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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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『7つの習慣』はむしろ、私とは、自由とは何であるかを考えさせることに長けている。

2014.10.14 10:35|雑記
ふとしたきっかけで、『まんがでわかる 7つの習慣』を読んだ。本書は、言わずと知れたビジネス系自己啓発本の金字塔『7つの習慣』を、マンガを用いてストーリー仕立てにすることで、より身近でわかりやすい内容に仕上げた良書である。

そう、結論から言うと、良書であることは間違いない。確かに、ビジネスシーンで活かせることがたくさん詰まっている。「自分もそうだった」「こういう人いるよね」「なるほど、こうすれば良ったか」というように、自分事として捉えることができる。原作よりも簡潔に7つの習慣を定義付けているため、より気づきが得られやすいわけなのだが、ありがちでキッチュなストーリーを展開しつつも、キャラクターを通して段階を踏んで人間が成長する様を構造的に表現している点が評価できる、ということだ。

ただ、本書の紹介文にある「自分を変え、人生を変えたいと願うすべての人に」という謳い文句には、躓きの石が埋め込まれている。言うまでもなく、本を読んだだけでは自分は変わらないし、変えたい人生の通りにはならない。“気づき”を得るのは簡単であるし、何かをわかったような気がしたり、実践しようという意思がある種の万能感をもたらせたりするが、本質的には、あくまで変えられるのは自分の考え方や行動のみ、ということに気づかせてくれるだけである。

また、7つの習慣の順番には意味があり、段階的に身に付け、日々確認しながら精度を高め、その先に漸く自分とは、人生とは何であるかが見えてくるーーといった文脈で書かれているが、果たしてそうだろうか。第一の習慣から主体性の話をしており、はじめからすべては自分次第である、他人や環境のせいにしてはいけないと言っている。とても重要な指摘だが、同時にその時々で自分が感じたこと、考えたことが置き去りにされている。あまりにも、「私」と向き合う時間が足りないのではないか。

何が言いたいかというと、この第一の習慣こそ肝要で時間も訓練も必要であるのに、重み付けなく他の習慣と共に箇条書きにし、読み進めさせるべきではないのではないかということだ。自分の可能性を自ら閉じている人にそのことを指摘する、これは重要である。しかし、そこに法則と習慣を与え、その通りに実践することがあたかも自分らしさや良き人生を取り戻すことであるかのように表現するのは、ひとつとして同じものがない個人をひとつの「自分」や「人生」にあてはめることになる。

本書は、わかりやすく噛み砕かれているため、原作が意図する内容、表現となっていないこともあれば、言葉の解釈次第で異なる印象を与えたり、読み手が誤読することもある。つまり、ある程度の「誤配」は起こるべくして、起こる。それ自体は避けられないし、その意味では、そもそも7つの習慣を100%理解し、100%受け入れ、100%実践することはできない。だが、それがいい。100%を目指す必要などないのだ。


■ 「7つの習慣」をどう受け止め、活かすべきか

では、本書は無意味かといえば、そんなことはない。ロジカルに章立てされた自己啓発本とはそもそもそのように作られて然りであるし、ひとつの目安、基準を与えることではじめて読み手は自らを相対化することができるからだ。真っ白のキャンバスを渡されても何を描いていいかわからくても、これが水彩画ですと見本と描き方のコツを渡されたら見よう見まねで描けるようになる。マニュアルやルールは必要だ。これは間違いない。

問題は、なぜキャンバスだけでは描けないのかを説明してくれるが、絵とは、表現とは何なのか、といったことを留保していることにある。つまり、絵をうまく描くための方法、言い換えれば、人生を成功させるための方法を示しているが、私が絵を描く(生きる)からそれが表現(人生)になる、という風には書かれていない。あくまでも、「こうすればうまくいく」と書かれていて、どうしてもうまくいかないことがあること、うまくいく・いかないとは無関係のことがあることには触れられない。

程度の差こそあれ、誰にでも何の違和感もなく「そうだよね、これは当たり前にできる」と読み進められるパートもあれば、眉をひそめて「そうかなぁ。そんな風にパターン分けされるものかな」と腹に落ちないパートもあるはずだ。それは理解力の問題ではない。もっと言えば、決して理解力や読解力の有無の話にしてはいけない。なぜならば、そこに「私」が顔を出しているからである。

自然と受け入れられることも、どうしても納得できないことも、「私」を構成する要素として両方同じだけ意味がある。大切なのは、100%理解し、100%受け入れ、100%実践することではなく、自分はどう感じ、考え、行動しようと思ったのかを自覚すること、そしてその自覚にも限界があると知ることである。冒頭で述べたように、そこを怠ると“気づき”しか得られない。

つまり、言いたいことは、7つの習慣を習得するのではなく向き合うことで、忘れがちな「私」を最認識し、人生に思いを馳せ、それを選び取る自由とは何であるかを考えよう、そしてそのきっかけとして本書を活かせば良いということだ。


■ 確率論としての成功はあっても、人生に成功も失敗もない

そうは言っても、やはりとにかく人生は成功した方がいいだろうという人もいるかもしれない。本書では、成功をイメージさせる「効果的な人生を送る」といった言葉が使われているが、結論から言うと、人生に成功も失敗もない。仕事における目標に対する達成度合いなど、あらかじめ個別に設定された「成功」に関してはそう言えるかもしれない。

