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佐藤助雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
佐藤 助雄
(さとう すけお)
生誕 1919年4月22日[2]
山形県山形市[2]
死没 (1987-10-19) 1987年10月19日(68歳没)[2]
東京都世田谷区[2]
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 彫刻
受賞 文部大臣賞
1976年 地と風[2]
日本芸術院賞
1980年 振向く[2]
選出 日展監事(1987年)[2]
日本彫刻会委員長(1982年)[3]
メモリアル 佐藤記念館[1]
活動期間 昭和時代[3]
影響を受けた
芸術家
仏師の父親[2][3]
後藤良[2]
北村西望[2][3]
富永直樹[2]
影響を与えた
芸術家
長男佐藤良助[4]
次男佐藤敬助[4]

佐藤 助雄(さとう すけお、1919年大正8年)4月22日 - 1987年昭和62年)10月19日)は、日本彫刻家[2]山形県山形市出身[2]

初め木彫り彫刻を志し、後にブロンズ像に転向した[3]。おおらかで詩的な人物像を得意とした[2]

長男は日本画家佐藤良助。次男は彫刻家で長崎大学名誉教授の佐藤敬助[4]

来歴

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1919年(大正8年)4月22日、仏師の父親の息子として山形県山形市に生まれる[2]。父に木彫りを学んだ後、1936年(昭和11年)上京し木彫り彫刻家後藤良の内弟子となる[2]

1939年(昭和14年)、日本美術協会展出品作「ことり」が銅賞受賞[2]。1941年(昭和16年)、第4回新文展出品作「後庭菜果」が初入選[2]。1943年(昭和18年)、第6回新文展で「従軍看護婦」が特選受賞、政府買い上げ[2]

戦後塑像に転向し、山形県展などで塑像出品による受賞を重ねた後、1954年(昭和29年)以降北村西望富永直樹などに師事する[2]。1955年(昭和30年)第11回日展出品作「布を纒ふ女」、翌1956年(昭和31年)第12回日展出品作「清立」は2年連続の特選受賞となった[2]

1959年(昭和34年)より日展会員、1964年(昭和39年)日展評議員、1981年(昭和56年)日展理事、1987年(昭和62年)日展監事[2]。この間、しばしば日展審査員を務めた[2]

1976年(昭和51年)第8回改組日展「地と風」が文部大臣賞を受賞[2]。1979年(昭和54年)第3回グループ絆展出品作「振向く」により第36回日本芸術院賞を受賞[2][5]

1987年(昭和62年)10月19日、東京都世田谷区東急世田谷線宮坂第2号踏切で自殺を図り轢死享年68[2][6]

主な作品

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脚注

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  1. ^ 佐藤記念館”. PORTAL TOKYO. 2016年11月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「佐藤助雄」(2015年12月14日)、2016年11月29日閲覧。
  3. ^ a b c d e 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus (2015年). “佐藤助雄 さとう すけお”. コトバンク. 2016年11月29日閲覧。
  4. ^ a b c 『現代物故者事典 2015~2017』(日外アソシエーツ、2018年)p270、 2018年10月27日 (土) 18:49 (UTC)閲覧。
  5. ^ 歴代授賞者一覧”. 日本芸術院. 2016年11月29日閲覧。
  6. ^ 朝日新聞 1987年10月19日夕刊1面
  7. ^ 母子像”. 秦野市 (2012年1月25日). 2016年11月29日閲覧。
  8. ^ 庁舎美術品” (PDF). 山形市. p. 1 (2014年4月). 2016年11月29日閲覧。
  9. ^ a b 平和に関するモニュメントのご紹介”. 世田谷区 (2012年7月30日). 2016年11月29日閲覧。
  10. ^ 世田谷公園”. 世田谷区. 2016年11月29日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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