ヤマハ時代とは? わかりやすく解説

ヤマハ時代 (2004-2010)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:02 UTC 版)

バレンティーノ・ロッシ」の記事における「ヤマハ時代 (2004-2010)」の解説

2004 ロッシ移籍した段階で、ヤマハMotoGPクラス通算2勝しか挙げていなかった。ヤマハ過去2年間で培った技術元に新開発エンジン投入し、またホンダ時代ロッシエンジニア務めたバージェスホンダから引き抜いた。ウィンターテストの段階から2004年ヤマハ・YZR-M1戦闘力大幅に上げていた。 それまでシーズン開幕戦は伝統的に鈴鹿行われてきたが、前年発生した加藤大治郎の死事故影響し2004年南アフリカ開幕戦となったロッシ予選ポールポジション獲得決勝でもホンダエースであったビアッジとの激し優勝争いを展開。激闘の末、見事ロッシ移籍初戦優勝飾り、ウィニングラップで感動のあまり号泣しマシンキスをした(自叙伝では「メットの中で大笑いしていたのさ!」と語っている)。この勝利で彼は異なったメーカーマシン連勝した唯一のライダーとなった。次戦のヘレスでは4位となり、23連続表彰台記録途切れた。第7戦ブラジルではリタイアしたが、その後ロッシホンダ時代変わらない強さ見せる。シーズンはジベルナウとのタイトル争いとなり、終盤フィリップ・アイランドでは0.097秒差でジベルナウに競り勝ったロッシシーズン9勝を挙げ304ポイントタイトル獲得優勝請負人としての仕事果たしてみせた。 この年ヤマハロッシの他にカルロス・チェカ阿部典史マルコ・メランドリの3人のライダーにも同年式のYZR-M1を与えたが、優勝経験のあるチェカ阿部含めロッシ以外には誰も勝利を挙げることがなかった。 2005 2005年もウェットレースとなった上海ル・マン、ドニントンの3戦を含む11勝を挙げロッシ7度目の世界タイトル獲得、これで2001年から続く最高峰クラス連覇を「5」とし、1994年から1998年にかけて500ccクラスを5連覇したマイケル・ドゥーハン記録並んだこの年完走できなかったのはもてぎのみで、残る16戦は全て表彰台上り367ポイント獲得した2006 2006年はこの記録を「6」に伸ばすべく同じくヤマハ戦ったが、開幕戦スペインGPスタート直後後続車追突されるというアクシデント皮切りに例年にない苦しシーズン運び強いられるシーズン前半はトラブル見舞われ、その中には上海ル・マンでの機械トラブル含まれた。しかしながらロッシカタールイタリア、カタルニアで勝利を挙げたホンダニッキー・ヘイデンシーズン大半でポイントリードしたが、ロッシポイント遅々として進まなかった。第16戦第16戦ポルトガルGPヘイデンリタイアし、ようやくランキングトップに躍り出たものの、続く最終戦バレンシアGP転倒ヘイデンタイトル獲得しロッシランキング2位6年連続チャンピオン獲得とはならなかった。 2007 2007年MotoGPのマシンレギュレーションが変更となり、排気量が800ccに引き下げられエンジン出力低下した。そのため前年までのマシン求められ有り余るパワーコントロールよりも、コーナリングスピード高め限られたパワー使い切るスタイル求められるようになったこのようなスタイル比較250ccクラスのそれに似ており、2004年・2005年250ccクラス連覇したダニ・ペドロサロッシ強力なライバルとして予想されていた。開幕戦カタールではペドロサ同じく250cc出身MotoGPクラス2年目ケーシー・ストーナードゥカティ)が勝利しロッシは2戦目のスペイン優勝その後も3戦 - アッセンエストリルムジェロ - で勝利した一方ストーナー開幕戦含めて10勝を挙げ圧倒的な強さ選手権リードしたストーナー2位ダニ・ペドロサ125ポイント差を付けてタイトル獲得したペドロサ最終戦バレンシア勝利しロッシはこのレースリタイアしたため、ランキング3位シーズン終えた。これは1996年125cc以来、最も低い順位となった2008 2008年前年ストーナー独走する大きな要因のひとつとなったブリヂストンタイヤ自身マシン採用しタイヤによるハンディ回復努めた序盤チームメイト250ccクラスからステップアップたばかり新人ホルヘ・ロレンソ驚異的パフォーマンス話題となる中、ブリヂストンタイヤ慣れ時間要したのか少々出遅れた感もあった。開幕戦カタールでは5位に終わったものの、第4戦上海シーズン勝利を挙げると続く2戦も勝利したそれ以降第9戦アッセン除いて全戦で表彰台上りシーズン終盤には5連勝記録。計9勝で3年ぶりとなるチャンピオン返り咲いたラグナ・セカコークスクリューストーナーパスされたものの、その後挽回し勝利)と、短縮されインディアナポリスでの勝利は、ロッシ現在のサーキットではどのようなコースでも勝利できること証明した。