ヤマハ時代 (2004-2010)
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「バレンティーノ・ロッシ」の記事における「ヤマハ時代 (2004-2010)」の解説
2004 ロッシが移籍した段階で、ヤマハはMotoGPクラスで通算2勝しか挙げていなかった。ヤマハも過去2年間で培った技術を元に新開発エンジンを投入し、またホンダ時代にロッシのエンジニアを務めたバージェスをホンダから引き抜いた。ウィンターテストの段階から2004年型ヤマハ・YZR-M1は戦闘力を大幅に上げていた。 それまでシーズン開幕戦は伝統的に鈴鹿で行われてきたが、前年に発生した加藤大治郎の死亡事故も影響し、2004年は南アフリカが開幕戦となった。ロッシは予選でポールポジションを獲得、決勝でもホンダのエース格であったビアッジとの激しい優勝争いを展開。激闘の末、見事ロッシは移籍初戦を優勝で飾り、ウィニングラップで感動のあまり号泣しマシンにキスをした(自叙伝では「メットの中で大笑いしていたのさ!」と語っている)。この勝利で彼は異なったメーカーのマシンで連勝した唯一のライダーとなった。次戦のヘレスでは4位となり、23戦連続表彰台の記録が途切れた。第7戦ブラジルではリタイアしたが、その後もロッシはホンダ時代と変わらない強さを見せる。シーズンはジベルナウとのタイトル争いとなり、終盤のフィリップ・アイランドでは0.097秒差でジベルナウに競り勝った。ロッシはシーズン9勝を挙げ304ポイントでタイトルを獲得、優勝請負人としての仕事を果たしてみせた。 この年のヤマハはロッシの他にカルロス・チェカ、阿部典史、マルコ・メランドリの3人のライダーにも同年式のYZR-M1を与えたが、優勝経験のあるチェカ、阿部も含め、ロッシ以外には誰も勝利を挙げることがなかった。 2005 2005年もウェットレースとなった上海、ル・マン、ドニントンの3戦を含む11勝を挙げ、ロッシは7度目の世界タイトルを獲得、これで2001年から続く最高峰クラス連覇を「5」とし、1994年から1998年にかけて500ccクラスを5連覇したマイケル・ドゥーハンの記録に並んだ。この年完走できなかったのはもてぎのみで、残る16戦は全て表彰台に上り、367ポイントを獲得した。 2006 2006年はこの記録を「6」に伸ばすべく同じくヤマハで戦ったが、開幕戦スペインGPでスタート直後に後続車に追突されるというアクシデントを皮切りに例年にない苦しいシーズン運びを強いられる。シーズン前半はトラブルに見舞われ、その中には上海やル・マンでの機械トラブルも含まれた。しかしながら、ロッシはカタール、イタリア、カタルニアで勝利を挙げた。ホンダのニッキー・ヘイデンはシーズンの大半でポイントリードしたが、ロッシのポイントは遅々として進まなかった。第16戦第16戦ポルトガルGPでヘイデンがリタイアし、ようやくランキングトップに躍り出たものの、続く最終戦バレンシアGPで転倒。ヘイデンがタイトルを獲得しロッシはランキング2位、6年連続チャンピオン獲得とはならなかった。 2007 2007年はMotoGPのマシンレギュレーションが変更となり、排気量が800ccに引き下げられエンジン出力が低下した。そのため前年までのマシンに求められた有り余るパワーのコントロールよりも、コーナリングスピードを高め限られたパワーを使い切るスタイルが求められるようになった。このようなスタイルは比較的250ccクラスのそれに似ており、2004年・2005年と250ccクラスを連覇したダニ・ペドロサがロッシの強力なライバルとして予想されていた。開幕戦カタールではペドロサと同じく250cc出身でMotoGPクラス2年目のケーシー・ストーナー(ドゥカティ)が勝利し、ロッシは2戦目のスペインで優勝、その後も3戦 - アッセン、エストリル、ムジェロ - で勝利した。一方のストーナーは開幕戦も含めて10勝を挙げ、圧倒的な強さで選手権をリードした。ストーナーは2位のダニ・ペドロサに125ポイント差を付けてタイトルを獲得した。ペドロサは最終戦のバレンシアで勝利し、ロッシはこのレースでリタイアしたため、ランキング3位でシーズンを終えた。これは1996年の125cc以来、最も低い順位となった。 2008 2008年は前年にストーナーが独走する大きな要因のひとつとなったブリヂストンタイヤを自身のマシンに採用し、タイヤによるハンディの回復に努めた。序盤はチームメイトで250ccクラスからステップアップしたばかりの新人ホルヘ・ロレンソの驚異的パフォーマンスが話題となる中、ブリヂストンタイヤに慣れる時間を要したのか少々出遅れた感もあった。開幕戦カタールでは5位に終わったものの、第4戦上海でシーズン初勝利を挙げると続く2戦も勝利した。それ以降は第9戦のアッセンを除いて全戦で表彰台に上り、シーズン終盤には5連勝を記録。計9勝で3年ぶりとなるチャンピオンに返り咲いた。ラグナ・セカ(コークスクリューでストーナーにパスされたものの、その後挽回して勝利)と、雨で短縮されたインディアナポリスでの勝利は、ロッシが現在のサーキットではどのようなコースでも勝利できることを証明した。