渡嘉敷島での軍夫の逃亡事件と第三戦隊による処刑(上)の続きです。
赤瓦の家―朝鮮から来た従軍慰安婦
(川田文子、筑摩書房、1987年)
p160~171 軍夫の逃亡
陣中日誌には、逃亡事件と軍夫らについて次のような記述がある。(軍夫についての記述は復刻版発刊に際して加えられたものと思われる)
〈六月三十日 ○六〇〇 第三中隊所属水上勤務隊軍夫吉本(名不詳)より岩村班等昨夜逃亡せる旨報告あり、一四三〇 阿波連駐止斥候連下隊(れんげたい)より連絡兵二名特設水上勤務隊曾根一等兵を主謀とする某事件の報告を受く。一八○○ (*1)新海中尉以下二十二名捜索隊を編成、曾根一等兵以下の偵察に出発す。
某事件とは
特設水上勤務隊斎田少尉以下二四〇名朝鮮人を主力とする軍夫で戦隊の舟艇を秘匿する舟艇壕の掘進、舟艇の泛水、引揚、器材の運搬を目的として集められ戦場へかり出されたものである。敵の上陸後は西山複廓陣地に於いて日夜連日陣地作り(防空壕、タコ壺掘り)弾薬器材の集積に従事し武装する兵器なく、唯自決用の手榴弾一コのみ与えられたるまったくの丸腰である。敵弾の落下する中、不足したる食糧に飢え精神的な焦燥に耐え切れず敵軍に集団投降を企て逃亡したる事件である。〉
敵前逃亡は発覚すれば死刑は免れない。この生命がけの行動を約二十名の軍夫は呼びかけられると同時に決断した。約二十名もの軍夫がこの決死行を瞬時に決意したのは、それ以前に第三戦隊で、死ぬ以上の苦しみを味わい尽していたからである。軍夫の置かれていた状況からすれば、第三戦隊にとどまって生きのびることの方がむしろ困難だという実感が、曾根氏以上に濃厚だったとしても不思議ではない。
逃亡を呼びかけられたが、踏みきれない軍夫もいた。二三四高地で生き抜く困難を承知していても、逃亡の成功も確信できなかったし、仮に米軍への投降が成功したにしても、米軍が捕虜に対してどのような扱いをするのか、咄嗟(とっさ)には推測できなかったからだ。
―――軍夫長が話したのは一時間もないんだ。三十分か四十分位。それですぐ降りたんすけんな。わずかな時間じゃけん、咄嗟に決断のつかない軍夫はおったんだろうと思う。(中略)
戦隊本部が曾根氏と軍夫らの逃亡を把握したのは午前六時、すでに一行が渡嘉志久(とかしく)に到着している頃だ。最初に連絡に駈けつけたのは、曾根氏と同じ第三中隊に所属していた朝鮮人軍夫の吉本であった。第三中隊の壕から本部まで、たいして離れてはいない。吉本が本部へ報告に行ったのは、一行が二三四高地を出て数時間もしてからだ。
本部から阿波連(あはれん)陣地へ有線通信が通じれば、渡嘉志久に近い阿波連から捜索隊を急行させるということも戦隊幹部は考えたろう。だが、三月下旬の空襲で通信線は切断され、復旧されないまま放置されていた。阿波連とは徒歩以外に連絡の方法はない。軍夫逃亡に気づいた阿波連から駐止斥候隊の連絡兵二名が本部へ駈けつけたのは午後二時半である。そして、曾根一等兵の直属上官である第三中隊長新海中尉以下二十二名が捜索に出るのが午後六時。対応の遅れが目につくが、日中、大がかりな捜索をくり出すのは米軍の砲弾に当たりに行くようなものであったから、日没を待っての出発になったのだろう。
米軍の上陸舟艇で座間味島に連れて行かれた曾根一等兵と軍夫は、別々の収容所に入れられた。慰安所にいた女たちも別の収容所に入れられたようだ。六月三十日未明の数時間、決死の行動をともにした軍夫や女だちとは、それっきりになった。
そして、問もなく、曾根一等兵は米軍の取調べを受けた。通訳には沖縄本島の糸満出身だという日系二世の米兵があたっていた。(中略)曾根氏は通訳を通して執拗に繰返される質問に、「自分は無学で地図の見方は分らない」の一点張りで、返答を頑強に拒絶した。担当官は首を大きく横に振って、取調べを断念した。
座間味島の収容所では、阿嘉(あか)島の第二戦隊から投降していた染谷少尉と顔を合わせた。座間味島の第一戦隊長梅沢裕少佐も米軍に投降してすでに久しいと聞いた。
二十名余の軍夫らを率いての曾根一等兵の米軍役降は、第三戦隊幹部に大恐慌を巻き起こしたことが、陣中日誌を辿ると容易に想像される。いや、それ以前、六月二十二日の沖繩本島軍司令部の「最後の斬り込みを敢行す」の電報が、二三四高地の小さな谷問に追い込まれている第三戦隊幹部に決定的な打撃を与えていたに違いない。
