野村守夫
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野村守夫 | |
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生誕 |
1904年8月10日[1] 広島県広島市的場町[1] |
死没 |
1979年8月24日(75歳没)[2][1] 東京都杉並区下高井戸[1] |
国籍 | 日本 |
著名な実績 | 洋画 |
代表作 |
「教会のある街」[1] 「丘にある街」[2][1][4] |
受賞 | 「丘にある街」日本芸術院賞(1973年)[2][1][4] |
選出 |
二科会会友(1941年)[1] 二科会会員(1946年)[1] |
活動期間 | 1924年[1] - 1979年[2][1] |
影響を受けた 芸術家 |
藤島武二[2][1] 灰谷正夫[3] 靉光[3] |
野村 守夫(のむら もりお、1904年(明治37年)8月10日[2] - 1979年(昭和54年)8月24日[1])は、日本の洋画家[1][2]。広島県広島市的場町出身[1]。作風は都会的に洗練された叙情味のある作品を描いた[1]。
来歴
[編集]1904年(明治37年)8月10日[2]、広島県広島市的場町に生まれる[1]。1922年(大正11年)、広島市で唯一の印刷所であった谷口印刷所へ就職[3]、図案・石版工に携わる[5]。同期に灰谷正夫、靉光がおり、共に将来画家となることを誓いあった[3]。灰谷正夫、靉光が相次いで退社した後に野村も続き、靉光と共に上京した[3]。
上京後、東京都小石川の川端画学校で藤島武二に洋画を学び、1924年(大正13年)第14回二科展出品作「花などの静物」以降、もっぱら二科展に出品を続けた[2][1]。
1935年(昭和10年)渡欧、ヨーロッパの都市風景を多く描いた[2]。1936年(昭和11年)、故郷広島市の広島県産業奨励館[注釈 1]で開催された第一回芸州美術展に参加[6]。翌1937年(昭和12年)、靉光らと共に広島フォルム美術協会に参加するも、1938年(昭和13年)に中川為延と共に同会を脱退[6]。1939年には日中戦争当時のハルビンを描いた油絵「ハルビン太陽島」を残している[4][注釈 2]。
1941年二科会会友[1]となる。戦後は二科会再建に際し会員に推薦された[1]。1973年(昭和48年)第57回二科展出品作「丘にある街」が日本芸術院賞恩賜賞受賞[2][1][注釈 3]。同年、ブラジル政府よりコメンダドール章受章[1]。
1979年(昭和54年)8月24日、急性肺炎のため東京都杉並区のロイヤル病院にて死去、享年75[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「野村守夫」(2015年12月14日)、2016年10月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “野村守夫”. コトバンク. 2016年10月2日閲覧。
- ^ a b c d e 金田晋, p. 260.
- ^ a b c d “故野村守夫氏の反戦画発見/中国・瀋陽、一般公開へ”. 四国新聞社 (2006年4月20日). 2016年10月2日閲覧。
- ^ “【灰谷正夫 作品展】”. 八千代の丘美術館 (2013年). 2016年10月2日閲覧。
- ^ a b c 金田晋, p. 262.
- ^ “作品詳細”. 日本芸術院. 2016年10月2日閲覧。
参考文献
[編集]- 広島大学総合科学部『金田晉、第二次世界大戦後の広島美術の出発点の一側面 : 戦後広島の美術的展開[I]』広島大学総合科学部〈<研究報告書>日本社会論および国際社会論からみた広島についての総合的研究〉、1989年、257-267頁。 NCID BA79766868 。