地区の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 07:51 UTC 版)
「当尾磨崖仏文化財環境保全地区」の記事における「地区の概要」の解説
当尾(とおのお)地区は、京都府の南端、奈良県と境を接する位置にあり、浄瑠璃寺、岩船寺(がんせんじ)などの古寺や鎌倉時代の石仏が点在する。当地区は奈良盆地の北縁の丘陵地帯で、行政的には京都府に属するが、文化的には古くから南都(奈良)、特に興福寺との関わりが強い。当尾の地名が記録にみえるのは室町時代以降で、それ以前は小田原と呼ばれた。丘陵の尾根の間に寺々の塔が見えたことから「塔ノ尾」と称されたのが当尾の語源ともいうが、はっきりしない。平安時代後期には、既存仏教寺院の俗化を嫌った僧らがこの地区に隠棲して庵を建立し、念仏や修行を行った。『拾遺往生伝』によれば、興福寺出身の僧・教懐(11世紀の人)は、この地に隠棲して念仏に励み、「小田原聖」「小田原迎接房」(ごうしょうぼう)と称された。教懐は晩年、高野山に上り、高野聖の祖とされている。『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじ るきのこと)によれば、小田原には長和2年(1013年)に随願寺(東小田原寺)、永承2年(1047年)に浄瑠璃寺(西小田原寺、九体寺)が建立された。九体阿弥陀堂と浄土式庭園で知られる浄瑠璃寺は現存するが、随願寺は廃寺になり、寺へ上る石段と礎石だけが残っている。東小田原・西小田原は、東小(ひがしお)・西小(にしお)と略称され、木津川市の地名として残っている。地区内には磨崖仏(自然の岩壁に直接彫った仏像)を含む石仏や石塔などの石造文化財が多数残る。石仏の多くは鎌倉・室町時代のもので(一部平安時代のものもある)、在銘の遺品も多い。
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地区の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/29 14:20 UTC 版)
新町通り(伊勢街道)に沿った東西約750メートル、面積7.0ヘクタールが保存地区となっている。地区内には江戸時代から昭和戦前期に建てられた伝統的建造物が良好に遺存する。街道沿いの民家は多くが切妻造、平入り、瓦葺きで、江戸時代のものは「つし2階建て」(天井高の低い2階を設ける)、明治以降のものは2階建てとするものが多く、2階部分は大壁造(柱を塗り込める)とするものが多い。吉野川の氾濫から町を守った石垣も残っている。1958年、建築史家の浅野清らの調査により、新町の栗山家住宅が、慶長12年(1607年)の棟札を有し、建立年代の判明するものとしては日本最古の民家であることが判明した。1975年には奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)による伝統的建造物群保存対策調査が実施され、当地区には質の高い伝統的建造物が多数遺存し、江戸時代建立の民家も数多く残ることがあらためて確認された。その後、行政と地区住民が連携して町並み保存活動に取り組み、2010年12月24日付けで「五條市五條新町伝統的建造物群保存地区」の名称で、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
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地区の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/04 06:23 UTC 版)
腰越 七里ガ浜 七里ガ浜東 津 津西 西鎌倉 腰越・津の両大字(住居表示未実施地域)は非常に複雑に入り組んでおり、地図で一括して「腰越・津」と表示する場合が多い(そのいきさつについては後述)。
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