二十二日を起点に、これまで大日本帝国の天皇の軍隊として第三戦隊を支えてきたものが、急速に崩壊しはじめ、その崩壊感覚の中で赤松戦隊長をはじめ、戦隊幹部は、狂気にかられていく。そのぎざしは、二十六日、軍夫三名に対する“処刑”となって現れた。
〈六月二十六日 作業に陣地蜂に出る者、部落民に糧秣を強要する者あり。強奪せしものは厳罰に処す旨各部隊に通報す。水上勤務隊軍夫三名氏名不詳、恩納河原(おんなかわら)に於いて糧秣を強要したる模様なり。〉
陣中日誌には住民に糧秣を強要した軍夫三名に対する処罰がどのように行なわれたか、明らかにされていない。三名の軍夫は“処刑”されたのである。元第三戦隊副官知念朝睦(ちねんちょうぼく)少尉は、三名の“処刑”にあたったことを証言している。知念副官は沖縄出身の将校である。(中略)日本兵以上に栄養失調に陥っている軍夫が、人目を盗んで住民の食料を盗んだことは確かにあっただろう。(中略)軍夫が日本兵以上に空腹に耐えていることを島の人々は知ってはいたが、同情だけで食物を分け与えられるような余裕は微塵もなかった。軍夫が食物を手に入れようとすれば、
盗むか、強奪するしかなかったのである。
わずかな食料がもとで三名の同胞が日本軍によって殺されたという事件は、軍夫長フクダが曾根一等兵からの米軍への投降を伝えた時、軍夫たちの咄嗟の判断に少なからぬ影響を与えたに違いない。
そして、六月三十日の曾根一等兵と軍夫らの米軍への集団投降成功後には、戦隊幹部の狂気はさらに沖縄住民に向けられていく。
〈七月二日……晴れ 日時不詳。防衛隊員大城(おおしろ)徳安 数度に亘り陣地より脱走中発見、敵に通ずる虞(おそれ)ありとして処刑す。〉
大城徳安防衛隊員は渡嘉敷国民学校の教頭であった。(中略)
この日の陣中日誌はもうひとつの“処刑”を記している。
〈米軍に捕えられたる伊江島の住民米軍の指示により投降勧告、戦争忌避の目的を以って陣地に進入、前信(ママ)陣地之(これ)を捕らえ戦隊長に報告、戦隊長之を拒絶、陣地の状熊を暴路したる上は日本人として自決を勧告す、女子自決を諾し斬首を希望自決を抱(ママ)助す。〉
知念元副官によれば“処刑”されたのは男女四名である。刑執行は、戦隊長命令で経験を積むためにと“斬首”の経験のない者に命じられた。そのため、同名のうち女性一名が完全に死にきれないまま土をかぶせられた。その女性は首筋に重傷を負いながらも自力で土中から這い出し、その場を逃れた。だが、再び捕えられ、二度目の“処刑”は知念副官が行なった。
知念副官は以前、米軍によって渡嘉敷島に移住させられた伊江村民の収容所に情報収集のため潜入したことがあった。その時、逃げ出した女性とは顔見知りになっていた。沖縄出身であることから、知念副官にその女性を逃がした嫌疑がかけられ、二度目の刑執行は知念副官に命じられたのである。
二件の沖縄住民虐殺の後、第三戦隊は思い出したかのように逃亡者捜索隊を再度繰出した。
〈七月四日 知念小(ママ)尉以下十名、曾根一等兵及軍夫捜索の為、渡嘉敷島南部阿波連(あはれん)方面に向い出発す。〉
そして翌日、この捜索隊は″逃亡者四名″を発見、本部に連れ帰る。
〈七月五日 ○二〇〇 須賀上等兵以下二名、捜索隊より帰隊す。一三〇〇 捜索隊河崎軍曹以下七名逃亡者四名を逮捕し、本部に護送帰隊す。本日を以って捜索隊を解散各原隊に復帰せしむ。〉
曾根氏が率いた二十名余の軍夫らは全員米軍に投降している。河崎軍曹以下七名の捜索隊が本部に護送したという「逃亡者四名」とは、はたしてどんな″逃亡者″だったのか。少なくとも曾根氏が率いた軍夫でないことは確かだ。
曾根氏が軍夫長フクダを通して脱出を呼びかけた時、決断しきれなかった軍夫が、曾根氏らの米軍投降の成功を見て、その後を追ったことはあり得よう。直接フクダから誘いかけられたのではなくても、同胞の投降成功に力を得て、意を決して行動に走った者がいた、とも想像できる。しかし、それなら、再度起った軍夫らの逃亡は、当然、陣中日誌に記載されるはずだ。が、それにあたる記述はない。
ここでひとつの推測が成り立つ。「逃亡者四名」の発見は、第三戦隊幹部のデッチあげではなかったか。
曾根一等兵と軍夫らが姿を消してから、すでに四、五日を経過している。逃亡者が米軍に投降したことは、間もなく誰の目にも明らかとなろう。食料もなく、米軍にとり囲まれた小さな島で、第三戦隊の目に触れずに生き伸びることなど、とうてい不可能だからだ。投降に失敗して生命を落したとすれば、屍体や遺品がいずれ発見されるはずだ。二十名余の米軍投降成功は、隠し通せはしない。が、第三戦隊幹部は、絶対にそれを看過するわけにはいかなかった。このまま見過ごせば、第三戦隊の統率力はなし崩しになる。少なくとも今後、逃亡の歯止めは何もなくなる。どうしても逃亡者に対する制裁の儀式が行なわれなければならなかった。そこで、事件とは何の関わりもない四名の軍夫が制裁の儀式の犠牲として引立てられたのではなかったか。
