたので、わたくしも娘も、しばらくは食うに困ることはございません」
     娘、と聞いて晴奈の脳裏にある人物が思い出された。
    (あ、そうか。……似ているが、この人ではない。それに『猫』ではなく、耳は短かった。私が見たのは恐らく……)
     晴奈はチラ、とエルスの方を見た。エルスも見返し、片目をつぶった。
    (……予想通りか)
     晴奈が見たと思ったのは楊本人ではなく、楊の娘――先日エルスが口説いた、あの女性だったのだ。

     博士と紫明、楊が相談している間、晴奈とエルスは彼らと少し離れたところで話をした。
    「ヨウ、って聞いてあれ? と思ったんだよ」
    「やはりか」
    「うん。あの子、楊柳花って名乗ってたし、顔立ちもすごく似てる。多分、レイカさんの娘さんだろうね。いやー、偶然ってすごい」
     ヘラヘラ笑っているエルスに、晴奈は呆れる。
    「悠長なことを言ってる場合か。もしここにその柳花嬢が現れたら、えらいことになるぞ」
    「え?」
     エルスの笑いが、一瞬止まる。
    「何で?」
    「何でって……、まずいだろう、どう考えても。売主の娘をたぶらかしたことが発覚すれば、この話が流れる可能性もある」
    「ああ……」
     エルスはまた、笑い出した。
    「はは……、よくよく考えれば、ちゃんと説明する間が無かったんだよね」
    「説明?」
    「んー……」
     エルスは話中の博士たちを確認し、晴奈に向き直る。
    「セイナ、僕とリューカが出会った時、どこまで見てたの?」
    「どこ、と言うと……、港に行く道を尋ねていたところまで、だな」
    「じゃ、その後のことは当然、知らないよね」
    「当たり前だ。知りたくもないが」
     晴奈の反応を見て、エルスはまた笑った。
    「やっぱり、誤解してる。じゃ、その後のことを話すね」



    「えっと……、あちらが港になります」
    「ふむー、そうですカ」
     柳花に港まで案内してもらったエルスは、ここで片言をやめた。
    「コホン。……リューカさん、ご親切にどうも。良ければお礼をさせていただきたいのですが」
    「え、え? あの、あれ? エルスさん、話し方……」
     あまりの変わりように、柳花は口を開けてぽかんとしている。
    「央南語は囲碁好きの教官に2年ほど、みっちり教えてもらいましたから。
     さ、海を眺めながらのお茶も、なかなか風流ですよ」
    「は、あ……」
     柳花は化かされたような顔つきで、エルスを見上げている。どうやら一種の思考停止状態に陥っているらしく、半ばエルスの言いなりになっていた。
    「ああ、あの店なんか良さそうですね。行きましょう、リューカさん」
    「え、あ、はい」
     エルスに手を引かれ、柳花はそのまま付いていってしまった。

    「へえ、お父さんが……」
     海沿いにあった喫茶店に入った後も、エルスは巧みな話術と心理操作術で柳花の素性を聞き出していった。
    「うん、一月ほど前に。それでお母さん、悲しいからこの街を離れて田舎に戻りたい、って言ってるの」
     柳花もエルスの柔和な物腰と優しい笑顔に警戒を解き、友達のように接している。
    「そうなんだ。じゃあ、もう家とかも処分したの?」
    「うん。すごく気に入ってたんだけど……」
     顔を曇らせる柳花を見て、エルスは腕を組んで軽くうなる。
    「うーん……、じゃ、気晴らしでもしよっか?」
    「え?」
    「悲しい時は笑わないと。ドンドン悲しくなっちゃうよ」
    「あ、うん……」
     唐突な提案と意見に、柳花は終始戸惑っているが、エルスは意に介さない。
    「じゃ、行こうか」
     そしてまた、唐突に行動する。傍から見れば強引だったが、柳花はなぜか、素直にうなずいてしまった。
    「う、うん」

     エルスは柳花を連れ、港から公園、繁華街や市場を回った。
     最初のころはまだ戸惑っていた柳花も、あちこち回るうちに自然と笑みが漏れ、楽しそうに振舞うようになった。
     やがて日も傾き始め、わずかに肌寒さを感じる時刻となり、エルスと柳花は帰路についた。
    「少しは、気が紛れたかな?」
    「うん、すごく……」
     いくつか贈り物もされ、柳花の手には大きな紙袋が提げられている。
    「本当に、楽しかった。ありがとね、エルスさん」
    「いやいや、お礼なんて……」
     エルスが謙遜しようとしたその時、柳花がいきなり抱きついてきた。
    「……お?」
    「ここを離れる前に、すごくいい思い出ができた。あたし、一生忘れないわ」
    「……はは、それはどうも」
     そのまま10分ほど、柳花はエルスを抱きしめていた。エルスの襟に付いていた口紅は、この名残だろう。



    「……本当に、それだけか?」
    「そうだよ」
     エルスの話を聞き終えた晴奈は、半信半疑でエルスの顔を見つめている。
    「本当だってば。いくら僕でも、初対面の子を口説き落としたりしないよ」
    「まあ、信じるか。お主が私にそんな嘘をついても、意味が無いからな」
     晴奈とエルスが話している間に、博士の方も話がまとまったようだ。
    「では、正式に契約させていただきます」
    「ありがとうございます」
     どうやら、博士はこの家を買うことにしたようだ。

    蒼天剣・大徳録 3

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第75話。大きな買い物。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 黄屋敷にて、エルスの師、ナイジェル博士と、晴奈たち姉妹の父、紫明が、応接間で何枚かの書類に目を通していた。「ふむ、ここもいいですな」「こちらもなかなかですよ」 二人が見ているのは、不動産のチラシである。 元々エルスたちは、亡命を目的として黄海に移ってきた身である。故郷の北方にはしばらく戻れないため、当然、長期の滞在になる...

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    晴奈の話、第76話。
    意外と短気。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     新居も決まり、早速エルスたちは家具の買出しに出た。
    「ふーむ、食器や棚はともかく、ベッドは流石に無いか」
     市場を回りながら、博士が残念そうにつぶやく。
    「央南の人は大抵、布団ですからねぇ」
    「まあ、無さそうなら造ってもらおうかの」
    「その方が早いでしょうねぇ」
     付き添いのエルスは適当に相槌を打ちながら、市場の売り物を眺めていた。
    「……お。エドさん、いいのがありますよ」
    「うん?」
     エルスの指差す方を向いた博士は、「ほう」と声を上げた。
    「なかなかの年季物じゃな。材質は、樫か。手入れも行き届いておる。……買ってしまうか?」
     露天の軒先にあったその碁盤を見て、博士はニヤリとエルスに笑いかける。エルスもニヤリと笑い返し、うなずく。
    「買ってしまいましょう」
    「ひゃひゃひゃ……」
     博士は特徴ある高い笑い方で返し、売主に声をかけた。
    「もし、店主。この碁盤、いくらかの?」
    「えーと、んー……、5千玄でいいや」
    「よし、買った」
    「まいどありー」
     即金で買い、博士は碁盤をエルスに持たせる。
    「ひゃひゃ、いい買い物をしたわい」
    「そうですね。後で一局、打ちましょうか」
    「そうじゃの、楽しみじゃ。……おう?」
     エルスたちの前を、少女が一人横切った。

    「どこかで、見たような……?」
     首をひねる博士をよそに、エルスは声をかける。
    「リューカさーん、こんにちはー」
    「……あっ」
     呼びかけられた少女は振り向き、エルスたちに駆け寄った。
    「こんにちは、エルスさん。久しぶりね」
    「どもども。ほら、エドさん、この前家を買った人の娘さんですよ」
    「おお、そうか。初めまして、えーと、リューカさん、でしたかな」
    「はい、楊柳花と言います。あ、母から家のこと、伺いました。ありがとうございます、博士」
     博士はニコニコと笑って返す。
    「いやいや、礼を言うのはこちらの方です。いい家をいただきまして……。こちらのグラッド君とはもう、お知り合いのようですな」
    「ええ、少し前に知り合いました。随分、面白い方で……」
     柳花も笑って博士に会釈する。
     なお、この間――。
    《エルス。お前さん、この子に手、付けたりしてやせんだろうな?》
     博士が手信号――北方の諜報員が使う、手を使った暗号――でエルスに尋ねていた。
    《まさか。友人ですよ》
     エルスも碁盤を持ったまま、指先で会話する。
    「お二人とも、家具をお求めにこちらまで?」
    《本当かのう? お前さん、手が早いからな》
    「そうなんだ。でも、なかなかいいのが無くってね。ついつい、余計なものばっかり買っちゃうんだ」
    《自分の先生に嘘をつくほど、僕はひねくれてませんよ》
    「その碁盤も?」
    《本当かのう……? ま、どちらでもええわい。後腐れないからのう》
    《……何ですか、それ》
    「うん、そうなんだ。僕も博士も、囲碁が大好きでね」
    《そのまんまの意味じゃ。引っ越す子じゃし、手を付けたところでゴタゴタせんじゃろうしな》
    「へぇ……。博士さん、お強いの?」
    《いくら何でも僕、怒りますよ? そんな言い方したら》
    《したらなんじゃい? ワシゃ、お前さんの先生じゃぞ? 師に文句垂れてどうする?》
    「ええ、少なくとも小生の故郷では一番だったと自負しております」
    「はは……」
    《『例え王侯貴族が相手でも間違いを正さなければ忠義とは言わない』ってエドさん言いませんでしたっけー? 言っておきますがこれ以上侮辱されたら僕に青い髪のお孫さんが乗り移って碁盤がとんでもない方向に飛んで行くかも知れませんがそれでもいいですね?》
     エルスの顔は笑いながらも、手信号が段々荒々しくなってくる。博士はそこで、ようやく退いた。
    《ま、ふざけるのもこの辺にしとくかの。信じておるて、お前さんはそんな下劣な真似なんかせんよ》
    《……なら、いいです》
    「確かエルスさんって、北方の人でしたよね。 博士さんも、北方の方なの?」
    「うん」
    「北方って、温和な人が多いのかな?」
     柳花の言葉に、エルスと博士は一瞬、きょとんとした。
    「え?」「それはまた、どう言う理由で……?」
    「だって、エルスさんも博士さんも、ずっとニコニコしてるから」
    「いやいや、そんなこと無いよ。中には好々爺みたいに見えて実は腹黒い人もいたりするから、出会った時は気をつけなよー?」
    「うふふ、そうするわ。……それじゃ、またね」
     柳花は軽く会釈して、その場を去った。残ったエルスと博士は、ほんの一瞬――周りを通る人々が気付かないくらいの、ごく短い時間――同時に、互いを睨んだ。
    (誰が腹黒いじゃと、このボケナス!)(僕エドさんが、なんて言ってませんよー?)
     すぐに二人ともにっこりと笑い、同時につぶやいた。
    「さ、帰って一局やるかの」「帰って一つ、打ちましょうか」
     笑いながらも、二人の間にはバチバチと火花が散っていた。



     その日は夜遅くまで碁石を叩きつける音が響いていたと、翌朝、目にくまを作ったリストが語っていた。

    蒼天剣・大徳録 4

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第76話。意外と短気。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 新居も決まり、早速エルスたちは家具の買出しに出た。「ふーむ、食器や棚はともかく、ベッドは流石に無いか」 市場を回りながら、博士が残念そうにつぶやく。「央南の人は大抵、布団ですからねぇ」「まあ、無さそうなら造ってもらおうかの」「その方が早いでしょうねぇ」 付き添いのエルスは適当に相槌を打ちながら、市場の売り物を眺めていた。「…...

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    晴奈の話、第77話。
    もう一度デート。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
    「仲が悪いのか、エルスと博士は?」
     リストから愚痴を聞いた晴奈は、そう尋ねた。
    「ん、いや、悪いってワケじゃないんだけどね」
     リストは明奈が淹れてくれたお茶をすすりつつ、話を続ける。
    「じーちゃん、ああ見えて口悪いし、結構無神経なトコあるし。で、エルスもいっつもヘラヘラ笑ってるけど、割と頑固で強情なところあるもん。
     だから時々、ケンカするのよ。まあ、普段は仲いいんだけどね」
    「ケンカするほど仲がいい……、と言うことですね」
     晴奈にお茶を出しつつ、明奈が相槌を打つ。
    「ま、そんなもんね」



    「ふあ、あ……」
     深夜遅くまで博士と碁を打ち続けたエルスは、しきりに生欠伸をしながら、郊外の丘に寝転んでいた。
    「エドさん、しつこいんだよなぁ……」
     目をつぶると、夕べの棋譜が浮かんでくる。
    「あー……、あそこはもうちょっと、抑えて打つべきだったなぁ」
     目を開け、棋譜を思い出しながら、空を指差して検討する。
    「あと、ここももうちょい、早めに打っていれば……、ふあぁ」
     夕べ満足に眠れなかったため、次第に眠気がやってきた。
    「……ちょっと、寝ようかな」
     もう一度目をつぶり、エルスは昼寝し始めた。

    「エルスさん、エルスさん……」
     誰かがエルスを呼んでいる。エルスはすっと目を開け、上半身を起こした。
    「誰かな?」
    「こっち、こっち」
     後ろを振り向くと、あの少女――柳花が座っていた。
    「ああ、こんにちは」
    「こんにちは、エルスさん。お昼寝?」
    「ああ、うん」
    「ごめんね、起こしちゃって」
     謝る柳花に、エルスはパタパタと手を振る。
    「いや、いいよ。どしたの、何か用かな?」
    「うん、あのね……」
     柳花の顔が曇る。
    「明日、黄海を出るの」
    「……そっか。それで、僕にお別れの挨拶を?」
    「うん。エルスさんや博士さんには、色々お世話になったし。出る前にもう一度、挨拶しておこうと思って」
    「ふむふむ。……でも、博士は今、寝てると思うな。夕べからちょっと、具合が悪かったし」
    「あら……」
     エルスは博士に会わせたくない――むしろ、自分が会いたくないので軽い嘘をついた。
    「それよりも、もう一度買い物に行かない?」
    「買い物に?」
    「そう。最後の記念にね」

     エルスは柳花を連れ、繁華街へと入る。
    「今日はどこに行くの?」
    「ちょっと裏に入ったところに、いい店があるんだ」
     そう言うとエルスは柳花の手を引き、細道へと入る。
    「ちょ、ちょっと。危なくない?」
    「大丈夫、大丈夫。僕がいるんだし」
     細い路地をすり抜け、エルスはある店の前で立ち止まった。
    「ここだ。良かった、開いてるみたいだ」
     トントンと戸を叩き、先にエルスが店の中に入る。
    「いらっしゃい」
     奥で新聞を読んでいた初老の猫獣人が、顔を上げて挨拶する。
    「こんにちは。あのー、作ってもらいたいモノがあるんですが」
    「んー?」
     老人は新聞をたたみ、のそのそとエルスのところまで歩いてきた。
    「何を作ってほしい?」
    「この子に似合う、うーん……、腕輪かな」
    「あいよ」
     老人はそう言うと、柳花の腕を取って手首を握った。
    「きゃ……」
    「ああ、すまん。見ないと作れんから」
    「は、はあ」
     老人は柳花から手を離し、またのそのそと奥へ消える。程なくして、カンカンと言う短く、高い音が聞こえてきた。柳花は握られた手首をさすりながら、エルスに向き直る。
    「ああ、ビックリした。いきなりつかんでくるんだもん」
    「ゴメンね、あのおじいさん、ぶっきらぼうな人だから。でも腕は確かだから。金属細工の職人なんだ」
    「ふうん。あ、でも腕輪って、作るのに時間がかかるんじゃない?」
    「ああ、それは大丈夫。この前、……っと」
     エルスは胸元から鎖でつないだ、2つの銀輪と1つの金輪が絡んだ首飾りを取り出す。
    「これ、作ってもらったんだけどね。すごく早かったんだ。確か、2時間くらい」
    「へえ……」
     柳花は奥の工房に目をやり、すぐにエルスへと視線を戻す。
    「ずっとこの街に住んでたけど、こんなお店があるなんて全然知らなかった。エルスさんって、すごいね」
    「はは、僕は昔から、物を探すのが得意だから。それでご飯食べてたしね」
     エルスと柳花が談笑していると、老人の奥さんらしき短耳が茶の乗った盆を持って、奥からひょこひょこと歩いてきた。
    「グラッドさん、でしたっけ。良かったらできるまで、ゆっくりしていってくださいな」
    「あ、すみません。それじゃ遠慮なく、いただきます」
     エルスは茶を手に取り、傍らに置いてある長椅子に腰かけた。
    「さ、そちらのお嬢さんもどうぞ」
    「あ、はい」
     柳花も茶を手に取り、エルスの横に座る。座ったところでエルスが、柳花の事情を伝える。
    「この子、明日引っ越すんです。それで、思い出作りにと思って」
    「まあ、そうなんですか。じゃあ、急がせないといけませんね」
     お盆を傍らに持ち、老婆はいそいそと奥へ戻っていった。すぐに奥から、ボソボソと話し声が聞こえてくる。
    「あなた、聞きました?」
    「ああ、1時間もあればできる」
    「そう、それならゆっくりしてもらってもいいかしらね」
    「俺にも茶をくれ」
    「はい、すぐに持ってきますね」
     老夫婦の話を聞いていた柳花は、クスクスと笑う。
    「なんか、いい雰囲気ね」
    「そうだね。落ち着くんだ、ここ。大通りから離れてて静かだし、ちょっと暗めだけど綺麗な店だし」
    「それもあるけど、あの二人がすごく仲良さそう」
     そう言って柳花はため息をつく。
    「はあ……。もしお父さんが生きてたら、あんな風に老けていったのかしら」
    「どうかな、商売人だったそうだし……」
    「そうね。死んじゃう直前まで、ずっと布団の中で『店は順調か?』ってお母さんに尋ねてたもの。……だから、死んじゃったのかな」
     柳花の顔が曇り、今にも泣きそうな声になる。
    「なんで落ち着いて休んでくれなかったんだろう。そしたら、病気も治ったかも知れないのに」
    「……うーん」
     柳花の悲しそうな横顔を見て、エルスは買った家について発見したことを思い出していた。

    蒼天剣・大徳録 5

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第77話。もう一度デート。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5.「仲が悪いのか、エルスと博士は?」 リストから愚痴を聞いた晴奈は、そう尋ねた。「ん、いや、悪いってワケじゃないんだけどね」 リストは明奈が淹れてくれたお茶をすすりつつ、話を続ける。「じーちゃん、ああ見えて口悪いし、結構無神経なトコあるし。で、エルスもいっつもヘラヘラ笑ってるけど、割と頑固で強情なところあるもん。 だから時...

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    晴奈の話、第78話。
    大徳のエルス・グラッド。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
     エルスは茶をすすりながら、ゆっくりとした口調で語り始めた。
    「お父さんは家族に不自由させたくないと思って、床の中でも仕事のことを考えていたんじゃないかな」
    「そうかしら……? あたし、小さい頃からずっと、お父さんに構ってもらった覚えがあんまり無い。たまに遊んでくれたけど、帰ると大抵すぐ寝ちゃうし、いつも『少しは休ませてくれ』って怒られたし……」
     エルスは茶を飲み干し、人差し指をピンと立てた。
    「あの家を買って、あれっと思ったことがあるんだ。最初君の家、小さめで2階は無かったんじゃない? で、改築したのは多分10年くらい前で、君がまだ小さい時かな。それに弟さんか妹さんもこの頃、生まれてるんじゃないかな」
    「え? ええ、そうだけど。確かに妹もいるけど、何で分かったの?」
    「まず、階段に手すりが大人用と子供用、2つあった。君が子供の時に改築してなきゃ、子供用の手すりなんか付けたりしない。
     しかも階段自体、かなり緩やかに造ってある。安全に気を遣った構造だよ。それに緩やかにしようとすればするほど階段は長くなるし、最初にあった家では到底造れない大きさだった。だから、お金が入った後で敷地をかなり多めに増やしたんだろうと推察できる。
     それからお風呂。最初のサイズより、随分大きくなってたみたいだね。おまけに、家の壁を一度壊してまで拡張した跡が見られた。きっと家族が増えて、みんなで入れるようにと思って造ったんだろうね。
     他にもかなり大幅に改築した跡が――それこそ、新しく造ったんじゃないかと思うくらいに――見られたし、相当手を加えてたと思うよ」
    「うそ……、そんなことまで分かるの、エルスさん」
    「さらに推理すると、君のお父さんは多分、10年くらい前にかなりの大成功を収めたんじゃないかな。
     最初は小さく、狭い家が、十数年で2倍、3倍もの大きさになってる。そして成功してからは、できるだけ広くて住みやすい家にしようと頑張った跡が、あちこちにあった。
     家族のことを考えた、いい家だよ。多分、最期まで商売のことを考えていたのも、自分が放っている間に失敗して、また貧乏になりはしないかって、不安だったんだと思うよ」
    「……そっか。そうかも知れない。全然、気に留めてなかったけど」
     柳花は茶の入った湯のみを両手で抱えたまま、目をつぶった。
    「……最後にもう一回だけ、家を見ていい?」
    「いいよ。……エドさん、いなきゃいいんだけど」
    「え?」
    「ああ、何でもない。こっちの話」
     と、奥から老夫婦が並んで戻ってきた。
    「できたぞ」
    「はい、どうぞ」
     老婆は老人から銀と金の輪が絡み合った腕輪を受け取り、柳花の左腕にはめた。
    「まあ、ぴったりね。すごく似合うわ」
    「そ、そうですか? ありがとうございます」
     柳花は顔を赤くして、ぺこりと頭を下げた。



     数日後、柳花が黄海を離れてしばらく経った頃。
    「はーぁ」
     黄海の道端で、珍しくため息をつきながら歩いているエルスを見て、晴奈が声をかけた。
    「どうした、らしくない」
    「ああ、セイナ。いやね、ちょっと寂しいなーって」
    「うん? ……ああ、柳花のことか」
     エルスは空を見上げ、またため息をつく。
    「折角できた友達が遠くに行っちゃうって言うのは、いつでも切ないね」
    「ああ、確かにな。分からなくは無い」
     晴奈もエルスの横に立ち、空に浮かぶ雲を眺める。
    「元気にしてるかなぁ」
    「しているといいな」
    「うん……」
     晴奈は寂しそうにするエルスの横顔を見て、思わず尋ねてみた。
    「なあ、エルス」
    「んー?」
    「何故、お主はそれほど人懐っこいのだ?」
    「え?」
     エルスが晴奈に顔を向け、首をかしげる。
    「どう言う意味?」
    「初めて出会う人間にほいほいと声をかけ、すぐに慣れ親しみ、数日過ごしただけでそれほど気にかける。大したお人好しだよ、お主は」
    「そっかなぁ」
     エルスは頭をポリポリとかきながら、腕を組んで考えこむ。
    「まあ、僕は人が好きだから」
    「それも、不可思議ではあるな」
    「何で?」
    「頭がいいから」
     エルスは晴奈の返答を聞いて、また首をかしげる。
    「ゴメン、頭いいって言ってもらったけど、ちょっと意味が分からないなぁ」
    「私の中では、策を弄する者は人を陥れるのが楽しみ、と言う印象がある。お主が柳花と最初に会った時も、不慣れな者の振りをして近付いていたし、あれは策を弄していると言えないだろうか」
    「はは……、確かにあれは策略と言えば策略かなぁ。でも、人をいじめるのが快感だなんて、そんなのエドさんみたいに因業な人だけだよ。
     そう言う人は人の痛みを知ったらそれにつけ込むけど、僕は人の痛みを知ったら、その痛みを和らげてあげようと思っちゃうから。
     それに、分からない振りをしたのは何も、彼女を苦しめるためにやったことじゃないしね。あくまで友達になろうと思ってやったことだよ」
    「……まったく、おかしな奴だ」
     晴奈はクス、と笑って、エルスの肩をポンポンと叩く。
    「何だか気に入った、お主のことが」
    「はは、それはどうも」
     エルスもクスクスと笑いながら、晴奈に背を向けて歩き去った。



     独特の感性、思想を持つ変人でありながら、他人と深く接する「変わり者の中の変わり者」。
     それが「大徳」エルス・グラッドと言う人物である。

    蒼天剣・大徳録 終

    蒼天剣・大徳録 6

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第78話。大徳のエルス・グラッド。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -6. エルスは茶をすすりながら、ゆっくりとした口調で語り始めた。「お父さんは家族に不自由させたくないと思って、床の中でも仕事のことを考えていたんじゃないかな」「そうかしら……? あたし、小さい頃からずっと、お父さんに構ってもらった覚えがあんまり無い。たまに遊んでくれたけど、帰ると大抵すぐ寝ちゃうし、いつも『少しは休ませ...

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    晴奈の話、第79話。
    狙われる明奈。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     明奈との再会を喜び、数週間を黄海で過ごした後、晴奈はまた紅蓮塞に戻った。

     その後ふたたび修行の日々を過ごし、年が明けた双月暦516年はじめ頃。晴奈は黒炎教団についての、不穏なうわさをしばしば耳にするようになった。
    「何でも『人質として得た教団員が脱走した』、『逃げた教団員は故郷の黄海に戻っている』と言うような話が、巷に多く上っているようです」
    「ふーむ……」
     晴奈からの報告に、重蔵は腕を組んでうなる。
    「わしの方でも、そう言ったうわさは多少耳に入れておる。察するにその、『脱走した教団員』と言うのは……」
    「ええ。ほぼ間違い無く私の妹、明奈のことでしょう。
     そしてさらに、『教団は逃げた教団員を奪取すべく、黄海に攻め込む準備を進めている』とも」
    「それが真実であれば、黄海で一騒動起こるのは確実じゃろうな」
    「と言うわけで、近いうちにまた、黄海へと戻りたく……」
     そう要請した晴奈に、重蔵は深くうなずき、快諾した。
    「うむ。故郷の一大事とあれば、ここでじっとしているわけにも行かんじゃろう。すぐに向かいなさい。
     ああ、それと念のため、うちの剣士を30名ほど連れて行きなさい。腕の立つ者をわしが見繕って、声をかけておく」
    「よろしいのですか?」
     思わぬ申し出に、晴奈は目を丸くする。
     その様子に笑みを返しながら、重蔵はこう返した。
    「黄家は我々に多大な寄進をしてくれておるし、黒炎の非道を許すわけにもいかん。何より晴さんの故郷じゃ。焔流の総力を挙げて護らねば、剣士の名折れじゃろう」
    「ありがとうございます、家元」

     重蔵の計らいにより、晴奈は焔流の剣士30余名を引き連れ、黄海へと戻った。
    「父上、ただいま戻ってまいりました」
    「おお、晴奈!」
    「明奈が狙われていると言う噂を聞きつけ、塞より護衛を連れて参りました」
    「そうか、そうか! うむ、焔の者たちと晴奈が来てくれれば安心だ!」
     晴奈の父、紫明は晴奈の手を堅く握りしめて喜んだ。とても昔、晴奈を紅蓮塞から連れ戻そうとした者と同一人物とは思えず、晴奈は苦笑した。



     しかし、運命とはやはり、皮肉なものであるらしい。
     通常なら何と言うことの無い行為が、いやむしろ、明奈を護ろうとしてやったことが、ふたたび彼女がさらわれる原因を作ってしまったのである。

     第一に、明奈が何の気無しに「甘いものが欲しい」と言ったこと。
     そのまま明奈が菓子を買いに行けば、当然、出歩いている時に拉致される危険がある。そのため、晴奈が代わりに買いに行くことを提案した。
    「でも、お姉さまにそんなことを頼むのは……」
     申し訳無さそうにする明奈に、晴奈は肩をすくめる。
    「いいよ、大した用事でもない。ほんの15分くらいだから、すぐ戻れるさ」
    「……そう、ね。では、お願いいたします」
     そんな感じで、晴奈も何の気無しに、街へと出て行った。

     そして第二に、晴奈が出たその直後、ナイジェル博士が黄家の屋敷に現れたこと。
    「博士、どうされたのですか? ご用があるなら、こちらから伺ったのに」
     尋ねる紫明に、博士は小声で説明を始める。
    「教団のうわさ、小生も聞いております。うわさが本当であれば、この屋敷はそう遠くないうちに襲撃されるでしょう。
     セイナさんが人手を集めて戻られたとは聞いておりますが、それでも教団員の人海戦術は、油断ならざる機動力と攻撃力を持っております。正面からのぶつかり合いになれば、いくら焔流剣士とて、分が悪い」
    「ううむ……」
     博士の説明に、紫明も表情を曇らせる。
    「まだそうなると決まったわけではありませんが……、もしも刃傷沙汰が起こると言うようなことになれば、黄海にとってはいい影響を及ぼすとは到底思えません。
     この黄海を治める者として、そんな悪評を立てられたくはありませんし、何より犠牲者が出るような結果になることは、誰にとっても良いことではありませんからな」
    「然り。となれば、犠牲だの傷害だのと言った凶事が起こる前に、騒動の中心人物、即ち娘さんを、騒動の中から離してしまうのがよろしいでしょう」
    「つまり、明奈をどこかに隠す、と?」
    「ええ。一つの案ですが、いかがでしょうか?」
     博士の提案に、紫明は大きくうなずいた。
    「ふむ、それがよろしいでしょう。しかし、どこに隠せば?」
    「小生が買った家があります。そこならば手練のエルスもおりますし、守りは堅いでしょう」
    「なるほど。では、善は急げです。すぐ、明奈を連れて行きましょう」
    「こちらでも、かくまう手配をしておきます。
     しかしくれぐれも、万全の警備で連れてきて下さい。敵にしても、護送の瞬間は『狙い目』ですから、……大人?」
     元来せっかちな紫明は、既にその場にいなかった。
    「……まあ、無茶はせんだろうが」
     博士は肩をすくめつつ、屋敷を後にした。

     だが、博士の予想とは裏腹に、紫明は性急な判断を下してしまっていた。
    「……と言うわけだ。すぐ向かおう」
    「でもお姉さまが、まだ戻られていませんし」
     ためらう明奈に、紫明は自分の主張を強く推す。
    「確かに晴奈が戻って来た後なら、より安全ではある。だがこう言うことは、手早く済ませなければならん。
     それに、晴奈でなくとも、焔流の剣士たちは大勢いらっしゃる。彼らで不足と言うこともあるまい。な、だから早めに向かおう、明奈」
    「……では、支度いたします」
     父を説得しきれず、明奈は身支度を整え、屋敷を出た。
     玄関を抜け、庭に出たところで、剣士たちがバタバタと近付いて来る。
    「ご令嬢! さあ、参りましょう!」
    「なあに、心配ご無用でございます!」
    「我々焔剣士がいれば、黒炎の奴らなどに手出しなど!」
    「……あの、みなさん」
     意気揚々と口上を並べ立てる剣士たちに、明奈は顔をしかめ、抑えようとする。
    「これは隠密行動ではないのですか? あまりに騒々しいと……」
    「いやいや、心配なさらず!」
    「辺りを見回りましたが、敵らしい者はおりません!」
    「どうぞご安心を、……ご、ぼっ?」
     大声を上げていた剣士たちの一人が突然、倒れる。
    「……ひ、っ」
     その背中に矢が突き刺さっているのを見て、明奈は悲鳴を上げた。
    「き、教団員か!?」
     明奈が危惧していた通り、騒ぎ過ぎたらしい――教団員たちがぞろぞろと、門や壁を越えて集まってきた。



     もし晴奈が早く戻ってきていれば、あるいは紫明が性急に行動しなければ、この後起こる悲劇は食い止められたかもしれない。

    蒼天剣・悪夢録 1

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第79話。狙われる明奈。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 明奈との再会を喜び、数週間を黄海で過ごした後、晴奈はまた紅蓮塞に戻った。 その後ふたたび修行の日々を過ごし、年が明けた双月暦516年はじめ頃。晴奈は黒炎教団についての、不穏なうわさをしばしば耳にするようになった。「何でも『人質として得た教団員が脱走した』、『逃げた教団員は故郷の黄海に戻っている』と言うような話が、巷に多く...

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    晴奈の話、第80話。
    悪魔の登場。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
    「くそ……。何故あんなに人が並ぶんだ? おかげで30分も待たされた。明奈も待ちわびているだろうし、早く戻らないと」
     昔からのクセか、晴奈はブツブツと文句をつぶやきながら、菓子袋を抱えて黄屋敷に戻ってきた。
    「……!?」
     と、黄屋敷の周りが騒がしいこと、そして、平和な街中に似合わぬ臭いが漂っていることに気付く。
    (血の臭い? ……まさか!?)
     何が起きたか瞬時に察し、晴奈は血の気がざーっと音を立てて引いていくのを感じた。
    (おいおい、冗談だろう!? 何故、私のいない時に限って!)
     人をかき分け、屋敷の門を潜って中に押し入る。
     庭や屋敷の広間、そして応接間などに剣士たちが固まっている。現状を把握しようと、彼らの声に耳を傾けたが――。
    「黄大人の娘御がさらわれたそうだ! 相手は黒炎の奴らに違いない!」
    「早く助け出さねば!」
    「助け出した者には褒美があるとか」
    「何? 金か?」
    「いや、この事態だ。ご令嬢を……、かも知れんぞ」
    「おお、まことか!?」
    「そうなれば、家督も……」
     彼らの勝手な話に、晴奈は憤慨した。
    「このたわけッ! 金や女目当てでここに来たのか、お前らッ!」
    「うひゃ……、せ、先生、あのっ」「やかましい! とっとと散れッ!」「は、はいっ」
    (人の妹を褒美だと!? モノ扱いするとは、馬鹿者どもめ! まったく、修行が足らぬ!)
     心の中で怒り散らしながら、晴奈は剣士たちを押し分けて応接間に入る。
     騒ぎを聞きつけたらしく、そこにはエルスとリスト、そして博士の三人が、頭に包帯を巻いた紫明と向かい合って座っていた。
     と、外の様子を眺めていたエルスが窓に晴奈が映っているのに気付いたらしく、背を向けたまま声をかける。
    「なーんかさ、騒いでるのは男ばっかりだよね。もしかして……」
    「そう。明奈狙いだ」
     晴奈は憮然とした口調で、エルスに答えた。
    「しかも、明奈の婿になれば黄家の財産も手に入るなどと抜かしている」
    「美少女と家督狙いか。さもしいのう」
     博士もエルス同様、呆れた目で窓の外の剣士たちを眺めていた。
     と、ここでエルスが晴奈に向き直る。
    「そう言えばセイナ、屋敷にいなかったの?」
    「ああ、用事から戻ってきた途端にこの騒ぎだ。
     まったく、私も明奈もつくづく運が悪い。何だって私のいない時にばかりさらわれるんだかな」
     エルスの問いに、晴奈は自嘲気味にため息をついて答えた。

     紫明の話では、教団員たちは護衛の剣士たちを倒した後、明奈だけを連れて逃げ去ったと言う。
     しかし事が起こったのはつい数十分前の話であり、焔流の剣士たちも街の自警団や州軍と共同で、厳戒態勢を敷いて街中を巡回している。
     その警戒の中、まだ日の高いうちに街の外に出るのは難しいため、黄海のどこかに潜んでいるだろうとの博士の予測により、何班かに分かれて街を捜索することにした。
    (明奈、無事でいてくれ……!)
     晴奈も焦る気持ちを押さえながら、街に繰り出した。



     街のあちこちで、焔流の剣士と黒炎教団の者が戦っている。
     晴奈たちの班も、戦っている者たちに手を貸して教団員たちを追い払い、蹴散らしていく。
     だが教団お得意の人海戦術により、いくら倒しても、どこからか増援が現れる。
    「ええいッ! しつこいッ!」
     明奈がさらわれてから既に1時間ほどが経っていたが、教団員たちがワラワラと沸いてくるため、思うように進めない。
    (こいつら、一体何人いるんだ!?)
     斬りつけ、蹴倒し、投げ飛ばし――晴奈一人だけで、すでに20名近く倒しているし、周りの剣士とも合わせれば、その倍以上は相手している。
    (毎度毎度、こいつらはワラワラと……!)
     それでも少しずつ、街を捜索していると――ドン、と言う重たい炸裂音が南の方、街外れの方角から聞こえた。
    「な、何だ!?」
    「一体……?」
     争っていた剣士も教団員も、その爆発に一瞬動きを止める。
    「……今だ!」
     晴奈は我に返り、まだ呆然としている者たちを突き飛ばし、かき分けて、その方向へと走って行った。

     街外れへとたどり着くと、そこには轟々と火柱が立っていた。
     と、その火柱を背に、明奈がこちらにかけて来るのを確認する。
    「明奈!」「お姉さま!」
     明奈は晴奈を見るなり、晴奈の胸に飛び込んできた。
    「大変、大変なの! 博士が、ナイジェル博士が、黒炎様に……!」
    「……何だって?」
    「黒炎様……、大火様が、博士と……!」
     その言葉を聞いた瞬間、晴奈に戦慄が走った。

    蒼天剣・悪夢録 2

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第80話。悪魔の登場。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2.「くそ……。何故あんなに人が並ぶんだ? おかげで30分も待たされた。明奈も待ちわびているだろうし、早く戻らないと」 昔からのクセか、晴奈はブツブツと文句をつぶやきながら、菓子袋を抱えて黄屋敷に戻ってきた。「……!?」 と、黄屋敷の周りが騒がしいこと、そして、平和な街中に似合わぬ臭いが漂っていることに気付く。(血の臭い? ……まさか...

