水戸藩出仕
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元禄2年(1689年)今井元昌が水戸藩に出仕したのに続き、元禄4年(1691年)9月15日佐々宗淳の推薦で水戸藩彰考館右筆となり、『大日本史』編纂に加わり、六国史を講読した。元禄8年(1695年)12月26日大番組に入った。 元禄9年(1696年)9月5日から11月5日まで西山荘で徳川光圀に近侍し、『洪武正韻』研究を命じられ、『洪武聚分韻』編纂に着手した。 元禄11年(1698年)1月25日水戸彰考館設置に伴い水戸に赴任し、元禄12年(1699年)7月28日総裁となった。元禄13年(1700年)12月1日小納戸役。同月光圀が死去し、元禄14年(1701年)『義公行実』編纂に関わった。元禄15年(1702年)11月通称を彦左衛門から彦大夫に改めた。 宝永4年(1707年)2月28日江戸彰考館総裁となり、宝永5年(1708年)1月11日小姓頭を兼ねた。宝永7年(1710年)9月徳川綱吉死去を受けて常憲院霊廟の銅灯を手配した。正徳元年(1711年)朝鮮通信使の応接に関わった。正徳5年(1715年)『大日本史』本紀・列伝が完成すると、志類と本紀・列伝続編(北朝分)の編纂を建白したが、打越樸斎・神代鶴洞・藤田東湖等の反対に遭った。
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水戸藩出仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 01:57 UTC 版)
父周作の代稽古として水戸藩の藩校・弘道館へ剣術を指南しに行った際、竹刀を頭上で回転させたり、股にくぐらせ、上空へ投げるなど曲芸的な技で相手を翻弄して打ち負かした。この行為に水戸藩藩士たちが激怒し、陳謝することとなった。このことについて堀正平は『大日本剣道史』で、栄次郎を「曲遣いの元祖」と批判している。一方、栄次郎と試合をしたことがある武藤為吉は、「その様な遣われ方をする方が未熟である」と、栄次郎を苦しく擁護している。 嘉永6年(1853年)5月、周作とは別に水戸藩に出仕し小十人組から馬廻組を経て、文久2年(1862年)1月11日、大番頭に昇進するも、翌日の1月12日、30歳で没した。
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