制裁の儀式がすめば、逃亡者と逮捕者の人数の帳尻か合わなくても、一応目的ははたせ、「本日を以って捜索隊を解散各原隊に復帰せしむ」と、第三戦隊に於ける曾根一等兵と軍夫らの米軍投降事件は、落着するのである。
第三戦隊が六月二十二日、沖縄本島軍司令部からの「最後の斬り込みを敢行す」の電報を受けてからわずか二週間の間に、明らかにされているだけでも、沖縄住民に対する″処刑″が二件、朝鮮人軍夫に対する″処刑″が一件、計八名が日本軍の手によって生命を奪われた。これに「逃亡者四名」を加えると、その数は十二名になる。この他にも、日時は不詳であるが、軍夫の″処刑″が阿波連(あはれん)の斥候連下隊に於いて行なわれたことを知念氏が証言している。また、曾根氏は、軍夫を″処刑″したとして特設水上勤務隊小隊長斎田少尉が捕虜収容所の中で追及されるのを目撃した。
―――あれは軍夫が反抗したとか何とかでなくて、栄養失調で弱って仕事できんようになったんでしょうね。命令しても動けなくなって、坐り込んでしもうた。それを斎田少尉が横着で仕事せんように判断して処刑した。収容所で軍夫たちからだいぶ追及されよったね。斎田少尉もいいわけして、あれは殺さんでも、処刑しなくても死にそうじゃったんじゃ言うてね、いろいろいいわけしとりました。軍夫たちもそれ以上追及しなかった。斎田少尉という人、悪い人でなかったんですけど、見せしめのためにやったんやろ、思うんです。
軍夫の死亡は、第三戦隊による″処刑″はもちろん、四月十六日以降、戦死も、戦病死も、栄養失調による死も、いっさい、陣中日誌には記載されていない。
(中略)話しの途中、曾根氏は老夫人が茶を入れたついでに、しばらく耳を傾けていたりすると、質問への回答を曖昧にはぐらかした。二、三回それが続いて怪訝(かいが)に思っていると、何気ない素振りで私を初夏の庭先へと誘った。午前の澄んだ日射しが心地よかった。塀や垣根といった遮蔽物がなく、庭の造木は周囲の田畑や道にとけ込んでいた。築山や庭木がほどよく配され、手入れのゆきとどいた庭に見とれていると、背後で、外へ連れ出した理由が明かされた。
「あの件は、妻にも家族にも話しておらないんです。私のとった行動は決して恥ずべきことではない、と思っておるが、その一方で、あの一件を明かせば、この辺りでも批難中傷する人が出てくるだろうことも充分承知しております。……」
(中略)私は慄然とした。保守的基盤に執拗に呪縛されている風土の中で、持続し続けてきた老農夫の孤高な反骨の精神に触れた思いがした。(中略)私は曾根氏に、ずっと気になっていたことがらを問おうか、問うまいか、ちゅうちょしていた。どうきり出してよいか分らなかった。しかし、それをちゅうちょして問わないことは、曾根氏にも、披差別部落で、故のない差別に呻吟している人々にも失礼になる。私は尋ねた。
「曾根さんは披差別部落出身で、牛や豚の肉を捌(さば)くのが上手いので、現地自活班に入れられたのだと、赤松さんが言っていたのですが……」
二、三秒、静かな時が流れた。それから、吐息の混った低い声で曾根氏は答えた。
「わたしは違います。しかし、そういうことを言って人をおとしめたつもりになっているあの方の、人間としての品性を疑いますね」
(以上)

渡嘉敷島の戦闘地図(クリックすると大きくなります。)
【追記】
(*1)赤松嘉次元戦隊長によると新海中尉はのちに栄養失調で亡くなったそうです。
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渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度
赤瓦の家―朝鮮から来た従軍慰安婦
p160~171 軍夫の逃亡
陣中日誌には、逃亡事件と軍夫らについて次のような記述がある。(軍夫についての記述は復刻版発刊に際して加えられたものと思われる)
〈六月三十日 ○六〇〇 第三中隊所属水上勤務隊軍夫吉本(名不詳)より岩村班等昨夜逃亡せる旨報告あり、一四三〇 阿波連駐止斥候連下隊(れんげたい)より連絡兵二名特設水上勤務隊曾根一等兵を主謀とする某事件の報告を受く。一八○○ (*1)新海中尉以下二十二名捜索隊を編成、曾根一等兵以下の偵察に出発す。
