戦前・戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:42 UTC 版)
加藤によれば「大東亜戦争が始まってね、当時商工会議所を戦争に協力さす組織にするため解散させ、鳥取県商工経済会というものに組織を替えるということになりましてね。米原章三さんが会長になり、野坂さんが専務理事にお成りになって、私が米子商工会議所の番人みたいなものですが、米子支部長ということになりました。昭和18年9月だったと思います。昭和20年3月までの3年間私は会頭だったわけですわ(笑)。従業員も今覚えているのは坪内とか畠中とかいました。女子職員も1~2名で総勢4~5人だったかなあ。 戦後は進駐軍が米子にやって来て、会議所や中電、市役所の建物を見て歩き、結局会議所の建物が進駐軍に接収されちゃいました。以来2年位はあそこに居たのでしょうか。従って戦後の仕事は、もっぱら軍の犯罪者のための交渉に当るといったもんでした。また彼等が国への土産に、日本女性の派手な着物を欲しがり、一般民家に行って要求したりするものですから、会議所へ何んとかしてくれと苦情が持ち込まれました。そこで、各家庭からそんな着物の供出をお願いして、バザーを催したりしたこともありました。その当時市役所には英語の通訳が居りませんでしたから、野坂市長の要請でその仕事を勤めたこともありました。」という。
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戦前・戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:18 UTC 版)
製糸業の隆盛が長く続かず、レーヨン(人絹)等の合成繊維が1900年代に誕生以降、徐々に蚕糸・紡績業の国際競争力は低下した。それに伴い、製糸業という繊維一次産業から二次産業への参入を検討し、1934年(昭和9年)に塚口工場にてフルファッション靴下の生産に着手した。太平洋戦争後の1946年(昭和21年)、日本国内で初めて肌着・下着の一貫生産に着手。それまでは分業による生産が当たり前であり、世間では「メリヤス(当時、下着の生地をそう呼んでいた)工場と腫れ物は大きくなると必ず潰れる」と揶揄され、懐疑的な意見ばかりだった。当時、宮津工場長だった岩内菊治郎は「品質第一主義」を掲げて徹底的に品質改良に取り組み、優れた肌着を開発した。戦後の厳しい経済環境下で粗末な製品(メリヤスは、漢字で一般に「莫大小」と表記することもあり、莫=ニットのループの大きさバラつき、生地が縮んだり、ダレたりして形態安定が良くない)がほとんどだった時期に、逆に優れた商品を発売したことで人々に受け入れられた。1952年(昭和27年)にはナイロン製靴下の生産を開始。以降、このような実用性アパレル製品分野が事業の主力を形成し、経営貢献することとなる。このアパレル二次加工事業の成長拡大に伴い、その製品の包装材料を内製化を試みることで、1960年代からはプラスチック・フィルム製品の製造に着手、非繊維分野への進出の足掛かりをつくった。一方、創業からの主力産業の製糸業は徐々に事業規模が縮小し、1987年(昭和62年)に生産終了し、完全撤退した。
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