2016-04-10(Sun)
ポデモスの話を聞いてきた
昨夜、ポデモスの話を聞けるというのでドーンセンターにかけつけた。
便利なもので、ビデオレターとスカイプを使って、スペインとつないだ講演会だった。
主催や登壇者を記載しておく(敬称略)
主催 おおさか社会フォーラム実行委員会
社会主義ゼミナール実行委員会
司会 SANgNAM
日本側登壇者
エリザベット・ベルガラ・ベラスコ(大阪大学院生・スペイン ガリシア出身)
中村研(SADL)
片方真佐子(大阪平和委員会)
大椿裕子(大阪教育合同労組)
木戸衛一(大阪大学准教授)
スペイン側講演者
廣田裕之(バレンシア大学院生) 通訳
ハイメ・パウリーノ(ポデモス バレンシア支部事務局長)
詳細な内容は、IWJがノーカットで配信してくれている。最後にリンクを貼るので、こちらを見ていただきたい。
前半はバレンシアからのビデオメッセージで、廣田さんからは「市民政党ポデモスを生んだスペインの社会的・政治的背景」、ハイメさんからは「貴方が政治を行わないと、誰かが貴方の利益に反する政治を行う」
後半は日本の登壇者とスペインをスカイプでつないでシンポジウム「スペインからの映像レポートを私たちはどう受け止めるか」
という構成になっている
■■
ここからは、レポートではなく私の感想をだらだらと書いてみる。
まず感じたのは、目に見える独裁を経てきたスペインと、見えざる独裁にしばられてきた日本の違いだ。
ポデモスが躍進するきっかけになったのは三つの出来事が大きかったらしい。
「ローンを払えなくなった人の強制退去」
「25%の失業率。若年層では50%」
「王室や政治家のスキャンダル」
エリートが社会契約を反故にした、と言うことへの怒りが原動力だったというのだが、起きている事態は「日本もあまり変わらないんじゃないの」と思った。
経済的には日本よりも若干ひどそうだが、権利という意味では日本よりまだマシっぽい。
日本だって住宅ローンを払えなければ競売にかけられて強制退去だし、事業用資金の貸しはがしも過酷だ。
失業率が高くないのは、非正規雇用と低賃金で誤魔化しているにすぎないし、若年層が高いのも同じ。
ジニ係数だってスペインと日本は大差ない。
もちろん政治家のスキャンダルにはことかかない。
にもかかわらず、スペイン人は怒り、日本人は諦める。
見えざる独裁、すなわち「権利は与えず金だけ回す」社会に毒された日本の現状を、スペインの話から逆に思い知った気がした。
スペインも日本も、「与えられた民主主義」という意味では似た歴史がある。
他国に敗戦することで軍事政権が崩壊し、民主主義を与えられた日本。
フランコが死去し後継者の国王主導で民主化が進んだスペイン。
きっちり30年違いで、一見他力本願で民主化された国なのである。
しかし、その内実はかなり違ったものだったのだろうと想像する。
これについては不勉強だし、講演会でも話が出なかったので、ここでは想像するにとどめるが、スペインにおいては「独裁」との対峙は歴史に刻み込まれているし、未だに目に見えているのだろう。
■
ポデモスがなぜ大躍進できた主体的な要因は何なのか。
これは、後半の日本側からの質問の中心だった。
ハイメさんからの回答はかなりシンプルで、「ポデモスは、政治的コミュニケーション装置である」 ということだった。
「99%の誰もが賛成する問題に焦点を絞った」「ネットなどのオルタナティブメディアを駆使した」
これは言葉の真の意味でのポピュリズムということだ。ねらいを隠して大衆におもねるのではなく、大衆の要求を良く聞いてい代弁する、という当たり前のことをしただけだというのだ。
これはたぶん、質問した日本側にはものたりなかっただろう。
