猫に時間の流れる

猫に時間の流れる (中公文庫)

猫に時間の流れる (中公文庫)

あることがきっかけでぼくは猫とつきあうようになったのだが、猫、とくにノラ猫をみているうちに、彼らの生きる現実というのは可能性の海にぽつんと浮かび出たとても見つけにくい孤島だという感じを持つようになった。彼らの生きる現実は、こちらが思い描くいくつもの想像や推察の一つとしか交わらないし、交わりそびれることもいくらでもあるからだ。死んだ人間が残すわからなさは、動物の場合には生きているあいだもつねにあるというのが、「猫に時間の流れる」を書いた動機になっている。(「あとがき――説明と記憶――」から)


保坂和志には、猫を題材にした小説が多いのだが、そこで書かれているのは猫を拾って飼ったり、野良猫にエサをあげたりする人間の側の心理であって、猫の内面ではない(「明け方の猫」は、例外にみえるが、これは猫になった夢を見ている人間の話という設定になっている)。猫の内面については、作家はたったひとつのことしか書いていない。要するに、最終的に人間には分からないということだ。
「猫に時間の流れる」に出てくる、次の一文はたいへん印象的である。

猫を室内で飼うのを猫に対する拘束と思うかどうかも多分に心情的な問題で、猫に野生だとか人間からの馴致されがたさを見ようとするのは、猫の持っているいくつもある性質のうちのたった一つを強調することにしかならない。(29ページ)


ここにみられるのは、人間の「想像や推察」のなかに猫というものたちを回収し同一化してしまうことへの、峻烈な拒否の態度だ。この同一化のひとつのやり方が、「野性」という概念だ、というわけである。
「野性」という人間の枠組みには関係なく、動物(猫)は動物であって、それはわれわれには理解しがたいものである、というのが保坂の態度だ。そういう存在とどのように付き合うかということを、彼の「猫小説」は書いているわけである。


この小説で、ほかに気になったところを引用してみる。
語り手である「ぼく」は、本作の主人公ともいえる「クロシロ」という猫のテリトリーを主張する行動が「プログラミングの拘束」によるものであり、それは主体の意志による決定と「あまり関係がない」という点で、人間の恋愛も同様ではないか、と考える。
ここまではよく目にする見解だが、その先にこんなことが書いてある。

ぼくには恋愛をプログラミングにちかい拘束と思う気持ちがだんだんと強くなってきていたのだが、外を歩いている猫を見て、その猫のことが気にかかったり、猫のからだつきや仕草をかわいいと思ったりするのは恋愛や性の感情とはずいぶん違っている。(43ページ)


それは、特に昂揚感を伴なわず、たとえば海を眺めているときの感情のようなものだ、と書いてある。
この作家が、特に関心を持っている事柄のひとつは、「感情」というもの、従来の(あえて、近代的な、という言葉を使いたい)プログラミングのされ方以外の、感情の形成の方法について考えようとしている、みたいな印象を受ける。実際はどうかわからないが。
人間が猫を育てていくときの、猫の内面に生じているであろう「感情の形成」の過程について書かれた、次のような部分は、ぼくにはたいへん気になる。

しかしそれにしても猫をやさしく呼んでおいてひっぱたくというようなことは論外で、そんなことをしたら猫だって犬だって子どもだって、あるいは大人だって人間を信じなくなる。だから猫をちゃんとかわいがっている飼い主だったら多少の差はあっても猫の経験することを整然としたものにしようとしているはずで、複雑にしようとはしない。(中略)
これが性格以前の一定の感情の形成というもののはずで、チイチイやパキの場合には一度芽生えた欲求がどんどん膨らんでいくのにも空振りした欲求が萎んでいくのにも秩序がある。(59〜60ページ)


こうした育てる側が提供する秩序も、野性(自然)が与える秩序も存在しなければ、感情は形成されない。感情が形成されなかった内面というものはどうなるのか、という疑問が生じる。
人間は自然に代わって、プログラミング(秩序化)を行う存在たりうるか、という一般的な問題が、ここから見えてくるだろう。
自然という自明性が失われつつある時代においては、「性格」ではなく、「感情の形成」こそが重要であるという考えはよく分かるのだが、ぼくにはどこかに抵抗感が残る。