ただ、そこで描く成功とは、出世であり、社会的名誉を得ることであっても、人生そのものではない。たとえ、思い通り事が進んだとしても、天変地異ですべてが台無しになることもある。つまり、未来に何が起こるかなど誰も分からない。あくまで、目標を達成するために最も効果的だと思われるものはこれですよ、という確率論でしかないのだ。

人間関係における考え方、振る舞いを変えることを習慣づけ、自分が変わっていくことで周りも変わっていくということはある。これ自体はまやかしでも何でもない。このあたりの啓発に関しては、7つの習慣は非常に効果的であると思う。だが、うまくいかないことが「失敗」となるのであれば、これほど厳しいことはない。

他人は変えられない、だから唯一変えられる自分を変える。これは至極論理的なアプローチだ。しかし、「私」は良くも悪くも簡単には変わらないし、自覚できるほどの効果が出るとも限らない。うまくいっている、これでいいんだと自信を持てなくなることの方が多いくらいではないだろうか。

そこに人格の話が出てきてしまうので余計に厳しい。本書で書かれていることに馴染めないとき、どうしても実践できないとき、自分はダメな人間なのではないか、だからうまくいかないのではないかと疑うことになってしまう。テクニックではなく人格を大切にしていると言っておきながら確率論で成功を語る、これは賢明とは言えない。

確率論としての成功はあっても、人生そのものには成功も失敗もないと捉え、改めて個別の目標や日々の振る舞いによる人格形成等、要素を分解して考えるべきだろう。


■ 人間は思いのほか単純に、かつ複雑にできている

最後に、上記で述べた確率論としての成功マニュアルとしてではない、自分を見つめ直すきっかけを与えてくれるものとしての価値について書こう。

まず、ひとつの「成功モデル」を提示され、それと向き合うことで、自分への問いかけが生じる。そして、自分にとって簡単なこと、難しいことがわかる。それをふまえて、自分はどうしたら、どう生きたらいいのか、何をなすべきかと疑問が生じる。本書を手に取ることで行き着くのは、ここまでだ。読んだだけでは自分は変わらないし、人生も変わらない。

絵を描くことと同じで、人間はそう簡単に法則通りには動けないし、思い通りの結果は出ない。絵がうまくなるには、対象を見て、写し取ることを繰り返す必要があるし、さまざまな要素が複合的に絡み合っている。テクニックでもあるだろうし、観察力でもあるだろうし、何故かわからないけれど絵を描くことが好きということでもある。そこにセンス、才能と言った言語化できないものが加わることで、特別な絵が生まれる。

それは操作してできることではなく、描いた本人さえも、自分になぜそんなことができるのかわからない。人間はモノではないから、仮に同じ日に絵を描き始め、同じように教えられたとしても、全く同じだけ何かを取得することなどできない。そんな単純にできてはいないのだ。

つまり、事実として人間には得手不得手があり、それは単純にできる・できない、成功・失敗というように分けられるものではなく、ましてや法則化できるものではない。できることは、自分自身が得意なこと、不得意なことを理解し、それに対しどのようにアプローチするか選択することだけである。

また、人間は常に意識的に感情や行動をコントロールしているわけではない。たとえば、駅のホームで苦しそうにうずくまっている子どもがいたら、「どうしたの?大丈夫?」と声をかけないだろうか。もちろん、声をかけずに親を捜したり、駅員を呼んでくるということもあるだろうし、誰もがそうするとは言えない。ただ、少なくともどうにかしてあげたい、放ってはおけない、とは思うのではないだろうか。こういうときはこうする、という法則通りに動くわけではないはずだ。

このようなルソーが言うところの「憐れみ」の情は、法則や習慣によって起こるものではない。もっと言えば、その行動に理由や目的はない。人間は常に意識的に行動しているわけではないし、言語化できないような感覚や感情に突き動かされる、単純な生き物なのである。

そして、世の中はそういった偶有性の高い出来事で溢れていて、事前に準備できないことが多い。目の前で人が苦しんでいる状況というのはある程度パターン化できるだろうが、そこから想定外の事態に発展し、待ったなしで判断しなければいけない状況に直面するかもしれない。

人生は、不確定要素だらけの選択の連続なのだ。「私」は常にその現場にいて、意識せずに行動に移すこともあれば、熟考した上で判断することもある。短期的に見れば、それぞれが成功や失敗に見えることはあるが、それらを全部引っくるめて人生なのである。確率論を採用することはできても、人生そのものはコントロールできない。

『7つの習慣』に書かれた自分、私ではなく、この「私」が日々考え、行動している。うまくいくこともあればうまくいかないこともある。嬉しいこともあれば悲しいこともある。当たり前のことだが、この避けられない「私」を受け入れて生きる、それこそが自由であるということなのである。『7つの習慣』はむしろ、私とは、自由とは何であるかを考えさせることに長けているのだ。

◎『まんがでわかる 7つの習慣』

「Yahoo!ニュース 個人」の記事を転載しています
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