もっと秘訣のようなものを期待していただろうに、あまりにも王道というか、当たり前のことを当たり前にやっただけ、みたいなことで、それなら日本でもそれなりにやってるのになあ、、という思いがあっただろう。
なぜ人気が出たのか、については言葉をかえて何回も質問されたが、ハイメさんの答えは基本的に同じだった。
ただひとつ、ドイツの研究をしている木戸さんから、路上から政治へ進む時に排外主義や差別主義に流れずにまっとうに保てているのはなぜかという質問があり、その回答の中で、廣田さんの訳語では「文化的戦争」ということが話された。
深く言及がなかったので、私の想像になるが、これがキーなのかなと感じた。
政治にうってでること、政党として政界で闘うことを、「文化的戦争」と表現することは、日本においては ない。
なぜ戦争という言葉になるのか。
それはたぶん、対峙する関係が明確だからだろう。
フランコの流れをくむ国民党、大企業におもねる社会労働者党という2大政党体制であることは、日本の自公と民新とあまり変わりない。しかし、99%が賛成することを主張することが「意味すること」は、スペインと日本ではまったく違うようだ。
スペインでは1%対99%の対峙は明確であるのに、日本では99%が賛成する政策を掲げると対峙は見えなくなり「中道」と呼ばれる。
そもそも独裁との対決がある社会と、対立軸が徹底的に隠されてきた社会の違いだ。
別の言い方をすれば、国民生活など一顧だにしない独裁政権と、それなりに国民生活を担ってきたかつての自民党の違いとも言える。
スペインの国民は生活に困った時に国民党に期待しないが、日本の国民はいまでも自民党に期待する。
ポデモスの政策に一番近い日本の政党は、(手前味噌ではなく)生活の党だろう。
社会主義とは縁が無く、国民生活の維持と再建に特化している。
しかし、ポデモスが躍進し、生活の党が存立の危機にあるのは、様々な要因はあるにせよ、日本の国民はいまでも「自民党は悪人だけど食わせてくれる」と思っているからだ。
この幻想が決定的に多数の国民の頭の中から消え去るのか。
その時に、受け皿になる政治勢力が生き残っているのか。
それが、日本の運命を決めるのだろう。
ちなみに、木戸さんから質問の出た、排外主義についてだが、どうやらこれは別の振興政党が受け皿になっているようだ。
2015年総選挙で、ポデモス本体を上回る14%の得票率を新右翼ともいうべきシウダダノスという政党が獲得している。
2大政党の国民党と社会労働党が減らした議席を、ポデモスとシウダダノスが分け合っているという構図だ。
その意味では、ポデモスが躍進するスペインが、バラ色の道を歩み始めたというわけではない。
もともとあった対立軸が、より一層鮮明になっているということであり、だからこそ「文化的な戦争」という激しい言葉になるのだろう。
その意味でも、99%を指向するものが激しい対立を隠してしまう構図になる日本とは、決定的に違う。
■■
この講演会で私が感じたことの二つ目は 「市民と非市民の境界ってどこ?」ということだ。
日本の最近の新しいムーブメントにおいては、「市民」と「非市民」の区別がきびしい。
本音を言えば私は「市民」という言葉は「お行儀のいい都会のホワイトカラーやインテリ層」と聞こえるので、自称市民にはなりたくなののだが、それとは別に、一般的に言えば市民に違いないはずだ。
しかし、生活の党に近い生活フォーラム関西を立ち上げたりして、なんとなく既成政党よりの立ち位置にいると、どうも「市民」の仲間にには入れてもらえないような空気を感じている。
団体や組織に属していると市民ではないのか?
政党の党員や労組の役員は、その身分を隠さないと市民ではないのか?
市民と非市民の境界線はどこなんだ?
