「そういう話じゃないんです」と伝えることの難しさ
2012.01.25 23:25|雑記|
「read between the lines」という言葉がある。一般に「行間を読む」「言外の意味を汲み取る」などと訳されるが、この言葉は非常に示唆に富んでいる。それは、文章や会話において文法を理解し、辞書的な言葉の意味を理解する「読解力」以外の、テーマや伝えたいこと、比喩など、明示されていないものを受け取る能力の存在を浮き彫りにし、むしろそれこそが読解力の有無を決めることを暗に示すからだ。
私は、行と行との間を埋める力とは「想像力」であると考えるが、これが欠如していると正確な読解や円滑なコミュニケーションは成立しなくなる。そしてまた、この想像力が妄想や何物かを捏造することと同義に扱われることで、知識の有無によるものよりも深刻な誤謬が生じるのではないかと危惧している。というのは、あるテーマに関する議論を目の前にしたとき、建設的な議論になるか否かを決定付けるファクターとなる「read between the lines」が共有されていないケースをよく目にするからである。
こう言うと、異なる意見や自分にとって都合の悪いものを受け入れない器の小さい奴、もしくは自分の論じている内容が絶対に正しいと考える傲慢な人間と非難されるかもしれない。だが、言うまでもなく「そういう話」ではない。
むしろ、そのように無闇に否定したり、レッテルを貼ったり、言葉尻をつかまえることは、何かを知ろうとすること、議論を推し進めていくことへのアンチーゼになるのは自明であり、そこから脱却しない限りは「どういう話」か分からないと言いたいのである。もちろん、伝えたいことが100%伝わるのは稀であり多様な解釈があってしかりだが、議論をするためには、何を問題視し何を論じているのかを理解することが不可欠なのだ。
先日のエントリーを例にして説明しよう。私はこの中で「風評被害」をテーマに取り上げたが、一部の方には意図が伝わっていないばかりか、むしろ批判のタネになっているようだった。まず、たとえとして「1mSv以下は危険ではない」という表現を使っただけだが、「そんなことを誰が決めた?」と言われる。もちろん、安全か否かのライン引きは慎重に判断すべきであり、「危険」とはどういう状態を示すのかを定義する必要がある。だが、それがしっかりと決まらない限り、安全であれ危険であれ数値の根拠が明確でないという点で、風評の状態は続く。そういう意味での「風評」だ。
また、人は得体の知れないもの、目に見えないものに対しある種の恐怖を抱き保守的になるが、原発事故によって刷り込まれた「恐怖」は無意識のうちに「差別」を産み出してしまう。このような複合感情は簡単に消えないという意味で、より深刻な「風評被害」になっていると論じている。ここまで説明すれば、「事実汚染されているのだから風評ではない。風評というならなぜ何兆円もかけて除染しているのか?」といった屁理屈が無意味であるとわかるはずだ。「危険ではないから除染する必要はない。放射能で汚染されているなど根も葉もない風評だ」などとは誰も言っていない。
要は、福島が汚染されている事実や除染の必要性の有無とは別に、福島に住む(もしくは避難している)方々のケアをするべきと言っているに過ぎない。ごくごく「当たり前のこと」を言っているだけだが、それが伝わらない。原発にリスクゼロはあり得ないんだよと言われても、そんなことは分かっていますよとしか言いようがない。
「原発そのものが危険、核を持つべきでないという議論を抜きで語るな」という意見、これは間違っていない。都心部に作れないものを押し付けられた福島の人たちを「被害者」とし、政府や東電を「加害者」とするのもいいだろう。だが、「今はその話をしていない」ということも理解すべきだ。これは、要素分解と選択の話である。批判をするのであれば、大小あるカテゴリーの中から「風評被害」を選択し、これを再定義しながら、今やるべきことは「脱原発か否か」と声高に叫ぶことではないと言っているのだと論点を理解した上で批判しなくてはならない。
実例をもとに長々と説明したが、「そういう話じゃないんです」と伝えることの難しさがここにある。批評と難癖をつけること、議論と一方的な解釈、言論の自由と誹謗中傷はまったくの別物であるが、これらの間にラインを引くのは難しい。もちろん、文章の稚拙さ、考えが及ばない部分を指摘することで、議論の精度を高め、結果的に書き手を育てるということもある。批評家の存在がそれを証明していると言えるかもしれない。
だが、原則的に読み手は「批評家」ではない。あくまで「個人」として、読解力、想像力を働かせて向き合い、意見や異論があるのであれば「私はこう考える(のだが、それについてどう思うか)」と具体的に示すべきである。それができないというなら、沈黙すべきだろう。すべての読み手が、「行間を読む」ことを試されているのだ。