某事件とは
特設水上勤務隊斎田少尉以下二四〇名朝鮮人を主力とする軍夫で戦隊の舟艇を秘匿する舟艇壕の掘進、舟艇の泛水、引揚、器材の運搬を目的として集められ戦場へかり出されたものである。敵の上陸後は西山複廓陣地に於いて日夜連日陣地作り(防空壕、タコ壺掘り)弾薬器材の集積に従事し武装する兵器なく、唯自決用の手榴弾一コのみ与えられたるまったくの丸腰である。敵弾の落下する中、不足したる食糧に飢え精神的な焦燥に耐え切れず敵軍に集団投降を企て逃亡したる事件である。〉
敵前逃亡は発覚すれば死刑は免れない。この生命がけの行動を約二十名の軍夫は呼びかけられると同時に決断した。約二十名もの軍夫がこの決死行を瞬時に決意したのは、それ以前に第三戦隊で、死ぬ以上の苦しみを味わい尽していたからである。軍夫の置かれていた状況からすれば、第三戦隊にとどまって生きのびることの方がむしろ困難だという実感が、曾根氏以上に濃厚だったとしても不思議ではない。
逃亡を呼びかけられたが、踏みきれない軍夫もいた。二三四高地で生き抜く困難を承知していても、逃亡の成功も確信できなかったし、仮に米軍への投降が成功したにしても、米軍が捕虜に対してどのような扱いをするのか、咄嗟(とっさ)には推測できなかったからだ。
―――軍夫長が話したのは一時間もないんだ。三十分か四十分位。それですぐ降りたんすけんな。わずかな時間じゃけん、咄嗟に決断のつかない軍夫はおったんだろうと思う。(中略)
戦隊本部が曾根氏と軍夫らの逃亡を把握したのは午前六時、すでに一行が渡嘉志久(とかしく)に到着している頃だ。最初に連絡に駈けつけたのは、曾根氏と同じ第三中隊に所属していた朝鮮人軍夫の吉本であった。第三中隊の壕から本部まで、たいして離れてはいない。吉本が本部へ報告に行ったのは、一行が二三四高地を出て数時間もしてからだ。
本部から阿波連(あはれん)陣地へ有線通信が通じれば、渡嘉志久に近い阿波連から捜索隊を急行させるということも戦隊幹部は考えたろう。だが、三月下旬の空襲で通信線は切断され、復旧されないまま放置されていた。阿波連とは徒歩以外に連絡の方法はない。軍夫逃亡に気づいた阿波連から駐止斥候隊の連絡兵二名が本部へ駈けつけたのは午後二時半である。そして、曾根一等兵の直属上官である第三中隊長新海中尉以下二十二名が捜索に出るのが午後六時。対応の遅れが目につくが、日中、大がかりな捜索をくり出すのは米軍の砲弾に当たりに行くようなものであったから、日没を待っての出発になったのだろう。
米軍の上陸舟艇で座間味島に連れて行かれた曾根一等兵と軍夫は、別々の収容所に入れられた。慰安所にいた女たちも別の収容所に入れられたようだ。六月三十日未明の数時間、決死の行動をともにした軍夫や女だちとは、それっきりになった。
そして、問もなく、曾根一等兵は米軍の取調べを受けた。通訳には沖縄本島の糸満出身だという日系二世の米兵があたっていた。(中略)曾根氏は通訳を通して執拗に繰返される質問に、「自分は無学で地図の見方は分らない」の一点張りで、返答を頑強に拒絶した。担当官は首を大きく横に振って、取調べを断念した。
座間味島の収容所では、阿嘉(あか)島の第二戦隊から投降していた染谷少尉と顔を合わせた。座間味島の第一戦隊長梅沢裕少佐も米軍に投降してすでに久しいと聞いた。
二十名余の軍夫らを率いての曾根一等兵の米軍役降は、第三戦隊幹部に大恐慌を巻き起こしたことが、陣中日誌を辿ると容易に想像される。いや、それ以前、六月二十二日の沖繩本島軍司令部の「最後の斬り込みを敢行す」の電報が、二三四高地の小さな谷問に追い込まれている第三戦隊幹部に決定的な打撃を与えていたに違いない。
二十二日を起点に、これまで大日本帝国の天皇の軍隊として第三戦隊を支えてきたものが、急速に崩壊しはじめ、その崩壊感覚の中で赤松戦隊長をはじめ、戦隊幹部は、狂気にかられていく。そのぎざしは、二十六日、軍夫三名に対する“処刑”となって現れた。
〈六月二十六日 作業に陣地蜂に出る者、部落民に糧秣を強要する者あり。強奪せしものは厳罰に処す旨各部隊に通報す。水上勤務隊軍夫三名氏名不詳、恩納河原(おんなかわら)に於いて糧秣を強要したる模様なり。〉