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    晴奈の話、第81話。
    黒の中の黒。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
    (克大火が、ここに……!?)
     その名を聞き、晴奈の心はひどく高揚した。
    「明奈……。悪いが、付いてきてくれ」
    「お姉さま?」
    「ここに置いていけば、危険だ。……でも」
    「でも?」
    「……」
     無意識に足が動く。明奈の手を引いたまま、燃え上がる野原に歩き出す。
    「お姉さま……?」
     不意に、免許皆伝の試験を受けた時、重蔵と話したことが思い出される。
    ――意味も無く戦えば、無為――
    ――無意味な戦いは、失わせる――
    ――戦いを繰り返せば、行き着く先は修羅の世界――
    (だが、見てみたい……!
     克大火は無双の剣豪と聞く。本当にいるのなら、一体どのような奴なのか、この目で確かめたい。
     そして、機、あらば――戦ってみたい)
     晴奈の剣士としての興味、誇りが刺激される。
     既に明奈はここにいるし、後は安全な場所に逃げれば、それで終わる話である。わざわざ戦う意味は無いのだ。
    (それでもこの先にいると言う剣豪を、この目で見てみたい)
     そんな思いが、晴奈を突き動かしていた。



     意味の無いことと分かっていても、晴奈はなぜか戦いそのものに惹かれていた。

     無論、理性では無駄な戦いはしてはならないと弁えているし、そのことは免許皆伝以来、ずっと頭の中で繰り返し唱え、十二分に配慮し、気を付けている。だがそれでも、心のどこかで戦いへの欲求があるのだ。
     勿論、そんな浅ましい欲求など、今まで師匠や友人たちと一緒にいる時、表面に出したことは無い。それどころか、自分自身もそんな恐ろしい感情は、今の今まではっきりとは自覚していなかった。
     しかしこの時、晴奈ははっきりと己の心の中に潜む「戦うこと、それ自体への欲求」が、表へとあふれ出ているのを、ひしひしと感じていた。
    (私は、修羅になりかけているのかな)



     目の前に、それはいた。
     爪先から髪、皮手袋、衣服や肌の色まで全身真っ黒な男が、そこら中に倒れた剣士たちから流れるおびただしい血と、周囲の草木やあばら家を焼く炎が撒き散らされた焼け野原の前で、エルフの老人を背後から突き上げていた。
    「俺に敵うと思っていたのか?」
    「が、ふ……」
     男は老人をゆっくりと――周囲を焦土と化させ、何人もの人間を惨たらしく殺した者が、同時にこれほど優雅な動きを見せるのかと、晴奈は怖気を感じた――優しく、地面に横たわらせる。
     老人は背中から胸にかけて、老人が使っていたであろう魔杖で貫かれている。どう見ても、致命傷である。
    「とは言え力量と戦術の有効性は、認めてやろう。俺としたことが、少し手間取ってしまったからな」
     男はそう言うと老人の前で屈み込み、両手を合わせた。
     老人は、ナイジェル博士その人だった。

     いつの間にか、明奈はいない。どうやら怯え、どこかに逃げたようだ。
     だが――あれほど妹を心配した者とは同一人物と、自分でも思えないくらい――晴奈は安心していた。
    (邪魔は、消えた)
     そんな風に考えながら、晴奈は一歩、前へ踏み出す。
    「……克、大火殿とお見受けする」
     屈み込んでいた男が、背中を見せたまま立ち上がる。
     背の高い晴奈よりさらに頭一個ほど高い、かなりの長身であり、ただ立つだけでも、胃をつかまれるような凄味がある。
    「いかにも」
    「た……」
     晴奈は何か言葉を発しようとしたが、胸中が定まらない。自分でも何を言おうとしたのか分からないまま、言葉が途切れてしまった。
    「た?」
     大火が何の感情も込めない、乾いた声で聞き返してくる。
     晴奈は何とか頭を動かし、口上を作る。
    「……そこの御仁は、私の妹の恩人だ。それを殺したお前は、私の仇……」「ほざくな、戯言を」
     その一言に、晴奈は身震いした。大火はクックッと、鳥のように短く笑う。
    「お前に言っておく。嘘はもう少しうまくつくことだ、な」「う、っ……」
     大火はくるりと身をひるがえし、顔を見せた。細い目と、その中にある、一切光を返さない暗黒の瞳が晴奈を射抜く。
    「口では仇だの、敵だのと抜かしているが、心は別の色に燃えている。とても怒りや悲しみ、雪辱の念を抱いているとは思えんな」
    「で、ではっ、どうだと言うのだ!?」
     心の中に、一歩、また一歩と踏み込まれていく感触を覚える。
    「喜んでいる。まるで世紀の財宝を見つけた冒険者だな。俺に会えたことが、それほど嬉しいのか?」
    「ち、違う! 私は……」「いいや、違わんな」
     大火は実際に一歩、晴奈に向かって踏み出す。その一歩は、晴奈にとっては心の奥底に踏み込まれるような印象を受けた。
    「隠すな、『猫』。狩猟動物の血が、お前には流れているのだろう? お前は今、俺と戦いたがっているのだ。
     そう、『これほど手ごたえのある獲物は、二人といない。例えこの戦いが意味を持たずとも、ただ純粋に、当代最高の剣士と仕合ってみたい』と、そう考えている」
    「あ、う……」
     一言一句に至るまで心の内を読まれた晴奈は、全身を何百、何千もの針で突き刺されるような恐怖を覚えた。
    (ダメだ……! 勝てない! 彼奴は私のはるか上から、私を見下ろしているのだ!
     どうやって地上を這う猫が、天空を翔ぶ大鴉を仕留められよう……!)
     みるみる、晴奈の気力が削がれる。抜こうと手をかけていた刀が、抜けなくなる。足がガクガクと震え、立っているのさえやっとだった。
     その様子を眺めていた大火は足を止め、またクックッと笑った。
    「臆したか。ならば戦う理由は何もあるまい。こちらとしても、この地での『散策』に概ね満足したのでな。
     では、失礼する」



     気が付けば、晴奈は博士の骸の前に、ぺたんと座っていた。
     と、後ろから声をかけられる。
    「セイナ、タイカ・カツミはドコ!?」
     リストの声だったが、晴奈は振り返ることができなかった。
     泣いていたからだ。

    蒼天剣・悪夢録 3

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第81話。黒の中の黒。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3.(克大火が、ここに……!?) その名を聞き、晴奈の心はひどく高揚した。「明奈……。悪いが、付いてきてくれ」「お姉さま?」「ここに置いていけば、危険だ。……でも」「でも?」「……」 無意識に足が動く。明奈の手を引いたまま、燃え上がる野原に歩き出す。「お姉さま……?」 不意に、免許皆伝の試験を受けた時、重蔵と話したことが思い出される。――意...

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    晴奈の話、第82話。
    黒の次は、白。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     博士の葬儀が終わったその夜。
     晴奈は一人、寝室の床に座って、たそがれていた。
    (私は、何と愚かな……)
     誇り高き剣士である自分が、己の欲望に操られ、しかも敵にそれを看破されてしまった。さらには気迫をぶつけられただけで身動きできなくなると言う、完膚なき負け方である。
    (まったく無様だな……)
     何もする気が起きず、晴奈はただぼんやりと尻尾をいじっていた。

     部屋の戸を叩く音がする。続いて、弱々しい声が聞こえる。
    「お姉さま、いらっしゃいますか?」
    「ああ、明奈。いるよ」
     そう答えると、静かに戸を開けて明奈が入ってきた。
    「どうした、明奈?」
    「あの、眠れなくて」
    「そうか」
     そう言って、明奈は晴奈の横に座る。
     顔を合わせないまま、二人はじっと座っていた。
    「お姉さま、あの」
    「何だ?」
    「……いいえ、何でも」
     時折、明奈が何かを言おうとするが途中で口をつぐみ、しばらく沈黙が続く。
     30分ほどそうしているうち、また明奈が口を開く。
    「……怖かった」
    「……そうか」
     そこで晴奈は、明奈が小さく震えていることに気付いた。明奈は怯えるような眼で、晴奈をチラ、と見てまた顔をそらず。
    「黒炎様のお姿も、博士が亡くなったことも。それから、お姉さまのお顔も」
    「顔? 私の?」
     晴奈は顔を向けて聞き返したが、明奈は目を合わさない。
    「黒炎様のことを伝えた時、お姉さまはとても怖い顔をしていらっしゃったわ。まるで、鬼か悪魔か、そう言った何か、恐ろしいもののようだった」
    「鬼、か」
     怯えた顔でぽつりぽつりと放たれる明奈の言葉が、晴奈の心をずきんと痛めた。
    (やはり、修羅になりかけていたと言うことか)
     晴奈はぎゅっと、明奈の肩を抱く。
    「お姉さま?」
    「……まったく、私は無様だ。鬼にもなりきれず、克大火に気迫負けした。かと言って聖人にもなれず、お前を放っておいた。
     中途半端に、どちらも投げ出したんだ。まったく、ひどい有様だ」
     愚痴の途中から、晴奈はポロポロと涙をこぼしていた。明奈も泣いている。
    「本当に、ひどい。何もかも、ひどかった」
    「うん……」



     泣いているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。
     晴奈は、夢を見ていた。

     夢の中でも、隣には明奈がいる。
    「お姉さま、見て!」
     と、その明奈が叫ぶ。
     彼女の指差した方を見ると、そこにはまばゆい光が瞬いていた。
    「何だ、あれは?」
    《人をアレとか、言わないでほしいなぁ》
     すぐ近くから男とも女ともつかない、中性的な声が聞こえてくる。晴奈も明奈も、きょろきょろと辺りを見回す。
    「どなた?」「誰だ?」
    《目の前にいるじゃないか、ホラ!》
     いつの間にか光は消え、そこには銀と黒の瞳をした、洋風の衣装に身を包んだ、銀髪に白い毛並みの猫獣人が立っていた。
    「あなたは……?」
    《好きなように呼びなよ、白猫とでも、何とでも。ホラホラ、落ち込んでる場合じゃないよ、二人とも》
     辺りの風景が、ガラリと変わる。晴奈たちはいつの間にか、白い花をふんだんに飾った白い部屋の中にいた。
    《立って話もし辛いだろ? 座りなよ、セイナ、メイナ》
     白猫はどこからか現れた簡素な白い椅子を指差し、晴奈たちに座るよう促した。
    「落ち込んでいる場合ではない、とはどう言う意味だ?」
     晴奈たちが座ったところで、白猫も別の椅子に座る。
    《数日のうちに黒炎教団がまた攻め込んでくるのさ》
     白猫の言葉に、晴奈は耳を疑った。
    「何だと、また!?」
    《良く考えてよセイナ。奴らはまだ、目的を達成してないんだよ。メイナはまだ、コウカイにいるんだから。
     だから攻めて来るのさ。今度は生半可な数じゃない。5万人規模に及ぶ、重厚な物量作戦を仕掛けてくる。こうなると戦争だよ、最早》
    「ご、5万人!? 馬鹿な!
     確かにこれまでも、教団は人海戦術での攻めを主体としてきたが、兵の数はせいぜい、数千人程度だったはずだ!
     それを5万にも増員するだと!? 一体何故、そこまでして我々を襲うのだ!?」
    《理由は3つある。一つはメンツだよ。キミたち焔流とはかなり因縁が深いから。
     しかもココ数年、キミたちの方が勝ち越してる。相当アタマに来てるはずだよ。だよね、メイナ?》
     白猫に尋ねられ、明奈はぎこちなく頭を縦に振る。
    「え、ええ。確かに、わたしがいた頃はずっと、焔流打倒の声が強かったように思います」
    《だろ? で、二つ目の理由は教区の拡大だ。ま、コレは言ったそのまんまだし裏も無いから説明はしない。
     で、最後の理由。教主の息子の一人が、昔ケガを負わされた奴の妹が、教団にいたって知っててさ。怒り半分、色欲半分でその子を奪おうとしてるんだ》
     白猫の話に、二人は顔を見合わせる。
    「ウィルバーか……!?」
    「そう言えばウィルバー様、何かとわたしにお声をかけて……」
    「つまり明奈を狙って、街ごと奪う気か!」
    「黄家のわたしとの縁が結ばれれば、自然に黄海に対する教団の影響力が強くなり、ひいては央南西部への教化が進むでしょうね」
    「そうなれば私との関係から、焔流の顔も丸つぶれ――なるほど、三つの理由が合わさる」
    「何て、いやらしい……!」
     二人の様子を眺めながら、白猫は話を続ける。
    《く、ふふっ。イヤだよねぇ、そんなの。だから、ボクはキミたちを助けてやろうと思うんだ。
     策を授けよう。エルスに助けを求めるんだ。彼は『知多星』ナイジェル博士の愛弟子だからアタマもいいし、何より軍事関係全般に強い。
     彼を総大将にすえて戦えば、まず負けるコトは無い》
    「エルスに、か?」「でも、エルスさんは……」
     晴奈と明奈は、再度顔を見合わせる。
    「確かに実力は認めるが、しかし……」
    「ええ、エルスさんは教団や焔流とは無関係ですし、ましてや央南の人間でもありませんし」
    「ああ。無関係の人間を巻き込むのは、気乗りがしない」
     だが、白猫は人差し指を立て、二人の思索をさえぎる。
    《文句は聞かない。って言うかボクに言っても仕方無い。コレは彼の運命でもあるんだから。
     言っとくけど、エルス・グラッドは大物だよ。いや、コレから大物になる。この一件は彼が世に名を馳せる、その第一歩になるんだ。
     無関係だからだとか、央南人じゃないからとか、そんな理屈は言うだけ無駄だ。それよりも彼を助けた方が、キミたちにとってもずっといい。分かった、二人とも?》
    「え、でも」「その」
     反論しようとする晴奈たちを、白猫はにらみつける。
    《わ、か、っ、た!?》
    「は、はい」「わ、分かった」
     その剣幕に、二人は思わず承諾する。その返事を聞き、白猫は満足げにうなずいた。
    《うん、よし。じゃあその誓い、立ててもらうよ》
    「えぇ?」「自分で誓わせておいて、一体何を言うんだ?」
    《いーからいーから。ま、そんなに難しいコトじゃない。
     ただ水色の着物着て、エルスのトコに挨拶に行ってくれればいいだけ。ちょーどいい具合に、用事もできるから》
    「はあ……? それくらいなら、構いませんが」「まあ、やってみようか」
    《く、ふふっ。それじゃ頑張るんだよ、晴明姉妹》
     白猫は席を立ち、その場を後にする。

     そこで晴奈は、不思議な夢から覚めた。

    蒼天剣・悪夢録 4

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第82話。黒の次は、白。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 博士の葬儀が終わったその夜。 晴奈は一人、寝室の床に座って、たそがれていた。(私は、何と愚かな……) 誇り高き剣士である自分が、己の欲望に操られ、しかも敵にそれを看破されてしまった。さらには気迫をぶつけられただけで身動きできなくなると言う、完膚なき負け方である。(まったく無様だな……) 何もする気が起きず、晴奈はただぼんやり...

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    晴奈の話、第83話。
    本物の、夢のお告げ。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     目を覚まし、晴奈は辺りを見回すが、明奈はいなかった。どうやら自分より早く起きて、自分の部屋に戻ったらしい。
    (あの夢は一体……?)
     ぼんやりとしながらも、晴奈は着替えを始める。
     と、衣装棚にあった水色の着物が目に入る。
    (水色の着物、か。まあ、夢だろうが)
     あまり信じてはいなかったが、どうしても気になったので、晴奈はそれを着た。
     部屋を出たところで丁度、隣にある明奈の部屋の戸も開く。
    「ああ明奈、おは……」「あ、お姉さま。おは……」
     挨拶しかけて、晴奈は絶句した。明奈も目を見開き、驚いている。
     何故なら明奈も、水色の着物を着ていたからだ。

     朝食の後、晴奈と明奈――晴明姉妹は父、紫明に呼ばれた。
    「どうされたのですか、父上?」
    「うむ、実は……」
     紫明は浮かない顔で、懐から一通の手紙を取り出した。
    「今朝早く、文が投げ込まれたのだ。どうやら黒炎教団からのものらしい」



    「黄海及び黄商会の宗主、黄紫明殿へ

     昨日、我らが同志、メイナ・コウの身柄引き渡しを願い出ようとしたところ、そちらの友軍である焔流一派に妨害され、多数の被害者を出した。
     その責を問うため、3日後にふたたび身柄確保に乗り出す所存である。万が一、焔流の者がその席にいた場合、我々は実力を以って、そちらに用件を受諾していただくように対処するであろう。
     無論我々は、円満な話し合いによって交渉がまとまることを望んでいる。そちらでも、黄州及び央南西部の平和と黄商会の利益の観点を鑑み、十分に検討していただくよう、考慮されたし。

    黒炎教団 大司教 央南方面布教活動統括委員長 ワルラス・ウィルソン2世」



    「これは……」
     手紙を読んだ晴奈は思わず、手紙を破り捨てそうになった。だが何とかこらえて、父の話を聞く。
    「ああ、字面では穏やかな話し合いを望んでいるとのことだが、十中八九、明奈を強奪するつもりなのだろう」
    「『願い出ようとした』だの、『被害者を出した』だの……、嘘もいいところだ!」
     憤慨する晴奈に対し、紫明は浮かない顔をしている。
    「私としては、その……」
    「父上?」
     言いにくそうにする父を見て、明奈は父の胸中を察する。
    「前回同様、わたしの身柄でこの街と商会の平和が保たれるならば、彼らの要求に応じようと、そうお答えするつもりでしょう?」
    「あ、いや、その……」
     明奈は落ち着き払った、堂々とした態度で応対する。
    「昔とは違って、わたしも大きくなりました。自分の身の振りは、自分で決めさせてくださいませ」
    「いや、しかし……」
     一方、紫明は言葉を濁し、明奈の言葉にうなずこうとしない。
     そんな父の態度を見て、晴奈は歯噛みする。
    (何故だ父上、どうして一言『分かった』と言わない?
     ……ああ、この人はいまだ昔と変わらぬのか。娘は自分の所有物だと言う、その考えがまだ抜けていないのか)
     そう悟り、晴奈の怒りはますます燃え上がる。
     たまらず声を上げようとした、その時――明奈が姉の心中を代弁した。
    「昔の、お父さまの庇護の下にあった時のわたしであれば、わたしはお父さまの言う通りに従ったでしょう。
     しかし、わたしも大人になりました。この先お父さまの考えに従い、そのまま教団に渡ったならば、わたしの身は一体どうなると思います?」
    「どう、って」
    「恐らく教主のご子息が無理矢理に、わたしを娶ろうとされるでしょう」
     この一言に、紫明は「むう……」と声を漏らす。
    「もしそれが実現すれば、きっと黄家は絶えてしまいます。教団にすべてをむしりとられて」
    「……」
     明奈はなお、毅然とした態度で父を説得する。
    「ねえ、お父さま。重ねて申し上げますが、昔とは違うのです。
     今なら剣を極めたお姉さまがいらっしゃいます。エルスさんたちも、協力してくださるでしょう。戦う力は、十分にあるはずです。
     今、相手の要求をはねつけなければ、10年後、20年後の黄海と央南西部はきっと、黒く染まってしまいます。わたしは嫌ですよ、この愛すべき街が黒海などと言う名になってしまっては。
     敵の言いなりになって1年、2年の安息を得るより、今こそ決別、打倒して10年、20年、いえ、100年の繁栄を勝ち取る方が、懸命な判断ではないでしょうか?」
    「……そうだな」
     明奈の説得に紫明はようやくうなずき、もう一通懐から手紙を出した。
    「これは?」
    「お前の言う通りかもしれないな、明奈。教主の息子から、こんな手紙が来ていたのだ」
     紫明は晴奈に手紙を渡し、読むよう促した。
     読み始めた晴奈は、途中で――今度はこらえる気など毛頭起こらず――手紙を破り捨てた。
    「……下衆が!」
    「お姉さま?」
    「まったくウィルバーめ、どこまで色狂いか! 明奈と自分は、前世から夫婦になる定めだとか、明奈の自分に対する気持ちは分かっている、自分は全力を以ってそれに応えるだとか、滅茶苦茶なことを書いているんだ!」
    「何ですって……!」
     冷静だった明奈も、この時ばかりは流石に嫌そうな顔をした。紫明は一瞬顔を伏せてため息をつき、そして決意に満ちた目を二人に見せた。
    「明奈、お前の話で、私の目は覚めたよ。……断固、黒炎と戦おう」

     紫明の決意も固まったため、晴奈たちはエルスに助太刀を願い出ようと、彼の住んでいる屋敷へと向かっていた。
    「ねえ、お姉さま」
    「ん?」
    「水色の着物、エルスさんへの用事。これって」
    「……やっぱり明奈も、あの夢を?」
     明奈はコクリと、小さくうなずく。
    「ええ、白猫さんの夢よね。もし、あの方の言ったことが本当なら」
    「5万の軍勢が攻めてくる、か。ぞっとしないな」
    「きっと本当でしょうね。
     彼女の言葉はとても風変わりだったけれど、内容はとても真面目でした。わたしたちの身を案じてくれる気持ちは、真実だと思います」
    「ああ、私もそう、……彼女? いや、言われてみれば、確かに女とも取れる顔立ちと声をしていたが、しかし自分のことを『ボク』と呼んでいたような。彼奴は男では無いのか?」
    「え、そう……、だったかしら。……どっちでしょうね?」
     二人は夢の内容を思い返し、やがてクスクスと笑い始めた。
    「くく、考えれば考えるほど、分からない」「そうね、うふふ」



     この後、晴奈たちの願いを聞き入れ、エルスは協力を快諾してくれた。
     すぐに黒炎教団に対する部隊が組織され、エルスは隊長、晴奈が副隊長となった。
     そしてこれより――黒炎との戦いが、始まる。

    蒼天剣・悪夢録 終

    蒼天剣・悪夢録 5

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第83話。本物の、夢のお告げ。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 目を覚まし、晴奈は辺りを見回すが、明奈はいなかった。どうやら自分より早く起きて、自分の部屋に戻ったらしい。(あの夢は一体……?) ぼんやりとしながらも、晴奈は着替えを始める。 と、衣装棚にあった水色の着物が目に入る。(水色の着物、か。まあ、夢だろうが) あまり信じてはいなかったが、どうしても気になったので、晴奈はそれ...

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    晴奈の話、第84話。
    3度目の戦い、始まる。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
    「僧兵長、間もなく黄海に到着します」
    「ん、そうか」
     馬車の中から、狼獣人の青年がのそっと、首を出す。
    「のどが渇いた」「あ、ではお持ちします」
     兎獣人の従者が、いそいそとどこかに走り去る。僧兵長と呼ばれた青年は、その間に馬車を降り、肩や首の関節をポキポキと鳴らして体を解す。程なくして従者が、ポットとカップを持って戻ってきた。
    「お持ちしました」「ん」
     青年は横柄にうなずき、従者からカップを受け取って、中の飲み物を一息に飲み干す。
    「ふう……。やはり、眠気覚ましにはコーヒーが一番だな。特に、悪夢を見た時には」
    「悪夢、ですか?」
     青年はカップを従者に返し、伸びをしながら応える。
    「ああ、昔の話だ。焔の砦に攻め込んだ時、不覚を取ってな。その時の夢を見ると、いつも気が重くなる。今でも夢の中で、忌々しく蘇ってくる」
    「そんなことが……。では、今回は雪辱戦、と言うことですね」
    「ああ、そうなるな」
     青年――ウィルバーはもう一度カップを受け取り、無造作にあおった。
    「特に、オレを愚弄したあの『猫』と、その仲間。あいつらだけは絶対、仕留めてやる」



    「確かか?」
    「はい、黒荘に住む同門が、確かに馬車に乗る姿を確認したと。ほぼ確実に、指揮官役であろう、との、……黄先生?」
     伝令の報告を受け、晴奈は腕を組んで黙り込む。そのまま固まっていたので、伝令は不安そうに晴奈を見つめている。
    「動いて、セイナ」
     見かねたエルスが晴奈に声をかけた。
    「……ああ、下がって良し」
     伝令はほっとした様子で、そのまま部屋を出て行った。エルスはクスクス笑いながら、椅子に座り直して書類を整理する。
    「セイナ、よっぽどそのウィルバーって男が気になるんだねぇ」
    「気色の悪い言い方を……」
     晴奈は手を振りながら、エルスに応える。
    「ああ、ゴメンゴメン。まあ、宿敵って感じだね、今の態度から見ると」
    「まあ、そうだな。そうなる」
     晴奈はエルスの向かいに座り、エルスの書いていた書類に目を通す――どうやら黄海周辺の地図と、兵法の類らしい。
    「強いのかな?」
    「ああ、かなりの手練だ。うわさでは教団でも有数の、棍術の使い手になっているとか」
    「ふーん」
     エルスは書類をトントンとまとめながら、話を続ける。
    「セイナも強いじゃないか」
    「まあ、な。……昔、一度だけ負けているが」
    「でも……」
     エルスは席を立ち、セイナに微笑みかける。
    「負ける気、無いんだろ?」
    「無論だ」
     晴奈もニヤリと笑って返した。

     教団員の黄海襲撃から三日後、教団は大軍を送り込んでふたたび黄海に攻め込もうとしていた。襲撃の情報を聞きつけた晴奈たちは急遽、街の守りを固めて再襲撃に備えていた。
    「現在、街の周囲に教団の姿はありません」
    「そうか。何かあったらまた、報告してくれ」
     伝令が去った後、エルスはニコニコ笑いながら、晴奈に話しかけた。
    「ねえ、セイナ。まだ間があるだろうから、碁でも打たない?」
    「……ふむ。確かにいつ来るか分からぬ敵を、ただ待つと言うのも無粋か。いいだろう、一局お手合わせ願おうか」
    「よし、それじゃちょっと待っててね~」
     エルスは嬉しそうに、いったん部屋を出る。少しして、かなり使い込まれた様子の碁盤と碁石を持って、戻ってきた。
    「ほう、なかなかの年季物だな。北方でも、碁は流行っているのか?」
    「うん。エドさん――博士が若い頃から碁の名人で、ずっと普及させていたんだって」
    「そうだったのか……。それほどの腕前ならば一度、お手並みを拝見してみたかったものだ」
     晴奈はそう言いながら碁石を握る。エルスも握りながら話を続ける。
    「エドさんは強かったよ。多分死んだ今でも誰かと、打ってるんじゃないかな」
    「……」
     博士の死を耳にする度、晴奈の心は少し痛む。
     あの時、自分の欲をさっさと振り切って駆けつけていれば、博士は助かったかもしれない。そして、大火と戦うために博士を口実にしたことも、晴奈にとっては大きな恥であった。
    (死人をダシに使うなど、誇りある人間のすることではない。まったく私は、浅ましい……)
     そうして心の中で、自分を責めていると――。
    「ありゃ? セイナ、本気出してない、よね?」「……不覚」
     いつの間にか後手のエルスに大きく囲まれ、負けていた。

    蒼天剣・因縁録 1

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第84話。3度目の戦い、始まる。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1.「僧兵長、間もなく黄海に到着します」「ん、そうか」 馬車の中から、狼獣人の青年がのそっと、首を出す。「のどが渇いた」「あ、ではお持ちします」 兎獣人の従者が、いそいそとどこかに走り去る。僧兵長と呼ばれた青年は、その間に馬車を降り、肩や首の関節をポキポキと鳴らして体を解す。程なくして従者が、ポットとカップを持って戻っ...

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    晴奈の話、85話目。
    「戦略家」エルス、本領発揮。

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    2.
    「アンタら、何遊んでんのよ!」
     囲碁の対局が進み、5戦目を迎えたところでリストが呼びに来た。
    「ん、何かあったの、リスト?」
    「あった、じゃ無いわよ! 敵がもう、すぐそこまで来てんのよ!」
    「ありゃ、そっかー……。折角、2勝2敗ってところだったのになぁ。じゃ、また後で続きやろっか」
    「そうだな。きっちり片を付けたいところだ」
     晴奈とエルスは少し名残惜しさを感じながらも、リストの後に続いた。街の南西部へ進みながら、リストから状況について説明を受ける。
    「ざっと説明するとね。街の南西門から、約10キロ西南西のところに敵の先発隊が3~4隊いるらしいわ。そこからさらに南に3キロほど下ったところに、本隊が陣を構えてるみたいよ」
     説明しているうちに、南西門へ到着する。
    「そっか、なるほど。……よし、みんなを呼んで」
     エルスは短くうなずくと、周囲の剣士たちを呼び集めて輪を作った。
    「それじゃ作戦を説明するから、よく聞いておいて。
     敵は恐らく街を囲んでいる壁を崩し、そこから侵入するつもりだろう。でも、あえてそれは放っておこう」
     エルスの言葉に剣士たちは驚き、どよめく。
    「な、何故?」
    「一体どう言うつもりだ?」
    「ま、落ち着いて聞いて、聞いて。
     簡単に言うとね、それらと戦っても相手にはまったく痛手が無いんだよ、『下っ端』だから。それに相手の数は半端じゃない。いくらみんなが体力自慢、力自慢って言っても、数があまりにも多すぎる。全部相手してたら屈強な剣士といえども、力尽きて倒れるのがオチだよ。
     それよりももっと効果的で、敵に大きな痛手を負わせる方法がある」
     エルスは懐から書類を取り出し――先ほど書いていた兵法と地図だ――皆に見せる。
    「報告によれば、敵の本陣はここから13キロ離れた場所にあるらしい。そこには間違いなく、この大部隊を指揮している者がいるはずだ。で、それを倒す」
    「なるほど、頭を叩くと言うわけか」
     晴奈の相槌に、エルスは大きくうなずく。
    「そう言うこと。教団は人海戦術や物量作戦を得意とする、大掛かりな組織。そう言った組織は得てして『上』の権力が非常に強く、『下』の意思が希薄だ。
     だから指揮官を倒してしまえば残った大部隊は混乱し、その結果最も執りやすく被害の少ない作戦、つまり撤退を選ぶだろう」

     協議の結果、エルスは南西門周辺での指揮を担当し、晴明姉妹とリスト、そして手練の剣士十数名が敵本陣に忍び込むことになった。
     晴奈たちは黄海のもう一つの出入り口、南東門から敵部隊に気付かれないようにそっと抜け出し、街道を横切って森の中に入り、そこから敵本陣に向かって進み始めた。
    「敵が壁を崩すまで、恐らく3~4時間はかかる。それまでに敵本陣に攻め込み、頭を獲るぞ! 全速、前進ッ!」
    「おうッ!」
     晴奈の号令に、剣士たちは拳を振り上げて付き従う。森の中を分け入り、一直線に西へと進んでいく。
     だが、はじめの頃は黙々と付いてきた剣士たちも、時間が経つに連れて段々と不安を口にし始める。
    「本当に、街を放っておいて良いものか……?」
    「もし間に合わなかったら、えらいことになるぞ」
    「やはり、戻って防衛に努めた方が……」
     ブツブツと騒ぐ剣士たちに、晴奈とリストの特徴的な耳がピクピクとイラつき始める。その耳に、決して彼女らに言ってはならない一言が飛び込んできた。
    「大体あの外人、信用できるのか?」
     聞こえた途端、二人はギロリと後ろを睨んだ。
    「アンタら、ふざけたコトくっちゃべってると、その軽い口ごと、頭吹っ飛ばすわよ!」
    「くだらぬ妄想をほざくな、お前らッ! 黙って進め!」
     剣士たちはその剣幕に圧され、それきり不安を口にすることは無くなった。



     ほぼ同じ頃、ウィルバーはほんのわずかながら、ぞくりと殺気を感じた。
    (……? ん……、何だ、今の『気』は?)
     くるりと辺りを見回すが、それらしいものは何も見えない。
    「おい」
     不安を感じ、横にいた従者に声をかける。
    「はい、何でございましょう?」
     かけたものの、それほど強く不安を感じたわけではないため、やんわりと命じる。
    「……ん、まあ、念のため、見回りを強化するよう、皆に指示しておいてくれ」
    「はあ……?」
     従者は首をかしげ、ウィルバーの言葉を繰り返す。
    「見回りの強化、ですか?」
    「そうだ。少し、気になってな。まあ、ちょっとでいいんだ」
    「必要ないと思われるのですが……。奴らは街を守るので精一杯でしょうし」
     従者の言葉にうなずきかけたが、そこでまた、ウィルバーの心中に不安がよぎる。
    「ん……。まあ、確かに、そうかも知れない。だが、気になってな。頼んだぞ」
    「はあ、そうですか。では、まあ、伝えてまいります」
     従者はのそのそとウィルバーの側を離れる。残ったウィルバーは心の中で毒づいた。
    (はっ! まったく、気の無い素振りだな! このオレが、『やれ』と言ってるだろうが!)

     ウィルバーから離れた従者は、途端に態度を変えて愚痴をこぼす。
    「フン、まったく心配性なお坊ちゃんだ!」
     ポットを乱暴につかみ、直接口に付けて飲みだす。
    「来るわけない! あんな馬鹿で粗雑な剣士どもが、目先の敵、先発隊を相手にしないわけが無いんだ! 無駄だ、無駄! だーれが、見回りなんかするかっての!」
     周りに誰もいないため、従者の愚痴は止まる気配が無い。もう一度ポットを上げて、二口目を飲んでから、さらに愚痴を続けようとした。
     ところが顔の上に上げていたポットが、パンと言う音と共に突然、破裂した。当然、中の液体とポットの破片が従者の顔に降り注ぐ。
    「ぎえ……!? っちゃ、熱ちちちっ!」
     顔を押さえ、何が起こったのか分からずもがく。
     だが、その途中で意識が飛んだ。鳩尾を、内臓が飛び出すかと思うほど強く蹴っ飛ばされたからだ。

    蒼天剣・因縁録 2

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、85話目。「戦略家」エルス、本領発揮。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2.「アンタら、何遊んでんのよ!」 囲碁の対局が進み、5戦目を迎えたところでリストが呼びに来た。「ん、何かあったの、リスト?」「あった、じゃ無いわよ! 敵がもう、すぐそこまで来てんのよ!」「ありゃ、そっかー……。折角、2勝2敗ってところだったのになぁ。じゃ、また後で続きやろっか」「そうだな。きっちり片を付けたいとこ...

