2025-07-28

自由とは、関係性に縛られないこと。関係性の奴隷=NPC

自分意志」なるものがすでに無数の関係性により構成されており、その意志自体が拘束であることに気づいていないのだ。

関係性の海に生まれ落ち、関係性の地図の上で思考構成する。

人間関係も、好みも、恐れも、忠誠も、すべては関係性の座標系に書き込まれた行動原理にすぎない。

そしてその座標系に従って行動するということは、言い換えれば、行動が予測可能であるということだ。

予測可能である存在。それはすなわち、NPCである

NPCには物語がある。役割がある。信用も、地位も、場合によっては名声すらある。

彼らは「関係性を前提にした行動」を忠実に実行するからこそ、人々の期待を裏切らずに済む。

からこそ、好かれ、重宝され、システムの中で評価される。有名人とは、関係性の奴隷であることに最も成功したNPCのことだ。

あなたが「Aが好きだ」と言うとき、それは単なる嗜好ではない。Aを好きであるという自己定義を前提に、自分を一貫させなければならなくなる。

それがコミュニティにおけるアイデンティティとなり、他者記憶に定着し、それによって行動が固定される。やがて「Aが好きであるあなた」というラベルあなたを拘束しはじめるのだ。

では、「自由」とは何か。

自由とは、関係性を前提にした行動を裏切る余裕である

フォロワーを獲得し、ファンとの関係性が形成されたSNSアカウントを、ある日何の予告もなく削除すること。

長年勤めた企業に一片の感傷もなく辞表を出すこと。

友人の期待や恋人感情を裏切ってでも、自らの関係性の座標系をリセットすること。

その余白、裏切る余裕が残されているか否かこそが自由の有無を決定する。

だが、もちろん問題はある。社会関係性の上に築かれている。

責任も、信頼も、道徳も、すべては関係だ。

関係をすべて断ち切る自由は、裏を返せば、信用を失う危険と常に隣り合わせだ。

そこには孤独がある。信頼なき存在に、情報も、リソースも、機会も与えられないのが社会である

したがって、真の自由を獲得するには、一つの覚悟必要だ。

「裏切る自由を維持するために孤独を選べる自分」を保持し続ける覚悟である

自由とは、関係性にしがみつくことを常に拒否できるという、構造上の「逃走線」を内在させておくことだ。

この逃走線が存在する限り、人間はまだNPCになりきっていない。

この逃走線が失われたときあなたはもはやシステムの一部でしかない。

それが、関係性に縛られるということの本質である

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