陣中日誌には住民に糧秣を強要した軍夫三名に対する処罰がどのように行なわれたか、明らかにされていない。三名の軍夫は“処刑”されたのである。元第三戦隊副官知念朝睦(ちねんちょうぼく)少尉は、三名の“処刑”にあたったことを証言している。知念副官は沖縄出身の将校である。(中略)日本兵以上に栄養失調に陥っている軍夫が、人目を盗んで住民の食料を盗んだことは確かにあっただろう。(中略)軍夫が日本兵以上に空腹に耐えていることを島の人々は知ってはいたが、同情だけで食物を分け与えられるような余裕は微塵もなかった。軍夫が食物を手に入れようとすれば、
盗むか、強奪するしかなかったのである。
わずかな食料がもとで三名の同胞が日本軍によって殺されたという事件は、軍夫長フクダが曾根一等兵からの米軍への投降を伝えた時、軍夫たちの咄嗟の判断に少なからぬ影響を与えたに違いない。
そして、六月三十日の曾根一等兵と軍夫らの米軍への集団投降成功後には、戦隊幹部の狂気はさらに沖縄住民に向けられていく。
〈七月二日……晴れ 日時不詳。防衛隊員大城(おおしろ)徳安 数度に亘り陣地より脱走中発見、敵に通ずる虞(おそれ)ありとして処刑す。〉
大城徳安防衛隊員は渡嘉敷国民学校の教頭であった。(中略)
この日の陣中日誌はもうひとつの“処刑”を記している。
〈米軍に捕えられたる伊江島の住民米軍の指示により投降勧告、戦争忌避の目的を以って陣地に進入、前信(ママ)陣地之(これ)を捕らえ戦隊長に報告、戦隊長之を拒絶、陣地の状熊を暴路したる上は日本人として自決を勧告す、女子自決を諾し斬首を希望自決を抱(ママ)助す。〉
知念元副官によれば“処刑”されたのは男女四名である。刑執行は、戦隊長命令で経験を積むためにと“斬首”の経験のない者に命じられた。そのため、同名のうち女性一名が完全に死にきれないまま土をかぶせられた。その女性は首筋に重傷を負いながらも自力で土中から這い出し、その場を逃れた。だが、再び捕えられ、二度目の“処刑”は知念副官が行なった。
知念副官は以前、米軍によって渡嘉敷島に移住させられた伊江村民の収容所に情報収集のため潜入したことがあった。その時、逃げ出した女性とは顔見知りになっていた。沖縄出身であることから、知念副官にその女性を逃がした嫌疑がかけられ、二度目の刑執行は知念副官に命じられたのである。
二件の沖縄住民虐殺の後、第三戦隊は思い出したかのように逃亡者捜索隊を再度繰出した。
〈七月四日 知念小(ママ)尉以下十名、曾根一等兵及軍夫捜索の為、渡嘉敷島南部阿波連(あはれん)方面に向い出発す。〉
そして翌日、この捜索隊は″逃亡者四名″を発見、本部に連れ帰る。
〈七月五日 ○二〇〇 須賀上等兵以下二名、捜索隊より帰隊す。一三〇〇 捜索隊河崎軍曹以下七名逃亡者四名を逮捕し、本部に護送帰隊す。本日を以って捜索隊を解散各原隊に復帰せしむ。〉
曾根氏が率いた二十名余の軍夫らは全員米軍に投降している。河崎軍曹以下七名の捜索隊が本部に護送したという「逃亡者四名」とは、はたしてどんな″逃亡者″だったのか。少なくとも曾根氏が率いた軍夫でないことは確かだ。
曾根氏が軍夫長フクダを通して脱出を呼びかけた時、決断しきれなかった軍夫が、曾根氏らの米軍投降の成功を見て、その後を追ったことはあり得よう。直接フクダから誘いかけられたのではなくても、同胞の投降成功に力を得て、意を決して行動に走った者がいた、とも想像できる。しかし、それなら、再度起った軍夫らの逃亡は、当然、陣中日誌に記載されるはずだ。が、それにあたる記述はない。
ここでひとつの推測が成り立つ。「逃亡者四名」の発見は、第三戦隊幹部のデッチあげではなかったか。
曾根一等兵と軍夫らが姿を消してから、すでに四、五日を経過している。逃亡者が米軍に投降したことは、間もなく誰の目にも明らかとなろう。食料もなく、米軍にとり囲まれた小さな島で、第三戦隊の目に触れずに生き伸びることなど、とうてい不可能だからだ。投降に失敗して生命を落したとすれば、屍体や遺品がいずれ発見されるはずだ。二十名余の米軍投降成功は、隠し通せはしない。が、第三戦隊幹部は、絶対にそれを看過するわけにはいかなかった。このまま見過ごせば、第三戦隊の統率力はなし崩しになる。少なくとも今後、逃亡の歯止めは何もなくなる。どうしても逃亡者に対する制裁の儀式が行なわれなければならなかった。そこで、事件とは何の関わりもない四名の軍夫が制裁の儀式の犠牲として引立てられたのではなかったか。
制裁の儀式がすめば、逃亡者と逮捕者の人数の帳尻か合わなくても、一応目的ははたせ、「本日を以って捜索隊を解散各原隊に復帰せしむ」と、第三戦隊に於ける曾根一等兵と軍夫らの米軍投降事件は、落着するのである。