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    晴奈の話、86話目。
    因縁、三度目。

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    3.
    「よし!」
     倒れ込み、ピクリとも動かなくなった兎獣人を確認し、晴奈は満足げにうなずく。
    「全員集合だ!」
     晴奈は刀に火を灯して合図を送り、森の中で待機している剣士たちを呼び寄せる。
     集合後、明奈とリストが晴奈の元に駆け寄った。
    「どう、すごいでしょ?」
     リストが自慢げにクルクルと銃を回して見せびらかす。晴奈はその様子に苦笑しながらも、素直にほめる。
    「ああ、あれほど遠くから攻撃できるとは。なかなか便利な武器だな、銃と言うのは」
    「アンタも使ってみたくなった?」
     晴奈はまた苦笑して、刀の柄を叩いた。
    「いやいや、私にはこれが一番だ。……さてと」
     皆が集合し終えたところで、晴奈が次の行動を命令する。
    「雑魚には構うな! 頭を探して討て!」
     晴奈の号令に従い、剣士たちは2、3人ごとに固まり、四方に散る。
     残った晴奈と明奈、リストも同様に3人で集まり、敵将ウィルバーを捜索し始めた。

     当初はできる限り隠密な行動を心がけていたのだが、敵の数が多いためか何班か見つかってしまったらしく、陣内は次第に騒がしくなる。
     晴奈たちも例外ではなく、何度も教団員たちに発見され、その都度応戦しなくてはならなかった。
    「くそ、面倒だ!」
     相手の多さに痺れを切らした晴奈は、目の前にいた教団員に向かって飛びかかる。
    「どけッ!」
     目前まで迫っても勢いを殺さず、そのまま突っ込んでいく。
    「ぎゃっ!?」
     棍を構えていた教団員の腕に脚をかけ、踏み台にして跳び、敵の包囲網を無理矢理抜けた。
    「どけどけッ、邪魔立てすると刀錆にするぞッ!」
     寄ってくる敵をかわし、斬り捨て、晴奈は陣内を駆け回る。
    「どこだ、ウィルバー! 出て来い! この黄晴奈が相手になるぞ!」
     そうやって名乗りを上げているうちに、横から声が飛んできた。
    「そんなにオレと勝負したいのか、『猫』ッ!」

     晴奈が横を向くと同時にウィルバーが駆け込み、棍を放つ。晴奈はそれをかわし、刀を払う。ウィルバーもこれを避け、二人は間合いを取って対峙した。
    「久しぶりだな。つくづく、因縁が深いと見える」
    「ああ、確かにな。何だかんだ言って、会うのはこれでもう3回目だ」
     ウィルバーは妙に嬉しそうに笑っている。
    「2度の戦いで、オレの考え方は劇的に変わった。女と見て侮ることは、もうしない。
     お前は間違い無くオレの好敵手、オレの目標だよ」
     妙にほめ言葉を並べるウィルバーを不審に思い、晴奈は刀を構え直す。
    「何のつもりだ、ウィルバー? 一体何が言いたい?」
    「単刀直入に言おう。オレと組まないか、セイナ?」
     突然の申し出に、晴奈は面食らった。
    「何だと?」
    「お前の妹、メイナのことはそれなりに気に入ってるし、娶りたいとも考えている。
     もし結ばれればセイナ、お前はオレの縁者になる。その上でオレと組み、その実力を振るって君臨すれば、お前も教団の権力者だ。何でも思いのまま、一生栄華を極めていられるぞ。
     どうだ、悪い話じゃないだろう?」
     ウィルバーはニヤリと笑い、右手を差し出す。
     握手を求めてくるウィルバーをしばらく見つめた後、晴奈はフン、と鼻を鳴らした。
    「笑止。お前如き犬っころにくれてやるほど、妹は安くない。何よりお前の右腕などと言う肩書きは、私には吊り合わぬ。
     対価が低すぎて、私の食指はピクリとも動かん」
     晴奈のにべもない言葉に、ウィルバーの笑顔は凍りついた。
    「ク、クク、ク……、そうか、ああ、そうか。あくまでオレに、たてつくと言うんだな?
     そんなら話は終わりだ! ここで果てろ、セイナ!」
     ウィルバーは棍を振り上げ、飛びかかってきた。

     晴奈はウィルバーの初弾を、刀をかざして防ぐ。
     その瞬間、晴奈の両手に重たい衝撃が走り、刀と棍の間から火花が飛び散る。
    「む、……ッ!」
     受けきれず、体をひねって棍を左に流す。すかさずウィルバーが蹴りを放ち、晴奈のあごを狙ってくる。
    「甘いッ!」
     向かってきた左脚を紙一重で避け、刀から左手を離し、右手を利かせて刀で鋭い山を描く。その軌跡がわずかにウィルバーの脚を捕らえ、さく、さくと二度斬る。
    「……ッ、速いな!」
     ウィルバーの僧兵服が裂け、ふくらはぎと太ももに赤い筋がにじむ。
     だが、ウィルバーはその傷を気にかける様子も無く、棍を手首だけで振って、鞭のようにしならせて突いてきた。
    「っと!」
     晴奈は刀を構え直して縦一直線に振り下ろし、棍を叩き落す。棍は当たらずに済んだが、刀から金属同士がぶつかる鋭い音と、何かがこすれるような、気味の悪い音が響く。
     その音が耳に入った瞬間晴奈は舌打ちし、反面、ウィルバーは笑みを浮かべた。
    「ハハ……、どうした? 今の音は何だ、セイナ?」
    「チッ、なまくらめ」
     晴奈の刀の、その中ほどの刃が欠けていたからだ。



     同時刻、リストたちも敵の包囲を切り抜け、晴奈を探していた。
    「ホント、アンタのお姉ちゃんってこーゆー時、無鉄砲よね!」
    「すみません、本当に」
     明奈が謝るが、リストの怒りは収まらない。
    「大体さ、『メイナは絶対守ってやる』とか何とかカッコつけてたくせに、この前だってアンタをほっといて、カツミと戦おうとしてたんでしょ?
     言うコトとやるコトが違うなんて、そこからしてろくなヤツじゃないわよ」
     姉の悪口を言われ、普段温厚な彼女にしては珍しく、明奈は目を吊り上がらせる。
    「そんな言い方、無いんじゃないですか?
     お姉さまは確かに一人で動くことが多い方ですけれども、心の中では皆さんのこと、全体のことをきちんと考えていらっしゃいます。
     リストさんこそ人のことを簡単に悪く言って! それこそ人をろくに見ない、いい加減な方です!」
    「何ですって!?」
     明奈とリストの間に、険悪な空気が立ち込める。
     と――遠くから、鋭い金属音が響いてきた。
    「……!?」「何、今の!?」
     まるで分厚い鋼板に散弾を放ったような異様な音を聞きつけ、二人はそちらへと向かった。

    蒼天剣・因縁録 3

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、86話目。因縁、三度目。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3.「よし!」 倒れ込み、ピクリとも動かなくなった兎獣人を確認し、晴奈は満足げにうなずく。「全員集合だ!」 晴奈は刀に火を灯して合図を送り、森の中で待機している剣士たちを呼び寄せる。 集合後、明奈とリストが晴奈の元に駆け寄った。「どう、すごいでしょ?」 リストが自慢げにクルクルと銃を回して見せびらかす。晴奈はその様子に苦笑しな...

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    晴奈の話、第87話。
    黄海防衛戦、ひとまず終息。

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    4.
    「くそ……!」
     晴奈は真っ二つに折れた刀を見下ろし、悪態をつく。
    「くそ……!」
     ウィルバーが立て続けに放った棍が、晴奈の刀を折ってしまったのだ。
     仕方無く脇差を抜いたものの、こちらは長さも切れ味も、刀より大分劣る。劣勢に立たされた晴奈は、ポタポタと冷や汗が流れていた。
    「どうやらオレの勝ちらしいな。どうする? 今なら介錯してやらなくも無いぜ? 姉の無残な屍なんか、妹に見せたいもんでもないだろ?」
     居丈高に振る舞うウィルバーに、晴奈は虚勢を構える。
    「勝負はまだ付いてはいない!」
     晴奈は懸命に脇差を振り回すが、三節棍の長さには到底太刀打ちできない。加えて大柄なウィルバーの手足の長さは、長身の晴奈でも分が悪い。
     攻撃はウィルバーに余裕でかわされ、かわしざまにひらりひらりと棍が飛んでくる。その一撃一撃が、晴奈をじわじわと弱らせていく。
    「くッ……!」
     打つ手が見い出せず、晴奈の消耗がじわじわと積もっていく。
     その劣勢を見抜いたらしく、ウィルバーがより一層の攻勢に出た。
    「それッ!」
     勢い良く棍が突き出され、晴奈は脇差を構え、それを防ぐ。しかしその衝撃を削ぎきれず、晴奈は体勢を崩す。
    「ハハ、これでオレの勝ちだ!」
     棍が跳ね返ってきたところで、ウィルバーは棍をつなぐ鎖に指をかけた。
    「……!」
     そこが支点となり、三節棍全体が回転する。鎖を指で吊ったまま、ウィルバーは腕をぐるりと回した。指にかかった棍に勢いが付き、晴奈に向かって飛んでいく。
     一瞬のうちに、防いだはずの棍が自分に戻っていく。だがよろけた晴奈には、それをかわず余裕が無い。
    (これは、あの時と……!)
     7年前、ウィルバーに負けた時の記憶が、晴奈の脳裏に蘇る。このままでは7年前と同じように、棍は晴奈の額を割ることになる。
    (た……、倒れてなるものか! 二度も同じ辱めを受けて、倒れてしまうわけには行かぬ!)
     晴奈は歯を食いしばり、迫り来る棍を凝視した。

     ところが、ここで信じられないことが――少なくとも、三節棍の達人であるウィルバーにとっては、まずありえないと断言するようなことが起きた。
     宙を飛び、晴奈に向かっていた三節棍が、突然上に跳ね上がったのだ。
    「……は?」
     ウィルバーの鋭い目が真ん丸になる。晴奈も驚き、言葉を失う。
     続いて棍は、もう一度空中で跳ねる。ウィルバーはまだ驚いたままだ。晴奈は相手より一瞬早く我に返り、驚いているウィルバーをにらむ。
     また棍が跳ねたところで、ようやくウィルバーが晴奈の方に目を向けたが、既に遅かった。
    「しまっ……!」
     晴奈が脇差を振り上げ、ウィルバーに迫る。ウィルバーは体をひねるが避け切れず、脇差が左肩に食い込む。
    「ぐ……、ッ」
     晴奈は脇差から手を離し、肩を押さえてのけぞったウィルバーの腹を蹴り、そのまま転倒させた。
     そしてくるくると宙を飛んでいた棍が、ウィルバーの顔に落ちていく。
     一瞬の間を置いて、ボキ、と言う鈍い音が、晴奈の耳に届いた。



    「……うう」「おお、気が付かれましたか、僧兵長!」
     ウィルバーは動く馬車の中で目を覚ました。起きようとしたところで、腹と肩、そして顔全体に痛みを感じ、思わずえずく。
    「う、げ」
    「あ、あ、安静になさってください」
     横にいる従者は、すまなそうな顔をしている。顔に包帯が巻かれたその様子は、垂れた兎耳と相まって、とても情けなく映る。
    「ろうなっら……、ああん?」
     ウィルバーはしゃべろうとしたところで、自分の発音がおかしいことに気付く。
    「あ、まはか」
     口を触ってみると、前歯の感触が無い。どうやら三節棍が当たった時、折れてしまったらしい。
    「くほ……、なはけねえ」
    「そ、それで、その、ですね」
     従者は泣きそうな顔で報告する。
    「あの、僧兵長のですね、その、御身がですね、危ういと、その、感じましてですね、はい、あの、これはまずいなと、そう、そんな風に、あの、思いましてですね、……その、撤退、を、ですね、はい、いたしまして、はい」
    「……てめえ」
     ウィルバーは体中の痛みも忘れ、従者の兎耳を力任せに引っ張った。
    「あ、痛い、痛いです、お止めください、僧兵長、痛い、痛い!」
    「らから、気ほ付けろっへ言っはんら、オレは! この、大マヌケめ!」

    「かたじけない、リスト」
    「へっへーん」
     リストがまた、銃をクルクル回して見せびらかしている。
     先程の戦いで、リストがウィルバーの三節棍を狙撃していたのだ。
    「ま、とっさにとは言え、うまく行って良かったわ。メイナの強化術のおかげね」
    「いえ、そんな……」
     ウィルバーが倒されたことが陣内に伝わり、教団は大急ぎで撤退を始めた。
     晴奈たちもその間に他の剣士たちを集め、戦闘地域から離脱。今は既に、黄海の壁が見える辺りまで戻って来ていた。
    「もう教団のヤツらはいないわね。作戦終了、と」
     リストは銃を収め、晴明姉妹に笑いかける。
    「さ、戻ろっか、セイナ、メイナ」
    「ええ、そうしましょう」
    「そうだな。エルスもきっと待ちかねている」



     その後、数回にわたって教団は人員を増やし、黄海の制圧を試みたが、黄海側も焔流や州軍などと連携し、応戦を続けた。
     これが2年半に渡って続き、央南西部・中部を騒がせた、央南抗黒戦争の始まりである。
     そしてそれは同時に、戦略家「大徳」エルス・グラッドと、剣豪「蒼天剣」黄晴奈、この二人の伝説の、始まりでもあった。

    蒼天剣・因縁録 終

    蒼天剣・因縁録 4

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第87話。黄海防衛戦、ひとまず終息。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4.「くそ……!」 晴奈は真っ二つに折れた刀を見下ろし、悪態をつく。「くそ……!」 ウィルバーが立て続けに放った棍が、晴奈の刀を折ってしまったのだ。 仕方無く脇差を抜いたものの、こちらは長さも切れ味も、刀より大分劣る。劣勢に立たされた晴奈は、ポタポタと冷や汗が流れていた。「どうやらオレの勝ちらしいな。どうする? 今なら...

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    晴奈の話、第88話。
    教団の神様。

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    1.
    「どけ、そこの木炭!」
     目の前にいる「狼」からいきなり罵倒され、男は少し戸惑ったような素振りを見せたが、男は素直に横へ退いた。
    「フン」
     その黒い狼獣人はこれ見よがしに肩を怒らせて、男の前を通る。
     と、男が口を開く。
    「一つ聞く」
     男の問いかけに対し、罵倒した「狼」――ウィルバー・ウィルソンは、横柄な態度を返す。
    「……あ? 何か用かよ」
    「余程いらついていると見えるが、それを俺に振る理由があるのか?」
    「知るか、ボケ!」
     ウィルバーは男を押しのけながら、半ば吠えるように怒鳴りつけ、そのまま去っていった。
     男は真っ黒な外套に付いた手形をはたき落とし、ポツリとつぶやいた。
    「なるほど、な」

    「ウィリアム。お前が俺を、遠い央北からわざわざ呼んだ理由をつい先刻、把握した」
    「は……」
     黒い男は目の前にいる、いかにも宗教家と言った風体の狼獣人に向かって、足を組んだまま話を始める。
    「大方、あの『差し歯』の小僧はお前のせがれだろう?」
     男よりはるかに老けた容貌の、一見こちらの方が年長者と思われる「狼」が、へりくだったしぐさで男にコーヒーを注ぎながら、質問に応える。
    「お気付きでしたか」
    「何と言ったか――ああ、そうそう。ウィルマだったか――お前の曾祖母にそっくりだ。誰彼噛みつく様が、良く似ている。
     その父親は本当に人のいい奴だったのだが。お前のように、な」
     男の言葉に、「狼」は顔を赤らめる。
    「はは……。開祖からご存知でいらっしゃると、直近の家人の話をするのは気恥ずかしいですな、どうも……」
    「ククク……。何故ウィルソン家は『極端』なのだろうな」
     男は「狼」の注いだコーヒーをくい、と飲み込む。
    「極端、と言うと?」
    「大体、3タイプに分かれている。
     一つ、お前のように、素直で親しみの持てる奴。
     一つ、ワーナー、それと最近では、ワルラスだったか――狡猾で、打算的な奴。
     そしてお前のせがれのように、粗暴でやかましい奴。……何年経っても、この手の輩は相手が面倒でたまらん」
     男はまた、鳥のようにクク、と笑う。
    「本当に、不肖のせがれでして……」
     平身低頭し、恥ずかしさを紛らわせていた「狼」は、そこで男のカップが空になっていたことに気付いた。
    「あ、タイカ様。お代わりは如何でしょう?」
    「ああ、是非いただこう」
     黒い男――克大火はニヤリと笑って、カップを差し出した。
    「もし開祖が1番目のタイプで無かったら、俺はこうしてここで、うまいコーヒーを飲むことは無かっただろうな、……クク」



     516年初めの黄海防衛戦に端を発した央南抗黒戦争は、精鋭揃いの焔流とエルスの優れた戦略、黒炎教団の豊富な資産と人員が拮抗し、半年が過ぎた516年夏になってもなお、勢いが落ちること無く続いていた。
     焔流剣士たちの実力、また、エルスの手練手管をもってしてもこの膠着状態から抜けられずにいたため、エルスと晴奈、紫明の3人は黄屋敷にて、抜本的な打開策を検討していた。
    「やっぱり、こちら側の一番のネックは、人員の少なさにある。みんな、かなり疲労の色が濃い」
     エルスの言葉に、晴奈が反論しようとする。
    「そんなことは無い。我々は鍛え方が違う。少しくらいの……」「そう言う問題じゃないよ、セイナ」
     卓から半立ちになった晴奈を、エルスがやんわりと抑える。
    「実際に起こっている問題として、若手や壮年の剣士たちの中にはもう、疲労や怪我でほとんど身動きできなくなっている人もいるらしいじゃないか。この半年ほとんど、休むことなく戦い続けているんだからね。
     この状況を鑑みるに――言い方は少し悪いけど――『手駒』がいないことが問題なんだ。教団の下っ端みたいに、いわゆる『歩』の役割をしてくれる人がいないから、将や班長クラスの人間を、一歩兵と兼用で使っている状態だ。
     これじゃ1人当たりのタスク、処理能力が到底、現状に追いつかない。数字で言うなら、こちら側1人に対して、相手は5人も10人もかかって来てる状態なんだ。兵法の基本から言えば、こんな状況に留まるなら、逃げた方がましだ。
     でもそう言う状況で、君たちは逃げないだろ? 真っ向から相手してるよね」
    「当たり前だ」
    「それが災いしてるし、相手の司令官にしても、狙ってきてるポイントなんだろう。ただでさえ少ない人材を、片っ端から消耗させて自滅させるのが狙いなんだよ。
     人使いの荒い今の状況じゃ、優秀な人材もいずれ使い潰す羽目になる。数で対抗できなきゃ、いずれは押し切られちゃうよ」
    「ふむ……。つまりは人員を大量に確保せねば、と言うことか」
     ここで紫明が、考え込む様子を見せる。それを見て、晴奈が尋ねた。
    「父上、何か策が?」
    「うむ。晴奈、私が央南連合幹部の一員であることは知っているだろう?」
     それを聞いて、エルスも尋ねてくる。
    「央南連合? 確か央南の政治同盟……、でしたね?」
    「うむ。そこに人員を貸してもらうよう、頼んでみるのはどうだろうか」
     紫明の提案に、エルスはにこっと笑ってうなずく。
    「なるほど。確かに連合軍なら、かなりの数が確保できそうですね。戦力としても申し分無い」
    「央南の安寧秩序を第一とする連合ならば、西部侵略を押し進める黒炎と戦っていると告げれば、手を貸してくれるだろう」
    「よし、それじゃ早速、お願いに行きましょう」
     エルスはうなずき、紫明の案を採った。

    蒼天剣・権謀録 1

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第88話。教団の神様。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1.「どけ、そこの木炭!」 目の前にいる「狼」からいきなり罵倒され、男は少し戸惑ったような素振りを見せたが、男は素直に横へ退いた。「フン」 その黒い狼獣人はこれ見よがしに肩を怒らせて、男の前を通る。 と、男が口を開く。「一つ聞く」 男の問いかけに対し、罵倒した「狼」――ウィルバー・ウィルソンは、横柄な態度を返す。「……あ? 何か用か...

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    晴奈の話、第89話。
    疑惑の「狐」との対面。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     央南には、厳密な意味での「国」が無く、州が集まってそれぞれ自治を行う「連邦制」を執っている。
     かつては国王を主権とする国が、央南全土にわたって存在していたのだが、その国は暴虐の限りを尽くして人民を苦しめ、やがて人民との間で戦争が勃発。その結果、国は滅びた。
     そして、その後に群雄割拠してできたいくつかの小国の間でも央南統一を掲げた戦いが起こり、長きにわたって戦乱が続いた。
     その長い戦いの果てに、「誰か一人が王になろうとしても納まるまい」と悟った央南の権力者たちが話し合い、央南をいくつかの州に分けた。そしてその州をまとめる宗主たちが集まり、彼らを幹部として、央南の政治体制や州間の意見調整、域外との外交方針を取り決める組織を築き上げた。
     これが央南連合の始まりである。



     晴奈とエルス、紫明の3人は央南中部の街、天玄に到着し、連合の本拠となっている屋敷、天玄館へと向かった。
    「父上」
    「うん?」
     屋敷内の様子を一瞥した晴奈が、紫明にそっと声をかける。
    「何と言いますか、ここは黄屋敷とは大分、趣が異なっておりますね」
    「ふむ、まあ、確かにな」
     天玄館の中はどこも騒々しく、多くの人が書類や何かの機材を持って、バタバタと行き交っている。
    「黄屋敷は静かな場所でしたが、こちらは何と言うか、……にぎやかな」
     言葉をにごした晴奈に対し、エルスは正直に述べる。
    「まあ、ぶっちゃけると騒々しいところだよね」
     紫明も肩をすくめ、それに応じた。
    「連合の本拠地であるからな。あちこちから嘆願や請願が押し寄せてくるから、この騒々しさも仕方の無いことだ。
     とは言え、懸念はある。この繁忙からすると、主席も手一杯であるかも知れん。こちらの話を真摯に聞いてくれるかどうか」

     紫明の予想通り――連合の主席、狐獣人の天原桂は両手を交差し、晴奈たちの目の前に「×」を作った。
    「いやー無理です」
     そのにべもない回答に、紫明は渋い顔をする。
    「やはり難しいですか」
    「いやいや。難しいじゃなく、無理。まったく無理なんです」
     天原はもう一度、「×」を作る。
     と、エルスはつぶさに情況を尋ね、天原主席に食い下がる。
    「兵士は回せませんか?」
    「はい。無理無理、無理なんです」
    「一人も?」
    「ええ。ダメ、絶対」
    「何か今現在、問題を抱えていらっしゃるのですか?」
    「ええ、あります。一杯。たくさん。目が回るほど」
    「教えていただいても?」
    「ん、まあ、はい。じゃ、こちらをご覧ください」
     天原は机から書類を乱雑に取り出し、晴奈たちの前に並べていく。
    「大きな問題としては、こちら。東部地域でですね、大規模な水害が起こっていまして、それを解消するために、2割ほど人員を送ってまして」
    「残り8割は?」
    「こちらに、1割。で、こっちにも。あと、これと、これと、これと……」
     天原は次々に、書類を積み上げていく。そのあまりの量に、晴奈と紫明は唖然とする。
    「ね? これじゃ、とてもとても……」「あのー」
     ここでエルスが書類の束をつかみ、進言した。
    「良ければご意見させていただいても、よろしいですか?」

    「ね? ここの物資を使えば、わざわざここから輸送しなくても良くなります。恐らく作業日数は、3分の1以下に収まるかと」
    「はあ……」
     一見、乱雑で混沌とした状況でも、戦略家のエルスが見ればいくつかの活路、打開策が見つけられた。
    (ふむ、これなら話もまとまるか……?)
     晴奈は期待を持って紫明に目配せしたが、紫明は表情を曇らせている。
    (いや……、やはり主席は断るつもりらしい)
    (え……?)
     紫明が示した通り、天原は仕事が片付いて喜ぶどころか、先ほどよりさらに憂鬱そうな――まるで言い訳ばかりする子供が言葉に詰まり、すねたような――顔をする。
    「あ、のー」
     そしてたまらずと言った様子で、天原が口を開いた。
    「それでですね……、あ、はい」
     応じたエルスに、天原はたどたどしく、こう切り出した。
    「そのー、えーと。何て言いますかねー、まあ、……契約、の話をしたいんですが」
    「契約ですか?」
     なぜかこの時、エルスの目が――相変わらず、ヘラヘラ笑いながらも――鋭く光った。
    「グラッドさんが私の手助けをしていただく代わりに、そちらの要請――対黒炎用の人員をご用意させていただきます。そう言う話ならどうでしょうか?」
    「……うーん」
     この提案に、エルスが悩む様子を見せる。晴奈もこの提案を呑むことに、不安を覚えた。
    (むう……。もし手伝うことになれば、きっとエルスは天玄に留まることになるだろう。その間の、黄海での指揮が不安ではあるが……)
     この提案に対し、エルスはやんわりとした回答を返した。
    「そうですね、そう言ったお話となると、僕一人では即決できません。持ち帰って検討させていただいても?」



    「ふむ」
     聖堂の梁の上で、大火は下にいる者たちを見下ろしていた。高く、明かりのない天井のため、大火がいることに下の者たちは気付いていない様子である。
    「クク……、またあの小僧か」
     聖堂の壇上ではウィルバーがだるそうに、かつて大火が記した書を読み上げている。
     どうやら本日の音読の担当は彼であるようだが、明らかにやる気が見られない。
    「であるからしてー、えー、魔術師とはー、えー、契約を重んじー、えーと、それを最大の術とするのである。はい、おしまい」
    「クッ」
     そのやる気の無い様子を見て、大火は噴き出す。
    「おいおい、三流大学の呆けたじじいか、お前は」
     大火のそんなつぶやきが聞こえるはずも無く、ウィルバーは経典を乱雑に書架へ投げ込み、皆に聖堂を出るよう促す。
    「ほれ、終わったんだからさっさと出ろ。修行に行け、ほれ」
     ウィルバーに言われるがまま、教団員たちはぞろぞろと聖堂を後にする。
     と、最後に出ようとした尼僧を見て、ウィルバーは声をかける。
    「おい、そこの」
    「はい、何でしょうか?」
     ウィルバーは助平そうに笑い、にじり寄ってくる。
    「ふむふむ、なかなかの上玉……、もとい、鍛錬を積んでいるな。どうだ、オレと一緒に修行しないか?」
    「え、ええ? あの、いえ、わたし、一人で……」
    「いいじゃないか、な?」
     口説こうとしているウィルバーを見て、大火は舌打ちした。
    「……下衆め。ろくでもないことを」
     すっと、大火が消える。その一瞬後、尼僧もウィルバーの目の前から、ポンと消えた。
    「なあ、いい……だ、ろ? あれ? おい? おーい?」

    「あの、やめて……、え?」
     尼僧はいつの間にか聖堂の外に立っており、きょとんとしている。
    「あれ?」
     呆然としたままの尼僧の頭をぽんぽんと叩き、大火はこう諭した。
    「今後は最後に出るのを控えておけ。あんな不埒者の小僧と関わりたくなければ、な」
    「あ、はい、ありがとうござい……ます? あの……?」
     依然、きょとんとした顔のまま、尼僧はぱち、とまばたきする。
     その一瞬の間に、大火は姿を消していた。

    蒼天剣・権謀録 2

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第89話。疑惑の「狐」との対面。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 央南には、厳密な意味での「国」が無く、州が集まってそれぞれ自治を行う「連邦制」を執っている。 かつては国王を主権とする国が、央南全土にわたって存在していたのだが、その国は暴虐の限りを尽くして人民を苦しめ、やがて人民との間で戦争が勃発。その結果、国は滅びた。 そして、その後に群雄割拠してできたいくつかの小国の間でも...

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    晴奈の話、第90話。
    ほの見える、黒い政治戦略。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
    「ウィルバーについての調査結果だが、結論から言うならば、あれをウィルソン家の人間であるとは、容易には信じられん、な。とんだ愚物だ」
    「ううむ……」
     大火の評価に、教団の教主であり、ウィルバーの父親でもあるウィリアム・ウィルソン4世は悲しそうな顔をした。
    「お前や兄弟、親類のいる前ではそれなりにへつらってはいたが、いざその目が届かぬ場に移れば、途端に態度が変わった。
     不必要に家名や職位をかざして威張り散らし、女の尻を追いかけ、おまけに禁じていたはずの酒もどこからかくすねて、取り巻き共と酒盛りまでしている。
     やりたい放題とはまさにこのことだろう」
    「そうですか……」
     報告を聞き終えた途端、ウィリアムは顔を覆い、がっくりとうなだれた。
    「わざわざタイカ様御自らにご足労いただいて、この体たらくとは。全く情けない限りです。
     では、契約の履行と……」「ああ、それについてだが」
     もう一度頭を垂れかけたウィリアムを、大火が止める。
    「せがれの不始末を、親のお前が尻拭いするのは解決にならんだろう? あいつ自身でその債務を払わなければ、反省には結びつくまい」
    「と、言うと」
    「自分のツケは、自分で支払わせるのが筋と言うものだ。
     お前と交わした契約は、あいつに履行してもらうとしよう。何を支払ってもらうかはいずれ、本人に伝えておく」



    「契約だなんだって言う言葉は、タイカ・カツミの語録や黒炎教団の経典なんかでよく用いられるそうです」
     エルスは検討のために用意された個室で、話を切り出した。
    「この『契約』と言う言葉に関しては、かなり多くの書物で言及されています。教義としても扱われていて、曰く『契約は公平にして対等の理』とか何とか。
     今時そんな言い回しを使うのは、真面目な商人か、熱心な教団員くらいです。でもアマハラさんは、どう解釈しても前者ではありません」
    「何の話をしている?」
     けげんな顔を向けた紫明に、エルスは説明を続ける。
    「結論から言えば、アマハラさんはどうも怪しいですね。
     僕たちの要請なんか、連合軍の規模を考えれば簡単に受け付けられるはずです。でも彼はあれこれ言い訳して、応じる様子をまったく見せなかった。
     それに仕事の仕方にも疑問があります。あれらはちょっと仕事のできる人なら、とっくに終わっているような簡単な作業でした。むしろアマハラさんは、連合の仕事を停滞させているかのように手を回している節さえあります。
     おまけに対黒炎隊の中でブレーン、参謀となっている僕をいきなり引き抜くなんて話も、突飛な判断と思えます。そして何より、『契約』なんて言い回しをしたことも妙です。まるで教団員みたいですよ」
    「エルス、まさかお主、天原主席が教団員だと言うのか?」
     晴奈の言葉に、エルスはこくりとうなずいた。
    「うん、可能性は非常に高い。教団員でなくとも、教団と何らかの強い関わりがあるだろう」
    「ば、バカな!」
     紫明がバンと卓を叩いて立ち上がり、エルスの意見を否定する。
    「か、彼は連合の主席だぞ!? もしも彼が、教団と通じていると言うのならばっ」
    「ええ、大変なことです。元々、央南連合は黒炎教団に対して否定的、敵対的な姿勢を執っていますからね。それに今回の、我々の戦いの件に即して考えてみても、挟撃の可能性が出てきますからね。
     しかしそう考えると、あの件に対する連合の行動に、辻褄が合うんですよ」
    「あの件とは?」
    「昔、加盟州である黄海を教団によって占領された時、連合がまったく介入も軍派遣もしなかった、その理由です」
    「あ……!」
     エルスの論拠を聞き、紫明の顔が青ざめる。
    「ま、まさか……、そんな」
    「ともかく今日のところは、天原氏には『話がまとまらなかったのでもう一日、教義の時間を欲しい』と返答しておきましょう」
    「……うむ」
     苦い顔のまま、紫明がうなずき、立ち上がる。
     晴奈も立ち上がったところで、エルスがつぶやいた。
    「こんな回りくどい策を巡らす人間が教団にいるとすれば、ワルラス卿かな」
    「誰だ? まさか教団に知り合いがいるのか?」
     晴奈の問いに、エルスは手を振って否定する。
    「いや、名前と評判くらいしか知らないけどね。
     ワルラス・ウィルソン2世。黒炎教団教主の弟で、いま52、3くらいの狼獣人。央南方面の布教を任されてる大司教だよ。
     かなり頭が良くて、非常に狡猾な性格だとか。いかにもこんなことを考えそうなタイプだよ」
    「ふむ。……そう言えばワルラスと言えば昔、うちに送られた文で見た覚えのある名だな」



     大火が帰った後――。
    「兄上。何か隠しごとをなさっておいでですな」
     ウィリアムは弟、ワルラスに問いつめられていた。
    「な、何を言うんだ、ワルラス」
     根が正直なウィリアムは、傍目に分かるほど動揺する。
    「大方、ウィルバーのことで何か画策しているのでしょう。
     確かに彼に対して、あまりいい評判を聞きません。それに最近では、黄州の戦いで何度か手痛い敗北を喫しているとも。最近の荒れ様もきっと、そこに原因があるのでしょう」
    「まあ、そうだろうな。だが最近のあいつは、少々目に余るところが……」「まあ、まあ」
     嘆くウィリアムを、ワルラスがなだめる。
    「人間、時には勢いを落とし、愚かしく惑う時期もあるでしょう。大成する者なら、なおさら。きっとウィルバーも、そんな時期に入っているのですよ」
    「そうだろうか」
    「そうですとも! これは彼に与えられた試練、そう思って気長に見ておやりなさい」
    「……うーむ」
     ウィリアムは小さくうなずき、その場を後にした。

     ウィリアムの姿が見えなくなったところで、ワルラスは静かに眼鏡を直しながら、ぼそっとつぶやいた。
    「アンタは黙って、おろおろしていればいいんだ。どうせ平凡陳腐なアンタのことだ、大したなど何も、できやしないんだからな」

    蒼天剣・権謀録 3

    2008.10.09.[Edit]
    晴奈の話、第90話。ほの見える、黒い政治戦略。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3.「ウィルバーについての調査結果だが、結論から言うならば、あれをウィルソン家の人間であるとは、容易には信じられん、な。とんだ愚物だ」「ううむ……」 大火の評価に、教団の教主であり、ウィルバーの父親でもあるウィリアム・ウィルソン4世は悲しそうな顔をした。「お前や兄弟、親類のいる前ではそれなりにへつらってはいたが、いざ...

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    晴奈の話、第91話。
    エルスの迎撃作戦。

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    4.
    《アマハラくん》
     夜遅く、天玄館の主席室に声が響く。黙々と書類をいじっていた天原は、その声に狐耳をピンと立てた。
    「ウィルソン台下ですか? 少々お待ちを」
     天原はそっと、部屋の入口に鍵をかける。そして壁際の本棚を動かし、その裏にあった魔法陣の描かれた壁をさらす。
    「『扉』は開けました。どうぞ、おいでくださいませ」
    《ありがとう》
     魔法陣が紫色に輝き、その中央からするりと、ワルラス卿が現れた。
    「少し、気になる件を聞いたのでね。取り急ぎ、こちらに伺った次第だ」
    「黄氏の件、でございますね」
     天原はワルラスに近付き、そっと耳打ちする。
    「まあ、やはりと言いますか。あのグラッドと言う男、なかなかに頭が切れるようでして。密談の様子を盗聴していた者から、私の正体に気付いたようだ、との報告が」
    「ふむ。それは、少しまずいかもしれない。
     グラッドとか言う者自体は連合の関係者では無いし央南人でも無いから、仮に君のことを吹聴されても、さして問題は無い。
     だが黄州の権力者であり、連合幹部の人間であるコウ氏にその話を広められれば……」
    「私の地位、ひいては台下の央南教化計画にも、大きな打撃がある、と」
     心配そうに見つめる天原を見て、ワルラスも眉を曇らせる。
    「ああ、確かに多少なりとも被害は出るだろう。
     が、それは『もしもそうなれば』の話だ。そうならなければ良い。意味は分かるね、天原くん?」
     ワルラスの問いに、天原は眼鏡をキラリと輝かせて答える。
    「は……、心得ております。今夜中にも、手配いたします」
    「よろしく頼む。では、失礼」
     そう言ってワルラスは席を立ち、魔法陣へと歩き、その向こう側へと進む。その直後カチ、と音を立て、魔法陣から光が消えた。



     既に天玄館を後にし、晴奈たちは宿に戻っていた。時刻は真夜中を過ぎ、赤と白の月が、わずかに窓際を明るくしている。
     と、その光が何かにさえぎられ、部屋に届かなくなる。光の代わりに黒い服を着た者たちが2人、3人と部屋に入ってきた。
     黒ずくめたちは目標を確認しようと床に近付いていく。だが、その目標――晴奈、エルス、そして紫明の姿はいずれも、床に無かった。
    「……!?」
     黒ずくめたちは一瞬顔を見合わせ、うろたえる様子を見せる。
    「ここで合ってるよ」
     と、上から声が聞こえる。黒ずくめたちがそちらを向いた瞬間――。
    「ほい」「ぎゃー……ッ!」
     黒ずくめの一人が窓から勢い良く、投げ飛ばされた。
    「でも、何も言わずにいきなり夜這いって言うのは感心しないなー。誠実じゃないもん。やるなら堂々と正面突破だよ。そうじゃなきゃ、女の子はなかなか振り向いてくれないよ?」
     エルスが窓から顔を出し、頭から地面に突っ込んだ黒ずくめに笑いかけた。
    「な、何故我々が来ると……!?」
    「あのね、『アマハラさんが怪しい』って言ってるのに、『アマハラさんが用意してくれた部屋は怪しくない』って理屈は通らないと思うよ。
     君たちに話を聞かれてたことも知ってたし、こうして襲ってくるって言うのも、予想が付いてたんだよね~」
     そう言って苦笑しながら、エルスは二人目の肩と帯をつかみ、背負うように勢い良く引っ張った。
    「えい」「わー……ッ!」
     2人目も同様に、窓の外へと飛んでいく。残った黒ずくめは、「ひぃ」と叫び、自分から窓の外へ飛び出し、逃げていった。
    「ふー。……じゃ、頼んだよセイナ」

     逃げた黒ずくめは大急ぎで天玄館に戻っていく。裏口に入り、隠し階段を登り、秘密の通路を抜ける。そして晴奈たちの暗殺を指示した黒幕、天原のところに舞い戻った。
    「殿……!」
    「どうしました、そんなに慌てて? 成功したのですか?」
    「あの、それが、その……」「ああー」
     天原の顔色が悪くなる。
    「分かりました。あなたの後ろを見て、何もかも」
     黒ずくめはそっと、振り返る。振り返った瞬間に刀を鎖骨にぶつけられ、そのまま気を失った。
    「安心しろ、峰打ちだ」
     黒ずくめの背後にいた晴奈は、そう言って刀を納めた。

    蒼天剣・権謀録 4

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第91話。エルスの迎撃作戦。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4.《アマハラくん》 夜遅く、天玄館の主席室に声が響く。黙々と書類をいじっていた天原は、その声に狐耳をピンと立てた。「ウィルソン台下ですか? 少々お待ちを」 天原はそっと、部屋の入口に鍵をかける。そして壁際の本棚を動かし、その裏にあった魔法陣の描かれた壁をさらす。「『扉』は開けました。どうぞ、おいでくださいませ」《ありがと...

