宏池会会長
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次の佐藤政権では政調会長、第2次佐藤内閣の2度目の改造内閣で通商産業大臣を歴任したが、佐藤は大平を好いておらず、7年8ヶ月に及ぶ政権においては三角大福の中でも不遇だった。通産相として日米繊維交渉の解決を託され、大平自身も意欲的に取り組んだというが、交渉の進展が芳しくないと感じた佐藤は大平を事実上更迭し、ライバルの宮澤喜一を後任に据えた。このことも大平の佐藤への不信感を増幅させた(結局宮澤も繊維交渉は解決できず、田中角栄通産相の裁量によって妥結を見る)。大平も佐藤の外交手法には批判的で、沖縄返還を巡る「核抜き本土並み」の方針について「猫が鯨に噛み付くようなものだ」と冷評していたという。 大平の属する派閥宏池会は池田の死後前尾繁三郎が会長となり、世話人を前尾系の政治家で固めていたが、大平は派内の若手議員を集めて派中派の「木曜会」を作り、独自に政治資金の世話などをするようになった。1970年の総裁選で、佐藤は「前尾が出馬しなければ内閣改造をして宏池会を優遇する」と約束するが、これが反故となったことで前尾は求心力を失う。翌1971年(昭和46年)、田中六助ら木曜会に担がれる形の「大平クーデター」で前尾にかわって大平が宏池会会長に就任、名実ともにポスト佐藤時代のリーダー候補として名乗りをあげた。以後1980年(昭和55年)の死去まで派閥の領袖の座にあった。 三角大福の争いとなった1972年(昭和47年)総裁選では、立候補宣言した後に藤山愛一郎や中垣國男、灘尾弘吉ら有力者を訪ね支援を求めた。選挙では3位につけて存在感をアピール、その後も田中角栄と盟友関係を続ける。 第1次・第2次田中内閣で再び外務大臣、第2次田中改造内閣・三木内閣で大蔵大臣を務め、内政外政にかかわる要職を歴任していった。 田中内閣で外務大臣だったときに中国を訪問、それまでの台湾との日華平和条約を廃し、新たに日中の国交正常化を実現させた。日中国交正常化における大平の役割について、倪志敏著『田中内閣における中日国交正常化と大平正芳(その1-その4)』が最も詳しい。 その後、1974年(昭和49年)12月の田中金脈問題で田中が総理を辞任すると、蔵相だった大平はポスト田中の最有力候補となり田中派の後押しを背景に総裁公選での決着を主張。しかし椎名裁定により総理総裁は三木武夫に転がり込んだ。三木内閣では引き続き蔵相を務めるが、この時に値上げ三法案(酒・たばこ・郵便値上げ法案)が廃案になったことによる歳入欠陥に対処するために10年ぶりの赤字国債発行に踏み切り、以後、日本財政の赤字体質が強まったことが後年の消費税導入による財政健全化への強い思いへとつながっていく。 1976年(昭和51年)の三木おろしでは再び総裁を狙うが、最終的に福田赳夫と「2年で大平へ政権を禅譲する」としたいわゆる「大福密約」の元で大福連合を樹立。福田内閣樹立に協力し、幹事長ポストを得て、福田首相・大平幹事長体制が確立した。保革伯仲国会では大平幹事長は「部分連合(パーシャル連合)」を唱えて野党に協調的対応を求め、国会運営を円滑化に努める。
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