開発決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 02:57 UTC 版)
この時期、ハワード・ヒューズの運営する航空機製造会社であるヒューズ航空機(以下、ヒューズ社と略す)は、双発爆撃機であるD-2 (Hughes D-2) が製造段階に入っており、余裕があったことから、ヒューズ社にいた航空技術者であるグレン・オデカーク(英語版)は「カイザーの飛行艇はどうか」とヒューズに進言していた。 当初、ヒューズはこの大型飛行艇には否定的であったといわれているが、ヒューズ社ではD-2を製造していたものの、この機体が陸軍に採用されるかどうかはまだ決まっておらず、もし不採用となった場合はヒューズ社の業務はなくなる。単に業務を維持するだけであれば、他社の下請けなどを受注することも出来たが、ヒューズの性格から考えて、世間が驚くものである必要があった。そもそも、ヒューズ社はヒューズが自分の飛行機を作らせるために設立した会社で、金儲けのために設立した会社ではなかったため、従業員の仕事が確保されれば構わないと考えられた。また、後にプラット・アンド・ホイットニー R-4360となる、空冷四重星型28気筒の3000馬力級エンジンの実現に対して、ヒューズなりの自信を抱いたためであるとも推測されている。 1942年8月にカイザーはヒューズと相談した上で、開発をヒューズが行なった上で量産化はカイザーが担当することになり、同年10月までに計画案と図面・仕様書を全て提出し、同年11月16日に正式契約となった。この時の計画では、兵士なら750名、M4中戦車なら2台を搭載でき、巡航速度時速330キロメートルで飛行できることになっていた。 カイザーとヒューズが契約した相手は、海軍や陸軍ではなく、国防工場公社と称する戦時生産局の下部組織であった。前述の通り、軍部は飛行艇計画には反対という意見であったため、軍が直接かかわるのを避けるため、本来は軍需工場への融資や工場自体のリースを行なう機関が契約することになったものである。この飛行艇はヒューズとカイザーの頭文字をとって「HK-1」と命名された。軍用名称がなかったのは、このような経緯により軍が開発を担当しなかったことによるものである。 契約金額は当時の金額で1800万ドルで、強度テスト機の納入が1943年12月、飛行テスト機の納入は1944年5月という書類はあったものの、契約書には納入期日は記されていなかった。当初のカイザーの計画では10ヶ月で完成となっていたが、それは誰の目にも非現実的な数字であることは明らかであった。しかし、あまり先の日付にすると計画自体の意義が問われることになるためにこのような日程になったものの、努力目標として設定することで契約書に明記されることを拒んだと推測されている。 なお、HK-1の開発にあたっては、いくつかの条件が課せられていた。 まず、構造に対して金属の使用は不可とされた。前述の通り、軍部としてはHK-1の計画に反対であったことや、この飛行艇1機で戦闘機100機分のアルミニウム合金が消費されることになるため、航空機の主要材料であるアルミニウム合金の供給不足が懸念されたためであるが、軍部が望む航空機であればこのような条件は課せられなかったと推測されている。 また、技術者の他社からの引き抜きは禁止された。この時期、無闇な技術者の引き抜きは、生産の阻害になる可能性もあるということで各メーカーに自粛するよう通達が出されていたが、カイザー・ヒューズに対してははっきりと禁止された。 そして、海軍や陸軍からの支援はなかった。国の発注によるものなので、教えや援助を請われて断るようなことはなかったと推定されているが、表立った支援は行なわれなかった。
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