※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
私は、行と行との間を埋める力とは「想像力」であると考えるが、これが欠如していると正確な読解や円滑なコミュニケーションは成立しなくなる。そしてまた、この想像力が妄想や何物かを捏造することと同義に扱われることで、知識の有無によるものよりも深刻な誤謬が生じるのではないかと危惧している。というのは、あるテーマに関する議論を目の前にしたとき、建設的な議論になるか否かを決定付けるファクターとなる「read between the lines」が共有されていないケースをよく目にするからである。
こう言うと、異なる意見や自分にとって都合の悪いものを受け入れない器の小さい奴、もしくは自分の論じている内容が絶対に正しいと考える傲慢な人間と非難されるかもしれない。だが、言うまでもなく「そういう話」ではない。
むしろ、そのように無闇に否定したり、レッテルを貼ったり、言葉尻をつかまえることは、何かを知ろうとすること、議論を推し進めていくことへのアンチーゼになるのは自明であり、そこから脱却しない限りは「どういう話」か分からないと言いたいのである。もちろん、伝えたいことが100%伝わるのは稀であり多様な解釈があってしかりだが、議論をするためには、何を問題視し何を論じているのかを理解することが不可欠なのだ。
先日のエントリーを例にして説明しよう。私はこの中で「風評被害」をテーマに取り上げたが、一部の方には意図が伝わっていないばかりか、むしろ批判のタネになっているようだった。まず、たとえとして「1mSv以下は危険ではない」という表現を使っただけだが、「そんなことを誰が決めた?」と言われる。もちろん、安全か否かのライン引きは慎重に判断すべきであり、「危険」とはどういう状態を示すのかを定義する必要がある。だが、それがしっかりと決まらない限り、安全であれ危険であれ数値の根拠が明確でないという点で、風評の状態は続く。そういう意味での「風評」だ。
また、人は得体の知れないもの、目に見えないものに対しある種の恐怖を抱き保守的になるが、原発事故によって刷り込まれた「恐怖」は無意識のうちに「差別」を産み出してしまう。このような複合感情は簡単に消えないという意味で、より深刻な「風評被害」になっていると論じている。ここまで説明すれば、「事実汚染されているのだから風評ではない。風評というならなぜ何兆円もかけて除染しているのか?」といった屁理屈が無意味であるとわかるはずだ。「危険ではないから除染する必要はない。放射能で汚染されているなど根も葉もない風評だ」などとは誰も言っていない。
要は、福島が汚染されている事実や除染の必要性の有無とは別に、福島に住む(もしくは避難している)方々のケアをするべきと言っているに過ぎない。ごくごく「当たり前のこと」を言っているだけだが、それが伝わらない。原発にリスクゼロはあり得ないんだよと言われても、そんなことは分かっていますよとしか言いようがない。
「原発そのものが危険、核を持つべきでないという議論を抜きで語るな」という意見、これは間違っていない。都心部に作れないものを押し付けられた福島の人たちを「被害者」とし、政府や東電を「加害者」とするのもいいだろう。だが、「今はその話をしていない」ということも理解すべきだ。これは、要素分解と選択の話である。批判をするのであれば、大小あるカテゴリーの中から「風評被害」を選択し、これを再定義しながら、今やるべきことは「脱原発か否か」と声高に叫ぶことではないと言っているのだと論点を理解した上で批判しなくてはならない。
実例をもとに長々と説明したが、「そういう話じゃないんです」と伝えることの難しさがここにある。批評と難癖をつけること、議論と一方的な解釈、言論の自由と誹謗中傷はまったくの別物であるが、これらの間にラインを引くのは難しい。もちろん、文章の稚拙さ、考えが及ばない部分を指摘することで、議論の精度を高め、結果的に書き手を育てるということもある。批評家の存在がそれを証明していると言えるかもしれない。
だが、原則的に読み手は「批評家」ではない。あくまで「個人」として、読解力、想像力を働かせて向き合い、意見や異論があるのであれば「私はこう考える(のだが、それについてどう思うか)」と具体的に示すべきである。それができないというなら、沈黙すべきだろう。すべての読み手が、「行間を読む」ことを試されているのだ。
※言論プラットフォーム「アゴラ」に掲載された記事を転載しています
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