水戸藩仕官
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水戸藩に仕官するについて、水戸藩内の推薦者を藤田東湖とする説と、藩主徳川斉昭の側近だった戸田忠敞という説がある。忠敞と東湖は水戸の両田といわれ斉昭の股肱の臣だった。 忠敞は天保10年(1839年)藩の若年寄となり、天保11年(1840年)には執政に昇進するとともに、当時造営が進んでいた藩校弘道館の造営責任者となっていた。彼はまた玄武館とも縁が深く、その門弟リストに彼の名前が載っている(同名だった彼の息子かもしれないが)。天保11年(1840年)秋には兄左次馬は国詰めとなっており、連絡は帆平の叔母婿で江戸詰の木村益衛門を経由して行われた。海保側はいったん承知した後断るという事態が生じ一筋縄ではいかなかった。結局、水戸側の好意的申し出にほだされて仕官することになった。背景には、徳川斉昭と安中藩主、板倉勝明と話し合いがもたれ安中藩としては泣く泣く有能な剣士を手放すかたちとなった。 水戸藩の公式資料『水府系纂』によれば天保12年(1841年)1月からの採用だが、先方からの申し出では11年中に来ればその年の俸給を出すということになっていた。また、仕官後の禄高について藩からの支給は50石であるが忠敞が自分の禄高から50石を割いて上乗せするとの約束で出発した。これがいつまで続いたかは詳らかでない。剣術師範として採用されたなどともいわれるがとくにそういった言葉は使われていない。 水戸藩主は天下の副将軍などといわれたが、幕末当時の藩内は抗争の絶え間がなかった。そもそも斉昭襲封の前には、世継のいない病弱な前藩主徳川斉脩のあとを、徳川将軍家から養子を迎えて便宜を受けようとする門閥派と英名高い弟斉昭をいただいて改革を図ろうとする改革派に分かれて激しく争われ、これが後々まで糸を引いた。藤田東湖や戸田忠敞は改革派の指導者格だった。さらに、安政5年(1858年)に、朝廷から国内体制の立て直しに努力せよという趣旨の勅諚が直接水戸藩に下ると、幕府の指示に従って返上すべしという鎮派とこれを奉じていくべしとの激派に改革派が分裂して抗争はさらに激しくなった。後の桜田門外の変や天狗党の乱は激派の動きが発展した結果である。門閥派、鎮派、激派の抗争は明治維新後まで続き、水戸藩疲弊の原因となった。
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