航空兵器総局
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1943年11月1日、軍需省航空兵器総局総務局長。航空兵器総局の立ち上げにおいて長官の人選を陸海軍が争い、大西は同格で陸軍の遠藤三郎陸軍中将に長官を譲ったため陸軍は大将を出すと騒いだが、大西は気にしないと言い、遠藤は大西に心服した。この頃大西は、日本海軍の作戦指導を「子どもが風船玉をふくらましすぎて、とうとうパンクさせたような無定見な作戦だ」「なんとかしてこの風船を縮小しなければいかん」と評しており、戦線の縮小を主張するようになっていた。大西は戦死した連合艦隊司令長官山本を敬愛していたが、大西が反対したのにも関わらず、山本の強い意志で強行された真珠湾攻撃や、その後のミッドウェー海戦、ソロモン、ニューギニア方面作戦をすべて落第と考えていたとする意見もある。 大西は軍務に役立つと思えば、相手の身分・素性に関係なく話を聞き、仕事を請け負わせたとする意見もある。大西は、航空機増産のための資源確保に児玉誉士夫が設立した「児玉機関」を活用した。児玉機関は大西の前任となる山縣正郷中将のときから、中国大陸で、航空機製造に不可欠な、棉花、銅、ヒマシ油、雲母などを集めて海軍航空本部に送り続けていたが、大西が後任として着任するとその関係はさらに強まったとする意見もある。大西は児玉を将官待遇とすると、国内のタングステン鉱などのレアメタル鉱山の採掘も任せている。その様子を見て他の海軍将官らは「いかものばかり集めて得意になっている」などと眉をひそめたが、大西に重用された民間人らは「(大西は)まるで西郷隆盛か清水次郎長だ」と慕って、大西の仕事を助け、人間的な交流も深めている。 1944年6月、マリアナ沖海戦の敗北直後、サイパン確保のために、米機動部隊に対する陸海による全力の片道攻撃を行う意見書を遠藤とともに提出したが、認められなかった。大西らは「サイパンを放棄すれば日本の国防は成りたたない」と主張した。大本営の意思が放棄に傾くと、6月25日大西は昭和天皇に直訴しようとしたが、周囲に妨害された。大西は海軍大臣嶋田繁太郎大将が軍令部総長を兼任しているのを解いて、嶋田海相・末次信正総長・多田武雄次官・大西次長という人事の「出師の表」をつくって嶋田に提出した。遠藤三郎陸軍中将は、大西にフィリピン転出の命令が出たとき「出師の表」を思い出し、親補による栄転の形だが、東條英機らが追い出したと考えたという。 東條内閣が倒れた後、大西は軍令部次長になりたいと意見書を提出し、嶋田の後任となった米内光政海軍大臣に航空部隊再建を説いて願い出た。米内はそれを了解したが、大艦巨砲主義者の反対にあい、約束は守らなかった。 この頃、大西の下には、特攻を求める意見が集まっていた。 1943年6月29日、城英一郎大佐から敵艦船に対し特攻を行う特殊航空隊編成の構想が大西に上申された。その際大西は「意見は了解したがまだその時期ではない」と答えた。しかし、日本軍がマリアナ沖海戦に敗れると、再び城は大西に特攻隊編成を電報で意見具申した。また、岡村基春大佐からも大西に特攻機の開発、特攻隊編成の要望があった252空舟木忠夫司令も体当たり攻撃以外空母への有効な攻撃はないと大西に訴えた。桑原虎雄中将によれば、大西は岡村大佐らの建策を支持し、嶋田軍令部総長に、ぜひとも採用しなさいと進言していたが、軍令部はなかなか採用しなかったという。大西もこの頃「なんとか意義のある戦いをさせてやりたい、それには体当たりしかない」「もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた。1944年7月1日、航空兵器総務局で作成した航空機生産計画には増産の重点を戦闘機とし全て爆装を付すことを決めた。 7月19日、新聞の取材に「われに飛行機という武器があり、敵空母を発見したら空母をB29を見つけたらB29を悉く体当たりで屠りさればよいのだ。体当たりの決意さえあれば勝利は絶対にわれに在る。量の相違など問題ではない。」と語った。特攻兵器桜花についても賛意を示していた。
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