指揮官として
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「チャールズ・オースティン」の記事における「指揮官として」の解説
その後5年間を北アメリカ艦隊(英語版)で過ごしたオースティンは、1810年5月10日に74門艦スウィフトシュア (戦列艦)(英語版)の艦長となった、その当時この艦はボルラス・ウォーレン(英語版)の旗艦だった。その年の9月にはクレオパトラ(英語版)に乗艦し、1811年の11月から1814年の9月まではナムール(英語版)の艦長として任務についた。この艦はノアを基地としており、トマス・ウィリアムズ(英語版)の旗艦だった。その後36門フリゲートのフェニックス(英語版)をまかされ、百日天下が終わって、アンドーンテッド(英語版)、ガーランド(英語版)と共に、アドリア海で勢力を伸ばしつつあると思われるナポリ軍をくまなく探すために、戦隊の指揮官として派遣された。ナポリ軍を降伏させた後は、ブリンディジでの封鎖に加わった。その後エドワード・ペリューから、フランス戦隊の様子を探る任務を受けたが、フランスとの戦争が終わったこともあり、オースティンはしばらくの間、この地域の海賊行為の鎮圧の方に注意を向けた。そしてパヴォス港で2隻の私掠船を拿捕することに成功したが、「フェニックス」が1816年2月20日にスミルナで難破するという災難に見舞われた。これは案内人を無視したのが原因だった。 1826年6月2日、オースティンは46門艦オーロラ(英語版)をまかされ、次席司令官としてジャマイカ駐留地に赴任した。ここで奴隷貿易の阻止に奮迅し、多くの奴隷船を捕獲してかなりの戦功をあげた。オースティンは「オーロラ」の指揮官を2年半務め、その後この艦は1828年12月に退役した。エドワード・コルポイズ(英語版)がオースティンを自分の旗艦の艦長に指名したため、北アメリカ及び西インド諸島艦隊(かつての北アメリカ艦隊)でウィンチェスターに乗務し、その後、1830年12月の大事故で負傷して、送還されるまでこの地にとどまった。回復して任務に戻ったオースティンは、1838年にウォータールー(英語版)に配属された。1840年の8月28日には恩給が支給された。オースティンは地中海に「ウォータールー」で航海し、1840年11月3日のアッコの爆撃で功績をあげ、この結果、1840年12月18日にバス勲章を授与された。オースティンと「ウォータールー」は帰国し、「ウォータールー」はその後、1841年の6月に退役した。
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指揮官として
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「ジョーゼフ・ロートン・コリンズ」の記事における「指揮官として」の解説
コリンズは1941年1月に臨時大佐、1942年2月に准将、1942年5月に少将に昇進した。彼は1941年から42年までハワイ局の参謀長および1942年から43年までオアフ島の第25歩兵師団(「トロピック・ライトニング」師団)指揮官、ガダルカナル島の日本軍に対する作戦を担当した。 その後ヨーロッパへ転任し、1944年から45年まで第VII軍団を指揮しノルマンディー上陸作戦からドイツの降伏まで経験した。第VII軍団はコブラ作戦への貢献で最も知られる。しかしながら同作戦へのコリンズの貢献はそれほど知られていない。第VII軍団は1944年から45年の戦闘全体にわたって、最も重要な第1軍の努力を結集する傾向があった。コリンズはヨーロッパ戦線におけるアメリカ軍最良の部隊長と広く考えられた。 コリンズは1945年4月に臨時中将(戦時昇進)、6月に准将(終身)に昇進した。1945年8月から12月まで副総指揮官および陸軍地上部隊の参謀総長、1945年から47年まで陸軍情報局局長、1947年から49年まで陸軍副参謀総長に就任し、1948年1月に少将(終身)に昇進した。 コリンズは1949年8月16日から1953年8月15日まで2期4年にわたり、アメリカ陸軍参謀総長の職を務め、朝鮮戦争の全体に渡って陸軍を指揮した。階級は大将(終身)となった。 彼は陸軍の鉄道作戦を指揮し、戦闘序列に最初の特別部隊グループを配置し、そして新たに発足した北大西洋条約機構への陸軍の貢献に緊密に関係した。 彼は1953年から54年までNATOの軍事委員会および常設グループへのアメリカ代表であった。1954年から55年までベトナムで大使級のアメリカ特別代表を務め、その後NATOに戻り1956年3月に退役した。 コリンズは1987年9月12日にワシントンD.C.で死去した。彼はアーリントン国立墓地に埋葬された。
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「フィルモン・ポウノル」の記事における「指揮官として」の解説
それから2年間、ポウノルはフェイバリットを指揮して、1761年半ばには、チャールズ・プロビー指揮下のカディス沖の戦隊に加わって航海した。この戦隊は74門艦サンダラー、モデスト(英語版)、44門艦テティス(英語版)で構成されていた。7月16日に64門艦アシーユとフリゲート艦ブフォンヌの2隻のフランス艦が、封鎖中の港をかろうじて離れたが、その翌日にイギリス艦隊に追跡され、海戦となった。激戦の末、両艦とも拿捕された。ポウノルは1762年5月まで、サン・ヴィセンテ岬の防御のためにチャールズ・ソーンダースが派遣したフェイバリットで指揮を執った。フェイバリットはソーンダース艦隊の1隻だった。 5月15日、フェイバリットはハーバート・ソウヤー艦長のフリゲート艦アクティブ(英語版)と共に、サンタマリア岬沖を航海していたところ、2隻はスペイン艦を発見して追跡した。いったん拿捕されたこの船はスペインのレジスターシップのエルミオーネで、この年の1月6日にリマを発ち、いくつもの袋に詰めた黄金と、金貨と、金銀の延べ棒と、カカオ豆と、錫の塊を積んでいた。エルミオーネはジブラルタルへと連れて行かれ、最終的に積荷、船体、艤装品共々戦利品となり、すべての価格は51万9705ポンド10シリングにもなった、これは今日の価格で7千130万ポンドに相当する。ポウノルとソウヤーはそれぞれ艦長の分け前として賞金6万4千782ポンド(今日の価格で890万ポンド)を手に入れた。この時代の賞金としては最も大きな部類に入る。水兵たちもそれぞれ480ポンドを受け取った、これは彼らの30年分の賃金に相当した。偶然にも、ソウヤーもポウノルも、リスボンの商人の2人の娘である姉妹にそれぞれ求婚していたが、資金が足りないため断られていた。今や大金持ちとなった2人は、彼女たちと結婚した。ポウノルはこの賞金でアシュプリントンのシャープハムに土地を買い、ケーパビリティ・ブラウンの設計した庭園つきの大きな邸宅を建てた。この頃ポウノルは、ジョシュア・レノルズに肖像画を依頼したといわれる。
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