2012年の脱原発運動いらい、この違和感は消えない。
シンポジウムでは、SADLの中村さんが「ハイメさんや近くの人は、5月15日運動以前からなんらかの運動をしていたのか」というような質問をした。ハイメさんは、かなり答えにくそうに「以前は既成左翼だった。5月15日運動のときは、こういう市民の声が既成左翼に届けられないかと思っていた。」というような答えをしていた。
スペインの既成左翼というのは、たぶん共産党を中心にした統一左翼(IU)のことだろう。
スペイン共産党は、1930年代のフランコと共和国との内戦の時代に、あろうことか共和国軍に襲いかかり結果的にフランコを側面支援した歴史はぬぐい去ることはできない。日本共産党もいざとなると後ろから石を投げるけれども、内戦時のスペイン共産党はレベルが違う。
現在の共産党がどのような総括をしているのか知らないが、スペインの既成左翼に対する評価は、そのことを抜きには語れないのではないか。
ハイメさんはさらに、「ポデモスは政党であり、社会運動の政党への直接の移し替えではない。政党であることのリスクもあり、リーダや意思決定のシステムも必要だ。」とも言っていた。
これもそれ以上の言及はなかったが、ポデモスはまったくの素人集団というわけではなく、これまでの既成の運動を担ってきた人たちがこれまでの反省をしつつ関わることで成立した組織であると言うことだろう。
「新自由主義が個人をバラバラにしてきたものが、5月15日運動の広場でコミュニティーができた。」
「ポデモスは誰もがいつでも参加でき、数ヶ月で30万人以上の党員を獲得した。」
これは日本の動きと対称的であり、組織を忌避するのではなく、組織を指向し、積極的に組織をつくる指導力があったということだ。あるいは、「組織」とか「指導」のリスクをわかりつつそれを引き受けたということだろう。
そこには党の違いは厳然とあるけれども、「市民」と「非市民」の区別はみあたらず、どのような運動に関わってきたものでも参加することができる。ここが日本の運動とは決定的に違うところであり、総選挙での躍進のカギだったのではないかと思われる。
繰り返しになるが、もちろん「組織」や「指導」には大きなリスクがある。
何でも投票で決めると言っても、組織はかならず派閥ができ、おごりも生まれ、長期的には腐敗する運命からは逃れられない。
たぶん、ポデモスだろうが何だろうが、多かれ少なかれ同じことだろう。
良い悪いではなく、ポデモスはそのリスクを引き受けながらそれでも前に進んだことによって、選挙という場において大きな現実的な地歩を占めることができた。
そのことから目をそらして、市民運動の盛り上がりがそのまま選挙の勝利に結びついたような錯覚を振りまくのは、ポデモスを語るときの大きな誤りではないのか。
私は、ハイメさんの言葉を聞きながらそのように感じた。
■■
以上から考察できることは、日本でポデモスの猿真似をしても上手くはいかないということだ。
ポデモスは、スペインの歴史を経たスペイン人の琴線に響く政策と言葉で一定の勝利を収めた。
その意味をこそ真似しなければならない。
日本の歴史を経た日本人の琴線に触れる政策と言葉を紡ぎ出さなければならない。
それは、ポデモスと同じ手法では決してなく、自らの頭で考えなくてはならないのだ。
私はそのキモは「日本の独立」だと思っている。
左派的に言うならば「植民地解放」であり、右派的に言うならば「主権の回復」である。
ここを曖昧にした議論は、どんな良いことを言ってもリアリティをもちえない。キレイゴトにしか聞こえない。
いまだ誰も政治のメインストリームでそれを唱えたことのない「日本の独立」を掲げることが、大きな転換点になるだろう。
ただし植民地の悲しさは、それをストレートに口にしたとたん、嵐のような圧迫がふりかかるということだ。
「アジアには第7艦隊だけで充分」と言ったとたんに、陸山会事件というでっち上げ大弾圧が襲いかかった小沢一郎のように。
だから、不用意な発言はするべきではない。
その点では先日来日したウルグアイのムヒカ前大統領のやり方は参考になる。共産ゲリラから政権を取ったのはカストロやチャベスと同じでも、極端な反米主義をとらなかったせいで、カストロやチャベスのように暗殺対象になるのではなく、「いい人」の地位を手に入れることができた。
