子どもから得たことと、いじめについて思うこと
2012.10.09 00:57|雑記|
個人的なことを書きます。子どもから得た4つのことです。加えて、最近のいじめ報道、それに対するネット住民の反応について思うことを。
子どもから得たこと。まず1つ目は、「これまでの選択、出会いをすべて肯定できたこと」。
生まれてきた息子を目の前にして、「あぁ、今までの自分はこの子に会うためにあったんだ」と理屈抜きに感じました。思い込みだとかこじつけだと言われても、とにかくそうとしか言えず、過去のあらゆるものが感謝の対象になる、そんな感覚です。
2つ目は、「妻に対する畏敬の念、敵わないという気持ちが高まったこと」。
男が逆立ちしてもできない出産を体験し、それを成し遂げ、新しい命を生み出したことに対し、改めて畏敬の念を抱きました。その事実を前に「もう頭が上がらないな」というスタンスになり、子どもが愛おしいほどその気持ちは純度が増すように思います。
3つ目は、「両親、親戚を中心に喜びの輪が広がり、周りが明るく元気になること」。
「孫はとにかく可愛いもの」と聞いていたのである程度は想像ついたものの、特に両親の喜びようや前向きな言動を見るにつけ、結婚して子どもができて本当に良かったと再確認できました。わずか50センチの赤ん坊がこんなにも大きな喜びを呼び込んでくれるのかと感動するとともに、ひとつの親孝行にもなっていることが心から嬉しい。
そして4つ目、これが最も大きな発見でした。「子どもは未来であり、希望であるということ」。
抽象的ではあるものの、こう直感したときの凝り固まったしこりがすっと消えるような感じは爽快でした。若いうちはどうしても、自分の夢や目標を見つけそれに向かっていくことを最優先にしますが、子どもという存在そのものが未来であり希望であると感じた瞬間、靄がかっていた灰色の景色が抜けるような青空に変わりました。そしてそれは、必ずしも犠牲的な精神にはつながらず、自分がどうなるのか何を成し遂げるのかということも、そこに含まれるようになるということなのだと思います。
当然、家族を養い生きていくことは簡単ではありませんし、このように書いていても挫けそうになることもあるでしょう。ただそれでも、少なくともこの先どうしていけばいいかわからない、ということはなくなりました。未来や希望とは、本来そういう種類のものなのではないでしょうか。
以上、これが子どもから得た4つのことです。
さて、ここからは「いじめ」について。先日、春名風花さんの《いじめている君へ》という記事が評判になりましたが、ひとりの親として最も考えさせられた一節を紹介します。
そもそも小学生がこのような視点を持っていることに驚きますが、それ以上に親の気持ちが代弁されていて共感を覚えました。親にとって一番つらいのは、子どもが傷つくこと。そこに理屈はないし、議論の余地もない。ただ、案の定というか残念ながらというか、世の中には愛されて生まれてこない人もいる、いじめは決してゼロにはならない、世間を知らないガキのキレイゴトだなどという反応も見られました。そんなことをしたり顔で言っていても何にもならないのに。
もう一度言います。子どもは未来であり、希望です。だから、守らなければならない。ただそれだけの話をややこしくするのはやめましょう。未熟な者がより未熟な者を育てているわけだから、いじめもせずいじめられもしない子に育てたいと思っても、思い通りになるとは限りません。
愛する気持ちが空回りすることもあるでしょうし、冷静さを欠いた言動が目につくかもしれません。でも、それでも、親は子に向き合うしかないのです。正解がなくても投げ出すわけにはいかないし、子どもがいじめに悩んで自ら命を絶つなんてことを認めるわけにはいかない。純粋にそう思っています。
今回は論客としてではなく、ひとりの親として思っていること、当たり前のことをわざわざ書きました。
※「Yahoo!ニュース 個人」の記事を転載しています
子どもから得たこと。まず1つ目は、「これまでの選択、出会いをすべて肯定できたこと」。