第三戦隊が六月二十二日、沖縄本島軍司令部からの「最後の斬り込みを敢行す」の電報を受けてからわずか二週間の間に、明らかにされているだけでも、沖縄住民に対する″処刑″が二件、朝鮮人軍夫に対する″処刑″が一件、計八名が日本軍の手によって生命を奪われた。これに「逃亡者四名」を加えると、その数は十二名になる。この他にも、日時は不詳であるが、軍夫の″処刑″が阿波連(あはれん)の斥候連下隊に於いて行なわれたことを知念氏が証言している。また、曾根氏は、軍夫を″処刑″したとして特設水上勤務隊小隊長斎田少尉が捕虜収容所の中で追及されるのを目撃した。
―――あれは軍夫が反抗したとか何とかでなくて、栄養失調で弱って仕事できんようになったんでしょうね。命令しても動けなくなって、坐り込んでしもうた。それを斎田少尉が横着で仕事せんように判断して処刑した。収容所で軍夫たちからだいぶ追及されよったね。斎田少尉もいいわけして、あれは殺さんでも、処刑しなくても死にそうじゃったんじゃ言うてね、いろいろいいわけしとりました。軍夫たちもそれ以上追及しなかった。斎田少尉という人、悪い人でなかったんですけど、見せしめのためにやったんやろ、思うんです。
軍夫の死亡は、第三戦隊による″処刑″はもちろん、四月十六日以降、戦死も、戦病死も、栄養失調による死も、いっさい、陣中日誌には記載されていない。
(中略)話しの途中、曾根氏は老夫人が茶を入れたついでに、しばらく耳を傾けていたりすると、質問への回答を曖昧にはぐらかした。二、三回それが続いて怪訝(かいが)に思っていると、何気ない素振りで私を初夏の庭先へと誘った。午前の澄んだ日射しが心地よかった。塀や垣根といった遮蔽物がなく、庭の造木は周囲の田畑や道にとけ込んでいた。築山や庭木がほどよく配され、手入れのゆきとどいた庭に見とれていると、背後で、外へ連れ出した理由が明かされた。
「あの件は、妻にも家族にも話しておらないんです。私のとった行動は決して恥ずべきことではない、と思っておるが、その一方で、あの一件を明かせば、この辺りでも批難中傷する人が出てくるだろうことも充分承知しております。……」
(中略)私は慄然とした。保守的基盤に執拗に呪縛されている風土の中で、持続し続けてきた老農夫の孤高な反骨の精神に触れた思いがした。(中略)私は曾根氏に、ずっと気になっていたことがらを問おうか、問うまいか、ちゅうちょしていた。どうきり出してよいか分らなかった。しかし、それをちゅうちょして問わないことは、曾根氏にも、披差別部落で、故のない差別に呻吟している人々にも失礼になる。私は尋ねた。
「曾根さんは披差別部落出身で、牛や豚の肉を捌(さば)くのが上手いので、現地自活班に入れられたのだと、赤松さんが言っていたのですが……」
二、三秒、静かな時が流れた。それから、吐息の混った低い声で曾根氏は答えた。
「わたしは違います。しかし、そういうことを言って人をおとしめたつもりになっているあの方の、人間としての品性を疑いますね」
(以上)

渡嘉敷島の戦闘地図(クリックすると大きくなります。)
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(*1)赤松嘉次元戦隊長によると新海中尉はのちに栄養失調で亡くなったそうです。
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渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度

赤瓦の家―朝鮮から来た従軍慰安婦
(筑摩書房、1987年)本書は川田文子氏が1944年に朝鮮から沖縄の渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島の慰安所に連れてこられた朝鮮人女性21人のうちの1人ペ・ポンギさんを取材して書かれたルポタージュなんですが、沖縄戦についても多くの証言が収録されています。その中に渡嘉敷島で曾根という一等兵が慰安婦(キクマルとスズランの2人)と朝鮮人軍夫約20名を連れて米軍に投降した事件について取材されている箇所があるのでOCRかましてP146~P171までをテキスト化してみました。
P146~P160 軍夫の逃亡