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    晴奈の話、第92話。
    強敵、出現。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     晴奈はキッと天原を睨みつける。
    「天原主席。これで言い逃れはできないぞ。
     教団員と思しき黒ずくめ2名はエルスが捕らえ、残った1人もこうして親玉、つまりあなたのところに戻るのを確認した。最早、弁解の余地は無い」
     真っ青になった天原は硬直している。が、突然笑い出した。
    「ヒ、ヒ……、ヒヒッ、そう思うか、本当にそう思うのか!」
     そう叫ぶなり、天原はブツブツと何かを唱える。
    「魔術か!」
     晴奈は素早く刀を抜き、炎を灯して構える。
    「お前らが消えれば証拠なんか、どうとでもできる! 『アイシクルエッジ』!」
     天原が向けた掌から、にゅっと氷柱が飛び出す。晴奈はそれを刀で弾き、間合いを詰める。
    「それ以上、抗うな」
    「断る! 全力で抗う!」
     天原はさらに氷柱を撃ち出す。
     だが氷は炎と相性が悪く、焔流の剣豪相手では氷の魔術など、大した武器にはならなかった。
    「それッ! はいッ! でやあッ!」
     次々と打ち出される氷柱を晴奈はいとも簡単に弾き、溶かし、天原との距離を縮めていく。
    「観念しろ、天原!」
    「いやだッ! 逃げるッ! 『ホワイトアウト』!」
     術を唱えた瞬間、辺りに白い煙が立ち込める。敵を幻惑させる、目くらましの術である。
     煙が立ち込めると同時に、先程晴奈が通ってきた隠し通路の方から、足音が遠のきつつ聞こえてきた。どうやら敵わないと見て、逃げ出したらしい。
    「む……! 逃がさんぞッ!」
     晴奈も隠し通路に飛び込み、天原の後を追った。

    「ヒィ、ヒィ」
     天原は半泣きで天玄館を出た。夜道を駆け、必死で晴奈から逃げようとする。
    「誰か、誰かいませんか!」
     天原は誰もいないはずの夜道に、声をかける。
    《はっ。殿、こちらでございます》
     ところが、虚空から低い男の声が返ってきた。
    「おお、篠原くん! 来てくれましたか!」
    《殿の危急とあらば、どこへでも馳せ参じます》
    「流石、流石ですよ! ……そうだ、篠原くん! これから女剣士がやってきます。流派はあの、焔流です」
    《……!》
     姿は見えないが、息を呑む気配は伝わる。
    「あなたの、あなたの剣術、『新生焔流』で、細切れにしてしまいなさい!」
    《……御意》
     そこでようやく、骸骨のように痩せた、眼の窪んだ男――種族までは頭巾を被っているので分からない――が姿を現す。
     と同時に、晴奈が追いついてきた。
    「天原ッ! そこになおれ!」
    「……ヒヒヒヒ。断る、断りますよ黄さん!」
     天原は篠原の後ろに隠れ、居丈高に笑う。
    「さあ、やっておしまいなさい! その間に、私は『例の場所』に行きます!」
    「承知」
     篠原はわずかにうなずき、晴奈と対峙した。

     篠原と向かい合った瞬間、晴奈の耳と尻尾が毛羽立った。
    (……こやつ、できるな?)
    「名乗っておこう」
     篠原は大儀そうな低い声で名乗る。
    「某、篠原龍明と申す。新生焔流、篠原派開祖だ」
    「焔流だと!?」
     敵が自分と同じ流派だとは素直に信じられず、晴奈は思わず声を上げる。
    (いや……しかし、確かに刀の構えには、焔流の面影があるように見える)
     生気の無い目を向けながら、篠原が尋ねてくる。
    「殿に聞いたが、貴様も焔流の者だそうだな」
    「いかにも。本家焔流免許皆伝、黄晴奈だ」
    「なるほど。確かに腕は立つようだが……」
     気だるそうに篠原がつぶやいた直後、晴奈は尋常ではない殺気を感じ、一歩退く。
     次の瞬間、自分が立っていた場所を斜めに、地割れが走った。
    「ふむ、勘もいい。某の『地断』を見切るとは」
     篠原の刀から、チリチリとした音が響いている。
    (この貫通性……、『火射』の派生形か? 地面がこのように、バッサリ斬れるとは)
     と、篠原が晴奈の背後に目を向ける。
    「……もう一人、いたか」
     するとガサガサと音を立て、茂みからエルスが現れた。
    「はは、僕のスニーキング(潜伏術)もまだまだだなぁ」
     エルスは晴奈の横に立ち、ト型の武器――トンファー(旋棍)を取り出して構える。
    「アマハラさん、逃げちゃったかぁ。えーと、シノハラさんだっけ。一つ提案するけど」
    「何だ?」
    「僕らの目的はアマハラさんの確保だったけど、逃げられちゃったから目的不達成。で、シノハラさんの目的はアマハラさんが逃げ切るまでの、僕らの足止めでしょ?
     僕らの目的は達成できなかったし、シノハラさんの目的は達せられた。双方にとって最善の策は、ここで僕らと戦わず、このまま離れることだと思うんだけど」
     エルスの提案を聞いた篠原は、馬鹿にしたように口角を上げた。
    「愚論だ。某、黄の殺害を命じられている」
     それだけ言うと篠原は晴奈との距離を詰め、斬りかかってきた。篠原が踏み込んだ瞬間、晴奈も反応する。
    「りゃあッ!」
     晴奈と篠原、二人の刀がぶつかり合い、高い金属音が夜道に響き渡る。篠原は意外そうにぴくりと片眉を上げ、晴奈に声をかける。
    「ふむ……、弾き飛ばすつもりだったのだが。女と侮ったが、思ったより胆力がある」
    「この黄晴奈、なめてもらっては困る」
     晴奈はトンと後ろに下がり、刀に火を灯す。
    「『火射』!」
    「むうっ」
     晴奈の放った「飛ぶ剣閃」は、確実に篠原を捉える。だが――。
    「『火閃』!」
     篠原は「爆ぜる剣閃」で晴奈の技を跳ね返した。
    「な……ッ!?」「危ない、セイナ!」
     エルスが晴奈の腕をつかみ、横に投げる。それと同時に、迫り来る炎を魔術で防ぐ。
    「『マジックシールド』!」
     エルスの作った魔術の盾に自分の技が防がれたのを見て、篠原は顔をしかめた。
    「なるほど、お前の言う通りのようだ。この状況では一向に、決着するまい」
     篠原は刀を納め、身をひるがえした。
    「黄。そして、グラッドと言ったか。この決着は、いずれ付けさせてもらおう」
    「待て、篠原ッ!」
     晴奈が呼び止めたが、篠原はそのまま闇に紛れ、姿を消した。

    蒼天剣・権謀録 5

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第92話。強敵、出現。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 晴奈はキッと天原を睨みつける。「天原主席。これで言い逃れはできないぞ。 教団員と思しき黒ずくめ2名はエルスが捕らえ、残った1人もこうして親玉、つまりあなたのところに戻るのを確認した。最早、弁解の余地は無い」 真っ青になった天原は硬直している。が、突然笑い出した。「ヒ、ヒ……、ヒヒッ、そう思うか、本当にそう思うのか!」 そう叫...

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    晴奈の話、第93話。
    風雲急を告げる。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
     某所。
    「ふー」
     央中風の大きな椅子にもたれた天原はため息をつき、天井に向かって声をかけた。
    「篠原くんは、戻りましたか?」
    《いえ、まだ戻っておりません》
    「そうですか。意外に、てこずっているのかな。
     はー……、猫女に追い掛け回されてのどが渇きました。飲み物を持ってきてください」
     少し間を置き、部屋の戸を開けて黒ずくめの少女が現れる。
    「失礼します、殿」
    「ありがとう、藤川くん」
    「いえ……」
     飲み物を用意した黒ずくめ、藤川は小さく頭を下げ、部屋を出ようとした。
    「あ、ついでに」
    「はい、何でしょうか」
    「天玄館の執務室に行き、棚の後ろにある魔法陣を消してきてもらえますか? 台下が万一あちらに現れたら、大変なことになるでしょうから」
    「かしこまりました」
     藤川はもう一度頭を下げ、部屋を出た。
    「あ、お頭……」
    「今、戻った」
     扉の向こうで、藤川と篠原の話し声がする。すぐに篠原が戸口から顔を出す。
    「殿、ただいま戻りました」
    「ご苦労様でした、篠原くん。あの猫女は、片付けてくれましたか?」
     篠原は首を振り、窪んだ目をさらに落ち窪ませる。
    「恐れながら……。邪魔が入り、退却いたした次第です」
    「ほーぉ」
     篠原の報告を聞いた途端、天原の顔が不満げに歪む。
    「じゃあ何ですか、篠原くんともあろう者が何もできず、戻ってきたと?」
    「面目ございません」
     天原はしばらく篠原を睨みつけていたが、もう一度ため息をつき、眼鏡を外して横を向いた。
    「……まあ、いいです。後は、つけられてないでしょうね?」
    「はい」
    「なら、そっちは問題無しですね。
     多分、黄大人が央南連合に介入して私の素性も知れるでしょうから、天玄に入ることはできなくなるでしょう。一応、天原家の財産の一部はここに蓄えてありますけれど、まだ大部分が天玄に残ってますからねぇ。それを失うのも嫌ですし、ウィルソン台下からのご勅命を無碍にもできませんし。
     近いうち天玄に攻め込んで、連合代表の地位復権に臨まないといけませんねぇ」
     天原は眼鏡を拭きながらチラ、と篠原を見る。
     篠原は彼と視線を一瞬だけ合わせ、背を向けつつ答えた。
    「……我ら篠原派焔流一同、殿のご命令とあらば、いかような任務にも就く所存です」
    「ええ、頼りにしていますよ」



     翌日、天玄は大騒ぎになった。
     連合の代表が、実は敵対している黒炎教団と通じていたことが公になり、天玄館に激震が走った。と同時に、これまで天原が手がけていた業務のほとんどに不正――連合への業務妨害が行われていたことも発覚し、連合は大慌てで事態の収拾に当たった。
     その際にエルスが知恵を貸したことと、黄商会が多額の資金援助を行ったこともあって、次の主席には紫明が就任することとなった。
     これにより紫明は連合軍を自由に動かせるようになり、所期の目的であった黄海への援軍も達成された。

     しかしこの騒動により、晴奈の胸中にはある不安が沸いていた。
    (一体、天原はどこに雲隠れしたのだ? あの卑怯そうな男のことだ、恐らく天玄に舞い戻ろうと画策するだろう。恐らく、実力行使によって。
     そしてあの男、篠原龍明。焔流剣士と名乗り、確かに焔流の技も持っていた。何より気になるのが、あの『地面を叩き斬った』技。もしや、あの時イチイ殿を屠ったのは、篠原に縁ある者では無いのか?)
     考えれば考えるほど、天原と篠原の周りに不気味な影が見え隠れする図が浮かんでくる。
    (探らねばなるまい。今一度、紅蓮塞に戻るとしよう)
     と、晴奈の不安を感じ取ったらしく、エルスが声をかけてきた。
    「セイナ、あの男の調査をするんだろ? 焔流って言ってたから、晴奈の修行場に行くつもりだよね?」
     晴奈は腕を組み、エルスの笑い顔をけげんな表情で見つめる。
    「いつもながら、どうしてお主は私の心を読めるのか。……その通りだ」
    「なら、僕も付いていくよ」
     思いもよらない提案に、晴奈は目を丸くする。
    「何?」
    「これは、僕の勘なんだけど」
     珍しく、エルスの顔から笑みが薄れた。
    「何かすごく、危険な匂いがするんだ。あのアマハラ御大と、シノハラと言う侍から。
     彼らを放っておいたらきっと、戦争どころじゃなくなる。そんな気が、するから」
     エルスの言葉に、晴奈も無言でうなずいた。
     晴奈もまた、エルスと同じ危機感を、うっすらとではあるが抱いていたからだ。

    蒼天剣・権謀録 終

    蒼天剣・権謀録 6

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第93話。風雲急を告げる。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -6. 某所。「ふー」 央中風の大きな椅子にもたれた天原はため息をつき、天井に向かって声をかけた。「篠原くんは、戻りましたか?」《いえ、まだ戻っておりません》「そうですか。意外に、てこずっているのかな。 はー……、猫女に追い掛け回されてのどが渇きました。飲み物を持ってきてください」 少し間を置き、部屋の戸を開けて黒ずくめの少女が...

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    晴奈の話、第94話。
    幸せ一杯なご夫婦。

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    1.
     新たに現れた謎の敵、「新生」焔流剣士の篠原の素性を探るため、晴奈は焔流の総本山、紅蓮塞へと戻って来ていた。
    「へぇー、ここが紅蓮塞かぁ。厳格な場所だって聞いてたけど、意外にのどかな街なんだね」
     市街地を見回すエルスに、晴奈はぱたぱたと手を振る。
    「いや、ここはまだ市街だ。修行場はあっちにある」
     晴奈の示す方を見て、エルスと明奈は同時に声を上げた。
    「……へぇ」「何だか、物々しいですね」
    「霊場だからな。それに、敵に攻め込まれることを想定し、迷路のような造りになっている。私から離れると、迷い込んでしまうぞ」
    「はは、それは気を付けないとね」
     ちなみに晴奈が紅蓮塞へ戻るにあたって、エルスと明奈が同行していた。
     情報収集と分析、そしてその応用・活用にかけては、エルスの右に出る者はいない。エルス自身も「一度行ってみたい」と申し出ていたため、こうして随行したのである。
     また、明奈も同じように願い出ていたことと、晴奈の師匠である雪乃からも、かねてから「会ってみたい」と言っていたこともあり、エルス同様に付いてきていた。



    「まあ、本当に……」
     雪乃は明奈を見るなり、興味深そうな声を上げた。
    「似てるわね、あなたに。一回りちっちゃい晴奈、って感じ。後ろで髪をまとめたら、本当にそっくりかも」
    「はは……、明奈が戻ってきてからずっと、そう言われております。子供の時分はあまり、そう評されることは無かったのですが」
     晴奈は照れ臭くなり、しきりに猫耳をしごいている。一方、エルスも興味深そうに雪乃を眺めていた。
    「それで、こちらの外人さんは?」
    「あ、申し遅れました」
     エルスはぺこ、と頭を下げて自己紹介をする。
    「僕はセイナの友人で、エルス・グラッドと申します。お会いできて光栄です、ユキノさん」
     つられて雪乃も会釈する。
    「あ、はい。焔雪乃と申します。晴奈の師匠で、この紅蓮塞で師範を勤めております」
    「いやぁ、セイナの師匠と聞いて、美しい人を想像していましたが、それ以上ですね。非常にお優しい印象を受けます。とても柔らかな美しさが出ていますね」
     エルスの口が妙に回り出したことに気付き、晴奈が後ろから小突く。
    「おい、エルス。言っておくが……」
    「ああ、分かってる分かってる。僕は人妻を口説いても、小さい子のいるお母さんは口説かないよ」
    「あら……?」
     エルスの言葉に、雪乃は戸惑った様子を見せた。
    「なぜわたしに、子供がいると? まだ晴奈にも言ってなかったのに」
    「え? 師匠、お子さんが? い、いつ?」
     今度は晴奈が目を丸くする。
     雪乃は顔を赤らめ、嬉しそうに、しかしまだ疑問の残った顔でうなずいた。
    「ええ、1ヶ月前に産まれたの。あなたが塞を離れた頃には、まだわたしたちもできたことに気付いてなかったんだけどね。
     あーあ、驚かせようと思ったのに。どうして分かっちゃったのかしら」
     エルスが苦笑しつつ、種明かしをする。
    「はは、折角の吉報に水を差してしまいまして、申し訳ありません。
     まず、夫さんがいると言うことは、その指輪で分かりました。そしてお子さんがいらっしゃると言うことは……」
     エルスは自分の服をトントンと叩く。
    「その着物、胸周りや帯の位置がこれまで着ていたであろう位置と若干、合っていらっしゃいませんね。となると、この数ヶ月で何か、大きく体型が変わるようなことがあったと言うことです。
     その点とご結婚されていると言うことと合わせて、そう予想しました」
    「まあ……」
     雪乃は口に手を当て、驚いた様子を見せた。
    「随分、名探偵でいらっしゃるのね。……でも」
     雪乃はエルスに笑いかけ、たしなめた。
    「人妻も、口説いちゃダメよ」
    「はは、失礼しました」
     これもエルスの人心掌握術なのか、それとも雪乃が特別人懐っこいのか――二人は会って数分もしないうちに、すっかり打ち解けていた。

     続いて晴奈たちは雪乃に連れられ、良太と、雪乃たちの子供のいるところに向かった。
    「良太は今、書庫に?」
    「ううん、家元のところにいるわ」
    「ふむ、家元にも用事があったところです。丁度良かった」
     晴奈たちは焔流家元、重蔵の部屋の前に立ち、戸を叩いた。
    「失礼します、家元」
    「お、その声は晴さんじゃな。久方ぶりじゃの、入りなさい」
    「はい」
     戸を開けると、重蔵が耳の長い赤ん坊を抱いて座っていた。横には良太もいる。
    「姉さん。お久しぶりです」
    「久しぶりだな、良太。……家元、長らく留守にいたしまして」
    「おうおう、構わん構わん。……して、後ろのお二人は?」
     晴奈の後ろにいたエルスと明奈が前に出て、揃って挨拶する。
    「お初にお目にかかります。エルス・グラッドと申します。諸事情あって、北方からこちらに移住しました。現在、対黒炎教団隊の総司令を務めております」
    「初めまして、焔先生。黄晴奈の妹の、明奈と申します」
    「ほうほう、大将さんに晴さんの妹さんとな? これはまた、興味深い面々が参られましたな」
     重蔵は子供を良太に渡し、立ち上がって一礼した。
    「拙者、焔流家元、焔重蔵と申します。
     して、晴さん。ここに戻ってきたのは単に、良太たちの娘を見に来ただけではあるまい? 顔にそう書いてあるぞ」
    「はい、その通りです」
     晴奈は表情を改め、重蔵にゆっくりと尋ねた。
    「家元、篠原龍明と言う剣士について、何かご存知ではありませんか?」
    「……篠原じゃと?」
     その名前を聞いた途端、重蔵の目が険しく光る。
    「ご存知でいらっしゃいましたか」
    「存じている、どころか……」
     重蔵は吐き捨てるように答えた。
    「あやつはこの紅蓮塞を潰そうとしたのじゃ。忘れるわけがなかろう!」

    蒼天剣・魔剣録 1

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第94話。幸せ一杯なご夫婦。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 新たに現れた謎の敵、「新生」焔流剣士の篠原の素性を探るため、晴奈は焔流の総本山、紅蓮塞へと戻って来ていた。「へぇー、ここが紅蓮塞かぁ。厳格な場所だって聞いてたけど、意外にのどかな街なんだね」 市街地を見回すエルスに、晴奈はぱたぱたと手を振る。「いや、ここはまだ市街だ。修行場はあっちにある」 晴奈の示す方を見て、エルス...

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    晴奈の話、第95話。
    焔流の内紛。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     詳しい話をするため、晴奈とエルス、そして重蔵の三人は人払いをし、重蔵の私室に移った。
    「15年以上昔、この紅蓮塞に『三傑』と呼ばれた、才気あふれる剣士たちがおったんじゃ。
     一、『剛剣』こと楢崎瞬二。一、『霊剣』こと藤川英心。そして最後の一人が『魔剣』こと、篠原龍明。
     彼ら三人は同年代の剣士たちの中でも非常に抜きん出ており、いずれはこの紅蓮塞を背負って立つ人間になるだろうと評されておった。
     わしもその三人を非常に気に入っておったし、喧嘩別れさえしておらなんだら、三人のいずれかを晶良――娘の婿にしたいとまで思っておった。
     事件が起きたのは確か、双月暦が新世紀を迎えて間も無い頃か……。突然、篠原が謀反を起こしたのじゃ。門下生十数名をたぶらかし、『新生焔流』を名乗って、わしの命を狙いに来た。わしも今よりはまだ若かったし、楢崎と藤川の助けもあったから、結果的には撃退することができた。
     その後、当然篠原は塞を離れ、以後の行方は杳として知れん」
     重蔵はそこで言葉を切り、晴奈を見る。
    「しかし晴さん、どこでその名を?」
    「数日前、天玄でそう名乗る者と対峙しました。こちらにいるエルスの助けを借り、何とか撃退できたのですが……」
    「なるほど、そうか……」
     重蔵は一瞬、エルスを見る。
    「忌憚無くわしの見当を言えば、晴さん。
     エルスさんがいなければ、十中八九、晴さんは死んでおったな」
    「な……」
     面食らう晴奈を差し置いて、エルスも遠慮無く、重蔵の意見にうなずく。
    「まあ、そうでしょうね。単純に1対3の死闘で仕留められない相手を、1対2の状態で退かせられたのは、奇跡に近いと言えますね」
    「そう言うことじゃ。それに付け加えるならば、楢崎も藤川も、今の晴さん以上に強かった。その二人にわしの力を加えた、三人の剣豪を跳ね返す篠原の底力にはさしものわしも、恐れ入ったものじゃ。
     無論、楢崎も藤川も、かなりの痛手を負った。楢崎は半年近く寝込み、免許皆伝を得る機を一時、逃してしまった。藤川も片腕を潰され、『五体満足を必須とする』と言う免許皆伝の資格を失い、塞を去ってしまったのじゃ。
     無傷だったのはわしだけ――弟子を護ることができず、今でも忸怩たる思いをしておる」
     重蔵は腕を組み、それきり黙った。



     一方、雪乃と良太の部屋で、明奈は雪乃たちの娘、小雪を見せてもらっていた。。
    「可愛いですね、小雪ちゃん」
    「うふふ……」「えへへ……」
     子供をほめられ、雪乃と良太の二人は揃って、気恥ずかしそうに微笑む。その様子を見ていた明奈は、ため息混じりにこうつぶやいた。
    「はぁ……、何だかうらやましいです、お二人が」
    「ん?」
    「幸せそうだな、と」
     良太はきょとんとし、不思議そうに尋ねる。
    「明奈さんは、幸せじゃないんですか?」
    「……いえ、そう言うわけでは」
     明奈はそうにごしたが、雪乃が続いてこう尋ねてきた。
    「晴奈から、確か黒炎教団に7年囚われていたと聞いたけれど……?」
    「あ、はい」
    「何とか戻ってこられた今でも、まだ身柄を狙われているとも聞いたわ。となれば幸せだって言い切るのは、ちょっとためらってしまうわよね」
    「いえ、やっぱり幸せですよ」
     明奈は首を振り、静かに応える。
    「今はお姉さまが守ってくださいますから。時々、一人でどこかに飛んで行ってしまわれますけれど、本当に危険が迫ったら、きっと来てくださいますもの」
    「あー、まあ、確かに姉さん……、晴奈さんは突っ走る人ですねぇ。いつだったか、一人で黒鳥宮へ行こうとしたことがある、とか言っていましたし」
    「え?」
     良太の一言に、明奈と雪乃が驚いた声をあげた。
    「初耳ね、それ。いつのこと?」
    「あ……、しまった。内緒にしてくれ、って言われてたのに」
     良太は頭をかきつつ、晴奈が黒荘へ行っていた話を二人に打ち明けた。
    「へぇ……。あの時、そんなことしてたのね」
     話を聞いた雪乃は、納得した顔でうなずいた。
    「まあ、晴奈らしいと言えば、らしいわね。……明奈さん、どうしたの?」
    と、明奈は指折り、何かを数えている。
    「えっと、今が516年で、3年前の出来事ってことは、513年で……、へぇ」
    「ん?」
    「あのですね、一度本当にわたし、危なかった時があるんですよ」
     明奈は小雪の頭を撫でながら、その思い出を語る。
    「ウィリアム猊下のご子息に、ウィルバーと言う方がいらっしゃるんですが、この方が本当に好色で。教団の尼僧に、良く声をかけておられるんです。
     それで、わたしも声をかけられまして、危うく部屋に閉じ込められそうになったんです」
    「あのウィル坊やがねぇ……」
    「それは、災難でしたね」
     雪乃と良太は眉をひそめ、明奈の話を聞いている。
    「でも、猊下にそのことがばれて。温厚な猊下も、その時は流石に怒っていらっしゃいました。その後折檻されたりして、ウィルバー様はしばらく手を出さないようになりました。
     それで……、その事件が、513年の初めに起こったんですよ」
    「……つまり、晴奈姉さんの勘が働いて、あの時助けに行った、と?」
     良太はけげんな顔をして、雪乃の顔を見る。雪乃は腕を組み、首をかしげていた。
    「そこまでは何とも言えないけれど」
     雪乃は明奈に、にっこりと微笑みかけた。
    「もしそうなら、いいお姉さんね。本当に、大事に思っている証拠よ」



    「……うーむ」
     しばらく黙り込んでいた重蔵が、不意に立ち上がった。
    「家元?」
    「わし自身体にガタも来ておるし、うまく教えられるか分からん。それにうまく決まればまさに必殺じゃが、成功させるのは極めて難しいし、実戦で使えるか分からん以上、教える価値は無いかも知れん。
     半ば失敗作と言ってもいいし、この技は墓まで持って行こうかと思っておったが……」
     重蔵は床の間に飾ってあった刀を取り、晴奈に声をかけた。
    「晴さん。一つ、わしの編み出した技を教えておこう。
     その時運良く決まり、篠原を追い払った技――『炎剣舞』を」

    蒼天剣・魔剣録 2

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第95話。焔流の内紛。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 詳しい話をするため、晴奈とエルス、そして重蔵の三人は人払いをし、重蔵の私室に移った。「15年以上昔、この紅蓮塞に『三傑』と呼ばれた、才気あふれる剣士たちがおったんじゃ。 一、『剛剣』こと楢崎瞬二。一、『霊剣』こと藤川英心。そして最後の一人が『魔剣』こと、篠原龍明。 彼ら三人は同年代の剣士たちの中でも非常に抜きん出ており、い...

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    晴奈の話、第96話。
    秘剣伝承。

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    3.
     これまで晴奈は、焔重蔵が武器を持った姿を二度見たことがある。
     一度目は、晴奈が入門した時。そして二度目は、良太が入門して間も無い時。そのどちらも、重蔵は並々ならぬ気迫と技量を持って、晴奈たちにその力を見せた。
     しかし、長年焔流家元として、多くの剣士たちの鑑とされた重蔵も、寄る年波には勝てないらしい。三度目に見た、その刀を持った姿は――。
    (……老いた、か)
     背筋こそしゃんと伸びてはいるものの、まくられた袖から見える腕は筋肉が落ち、大分しわがより、皮膚が垂れ下がっている。
     その老いさばらえた姿に、晴奈は少なからず落胆していた。
    「ふぃー。すー……、はー……」
     修行場の中央に立った重蔵は腕を大きく振り、深呼吸を始める。非常にゆっくり、一呼吸に10秒近く時間をかけている。
    (随分、深い呼吸だ。気合いを入れているのだろうな)
    「すぅー……、はぁー……」
     重蔵の呼吸が、依然ゆっくりとしながらも荒くなっていく。そこで晴奈は重蔵の変化を、視覚的に確認した。
    (む……? 家元の、体が……?)
     重蔵の体が一呼吸ごとに、大きく見える。
     よくよく見てみれば、体の大きさは元のままだ。だが、体を取り巻く「空気」――剣気とでも称せばいいのか――が、じわじわと重蔵の体から広がっていくようにも見えた。
    「はあぁー……。
     晴さん。目を見開き、耳をそばだて、肌をあわ立てて、良く感じなされ。今のわしには一度しか、できん技じゃからのう」
     重蔵は晴奈に背を向け、刀を構えた。

     空気が弾ける音が聞こえた。
     ぼむ、と硬い鞠のはじけるような、空気の震える音。
     そして立て続けに、地面が爆ぜる音。
     凝らした晴奈の眼には、重蔵の姿が飛び飛びに映る。
     恐るべき速度で、剣舞を舞っているのだ。
     空気の弾ける音は、刀を振るう音。
     地面の爆ぜる音は、地面を蹴る音。
     そして重蔵が立ち止まった瞬間、晴奈は空気が燃え立ち、弾け、切り裂かれたのを、その眼で確かに見た。

    「……!」
    「こ、これが、『炎剣舞』、じゃ。ハァハァ……。
     基本は、焔流剣技『火刃』、『火閃』、そして、『火射』の組み合わせ、じゃが……、ゼェゼェ、太刀筋ごとの、絶妙の、機を見切り、連携させる、ことで……、このように、空気は、瞬時に、煮える。
     その猛烈な熱を、刀に込め、敵に浴びせれば、……ゴホ、ゴホッ」
     重蔵が咳き込み、地面に膝を着く。晴奈は慌ててその身を抱きしめ、介抱した。
    「い、家元!」
    「す、すまんが晴さん、ちと、疲れた。部屋まで、負ぶっていってくれんかの」



    「おじい様、もう歳なんですから無茶しないでくださいよ~」
     部屋に運ばれるなり横になった重蔵を心配し、良太が駆けつけた。二人きりになったところで、重蔵は横になったまま恥ずかしそうに笑う。
    「はは……、面目無いわい。予想以上に、力が落ちておった。
     まあ、しかし。晴さんに我が奥義を余すところなく見せられただけ、重畳と言うものじゃ。もう悔いは無いのう」
    「大げさですよ、もう……」
     良太は苦笑しつつ重蔵のそばを離れ、部屋に戻ろうとした。
    「……良太」
     と、重蔵が呼び止める。
    「何でしょう?」
    「もしわしが……、近いうちに亡くなったら」
    「ちょ、縁起でもないですよ、おじい様」
     目を丸くした良太をにらみつけ、重蔵が続ける。
    「聞け。……わしが亡くなったら、雪さんを当面、家元代理にしておいてくれ。お前たちの子が成人し、免許皆伝を得るまでは」
    「雪乃さんを……?」
    「雪さんはしっかりした人間じゃし、腕も立つ。彼女なら、紅蓮塞を支えられるじゃろう」
     良太は困った顔をしつつも、重蔵を見返す。
    「……おじい様、気落ちしすぎですよ。根が頑丈なんですから、まだまだ長生きしますよ」
     そのまま、良太と重蔵は見つめ合い――やがて重蔵が根負けした。
    「……はは、ま、そうじゃな。くだらんことを言うてしもうたのう」

     晴奈は重蔵を運んだ後、また修行場へと戻っていた。
    (『炎剣舞』……)
     刀を構え、重蔵の動きを頭の中で繰り返す。
    (太刀筋の連携と、呼吸、動作の緩急から生まれる、絶大な威力の集約、集合)
     まずは、覚えている限りで刀を振るい、その動作を真似る。刀に火を灯し、一振りごとに焔流剣技を繰り出す。
    (まずは『火刃』。最も基礎、基本の『燃える剣閃』)
     刀を振るうと、わずかに炎がたなびき、その紅い筋を刀の後ろに一瞬、残す。
    (続いて『火閃』。瞬時に熱をばら撒き、空気を焼く『爆ぜる剣閃』)
     一振りすると、一拍遅れて、空気の爆ぜる音が響く。
    (そして『火射』。地面を伝い、炎を敵にぶつける『飛ぶ剣閃』)
     振り下ろした瞬間地面に炎が伝わり、そのまま黒く焦げた軌跡を残して火柱が走る。
    (この三種の連携、……と言うが)
     汗だくになるまで何十回と振るってみたが、重蔵のように辺り一面煮え立つと言うようなことは、一向に起こらない。
    (……難しいな、まったく)
     結局、その日一日中、晴奈はずっと「炎剣舞」の習得に励んだが、残念ながら一度も、晴奈の満足が行くような出来には至らなかった。
     多少の不安を残したまま、この日の修行は終わった。

    蒼天剣・魔剣録 3

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第96話。秘剣伝承。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. これまで晴奈は、焔重蔵が武器を持った姿を二度見たことがある。 一度目は、晴奈が入門した時。そして二度目は、良太が入門して間も無い時。そのどちらも、重蔵は並々ならぬ気迫と技量を持って、晴奈たちにその力を見せた。 しかし、長年焔流家元として、多くの剣士たちの鑑とされた重蔵も、寄る年波には勝てないらしい。三度目に見た、その刀を持っ...

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    晴奈の話、第97話。
    遺恨の傷痕。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     某所、天原の隠れ家。
    「災難でしたね、アマハラ君」
    「ええ、本当に。まったく焔流には、ほとほと手を焼かされますよ」
     事情を聞きつけたワルラス卿が、天原の元を訪ねていた。
    「まあまあ、アマハラ君。それを言っては、シノハラ君たちに悪い」
    「おっと、そうでした。では言い換えて……、『旧』焔流には、ほとほと手を焼かされる、と」
    「はは……」
     天原はぱた、と手を叩き、茶を持って来させる。
    「黒茶を」
    「ただいまお持ちいたします」
     手を叩いてすぐに、黒頭巾をした女性――頭巾の端から猫耳が見えている――が、茶器と椀を持って現れた。
    「おお、早かった。いつもながら準備がよろしいですね、竹田くんも、皆さんも」
    「殿のご用命に、いつでも応えられるようにと」
    「ほう……」
     猫獣人、竹田の言葉に、ワルラスは感心した声をあげる。
    「いい部下をお持ちですね、アマハラ君は。部下と言う者はすべからく、こう言う出来る人間を持ちたいものです。私の甥などは本当に、愚物でして」
    「ああ、ウィルバーくんですか。おうわさは、かねがね……。現在は央南西部の侵攻……、おっと、教化に当たっているとか」
    「ええ、そうです。しかし、まあ……、アマハラ君も知っているでしょうが、あの二人の奸計にいつも絡め取られて、毎度毎度敗走、失敗すると言う体たらくでして」
     憎々しげに首を振るワルラスを見て、天原は小さくうなずく。
    「ああ、黄とグラッドですか。確かにあの二人は曲者ですねぇ。……そうだ、こんなのはどうでしょうか?」
    「うん?」
    「私も台下も、いくつか共通の悩みと、目標を持っています。黄とグラッドに手を焼き、央南西部、及び中部の教化にてこずっている。
     しかしですね、悩みと言うのは似通ったものが二つ合わされば、逆に転機となるのですよ」
    「ふむ……?」
     天原は手をさすりつつ、ワルラスに献策する。
    「あの二人を狙えば、その目標は達せられます。幸いにも我々には、多くの手駒がある。そしてもう一つ、『足』もあります。
     これに台下の頭脳を加えれば、どんな街も紙細工も同然。あっという間に攻め落とし、黒く染められましょう」
    「なるほど、なるほど。私もそれには同感です。
     それにもう一つ、あのグラッドと言う男の思考には、ある弱点を見つけています。そこを突いた策で攻めれば、我々の目標も達せられるでしょう」
     黒い「狼」と白い「狐」は、同時にニタニタと笑った。

     一方その頃、篠原は座禅を組みながら、昔を思い返していた。
    (あの『猫』は確かに俺より格下だった。だが、あの気迫は一流。……思い出す、昔俺が紅蓮塞にいた時のことを。
     既に家元は壮年も過ぎ、老境に達しようかと言う歳だった。体も痩せ、どう見ても苦戦する相手では無かった。瞬二も英心も確かに手強かったが、奴らは一太刀、二太刀であっさり沈んだ。俺は三人ともまるきり、敵とは見なしてはいなかった。
     だが……! 家元、焔重蔵だけは違っていた。俺の刀を4太刀浴びてなお、倒れるどころか向かってきた。確かに瞬二や英心よりは軽い怪我であっただろう。だが、それを差し引いても、あの二人とはまるで、質が違う。
     凡庸な奴らであれば、一太刀入れられれば怯み、退く。それが英心たちの敗因だった。逃げれば逃げるほど、面白いようにこちらの太刀は奴らの体に食い込み、半端に立ち向かうよりも深手を負う。
     だが家元は違った。どれだけ太刀を入れられようと、退かぬ。決死の覚悟を持って、踏み込んでくる。死をも省みず、攻め入ってくるあの気迫――負けたのは、奴よりはるかに強健な肉体と技量を持っていたはずの、俺だった。
     俺は『強い奴』など恐れん。本当に恐ろしきは『退かぬ奴』だ。退かぬ奴に俺の『魔剣』は通じない。それどころか俺の予想を上回る立ち回りで圧倒し、俺を恐れさせ……っ)
     重蔵の鬼気迫る顔を思い出し、篠原の胃は凍ったように絞めつけられる。
    「う、ぐ……」
     篠原は腹を押さえ、その痛みをこらえる。手を当てているうちに痛みは和らぎ、篠原は額に浮いた汗を拭った。
    (あれからもう、何年も経ったと言うのに)
     篠原は上を脱ぎ、自分の裸を見る。
    (この傷はなお、俺を捕らえ、痛め続けている)
     篠原の胸から腹全体にかけて、ひどい火傷と刀傷の痕が残っている。篠原は立ち上がり、己の中で膨れ上がる激情をこらえきれず、叫んだ。
    「この傷が癒えぬ限り、俺は本家を敵と見なす!
     見ていろ、重蔵……! お前の門下にいる者はみな、血祭りに上げてくれるぞ!」

    蒼天剣・魔剣録 終

    蒼天剣・魔剣録 4

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第97話。遺恨の傷痕。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 某所、天原の隠れ家。「災難でしたね、アマハラ君」「ええ、本当に。まったく焔流には、ほとほと手を焼かされますよ」 事情を聞きつけたワルラス卿が、天原の元を訪ねていた。「まあまあ、アマハラ君。それを言っては、シノハラ君たちに悪い」「おっと、そうでした。では言い換えて……、『旧』焔流には、ほとほと手を焼かされる、と」「はは……」 天...

