聖別
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聖別(せいべつ、ギリシア語: ἁγιασμός, 英語: consecration)は、カトリックや聖公会などで使用される神学用語。正教会では成聖(せいせい)という。
西方教会
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聖別とは、人や物、とくに礼拝で使用する器具などを聖なるものとして、他の被造物と別のものとすることである。通常は司教(主教)や司祭などの聖職者の祈りによって聖別を行なう。聖別されたものは、聖別解除がなされるまでは宗教上用いる聖なるものとされ、他の目的に使用することはできないとされている。
カトリック教会における聖別
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聖公会における聖別
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聖公会においては大きく分けて3つの聖別がある。聖体の聖別、聖職者の聖別、ものの聖別である。いずれも物質(人)を神に仕えるために用いるために、聖なるものとする行為である。中でも、聖餐式中の聖体の聖別は最も重要な秘蹟(サクラメント)の1つとされているため、器具の聖別とは同列に扱うことは出来ない。
聖体の聖別
聖餐式において、聖体の感謝聖別が行なわれる。パンと赤葡萄酒は、聖別を受けた後は、キリストの肉と血へと変化し聖体となる。礼拝に参加している信徒はこれを拝領することになる。
聖餐式の中では、イエスが聖体を制定した聖書の故事を元にした式文が読み上げられる。このとき、司式者(主教・司祭)は式文を唱えながらパンを裂き、ぶどう酒の入ったチャリス(杯)と共に掲げる。聖別後は、パンとぶどう酒は聖体に変化しているため、粗末に扱って汚聖することは許されない。そのため、司式者は信者の聖体拝領後にパンを裂いたときの屑を、チャリスに入れる。また、チャリスの上で指先を洗い、指先についた粉もチャリスの中に入れて、残ったぶどう酒と共に飲み干す事になっている。
聖餐式以外では、病床にある人のために聖体を聖堂外に持ち出すこともあるが、ブレッドボックスなどの専用のケースに納められ、紛失、汚損がないようにしなければならない。
聖職者の聖別
聖職の任命式である主教按手、司祭按手、執事按手の中で聖職者の頭に手を置き、聖霊を注ぐことによって聖別が行なわれる。これらの按手はカトリックで言う叙階の秘蹟に相当するものである。
按手は堅信式においても行なわれるが、この場合は聖別とは言わない。また、伝道師は認可されるが聖別はされない。聖婚式などで祝福を受けることもあるが、これも祝福・祝別であって聖別とは区別されている。
建造物・器具の聖別
祈祷書中には礼拝堂聖別式の式文がある。礼拝堂を聖別することが出来るのは原則として主教だけである。礼拝堂内の器具については、洗礼盤、聖書台、説教壇が奉献されるのに対し、礼拝堂そのものと、聖体聖別が行なわれる聖卓だけは聖別されることになっている。
聖別された礼拝堂を取り壊すためには聖別解除を行なわなければならない。
東方教会
正教会における成聖
正教会において、成聖(「聖なるものと成す」の意)とは、神とのつながりを回復することを指す。物品の神とのつながりを回復することを指して成聖とすることの他[1]、人が成聖されることについても概念が存在し[2]、聖人は神から与えられた賜物をもって成聖を成し遂げた者とも位置づけられる[3]。
正教会には成聖者という聖人の称号があるが、これは主教であった聖人に対する称号となっている。
物品を成聖する際には
成聖の対象となる物品には、聖堂・聖器物・祭服・イコン・十字架といった奉神礼に使用するものだけでなく、パスハ・クリーチ・イースターエッグ・パン・葡萄酒・油といった食品や、土地建物といった不動産、自動車などの乗り物、果物など、日常生活に密着したものまで様々なものが含まれる[1]。
聖水式は水が成聖される奉神礼であり、この時成聖された聖水が、成聖を行う成聖式において、祈祷が行われるとともに対象となる物品に振りかけられる[4]。成聖式は、七件機密には数えられていない。
脚注
関連項目
外部リンク
聖別
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1951年4月12日,ローマ教皇庁は笵学淹神父を保定教区司教に任命した。6月24日(聖ヨハネ誕生の祝日)に、笵学淹神父は漢口聖若瑟司教座堂で祝聖を受けて、教皇庁、教皇に絶対の服従と死んでも中国を離れず、自分の教区を離れないことを誓った。 保定教区は周済世司教が1946年に江西省南昌教区の大司教に挙げられて以来、既に5年近く司教職の欠員があった。笵学淹司教は着任してから、保定教区の麻痺して数年になる教区体制を回復を講じた。 1958年初春、笵学淹司教は保定天主教愛国会の準備会議で教宗からの離脱を目ざした“三自愛国運動”に反対し、同年5月,政府の周到に計画した批判闘争大会で批判され、労働改造十年の判決を受けた。そして黄驊県労改農場と安新県大坨子労改廠で刑に服した。これとと同時に、天主教愛国会は已に司祭職を離れて数年になり、妻子のいた王其威が笵学淹的司教の職位を引き継ぎ、並びに獻県教区の趙振聲により祝聖されたが、この任命は未だに教皇庁の認可を受けてはいない。