一九四五年六月三十日、曾根という一等兵が朝鮮人軍夫を連れて二三四高地を脱出、米軍に投降したという事件があった。第三戦隊の元将兵によれば、この時、慰安所の女も一緒だったという。第三戦隊の隊長であった赤松嘉次氏は次のように語った。
―――女の方は曾根一等兵と一緒、バラバラではとても複廓陣地(二三四高地)を出られません。友軍が陣地の周囲に歩哨(ほしょう)を置いているし、敵との間に距離がある。そこに地雷があるし、夜が明けると米軍にやられるから通れない。
当時も今も阿波連(あはれん)に住んでおられ、現地召集された元防衛隊員の大城良平氏は、歩哨に立っていた兵隊から次のように聞いた。
―――その時に姿を見たという歩哨の兵隊によると、やっぱり女連中も鉄兜披って、軍服つけとった、となるがね。
キクマルとスズランは、同胞の軍夫らとともに米軍に投降したようだ。この一団を率いたといわれている曾根一等兵は、赤松元戦隊長によると四国・松山の披差別部落出身で、現地自活班に組込まれていたという。
―――牛なんか殺してうまく料理してくれましたよ。その関係で現地自活班に入っていました。西山(二三四高地)に本部を置いた時、阿波連では自活班が倒れた家の下から塩干とか、いろんな食べ物を掘り出したり、豚とか山羊をとって軍夫が夜運んでくる。それをうまい具合にさばいていました。
現地自活班は主として地元出身の防衛隊員や朝鮮人軍夫で構成されていた。阿波連の現地自活班で炊事班長をしていた大城元防衛隊員は、軍夫逃亡事件の概要を次のように語った。
―――曽根という男は俺の所から逃げた。(中略)軍夫は炊事班に五名はおった。私が炊事班長を務めて、この方たちを使って炊事をやらした。この方たちも皆、曾根がひっぱって逃げた。
大城元防衛隊員の証言から、曾根一等兵が軍夫らと綿密に連絡をとった上での逃亡実行であっただろうことがうかがえる。知念朝睦(ちょうぼく)元副官も同様に指摘した。
―――軍夫、朝鮮の方たち、あのときいっせいにいなくなりました。(中略)曾根一等兵は朝鮮語うまかったんじゃないですか。
私は曾根一等兵に会いたいと思った。曾根一等兵に会えば、キクマルとスズランの戦後の動向までは分からないにしても、渡嘉敷島からの脱出が無事に果たされたか否か分かるはずだ。(中略)曾根一等兵に関しては、実は数年前一度、(厚生省に)本籍調査を依頼したことがある。(中略)本来の目的を曖昧にしたのがいけなかったのだろう。二、三回の電話の対応で断られた。その後、私は出産で身動きとれなくなり、曾根一等兵に会わずにいることが気がかりになりながら原稿を書き進めていた。(中略)改めて厚生省にダイヤルを回し、取材を告げた。(中略)曾根一等兵の名前が見つけ出された。私の胸は高ぶった。数年来、気になりながら出会えずにいた人が、遠い距離を隔ててはいるが、受話器の向こうにいる。
「何でもお話ししますよ。今でも私は自分のしたことが間違いであったとは思わないし、何ら後めたいところもありません」きっぱりとした口調であった。「今でも残念でならないのは、日本の兵隊を一人も連れて来れなかったことです。あの後、戦友が何人も死んでいます。なぜ、あの時、誘い出せなかったのか……」
(中略)曾根氏は松山の出身ではなかった。松山の近くの土居町が本籍地で、現在もそこに住んでおられる。初夏、私は二歳の娘を連れて、教えられた予讃本線の伊予土居に向かった。(中略)曾根氏は農家の次男として愛媛県土居町に生まれ育った。(中略)二十歳の時、神戸に出、ダンロップ工場に勤めた。(中略)その後、小倉に移り、妻を娶(めと)って食料品販売業を営んでいたが、戦況が悪化したため、一九四四年四月、土居町へ家族を連れて帰ってきた。召集令状が届いたのは、そのわずか二か月後の六月である。もうすでに三十代半ば。十歳になる長女を頭に三人の娘がいた。家族を残して、身を切られるような出征であった。
そして、九月、第三港設隊(海上挺進基地第三大隊)として編成され、宇品を出発した。(中略)それでも、渡嘉敷島に到着した当初は、基地隊の将兵誰もが、沖縄は敗けない、敗けられるものか、と思っていた。沖縄が陥されれば南方への交通は遮断されてしまう。ここはどうしても死守しなければ、と曾根氏自身も思っていた。(中略)
―――沖縄が占領されるようになって、これはあかんと思いましたね。海に浮いているのはみな敵の軍艦、空飛ぶのは全部敵の飛行機。(中略)本当に今日、よう生きのびた。生命がようあったなと思うことが何度もありましたからね。迫撃砲何度もくぐってね。(中略)