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    晴奈の話、第98話。
    引き続き情報収集。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
    「リョータ君、奥さんとはどうなの?」
    「ふえ?」
     良太とともに紅蓮塞の廊下を歩いていたところで、エルスはそう尋ねてみた。
    「アツアツ?」
    「え、えっと、まあ、……はい」
     恥ずかしがる良太の反応が面白く、エルスはさらに聞き込んでみる。
    「そっかー、そうだよね、お子さんもいるし。結婚して、何年くらい?」
    「えーと、2年……、くらいです」
    「じゃ、まだ新婚さんだね~」
    「ええ、はい」
     エルスは腕を組み、しみじみとした口調になる。
    「その若さで、あんなキレイな奥さんと子供もいて、しかもこの城の主に、すごく近い身。権力も持っている。うらやましくなっちゃうな、はは……」
    「そんな、僕なんて……」
     良太の顔が、少し曇る。
    (おっと、この話題は地雷だったかな?)
     それを横目でチラ、と見たエルスはさらりと話題を変える。
    「そう言やセイナから聞いたんだけどさ、ここの書庫ってかなり大きいんだよね?」
    「え? ええ、少なくとも央南西部では、随一の規模らしいですよ。おじい様のおじい様くらいから、僕みたいに本が大好きな方がずっと、家元として続いていたそうですから」
    「へぇ……」

     晴奈がひたすら重蔵から教わった奥義「炎剣舞」を体得しようと躍起になっていた頃、エルスは天原の素性や天玄の妖怪事件、篠原の過去などを調べるため、良太に頼んで書庫へと案内してもらっていた。
    「ここが書庫です」
    「おー……、確かに大きいなぁ」
     中を覗きこみ、エルスは感心した。
    (てっきり、道楽家の書架みたいなのを想像していたけど、これは確かに、王国の資料室に勝るとも劣らない規模だな。書庫番のリョータ君についてきてもらって正解だった)
     書庫の入口から見回してみるが、明らかに蔵書数が多く、エルスは資料を自力で探すことを早々に諦めた。
    「えーと、それじゃまずは……、名士録ってここにあるかな?」
    「う、……名士録、ですか」
     良太が一瞬嫌そうな顔をしたので、エルスは首をかしげる。
    「……? 名士録に何か、嫌な思い出でもあるの?」
    「い、いえ。えっと、こっちです」
     良太はプルプルと首を振り、すぐに名士録を持って来てくれた。
    「『天原桂(あまはら けい) 狐獣人 男性 475~ 天原財閥宗主、第41代央南連合主席』。
     アマハラについてはこれだけかぁ。もうちょっと何か、詳しい資料は無いかな?」
    「うーん、もう少し詳しいもの……、あ、これなんかどうでしょう?」
     良太は席を立ち、何冊かの本をすぐに持ってきてくれた。
    「ふむ……、『天原家の歴史 ~央南の名家 五~』、『天原篠語録』、『天玄時事 506~510年・511~515年』、『国際魔術学会会報 第906号(499年上半期) 央南語訳版』、……何で会報?」
    「あ、天原氏がここに論文を寄稿していたんです」
    「……へぇ。リョータ君、もしかして書庫の本、全部読んでるの?」
     良太は恥ずかしそうに笑ってうなずく。
    「はい、一通り読みました」
    「さすが書庫番だなぁ。……後は、『央南連合議事録 第93号・第94号』と。ふむ……」
     エルスは良太の持ってきてくれた本を、上から順に読み進めていった。



    (『……天原家は黒白戦争直後、央南八朝時代に名を成した狐獣人、天原榊(旧名、中野榊)を起源とする……』

    『……次期当主のことを考えると億劫になる。どう見ても次男の櫟(いちい)の方が指導者として見れば優秀なので……』

    『……507年、天原家の当主であった天原篠氏が逝去(享年67歳)。次期当主には次男の櫟氏(26歳)が有力とされていたが失踪中のため、長男の桂氏(32歳)が当主と……』

    『……512年8月30日未明、天玄南区赤鳥町を歩いていた早田こずえさん(猫・女性)が路上で正体不明の動物に遭遇した。早田さんにけがは無く、動物も治安当局が到着した時には現場および付近におらず、近隣住民は不安な……』

    『……512年9月11日早朝、天玄川沿市在住の桐村惣太さん(短耳・男性)が仕事のため職場に向かう途中、正体不明の動物に遭遇、逃走し、警察に通報した。桐村さんにけがは無く、治安当局は先日、南区赤鳥町で起こった事件と関係があるのでは無いかと……』

    『……天原桂(狐・男性 天神大学魔術院博士課程在籍)……幻術の効果集約プロセス②部分において、ある種の雷属性関数を用いたところ……3秒程度ではあるが幻覚(術使用者がその効果を予想、想像している内容)が実体化すると言う結果が得られ……錬金術の最終目標の一つ、生命創造への足がかりとなるのでは無いだろうか……』

    『……全会一致により、第41代連合主席に天原桂氏が選出された……今回、議員30名のうち18名が欠席と言う不安な事態となったが、天原氏の采配により混乱が抑えられ、今後の活躍に期待が……』

    『……黄海への黒炎教団侵攻と言う非常事態に見舞われ、今回の緊急会議は多大な緊張感をはらんでいた……天原主席の判断により武力介入は避け、教団との話し合いによる平和的交渉を行うことが決定された。現在黄海にて軟禁されている黄紫明氏に連絡を取り、上記の内容を伝えることに……』)



     一通り読み終え、エルスは軽くため息をついて立ち上がった。
    「ああ……、疲れた。アマハラについては大体分かったから、戻ろっか」
    「え? ええ、はい」
     唐突に席を離れ、そのまま書庫を出たエルスに、良太も慌てて後をついていった。

    蒼天剣・術数録 1

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第98話。引き続き情報収集。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1.「リョータ君、奥さんとはどうなの?」「ふえ?」 良太とともに紅蓮塞の廊下を歩いていたところで、エルスはそう尋ねてみた。「アツアツ?」「え、えっと、まあ、……はい」 恥ずかしがる良太の反応が面白く、エルスはさらに聞き込んでみる。「そっかー、そうだよね、お子さんもいるし。結婚して、何年くらい?」「えーと、2年……、くらいです」...

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    晴奈の話、第99話。
    権謀・術数、合わせて深い策略のこと。

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    2.
    「やっぱり黄海侵攻の際に連合が動かなかったのは、アマハラのせいだったんだよ」
    「そうか……」
     エルスが書庫から晴奈の部屋に戻ってきたところで、丁度晴奈も戻ってきた。そこでエルスは書庫で調べた内容といくつかの考察を、晴奈に伝えた。
    「連合の議事録を調べてみたら、どうも裏で手を回して代表になったっぽいんだよね。
     30前までずっと学者だったのに、いきなり政治の世界に飛び込んでリーダーシップを取れるなんて、まず無理な話だもの。
     代表になった時も議員30名の半分以上がいきなり欠席してるって話だし、何らかの不正が行われた可能性は非常に高い」
    「ほう」
     続いてエルスは、天原が当主になった経緯も洞察、推理した。
    「まず確認なんだけどさ――セイナから聞いたんだけど――リョータ君は昔、妖狐に出会ったって? イチイって名前の」
    「あ、はい。確かに会いました」
     良太がうなずいたところで、エルスは話を続ける。
    「それで、アマハラが天原家の当主になった時の記録を調べてみたら、丁度その頃、天原櫟(いちい)って言う、次期当主を目されていた人物が行方不明になっていたとあった。
     セイナたちがエイコウで遭遇した事件と照らし合わせれば、恐らくその妖狐、イチイはアマハラの弟さんに間違い無いだろう。アマハラは大学院時代、生命に関連した研究を行っていたみたいだから、恐らくその研究を悪用してイチイさんを妖狐に変えてしまったんだろうね」
    「やっぱり、そう思いますか」
     神妙な顔をする良太を見て、エルスはこくりとうなずく。
    「まあ、これまでにそんな術が発表されたって話は、僕も聞いたこと無いんだけどね。もしそんな術が実在するんなら、魔術学、いや、現代科学が崩壊しちゃうよ。
     で、話を戻すけど。ここまでの流れについて、ある仮説を立ててみよう。まず、学者肌のアマハラ自身には大した政治手腕は無いとして、じゃあこの9年間、曲がりなりにも央南連合を率いてこられたのは何故か?」
    「誰かが、知恵を貸していたと?」
     晴奈の回答に、エルスはまた小さくうなずいた。
    「その線が濃い。
     そしてもう一つ。央南に古くから君臨し、今なお絶大な政治的権力を誇る天原家。アマハラは何故、弟のイチイさんをわざわざ妖狐にして隠し、天原家当主の座に就いたんだろう?」
    「それは……、その権力を奪うためでは?」
     今度は良太が答えたが、エルスは人差し指を立てて否定した。
    「それは、ちょこっとおかしい。
     さっきも言ったように、アマハラは元々学者だった。しかも、名誉ある魔術学会の会報に名前が載るほどの業績を上げる、優秀な学者だ。そのまま学者でいれば、それなりの社会的権力は手に入るはずだったろう。
     だけど、彼はいきなり政治家に転身。わざわざ弟を消すようなことをしてまでその地位を手に入れたのは、何故なんだろう?」
    「む……?」
    「えーと……」
     晴奈も良太も、顔を見合わせてうなる。
     と、3人から離れて話を聞いていた雪乃が手を挙げた。
    「どうしても、『政治的な』権力がほしかったと言うことかしら?」
    「恐らく、それだ。何が何でも央南を動かせる権力が、彼はほしかった。……と言うより、必要だったんだろう。
     ここでまた一つ、別のことを考えてみよう。他に誰か、これほど央南支配を強く望む人が誰か、いなかったかな?」
     この質問に対しても、同じように話の輪から離れていた明奈が、恐る恐る手を挙げる。
    「もしかして、ですが……、ワルラス台下のことを仰りたいのですか?」
     エルスはニヤリと笑い、明奈に向かって親指をぐっと上げてみせた。
    「うん、そうだ。
     つまり、すべての流れはこうだ。元々からワルラス卿は、央南支配を望んでいた。しかし央南西部から武力行使による教化は、時間がかかりすぎるしコストも馬鹿にならない。
     それよりも央南に密通者を作って、その人を傀儡(かいらい)にして政治を執った方が断然、効果的だ。そこで、央南に強い影響力を持ち、かつ、自分の言いなりになりそうな人物を探していた。例えば政治に興味を持たず、何らかの取引で動くような人物を。
     そこで見つけたのがアマハラ。天原家の御曹司で、政治に疎い魔術学者。教団が持つ魔術書か何かを取引材料にして、彼をそそのかしたんだろう」
    「教団の魔術は黒炎様仕込みですし、基本的に門外不出ですから、確かに価値は高いですね。魔術師の方なら、欲しがると思います」
     明奈の補足に「ありがとう」と応え、エルスは話を続ける。
    「彼はアマハラをそそのかし、天原家を継がせて政治的権力を握らせた。そして、央南連合にもあれこれ手を回して、その権力もつかませ――こう考えると、さっき言っていた『入れ知恵をした人物』と言うのも容易に推察できる。央南支配を目論むワルラス卿なら、口を出さないはずが無いからね。
     つまりこの数年、央南はワルラス卿による傀儡政治が続いていたことになる」
     エルスの結論を聞き、そこにいた全員が青ざめた。
    「そんな……、じゃあ、僕たちはずっと、黒炎教団の手の上にいたと言うんですか!?」
    「信じられないわね……」
     雪乃夫妻は呆然としている。
     逆に、晴奈は目を吊り上がらせて怒りをあらわにした。
    「ふざけた所業だ! 何としてでも、天原を捕らえねばならぬな」
     晴奈の憤りに、エルスはニコニコしながら応じる。
    「そうだね。戻ったら早速、捜索してみよう。
     明日はシノハラの情報を集めることにしよう。今日のところはもう休むよ。一日中、書庫の中にいたし」
     首をコキコキと鳴らし、エルスは席を立とうとした。
     と、良太が手を挙げる。
    「あ、エルスさん。よろしかったら今晩、ご一緒に食事なんかいかがでしょうか?」
    「え? いいんですか?」
     良太に続き、雪乃もにこっと笑う。
    「そうね、折角だから。
     それに愛弟子とも、久々に杯を酌み交わしたいところだし。晴奈もいいわよね?」
     雪乃の誘いに、晴奈も笑みを返した。
    「勿論です。明奈も参加させてよろしいでしょうか?」
    「ええ、是非」

    蒼天剣・術数録 2

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第99話。権謀・術数、合わせて深い策略のこと。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2.「やっぱり黄海侵攻の際に連合が動かなかったのは、アマハラのせいだったんだよ」「そうか……」 エルスが書庫から晴奈の部屋に戻ってきたところで、丁度晴奈も戻ってきた。そこでエルスは書庫で調べた内容といくつかの考察を、晴奈に伝えた。「連合の議事録を調べてみたら、どうも裏で手を回して代表になったっぽいんだよね。...

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    晴奈の話、第100話。
    ほのぼの。

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    3.
     晴奈たちが紅蓮塞で夕食をとっていた、丁度その頃。
    「すまんな、チェスター君」
    「いいわよ、これも仕事だしー。……はーぁ」
     黄海の黄屋敷にて、紫明とリストがどっさりと積まれた書類に判子を押していた。
     元よりそうした書類仕事は少なくなかったのだが、紫明が主席になって以降はさらにその量が増え、紫明は前にもまして多忙の日々を送っていた。
     とは言え、普段はエルスとリストが補佐に回ってくれるため、紫明の負担もいくらか減るのだが、この時はエルスが紅蓮塞に行ってしまっており、二人はいつもより長めに、机に張り付いたままになっていた。
    「この調子だと、今日もまた泊まってもらうかも……」
    「えぇ?」
     申し訳無さそうにつぶやいた紫明に、リストは気だるい声を上げる。
    「勘弁してよぉ……」
    「まあ、夕食はご馳走するから」
    「そりゃ、コウさん家のご飯はすっごく美味しいけど。でもさー、ハッキリ言って」
    「うん?」
     リストは書類の山から顔を上げ、吠える。
    「あののんきバカがセイナと一緒に紅蓮塞まで行っちゃうから、そのしわ寄せがこっちに来てんのよ! しかも、『ちょっとした旅行って感じかなー』とか言い捨てくし!
     アンタのせいでこっちは死にそうになってるってのに、アイツ今頃『いやー、温泉って本当にいいもんだねー』とか言ってんのよ、絶対!」
    「ま、ま、チェスター君、落ち着いて。……お返しに、グラッド君だけ残して、晴奈と明奈とで、旅行にでも行ってしまえばいい」
    「……それもいいわね。でもさ、コウさん」
     リストは書類に視線を戻しつつ、紫明に尋ねる。
    「今回、セイナたちとエルスを行かせたけど、不安じゃないの?」
    「うん?」
    「だって、スケベと美人姉妹よ」
    「……ああ、問題は無いだろう、きっと。
     グラッド君は好色とは聞いているが、晴奈はまずなびかん。明奈に言い寄るにしても、晴奈がまず許さんだろう」
     そううそぶいた紫明に、リストはけらけらと笑った。
    「あはは、なるほどねー」



     夕食が終わり、晴奈たちは風呂に入っていた。
    「師匠……、その、何と言いますか、その」
    「ん?」
    「変わられましたね、大分」
     雪乃は汗を拭きながら、「そうかしら?」と聞き返す。
    「ええ。特に、その……、一部、大きく」
    「ああ、そうね。ちょっとね、うん」
     晴奈の言葉の裏に気付き、師弟揃って顔を赤くする。
    「やっぱり、小雪が生まれたからね。あと、まだちょっと腰周りが太いのよねぇ」
    「そうですか? ぱっと見た感じでは、その辺りはそれほど変わってはいないように思えますが」
    「あら、そう? それなら、いいかな」
     嬉しそうな顔をしつつ、雪乃は明奈の方に目をやる。
    「明奈さんと晴奈、似てるなーって思ってたけど、……やっぱり違うところ、あるのね」
    「むう」
     晴奈もチラ、と明奈を見て、うなだれながら湯船に頭を沈めた。
    「でもお姉さまの方が、背は高いんですよ。すらっとしてて、綺麗ですし」
    「……そうかな」
     猫耳の辺りまで沈んでいた晴奈の頭が、ぷかっと浮き上がる。
    「わたしなんて、運動不足で太っているだけですよ」
     それを聞いて、また晴奈が沈んでいく。
    「……都合のいい肥満だな、それは。胸と尻だけ太るのか」
     明奈は慌てた顔をして、話題を変えた。
    「あ、あの、えっと。家元様、お体の方は大丈夫なのでしょうか? ご夕食の時、お姿を見かけませんでしたが」
    「ええ、さっき様子を見に行ったら、『寝たら回復した』って言ってたわ。今は男湯の方で、良太たちと一緒に入ってるはずよ」
    「そうですか……。少し、心配でしたので」
    「大丈夫よ、おじい様は。根が頑丈な方ですもの」
     晴奈がまた顔を挙げ、話に加わる。
    「良太も、同じことを言っていましたね。『根が頑丈だから、長生きするに決まっている』と笑い飛ばしていました」
    「あら、そうなの。……うふふ」

    「ほーれ、綺麗にしてやるぞー」
     男湯の方では、重蔵が小雪を洗っていた。後ろで見ている良太が、心配そうな顔をしている。
    「あの、優しくお願いしますね」
    「分かっとるわい、ふんっ」
     重蔵は後ろを振り返り、舌を出して良太を黙らせる。
    「それなら、えっと、はい……」
     湯船につかりながら様子を見ていたエルスは、クスクスと笑っている。
    「押しが弱いよー、リョータ君。父親ならもっと頑張らないとー」
    「は、はい……。あの、おじい様。僕が……」「黙っとれ」「……はい」
     気の弱い良太はしゅんとした様子で、湯船に入ってきた。
    「……僕、へたれです」
    「まあまあ……。まあ、孫もひ孫も可愛いんだろうね、本当に」
    「でしょうねぇ」
     エルスはニヤニヤしながら、博士の思い出を語り出した。
    「僕の師匠にナイジェル博士って言う人がいたんだけどね、この人も子沢山、孫沢山の人なんだ。で、央南に引っ越して来た時もお孫さんを一人連れてきてたんだけど、やっぱり可愛かったんだろうね、良くお小遣いあげたり物をあげたりしてたよ」
    「へぇ……」
    「……そのお孫さんに不条理に殴られた時も、僕が悪者にされたしね」
    「あ、あら……、そうですか」
     と、小雪を洗い終わった重蔵が湯船に入ってきた。
    「ナイジェル……、と言うのは、エドムント・ナイジェルか? 長耳の」
    「ほえ? 家元さん、博士をご存知なんですか?」
     思いもよらない反応に、エルスは目を丸くした。
    「昔の囲碁友達じゃった。負けん気の強い奴で、よく夜明けまで打っておった」
    「博士は央南に何年か滞在していたと聞いています。その口ぶりだと昔から、性格は変わってないみたいですね」
    「今はどうしておるんじゃ?」
     重蔵の質問に、エルスは一瞬言葉を詰まらせる。
    「……亡くなりました。今年の初めに」
    「そうか……。因業で偏狭で不躾で嫌味で頑固な奴じゃったし、もう少し長生きするものと思うておったがのう」
     場が湿っぽくなってしまったので、エルスは慌てて湯船からあがる。
    「そろそろあがりますねー。あ、良かったら小雪ちゃん、連れて行きますよ」
    「おう、すまんなエルスさん」
     くるりと振り返ったエルスを見て、良太は一瞬目を見開き、うなだれながら湯船へと沈んだ。重蔵は笑ってエルスの後ろ姿を見送る。
    「ははぁ……、やはり外人は違うのう、ははは」
    「うぐ……、自信、失くしそうです……」

    蒼天剣・術数録 3

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第100話。ほのぼの。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 晴奈たちが紅蓮塞で夕食をとっていた、丁度その頃。「すまんな、チェスター君」「いいわよ、これも仕事だしー。……はーぁ」 黄海の黄屋敷にて、紫明とリストがどっさりと積まれた書類に判子を押していた。 元よりそうした書類仕事は少なくなかったのだが、紫明が主席になって以降はさらにその量が増え、紫明は前にもまして多忙の日々を送っていた。 ...

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    晴奈の話、第101話。
    人が堕ちていく様子。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     次の日もエルスは良太を伴い、書庫に篭っていた。
    「今度はシノハラの情報集めだ。どんな人だったのか、それから目的は何か、今はどこにいるのか。その辺りを調べていこう」
    「お会いした時、おじい様から伺いませんでしたっけ?」
     きょとんとする良太に、エルスは「んー……」と低くうなり、ゆっくりと説明した。
    「まあ、もう少し前後関係なり、周辺なりを洗い出しておこうかなってね。
     普段ならあんまりこんなことしないんだけど、対峙した時、ちょこっと嫌なものを感じたんだ。何て言うか、んー……、異常な『昏さ』を見たんだ」
    「昏(くら)さ?」
    「まともな状況判断ができてないんだ。と言うよりも、自分で判断することを放棄しているって感じかな。
     シノハラと会った時、僕は彼に『アマハラは無事逃げたんだから、戦う意味は無い。だからこのまま帰ってくれないか』って交渉してみた。でも結果は×。命令最優先って態度で攻撃してきた。
     現場判断を優先するなら、この場合はさっさと引いた方が話は早いし、後々もし戦うことになった場合、手の内をさらけ出して不利になることも無いのにね。
     もっとも、僕らにすぐ勝てると考えての行動かもしれないけど」
    「そんなものですか」
    「ああ、そんなもんだよ。
     で、この手の人間に一般論は通用しないし、説得はまず無理。かと言って非常に強かったから、真正面から戦うのも骨が折れる。
     だから弱点か、弱点となりそうなものを探そうと思ってね」
    「なるほど……」
     エルスの見解を聞き、良太も彼の考えを理解したらしく、書庫の奥から古びた本を持ってきてくれた。
    「奥に封印してあった、塞に残されていった日記です。人の日記を見せるのは、あまり気が乗りませんが……」
     日記の表紙には、「篠原龍明」と書かれている。エルスは目を丸くし、笑顔を作ってそれを受け取った。
    「これはすごい掘り出し物だ。ありがとう、リョータ君」
    「あ、はい……。あの、あんまり公言は」
    「勿論しないよ。大丈夫、大丈夫」
     エルスは小さく頭を下げながら席に座り、日記を開いた。



    「501年 2月26日
     家元と話す。いつもながら含蓄のあるお言葉に、ただただ感銘するばかりだ。自分もあのような、本物の剣士になりたいものだ。

     501年 3月5日
     楢崎、藤川と稽古をする。藤川は間もなく免許皆伝の試験を受けると言う。内容が内容だけに口を出すことはできないが、せめて無心に打ち込ませることで、焦りを抑えさせてやろう。

     501年 3月7日
     藤川が試験に落第した。ひどく落ち込んでいたが、仕方ない。気を取り直し、もう一度挑んで欲しい」



    「なんか、……普通の日記ですね。エルスさんが言ってたような、昏い感じじゃないです」
     横で見ていた良太が、ぼそっと感想を漏らす。
    「……うーん」
     エルスはそれに答えず、ページをめくった。



    「501年 3月12日
     楢崎も近いうち、試験を受けることになりそうだ。先に免許皆伝を得た身であるし、力量も自分の方が上だから、明日は試験にふさわしいか見てやることにしよう。

     501年 3月15日
     藤川が怒っている。何でも、自分は傲慢だと言うのだ。内省してみたが、自分は傲慢と言われる筋合いが無い。自分の力量は寸分無く把握しているつもりだ。藤川は試験の失敗で少し、疲れているのだろう。年長者の自分に向かってあんな言を吐くとは、前後不覚もはなはだしい。

     501年 3月19日
     家元から訓告を受けた。内容は先日藤川が自分に向けて言い放ったのと同義。愕然とした。家元は自分のことを、寸分も理解してくれていなかったようだ。と言うよりも、家元の頭は藤川と同格だったらしい。なるほど、自分を理解してくれない、いや、できないわけだ。

     501年 3月22日
     家元に対して抱いた感想を風呂の折、楢崎に伝えた。楢崎は困った顔でそのような考えは不遜では無いだろうか、もう少し落ち着いた方がいいと答えてきた。彼も藤川並みだったようだ。

     501年 3月27日
     若い門下生の稽古に付き合った。女ながら筋が良い。休憩中に細々とした話をする。自分を慕ってくれているらしく、久々に心が澄んだ。

     501年 4月2日
     またあの門下生に出会い、稽古をつけた。「猫」だからだろうか、恐ろしく俊敏で鋭い太刀捌きを見せる。名前を聞いてみたところ、竹田朔美と名乗った。さくみ……、珍しい名前だ。また休憩中に話をする。つい、休憩時間を大幅に超えてしまった。なかなか面白い考えをする娘だった」



    「これは恋の話、ですかねぇ? ……なんちゃって」
     横でまた、良太が口を挟む。
    「はは、面白いね。でももっと面白いことがずっと書かれていたこと、気付いてるかな?」
    「え? と言うと、……何でしょうか?」
    「偉そうだと思わなかった?」
    「ああ、まあ、それは少し」
    「だろう? 僕には、彼の人物像がありありと浮かんできた。
     自分では真面目で厳格な、みんなから目標とされる人物だ、……と思っているようだけど、実際はひどく頑固で、他人を常に自分より下に見ている。
     さらに幻想を抱きやすく、思い込みが多い。そしてその幻想が現実と食い違う場合、ひどい拒否反応、否定的感情を抱く。
     他人の意見を受け入れず、自分の思い込みで行動する。そして他人に否定されると、例え相手がつい先ほどまで尊敬していた人物であろうと、強い拒絶感を抱く」
    「はあ……」
     エルスは首をコキコキと鳴らしつつ、話を続ける。
    「でもね、こう言う人も心のどこかでやっぱり、『人に良く見られたい』と感じている。自分が正しいのは疑わないけれど、それが人に受け入れられないと、ひどく不安になる」
    「ああ、それは感じました。3月下旬の日記は少し、情緒不安定って感じでしたよね」
    「うん。で、ここからが少し、怖いところだ。
     このまま誰からも相手にされず、孤立したらきっと、『自分が悪かったのかも知れない』と寂しがる。そこでようやく、本当に内省しただろう。結局のところ、人間は他人がいないと安心できない生き物だから、他人とある程度はすり合わせないと生きていけない。
     でも彼は、その傲慢な考えを理解し、応援してくれる人に出会ってしまった……、と言うわけだねぇ」
     そう言ってページをめくったところで、エルスは苦笑した。
    「……ああ、ダメなパターンに入っちゃったよ。
     もしもこのサクミさんと言う女性が、頭が良く、洞察力に長け、さらに野心を持っていたとしたら、シノハラは陥落させられ、彼女の手先になっちゃうだろうね。
     会って話し込まれでもしたら、一発で堕ちる」



    「501年 4月7日
     朔美は本当に自分を分かってくれている。出会ってまだ一月も経っていないと言うのに、自分は彼女に心酔してしまっている。これではいけない。剣の腕が鈍ってしまう。気を引き締めなければ。朔美とは会わない方がいいだろう。

     501年 4月8日
     嗚呼! この馬鹿めが! 朔美と、会って、……嗚呼!

    (501年 4月9~12日まで、何も書かれていない)

     501年 4月13日
     自分は何とくだらぬことで惑うていたものか。朔美がいてくれるのだ。彼女が付いていてくれるならば、自分にできぬことなど何も無い。

     501年 4月15日
     朔美と計画を練った。やはり、あのじじいを消さねばならぬだろう。

     501年 4月17日
     朔美があの計画に賛同する門下生たちを集めてきてくれた。何と頼もしいことか。是が非でもあのじじいを殺し、この紅蓮塞を乗っ取らねば」



    「……この1ヵ月後に、シノハラの謀反か。
     ワルラス卿とアマハラの野心、そしてシノハラとサクミさんの邂逅、焔流の内紛――これは、ひどく複雑な話だったんだねぇ」
     日記を閉じ、エルスはしばらく天井を見上げ、考え込む。
    (しかしあと一つ、いや二つか、謎が残る。アマハラとシノハラが出会った理由ときっかけ、それから現在に至っても、シノハラがアマハラのところに身を置いている、その理由。
     ああ、もう一つあった。彼の弱点……。まあ、これについては、ヒントくらいは得たかな)

    蒼天剣・術数録 4

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第101話。人が堕ちていく様子。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. 次の日もエルスは良太を伴い、書庫に篭っていた。「今度はシノハラの情報集めだ。どんな人だったのか、それから目的は何か、今はどこにいるのか。その辺りを調べていこう」「お会いした時、おじい様から伺いませんでしたっけ?」 きょとんとする良太に、エルスは「んー……」と低くうなり、ゆっくりと説明した。「まあ、もう少し前後関係なり...

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    晴奈の話、第102話。
    新たな戦いの始まり。

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    5.
     晴奈たちのところに戻ろうと、エルスたちが腰を上げたその時だった。
    「エルス! 大変だ!」
     書庫の扉を開け、晴奈がバタバタとエルスたちに近寄ってきた。
    「どうしたんですか、姉さん?」
     面食らった様子で声をかける良太に、晴奈はコホンと咳払いして説明する。
    「先程、黄海から速達で文が届いた。天玄に、天原の手勢が攻め込んだらしい。現在応戦中とのことだ」
    「いつの手紙?」
    「3日前の日付だ。ここから天玄まで、早足で行っても10日はかかる。急がねば、エルス!」
    「ああ、すぐ向かおう」
     急かす晴奈にうなずきつつ、エルスは良太に頭を下げた。
    「ありがとう、リョータ君。助かったよ。奥さんとおじいさんに、よろしく言っておいてね」
    「え、ええ」
     まだ目を丸くしたままの良太を残し、晴奈とエルスは書庫を飛び出す。
    「お姉さま!」
     と、書庫を出たところで、明奈も合流する。
    「明奈、出立の準備はできたか?」
    「ええ。あの、お姉さま。このまま徒歩で行くと、大分かかってしまいます」
    「ああ、急がねば」
     が、踵を返しかける晴奈の手を、明奈が握って引き止める。
    「ですので、わたしに考えが」
    「うん?」
     そのまま明奈に案内され、晴奈とエルスは彼女に付いて行く。
     広間に着いたところで、明奈は大きめの巾着袋から、6畳ほどの大きさの布を引っ張り出した。
    「こんなこともあろうかと、用意しておいたんです」
    「何だ、これは?」
    「黒炎教団に伝わる秘伝、『移動法陣』です」
     明奈は布を広げ、呪文が書かれた紙を手に取る。それを見ていたエルスが、半ば驚いた様子で微笑む。
    「もしかして『テレポート』? すごいねメイナ、そんな術も使えるんだ。僕が聞いた話じゃ、かなり大掛かりな装置がいるって聞いたけど」
     そう尋ねたエルスに、明奈は表情を曇らせた。
    「ええ、教団にいた時にこっそり写しを取っていたんです。脱走目的で。
     でもエルスさんの言う通り、本来ならもっと安定性を高めるために、より大きい魔法陣と人員を必要とするんです。
     恐らくこの状況で運用すると、2人を送るのが精一杯ですし、入口、出口とも、一回で焼き切れてしまうでしょうね」
     これを聞いて、エルスは肩をすくめた。
    「ありゃ、そうか。便利になるかと思ったけど」
    「そもそも、あの……、わたし、未熟なので成功するか、保障が無いんです」
    「……構わないさ。一か八かだとしても、早く行ける手段が使えそうなら、迷わず使う」
     エルスに続き、晴奈も明奈の肩に手を置き、優しく声をかけた。
    「ありがとう、明奈。お前がいてくれて、本当によかった」
    「こちらこそ頼りにしていただけて嬉しいです、お姉さま」
     話している間に明奈の準備が整い、布に描かれた魔法陣が紫色に輝き始める。
    「うまく行きそうです! 1、2の3、で天玄に飛ばします! 二人とも、乗って!」
    「分かった。それじゃ行ってくるね、メイナ」
     エルスは迷い無く、ポンと布の上に乗る。晴奈も明奈から手を離し、エルスに続く。
    「それじゃ……、行きます! 1、2の、……」
     明奈は組んでいた手を解き、布をつかむ。
    「3!」
     次の瞬間、空気が歪んだ。

    「……お、っとっと」
     世界が一瞬で切り替わり、晴奈とエルスは同時によろける。
    「ここは……」
    「天玄館の、客間だ。……へぇ」
     エルスはきょろきょろと部屋を見回し、焦げた床を見て口笛を吹いた。
    「メイナ、本当にいい子だね」
    「何?」
    「変な意味じゃないよ。こうやって無事、成功させてくれたってことだよ。きっと彼女、ものすごく熱心に研究したんだろうね」
    「そうだな。……明奈」
     晴奈は床を撫でながら、妹の名前をつぶやく。
     そしてすぐに立ち上がり、エルスの目を見据えた。
    「さあ、また戦いが始まる。存分に戦い抜こうぞ!」
    「勿論さ。気合入れていこう、セイナ!」
     晴奈とエルスは手をがっしりと組み、互いの闘志に火を入れた。



    《皆さん、今が絶好の機会です!》
     黒装束に身を包んだ者たちの頭に、天原のキンキンとした声が響く。
    《陽動作戦の効果は絶大でした! 今、天玄は混乱状態にあります! ここで天玄館を襲い、街を制圧すれば作戦は完了です!
     さあ今一度、僕に天玄を贈りなさい! 何の遠慮も、躊躇いもいりません! 街を燃やしても気にしません! 家中から盗んじゃってもいいです! 何なら50人や100人くらい殺しちゃっても、一向に構いません!
     何が何でも、作戦を成功させるのですよっ!》
     天原の偏執的な叫びを聞き、先頭に立っていた篠原はため息をつく。
    「皆の者。殿はああ言っているが、剣士の誇りを忘れるな。誇り高く、任務を全うしろ。それが真の忠義と言うものだ。
     では、作戦を開始する」
     篠原の抑揚の無い号令に、黒装束たちは深々とうなずき、四方に散っていった。残った篠原は、すぐ背後にいた二名の黒装束に声をかける。
    「……朔美、霙子。俺を、どう思う」
    「どう、とは?」
     霙子と呼ばれた少女が尋ねると、篠原は低い声をさらに重たく落して答える。
    「バカ殿にこびへつらい、録を食む毎日。隠密行動で、見たくも無い人の粗を探す毎日。あれほど憎んでいた黒炎教団に与し、あの黒狼の欲求を満たす毎日――俺は今、己を恐ろしく恥じている」
     肩を落とす篠原に、竹田が手を添える。
    「あなた、疲れてらっしゃるのよ。大丈夫、目的はもうすぐ叶うわ」
    「そう、かな」
    「そうよ。わたしたちの力があればいずれ、あのバカ殿の裏をかける。
     ワルラス卿だって、いつも央南にいるならまだしも、普段はあの『屏風裏』に隠れているのだから、きっとやり込めることができるわ。
     もう少しで悲願が叶うのよ、あなた」
     竹田の声援に、うなだれていた篠原は胸を張って応える。
    「……そうだな。この恥辱も、いずれは報われる。そのはずだ。
     さあ、今は道化でいるとしよう。あの館を落とし、殿のご機嫌取りをせねばな」
    「その調子よ、あなた。さ、霙子ちゃんも行きましょう」
    「はい、義母様」
     篠原たち三名も、天玄へと足を進め始めた。

    蒼天剣・術数録 終

    蒼天剣・術数録 5

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第102話。新たな戦いの始まり。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 晴奈たちのところに戻ろうと、エルスたちが腰を上げたその時だった。「エルス! 大変だ!」 書庫の扉を開け、晴奈がバタバタとエルスたちに近寄ってきた。「どうしたんですか、姉さん?」 面食らった様子で声をかける良太に、晴奈はコホンと咳払いして説明する。「先程、黄海から速達で文が届いた。天玄に、天原の手勢が攻め込んだらしい...