生まれてきた息子を目の前にして、「あぁ、今までの自分はこの子に会うためにあったんだ」と理屈抜きに感じました。思い込みだとかこじつけだと言われても、とにかくそうとしか言えず、過去のあらゆるものが感謝の対象になる、そんな感覚です。
2つ目は、「妻に対する畏敬の念、敵わないという気持ちが高まったこと」。
男が逆立ちしてもできない出産を体験し、それを成し遂げ、新しい命を生み出したことに対し、改めて畏敬の念を抱きました。その事実を前に「もう頭が上がらないな」というスタンスになり、子どもが愛おしいほどその気持ちは純度が増すように思います。
3つ目は、「両親、親戚を中心に喜びの輪が広がり、周りが明るく元気になること」。
「孫はとにかく可愛いもの」と聞いていたのである程度は想像ついたものの、特に両親の喜びようや前向きな言動を見るにつけ、結婚して子どもができて本当に良かったと再確認できました。わずか50センチの赤ん坊がこんなにも大きな喜びを呼び込んでくれるのかと感動するとともに、ひとつの親孝行にもなっていることが心から嬉しい。
そして4つ目、これが最も大きな発見でした。「子どもは未来であり、希望であるということ」。
抽象的ではあるものの、こう直感したときの凝り固まったしこりがすっと消えるような感じは爽快でした。若いうちはどうしても、自分の夢や目標を見つけそれに向かっていくことを最優先にしますが、子どもという存在そのものが未来であり希望であると感じた瞬間、靄がかっていた灰色の景色が抜けるような青空に変わりました。そしてそれは、必ずしも犠牲的な精神にはつながらず、自分がどうなるのか何を成し遂げるのかということも、そこに含まれるようになるということなのだと思います。
当然、家族を養い生きていくことは簡単ではありませんし、このように書いていても挫けそうになることもあるでしょう。ただそれでも、少なくともこの先どうしていけばいいかわからない、ということはなくなりました。未来や希望とは、本来そういう種類のものなのではないでしょうか。
以上、これが子どもから得た4つのことです。
さて、ここからは「いじめ」について。先日、春名風花さんの《いじめている君へ》という記事が評判になりましたが、ひとりの親として最も考えさせられた一節を紹介します。
あのね。キモい死ねと連日ネットで言われるぼくが生まれた日、パパとママはうれしくて、命にかえても守りたいと思って、ぼくがかわいくて、すごく泣いたらしいですよ。この子に出会うために生きてきたんだって思えるくらい幸せだったんだって。それは、ぼくが生意気(なまいき)になった今でも変わらないそうですよ。
想像してください。君があざ笑った子がはじめて立った日、はじめて歩いた日、はじめて笑った日、うれしくて泣いたり笑ったりした人たちの姿を。君がキモいウザいと思った人を、世界中の誰(だれ)よりも、じぶんの命にかえても、愛している人たちのことを。
そもそも小学生がこのような視点を持っていることに驚きますが、それ以上に親の気持ちが代弁されていて共感を覚えました。親にとって一番つらいのは、子どもが傷つくこと。そこに理屈はないし、議論の余地もない。ただ、案の定というか残念ながらというか、世の中には愛されて生まれてこない人もいる、いじめは決してゼロにはならない、世間を知らないガキのキレイゴトだなどという反応も見られました。そんなことをしたり顔で言っていても何にもならないのに。
もう一度言います。子どもは未来であり、希望です。だから、守らなければならない。ただそれだけの話をややこしくするのはやめましょう。未熟な者がより未熟な者を育てているわけだから、いじめもせずいじめられもしない子に育てたいと思っても、思い通りになるとは限りません。
愛する気持ちが空回りすることもあるでしょうし、冷静さを欠いた言動が目につくかもしれません。でも、それでも、親は子に向き合うしかないのです。正解がなくても投げ出すわけにはいかないし、子どもがいじめに悩んで自ら命を絶つなんてことを認めるわけにはいかない。純粋にそう思っています。
今回は論客としてではなく、ひとりの親として思っていること、当たり前のことをわざわざ書きました。
※「Yahoo!ニュース 個人」の記事を転載しています