この人の閾(いき)

この人の閾 (新潮文庫)

この人の閾 (新潮文庫)

表題作。作家保坂和志が95年に芥川賞を受賞した小説。
とりたてて筋というほどのものはない。
勤め人らしい三十七歳の「ぼく」は、所用で訪れた小田原で急に時間が空いてしまい、同地に住んでいるひとつ年上で大学時代に映画のサークルで一緒だった「真紀さん」という女性の家を訪ねてみることにする。「真紀さん」は会社員の夫と子ども二人、それに大きくて気のいい犬と、わりに大きな家で暮らす専業主婦だ。十年ぶりぐらいに会う「真紀さん」は、「おばさん」になったようでもあるが、学生時代の雰囲気を残してもいると、「ぼく」は感じる。
平日の午後だったので夫は仕事に行っていておらず、「ぼく」は「真紀さん」を手伝って庭の草むしりをしたり、学校から帰ってきた男の子の相手をしたりしながら、かつての同級生たちの近況や「真紀さん」の家庭生活に関して断片的な会話を重ねていく。
「真紀さん」は家事の合間に一年に百五十本ほどの映画をレンタルビデオで見ていると言い、すごく長い小説や哲学の本をゆっくりと読みすすめて日々を送っている。
学生の頃から「勝負がつくまで動かされない駒でいたい」と考えながらいつしか駒のように動いてしまっている自分や、仕事の虫であるらしい「真紀さん」の夫などの生き様(だがはっきりと「真紀さん」はそんな夫への愛を口にする)と比べて、そんな「真紀さん」の人生の時間の過ごし方に、「ぼく」は魅力的なものを感じる。

真紀さんのいる場所はいまのこの自分の家庭の中心ではなく、家庭の"構成員"のそれぞれのタイムスケジュールの隙間のようなところで、それでは"中心"はどこにあるかといえばたぶんそんなものはない。子育てというか子どもの教育を中心においてしまうような主婦もいるが、真紀さんの場合どうもそれもなくて、たとえばモンドリアンの絵のように色分けした画面分割だけの絵や、誰の絵か忘れたがふわっと彩色されたキャンバスの上で何本もの斜線が交差しあっているような絵を、ぼくはそのとき想像した。(65ページ)

そんなゆっくりと時間の流れる日常のなかで「真紀さん」は膨大な量の本を読み、映画を見、そしてものを考えていくのだが、そうして蓄積された知識や感想や思想のようなものは、文章や言葉の形をとることはなく、だから『結局誰も知ることなく真紀さんと一緒に消えていく』のだと思い、「ぼく」はあまりにもったいないような気がして、『せめてそういう人がいることが知られるぐらいのことがあってもいいんじゃないか』(70ページ)と考える。
だが「真紀さん」はそれに対して、イルカやクジラのような何かを作ったり書いたりしないタイプの知能を発達させてきた動物の知能の世界に関して人間は類推したりはできないはずだと言い、『はじめに言葉があった』という聖書のなかの言葉を引いて、そこから逆に導き出されてくる真理のようにして、次のような考えを述べる。

「――だから言葉が届かないところっていうのは"闇"なのよね。そういう"闇"っていうのは、そこに何かがあるんだとしても、もういい悪いじゃないのよね。何もないのと限りなく同じなのよね」(75ページ)

「ぼく」はこの言葉の意味がわかりにくく、もう一度彼女が言ったことをたどりなおして、こう整理する。

言葉がない、つまり言語化されなければ人間にはそこに何があるかわからない。何かがあっても人間には理解できない。言葉が届かないということは、何もない状態と限りなく同じである(76ページ)

そんな深い考えを口にする「真紀さん」に、「ぼく」は「普遍的な母親」の像を重ねもする。
小説の結びでたまたま奈良を訪れた「ぼく」は、ただ夏草だけが生えている何もない平城京跡の空間にかつての都の人々のざわめきが聞き取れるように感じて、「真紀さん」のことをふと思い浮かべる。


この小説のタイトルになっている「閾」とは、言葉と闇との間にあるものと考えていいだろうか。その「閾」よりも低い位置にある闇に関して、われわれ言葉を持つ者は、何かを語ったり類推したりする権利や能力を持つのか、ということがここでの問いであろう。
だが、言葉を持つ者が発するこうした問いが、闇の神秘化という権力的な事態(闇の抑圧)をもたらさないでいることは難しい。
この作品の最後が、失われた都という権力的なイメージの召喚で終わっているところに、この作家のきわめて優れた自己批評の知性を見るべきだろう。


短い作品を、何日もかかって細切れに読んだ。
読みながら思ったことのひとつは、これはチェーホフが書きそうな話ではないだろうか、ということだ。
ぼくはチェーホフという作家の作品を、じつは読んだことがないのだが、漠然とそう思った。チェーホフも保坂和志も、これからさらに色々と読んでみたいものである。