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    晴奈の話、第103話。
    一抹の不安。

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    1.
     晴奈とエルスが天玄館の執務室に向かうと、そこには既に紫明と、対黒炎隊の幹部たちが集まっていた。
    「……!? は、早いな、晴奈?」
     主席の椅子に座っていた紫明が、まるで幽霊を見たかのような顔で出迎える。
    「ええ、明奈が魔術でここまで送ってくれました」
     晴奈の説明で、紫明はようやく表情を崩した。
    「ふ、ふむ、そうか、道理で」
    「それよりも父上、状況は如何に?」
    「ああ、現在は落ち着いている。
     つい数日前まで、天玄の東及び北東から多数の軍勢――姿を見た者によれば、黒炎教団らしき者だったそうだ――が攻め込み、我々はその防衛にかかりっきりだった。連合軍だけでは心もとなくなり、黄海にいた対黒炎隊まで、大半を動員するほどにな」
    「教団が? それは変でしょう」
     エルスが手を挙げ、質問する。
    「教団の本拠地はご存知の通り、央南の最西部、屏風山脈にあります。攻め込むとすれば、西側からのはずです。
     西側から東へ回り込んだにしても、北には天神湖が、南には天神川が伸びていますし、かなりの手間を負います。教団が来たとするなら、つじつまが合わない気がしますね」
    「うむ、私も同意見だ。しかし、前線にいた将たちからも、確かに黒炎の者らしいと言う報告が上がっている。これまで何度も戦ったのだから、見間違いと言うこともあるまい」
    「ふむ……」
     エルスは腕を組み、そのまま考え込む。紫明は晴奈に顔を向け、話を続ける。
    「特にここ3日ほどは攻勢が激しく、後一息で前線が押し破られるかと言うところだったが、昨日になって……」「アタシが計画してたアレが、やっと揃ったのよ。それで一斉攻撃して、撃退したの」
     紫明の横にいたリストが自慢げな様子で、話に入ってくる。
    「アレ、とは?」
    「コレよ、コレ」
     リストは腰に提げていた銃を机の上に置いて、紫明の説明を継ぐ。
    「黄商会に頼んで、銃の量産をしてもらってたのよ。教団にはまだ、銃に対する戦法が確立されてないからきっと有効だろうって、アンタ言ってたし」
     考え込んでいたエルスが顔を上げ、リストに尋ねる。
    「成果はどうだったの?」
    「アンタの言う通りだったわ。アイツら、すっごくビビッてた。あっと言う間に逃げて行ったわよ」
     自慢気に語るリストに、エルスはけげんな顔を返しつつ、もう一度尋ねる。
    「全員?」
    「ええ、みーんな。よっぽど怖かったのね、ホント田舎者だわ」
    「うーん……? 全員、かぁ」
     エルスは手の関節を鳴らしながら考え込む。
    「それだとかなりマヌケな一団になっちゃうなぁ。変だよ」
    「は? ドコが変なのよ」
    「戦略的に不利な東側から攻め込んだ上に、新兵器に驚いて全軍撤退なんて、これじゃ何のために来たのか分からない。わざわざ大軍を率いてやって来る意味が無い。
     結果から考えれば、もっと小規模な戦力を投入するべきだ。これじゃまるで、僕たちの眼前で騒ぐために出てきたとしか思えない」
    「何が言いたい、エルス?」
     晴奈が尋ねてみたが、エルスは答えない。
    「……うーん」

     ともかくリストが銃士隊を結成し迎撃したところ、敵はすべて撤退。一日経った現在は敵の姿も見えず、依然緊張状態が続いていると言う。
    「また黒炎がやって来次第、銃士隊によって迎撃、撃退しようと考えているのだが、どうだろうか?」
    「うーん」
     紫明が尋ねるが、エルスはまだ腕を組んだまま、動かないでいる。
    「うーん、以外に言うことは無いのか」
    「うーん」
     晴奈が声をかけても、一向に返事を返さない。
    「いい加減にしなさいよ、アンタ呪いの置物かなんかなの?」
     リストが後ろから殴る。
    「いたっ」
    「いいの? 悪いの? どっちかさっさと言いなさいよ」
    「……うーん」
    「うーんて言わないっ」
    「あ、ゴメンゴメン。そうだな、何もしないよりはいいかな。何人いるの?」
    「アタシを抜いて36人。4分隊ね」
    「そっか。じゃあ、街の四方に配備して巡回してもらおう。っと、狙撃班はいる?」
    「無いわ。製造のモデルにした銃が近接戦闘向けだったし。今造ってみてもらってるけど、実用化はまだ無理ね」
    「じゃあ、巡回だけかな、今できるのは。あと、既存の軍にも厳戒態勢を執るよう伝えておいて。それじゃお願いするよ、リスト」
    「りょーかいっ」
     リストは軽く敬礼して、執務室を後にした。
    「妙に嬉しそうだったな、リスト」
    「ああ、彼女は銃が大好きだから。半分趣味も入ってる」
    「ふむ……。そうだ、エルス」
     晴奈は会って以来抱えていた疑問をぶつけてみた。
    「今さらで少々恐縮なのだが、『じゅう』とは一体、何だ? リストが使っていたのを何度か見たが、何がどうなっているのか、さっぱり分からぬ」
    「んー、まあ簡単に言うと、火薬で弾を発射して、敵にぶつける器械だね。
     元々火薬自体、央中の金火狐一族が起源らしいんだけどね、その金火狐一族の中核、金火狐商会ってところが銃を開発したらしいんだ。
     でも魔術に比べたら射程が短いし、一撃あたりのダメージは刀剣類に劣る。だもんで、金火狐商会はすぐ見切りを付けちゃって、製造から1~2年くらいで、早々に開発を放棄したんだ。それが20年くらい前の話」
    「うん? リストは今年で19歳と聞いていた覚えがあるが……、20年前に放棄されたと言うなら、何故リストが銃を扱っているのだ? そもそもリストは北方人だろう?」
    「うん、央中では20年前に放棄したんだけど、その開発者が北方に渡ったんだよ。『銃器の可能性を諦めきれない』って言ってね。
     で、その開発者が北方の軍事顧問だったナイジェル博士に会って熱心に推して、博士も『携行性の高さと熟練するまでに要する訓練期間が刀剣類や魔術に比べて圧倒的に短い。安定して質の高い戦力を確保・維持するには持って来いだ』って結論付けて、北方での銃器開発を後押ししたのさ。
     その関係で、ナイジェル博士の孫であるリストもガンマニアになっちゃったってわけ」
    「なるほど」
    「……ふーん」
     と、エルスは机に置かれたままの銃を手に取り、掌でくるくると向きを変えつつ、しげしげと眺める。
    「『黄光一〇三号』、か。黄商会ブランドの銃、第一号になりそうですね。……あれ」
    「どうした?」
     紫明が尋ねたが、エルスはすぐには答えず、銃を分解し始めた。
    「な、何を?」
     紫明がぎょっとしている間に銃は全パーツが完全に分解され、机に並べられた。
    「なかなか苦心されてるようですね」
    「う、うむ。銃と言うのはうわさには聞けど、実物を見たのはチェスター君のものだけだったからな。銃弾からして、製造が困難だったよ」
    「でしょうねー……。まだ、大分粗い」
     銃を組み立て直しながら、エルスは不安そうにつぶやいた。
    「薬莢の出来が粗くて、隙間があります。このままだと発射時、弾速が大きく落ちる可能性がありますね。それに各可動部の噛み合わせにも難がある。
     汚れや湿気があると、作動しないかも知れませんね。最悪、腔発の恐れもある」
    「え……!?」
     紫明の顔が、ひどく不安そうに歪む。それを見ていた晴奈が思わず吹き出した。
    「父上、心配性もほどほどになさらねば。
     ここ数日は気温が下がり、空気も大分乾いております。気候も安定しておりますし、エルスの言うような問題は起こらないでしょう」
    「まあ、そうか……」
    「それに私とエルスもおりますし、十分防ぎ切れるはずです。ご安心を、父上」
     晴奈の言葉に、紫明はようやく表情を緩めた。
     対照的に、エルスは珍しく眉をひそめている。
    (敵のちぐはぐな侵攻と不自然な撤退。対するのは、精度の低い銃をたのみにする銃士隊。
     ……何だか不安だなぁ)
     エルスは何も言わず、執務室を出て行った。

    蒼天剣・神算録 1

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第103話。一抹の不安。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. 晴奈とエルスが天玄館の執務室に向かうと、そこには既に紫明と、対黒炎隊の幹部たちが集まっていた。「……!? は、早いな、晴奈?」 主席の椅子に座っていた紫明が、まるで幽霊を見たかのような顔で出迎える。「ええ、明奈が魔術でここまで送ってくれました」 晴奈の説明で、紫明はようやく表情を崩した。「ふ、ふむ、そうか、道理で」「それより...

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    晴奈の話、第104話。
    渦巻く風。

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    2.
     天玄館の屋上に上がったエルスは、空を見上げる。
    (空気は確かに乾いているけれど、この風は……)
     風は強く、一方向に流れていかない。北風かと思えば、突然南からの突風が来る。
    (博士が昔、言ってたっけ――央南の秋が終わる頃に、ある季節風が吹く。その際、その鍵状の地形が関係して、空気が巨大な渦を巻く。結果、央南の中心部に突然、低気圧が発生し、天候が急変する、と。そして、このテンゲンは央南のまさにど真ん中。
     そんな不安定な天候なら、いきなり雨が降ってきてもおかしくない。もし野外戦の最中に降ってきたら、あの銃はまず、使えなくなるだろうな。
     それに焔流の人たちも、雨天での戦闘は苦手だと言っていた。焔流と雨は相性が悪いらしいし、敵はそこを狙って来るかも知れない)
     遠くに見える街の壁を一通り見渡し、考察を続ける。
    (東及び、北東からの侵攻。何故、本拠地に近い西から来なかったのだろうか? 壁がもろかったとか? でもここから見る限りでは、もろそうには見えない。一応、後で確認しておこう。
     他に考えられるのは、コウカイからの援軍を恐れての迂回かな? でも、元々はコウカイ侵攻を主目的としていたんだし、それならコウカイを攻めた方が、話は早い。
     アマハラ氏の要請でテンゲンに攻め入ったとしても、こちら側の主力がテンゲンに集結しているこの局面でわざわざこちらに来るよりも、近くて防衛力が低下したコウカイを先に攻め落とし、それからテンゲン周辺を囲んだ方が楽で簡単なのは明らかだ。教団にしても、標的であるこちらの動向を丸っきりつかんでないわけが無いだろうし、対黒炎隊がこっちに来てることは知ってるはずだ。
     じゃあ何故、東から来たんだろう? どうしても東から来なければならない、そんな理由が見当たらない。……あるいは、東から来た方が楽だったのかな? 例えば陽動作戦を狙って、東側に兵力を蓄えていた、とか。
     まあ、これは考えられなくは無い。西側から本隊、東側から別働隊と言う挟撃作戦はなかなか悪くない。東側から攻めている間に西側からも大量に兵を寄せれば、かなり効果的だ。
     もしこれが正解なら、東側の兵力は大分少ないはず。いつものような人海戦術は使えなくなるだろうな。となれば東側を強襲し、それから西側の警戒を厳重にしておけばいいか。うん、こちらに十分な勝機はある)
     エルスの読みはある程度当たっていたが――彼はこの時既に、自分が「どうやって今、ここに来たのか」を忘れていた。



    「どうもどうも皆さん」
     集まった教団員たちに、壇上にいる天原が会釈をする。
    「この度は天玄教化計画への参加、ご苦労様です。
     えー、黒鳥宮からの天候予測を先程、ワルラス台下から直々に賜りました。これによれば一両日中に天候は急変し、半日以上は土砂降りが続くとのことです。
     先日のあなた方による陽動により、彼らは銃だか九だかと言う色モノの武器に意味無く自信を持っているでしょう。
     ところがですよ! 我々の調べにより、あの武器は湿気に弱いことが判明しています! そしてあの焔流も、雨の中では火が出せず、威力が大幅に落ちることが分かっています!
     つ・ま・り、土砂降りの中ふたたび攻め込めば、奴らは自分たちの得意とする武器、剣技、戦術がまったく使えなくなるのです!
     もうこんなのは、道端の石を拾いに行くより簡単な作業ですよ! 雨が降り次第、攻め込んじゃってください! ここで勝てば間違いなく、台下より恩賞が賜られるでしょう!
     いや、それよりも! この私から直々に、報奨金を振舞ってあげます!」
     天原は次第に弁舌の熱気を上げ、あれこれと語り始めた。内容は教団員に対する扇動から、やがて焔流に対する侮辱や黄家への誹謗中傷に変わり、そこから央南の歴史に言及し、さらに天原家の伝統へと脈絡無く話を続け、最後には自分の魔術理論と、それが教団にどれだけ寄与できるかを一通り話し終えたところで――。
    「あー、ちょっと話し込んでしまいましたね。疲れました。
     じゃ、そう言うことであとよろしく」
     どうやら言いたいことを言い切ったらしく、天原は滅茶苦茶な「壮行演説」を締めくくり、壇上を後にした。
    「……何だ、あのアホは? グダグダグダグダ、勝手に熱吹きやがって。
     何を言ってたのか、さっぱり分かんねえ」
     最前列でこの演説を聞いていた僧兵長、ウィルバーは天原がいなくなった途端、天原に劣らぬ悪口雑言を漏らし始めた。
    「あのバカさ加減で、オレより位の高い大司祭とは恐れ入るぜ、まったく。ワルラス叔父貴、頭に穴でも空いてるんじゃないのか?
     あんなアホを大司祭にするくらいなら、オレがなった方が教団のためになるっての。なあ、みんな」
     ウィルバーの問いかけに、周りの教団員たちはぎこちなくながらも、首を縦に振る。
    「だよなぁ。あんなヤツが指揮を執るとか、ありえねー。あんなのに従ってたら、絶対全滅しちまうよ。
     なあ、お前ら。アイツの言うことなんか無視しようぜ。オレたちはオレたちで、現場判断で進もう」
     本来ならばウィルバーの言うことは重大な規律、戒律の違反なのだが――確かにウィルバーの言う通り、この作戦において天原は当てになりそうも無いため、ウィルバーの提案に皆は素直にうなずいた。

    「ヒヒヒ、ウフフフフ……」
     一方、さっさと自分の部屋に戻った天原は一人、ほくそ笑んでいた。
    「いやぁ、楽しみだなぁ。一時はどうなるかと思ったけど、これでようやく天玄に帰れる。もうこんな隠れ家でコソコソしなくて済むと思うと、フ、フヒヒ……、思わずにやけてしまう」
     天原は辺りを見回し、ぱた、と手を叩く。
    「お茶をお願いします」
     だが、いつまで経っても返事が返ってこない。
    「お茶」
     もう一度手を叩くが、反応が無い。
    「……おっと、そうだ。皆さん出払っていました、そう言えば」
     狐耳を撫でつけながら、天原はまた辺りを見回す。
    「面倒臭いなぁ。お茶飲みたいのに」
     しばらく椅子にもたれ、もう一度辺りを見回す。
    「……仕方無い。自分で淹れるか」
     のろのろと立ち上がり、給湯室へと足を進める。
    「あー、教団の人にやってもらってもいいかなぁ? せっかく500人も回してもらったんだし。一人くらい手伝いに来てもらってもいい気がするんだけどなぁ」
     給湯室に続く廊下を進む途中で、天原は地下倉庫と地上とを結ぶ窓に差しかかる。
    「そもそも500人で足りるのかなぁ。もうちょっと、呼んだ方がいいかなぁ」
     倉庫の窓を開け、中を覗きこむ。
    「これがあれば、いくらでも呼べるんだし。もっと増やしてもらっても、いいよねぇ」
     倉庫の床には巨大な魔法陣――黒鳥宮へと連結された「移動法陣」が描かれていた。



    「ねえ、セイナ」
     天玄を囲む壁を一通り確認し終えた後、エルスは晴奈に相談していた。
    「どうした、エルス?」
    「ずっと教団が東側から攻めてきた理由を考えていたんだ。
     で、真っ先に考えたのは壁。もしかしたら東側がもろくなってて、そこから攻め込もうとしてたのかなって」
    「なるほど、出かけたのはそのためか。どうだった?」
    「壁はかなり頑丈にできてた。どこにもひび割れや、もろくなっていたところは無かった」
    「その点は問題無しか。他に理由として考えられるのは?」
     晴奈に尋ねられ、エルスは考察を伝える。
    「恐らく、東側の兵は陽動部隊だ。本命は恐らく、西から来る」
    「根拠は?」
    「それを説明する前に、言っておくことがある。多分、明日か明後日には大雨が降る。リストの持ってる銃士隊は使えなくなる。それから焔の技も」
    「何だと?」
     晴奈は窓の外に目をやり、けげんな顔をする。
    「晴れているではないか」
    「今日はね。でも、風がかなり強い。天候が不安定になる前触れだよ」
    「むう……。お主の言うことが確かであれば、確かに我々には不利に働く」
    「そこに付け入る策を図っていると、僕は読んでいるんだ。で、東側から来たと言う事実と照らし合わせて、一番可能性があるのはそれかな、と」
     エルスの話を聞き、晴奈は首をかしげる。
    「『可能性』、か」
    「うん、まだ確実じゃない。もう少し調べてから結論を出す。とりあえず、現時点での予想は挟み撃ちだ」
     ニコニコと笑うエルスに対し、晴奈は納得できない様子を見せる。
    「……エルス、以前に」
    「うん?」
    「お主は『現状把握よりも行動を優先した方が、物事はうまく運ぶ』と言ったな?」
    「うん、そうだけど?」
    「……あ、いや。何でもない」
    「そっか」
     晴奈はもう一度窓の外を見て、部屋を後にした。

    蒼天剣・神算録 2

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第104話。渦巻く風。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 天玄館の屋上に上がったエルスは、空を見上げる。(空気は確かに乾いているけれど、この風は……) 風は強く、一方向に流れていかない。北風かと思えば、突然南からの突風が来る。(博士が昔、言ってたっけ――央南の秋が終わる頃に、ある季節風が吹く。その際、その鍵状の地形が関係して、空気が巨大な渦を巻く。結果、央南の中心部に突然、低気圧が発生...

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    晴奈の話、第105話。
    割と仲良し?

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    3.
     翌日、正午過ぎ。
    「なんか今日、肌寒いわね」
     リストが両手を組み、寒そうな様子で晴奈が泊まる部屋にやってきた。
    「コートかなんか無い?」
    「外套か? そこにある、私の羽織で良ければ」
     一人で碁を詰めていた晴奈が壁にかけてある、藍色の羽織を指差す。
    「ちょっと借りるね。……おー、あったかーい」
    「それは良かった。しかし、リストたちは北方の生まれだろう? 寒さには強いと思っていたが」
    「あー、確かに寒いけど、防寒具が充実してるから。今頃だととっくに冬の対策が済んでるくらいだもん。それにアタシ、ちょこっと冷え性だし」
    「ほう」
     晴奈は立ち上がり、リストの手を握ってみる。
    「む……、氷のようだ。そこで座っていてくれ。火をもらってくる」
    「ありがと、セイナ」
     晴奈は給湯室に向かい、火のついた炭を何本か持って戻ってきた。
    「持ってきたぞ。そこの火鉢を部屋の中央に置いてくれ」
    「コレ? よいしょ……、っと」
     火鉢に炭をくべると、間も無く火鉢に置いてあった炭にも火が移り、部屋はじんわりと暖まってきた。
    「はー……、あったかぁい。もーホント、今日寒いのよね」
    「エルスの言では、今日か明日くらいに雨が降ると言っていた」
     晴奈の言葉に、リストは露骨に嫌そうな顔をする。
    「えぇ? この寒いのに雨? 勘弁してよぉ、風邪引いちゃうじゃない」
    「私に言われてもなぁ」
    「それに雨だと、今持ってる銃弾がしけっちゃうかも」
    「エルスもそれは危惧していたな。そこで攻め込まれたら、かなり厳しくなる」
     火鉢にかじりつくように暖を取っていたリストが、晴奈に首を向ける。
    「……エルスエルスって、アンタ気にし過ぎじゃない、エルスのコト?」
    「そうか?」
     きょとんとする晴奈を見て、リストはぷい、と首を戻す。
    「……アタシが気にし過ぎかな。気にしないで、セイナ」
    「ああ、そうする。……リスト、ところで一つ聞くが」
    「何?」
    「エルスのことをどう思っているのだ?」
     聞いた途端、リストの肩と長い耳がビクッと震える。
    「は、はぁ? いきなり何変なコト聞くのよ? あ、あんないっつも笑ってるようなヤツ、気になんかしたコトないわよ、ふんっ」
    「(どう見ても、随分気にかけているようにしか見えないのだが)
     ……そうか。おかしなことを聞いてすまなかった。その、なんだ、……菓子でも持って来ようか?」
    「そ、そうね。もらおっかな、うん」
     二人は一瞬見つめ合い、気まずそうに笑った。



    「ほら、雨が降りそうですよ」
    「そうですね」
     窓の外を嬉々として見つめている天原に対し、ウィルバーはむすっとした顔で茶菓子をむさぼっている。
    (ったく、何でこんな学者崩れの相手なんかしなきゃなんねーんだ)
    「……まずっ」
     と、天原が茶を口に含むなり、大げさな仕草とともに顔をゆがめる。
    「何ですか、この苦さは? 下水じゃないですか、まるで」
    「失礼ですがアマハラ卿、茶はその苦味と言いますか、渋味を楽しむものですよ」
     茶を淹れたウィルバーの従者が、おずおずと返答する。
     すると天原はバン、と茶器を机に叩きつけて反論した。
    「何を馬鹿げたことを! お茶と言うのはもっとこう、甘いものでしょう!?」
    「は……?」
     従者とウィルバーが顔を見合わせ、目配せする。
    (おい、コイツ何言ってるんだ? 茶が甘い? こんなもんだろ、茶の味って)
    (はい、間違いなく。恐らく、いつも飲まれているものは、砂糖を入れておられるのではないかと)
    (……ガキか、コイツは)
     呆れつつも、ウィルバーはこう提案する。
    「じゃあ、砂糖でもお持ちしましょうか」
     しかしこれを聞いて、天原はさらに怒りをあらわにしてきた。
    「砂糖、入ってなかったんですか!? 茶って言うのは普通入ってるもんでしょ、砂糖!
     まったく、こんな一般常識も無いなんて、教主のご子息が聞いて呆れますね!」
     天原の罵倒にウィルバーのこめかみが跳ねるが、拳を堅く握って何とかこらえる。
    (キレんな、俺……。今コイツをボコっても、後で叔父貴に締め上げられるだけだ。こんなくだらねーコトで怒って、何になる)
     ウィルバーは平静を装って、従者に砂糖を持ってくるよう指示した。
    「……すみませんね。配慮が足りませんでした」
    「まあ、いいです。気にしませんよ、僕は心が広いですから」
     天原はふんぞり返り、ウィルバーをあからさまに見下しながら、話題を変えてきた。
    「ところで、ウィルバー僧兵長。一つ、面白い話をしてあげましょうか」
    「……何です?」
     ウィルバーは「面白い話」には思えなかったため、ぶっきらぼうに応じたが、天原は構う様子も無く続ける。
    「1年前、黒鳥宮に北方の諜報員が侵入したことがありましたよね」
    「ええ、そう聞いています」
    「実はですね、現在央南連合軍を直接指揮しているのはなんと、その諜報員らしいのです」
    「へえ?」
     思いもよらない話に、怒り気味だったウィルバーも興味を引かれる。
    「さらにですね、黄海防衛にもその諜報員が絡んでいたとか」
    「何でスパイ風情がそんなコトを……?」
    「何でも、その諜報員の教育に当たったのがあの『知多星』、ナイジェル博士なんだそうで」
     聞きなれない単語に、ウィルバーは首をかしげる。
    「ち、た、……ちた、せい? と言うと?」
    「北方のジーン王国ではですね、武勲を挙げた者には『武星』、優れた研究実績を挙げた者には『知星』の称号が贈られるんですよ。
     で、ナイジェル博士はその『知星』勲章をなんと、8個も持っているんだそうです」
    「『知星』が8個で、『知多星』ですか。アタマ良さそうですね」
    「ええ、彼の半世紀以上に渡る王国軍への参与で、その軍事力は3倍以上になったとも言われています。
     そんな智者が直々に指導した男ですから司令官、戦略家としても、相当な腕前を持っているんでしょう」
    「なるほど。……しかし、そうなると今回の作戦、ちょっともろ過ぎないですか? そんなアタマ良さそうなヤツ相手だと、破られるんじゃないですか?」
     ウィルバーの指摘を受け、天原は「待ってました」と言わんばかりに、ニタニタと笑い出した。
    「そう、そこなんですよ僧兵長! そこが今回の作戦の狙いなんです!」
    「どう言う意味です?」
    「言ったでしょう、今回の指揮官は元諜報員だと! その前歴が、彼の目を狂わせるのです!」
    「諜報員の、前歴が……?」
     天原の言わんとすることがまったく分からず、ウィルバーは詳しく尋ねようとする。
    「それは、どう言う……」「お待たせしました、アマハラ卿。砂糖をお持ちいたしました」
     ところがそこで、従者の邪魔が入ってしまう。
    「ああ、ご苦労様です。
     ……そうですね、詳しい説明はこの、苦々しいお茶を飲んでからにしましょうか」
     天原は砂糖の入った小瓶をつかみ、茶器の中にザラザラと投入していった。

    蒼天剣・神算録 3

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第105話。割と仲良し?- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 翌日、正午過ぎ。「なんか今日、肌寒いわね」 リストが両手を組み、寒そうな様子で晴奈が泊まる部屋にやってきた。「コートかなんか無い?」「外套か? そこにある、私の羽織で良ければ」 一人で碁を詰めていた晴奈が壁にかけてある、藍色の羽織を指差す。「ちょっと借りるね。……おー、あったかーい」「それは良かった。しかし、リストたちは北方...

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    晴奈の話、第106話。
    エルスの急所。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
     さらに時間は経ち、夕闇が迫り始めた頃。
    「うーん」
     また、エルスがうなっていた。見かねた晴奈が、背後から尋ねる。
    「どうした?」
    「腑に落ちないんだよねぇ」
    「挟み撃ち、と言う予想がか?」
    「そうなんだよ。確かに推測の域を出ない、って言うことも不安なんだけど、それよりも距離的に問題のある作戦なんだよね」
     迷いがちに話すエルスに、晴奈も同意する。
    「それは私も感じていた。いくら有効な策とは言え、教団にとってはあまりに本拠地から遠いからな」
    「そうなんだよ。彼らの本拠地、黒鳥宮からここまでは、どんなに軽装でも一ヶ月近くはかかる。兵站(へいたん)――補給路や退路、通信網――の問題を考えると、いくらなんでも遠すぎるし。
     だもんで、悩んでるんだ。『何のために東から』って言う、最初の疑問から離れられないんだよね。もうあまり、時間が無いのに……」
    「まあ、焦るな。まだ雨は降っていないし、日も暮れていない。そもそも今日攻めてくるとも限らぬ。
     まだまだ時間はあるはずだ。結論を急ぐこともあるまい」
    「まあ、それもそうなんだけどね。……職業病かなぁ」
     エルスは恥ずかしそうに頭をかきながら笑う。
    「職業病?」
    「元々、諜報員だったからねぇ。敵陣の真っ只中に忍び込む仕事だから、どうしても急いで考える癖が付いちゃうんだよ。
     即判断、即行動でないと、敵に囲まれて袋叩きに遭っちゃう可能性もある」
    「なるほど、それで『理解より行動』か」
    「そう言うこと」



    「と言うわけです」
    「なるほど。それは確かに、スパイらしいと言えばらしいですね」
     少し時間は戻り、天原とウィルバーの会話に戻る。
    「この作戦の本領は、相手に疑念を抱かせることにあります。
     わざと戸惑うような情報を与え、混乱させるわけです。『本当にこんな作戦を取るのか?』と疑心暗鬼にさせる、この点が重要なんですよ。
     さらにですよ、混乱しているところに情報を与えます。これで相手は、我々の意図を見抜く」
    「見抜いちゃまずいじゃないですか」
     驚くウィルバーに対し、天原は人差し指を振る。
    「チッチッチ……、そこなんですよ。そこがこの作戦の、本当に効果的なところなんです。
     例えば僧兵長、あなたが道を歩いていて、その前方に落とし穴があったとしましょう。あなたは直前でそれを見つけた。どうしますか?」
    「そりゃ、避けますよ」
    「そうでしょう? しかし避けた……、いや、避けさせたところにもう一つ、落とし穴があれば?」
    「……!」
     ウィルバーは作戦の真意に気付き、息を呑んだ。
    「相手は急いで判断する性質の人間ですから、こう言う罠には楽しくなるくらい引っかかりますよ。『何故ここに、こんな分かりやすい落とし穴があるのか?』と言う疑念を抱く前に、避けてくれるんですからね、ヒヒヒ……」
     ウィルバーは無言のまま、茶をすする。
    (なるほど……。確かにこりゃ、すげー作戦だ。少なくともオレなら、簡単に引っかかるだろうな。
     学者崩れと甘く見てたが、……まあ、多少は叔父貴の入れ知恵もあるだろうが)
     ウィルバーは天原の狡猾さに、素直に感心した。



     地図を眺めてうなるエルスを放って、晴奈は天玄館を散策していた。
    (……むう)
     窓の外はどんよりと曇り、今にも雨を降らせようと言わんばかりに、雲がゴロゴロと鳴っている。
    (まずいな、これは。本当に今降られて攻め入られては、我々はかなり不利になる)
     晴奈の心にも、不安な黒い雲が覆い始めていた。
    (確かに心配だな。もしここで攻め込まれれば、我々の剣技はその本領を発揮できぬ。リストたちの銃も使い物にならなくなる。敵もなかなか侮れぬな)
     不安でたまらなくなり、晴奈はまたエルスのところに戻った。
    「うーん」
     まだ、エルスはうなり続けている。
    「エルス、お主の言う通りだった。外はいつ、雨が降ってもおかしくない具合になっている」
    「そっか。嫌な予想が当たっちゃったな、はは……」
     いつも笑い顔ですましているエルスも、今回ばかりは力なく笑っている。
    「悩んでいる一番の理由は、対策が講じられないことなんだ。
     こちらの不利は、天気の問題だから仕方が無い。でもその分、何が起こるか推測できるし、把握もしやすいから補助の計画も立てられる。
     だからそっちについては、もう準備を整えるようリストに言ってあるんだ」
    「そうか。それなら多少は安心できるな」
    「だけど敵の出方がはっきりしない。どう言う攻め方をするのか、いまだに確信が持てない。さっきは『挟み撃ちだろう』なんて言ったけれど、もしこれがハズレだったら、大変なことになる」
    「むう……」
     エルスは自信なさげに、もう一つの可能性を語る。
    「他に考えられることとしては、本当に東からじゃなく、西から来るのが主力部隊だと言う可能性。だけどこれも昨日言った通り、地形的な理由で不可解な面がある。
     この謎が解ければ、どうにか対策も講じられるんだけどねぇ」
    「……まあ、少しは気分転換でもしたらどうだ? これ以上一人で煮詰まっていても、解決案は出るまい」
    「ま、そりゃそうだ。……お茶でも飲みに行こうか」
     エルスは肩をポキポキと鳴らし、伸びをした。

    蒼天剣・神算録 4

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第106話。エルスの急所。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4. さらに時間は経ち、夕闇が迫り始めた頃。「うーん」 また、エルスがうなっていた。見かねた晴奈が、背後から尋ねる。「どうした?」「腑に落ちないんだよねぇ」「挟み撃ち、と言う予想がか?」「そうなんだよ。確かに推測の域を出ない、って言うことも不安なんだけど、それよりも距離的に問題のある作戦なんだよね」 迷いがちに話すエルスに、晴...

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    晴奈の話、第107話。
    落とし穴を避けた先に、また落とし穴。

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    5.
     晴奈とエルスは二人で連れ立ち、給湯室へと向かう。
    「リスト……、はいないんだった。今、準備してもらってるから」
    「おいおい、大丈夫か?」
     ぼんやりとした顔で笑っているエルスを見て、晴奈は不安げに尋ねる。
     エルスの方も取り繕うようなことをせず、素直に応じた。
    「流石に疲れてるね、はは。
     こう言う時、リストにお茶を淹れてもらうとシャキッとするんだけどねぇ」
    「確かにリストの茶はうまいな。私も好きだ」
     そんなことをしゃべっているうちに、二人は給湯室に到着した。
    「……おっと。今、使ってますか? お茶を入れたいんですが、お邪魔しても?」
     給湯室の中では、三角巾に割烹着姿の、眼鏡をかけた黒髪の猫獣人が湯を沸かしていた。
    「あ、大丈夫ですよ。皆さんにお配りしようと思っておりましたから。
     よろしければ一杯、いかがでしょうか?」
    「あ、それじゃいただきます」
    「では、私もお言葉に甘えて」
     猫獣人は慣れた手つきで、二人に茶を差し出す。
    「……お?」
    「これは……」
     茶を飲んだ晴奈とエルスは、同時に声をあげる。
    「うまい!」
    「ええ、お茶の淹れ方には自信がありますのよ」
    「うん、これはリストにも勝るとも劣らない味だ。なんかビックリしちゃったよ、はは……」
     エルスは憔悴した、力ない笑顔から一転、満面の笑みを浮かべる。「猫」も嬉しそうに、エルスにお辞儀をした。
    「そう言っていただけるととても嬉しいです、大将さん」
    「はは、どうも」
     と、「猫」は首をかしげ、こう尋ねてきた。
    「そう言えば大将さんと黄先生は、ここ何日かお姿を拝見いたしませんでしたが……」
    「ええ、少し調べ物をしておりまして」
     晴奈が答えると、「猫」はさらに質問をぶつけてくる。
    「もしかして、黄先生の妹さんも調査に向かわれてました?」
    「ええ、そうです」
    「あ、やっぱり。妹さんのお姿も見えなかったものですから。
     ところで妹さん、確か黒炎教団にいらっしゃったのですよね?」
     あまり尋ねられたくない話なので、晴奈は不機嫌な態度を取って答える。
    「……ええ、おりました。それが、何か?」
    「いえね、黒炎教団と言えば、『黒い悪魔』の伝説がありますでしょう?」
     晴奈の気持ちを汲んだらしく、エルスが代わりに答える。
    「ええ、色々あるようですね」
    「わたしもあんまり、教団にはいい印象を持ってはいないのですけれど、『黒い悪魔』の伝説は何だかおとぎ話のようで好きなんですよ。ほら、アレとか」
    「アレ、……って?」
    「ほら、アレですよ。えっと、……そうそう! 一瞬で世界を回ったって言う」
    「ああ、テレ……」
     言いかけたエルスの口がこわばる。
    「……しまった! それか、狙いは!」
     エルスはぐい、と茶を一息に飲み、晴奈の手を引っ張った。
    「セイナ! 相手の狙いが分かった! 奴らは東に本隊を置いている! 挟撃と見せかけて、本当の狙いは西側に警戒して薄くなった、東側の警備を破ることにあったんだ!」
    「な、何だと? 落ち着いて話せ、エルス」
    「奴らの狙いはこうだ。
     奴らは元から、東からの攻略を狙っていたんだ。西側からの本隊とか、そんなものは初めから無かったんだ。恐らく最初の攻撃は、僕を混乱させるためにやったんだろう」
    「しかし、東からは……」
    「そこなんだよ。『東からはありえない』、そう思わせたかったんだよ。普通に東から攻めれば、兵の数がどうしても少なくなってしまう。だから、本命は西から――それが常道なんだ、普通の敵であればね。
     でも、相手は黒炎教団。タイカ・カツミの魔術を使える集団だ。その本領を発揮すれば、こんな撹乱作戦はたやすい」
    「意味が分からない。結論を言ってくれ、エルス」
     痺れを切らした晴奈が尋ねると、エルスは自信たっぷりにこう答えた。
    「『移動法陣』だよ。あれを使って、大量に兵を送れるんだ」
     これを聞いて、晴奈も合点が行く。
    「そうか、なるほど! 確かにあれを使えば、東から攻めても兵が尽きることは無いな」
    「こうしちゃいられない。早く準備を整えよう、セイナ」
    「ああ、急ごう」
     晴奈も茶を飲み干し、黒い猫獣人に茶器を返す。
    「馳走になった、ご婦人」
    「ごちそうさまでしたっ」
     晴奈とエルスは礼を言い、その場から走り去った。

    「おそまつさまでした、と。……うふふっ」
     給湯室に残った猫獣人は、二人の姿が見えなくなったところでニヤリと笑った。
    「狙い通りね。ここまで簡単に引っかかってくれるなんて」
     猫獣人は三角巾を取り、割烹着を脱ぐ。そして棚に隠しておいた黒装束と黒頭巾を取り出しながら、独り言をつぶやく。
    「これでわたしの作戦は完了。後はよろしくね、霙子、龍さん」
     黒装束をまとい、黒頭巾を被ったこの「猫」こそ――15年前篠原を篭絡し、以後彼の片腕として、また妻として過ごしてきた女性、竹田朔美であった。

    蒼天剣・神算録 5

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第107話。落とし穴を避けた先に、また落とし穴。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 晴奈とエルスは二人で連れ立ち、給湯室へと向かう。「リスト……、はいないんだった。今、準備してもらってるから」「おいおい、大丈夫か?」 ぼんやりとした顔で笑っているエルスを見て、晴奈は不安げに尋ねる。 エルスの方も取り繕うようなことをせず、素直に応じた。「流石に疲れてるね、はは。 こう言う時、リストにお...