このバランス感覚と言葉の選び方は、日本人は深く学ぶ必要があるだろう。
宗主国であるアメリカも変わりつつある。
社民主義を標榜するサンダースが、直近では資金も得票もヒラリーを凌駕している。また共和党のトランプは、醜悪な排外主義を振りまきつつも、他方でアメリカはもう植民地経営をしない、と言っている。
どちらの候補も、もし勝利には至らなくとも、アメリカの方向性に大きな影響を残すに違いない。
そんな情勢もにらみつつ、最大の抑圧に対峙しながら市井の声をちゃんと聞く政党の出現が、日本の転換点になる。
それは、民進党ではもちろんないし、桜の木構想でもなく、覚悟した数人の決起から始まるだろう。
ポデモスの話を聞きながら、この救いようがないように見える日本にも、きっと希望の芽は出る。なぜか、妙に楽観的な気分になった。
■■
講演会前半
後半
便利なもので、ビデオレターとスカイプを使って、スペインとつないだ講演会だった。
主催や登壇者を記載しておく(敬称略)
主催 おおさか社会フォーラム実行委員会
社会主義ゼミナール実行委員会
司会 SANgNAM
日本側登壇者
エリザベット・ベルガラ・ベラスコ(大阪大学院生・スペイン ガリシア出身)
中村研(SADL)
片方真佐子(大阪平和委員会)
大椿裕子(大阪教育合同労組)
木戸衛一(大阪大学准教授)
スペイン側講演者
廣田裕之(バレンシア大学院生) 通訳
ハイメ・パウリーノ(ポデモス バレンシア支部事務局長)
詳細な内容は、IWJがノーカットで配信してくれている。最後にリンクを貼るので、こちらを見ていただきたい。
前半はバレンシアからのビデオメッセージで、廣田さんからは「市民政党ポデモスを生んだスペインの社会的・政治的背景」、ハイメさんからは「貴方が政治を行わないと、誰かが貴方の利益に反する政治を行う」
後半は日本の登壇者とスペインをスカイプでつないでシンポジウム「スペインからの映像レポートを私たちはどう受け止めるか」
という構成になっている
■■
ここからは、レポートではなく私の感想をだらだらと書いてみる。
まず感じたのは、目に見える独裁を経てきたスペインと、見えざる独裁にしばられてきた日本の違いだ。
ポデモスが躍進するきっかけになったのは三つの出来事が大きかったらしい。
「ローンを払えなくなった人の強制退去」
「25%の失業率。若年層では50%」
「王室や政治家のスキャンダル」
エリートが社会契約を反故にした、と言うことへの怒りが原動力だったというのだが、起きている事態は「日本もあまり変わらないんじゃないの」と思った。
経済的には日本よりも若干ひどそうだが、権利という意味では日本よりまだマシっぽい。
日本だって住宅ローンを払えなければ競売にかけられて強制退去だし、事業用資金の貸しはがしも過酷だ。
失業率が高くないのは、非正規雇用と低賃金で誤魔化しているにすぎないし、若年層が高いのも同じ。
ジニ係数だってスペインと日本は大差ない。
もちろん政治家のスキャンダルにはことかかない。
にもかかわらず、スペイン人は怒り、日本人は諦める。
見えざる独裁、すなわち「権利は与えず金だけ回す」社会に毒された日本の現状を、スペインの話から逆に思い知った気がした。
スペインも日本も、「与えられた民主主義」という意味では似た歴史がある。
他国に敗戦することで軍事政権が崩壊し、民主主義を与えられた日本。
フランコが死去し後継者の国王主導で民主化が進んだスペイン。
きっちり30年違いで、一見他力本願で民主化された国なのである。
しかし、その内実はかなり違ったものだったのだろうと想像する。
これについては不勉強だし、講演会でも話が出なかったので、ここでは想像するにとどめるが、スペインにおいては「独裁」との対峙は歴史に刻み込まれているし、未だに目に見えているのだろう。
■
ポデモスがなぜ大躍進できた主体的な要因は何なのか。
これは、後半の日本側からの質問の中心だった。
ハイメさんからの回答はかなりシンプルで、「ポデモスは、政治的コミュニケーション装置である」 ということだった。
