水戸藩への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 03:50 UTC 版)
藩創設以来、水戸藩では藩主に忠実な改革派(尊皇攘夷派)と、幕府との関係を重視する保守門閥派(諸生党)との対立が激しかったが、密勅への対応を巡り、改革派の中でも、密勅の通りに勅書を諸藩に廻達すべきとする、家老武田耕雲斎を中心とした尊攘激派(後の天狗党)と、勅書は朝廷又は幕府に返納すべきとする、會澤正志斎を中心とした尊攘鎮派とに分裂して激しく対立し、三巴の混沌とした藩状のまま明治維新を迎えることとなる。 幕府は水戸藩に対し勅書の諸藩への回送取り止めを命じた上、勅書そのものの朝廷への返納を求めたが、勅書返納に反対する激派の藩士や領民は安政5年9月と安政6年5月に小金宿に集結し、勅書の返納を阻止するため気勢を挙げ、これに対して慶篤は家老大場弥右衛門、郡奉行金子孫二郎らを派遣して鎮撫に努めたが、抑え切れる状況ではなかった。 安政6年8月27日(1859年9月23日)、幕府は、密勅は天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、密勅降下に関わったとして家老安嶋帯刀を切腹、奥祐筆茅根伊予之介、京都留守居役鵜飼吉左衛門を斬首、京都留守居役助役同幸吉を獄門、勘定奉行鮎沢伊太夫を遠島とし、斉昭は水戸での永蟄居、慶篤は差控とした(安政の大獄)。 同年12月に幕府が朝廷に働きかけ、水戸藩に対し勅書を幕府に返納する事を命じ、水戸藩内では返納論が主流となっていたが、激派は水戸街道の長岡宿に集結し街道を封鎖して勅書の返納を実力阻止しようとした。勅書は歴代藩主の廟内で厳重に保管され、翌安政7年2月に勅書返納が正式に決まるが、城下で激派と鎮派が斬り合いとなる騒ぎが起こったり、斎藤留次郎が返納反対を訴えて水戸城内で切腹するなどの混乱があったりして返納は延期となった。長岡宿に屯集する激派に対して武力鎮圧する動きが起こると、激派の一部は脱藩して江戸へ向かい、安政7年3月3日(1860年3月24日)に井伊大老を襲撃することとなる(桜田門外の変)。変後の混乱により返納問題はうやむやとなり、勅書は水戸に留められた。
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