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    晴奈の話、第108話。
    豪雨の中の修羅場。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    6.
     敵の策略に「気付いた」エルスは大急ぎで軍備を東側に固めるよう、天玄中に知らせた。その甲斐あって雨が本降りになる前には、軍の防衛網が完成した。
    「敵はこの雨に乗じてやって来るはずだ! 全員警戒を怠らず、防衛に努めてくれ!」
    「おう!」
     エルスの号令に、晴奈を筆頭とする全兵士たちが応えた。

     日が落ちた今、既に雨は土砂降りとなり、地面の大部分をぬかるみに変えている。危惧していた通り、このままでは黄商会製の銃は使用不可能、焔剣士たちも得意の炎を使えないと言う状況に陥っていた。
     とは言えこの状況に関してはは既に想定しており、一応の対処法もエルスが講じ、伝えている。
    「まあ、急ごしらえだからちょっと不安だけど、これで辛うじて銃士隊は動ける」
    「ホントに突貫工事よね。ま、この雨なら燃やされたりしないでしょ」
     銃を使えるよう、街のあちこちに木製の覆いを被せて雨除けを作り、しっかりと乾かした銃器類を武器貯蔵庫から濡らさぬよう運び出し、天玄の中とその周辺でのみ使用できるように配備したのだ。
    「後は跳弾で味方や非戦闘員に弾を当てないよう、注意してね。……っと、セイナたちの方は」
    「エルス。……この対策は甚(はなは)だ、不安なのだが」
     晴奈がべっとりと油に塗れた刀を手にしたまま、エルスに声をかける。
    「さっきやってみたら、ちゃんと火が点いたじゃないか」
    「それは、そうだが。……刀が錆びないか心配だ」
    「大丈夫、油じゃ金属は錆びないよ」
    「……むう」
     晴奈だけではなく、他の焔剣士全員の刀にも油が塗られている。無理矢理に、刀に火が点くようにしているのだ。
    「剣は錆びないだろうが、剣士の誇りが錆びそうだ。こんな子供だましを……」
    「いいから。戦いは正攻法だけじゃ勝てない。時にはそんな子供だましも使わないと、勝てなかったりするもんだよ」
    「うーむ」
     晴奈はまだ納得が行かなかったが、エルスから戦いの勝ち負けに言及されては、返す言葉も無い。
    「……まあ、善処する」
     わだかまりつつも、晴奈は持ち場へと向かった。



    「いやがるぜ……」
     高い木の上で単眼鏡を覗き、天玄の様子を見ていたウィルバーは、天玄の東門へと向かう晴奈の姿を見つけ、毒づいた。
    「セイナ、今度こそお前を屈服させてやるぜ」
     ウィルバーはそうつぶやくと単眼鏡をたたみ、そのまま前方へと跳ぶ。枝や葉に当たることなく着地し、周りで待機していた教団員たちに号令をかけようとする。
    「さあ、お前ら! 今から……」《これからいよいよ天玄に入ってもらいます!》
     ところが「隠れ家」に潜んでいた天原が、魔術による通信でウィルバーをさえぎり、まくし立てる。
    《相手は既に役立たずの集団です! 奴らがどうあがいても我々の勝ちは揺るぎません! 必ずや、必ずや天玄を制圧し、ワルラス台下の教化計画推進と焔流打倒、それから私の家と財産と主席の座の確保を……》「うるせえ! 黙らせろ!」「はっ……、『フォースオフ』」
     たまりかねたウィルバーが側近に指示し、天原の術を遮断させた。
    「……コホン。邪魔が入っちまったな。まあ、とにかくだ! 今からテンゲンを再攻撃する!
     奴らの攻撃手段は既に封じられている! だが油断するなよ! 敵方にはかなりの智将がいると言う情報を得ている! 不利な現状をカバーし、何らかの代替手段を持っているかも知れない! 十分警戒し、怯まず攻め込め!」
    「御意!」
     教団員たちは両手を合わせて合掌し、ウィルバーに応える。
    「よし、それじゃ全員、進めッ!」
     ウィルバーの号令と共に、教団員たちは泥水を跳ね上げて駆け出し、天玄へとなだれ込んでいった。

     暗闇の中から怒号と大量の足音が響いてくる。
    「来たな……!」
     東門前にいた焔剣士たちは刀を抜き、構える。だが、まだ火は灯さない。「焔流剣術は使えない」と高をくくっている相手をギリギリまでひきつけ、油断させて一挙に潰そうと言う狙いである。
    「まだだ、まだ姿は見えない!」
    「動くなよ……!」
    「もっとひきつけろ! この位置ならば銃士隊の援護もある!」
     門前には焔剣士だけではなく、連合軍の兵士も陣取っている。彼らも武器を構え、いつでも敵に突入できるよう、神経を研ぎ澄ませて待機していた。
     晴奈はその中心に立ち、刀に手をかけて号令を発しようと構えていた。
    「……」
     晴奈は一言も発さず、目の前の暗闇を凝視する。
    「間も無く来る! 全員、用意しろ!」
     そう言って晴奈は刀を抜き、正眼に構えた。焔剣士たちも同様に構え、列を成す。
    「……今だッ! 灯せぇッ!」
     晴奈の号令とほぼ同時に、東門はにわかに明るくなる。
     するとすぐ目前まで迫っていた教団員たちの驚いた顔が、ほのかに浮かび上がった。
    「火が……!」
    「この雨でも、使えるのか!?」
     騒ぐ教団員たちの中から、晴奈にとって聞き覚えのある声が響き渡る。
    「怯むな! こんなもん想定内だ! 進め、進めッ!」
     が、一瞬立ち止まり、動きが鈍った教団員に対し、今か今かと待ち構え、飛び出していった剣士・兵士たちとでは、攻める速度が違う。
     教団員たちの中に剣士たちがなだれ込み、教団員はバタバタとなぎ倒されていく。
    「くっそ、立ち止まるんじゃねえ! 押せ、押せぇッ!」
     それでも、数で圧倒的に勝る教団側は諦めない。倒れた教団員の上をドカドカと突き進み、第二陣が押し寄せてくる。
    「門上方、射撃用意!」
     門の向こうからリストの声が響き、続いて門の上に作られた即席の射撃台からパン、パンと銃声が降ってくる。
     なだれ込む第二陣は次々に胸や腹を押さえ、あるいはのけぞり、その進攻が阻まれる。
    「チッ……! 銃まで普通に使えんのかよ!? どこのバカだ、『役立たず』なんて吹かしやがったのは!?
     第三陣、突っ込めッ!」
     ぶっきらぼうな号令と共に、教団の第三陣が現れる。
     激しい雨の降る中、戦場は文字通りの泥沼と化していた。

    蒼天剣・神算録 6

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第108話。豪雨の中の修羅場。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -6. 敵の策略に「気付いた」エルスは大急ぎで軍備を東側に固めるよう、天玄中に知らせた。その甲斐あって雨が本降りになる前には、軍の防衛網が完成した。「敵はこの雨に乗じてやって来るはずだ! 全員警戒を怠らず、防衛に努めてくれ!」「おう!」 エルスの号令に、晴奈を筆頭とする全兵士たちが応えた。 日が落ちた今、既に雨は土砂降りとな...

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    晴奈の話、第109話。
    2つ目の落とし穴は、地獄への片道切符。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    7.
     既に修羅場となっている門から大分離れた天玄館の司令室で、エルスは指示を送っていた。
    「戦況は?」
    「今のところ、こちらが押し返しております!」
    「焔流の人たちは?」
    「黄副指令を先頭として我が軍と共闘し、最前線で防衛に努めております!」
    「ふむ。銃器は問題無く作動してる? 備蓄は大丈夫?」
    「はい! 現場からは『問題無い』との報告が……、あ」
    「ん? どしたの?」
     伝令は少し逡巡し、報告を続ける。
    「えーと、チェスター隊長から『ジャンジャン弾よこさないと後で蜂の巣にするわよ』と」
    「ああ、大丈夫大丈夫。ちゃんと送る。他、東門以外からの敵は?」
    「おりません。今のところ、東門からの進軍のみです」
    「そっか。じゃあ、東以外三方への警戒はこれまでと同様に行ってくれ。あと、毒舌銃士さんのお達し通り銃弾を送るよう、武器保管班に指示を伝えてくれ」
    「了解!」
     伝令はさっと敬礼し、すぐに立ち去った。エルスは椅子に座り、戦況を反芻する。
    (やっぱり、東からの大部隊が本命だった。武器や焔に関しては問題無く使えているし、今のところ防ぎ切っている。これ以上の問題や状況の悪化は、無いかな)
     状況がこちらに有利であることを確信し、エルスの緊張がわずかに緩む。
    「……のど、渇いたなぁ」
    「お茶をお持ちしましょうか?」
     エルスのつぶやきを、ちょうど窓を拭いていた給仕が聞きつける。
    「うーん、じゃあ、もらおうかな」
    「かしこまりました」
     給仕はぺこりと頭を下げ、司令室から出ようとした。
    「あ、そうだ」
     そこでエルスが先程の猫獣人を思い出し、呼び止める。
    「良かったら、……えっと、名前は知らないんだけど、30代半ばくらいで眼鏡をかけた、黒髪の『猫』の女の人がいますよね?
     その人に淹れてもらいたいんだけど、お願いできるかな?」
     エルスの説明に、給仕はけげんな顔をした。
    「え、……っと?」
    「あ、分かりにくかったかな」
    「いえ、その……、眼鏡をかけた、黒髪の、猫獣人の女性、ですか?」
    「うん、そうだけど」
    「……いたかしら? ちょっと、探してきます」
    「え? ええ、お願いします」
     給仕は首をかしげながら、部屋を後にした。
     その様子を見て、エルスの胸中に窓の外と同様の、重たげな暗雲が立ち込め始める。
    (……何だ? この、嫌な予感は? 何かが引っかかる)
     エルスはもう一度、戦況を思い返す。
    (僕の予想通りの、東側からの進攻。不安視されていた戦法も、問題無く使用できた。敵は今、十分に撃退できている。この状況で何を悩むんだ、僕は?
     うまく行き過ぎて悩むなんて、まるでエドさんみたいな……)
     博士のことを思い出し、エルスの笑みが凍りついた。



     数年前、かつて二人が北方にいた頃。
    「戦場でワシが怖いのはな、エルス」
    「エドさん、戦場行かないじゃないですか」
     それは指導の合間に交わされた、他愛ない会話だった。
    「話の腰を折るな、バカモン。まあ、戦場で怖いのはじゃな、『お膳立てが整いすぎている』ことじゃな」
    「はあ……?」
    「考えてもみなさい。自分の思い通りにならん敵地の真っ只中で、妙に敵がいない。妙にすんなり進める。妙に目標物に近づける。こんな状況を、怪しいとは思わんか?」
    「まあ、そう言われてみると、それは怪しいですね」
     エルスの答えに博士は深々とうなずき、こう続けた。
    「こんな時は、逆に警戒すべきじゃ。安心しきったところを陥れる、卑劣な罠が張り巡らされとるかも知れん、と」
    「はは、そんなことがあったら気を付けることにしますよ」



    (よくよく考えたら、思い通りに行き過ぎる。
     雨対策はともかくとして、西からは敵が来ないで東からだけ来ると思ったら、本当にその通りになった。これ、もっとよく考えてみたらおかしいじゃないか。
    『移動法陣』が使えるんだったら、東だけじゃなく、例えば東西南北全面に出入りできるポイントを作って一挙に攻めるような、もっと効果的で圧倒的な戦術だって立てられたはず。なのに何故、一ヶ所からだけ攻めるなんて言う『ぬるい』方法を執ったんだ?
     もしかしてこれは、注意と兵、物資を一ヶ所に集めさせて、別方向から攻撃、もしくは固まった兵を一網打尽にする作戦では……!?)
     エルスの顔から笑顔が消える。
     同時に司令室の扉が開き、困った様子の給仕が顔を覗かせた。
    「あ、あの。先程仰っていた方、やっぱりいらっしゃいませんでした。同僚も、見たことが無いと」



     東門の裏でしきりに指示を送っていたリストが、声をからして叫んでいる。
    「ホラ、もっと撃つ! もっと弾バラ撒く! ボサッとしてるとアタシが頭、撃ち抜くわよ!」
     辺りは硝煙が立ち込め、雨の湿気と相まって、まるで濃霧の中にいるような状態だった。
    「ソコ、弾幕薄い! 何やって……」
     リストはもう一度活を入れようと、怒鳴りかけた。
     だが、辺りが妙に静まり返っていくことに気付く。
    (……妙ね? 銃声が少な過ぎる。サボりにしたって、こんな一斉に……?)
    「ちょっと、ソコ……」
     声をかけようとしたところで、リストは何者かに腕をつかまれ、口を布でふさがれる。
    「な!? 何の、つも、り……、よ……」
     口に押し当てられた布に何らかの薬が染み込んでいたらしく、リストの意識は急激に薄れていく。
     間も無く、門周辺からは一発の銃声も聞こえなくなった。

     その異変に、晴奈も気付いた。
    「……!? リスト、どうした!? 援護してくれ!」
     大声で叫ぶが、リストの声が返ってこない。銃と言う援護を失い、連合軍と焔剣士たちは次第に押され始めた。
    「くそ、退却だ! このままでは……」
     晴奈が命令しようとしたその時、ドドドド、と低く重たい音があたりに響く。
     途端に、晴奈の脳はがくんと揺れた。
    「……!?」
     耳の奥で、低い爆音が幾重にも渡って反響する。
    「これ、は……、あの、ま、じゅつ、……?」
     晴奈の脳裏に一瞬、4年前英岡で妖狐と戦った時の体験が浮かぶ。
     だが、次の一瞬で意識が飛び、何が起こったのか把握できないまま、晴奈と焔剣士、連合軍、そして――敵方の教団員たちまでもが、その場に倒れ込んだ。

    蒼天剣・神算録 7

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第109話。2つ目の落とし穴は、地獄への片道切符。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -7. 既に修羅場となっている門から大分離れた天玄館の司令室で、エルスは指示を送っていた。「戦況は?」「今のところ、こちらが押し返しております!」「焔流の人たちは?」「黄副指令を先頭として我が軍と共闘し、最前線で防衛に努めております!」「ふむ。銃器は問題無く作動してる? 備蓄は大丈夫?」「はい! 現場から...

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    晴奈の話、第110話。
    怒りの空中コンボ。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    8.
     あの黒い猫獣人に惑わされたと気付いたエルスは、天玄館にいた兵士を半数引き連れて東門へと急いだ。
    (何てことだ……! こんな罠に引っかかるなんて!)
     だが、時は既に遅かった。
    「これは……!」
     覆いのほとんどが割られ、地面に落ちた銃や、箱に収まったままの銃弾はずぶ濡れになっている。門も破られ、その向こうにいるはずの兵士、剣士、さらには教団員までもが、どこにもいない。
    「何が、どうなっているんだ?
     ……みんな、警戒してくれ! まだ敵がいるかも知れない!」
     エルスの指示に従い、兵士たちは武器を構えて周囲を見回す。
     と――。
    「あら、大将さん直々にいらっしゃったのね」
    「君は……!」
     エルスの前に、黒ずくめの猫獣人が現れる。頭巾の隙間からわずかに見えた目には、眼鏡がかけられている。
    「その声、……さっきの『猫』さんかな」
    「動かないで!」
     エルスが構えようとしたところで、「猫」が牽制する。
    「下手なことをすれば、彼女がどうなっても知らないわよ」
    「彼女……?」
    「猫」がパチンと指を鳴らすと、彼女同様黒装束に身を包んだ者が数名現れる。そしてそのうちの一人が、青い髪の少女を抱きかかえている。
    「リスト!」「動かないでって言ったでしょう!」
     エルスが叫ぶと同時に、エルスの足元に何かが突き立てられる。
    「わ、……っとと」
    「猫」は両手に長細い、短剣のようなものを何本か持っている。
    「苦無(くない)か。随分珍しい武器を使いますね、サクミさん」
    「え?」
    「猫」が驚いたような声をあげる。その様子を見たエルスの顔に、久々に笑顔が戻る。
    「当たり、ですか。紅蓮塞で、色々と調べ物をしたんですよ。
     その中で見つけた『竹田朔美』と言う猫獣人が、当時20歳そこそこ。多分、シノハラと一緒に出奔したでしょうし、こないだ出くわしたシノハラと同じような服装だ。さっき確認した素顔も30代半ばに見えたから、年齢的にも合う。
     だから多分、あなたがサクミさんなんだろうなと予想しました」
    「ご明察。随分頭が回るようね。でも今回ばかりは下手を売ったわね、大将さん」
     自分の素性を看破された「猫」、朔美は、エルスをあざけるような口調で応じる。
     エルスは普段通りの笑顔を浮かべ、自己紹介した。
    「エルスです。エルス・グラッドと言います、僕の名前」
    「そう。じゃあエルスさん、本題に入りましょうか」
     朔美はエルスにしゃなりとした歩調で近付きながら、話を切り出す。
    「単刀直入に言うわ。天玄と黄海を明け渡しなさい。それからあなたは、央南から出て行って。それともう一つ、黄晴奈、黄明奈姉妹を我々に引き渡して」
    「呑まなければ?」
    「ここで死んでもらうわ、みんな」
     朔美の言葉と黒装束たちの威圧感に、周りの兵士は皆、ぶるっと震える。
     だがエルスだけは、ニコニコと笑うだけで動じない。
    「そっか。うーん」
    「悩むような話じゃないでしょ? この子の命が惜しかったら、言う通りになさい」
    「うーん」
    「牛歩戦術のつもり? さっさと答えなさい」
    「うーん」
    「……わたしをバカにしてるの? いい加減にしないと、本当に殺すわよ」
    「うーん……、じゃあ、答えはこうだ」
     眼前まで迫り、苦無を振り上げた朔美に対し、エルスはウインクする。
     そして次の瞬間、エルスの姿は消えた。
    「……!?」
     朔美は目の前で消えた相手を探し、辺りを見回す。
    「いやー、呑めないもん」
     エルスの飄々とした声と共にドゴ、と言う音が響く。
    「僕、央南から出たら結構まずいんですよね。央中だと教団に狙われるし、央北はきな臭くて何に巻き込まれるか分かったもんじゃないし」
     今度は二連続で、ドゴ、ドゴと音が鳴る。朔美が黒装束たちの方へ振り返り、3人足りないことを確認する。
    「それにセイナもメイナも大事な友人です。友達を売るなんて僕にはできませんよ」
     ようやくエルスの姿が現れる。と同時に、リストを抱えている者の隣にいた黒装束が吹き飛び、近くの建物にドゴ、と音を立ててぶつかった。
    「テンゲンとコウカイを売るなんて言うのも、論外。僕を信じて兵隊を貸してくれた街を、僕の一存でホイホイ渡したりなんかできませんって。
     だから答えは、全面的ノー。でも死にたくも無いし、リストを死なせたくも無い。だからこうして、人払いをさせてもらいました。
     さあ、残るは君と、サクミさんだけ。今ならまだ、笑ってすましてもいいですけど。どうされます?」
     にっこりと笑いかけたエルスに、朔美は舌打ちする。
    「チッ……、予想外だったわ。まさかうちの子たちが、こんなあっさりやられるなんて。……でも、引き下がらないわよ、わたしも」
     朔美はくい、とあごをしゃくり、残った黒装束に逃げるよう指示する。黒装束は短くうなずき、エルスに背を向けて走り出した。
    「待て!」「こっちの台詞よ!」
     ヒュンと音を立て、エルスのすぐ横を苦無が飛んで行く。
    「足止めさせてもらうわよ、エルスさん」
    「……いい加減にした方がいい」
     エルスの笑みが、また消えた。

     エルスは顔をくい、と朔美に向ける。
    「僕はしばらく、怒ったことが無いんだ。だから、自分の怒った顔がどんなだったか、思い出せない」
    「何を言ってるの?」
    「サクミさんは、見たいの? 僕の怒った顔を」
     エルスは淡々と語りかける。
    「……!?」
     エルスを見た途端、朔美の体が震え出す。
     普段はヘラヘラと笑っている分細まり、滅多に見ることのできないその開かれた目に射抜かれただけで、朔美は言葉を失った。
    「僕にとってセイナやメイナは友達だけど、リストはもっともっと大事な子なんだ。彼女に手を出す奴は……」
     エルスの姿が、また消える。
     と同時に、朔美の体が通常ではありえないほどくの字に折れ曲がり、空中に浮き上がった。
    「げ……ッ!?」
     朔美は血を吐きながら、宙を舞う。
    「僕が許さない」
     宙を浮いていた朔美の体が、もう一段上に跳ね上がる。
    「ぐは……!?」
     初弾で朔美をはねたエルスが、空中でもう一度攻撃したのだ。
     二度も強烈な打撃を喰らい、血の雨を撒き散らしながら宙を舞う朔美は、全身の骨をギシギシと軋ませて、さらに空高く飛んで行く。
    「や、やめ、てぇ……」
     絞り出すような朔美の声が聞こえてきたが、憤怒に任せたエルスの攻撃は止まらない。
     雲の切れ間からうっすらと伸びた月の光に照らされたエルスと、今にもひっくり返りそうになっている朔美の目が合った。
     エルスの顔はまるで、鬼神のような形相をしていた。
    「い、いや……、嫌ーッ!」
     朔美の絶叫は、地面に叩き落されるまで続いた。



     雨に打たれる感覚が無くなる。
    (雨が、やんだのか……、いや……)
     後ろの方ではまだ、雨音が聞こえている。
    (誰だ……、私を、どこへ……)
     誰かが腕と足をつかみ、どこかに引きずっていく。晴奈は抵抗しようとするが、体に力が入らない。
    (何者だ……)
     自分を運んだ者たちは何も言わず、どこかに去っていく。
    (これは……、何が……、……背中、と、腕に、何か、当たっている……)
     ひどく重たいまぶたをこじ開け、辺りを伺う。
    (……人? 私の、周りに、人が……)
     背中の感覚と、ひどく狭まった視界で、横になった人間が数名いることを把握する。
    (ここは……、馬車か? 運ばれる……? 一体、どこへ……)
     そこでまた、晴奈の意識が遠くなった。

     先程まで戦場だった門前から、黒い幌を付けた何台もの荷馬車が、静かに動き出す。
     後には誰も、いなくなった。

    蒼天剣・神算録 終

    蒼天剣・神算録 8

    2008.10.10.[Edit]
    晴奈の話、第110話。怒りの空中コンボ。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -8. あの黒い猫獣人に惑わされたと気付いたエルスは、天玄館にいた兵士を半数引き連れて東門へと急いだ。(何てことだ……! こんな罠に引っかかるなんて!) だが、時は既に遅かった。「これは……!」 覆いのほとんどが割られ、地面に落ちた銃や、箱に収まったままの銃弾はずぶ濡れになっている。門も破られ、その向こうにいるはずの兵士、剣士、...

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    晴奈の話、第111話。
    篠原の過去。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    1.
     まるで滝のように降り注いでいた雨は、夜の半ばに差し掛かった頃、唐突にやんだ。
     夜空は急速に晴れ渡り、風がまた、激しく吹き荒ぶ。水気をたっぷりと含んでいた空気は、北へと流れていった。

     天玄北にある天神湖。その周囲三方をぐるりと囲む小さな山、天神山の中腹で止まった黒い荷馬車から、黒い頭巾を被った者たちが数名降りてくる。
    「やあやあ、ご苦労様でした」
     彼らの前に天原が現れ、嬉しそうに尻尾を揺らしながら、彼らに近付く。
    「……」
     黒頭巾たちは一言も発さず、天原の前に並んで直立する。最後に荷馬車を降りてきた、痩せ型の短耳――篠原だけが、天原に応える。
    「殿、お申し付けの通り、東門にて交戦していた者をすべてこちらまで運び出しました。
     処分は如何になさいますか?」
    「そうですねー、半分は実験室横の倉庫に監禁、残り半分は『売る』用に、第3地下倉庫に押し込んどいてください」
    「殿、それではワルラス卿から怪しまれるでしょう。800人動員しておいて、一人も戻ってこないと言うのは……」
     篠原の指摘に、天原は腕を組みつつ言い訳を考える。
    「んー、まあ、ワルラス台下には『意外に相手が粘って、共倒れになった』とでも言っておきましょう。あちらへの報告は全滅とでも」
    「いや、しかし。一人も残らないのは、流石にいぶかしがられるかと」
     篠原の反論に天原は一瞬顔をしかめるが、間を置いて「そうですね……」とうなずく。
    「じゃあ、使い物になりそうも無い、重体の人だけ台下に返しておきますか。それなら納得もされるでしょう」
    「……承知いたしました」
    「よろしくお願いしますよ。
     ……ウフフ。台下には悪いですが、これだけ実験材料が集まればホクホクと言うものですよ。敵方と合わせて、およそ1000人! そのうち半分の500人を、やりたい放題いじくり回せるわけですよ!
     しかも、これまでは『あの組織』からずーっと人を買ってばっかり、失敗作を処分してもらってばっかりでしたが、今回は残り半分、500人を大量に売りつけることができますからねぇ。僕はより良い顧客と見られ、今後もっといい条件で売ってもらえるようになるでしょう」
     天原は嬉々とした口調で、捕まえた者たちの処分――人体実験と人身売買について語り出す。篠原はできるだけ無表情で聞いていたが、内心は始終、天原に毒づいていた。
    (この下衆、外道が……ッ! 人間を何だと思っているのだ!)
     篠原は改めて、この主人と己が相容れないことを実感していた。



     朔美と共に紅蓮塞を離れてからの2年、篠原は不遇の日々を過ごしていた。
     免許皆伝こそすれ、家元に刃を向けた謀反人である。大っぴらに焔流を名乗ることはできない。かと言って新たに剣術流派を立ち上げても、まったくの無名であるし人は集まらない。
     それでもどうにか十数名の弟子を取ることはできたが、皆貧しく、名のある流派に入ることを許されなかった未熟者たちである。金も力も無い者ばかりが集まり、篠原一派はますます困窮した。
     そこに現れたのが、藤川であった。

    「篠原、聞いたぜ……。お前、随分左前になっちまったそうじゃねえか」
     片腕を無くしているため、藤川は左手で握手してきた。篠原がその手を握るなり、藤川は篠原をなじった。
    「俺の腕を斬って、家元に刃向かってまで得た人生がそれか?
     情けねえたあ、思わねえのか?」
    「黙れ、藤川。お前如きに、俺の生き方は分かるまい」
     胸を反らし、手を払いのけて突っぱねようとする篠原に対し、藤川は馬鹿にしたようにニタニタと笑う。
    「そりゃ、分かるもんか。落ちぶれたお前と違って、俺は絶頂なんだからよ」
    「……何だと?」
    「実はな、俺は今あるお方の隠密をしている。片腕でちと衰えたとは言え、俺の『霊剣』がここで非常に役立ってんだ。
     どうよ、篠原? ちっとばかし、俺と話をする気はねえか?」
     一派の資金繰りと働き口に困っていた篠原は、藤川の話を聞くことにした。
     藤川も塞を離れた後、半年ほど流浪の日々を送っていたと言う。知り合い筋を回り、片腕の自分でも就ける仕事は無いかと探していたのだが、そこで秘密裏に、天原桂の母であり、当時の当主であった天原篠からの声がかかったのだ。
    「音も無く敵を討ち、妖怪や霊魂のごとく斬り進む、これぞ『霊剣』の極意。……ってな評判が受けて、俺は天原御大に気に入られた。
     あの方も政界の大物だからな、要人暗殺の人手がほしいってことで、俺が選ばれたんだ」
    「暗殺だと!? 藤川、正気か!?」
     うろたえる篠原を見て、藤川はケタケタと笑い出す。
    「正気も正気、まっとうな人間だよ俺は。
     こう見えても表では、悠々自適に暮らしていられる。仕事が無い日は昼まで寝て、のんびり庭いじりができる。庭いじりが終わったらダラダラ市場に出かけて、娘のために人形やオモチャを2、3個ホイホイ買って帰れる。ついでに酒も買って、夜まで呑んで、またぐっすり、たっぷり眠れる。
     正直な話、最近じゃあお前に腕斬られて、却って良かったって気までしてきてるんだぜ、ケケケ」
    「何を馬鹿な! そこまで堕したか、藤川!?」「ああん? 何寝ぼけてやがる、篠原」
     藤川はニヤニヤと笑いつつ、さらに自分の暮らしぶりを語る。
    「他にも、彼女から見合いだの家だのも勧められてな。表向きは、本当に夢みたいな生活ができる。まあ、裏ではちと汚いことしなきゃなんねえが、本当に美味しい商売だぜ、これは。
     なあ、篠原。お前、困ってるんだろ? 金は無い、名声も無い、おまけに仕事の口も無いと来てる。キレイゴト、言ってる場合か?」
     藤川のこの言葉に、篠原は折れた。

    蒼天剣・霊剣録 1

    2008.10.12.[Edit]
    晴奈の話、第111話。篠原の過去。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -1. まるで滝のように降り注いでいた雨は、夜の半ばに差し掛かった頃、唐突にやんだ。 夜空は急速に晴れ渡り、風がまた、激しく吹き荒ぶ。水気をたっぷりと含んでいた空気は、北へと流れていった。 天玄北にある天神湖。その周囲三方をぐるりと囲む小さな山、天神山の中腹で止まった黒い荷馬車から、黒い頭巾を被った者たちが数名降りてくる。「やあや...

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    晴奈の話、第112話。
    利用する者、される者。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    2.
     藤川の紹介で、篠原一派は天原家の当主、天原篠と会った。
    「まあ、これはなかなかの傑物ね。お強そうだこと」
     それが篠原と対面した時の、篠の第一声であった。篠原とその一派はすぐに、篠の隠密として召し抱えられることになった。
     篠原の正直な感想として、篠の下での生活は非常に過ごしやすいものだった。当時の政局が安定していたせいか、思っていたよりも汚い仕事はせずに済んだ。せいぜいが篠に隠れて行われている会合、会議の盗聴、もしくは天玄を離れた要人の尾行、監視と言った内容で、篠原は己の剣を汚さずに済んだと、胸を撫で下ろしていた。
     天原桂の監視をするまでは。



    「龍明さん。折り入って、ご相談があるのです」
     篠から「内密に、早急にお願いしたい件がある」と伝えられ、篠原は篠の元を訪れた。
    「息子の桂が、最近頻繁に天玄を出入りしているのです。
     最初は大学院の関係かと思っていたのですが、つい先日学校の方から『姿を見せていない』と連絡を受けまして、不審に思ったのです。
     しかし、大変な変わり者ですが自分の息子には変わりありませんし、あまり露骨に問いただすのもどうかと思いまして、こうして龍明さんに来ていただいたのです」
    「はあ……」
     篠はためらいがちに、用件を伝える。
    「ですのでしばらくの間、桂を監視してほしいのです。
     素性の良くない者とみだりに会い、それでもしも感化されるようなことがあれば、天原家の恥になります。そうならないように、桂の動向を陰で見ていていただけませんか?」
    「ふむ……。何故、某に?」
    「英心さんには現在、私の弟夫婦を監視してもらっています。こちらも少し、怪しげな動向が見られたので……。他に手が空いている者もいるのですが、桂には顔が割れております。
     ですので入って間も無い龍明さんにしか、お頼みできないことなのです」
    「なるほど。……承知いたしました、殿」
    「よろしくお願いします、龍明さん」

     結論から言えば、篠の予感は的中していた。
     篠原は朔美と協力し、桂が天玄の南東にある小さな街、柳丘に出入りしていることを突き止め、その後を追った。
     そして桂がとある喫茶店で黒髪の「狼」と面会する様子を、二人は天井裏から密かに観察していた。
    「あれは誰だ?」
    「あの黒い僧服、そして紋章。間違い無いわ、あれは黒炎教団の者よ」
     会っていた相手は、当時から既に教団の権力者であったワルラス卿であった。
    「何故、央南のこんなど真ん中に、黒炎の者が? それに何故、桂さまと話を?」
    「分からないわ。もう少し詳しく、話を聞いてみましょう」
     二人は聞き耳を立て、会話の内容を盗み聞く。
    「本当に感激です、ウィルソンさん。僕の論文をこんなに評価してくださるなんて」
    「いやいや、当然の評価ですよ。むしろ、この内容を理解できず、でたらめな酷評をする教授の方がおかしい」
    「へへ、恐縮です……」
     当時の桂はまだ28で、今のように偏執じみた言動は見せていなかった。魔術研究が大好きな、まだまだ常識のある変わり者でしかなかった。
    「実はですね、アマハラくん。君の頭脳と魔術に対する深い理解力を見込んで、お願いがあるのです」
    「お願い、ですか?」
    「ええ、私たちの教団のことはご存知でしょう? 黒炎様から多数の経典、教本を賜り、その通読、実践にいそしんでいるのですが、一つ、解釈が困難なものがありましてね」
     そう言ってワルラスは懐から一冊の本を取り出す。
    「読んでみてください」
    「は、はい。……むむ、これは、……なかなか」
     教本を開いた桂は深くうなり、しきりに眼鏡を直しつつ読み始めた。
    「……ふむ。……へぇ。……嘘だろ!?」
    「いえいえ、黒炎様は嘘や冗談がお嫌いな方です。ここに書いてあるのは紛れも無い真実、……のはずですが、どうにも納得が行かない箇所がありまして」
    「なるほど、そこを解明したいと。……少しお時間をいただいても、よろしいでしょうか?」
    「ええ、構いません。どれくらいかかりますか?」
    「そうですね……、半月、いや、1週間で」
    「分かりました。それではまた次週、この場所で」
     ワルラスは一礼して席を立ち、桂を残して店を出て行く。
     残った桂は、嬉しそうな笑い声をあげていた。
    「……ウフ、フフフフ」

     その後も何度か桂とワルラスの会話を盗聴し、篠原たちはワルラスの意図を見抜いた。
     ワルラスは黒鳥宮に納められている貴重な教本、魔術書を交換条件として、桂に天原家の家督を継ぐよう指示していたのだ。
    「ワルラス卿は央南への布教を任されているらしいの。桂さまに近付いたのはきっと、彼を傀儡として央南の実権を握るためよ」
    「央南の実権? どう言うことだ、朔美」
    「天原家の家督を桂さまが継げば、自動的に政治地盤も彼のものになるわ。そう、政界の重鎮である篠さまの権力がそのまま、桂さまに移るのよ」
    「ワルラス卿の狙いはそれか……!」
     朔美はため息をつきながら、その後の政局を予想する。
    「篠さまは既に齢60を越えている。恐らく、寿命はあと10年ほどでしょうね。その後桂さまが天原家を継ぎ、連合の主席に収まれば、後はワルラス卿の思い通りに央南を動かせるわ。
     まさに暗黒の時代の到来、ね」
    「そんな馬鹿なことが起こると言うのか!? 焔流が必死で、西の端でせき止めてきた黒炎の勢力が、そんなに易々となだれ込むと言うのか!」
    「起こりうるわ。あのワルラスと言う男、相当にしたたかで強運よ。よくもまあ、これほど都合よく『役立つ操り人形』が現れたものね」
     朔美の桂に対する表現に、篠原は顔をしかめる。
    「朔美、いくらなんでもその言い方は」
    「間違って無いわよ。あのお坊ちゃんは自分のやりたいことしか眼に映らない愚物。
     もしわたしがワルラスなら、『自分の野望を満たす美味しい獲物』にしか見えないわね」
     言い切ったところで、朔美は腕を組んだ。
    「……わたしが、ワルラスなら、……ね」
     何かを考えだし、沈黙が流れる。焦れた篠原が尋ねてみたが、朔美は何も答えなかった。

     その時はまだ、朔美は「このことはしばらく、篠さまには内緒にしましょう。わたしに、考えがあるの」としか言わなかった。
     朔美の頭の良さを良く分かっている篠原は、素直に朔美の言うことに従い、そのまま結論を待つことにした。

    蒼天剣・霊剣録 2

    2008.10.13.[Edit]
    晴奈の話、第112話。利用する者、される者。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -2. 藤川の紹介で、篠原一派は天原家の当主、天原篠と会った。「まあ、これはなかなかの傑物ね。お強そうだこと」 それが篠原と対面した時の、篠の第一声であった。篠原とその一派はすぐに、篠の隠密として召し抱えられることになった。 篠原の正直な感想として、篠の下での生活は非常に過ごしやすいものだった。当時の政局が安定していた...

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    晴奈の話、第113話。
    英岡妖狐事件の発端。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    3.
     桂の監視を始めてから2ヶ月が経った頃、ようやく朔美は篠原に結論を述べた。
    「わたしたちもワルラス卿に乗っかりましょう」
    「な、何っ!?」
     朔美は驚く篠原をなだめ、計画をそっと伝える。
    「ねえ、あなた。もしこのまま桂さまが主席になり、ワルラス卿の傀儡政治が始まったら、央南は滅茶苦茶になるわ。
     このまま桂さまを放っておく? それとも大義のために消す?」
     篠原はこの提案をすぐにはうなずけず、逡巡する。
    「む、う……」
     その戸惑いも見越していたらしく、朔美がたたみ掛ける。
    「そして、もう一つ考えがあるの。桂さまはあの通り、浮世離れした人よ。きっと天原家の財産も有効に使えずに食い潰してしまうわ。
     央南政治に深く関わり、長く良く治めてきた天原家の清浄な家督を、こんな馬鹿殿がでたらめに使って崩していくことを考えたら、もっと良識ある、大義ある人間が使った方が良くないかしら?」
    「それは、まあ、そうかも知れんが」
     篠原は朔美の論じていることが詭弁であると分かってはいても、反論できない。
    「分かるでしょ? このまま桂さまを放っていてはきっと、央南の汚点になるわ。だからわたしたちもワルラス卿の策略に加担して、桂さまを消しましょう。
     そしてゆくゆくは天原家の財産も吸い取って、わたしたちが取って代わりましょうよ」
    「……むう」
     反論したいが、篠原の弁舌では朔美に到底敵わない。篠原は結局、朔美の策に同意した。

    「桂さま……」「ひゃっ!?」
     篠原と朔美は、桂が研究室として使っている別宅に忍び込んだ。
    「だ、誰です!?」
     目を白黒させている桂に対し、篠原たちは静かに自己紹介を行う。
    「某、天原家隠密の篠原と申します。そしてこちらは、妻の朔美です」
    「はじめまして、桂さま」
     続いて二人は、篠が桂の調査を頼んでいたこと、そしてその関係でワルラス卿と密会したのを確認したことを説明した。
    「そ、そうですか。えっと、じゃあ、あの、僕のことを、母上に報告なさるんですか?」
    「その件で、お話にあがりました。
     忌憚無く意見いたしますが、恐らく数年のうちに篠さまは倒れ、あなたか、弟の櫟さまが次の当主になるでしょう」
    「ええ、まあ。多分そうなるでしょうね」
    「我々はそれを見越し、先んじて桂さまにお目通り願いたく参上いたしました」
     篠原の目的を聞いた桂はきょとんとする。
    「へ? えっと、じゃあ、母上が亡くなった後、僕の下に就いてくれる、と?」
    「その通りでございます」
     それを聞いて一瞬、桂の顔がほころぶが、すぐに曇る。
    「でも、無理ですよ。櫟の方が、政治に詳しいですし。人当たりもいいですから、間違いなく次の当主はあいつになります。僕に就いてくださっても、きっと無駄になっちゃいますよ」
    「ええ、皆そう思っているようです。同僚の藤川を筆頭として、彼の派閥は既に櫟さまに取り入っております」
     そこで朔美がうつむいた桂の横に立ち、やんわりと、しかし桂の不利をごまかすことなく、話を続ける。
    「でしょう? だから僕になんか……」「ですが、もしも櫟さまがいなくなれば一体、どうなるでしょうか?」
     桂は顔を上げ、目を見開く。
    「それは、どう言う……」「そのままの意味です。櫟さまには、いなくなっていただきましょう」



     それから数ヶ月が過ぎた頃、天原家で事件が起こった。
    「英心さん! 龍明さん! 櫟が、櫟がどこにもいないのです!」
    「な、何ですって!?」「それは一大事ですな、殿」
     驚き、二の句が告げない藤川に対し、篠原は平然を装って、篠に尋ねる。
    「確か今、櫟さまは天玄を出ておられると伺っておりますが」
    「ええ、ゆくゆくは私の後を継がせようと考え、央南各地を遊説させておりました。
     ですがつい先程、大月から『到着予定日を過ぎても一向に現れない』との連絡が入り、ここでようやく行方不明になったことが発覚しまして……」
    「じゃあ、大月へ行く途中で誘拐されたか、あるいは失踪したか……」
     藤川の顔色は真っ青になっている。
     その様子を横目で眺め、篠原は朔美が言っていたことを思い返す。
    (『藤川は既に櫟さまへ取り入っている』と言う話は確かなようだな)
    「何か手がかりは無いんですか?」
     その藤川の問いに、篠は力無く首を振って返す。
    「それが、まったく……。
     英心さんも、龍明さんも、急いで櫟の捜索を行ってください。もしあの子がいなくなれば、私は……!」
     そう言って、篠は顔を覆った。

    「ほ、本当に、やっちゃい、ました、ね」
     桂は始終、震えていた。
     目の前には袋を被せられ、その上から縄で幾重にも縛られた桂の弟、櫟が座っている。
    「うう、うー」
     櫟が何か言おうとしているが猿ぐつわを噛ませてあるため、彼はうなることしかできない。
    「藤川は大月への途上で誘拐されたと判断し、現在その方面を探し回っています。
     ここに櫟さまがいることには、まったく気付いていないかと」
     篠原の報告に桂は一瞬安心した表情を見せるが、すぐに不安な目つきで朔美に尋ねる。
    「そ、そうですか。……どうしましょう?」
    「どうしましょう、とは?」
    「櫟を、この後どうしておけばいいんでしょうか? このまま放っておくわけにも」
    「ああ、そうですね。それじゃ、殺しましょう」
    「ちょっ」「うぐっ!?」
     怯える桂と櫟を見て、朔美はクスクスと笑う。
    「嫌だ、と?」
    「そりゃそうですよ! じ、実の弟ですよ!?」
    「でも、このまま置いておくわけにも行きませんよ。殺すか、口を利けなくしないといけませんよ」
    「そ、そうですよね。
     ……じゃ、じゃあ。殺す代わりに、あの、実験台に……。それなら、殺すわけじゃないし、まだ、その方が……」
    「では、そうしましょう。ちなみに、どんな実験を?」
     桂はうつむきがちに、しかし――どこか楽しそうに、ぼそっと答えた。
    「に、人間を、その、人間以外の、……何て言うか、怪物にすると言うか、そんな実験です」

    蒼天剣・霊剣録 3

    2008.10.14.[Edit]
    晴奈の話、第113話。英岡妖狐事件の発端。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -3. 桂の監視を始めてから2ヶ月が経った頃、ようやく朔美は篠原に結論を述べた。「わたしたちもワルラス卿に乗っかりましょう」「な、何っ!?」 朔美は驚く篠原をなだめ、計画をそっと伝える。「ねえ、あなた。もしこのまま桂さまが主席になり、ワルラス卿の傀儡政治が始まったら、央南は滅茶苦茶になるわ。 このまま桂さまを放っておく? ...

