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Author:青木勇気
小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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なぜ、「彼」はそうなのか。

2011.11.06 10:35|雑記
最近では、どこの会社にも企業のマスコットというか、広報的な立ち位置でソーシャルメディアを活用している人、または高い感度をもってビジネスユースにFacebookを使いこなしている人がいる。そして、彼のフレンドやフォロワーは彼の書き込みやシェアに条件反射的に「いいね!」「RT」を押す。そして自分は特にアウトプットしない。コメントもほとんど書き込まない。彼とそれ以外、という構図だ。これは一体、どんな状況なのか。

もちろん、深い意味はなく条件反射的にしているのかもしれないし、あるいは彼を心から尊敬し、彼の発する有益な情報をシェアしたい、皆にも知ってほしいと思うのかもしれない。ただ、皆に知ってもらいたいというのなら、身内でいいね、いいねとしていても狭いコミュニティ内での盛り上がりにしかならない。(本当はそれでいいのだが、それでいてビジネスユースしようとするからややこしくなる)

一方、他社の人間のニュースフィードを見て揶揄したりする人もいるが、そこに引かれた線は何を基準としているのだろうか。馬鹿っぽい、暑苦しい、くだらない、身内ネタで意味不明、自己満足…そんな風に感じたとき、むしろ違和感を覚えないだろうか。自分でフレンド承認、フォロワーになってタイムラインに流れてくるものなのに、と。いつ、どんな理由で、ソーシャルメディアをビジネスユースに「した」のか。そもそもの使い方、コンセプトを取り違えているのはどちらだろうか。

いちいちマネタイズできるかどうかで考えるからなのかもしれないが、むしろ「不純」ではないだろうか。明らかに、まずは純粋に使ってみる、ということを怠っている。だから、純粋に使っている(本来この表現自体がおかしい)人をどこか冷めた目で見て、よくやるねとあきれてみせる。でもよく考えてほしい。よくやるね、はむしろ、ビジネスライクでしか使わない人こそ言われるべき言葉なのではないだろうか。少なくとも、一部のFacebookページを除いた個人使用のものはそうだ。

危険なのは、自分たちをあたかもその道(つまりはソーシャルメディア関連)の情報強者と思い込むこと。時代の流れをつかみ、ツールを使いこなしているというある種の高揚感とも言えるかもしれない。ただ、事実として狭い世界の中でしか情報を得ておらず、それを狭いコミュニティの中でシェアしているに過ぎない。もっといえば、ソーシャルメディアなどというものは、世界にあふれる情報のほんの一握りでしかないということを本質的に理解していない。確かに、スピーディに情報収集、共有できるという点では他のメディアを凌駕する。ただ、あくまで一部だ。むしろ、そのことに頭がいかなければ、自分が情報弱者であることに気づくことすらできない。

シェアすることがトレンドになった今、どのニュース媒体も一時期トレンドだったCGM型のコンテンツ同様、コストをかけずコンテンツが欲しいし、そうしなければなかなかPVが稼げない。その流れの中で、自社の「ソーシャル担当」や媒体とコラボしたいわゆる「企業ブロガー」も増えている。当然、媒体自体のPVが高くソーシャルプラグインされていれば、ブログは読まれ、いいね!、RTされる。これは当たり前なのだ。そもそも「ソーシャル」に興味のある人が、ソーシャルなネタを読んでいる訳だから。ソーシャルにシェアされる構造になっている。もちろん、情報の優劣によってその数、拡散具合は変わるが。

何が言いたいかというと、「書き手」は大抵それを分かっているから別に良くて、むしろ「受け手」側にリスクがあるということだ。「情報弱者であることに気づかない」と言ったが、情報強者の優秀な人材が身の回りにいて、自分はその恩恵に与っているという錯覚、これはWebで受動的に情報を入手しているすべての人にとってのリスクだと私は考える。言い方は悪いが、自ら積極的に情報を入手せず、不勉強で、自分の考えを持ち何らかの形でアウトプットしていない人にとっては、それらはすべて良い情報、価値ある情報に「なる」からだ。自分が認めている人、もしくは他者がその人をすごいと言っている人のアウトプットを素晴らしいものだと思ってしまう、これは人間としてごく当たり前の感情だが、当たり前だからこそタチが悪い。

いちいち疑えとか質をできる限り吟味しろと言っているわけではない。単純に、インプットの質を上げなければアウトプットの質は上がらないということと、アウトプットしなければインプットのレベルは上がらないということは同義であり、そこに対してコミットしなければ価値基準を持ち得ないと言いたいだけだ。もったいぶって当たり前のことを言うようだが、少なくとも、私にはここをスタートラインとせず、情報を精査したり、ソーシャルメディアを活用している人物があまりにも多いように見受けられる。

なぜ、彼は情報強者なのか。発言力があるのか。そして、なぜ自分は情報弱者なのか。自分には発言力がないのか。強者からのインプットやその強者を応援することをメインでソーシャルメディアを使って楽しいのか、意味があるのか、考えてみてはいかがだろうか。ソーシャルメディアなど人生のほんの一部なんだから無理して使わなくたっていいし、社会的な目を気にして使い方を限定するくらいならやめてしまえばいい。恥じることはないし、「やめること=リテラシー不足」などと恐れる必要はない。もちろん、私は使う。楽しく使っているし、様々な出会い、機会に恵まれたから。だから、自戒など込めない。
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テーマ:雑記
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