もてぎでの勝利は同コースにおけるMotoGPマシンの初の勝利であり、ホンダホームコースにおけるヤマハ製マシンの初勝利でもあった。 2009 2009年シーズンロッシは6勝を挙げ2位入ったチームメイトホルヘ・ロレンソ45ポイント差で9度目のタイトル獲得した序盤は2戦をともに2位終え第3スペインシーズン初優勝記録した。しかし第4戦ルマンではクラス唯一の転倒喫し得意にしていた第5戦ムジェロでウェットコンディションによるフラッグtoフラッグ影響もあり3位になるなど若干低迷したムジェロ勝利を逃したのは2001年以来のことであった。しかし、そこからは一気巻き返し2009年ダッチTTではGP100勝目挙げるロッシGP100勝を達成した2人目のライダーとなった第10戦ドニントンで一度転倒して5位、第12戦インディアナポリスでは転倒リタイヤとなるが、年間通して安定した成績残していたため大事にならず、ウェットコンディションとなった第16戦セパンで1戦を残してタイトル決める。シーズン6勝というのはロッシタイトル獲得したシーズンの中で最少勝利数であったシーズン中最も劇的な勝利バルセロナでの勝利で、2位ロレンソに0.095秒差であった次いで僅差レースドイツGPで、このときは0.099秒差であった2009年6月8日ロッシ有名なマン島TTコースで、伝説的存在ライダーであるジャコモ・アゴスチーニと共にエキシビション走行行った。この周回は「神のラップ」と呼ばれた。この走行悪天候のため予定より48時間遅れで行われた。彼はまた、2009年マン島TTレース表彰式で、表彰台上ったジョン・マクギネス、スティーヴ・プラッター、ガイ・マーティンに花輪送った2010 2010年シーズン開幕前のテストセッションの大半でトップタイムをたたき出し開幕戦カタールGPではレース序盤ケーシー・ストーナークラッシュした後にシーズン1勝目挙げた。次戦スペインGPでは3位第3フランスGPではポールポジション獲得決勝2位と3戦連続表彰台獲得した。 しかし、ホームグランプリの第4戦イタリアGPにおいてロッシ2回目のフリープラクティス、ビオンディッティ・コーナーで約120 mph (190 km/h)の速度転倒、右の脛骨複雑骨折した。カットーリカ自宅そばの病院外科治療受けた後、今期絶望診断されるロッシレース欠場するのはそのキャリアにおいて初のことであったしかしながらイギリスGPに先だってデイリー・テレグラフ紙のスージー・ペリーはロッシブルノでの復帰計画していると伝えた。これは1週間後ロッシ自身によって確認された。7月7日ロッシはミサノ・サーキットでスーパーバイク仕様ヤマハ・YZF-R1乗り、脚の回復確認した。彼は2回のセッション26ラップ走りベストタイムは同サーキットにおける最近スーパーバイク最速タイムから2秒落ちであったセッション終えるとロッシ不快感訴え、それは脚と肩の痛みによる物であった7月12日にはブルノでもテスト行いロッシはよりハッピーだと語った木曜日医師診断を受け、ロッシ予定よりも2戦早いドイツGP松葉杖つきなが復帰した。これは事故からわずか41後のことであった。このレースではストーナーとの3位争い負けて4位でフィニッシュした。続くアメリカGPでは3位表彰台立った本人はけがについて「サッカーをやるわけじゃない」と話したその後勝利こそ第15マレーシアGPのみにとどまったが、終盤5戦はいずれ表彰台上るなど、安定した走りシーズン3位の成績残したこの年は足の他にも、4月エイヤフィヤトラヨークトル噴火日本グランプリ10月延期された後に行ったモトクロストレーニング中に右肩負傷している。終盤2戦でチームメイトロレンソ敗れたロッシは肩の痛み訴えていた。負傷当初深刻な物とは見られず、数週間回復する予想されたが、予想通り回復しなかったためシーズン終了後手術行い2011年回復具合計りつつ始動することになった

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ヤマハ時代(2004年 - 2010年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 14:54 UTC 版)

ジェレミー・バージェス」の記事における「ヤマハ時代(2004年 - 2010年)」の解説

2004年ロッシバージェスはじめとするスタッフ引き連れてホンダ最大ライバルであるヤマハ移籍したヤマハマシン慣れるための期間が開幕前の数週間しかなかったにかかわらずロッシ4月開幕戦ウェルコム開催され南アフリカGP優勝飾った。そして、ロッシこの年異なメーカーマシン2年連続タイトル獲得する」という偉業成し遂げるのに、バージェス重要な役割果たした

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