水戸藩仕官とは? わかりやすく解説

水戸藩仕官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 00:14 UTC 版)

海保帆平」の記事における「水戸藩仕官」の解説

水戸藩仕官するについて、水戸藩内の推薦者藤田東湖とする説と、藩主徳川斉昭側近だった戸田忠敞という説がある。忠敞と東湖水戸の両田といわれ斉昭の股肱の臣だった。 忠敞は天保10年1839年)藩の若年寄となり、天保11年1840年)には執政昇進するとともに当時造営進んでいた藩校弘道館造営責任者となっていた。彼はまた玄武館とも縁が深く、その門弟リスト彼の名前が載っている(同名だった彼の息子かもしれないが)。天保11年1840年秋には兄左次馬国詰めとなっており、連絡は帆平の叔母婿で江戸詰木村衛門経由して行われた海保側はいったん承知した後断るという事態が生じ一筋縄ではいかなかった。結局水戸側の好意的申し出ほだされて仕官することになった背景には、徳川斉昭安中藩主、板倉勝明話し合いがもたれ安中藩としては泣く泣く有能な剣士手放すかたちとなった水戸藩の公式資料水府系纂によれば天保12年1841年1月からの採用だが、先方からの申し出で11年中に来ればその年の俸給を出すということになっていた。また、仕官後の禄高について藩からの支給50石であるが忠敞が自分禄高から50石を割いて上乗せするとの約束出発した。これがいつまで続いたかは詳らかでない。剣術師範として採用されたなどともいわれるがとくにそういった言葉使われていない水戸藩主天下副将軍などといわれたが、幕末当時の藩内は抗争絶え間がなかった。そもそも斉昭襲封の前には、世継のいない病弱な藩主徳川斉脩のあとを、徳川将軍家から養子迎えて便宜受けようとする門閥派と英名高い弟斉昭をいただいて改革図ろうとする改革派分かれて激しく争われ、これが後々まで糸を引いた藤田東湖戸田忠敞改革派指導者格だった。さらに、安政5年1858年)に、朝廷から国内体制立て直し努力せよという趣旨勅諚直接水戸藩に下ると、幕府指示に従って返上すべしという鎮派とこれを奉じていくべしとの激派に改革派分裂して抗争はさらに激しくなった。後の桜田門外の変天狗党の乱は激派の動き発展した結果である。門閥派、鎮派、激派の抗争明治維新後まで続き水戸藩疲弊原因となった

※この「水戸藩仕官」の解説は、「海保帆平」の解説の一部です。
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