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    晴奈の話、第114話。
    伏線の交差。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    4.
    「畜生、見つからねえ!」
     藤川とその手下たちは天玄から大月へと伸びる街道を何度も行き来し、櫟の行方を探り回っていた。
     しかし連日の捜査にもかかわらず、成果は一向に上がっていなかった。
    「見たってヤツはいねーのか?」
    「街道沿いの町村をしらみつぶしに当たってみましたが、それらしい報告は一件も……」
    「くそ……」
     手がかり一つ得られず、藤川は頭を抱えてうなる。
     手下たちは心配そうに、そんな藤川を見つめていた。
    「どうしましょう、お頭。このまま櫟さまがいなくなってしまうと……」
    「バカ言ってんじゃねえよ、まったく! そんな簡単に、いなくなられてたまっかよ。
     大月で見たって言う話も無かったのか?」
    「はい。見た者はいませんでした」
    「そうか。……もしかしたらよぉ」
     藤川はあごに手を当てて無精ひげをこすりつつ、推測を口に出す。
    「ハナっから大月にも、この街道にも来てねえのかも知れねえな」
    「と、言いますと?」
    「櫟坊ちゃんは天玄でかどわかされたかも知れねえ、ってことだ。一度天玄に戻って探してみようぜ」
    「承知!」
     藤川と手下たちは踵を返し、天玄へと戻っていった。



    「僕が今手がけている研究、最初はこの本がきっかけでした」
     そう言って桂は一冊の本を机に置いた。
    「これは?」
    「クリスとか言う『狐』の商人から買った本です。初めて読んだ時はドキドキが止まりませんでした、本当に。
     魔術、いや、錬金術の究極の夢が、具体的な形で描かれていたんですからね」
    「どう言う意味ですか?」
     朔美が尋ねた途端、桂の顔が非常に嬉しそうにほころぶ。
    「命を、命を創れるんですよ! 人形でも、そこらの木や岩でも、命を与えて人間にできるんです! 今までこの、究極の術を実現できた者は一人もいません!
     そう、あの『黒い悪魔』克大火でさえも! 彼にそんな伝説は一つも無いんですからね!」
     桂は上気した顔で、自分の発見を語る。
    「でもですね、カミサマが知らないような術だとは言え、やっぱり錬金術の原則『公平にして絶対』の、あの法則は成り立ってました。何かを代償にしないと、命を創れないんだそうです。
     その商人には義理の娘がいたんですが、何でも昔、どこかの古美術商が、その子を人形から創り上げたとか――その子が元は人形だったって証拠も、見せてもらいましたよ――でも、その古美術商は代償を定めなかったせいで、自分が人形になってしまい、死んでしまったとか。
     ともかく、この本は本物でした。試しにほら、このねずみを代償にして……」
     そう言って桂は、机に置いてあったねずみの置物を手に取る。
    「まあ、どう見てもこれは置物ですけど。でも、こっちを見てもらえば……」
     桂は一旦部屋から離れ、すぐに籠を持って戻ってきた。
    「……!」「うそ、そんな……」
    「元が懐中時計だったからでしょうか。この『ねずみ』、毎日きちっと同じ時間にエサをねだるんです。可愛いでしょ?」
     籠の中には鎖の尾を振りながらカチカチと音を立てる、真鍮色のねずみがちょこんと座っていた。
     驚く二人を見て、桂の魔術講義はいよいよ熱を帯び始める。
    「それで、他の術も色々試してみたんですけどね。これだけはまだ、試してなかったんですよ」
     桂が指し示した頁を見るが、篠原も朔美も、その内容が把握できない。
    「えっと……?」「何と書いてあるのです?」
    「ああ、すみません。えーとですね、そのまんま約すと『人間を人間から外す呪』」
    「……?」
     きょとんとする二人を見て、桂は嬉しそうに笑う。
    「簡単に言うと、人間を怪物に変える術、です」
    「それを、櫟さまに試すのですね」
    「……はい。殺すよりは、まだいいかなって」
     桂はまたうつむき――しかし、どこか嬉しそうな表情をして――本を手に取った。



    「お頭! やはり、櫟坊ちゃんは天玄でさらわれた可能性が高いようです。店や市場を探ったところ、行方不明になったと思われる日の前後、何人かに目撃されていました。
     その一方で、街の外で見たと言う者は一人も無く……」
     手下の報告を聞き、藤川は無精ひげを撫でながらため息を漏らす。
    「はー……。そっか、やっぱり俺の勘に間違いは無かったか。で、どの辺りで見かけたか、聞いてるか?」
    「はい。南区の赤鳥町で目撃されたのが、最後でした。恐らく、その近辺で行方不明になったものと」
    「よっしゃ! それじゃ全員戻ってきたところで、赤鳥町をしらみ潰しに探すぜ!」
    「承知! ……っと、もう戻ってきてますよ、お頭」
    「おう、そっか。
     ……全員って言やあ、篠原のヤツは何してやがんだ? 殿から俺と一緒に探すよう、命じられてたはずなんだがな」
     そう言って、藤川がイラついた様子を見せたところで――。
    「どうした、藤川?」
     その篠原が、ひょいと藤川たちの輪に割り込んできた。
    「あっ、篠原! てめえ、今まで何してやがったんだ!?」
    「お前たちこそ何をしている。往来でこんなに目立つ集まり方をして、隠密の自覚があるのか?」
    「そりゃこっちの台詞だ! 人が汗水垂らして方々探し回ってたってのに、今頃ノコノコ現れやがって」
     憮然とした顔をする藤川に、篠原は平然とこう返す。
    「我々は我々で、独自に探っていたのだ。なあ、朔美」
    「ええ、今の今まで、ずーっとね」
     篠原の後ろにいた朔美も、何事も無かったように答える。
     そんな二人に、藤川は左手をバタバタと振るいながら悪態をつく。
    「いけしゃあしゃあと、よくもまあ吹かしやがるぜ!
     まあいい、何か手がかりはあったりすんのか?」
    「ああ。この近辺で見たと言う話を、何件か聞いた」
    「そうかよ。まあ、そこら辺は俺たちと同等だな。じゃあ、手分けして探すぜ」
    「おう」
     藤川たちの捜査陣に篠原たちも加わり、数日間をかけて赤鳥町での捜索が行われた。



     だが、必死の捜索にもかかわらず、藤川たちは結局、櫟を見付けることはできなかった。ひどく落胆した藤川と篠に対し、篠原たちは表面上落ち込んだように見せかけつつも、内心では喜んでいた。
     いや――喜んだのは朔美と、桂だけである。篠原は己の主君を苦しめたことを、非常に後悔していた。

    蒼天剣・霊剣録 4

    2008.10.15.[Edit]
    晴奈の話、第114話。伏線の交差。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -4.「畜生、見つからねえ!」 藤川とその手下たちは天玄から大月へと伸びる街道を何度も行き来し、櫟の行方を探り回っていた。 しかし連日の捜査にもかかわらず、成果は一向に上がっていなかった。「見たってヤツはいねーのか?」「街道沿いの町村をしらみつぶしに当たってみましたが、それらしい報告は一件も……」「くそ……」 手がかり一つ得られず、藤...

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    晴奈の話、第115話。
    真実を告げる手紙。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    5.
     息子を失った心労からか、篠はがっくりと老け込み、健康を著しく損ねた。そして双月暦507年、失意のうちにこの世を去った。
     篠の存命中、篠の弟である椹(さわら)やその娘、棗などが当主になってはどうかとも提案されたが、どう言うわけか椹は篠が亡くなる2週間前に倒れ、棗もどこかへ雲隠れしてしまった。
     候補者が次々と消え、最後に残ったのは桂だけとなった。



    「ああ、ひでえ有様だ」
     主を失い、次の主君に就きそびれた藤川は、茫然自失の状態となっていた。
     かつては栄華を極めた家も、いつの間にか妻が去り、友人や手下も離れ、すっかり荒みきっていた。残っているのはわずかな金と刀、そして娘の霙子だけとなっていた。
    「くそ……、すまねえ、霙子。お父ちゃんのせいで、こんな苦しくて寒い思いをさせちまって」
    「ううん、いいの。へいきだよ」
     左手に抱える霙子の気遣いに、藤川は思わず涙がこぼれそうになる。
    「……っと、目にゴミ入っちまった。
     ま、しゃあねえか。6年前に逆戻りしたってだけだし、お前がいるだけ俺は幸せ者だ」
     藤川は霙子を抱き上げたまま、玄関に向かう。
    「一から出直しだ。付いてきてくれよ、霙子」
    「うんっ。
     ……あれ、お父ちゃん。おてがみ、とどいてるよ?」
     霙子が郵便受けからはみ出している、白い封筒に気が付く。
    「お? 霙子、ちっと降りてくれ」
    「はーい」
     霙子を腕から降ろし、封筒を手に取る。
    「……あー、と。霙子、封筒開けてくんねえかな。お父ちゃん、手が片方しかねえからよ」
    「はーい。……よいしょっ」
     霙子に封を切ってもらい、藤川は手紙に目を通す。
    「……!? 何だと……、いや……、まさか。しかし、それだと辻褄が合いやがる……」
     手紙を読み、藤川は愕然とする。
    「畜生……! もっと早く気が付きゃあ!」
    「お父ちゃん?」
    「……霙子、ちっとだけ、ここで待っててくんな。お父ちゃん、やんなきゃなんねえことができたからよ」
     藤川は霙子を玄関に待たせ、どこかへと走り去っていった。
    「お父ちゃん……」
     霙子は玄関に捨てられた手紙を手に取り、眺めた。
    「えっと、……かわ……こころさまへ。このようなおて……を……お……しすることをご……、わかんないや」



    「藤川英心様へ

     このようなお手紙を突然お渡しすることを、ご容赦ください。
     わたくしは常々、不安でなりませんでした。櫟おじ様がいなくなり、桂おじ様が増長された頃から、このようなことが起こるのではないかと危惧していたのです。

     先日、父が倒れたことはご存知かと思います。表向きには突然死としておりましたが、実は刀で斬られ、殺されたのです。父の体には手紙が添えられており、『この件を公表すれば、貴様らの命は無い』と書かれていたため、この件を伝えることができませんでした。

     そしてわたくしも、命を狙われております。ついこの前、突然黒ずくめの者たちに囲まれたのです。その際は偶然通りかかった、樫原と言う剣士様にお助けいただき、事無きを得たのですが、いつ何時、同じ目に遭うやも知れません。
     わたくしは樫原様の助言に従い、彼の故郷へと避難することにいたしました。

     わたくしはその黒ずくめの者が何者か、また、櫟おじ様を誘拐したのが何者か、知っているつもりです。
     これらは間違い無く、桂おじ様の仕業でしょう。桂おじ様が抱えている隠密たちがやったことだろうと、確信しております。

     藤川様も篠伯母様に就いていた隠密であると言うことは、重々承知しております。ですが、現在桂おじ様に就いてはいないと言うことも承知している故、このような手紙を出させていただきました。

     わたくしの父、そして櫟おじ様の仇を討って、とは申しません。できる限り早急に、その街を離れられた方がよろしいかと思われます。桂おじ様は間違いなく、篠伯母様の裏を知っている者たちを全員、消すおつもりです。
     娘様ともども、どうかご自愛なさるようお願い申し上げます。

    天原棗より」



    (棗嬢ちゃん、ありがとよ。間抜けな俺も、ようやくからくりが分かった。全部あの、篠原の大バカ野郎の仕業だったんだな。
     くそ……! 俺があいつを呼び込まなきゃ、こんなことにはならなかったってか!?)
     藤川は心中で己をなじりつつ、篠原の家へと向かった。
     だが、その途中で――。
    「藤川英心! 殿のご命令により、お命頂戴いたす!」
     篠原の放った隠密たちが、藤川の行く手を阻む。
    「うるせえ、雑魚どもがッ!」
     しかし片腕とは言え、一時は篠原と並び称された剣の達人である。音も無く刀を抜き、逆手に構え、風のように敵の間をすり抜ける。
    「ま、待て、……ぐはっ!?」
    「逃がすか、……ぎゃあっ!?」
     藤川が抜けた直後、敵はバタバタと倒れていく。
    (音も無く敵を討ち、妖怪や霊魂のごとく斬り進む、これぞ『霊剣』の極意なり、……ってな)
     その後も何度か篠原一派に遭ったが、どれも藤川の敵ではない。
     藤川は一直線に突き進み、ついに篠原の家に到着した。

    蒼天剣・霊剣録 5

    2008.10.16.[Edit]
    晴奈の話、第115話。真実を告げる手紙。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -5. 息子を失った心労からか、篠はがっくりと老け込み、健康を著しく損ねた。そして双月暦507年、失意のうちにこの世を去った。 篠の存命中、篠の弟である椹(さわら)やその娘、棗などが当主になってはどうかとも提案されたが、どう言うわけか椹は篠が亡くなる2週間前に倒れ、棗もどこかへ雲隠れしてしまった。 候補者が次々と消え、最後に...

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    晴奈の話、第116話。
    霊剣V.S.魔剣。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    「篠原ああッ! 出て来いやあああッ!」
     篠原の家に到着した藤川は、あらん限りの大声で篠原を呼んだ。
    「今、行く。……待っていろ」
     ぽつりと篠原の声が返ってくる。少しして玄関が開かれ、篠原と朔美が姿を見せる。
    「用件は、聞くまでも無いようだな。気付いたのだろう?」
    「ああ、そうだ。……イカれてんのか、てめえ」
     藤川は刀を向け、猛々しく怒鳴る。
    「家元に続いて、篠さまにまで謀反を起こすか、この狂人がッ!」
    「……結果として、そうなってしまったな」
    「何が『結果として』だ!? てめえが櫟坊ちゃんをさらったからこうなったんだろうがッ!」
    「……」
     篠原はうつむき、藤川から目をそらす。代わりに朔美が話し始めた。
    「藤川さん、どうか落ち着いて。これも天原家の、いいえ、央南のためを思ってやったことなのよ」
    「ああん?」
    「藤川さんも知っての通り、天原桂は政治家としては無能よ。でもわたしたちが桂を担ぎ上げることで、わたしたちは桂を、そして天原家、さらには央南政治をいいように操ることができる。その方が、桂が政治を執るよりどんなに……」「朔美ぃ」
     藤川の額に、青筋が走る。
    「それ以上、その良く回る口を開いてくれるなよ? でねーと、二度と閉じられないようにパックリさばくかも分からんぜ?」
     藤川は朔美を突き飛ばし、唾を吐きかける。
    「俺はこの外道と話をしてんだよ! 黙ってろ、雌猫がッ!」
    「……」
     真っ青になっている篠原に、藤川は畳み掛ける。
    「答えろよ、篠原。てめえ、天原家と焔流と俺の人生引っかき回して、何が面白えんだ?」
    「……」
    「大体、昔っからてめえはそうだった。自分ではお行儀が良くてよく気が付く、有能な人間だと思ってんだろうが、周りにとっちゃうっとうしい厄介者以外の何者でもねえんだよ。
     てめえがやってきたことはみんな俺たちの、俺の邪魔にしかなってねえんだよ! 焔流での謀反も、今回のことも、俺にとっちゃ腕を失い、塞を追い出され、主君を失ったって言う凶事中の大凶事だ!
     何が焔流のためだ! 何が央南のためだ! この疫病神め!」
    「……」
     返す言葉も無く、篠原は立ち尽くす。
     と、地面に倒れたままの朔美がぼそっとつぶやいた。
    「あなた、悩んでいらっしゃるのなら」
    「黙ってろって言っただろうが!」
     藤川が怒鳴るが、朔美は構わず言い切った。
    「悩ます人を消してしまえばいいじゃない」
    「……そうする、か」
     篠原は刀に手をかけた。藤川は一歩退き、篠原にもう一度怒鳴る。
    「篠原、てめえは使いっ走りかよ、その女の!」
     篠原は答えず、刀を抜く。
    「自分は悪くない、すべて朔美の指示通りにやっただけです、ってか! 大の男がそんな体たらくで、恥ずかしいたあ思わねえのか!?
     てめえはもう、侍でも剣士でもねえ! 俺が成敗してやらあ!」
     藤川も刀を構え、互いににらみ合った。

     正直なところ、篠原の心は相当参っていた。刀を構え、藤川と対峙するも、心の中は千々に乱れていた。
    (何故……、何故こんなことになっているのだ)
     藤川がゆらりと動き、篠原に迫る。
    (待て、藤川……)
     基本的に、藤川の動きは非常にゆっくりとしたものだが、何故か攻撃の瞬間だけが、目で追えない。
    (こいつの言う通りだ……。俺のやってきたことは何だったのだ?)
     それでも何とか太刀筋を読み、藤川の攻撃を弾く。
    「チッ……! 頭ン中は腐ってるくせして、剣の腕は衰えてねえってか!」
    (思えば俺はひたすら、朔美に踊らされている。家元に反逆したのも、天原家を混乱させたのも、すべて朔美の意志であり、俺のものでは無い)
     また、藤川の動きがつかめなくなる。はっと気が付いた時には、篠原の額から血がダラダラと流れ出していた。
    (俺は、俺は……、何をしているのだ? 一体、何がしたい?)
    「オラッ!」
     藤川がまた刀を振るう。何とか受けるが、篠原の体勢は大きく崩れた。
    (しまった……!)
     藤川がここで、刀を順手に持ち帰る。勝機と見て、とどめを刺すつもりらしい。
    「往生しやがれッ!」
     篠原はこれまでかと覚悟し、藤川が振り上げた刀を凝視していた。

     だが――藤川は刀を振り上げたまま、静止する。
    「……?」
    「て、めえ、この……」
     藤川がかすれた声で何かを言おうとしたが、言葉は途中から血の塊に変わった。
     そのまま藤川のひざががくりと落ち、背中に何かが刺さっているのが見えた。
    「……朔美?」
     二人の後方にいた朔美が、手を伸ばしている。もう一方の手には、長細い投擲武器――苦無が握られている。
    「危ないところだったわね、あなた」
    「とことん……、腐りやがったな……、後ろから襲わせるか……」
     倒れた藤川が、息も絶え絶えに非難する。
    「ち、違う……」「自分は関係、ありません、ってか……?」
     うろたえた篠原を見て、藤川は最期の力を振り絞ってなじる。
    「もう、てめえはおしまいだ……。己の、腕一つで、勝負が付けらんねえ。付く前に、誰かに、助けを、出されちまうほど、情けなく映ったって、こった……。
     改めて、言うぜ……。てめえは、もう、侍、でも、剣士でも、……無い」
     篠原は何も言えず、ただボタボタと汗を流し、棒立ちになっている。それを見ていた朔美が、冷たく言い放つ。
    「まだ息があるわ。とどめを刺してちょうだい、あなた」
     その言葉を聞いた篠原の、最後の良心が揺れる。
    (まただ……! また、朔美は俺を操ろうとしている! いかん! ここでまた言いなりになっては……)「言いなりになってはいかん、と?」「……!」
     朔美は篠原の動揺を見抜き、淡々と言い放つ。
    「ねえ、あなた。生きることは苦しいわよね。何故、苦しいんだと思う?」
    「な、何を……?」
    「自分の行動に、責任が伴うからよ。
     今日やったことが、明日誰かに非難されるかも知れない。そう考えただけで、大抵の人は今日の行いを悩むわ。
     でも、誰にも非難されないと分かっていれば、悩むかしら?」
    「朔美、一体……」
    「それなら、話は簡単じゃない。
     あなたが今、苦しんでいるのは、藤川が責任を追及しているから。そうじゃない? でも彼がいなくなったら、もう苦しまずに済むわよ」
    「う、う……」
    「篠原、聞くな……、そんな、下劣な屁理屈を、納得しちまったら、もはや……」
     死の淵にいる藤川が説得するが、朔美は無視して続ける。
    「これからも、そうしていけばいい。
     苦しいのなら、その苦しみを消せばいいのよ。そうすればずっと、楽でいられるのよ」
    「……」
     篠原はぶるぶると震えながら、いつの間にか落としていた刀を拾う。藤川はそれを見上げ、今にも消え入りそうな声でつぶやいた。
    「もはや、人ですらねえよ……。飼われた獣だ、てめえは」
     篠原は刀を構え、勢い良く振り下ろした。



     いつまで経っても父が帰ってこないため、霙子はべそをかき始めていた。
    「ひっく、ひっく……、お父ちゃん、まだぁ……?」
     がらんとした玄関に、夕日が差し込んでいる。と、その光が2つの影にさえぎられる。
    「……お父ちゃん?」
     霙子が顔を上げると、そこには父の友人だった篠原夫妻が立っていた。夕日を背にし、二人の顔は良く見えないが、声で彼らだと分かる。
    「霙子ちゃん、お待たせ」
     猫獣人の影が、優しげな声で自分を呼ぶ。
    「おばちゃん、お父ちゃんは?」
    「ちょっと、遠いところへ行かなきゃならなくなったの。しばらく、わたしたちと一緒にいてちょうだい」
    「え……?」
    「すまない……」
     今度は非常に疲れきった、低い男の声。霙子は何かあったのだろうと、直感で分かった。しかし何があったのか、聞くことはできなかった。
     二人が死神のように、真っ黒に染まって見えたからだ。

     それからの9年間、篠原一派は天原桂とワルラス卿の背後で暗躍し続けた。
     家督と政治地盤を継いだ桂を央南連合の主席に就かせるために、連合の議員たちをそれと分からない形で足止めし、主席に納まった後もなお、傀儡政治を持続させるために画策した。
     こうして央南連合は9年に渡り、政治腐敗に冒された。

    蒼天剣・霊剣録 6

    2008.10.17.[Edit]
    晴奈の話、第116話。霊剣V.S.魔剣。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -「篠原ああッ! 出て来いやあああッ!」 篠原の家に到着した藤川は、あらん限りの大声で篠原を呼んだ。「今、行く。……待っていろ」 ぽつりと篠原の声が返ってくる。少しして玄関が開かれ、篠原と朔美が姿を見せる。「用件は、聞くまでも無いようだな。気付いたのだろう?」「ああ、そうだ。……イカれてんのか、てめえ」 藤川は刀を向け、猛々しく怒鳴...

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    晴奈の話、第117話。
    人間の証明。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    7.
     いつの間にか雨がやみ、白い満月が雲の切れ間から顔をのぞかせる。
     エルスの頭も、ようやく冷え切った。
    「っと、流石にやり過ぎたか。生きてるかな?」
     エルスはぬかるんだ地面に突っ伏した朔美を、少し離れたところから確認する。朔美の半身が沈んでいる泥水が、わずかに波打っているのが見て取れた。
    「生きてる、生きてる。……でも、まだもう一頑張りしなきゃいけない、かな」
     エルスは上を向き、声をかける。
    「そこのお嬢さん。いくらなんでもそこまで殺気を放たれると、スニーキングも何もあったもんじゃないと思うんだけど」
     次の瞬間、月を背にして黒い影が飛び出し、エルスの目の前に降り立った。現れたのは鋭い目をした、短耳の少女だった。
    「あなた、名前は?」
    「人に名前を聞く前に、自分の名前を名乗るのが央南の礼儀じゃ無かったかな?」
     エルスがそう言うと、少女は素直に頭を下げた。
    「ごめんなさい。あたしは篠原、……ううん、藤川霙子」
    「エーコちゃん、か。僕はエルス・グラッドだ。
     その台詞から察するに、君が放っていた殺気は僕に対するものじゃなく、サクミさんに対するものなのかな?」
    「何でそう思ったの?」
     にらむ霙子に、エルスはにこっと笑って返した。
    「紅蓮塞って言うところで調べ物をしていて、今君が名乗った二つの苗字を聞いたんだ。だから、二人の関係が深いことは知っていたんだ。
     で、シノハラとサクミさんが率いている集団の中に、フジカワの姓を名乗る君がいた。これだけで想像力豊かな人なら、気付きもするさ。
     大方、シノハラとサクミさんがフジカワさんを殺して、その娘だった君を養女にした。君はその事件を知っていて、ずっと復讐の機会を狙ってた、……ってところじゃないかな」
     霙子はエルスの顔をじっと見つめ、クスクスと笑い出した。
    「あなた、面白い人ね。……正解。あたしも直接見たわけじゃないけど、間違い無くこの女はお父ちゃん……、藤川英心を殺しているわ。
     お父ちゃんに宛てられた手紙があって、あたしはその手紙を読めるようになるまで、大事にとっておいたの。それで読んでみて、やっぱりって思った。幸いにも、こいつらはあたしが何も知らないと思って、隠密の訓練をつけてくれた。
     あたしはいつか、その技を使って殺してやろうと狙っていたのよ」
     霙子の独白を聞いたエルスは、ポリポリと頭をかいている。
    「そっか。うーん、でも……」
     エルスは霙子の横を通り過ぎ、倒れたままの朔美に近寄る。
    「一応、生かしておかなきゃ。シノハラの急所は間違い無く、この人だし」
    「そうね。確かにそいつはお頭、篠原を操ってきた黒幕。こいつが死ねばきっと、篠原一派はガタガタになるわ」
    「うん、そうだろうね。でも生かしておきたいんだ。色々聞きたいこともあるし」
     エルスはそう言ってチラ、と門の外を見る。
    「後、すごく気になってることがある。門前に異常なほど、人がいない。共倒れになったにしても、死体が無いのはおかしい。
     君たちが連れ去ったのかな?」
    「そうよ。元々から、そう言う計画だったのよ。
     教団員は囮。最初からこの東門に兵士たちを集め、一網打尽にするつもりだったの。常々手を焼いていた手練たちを捕まえて、あなたたちの兵力を一挙に落すのが、ワルラス卿の狙いだった。
     でも、殿の考えは少し違う。教団員も焔剣士も一緒くたにして、自分の実験材料にしようとしているの。強い肉体であればあるほど、実験も成功しやすいらしいから。教団員の中にも、実験の素材になりそうな人は一杯いたし」
     計画を聞いたエルスは苦笑し、腕を組んでうなる。
    「うーん、思っていた以上の狂人ぶりだなぁ。それは一刻も早く、助け出さないといけない」
    「そうね。……良かったら、案内したげよっか?」
    「いいの?」
     思いもよらない提案にエルスは驚いたが、しかしすぐ、その言葉の裏を読む。
    「条件とかある感じかな」
    「ええ」
    「でもサクミさんを殺すって言うのは却下」
     にべも無いエルスの態度に、霙子はむくれる。
    「何でよ? 聞きたいことって、東門のことじゃないの? 教えたじゃない」
    「それだけじゃないし、そう言う問題じゃない」
     エルスは優しく、ポンポンと霙子の頭を撫でる。
    「いいかい、エーコちゃん。彼女を殺したら、君は彼らと同じ地獄に落ちちゃうよ」
    「わけ分かんない。ともかく、あたしはこいつらが許せないのよ。だから殺すの」
     霙子は朔美を指差し、にらむ。
     エルスは依然、笑みを浮かべながら、彼女をやんわりと諭す。
    「親の仇だからって自分勝手に殺しちゃ、必ずどこからか恨みを買うよ」
    「そんなの構いやしないわ」
     霙子の頑固な反応に、エルスは軽くため息をつく。
    「そこだよ、地獄に落ちるって言ってるのは。
     彼らは主君や自分の欲望に任せて人を傷つけた。これは悪いことだって誰もが分かることだし、だから君は許せない。
     だけど同じように、君の欲望に任せて彼らを殺すことは、それとどう違うの?」
    「それ、は……」
     エルスは霙子の頭から手を離し、優しく笑いかける。
    「知恵と理性を持つ真っ当な人間なんだから、欲望や抑圧に負けて、道を踏み外しちゃいけない。道を踏み外せばその末路は、ここで泥まみれになってるこの人みたいになる。
     君は、この人と同じ目に遭いたい? この人みたいになりたいの?」
    「……」
     霙子は応えず、ただ目の前に倒れたままの朔美を見つめていた。

    蒼天剣・霊剣録 7

    2008.10.18.[Edit]
    晴奈の話、第117話。人間の証明。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -7. いつの間にか雨がやみ、白い満月が雲の切れ間から顔をのぞかせる。 エルスの頭も、ようやく冷え切った。「っと、流石にやり過ぎたか。生きてるかな?」 エルスはぬかるんだ地面に突っ伏した朔美を、少し離れたところから確認する。朔美の半身が沈んでいる泥水が、わずかに波打っているのが見て取れた。「生きてる、生きてる。……でも、まだもう一頑...

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    晴奈の話、第118話。
    晴奈とウィルバーの共闘。

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    8.
    「……い! おい! 起きろ、セイナ!」
     誰かが体をゆすっている。晴奈は重たいまぶたをこじ開け、その相手を見た。
    「……うう、ん、ウィルバー? ……ウィルバーだと!?」
    「お、ようやく起きた。早いとこ脱出するぜ、ホラ!」
     ウィルバーが無理矢理に、晴奈の腕を引っ張る。
    「何をする! 離せ、無礼者!」
    「目、覚ませって! 早いとこ脱出しねーと、俺たち細切れに解剖されちまうぞ!」
    「……? 何を言って……」
     尋ねようとしたところで、記憶が断片的に蘇ってくる。
    「……む? 確か、私は天玄で、お前と戦っていたはず」
    「そーそー、そうだよ。んで、いきなり誰かが『ショックビート』使って横槍入れやがったんだよ。だからオレたちは気を失って、ここまで運ばれてきたんだ」
    「そう、か。……解剖と言うのは、一体何のことだ?」「しっ」
     ウィルバーが何かに気付き、慌てて晴奈の口を押さえる。晴奈はウィルバーの手をはがそうとしたが、とても真剣な目つきだったため、素直に手を止めた。
     と、二人がいた部屋に薄い光が差し込む。そしてドサドサと言う音と共に、十数名の人間が放り込まれた。
    「はい、次」
    「はいよ」
     少し間を置いて、また人が放り込まれる。光が弱くてよく分からないが、どうやら東門で戦っていた教団員と剣士、そして連合軍の兵士のようだ。
    「後いくつ残ってたっけ」
    「2台分」
     光の向こう側から、ボソボソと声が聞こえてくる。やがて光は途切れ、晴奈とウィルバーはふたたび薄闇の中に取り残された。
     ウィルバーはそろそろと手を離し、状況を説明する。
    「さっきから何度か、あーやって人が運ばれて来るんだ。お前はついさっき運ばれてきた」
    「そうか。彼奴らは一体、何者だ?」
    「アマハラ大司祭の抱えてる隠密部隊だ。会話を聞いたところでは、どうやらオレたちはヤツの実験台にさせられるらしい」
    「実験台だと!?」
    「バカ、声でけえよ!」
     ウィルバーはもう一度、晴奈の口を押さえた。
    「ともかくだ。ここでぼんやり寝転んでたら、明日には紫色に光る標本にでもされかねない。次に人が運ばれてくる前に、急いで脱出しようぜ」
     晴奈はコクコクとうなずき承知した。ウィルバーがもう一度手を離したところで、晴奈が質問する。
    「他の者たちは?」
    「助ける余裕は無い。ともかく、オレたちが脱出するのが最優先だ」
    「何だと?」
    「落ち着けって。いくらなんでも、このまんま見捨てるつもりはねーよ。これでもオレは、こいつらを率いる役目に就いてんだからな。
     まず、第一にやらなきゃならないのは、オレたちが先に出て、こいつらを助け出せる手段を確保することだ。そうだろ?」
    「そう言うことならば、まあ、良しとしようか。……む、刀が」
     晴奈は腰に手を当て、自分の武器が奪われているのに気付いた。
    「まあ、当然っちゃ当然だろ。無力化しなきゃ集めた意味ねーからな。しばらくは素手で行動しなきゃならねーけど、ま、セイナなら大丈夫だろ」
    「馴れ馴れしく呼ぶな。私とお前は敵同士だぞ」
     憮然とする晴奈に、ウィルバーは軽口を叩く。
    「何ならオレのこと、ウィルって呼んでいいぜ。オレの愛称だ」
    「何を馬鹿な。脱出するのに協力し合うのはやぶさかではない。だが、馴れ合う必要など無いだろう」
    「へーへー、お堅いこって」
     ウィルバーは両手を挙げ、静かに部屋の壁を探り始めた。
    「……ここだ。ここが、さっき開いてたところだな。……外に人はいないみたいだ。セイナ、蹴破るぜ」
    「承知した」
     晴奈とウィルバーは同時に扉を蹴る。
     二、三度蹴りつけたところでミシミシと音を立て、扉が破れた。
    「よし、急いで出るぞ!」「おう!」
     人がいないのをもう一度確認し、晴奈たちは廊下を走った。

     しばらく黙っていた霙子が、不意に口を開く。
    「……エルスさん。この女、どうするの?」
    「とりあえず、牢に入れる。それから尋問するつもりだよ。彼女には要人暗殺やその教唆、央南連合転覆の謀議など、かなりの重犯罪容疑がある。
     確定すれば、確実に終身刑だろうね」
    「そう。……じゃあ、それでもいいかな」
     霙子はエルスの手を取り、ぎゅっと握りしめる。
    「条件、ちょっと変えるわ。こいつだけじゃなく、篠原龍明も牢にぶち込んで。約束すれば、教えたげる」
    「そのつもりだよ。……じゃあ、案内してもらおうかな」
     エルスは優しく笑いかけ、もう一度霙子の頭を撫でた。

     天原の隠れ家から少し離れた、天神湖のほとり。
     ボロボロの外套をまとった狐獣人がくんくんと鼻を鳴らす。
    「……間違い無いね。かなり濃い魔力を感じるね。かなり大規模に、魔術実験を行っているみたいだね。ようやくあの本を見つけられる、かねぇ?」
     狐獣人は拳を握りしめ、ぽつりとつぶやいた。
    「待っててね、雪花。必ずあの本、持って帰ってあげるからね」
     狐獣人の姿をしたモールは、その魔力源へと向かった。



     天原を狙い、様々な人間がその場に集まっていく。決戦の時は、近付いていた。

    蒼天剣・霊剣録 終

    蒼天剣・霊剣録 8

    2008.10.19.[Edit]
    晴奈の話、第118話。晴奈とウィルバーの共闘。- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -8.「……い! おい! 起きろ、セイナ!」 誰かが体をゆすっている。晴奈は重たいまぶたをこじ開け、その相手を見た。「……うう、ん、ウィルバー? ……ウィルバーだと!?」「お、ようやく起きた。早いとこ脱出するぜ、ホラ!」 ウィルバーが無理矢理に、晴奈の腕を引っ張る。「何をする! 離せ、無礼者!」「目、覚ませって! 早いとこ脱...

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