やまもと‐いそろく【山本五十六】
【山本五十六】(やまもといそろく)
新潟県出身の大日本帝国海軍軍人で、第26代・27代連合艦隊司令長官(1884(明治17)生~1943(昭和18)没) 。
生涯最終の階級・勲功は元帥海軍大将、正三位、大勲位、功一級であった。
太平洋戦争(大東亜戦争)中に戦死するまで、戦争緒戦の海軍の攻勢作戦、中でも真珠湾攻撃やミッドウェー海戦での総指揮に当たったことから、海外でもこの戦争における日本を代表する提督として知られている。
明治時代
明治17年(1884年)、長岡市玉蔵院町の旧長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。
その時の父親の年齢が56歳だったため「五十六」と命名され、「高野五十六」と名乗った。
長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校を卒業した後、明治34年(1901年)に海軍兵学校に次席入校した。
明治37年(1904年)に海軍兵学校を卒業し、席次は11番。
その直後に日露戦争が勃発。日本海海戦では少尉候補生として装甲巡洋艦「日進」に乗艦。
その艦上で敵の砲弾の炸裂により、左手の人差し指と中指を失い、左大腿部に重傷を負う。
大正時代
大正4年(1915年)、子爵・牧野忠篤の口添えによって旧長岡藩家老の家柄であった山本家を相続する。
これにより本名が「山本五十六」に変わる。
大正5年(1916年)に海軍大学校を卒業した後、大正8年(1919年)に在アメリカ大使館付海軍武官として渡米、大正10年(1921年)まで、ハーバード大学に留学した。
昭和時代
昭和11年(1936年)に海軍次官に就任し、1939年(昭和14年)8月、阿部信行内閣発足時に、中将であった山本は連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に就任する。
次官当時からの懸案事項だった日独伊三国軍事同盟には海軍大臣の米内光政らと共に最後まで反対していた。
また、航空機が主力兵器となる時代を予期して、「大和」級戦艦の建造にも反対し、日米開戦にも反対した。
これは自分の駐在経験から、日本とアメリカの国力の違いを認識していたものであった。
しかし山本は
「開戦劈頭有力な航空兵力によって敵本営に切り込み、米海軍をして物心ともに当分起ち難いまでの痛撃を加えるほかなしと考えることに立ち入った次第です」
と嶋田繁太郎海軍大臣への10月24日の書簡で述べていた。 後、山本の決意を知った嶋田は、ハワイ奇襲攻撃作戦に許可を出している。
開戦決定以後は短期決戦のために特に航空機に力を入れる。
真珠湾攻撃など、太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦における快進撃によって、山本は英雄として扱われる。
しかし昭和17年(1942年)6月、ミッドウェー海戦によって大敗北を喫し、1943年4月にブーゲンビル島上空で、一式陸上攻撃機に乗っていた山本はアメリカ軍のP-3816機に襲撃、撃墜され、戦死した。
山本の死は一ヶ月以上国民から隠され、5月21日の大本営発表で、公にされた。
同年6月に日比谷公園で国葬が催され、葬儀委員長は米内光政が務めた。
時の首相だった東条英機は「君逝き みにしむ責の 重きかな されどやみなん 勝てやむべき」と詠んだ。
山本五十六
山本五十六(やまもと いそろく)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 16:19 UTC 版)
「夢幻の軍艦大和」の記事における「山本五十六(やまもと いそろく)」の解説
連合艦隊司令長官(階級は大将)。海馬の「お化け」の語る「予言」を元に作戦を立案・実行する。海馬の仲間の水兵たちや他の高官たちは、海馬の「お化け」の話を信じようとしないが、山本は初めに話を聞いたときから「面白い!」と言って信じた。
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