国際連合決議
国連決議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 05:04 UTC 版)
「パレスチナ分割決議」も参照 1945年後半より、パレスチナにおいてユダヤ人組織のレヒやイルグン・ツヴァイ・レウミ、パルマッハによる武力闘争が活発化する。イギリスは陸軍部隊を派遣し、治安維持活動を行うもののなかなか成果は上がらなかった。そこで1946年6月29日にユダヤ人組織の一斉拘禁を行い、3,000名以上を逮捕した。しかしユダヤ人組織イルグンがこれに反撃し、7月22日にイギリス軍司令部があるエルサレムのキング・デービッド・ホテルを爆破する(キング・デービッド・ホテル爆破事件)。これにより司令部要員多数が死亡した。 このためパレスチナ統治に困難を覚えたイギリス政府は、1947年1月にパレスチナ統治問題を国際連合に依頼すると発表した。国連での討議においてアメリカ合衆国とソビエト連邦がアラブ人とユダヤ人の分割統治を推したため、11月29日に国連決議181号としてパレスチナ分割決議が決議された。 これはパレスチナをアラブ人地域、ユダヤ人地域、国連統治地域(エルサレム周辺)に三分割するものであった。しかし、この分割案はアラブ人に対して極わずかな人口のユダヤ人に、パレスチナの三分の一以上を与えるというものであったため、アラブ人は一斉に反発した。 決議の翌日より、パレスチナは事実上内戦状態となった。決議に反発したアラブ人による襲撃・焼き討ちなどが行われ、ユダヤ人も同様に反撃した。イギリス軍はもはや治安維持能力が無く、内戦状態は放置された。手に負えなくなったイギリス軍は、1948年5月15日までにパレスチナから撤退することを決定した。
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