1969年年末、笵学淹司教の刑は満期になり釈放されて原籍の小望亭村に戻ったが、「黒四類」とされ続けて監視を受け、毎日煩雑な体力のいる労働に従事し、それは11時間の長さに達した。 1976年、教皇パウロ6世は自ら筆をとり笵学淹司教に手紙を送り、彼に対する配慮と慰め、賞賛と祝福を示した。1977年11月、笵学淹司教は因為受到教皇の賞賛を受けたことにより、政府の怒りを招き、再び拘束された。1978年4月15日、“笵学淹をリーダーとする天主教反革命集団」という罪名で再び逮捕された。 1980年1月4日、中国の政局は既に大きな変化が起こり、この時の笵学淹の件の再審結果では無罪という判決で釈放された。1月20日、笵学淹司教は南大冉看守所から釈放され、原籍の小望亭に戻った。1月26日、彼は労働改造を解除されたばかりの元保定教区神父である姬永賢、曲警鳳をそれぞれ徐水縣安家荘、墳台、椿木峪、師荘の村と清苑県東閭村等の地へ派遣し、天主教愛国会に参加したことのある神父を多くの信徒の面前で罪を悔い改めるようにした。 1981年1月1日,笵学淹司教は徐水県安荘村の熱心な青年安樹新学識の不足を顧みずに彼を司祭に叙階し、同年の枝の主日には、笵学淹司教は将清苑県田各荘村のサレジオ会修道士蘇志民も司祭に叙階した。笵学淹司教は「現階段で我々は完璧な修道院を持つことは出来ず、我々の神父も聖トマスと同じように学問を究めることは出来ない。だが、我々の司祭は皆聖ヴィアンネのような聖徳を備えている。知識は最重要なものではなく、ただ德行が首位を占めるのである」とした。笵学淹司教は「知識が足りなくても、叙階された神父はまだ再び学べるが、品行方面では曖昧であってはならない。これはその時代とその特殊な環境下の召命に関わる指導原則である。この後、正定教区神父である賈治国、易県教区神父の周善夫と天水教区神父の王彌祿をそれぞれ正定教区、易県教区と天水教区の司教に聖別した。並びに賈司教に趙県教区の閔神父を司教聖別するのを託した。連絡が不便なため、笵学淹司教の行動はローマ教皇には指示を請わず、事の後に自分で私的に司教を聖別した事情を教皇庁に報告し、処分を受けるという意思を示した。教皇ヨハネ・パウロ2世は笵学淹司教を処分しなかったばかりか、書簡で笵学淹に特権を授け、「一切の事は、貴方が先に処理を決め、その後に私に取りまとめて報告すればいい」。この後、河北省の地下カトリック教会は迅速に拡大し、1995年末までに河北省の地下司教は累計で27名(その内の13名は故人)に達した。愛国会がコントロールする自選自聖の非合法の司教は僅か10名(その内2名は故人)であった。地下カトリック教会は保定、張家口、石家莊、邢臺、邯鄲5市の大部分の聖堂を押さえ、その配下または影響下にある信徒は150万人以上に達する。 1982年4月13日、笵学淹司教は司教を聖別して[[教皇]に手紙を書いて指示を願ったことにより、三度目の捕逮をされた。そして「裏で外国と通じ、私的に司教を聖別した」という罪で十年の刑の判決を受け、河北省第二監獄で刑に服した。 1987年11月17日,政府は国際社会の世論に迫られ、81歲の笵学淹司教を仮釈放して彼を保定市の旧道大堂に軟禁した。 1988年1月3日,笵学淹司教は一人の来訪者に天主教愛国会に関する問題の問答を《十三条》に整理して回答し、中国カトリック教会內では地下教会だけでなく広く伝わり、各地の信者はしきりに答え、“愛国会”に抵抗する波は次第に高まっていった。彼は愛国会の神父は分裂した教会ですでに神権を失っており、カトリック信徒は愛国会の神父が司式するミサに参加せず、彼らに対して聖体拝領をしてはならないとした。その影響を受け、甘肅平涼教区の馬驥司教も《我的声明》を発表し、これも中国カトリック教徒の間で騒動になった。 1989年11月20日、中国大陸カトリック教会の各地の忠実な司教と司教代表は陝西省の三原教区高陵県張二冊村にこぞって集まり、秘密裏に会議を開き、成立「完全に教皇の指導を受け入れ、そのカトリック教会との徹底した一致を維持する“中国大陸司教団”が成立し、当時笵学淹司教は軟禁されており、自らは出席出来なかったが、教区長一致の推挙で、笵学淹司教を初代団長に選出した。笵学淹司教は公然と地下カトリック教会の指導者となった。 “中国大陸司教団”の成立は,中国政府を震撼させた。由於笵学淹司教的強大影響力,1990年11月3日,笵学淹司教は保定の司教館から政府により秘密裏に連れ去られ、石家莊の烈士陵園內に一ヶ月滞在した後、密かに河北省承德寬城県潘家ダム內の一小島に押し込められた。1992年4月、84歲の笵学淹司教は中国共産党当局から残酷な仕打ちを受け、過酷な仕打ちと飢えの後,終にその命を神に捧げ、中国大陸の偉大な殉教者となった。1992年4月13日、当局は大勢の公安武装警察を動員して、緑色のビニール袋の中に笵学淹司教の亡骸を入れて河北清苑県小望亭聖堂の入り口に放置した。司教の死体は痩せ衰え、目は窪み、血の跡だらけの傷痕に覆われ、顔は悲しみを帯び、正視するのに忍びなかった。数日の內に、15万人が全国各地から尊敬すべき笵学淹司教を弔問に来た。4月24日午後になって埋葬し、有4万名の信徒が埋葬を見送った。 この後に保定教区の司教を引き継いだ蘇志民と安樹新も相次いで東閭大教難の期間に逮捕されている。
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