死去まで
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帰郷後は自宅で療養生活を送る。夏に西鉛温泉で家族と共に保養した際には、賢治の短歌を清書している。 1920年1月下旬から2月9日まで、『自省録』を綴る。その内容は高等女学校卒業前の恋愛事件から執筆当時までを振り返るもので、「新たに生れ変りたい」という意識がその発端であると記している。この『自省録』が書かれた背景について、山根知子は、母校である高等女学校への就職の話が出始め、まだ在学当時の事件を知る人間がいる状況で、事件に向き合い精神的に決着を付ける必要があると感じたのではないかという旨の推論を述べている。3月に、日本女子大学校の同窓生に近いうちに上京できそうだと伝えたが、実現しなかった。7月には盛岡市川原町(現・南大通3丁目)の円光寺(当時、清六といとこが下宿)に寄宿して洋服の講習を受けた。 1920年9月下旬より母校で教諭心得となり、英語と家事を担当する。 1921年3月には盛岡の教会で外国人宣教師に英語を学び、4月には教員斡旋を依頼されて上京し母校の日本女子大学校を訪れた。しかし、この上京の疲労が取れずに体調を崩し、6月からは病床に伏した。この年1月に父親と宗教上の対立で出京した賢治(日蓮宗系の国柱会に入会していた)のもとには8 - 9月頃にトシの病臥が電報で伝えられ、帰郷することとなる。トシは9月に喀血した。帰郷した賢治は稗貫農学校(のち、岩手県立花巻農学校、現・岩手県立花巻農業高等学校)に教員として勤める傍ら、トシの看病に当たった。トシは1921年9月12日付で女学校を退職した。1922年7月6日には、下根子桜(現・花巻市桜町)にあった別宅に移って療養を続けた。妹のシゲの回想によると、この移転は母が看病に疲れたことが理由で、移転後はシゲと看護婦、付添人が世話をし、賢治も農学校の帰りに宿泊していた。1922年11月19日に再度豊沢町の実家に戻る。これは別宅までの食料運搬の手間や道の悪さ、寒さなどが理由だったが、実家の病室(3年前に宮沢家が買収した隣家で、雨漏りや隙間風がある上に小さな窓が高所にしかない暗い部屋だった)への嫌悪感からトシは「あっちへいくとおらぁ死ぬんちゃ。寒くて暗くて厭な家だもな」と漏らしたという。その言葉通り、8日後の夜8時半すぎにトシは死去した。 賢治の詩「青森挽歌」においては、 とし子はみんなが死ぬとなづける そのやりかたを通つて行き それからさきどこへ行つたかわからない それはおれたちの空間の方向ではかられない 感ぜられない方向を感じようとするときは たれだつてみんなぐるぐるする((耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい)) さう甘えるやうに言つてから たしかにあいつはじぶんのまはりの 眼にははつきりみえてゐる なつかしいひとたちの声をきかなかつた にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり それからわたくしがはしつて行つたとき あのきれいな眼が なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた という、トシの臨終についての記述がある(ただし、これが文学作品である点には留意が必要)。
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死去まで
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以降、一線を退くが通信界に隠然たる勢力を有した。公職としては日本新聞通信調査会会長、日比谷会館社長、東京タイムズ取締役、時事通信社取締役、共同通信社理事、国際電信電話株式会社の監査役、日本電信電話公社の経営委員会委員長が知られる。緒方竹虎による内閣情報局構想が世間をにぎわせた時にも名前が出た。 1963年(昭和38年):日本新聞文化賞を授与される。 1965年(昭和40年):勲二等旭日重光章を授与される。 1966年(昭和41年)4月24日:心筋梗塞にて死去。築地本願寺にて葬儀がとりおこなわれる。(葬儀委員長松本重治)
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死去まで
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「A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ」の記事における「死去まで」の解説
1971年11月にプラブパーダは祖国インドに寺院を建てる計画を実行した。チャイタンニャ(チョイトンノ)の生地であるマヤプール、プラブパーダが堕落しているとみなしたボンベイ、そしてヴリンダーヴァンの三ヶ所である。 大勢の弟子を引き連れての帰国は好意的な反響だけでなく、プラブパーダが連れた異国人への警戒心も招いた。これに対し彼はクリシュナ意識は、一宗教、一国家のためのものではなく普遍的なもの(サナータナ・ダルマ)である旨を説いた。結果的に、寺院建設は成功した。寺院の落成式にはインド政府からの代表も参加した。1977年にはクリシュナ意識国際協会の子供とそうでない子供も一緒に学ぶ学校も建てられた。それからすぐ後、プラブパーダは81年の生涯を閉じた。
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