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小説を出していたり絵本も書きたかったりします。物書きと呼ぶにはおこがましいくらいのものですが、物語を書いて生きていけたら幸せだなと思っています。

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Facebookが「つまらない」と感じている方へ

2012.02.23 00:02|雑記
これから書くことは、主に「最近なんかFacebookがつまらないんだよな」と感じている方への問いかけである。他でもなく筆者自身が「つまらない」と感じているからこんなことを言うのだが、その理由について述べたいと思う。

まずは、一つ目の理由。

「再会する場」であって、「出会いの場」ではないから

Facebookは、過去の知り合いと再会し繋がることができるという観点では非常に有用だが、現在~未来の出会いという観点ではあまり希望を抱けない。前者においては、幼少期に過ごした地元の友人、中高時代の同級生、海外留学中に知り合った知人など、連絡先がわからなかったり、物理的に会うことが難しい相手と「出会える」画期的なツールと言える。

一方、後者においては、そもそも知り合いのみが集まる空間ではあるものの、新しく出会った(これから出会う)人に関しては特に、かなり気を遣い合う関係性になりやすいという点で、繋がりを深めたいという欲求よりも、空気を読むこと、着飾ることが優先されてしまう。
 
具体例を挙げよう。就職活動においてFacebookを見られること、内定者に内定先の人事担当やリクルーターから友達申請がくることを想像するとわかりやすい。普段から特に問題視されるような投稿をしていなかったとしても控えめにするだろうし、それが嫌だと思ったからといって、友達申請を拒否するという英断は下せないないだろう。このような状況を余儀なくされる構図の中には、同調圧力の高い「中間共同体」という像を見出しやすい。

一時期したり顔で「匿名性の高いTwitterなどに比べ、Facebookは信頼性が高くビジネスライクであり、ポテンシャルの高いツールだ」といったプレゼンを行っている人は多かったが、ポテンシャルという観点では、むしろ偶有性の高いTwitterの方に軍配が上がるのではないだろうか。筆者でいえば、事実としてビジネスにおいてもプライベートにおいても、圧倒的にTwitter経由での出会いの方が大きな広がりを見せている。

このあたりを深堀すると長くなるので、二つ目の理由にいこう。

「善意の応酬」と「軽度の監視」によって窮屈になるから

少し抽象的な表現だが、簡単な話である。「善意の応酬」とは、会社の上司、同僚や取引先などにする「ヨイショいいね」「義理いいね」と呼ばれるものを「友達」同士でし合うこと。これが息苦しい、見え透いていていやらしい、気を遣うのが嫌だという話は一般的に語られている。そして、「軽度の監視」とは、上記に加え家族や恋人の目を気にすることで、投稿内容に抑止力が働くことである。

実際、Facebookには使用をためらってしまうような仕様がある。たとえば、「タグ付け」などがそうだ。ある場所にチェックインする際に写真とともに、「誰々といます」と投稿すると、その誰々のウォールにも投稿される(そうならないように設定できる)が、このことにより自分が意図しない形で友達に見られたくない写真や場所、人が見られてしまう。

こういった「タグ付けトラップ」はよく見受けられるし、筆者自身も「今日は仕事してることになってるからタグ付けNGね」と言われたことも、「誤解を招くから誰々といるって言わない方がいいかな」と思ったこともある。

タグ付けされた人のウォールにも投稿されるのがデフォルトということは、本国では「パーティーなどでバカなことして楽しんでいる姿のどこが恥ずかしいの?」とか、「仕事後や休日に誰が何やってても好きにやればいいじゃん」といった感覚が主流なのだろうか。このあたりは想像でしかないので触れるのみに留めるが、上記で示した通り、日本においては「リスキーな仕様」として見られていて、これまた少なからずFacebookの楽しみを奪うもののように思える。

いずれにせよ、「善意の応酬」や「軽度の監視」は、その使用感を窮屈なものにする。このあたりについては、下記の記事などでうまく描かれているので、ご参照いただければと思う。

ソーシャル・メディアでは、誰もが「美しくてステキ」
Facebookは広告だらけ

そして最後に、三つ目の理由を。

「実名であることのメリット」が発揮されていないから

ここ1年ほどでFacebookの利用者数は急激に増え、実名を推奨するソーシャルメディアは生活の中にすっかりとけ込んだ感がある。ただ、アカウント開設の動機としては、周りがやりはじめたし、やらないと不便だからとりあえず…というのが大部分ではないだろうか。

あくまで実感値であり、エンゲージメントの関係などもあるが、Facebookに常にログインし積極的に活用している人はごく一部で、個人として実名で情報を発信してきたいというモチベーションに突き動かされている人はほとんどいないように見える。さらに言うと、そういう積極的な活動自体が「友達」から求められていないのではないかとさえ感じる。

また、実名で情報が発せられることにより信頼性が高まり、個人のもとに届きやすくなったなどと言われるが、そもそもこれは本当だろうか。Twitterやmixiに匿名で何かを書き込んだりシェアすることに対し、Facebookのそれは信頼性が高く有用と言えるだろうか。一昔前に2ちゃんねるで話題になった感動系ガセネタの焼き直しがシェアされているのをよく目にするし、Twitterと同時投稿のためアウトプットが変わらない人も多い。実名か匿名かというだけでは、情報の信頼性は決まらないのは明らかだ。

どこの会社にも広報的な立ち位置でFacebookページを運用する人、ビジネスユースで使いこなしている人がいて、彼の友達(主に社内の人間や良好な関係の取引先)は書き込みに対していいね!したり、シェアを重ねたりする。だが、そういう人たちは自分からアウトプットすることも、コメントを寄せることも少ない。つまり、基本的にトリガーとなるのは「利害関係」で、一時的にコミットするだけなのである。

心から有益な情報をシェアしたい、皆に知ってほしいと思っているのかもしれない。ただ、皆に知ってもらいたいなら、身内でいいねし合っていても仕方がない。狭いコミュニティ内で同じような情報がぐるぐる回るだけだ。このような使い方は明らかに受動的である。実名ならではのメリットと言われていることは、ほとんど実践されていないと言えるだろう。

以上が、Facebookを「つまらない」と感じる理由である。

ちなみに、これはつまらないからもう使わない、使わなくてよいという主張ではない。むしろもっと面白くなってほしいと望んでいるからこその苦言である。筆者をよく知る人は「それだけ積極的に使っておいて、つまらないも何もないでしょ」と呆れるに違いない。

※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
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