江戸・明治時代
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江戸時代には書院造に室町中期に発生した茶室建築の要素を取り入れた数奇屋風書院造が造り出された。そこには格式にこだわらず、丸太を使い竹を多用し土壁を見せ、ときにしゃれたディテールも見せる、自由で豊かな表現が見られる。こうした数寄屋風書院は明治以降さらに洗練の度合いを増し、昭和初期に至ってついに単なる茶座敷を超えた数寄屋建築を完成させる。 庶民の住宅においても、名主相当の有力者の場合、代官を自宅に迎えるため、接客用の土地や部屋に書院造の要素である長押や、床の間、書院などの座敷飾りが取り入れられた。明治以降には、庶民住宅にも取り入れられたが、なお床の間のある座敷は一種特別な部屋であり、家主の家族であっても普段は立ち入れない場所であることがあった。現代に至り和風建築は急速に衰退し一室も和室を設けない建築も当たり前となっている。
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江戸・明治時代
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「大村藩」も参照 喜前ははじめ、ドン・サンチョという洗礼名を持つキリシタンであったが、慶長7年(1602年)に加藤清正の勧めを受けて日蓮宗に改宗し、キリシタンを弾圧した。そのため元和2年(1616年)にキリシタンによって毒殺されたともいう。その後も若年で亡くなる当主が多かったが、当時禁止されていた末期養子を二度迎えることに成功し、藩の存続を勝ち取った。 明治維新期にはいち早く官軍派となり、藩主大村純熈は破格の賞典禄 3万石を受けている。1884年(明治17年)、当主大村純雄は子爵に列せられ、次いで1891年(明治24年)には維新の功により伯爵に陞爵した。
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江戸・明治時代
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江戸幕府では、戦国大名時代に徳川氏の傘下に入った海賊衆を起源として、船手頭に率いられた水軍が設置されていた。これはもともと軍事組織だったものの、大坂の陣以降は実戦参加の機会もなく、1635年の武家諸法度の改正による大船建造の禁の発効によって外洋行動能力を喪失し、近世後期の段階では実効的な戦闘能力を失って、実質的には水上警察となっていた。 その後、黒船来航を受けて、横浜では1855年より御用船10隻による洋上警戒が開始されており、1859年に横浜港が開港すると、幕府は警吏として上番、下番及び同心を置いて警戒勤務に充当した。外国船の出入港増加を受けて、明治維新後の1873年には、邏卒20名を港邏卒とし、巡邏船を備えて、港内の巡回警邏にあたった。 また東京港でも、1877年2月、海軍省と三菱汽船から乗員ごと借りうける形で、蒸気船2隻が東京警視本署に配備された。これが東京の警察が専用船を配備した初の例であったが、翌月には仁風丸と明快丸という中古船2隻の取得に成功したことから、最初の2隻は早々に所有者に返還された。しかし仁風丸は老朽化が深刻でわずか1年で廃船となったことから、蒸気船は明快丸の1隻のみとなった。1877年には端艇4隻も配備されていたことから、これらは汽船の補助として活躍した。1879年には京橋区に水上警察署(後の東京水上警察署)も設置され、蒸気船2隻と端艇8隻が配備された。 当時、警察用の蒸気船は巡邏船と称されており、船体には黒と赤の横線が入れられていた。当時、警察が消防を兼任しており、専用の消防艇は配備されていなかったことから、船火事の消火活動にもあたっていた。1885年、警視庁待望の初の新造巡邏船として、石川島造船所で第一号明快丸が竣工した。また1887年には、緒明造船所で第二号明快丸が竣工し、これによって、1隻で孤軍奮闘していた初代の明快丸はやっと除籍となった。これら2隻の明快丸は警察艇の主力として活躍したものの、第一号明快丸は1910年、第二号明快丸は1907年に、いずれも台風の水害警戒中の事故で失なわれた。
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