第2事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 01:27 UTC 版)
ヌオン・チア(元人民評議会議長)、キュー・サムファン(元国家幹部会議長)、イエン・サリ(元副首相)、イエン・シリト(元社会問題相)の4人に対する裁判。 前述のとおり、共同検察官は、2007年7月18日、上記4人とカン・ケク・イウについて司法捜査開始の申立てを行ったが、共同捜査判事は、同年9月19日、ヌオン・チアに対する司法捜査開始と同時に、S21を中心とする第1事件とカンボジア全土に広がる事実を扱う第2事件とを分離することを決定した。 4人は、2010年9月15日、共同捜査判事の捜査終結宣言により起訴された。これに対して4人とも抗告したが、公判前裁判部は、2011年1月13日、起訴の判断を是認(一部変更)し、4被告人は公判廷に送られることとなった。起訴の理由は、人道に対する罪、1949年のジュネーヴ諸条約の重大な違反、ジェノサイド、1956年カンボジア刑事法典における殺人・拷問・宗教的迫害の罪である。対象となる公訴事実は、主に、(1)3度にわたる強制移住、(2)集団農場の設置・運営、(3)収容所及び処刑場での悪分子最教育と「敵」の抹殺、(4)チャム族、ベトナム人、仏教徒など特定集団に対する犯罪行為、(5)結婚の管理の5点である。 2011年6月27日、冒頭審問が行われて公判が開始し、現在第一審に係属中である。4人とも無罪を主張している。同年9月、第一審裁判部は、判決までの時間を短縮するため、第2事件をいくつかのセグメントに分離して順次審理・判決を行うことを決定し、最初のセグメントとしては強制移住に関する審理から開始することとした。 第2事件のうち最初の審理は、案件002/01で、国民の強制移住(フェーズ1・2)とその際に発生した犯罪(フェーズ1は、1975年4月17日のプノンペン市民の強制退去、フェーズ2は、1975年9月から1977年までに行われた全国規模でのカンボジア国民の強制移動を扱う)、およびトゥオル・ポ・チュレイでの旧ロン・ノル政権の幹部処刑に関する案件である。第2事件に関する2番目の審理002/02では、チャム族およびベトナム人に対するジェノサイド(ただし、ベトナム領内での犯罪は除外)、カンボジア全土で行われた強制結婚・強姦、仏教徒に対する処置(ただし、トラム・コク人民公社で発生したものに限定)、国内粛清、旧クメール共和国の公務員の処置(ただし、トラム・コク人民公社、1月1日ダム作業所、S-21.クライン・タ・チャン収容所に限定)、収容所4ヶ所(S-21, クライン・タ・チャン収容所、オー・カンセン収容所、プノム・クラオル収容所)、労働作業所3ヶ所(1月1日ダム作業所、コンポン・チュナン空港設営作業所、トラペアン・トゥマのダム作業所)、トラム・コク人民公社が審理される。 同年11月21日からイエン・シリトを除く3名について検察側の冒頭陳述によって本格審理が始まり、22日にはヌオン・チア、23日にはイエン・サリ、キュー・サムファンが反論に立った。12月5日から証拠調べが行われる。イエン・シリトについては、11月17日、認知症により公判に耐えられないとして第一審裁判部により釈放が命じられたが、検察官が異議申立てを検討している。 2014年8月現在、第2事件のうち最初の審理002/01は第1審が終了している。002/01に関して、2014年8月7日に第1審の判決が出され、ヌオン・チア、キュー・サムファン両被告に終身刑が下された。 2016年11月23日、上訴審でヌオン・チア、キュー・サムファン両被告の人道に対する罪において終身刑が確定した。「ジェノサイドの罪」に関しては、2017年現在も裁判が続いている。 ヌオン・チア 詳細は「ヌオン・チア」を参照 別名「ブラザー・ナンバー2」と呼ばれ、カンプチア共産党副書記長、党常務委員会委員、民主カンプチア人民評議会議長などを務めた。1998年に王国政府に投降し、フン・セン首相の恩赦を受けて釈放され、パイリン近郊の自宅で暮らしていた が、2007年9月19日に逮捕され、同日、捜査判事が司法捜査開始・勾留を決定した。 2019年8月4日にプノンペンの病院で死去。 キュー・サムファン 詳細は「キュー・サムファン」を参照 1975年、民主カンプチアの国家幹部会議長(国家元首)に任命され、1987年にポル・ポトがクメール・ルージュ党首を退いた後はこれを引き継いだ。1998年にヌオン・チアとともに投降後、パイリンで暮らしていた が、2007年11月19日逮捕され、同日、捜査判事が司法捜査開始・勾留を決定した。 2004年、著書『カンボジア現代史と、私の下した決断の裏にある理由』の中で、ポル・ポト政権下の惨劇については何も知らなかったと弁明しているほか、これまでのインタビューでも、大量虐殺への関与を否認している。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 勾留審問に出廷するイエン・サリ(2010年1月) 訴訟能力に関する予備審問に出廷するイエン・シリト(2011年8月) イエン・サリ 詳細は「イエン・サリ」を参照 1975年から外交担当副首相を務めたほか、カンプチア共産党常務委員会委員・中央委員会委員を務めた。ポル・ポトの義理の兄弟で、「ブラザー・ナンバー3」と呼ばれた。1979年、政権崩壊とともにタイへ逃亡し、同年行われたカンボジア人民革命評議会のプノンペン特別市法廷では欠席のまま死刑を宣告された。1996年8月、カンボジア国王令で1979年の有罪判決についての特赦及びクメール・ルージュ非合法化法(1994年制定)に関する訴追免除を受けるのと引換えに、部下数千人を引き連れて投降した。以後プノンペンで暮らしていた が、2007年11月12日に逮捕され、同月14日に勾留決定された。 1996年の国王令による恩赦の効力については、特別法廷によって判断されるべき問題として、裁判手続に持ち越すことが国連とカンボジア政府の協定で合意されている。 2013年3月14日、プノンペンで死去。 イエン・シリト 詳細は「イエン・シリト」を参照 イエン・サリの妻。また、ポル・ポトの最初の妻キュー・ポナリーの妹である。民主カンプチア政権で社会問題相を務めた。1998年にイエン・サリが国王の恩赦を受けて投降してからは、ともにプノンペンで暮らしていたが、2007年11月12日、サリとともに逮捕された。2012年9月13日、特別法廷は、認知症の進行を理由に釈放を認めた。 2015年8月22日、カンボジア西部のパイリンで死去。
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