もてぎでの勝利は同コースにおけるMotoGPマシンの初の勝利であり、ホンダのホームコースにおけるヤマハ製マシンの初勝利でもあった。 2009 2009年シーズン、ロッシは6勝を挙げ、2位に入ったチームメイトのホルヘ・ロレンソに45ポイント差で9度目のタイトルを獲得した。序盤は2戦をともに2位で終え、第3戦スペインでシーズン初優勝を記録した。しかし第4戦ルマンではクラス唯一の転倒を喫し、得意にしていた第5戦ムジェロでウェットコンディションによるフラッグtoフラッグの影響もあり3位になるなど若干低迷した。ムジェロで勝利を逃したのは2001年以来のことであった。しかし、そこからは一気に巻き返し2009年ダッチTTではGP100勝目を挙げる。ロッシはGPで100勝を達成した2人目のライダーとなった。第10戦ドニントンで一度転倒して5位、第12戦インディアナポリスでは転倒リタイヤとなるが、年間通して安定した成績を残していたため大事にならず、ウェットコンディションとなった第16戦のセパンで1戦を残してタイトルを決める。シーズン6勝というのはロッシがタイトルを獲得したシーズンの中で最少の勝利数であった。 シーズン中最も劇的な勝利はバルセロナでの勝利で、2位のロレンソに0.095秒差であった。次いで僅差のレースはドイツGPで、このときは0.099秒差であった。 2009年6月8日、ロッシは有名なマン島TTコースで、伝説的存在のライダーであるジャコモ・アゴスチーニと共にエキシビション走行を行った。この周回は「神のラップ」と呼ばれた。この走行は悪天候のため予定より48時間遅れで行われた。彼はまた、2009年のマン島TTレースの表彰式で、表彰台に上ったジョン・マクギネス、スティーヴ・プラッター、ガイ・マーティンに花輪を送った。 2010 2010年シーズンは開幕前のテストセッションの大半でトップタイムをたたき出し、開幕戦カタールGPではレース序盤でケーシー・ストーナーがクラッシュした後にシーズン1勝目を挙げた。次戦スペインGPでは3位、第3戦フランスGPではポールポジションを獲得、決勝は2位と3戦連続の表彰台を獲得した。 しかし、ホームグランプリの第4戦イタリアGPにおいてロッシは2回目のフリープラクティス、ビオンディッティ・コーナーで約120 mph (190 km/h)の速度で転倒、右の脛骨を複雑骨折した。カットーリカの自宅そばの病院で外科治療を受けた後、今期絶望と診断される。ロッシがレースを欠場するのはそのキャリアにおいて初のことであった。しかしながら、イギリスGPに先だってデイリー・テレグラフ紙のスージー・ペリーはロッシがブルノでの復帰を計画していると伝えた。これは1週間後にロッシ自身によって確認された。7月7日、ロッシはミサノ・サーキットでスーパーバイク仕様のヤマハ・YZF-R1に乗り、脚の回復を確認した。彼は2回のセッションで26ラップを走り、ベストタイムは同サーキットにおける最近のスーパーバイクの最速タイムから2秒落ちであった。セッションを終えるとロッシは不快感を訴え、それは脚と肩の痛みによる物であった。7月12日にはブルノでもテストを行い、ロッシはよりハッピーだと語った。木曜日に医師の診断を受け、ロッシは予定よりも2戦早いドイツGPで松葉杖をつきながら復帰した。これは事故からわずか41日後のことであった。このレースではストーナーとの3位争いに負けて4位でフィニッシュした。続くアメリカGPでは3位表彰台に立った。本人はけがについて「サッカーをやるわけじゃない」と話した。その後も勝利こそ第15戦マレーシアGPのみにとどまったが、終盤5戦はいずれも表彰台に上るなど、安定した走りでシーズン3位の成績を残した。 この年は足の他にも、4月にエイヤフィヤトラヨークトルの噴火で日本グランプリが10月に延期された後に行ったモトクロストレーニング中に右肩を負傷している。終盤2戦でチームメイトのロレンソに敗れたロッシは肩の痛みを訴えていた。負傷は当初深刻な物とは見られず、数週間で回復すると予想されたが、予想通りに回復しなかったためシーズン終了後に手術を行い、2011年は回復具合を計りつつ始動することになった。
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ヤマハ時代(2004年 - 2010年)
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「ジェレミー・バージェス」の記事における「ヤマハ時代(2004年 - 2010年)」の解説
2004年、ロッシはバージェスをはじめとするスタッフを引き連れて、ホンダの最大のライバルであるヤマハに移籍した。ヤマハのマシンに慣れるための期間が開幕前の数週間しかなかったにもかかわらず、ロッシは4月の開幕戦、ウェルコムで開催された南アフリカGPで優勝を飾った。そして、ロッシがこの年「異なるメーカーのマシンで2年連続タイトルを獲得する」という偉業を成し遂げるのに、バージェスは重要な役割を果たした。
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