鎌倉時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 21:04 UTC 版)
中原氏の嫡流は、明経道(儒学の研究)を家学とし、広澄流清原氏と共に明経博士の家柄として家学を相承した。系統としては、氏祖有象の子の致時の次男の師任から続く家系である。なお、氏(うじ)全体の当主は、藤原氏・源氏・橘氏・王氏などでは氏長者と言われるが、他氏では氏長者制度は顕著ではなかった。 平安時代から鎌倉時代にかけては、後発の清原氏よりも明経道の官職における勢力が強かった。平安時代の明経博士は中原氏から15人、清原氏から6人で、鎌倉時代は中原氏から12人、清原氏から9人である。その一方で、清原氏からは高倉院の侍読を務めた清原頼業など皇室に直接近づく者も現れ、その点では一歩先んじられていた。学問のほか、事務系の官職も担当し、平安時代中期から、清原氏と共に外記(朝廷の書記・事務方)の首座である局務を世襲した。さらに、鎌倉時代以降、局務は穀倉院別当の官職を兼ねるのを慣例とした。 第5代当主の大外記中原師遠は、天永2年(1111年)に記録荘園券契所の寄人(職員)に任じられ、白河上皇のもと訴訟制度の拡充に関わった。第6代当主の師元は、関白藤原忠実が語る故実・故事談を記録した『中外抄』を著し、『古事談』『続古事談』などを通して、後世の説話文学に無視できない影響を与えた。第9代当主の中原師季は掃部頭となり、以降、掃部頭は中原氏嫡流が兼ねる慣例となった。 鎌倉時代末期の1320年代には、中原師夏が、儒学の研究に励む花園上皇に抜擢され、『礼記』『毛詩』を講義した(『花園天皇宸記』)。元亨2年(1322年)12月には、当時、明経道の儒家が天皇の侍読を務めるのはまれであったが、花園上皇は後伏見上皇に数度かけあってまで師夏を自身の侍読に登用した。
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