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     このブログで紹介し強く推薦したものの長らく入手困難だった書物が、うれしいことに近年いくつか再登場している。

     社会学文献事典がそうだ。




     ナボコフの文学講義もそうだ。





     そして今、また極めつけの一冊が文庫になって帰ってきた。

    知的トレーニングの技術〔完全独習版〕 (ちくま学芸文庫 ハ 44-1)知的トレーニングの技術〔完全独習版〕 (ちくま学芸文庫 ハ 44-1)
    花村 太郎

    筑摩書房
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     何度か書いていることだけど、このブログの記事の多くは、この書物の自家製増補改訂として書いたものだ。

     増補改訂なので、この本に書いてあることは一応前提だけれど、容易に手に入る本ではなかったから、実のところ、この本で学んだことをほとんどそのまま記事にしたことも多い。
     というのも、自分の読み方・書き方、いくらかでも身についた学び考えるための手わざは、この本を通して(少なくともきっかけとして)身につけたものだからだ。

     このブログで紹介するいろんな〈方法〉がどれも、効果はあるかもしれないが実際のところ面倒くさい「自分の手を動かせ」方式なのも、この本にルーツがある。


     他にも、いくつかの幸福な出会いは、この本のコーディネートによるものである。
     たとえば幸田露伴を、擬古典主義の大家としてではなく、私淑に値する知のクラフトマンとして知ることができたのもこの本を通じてだった。

     徹底して具体的な(つまり読み手が実際に試してみることができる)ノウハウを展開しながら、そうした知的技術の歴史的背景や文脈を、思想家や作家の具体的な知的習慣やエピソードを通じて追ってみせることで、この書は、知的作業の技術書(マニュアル)であると同時に古今東西の(実践的)思想入門書ともなっている。

     例えば、エッカーマン『ゲーテとの対話』は志ばかり高くて実力が伴わないのに大作に挑み続ける天才気取りへの処方として登場し、ヴァレリーやフッサールの習慣だったノートとの対話を題材にヴィコツキーの「内話」概念が投げかける光は、思考を鍛える上での孤独の効用を浮かび上がらせる。ヴァレリーの習慣はまた「朝のみそぎ」としても紹介され、ヤル気を生み出す技術の中核としても取り上げられる。発想法には、ウェゲナー、フロイト、バシュラール、ボルヘス、カイヨワ、山口昌男という反則級のアイコンを投入し、「マジメな文芸評論家たちからは、思想をもたない白痴作家のようにいわれる谷崎潤一郎」の『癇癪老人日記』に人間の文化的次元を定義づける観念的浪費の典型を見、鴎外のエッセイからは文章作成の要諦であるユニット操作の技法が抽出される。

     けれど、どうしてこのような知的巨人たちから学ぶのか。
     我々にはもっと身の丈にあった凡人の技こそ必要なのではないか。

     そうではない。
     たしかにこれら知的巨人たちは非凡な存在だが、彼らがその目とアタマと何よりも手でもって行った一つ一つの作業=手わざはどれもありきたりである。
     我々の目とアタマと手でもってできないことはひとつもない。
     
     我々の発する言葉や繰り広げる思考の一片が、かつてどこかで読んだ、出会ったこともない誰かの言葉や思考に由来したり引き起こされたりすることがあるように、そして我々の社会や文明を形作る無数の知識や知恵が無数の人たちを介して過去から我々に届けられるように、我々が読み書き考える技や仕方もまた、知ってや知らずや、我々が学び受け取ってきたものだ。
     
     知ること考えることは、孤立した営みではあり得ない。
     この書が提起するのは、それをもう少し自覚的にやってみようとすることだ。
     だからこそ、この書物は「どのようにするのか」だけでなく「そのやり方は誰からやってきたのか」「彼はどのようにやったのか」についても具体的であろうとする。


     「トレーニング」というタイトルは、仰ぎ見るほど大きく思える知の巨人ー巨峰ー巨星たちのなすワザと、今この場所でのたうち回る小さな私の悪戦苦闘とが、知の営みにおいて確かに《陸続き》であることを静かに告げている。


     さあ、あなたの番だ、と。


     

     
     
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