「99%の誰もが賛成する問題に焦点を絞った」「ネットなどのオルタナティブメディアを駆使した」
これは言葉の真の意味でのポピュリズムということだ。ねらいを隠して大衆におもねるのではなく、大衆の要求を良く聞いてい代弁する、という当たり前のことをしただけだというのだ。
これはたぶん、質問した日本側にはものたりなかっただろう。
もっと秘訣のようなものを期待していただろうに、あまりにも王道というか、当たり前のことを当たり前にやっただけ、みたいなことで、それなら日本でもそれなりにやってるのになあ、、という思いがあっただろう。
なぜ人気が出たのか、については言葉をかえて何回も質問されたが、ハイメさんの答えは基本的に同じだった。
ただひとつ、ドイツの研究をしている木戸さんから、路上から政治へ進む時に排外主義や差別主義に流れずにまっとうに保てているのはなぜかという質問があり、その回答の中で、廣田さんの訳語では「文化的戦争」ということが話された。
深く言及がなかったので、私の想像になるが、これがキーなのかなと感じた。
政治にうってでること、政党として政界で闘うことを、「文化的戦争」と表現することは、日本においては ない。
なぜ戦争という言葉になるのか。
それはたぶん、対峙する関係が明確だからだろう。
フランコの流れをくむ国民党、大企業におもねる社会労働者党という2大政党体制であることは、日本の自公と民新とあまり変わりない。しかし、99%が賛成することを主張することが「意味すること」は、スペインと日本ではまったく違うようだ。
スペインでは1%対99%の対峙は明確であるのに、日本では99%が賛成する政策を掲げると対峙は見えなくなり「中道」と呼ばれる。
そもそも独裁との対決がある社会と、対立軸が徹底的に隠されてきた社会の違いだ。
別の言い方をすれば、国民生活など一顧だにしない独裁政権と、それなりに国民生活を担ってきたかつての自民党の違いとも言える。
スペインの国民は生活に困った時に国民党に期待しないが、日本の国民はいまでも自民党に期待する。
ポデモスの政策に一番近い日本の政党は、(手前味噌ではなく)生活の党だろう。
社会主義とは縁が無く、国民生活の維持と再建に特化している。
しかし、ポデモスが躍進し、生活の党が存立の危機にあるのは、様々な要因はあるにせよ、日本の国民はいまでも「自民党は悪人だけど食わせてくれる」と思っているからだ。
この幻想が決定的に多数の国民の頭の中から消え去るのか。
その時に、受け皿になる政治勢力が生き残っているのか。
それが、日本の運命を決めるのだろう。
ちなみに、木戸さんから質問の出た、排外主義についてだが、どうやらこれは別の振興政党が受け皿になっているようだ。
2015年総選挙で、ポデモス本体を上回る14%の得票率を新右翼ともいうべきシウダダノスという政党が獲得している。
2大政党の国民党と社会労働党が減らした議席を、ポデモスとシウダダノスが分け合っているという構図だ。
その意味では、ポデモスが躍進するスペインが、バラ色の道を歩み始めたというわけではない。
もともとあった対立軸が、より一層鮮明になっているということであり、だからこそ「文化的な戦争」という激しい言葉になるのだろう。
その意味でも、99%を指向するものが激しい対立を隠してしまう構図になる日本とは、決定的に違う。
■■
この講演会で私が感じたことの二つ目は 「市民と非市民の境界ってどこ?」ということだ。
日本の最近の新しいムーブメントにおいては、「市民」と「非市民」の区別がきびしい。
本音を言えば私は「市民」という言葉は「お行儀のいい都会のホワイトカラーやインテリ層」と聞こえるので、自称市民にはなりたくなののだが、それとは別に、一般的に言えば市民に違いないはずだ。
しかし、生活の党に近い生活フォーラム関西を立ち上げたりして、なんとなく既成政党よりの立ち位置にいると、どうも「市民」の仲間にには入れてもらえないような空気を感じている。
団体や組織に属していると市民ではないのか?
政党の党員や労組の役員は、その身分を隠さないと市民ではないのか?
市民と非市民の境界線はどこなんだ?
2012年の脱原発運動いらい、この違和感は消えない。
シンポジウムでは、SADLの中村さんが「ハイメさんや近くの人は、5月15日運動以前からなんらかの運動をしていたのか」というような質問をした。ハイメさんは、かなり答えにくそうに「以前は既成左翼だった。5月15日運動のときは、こういう市民の声が既成左翼に届けられないかと思っていた。」というような答えをしていた。
スペインの既成左翼というのは、たぶん共産党を中心にした統一左翼(IU)のことだろう。
スペイン共産党は、1930年代のフランコと共和国との内戦の時代に、あろうことか共和国軍に襲いかかり結果的にフランコを側面支援した歴史はぬぐい去ることはできない。日本共産党もいざとなると後ろから石を投げるけれども、内戦時のスペイン共産党はレベルが違う。
現在の共産党がどのような総括をしているのか知らないが、スペインの既成左翼に対する評価は、そのことを抜きには語れないのではないか。
ハイメさんはさらに、「ポデモスは政党であり、社会運動の政党への直接の移し替えではない。政党であることのリスクもあり、リーダや意思決定のシステムも必要だ。」とも言っていた。
これもそれ以上の言及はなかったが、ポデモスはまったくの素人集団というわけではなく、これまでの既成の運動を担ってきた人たちがこれまでの反省をしつつ関わることで成立した組織であると言うことだろう。
「新自由主義が個人をバラバラにしてきたものが、5月15日運動の広場でコミュニティーができた。」
「ポデモスは誰もがいつでも参加でき、数ヶ月で30万人以上の党員を獲得した。」
これは日本の動きと対称的であり、組織を忌避するのではなく、組織を指向し、積極的に組織をつくる指導力があったということだ。あるいは、「組織」とか「指導」のリスクをわかりつつそれを引き受けたということだろう。
そこには党の違いは厳然とあるけれども、「市民」と「非市民」の区別はみあたらず、どのような運動に関わってきたものでも参加することができる。ここが日本の運動とは決定的に違うところであり、総選挙での躍進のカギだったのではないかと思われる。
繰り返しになるが、もちろん「組織」や「指導」には大きなリスクがある。
何でも投票で決めると言っても、組織はかならず派閥ができ、おごりも生まれ、長期的には腐敗する運命からは逃れられない。
たぶん、ポデモスだろうが何だろうが、多かれ少なかれ同じことだろう。
良い悪いではなく、ポデモスはそのリスクを引き受けながらそれでも前に進んだことによって、選挙という場において大きな現実的な地歩を占めることができた。
そのことから目をそらして、市民運動の盛り上がりがそのまま選挙の勝利に結びついたような錯覚を振りまくのは、ポデモスを語るときの大きな誤りではないのか。
私は、ハイメさんの言葉を聞きながらそのように感じた。
■■
以上から考察できることは、日本でポデモスの猿真似をしても上手くはいかないということだ。
ポデモスは、スペインの歴史を経たスペイン人の琴線に響く政策と言葉で一定の勝利を収めた。
その意味をこそ真似しなければならない。
日本の歴史を経た日本人の琴線に触れる政策と言葉を紡ぎ出さなければならない。
それは、ポデモスと同じ手法では決してなく、自らの頭で考えなくてはならないのだ。
私はそのキモは「日本の独立」だと思っている。
左派的に言うならば「植民地解放」であり、右派的に言うならば「主権の回復」である。
ここを曖昧にした議論は、どんな良いことを言ってもリアリティをもちえない。キレイゴトにしか聞こえない。
いまだ誰も政治のメインストリームでそれを唱えたことのない「日本の独立」を掲げることが、大きな転換点になるだろう。
ただし植民地の悲しさは、それをストレートに口にしたとたん、嵐のような圧迫がふりかかるということだ。
「アジアには第7艦隊だけで充分」と言ったとたんに、陸山会事件というでっち上げ大弾圧が襲いかかった小沢一郎のように。
だから、不用意な発言はするべきではない。
その点では先日来日したウルグアイのムヒカ前大統領のやり方は参考になる。共産ゲリラから政権を取ったのはカストロやチャベスと同じでも、極端な反米主義をとらなかったせいで、カストロやチャベスのように暗殺対象になるのではなく、「いい人」の地位を手に入れることができた。
このバランス感覚と言葉の選び方は、日本人は深く学ぶ必要があるだろう。
宗主国であるアメリカも変わりつつある。
社民主義を標榜するサンダースが、直近では資金も得票もヒラリーを凌駕している。また共和党のトランプは、醜悪な排外主義を振りまきつつも、他方でアメリカはもう植民地経営をしない、と言っている。
どちらの候補も、もし勝利には至らなくとも、アメリカの方向性に大きな影響を残すに違いない。
そんな情勢もにらみつつ、最大の抑圧に対峙しながら市井の声をちゃんと聞く政党の出現が、日本の転換点になる。
それは、民進党ではもちろんないし、桜の木構想でもなく、覚悟した数人の決起から始まるだろう。
ポデモスの話を聞きながら、この救いようがないように見える日本にも、きっと希望の芽は出る。なぜか、妙に楽観的な気分になった。
■■
講演会前半
後半
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