もはや、二三四高地で生存も危ういほどの飢餓に耐え、砲弾の下をかいくぐって任務を遂行することに何の意味も見出せなかった。犬死にしたくはなかった。今、米軍に投降すれば生命を落さずにすむ。戦友にもそう呼びかけたかった。だが、徹底した皇国思想、軍国教育を叩き込まれている日本兵に米軍への投降を呼びかけるのは危険だった。この期に及んで、未だに神国日本は必ず勝つ、と狂信している者も少なくなく、客観的な見通しをおくびに出すことさえはばかられた。実際、誰れが密告したのか、中隊長に呼び出されて、「貴様、悲観論を吹聴しとるというではないか」と、鼻先に軍刀をつきつけられたこともあった。日本兵には明かせない。けれど、なるべく多くの者と、ともに生きたかった。
―――一人では、わが身一人だけでは助かろうとは思いませんでした。
曾根氏は朝鮮人軍夫に呼びかけた。
―――私の判断では、朝鮮の軍夫は戦陣訓叩き込まれたわけではない。皇国思想も持っていない。徴用にかけられて来たのばかりだから、軍に忠誠誓うとか、天皇陛下の御(おん)ために生命を捨てるというような者はいない。軍夫でも皆、人の父であり、息子であり、夫であるんだから、一人でも多くと思ったが、それはできんかった。あまりに危険じゃから。これがバレたら当然銃殺。敵前逃亡なら、捕らえられたその場で殺されます。そのことを充分覚悟しとかなきゃいかん。
曾根氏は日本の敗戦が遠いものではないことを予感してはいたが、六月二十三日の沖縄守備軍第三二軍の崩壊は知らなかった。第三戦隊では二十二日、無線機で本島の軍司令部から発せられた「最後の斬込みを敢行す」の電報を傍受していたのだが、その報は幹部で握りつぶされ、下級兵士には伝達されなかったのである。
大城、知念両氏は、曾根一等兵は軍夫と綿密な連絡をとった上で行動に移っただろう、とみていた。しかし、実際はそうではなかった。
―――前に打合せしとったら。危険、兵隊の中にもちょっとでも敗ける言うたら反感持って、反発してくるのがいるんですから。何日も前から計画を明かしたらいつばれるか分らん。発覚したら終り。どうすべきか思案しまして、思い悩んでこの方法しかないと……。
その日、曾根氏は阿波連の現地自活班から二三四高地の部隊本部へ食糧を運搬する任務についていた。大城氏のいうように、自ら願い出て危険の多いその任務についたのではない。上官の命令に従ったまでのことだ。また、赤松氏のいうように、現地自活班に組み込まれていたのではなく、三中隊に所属しており、寝起きする壕も本部の南の三中隊にあった。
六月二十九日夜、曾根氏は芋や芋の葉の入った袋を背にした軍夫らを率いて阿波連を発った。一キロほど行くと、渡嘉志久(とかしく)の浜が見える峠にさしかかる。「決行は今夜だ」そう決意したのは、暗がりの中で鈍くたゆたう海を峠から見下ろした時だ。渡嘉志久の浜まで降りれば目と鼻の先に米軍がいるはずだ。だが、命令通り糧秣(りょうまつ)を本部まで運ばなければ怪しまれる。本部へ糧秣を届けてから陣地を出、あの浜に降りよう。夜目にもそれと分る小さな入江を見やりながら、曾根氏は想いを巡らせた。闇の中を手探りで山道を登り、本部に辿り着いたのは真夜中だった。
まず、軍夫長フクダに決行を打明けた。そして、軍夫たちへの呼びかけを依頼した。曾根氏は朝鮮語がまったく分らなかったし、軍夫も日本語が通じる者はごく少数だった。また、軍夫個々の気性も、どのような考えを持っているのかも、知らなかった。あまりつき合いのない曾根氏が直接呼びかけたのでは軍夫はかえって警戒する。時間もなかった。まごまごしていて日本兵に察知されれば生命はあるまい。そこで手っ取り早くフクダに軍夫たちへの呼びかけを依頼したのだ。フクダとは肝胆相照らす間柄というわけではなかったが、以前からつき合いはあった。そして、その日、同じ糧秣運搬の任務を負い、曾根氏の指揮下にあった。フクダは朝鮮人であったが、日本語が堪能だったため軍夫長に選ばれていたのだ。
フクダが自分の配下十数名を連れて来るまで三十分もあったかどうか。その中に女が混っていた。いつの頃であったか、慰安所の親方(カネコ)が第三戦隊に泣きついてきて、女たちともども部隊本部に潜り込んでいたから、慰安所の女であろう、と曾根氏は思った。(中略)どのように調達してきたのか、女たちは軍夫用の軍服、軍帽を身につけていた。
―――慰安婦は私が待っておったところに来て、軍夫長が「一緒に連れて行ってくれ」いいよりました。私はいかん、とも、連れて行くともいわんけど……。それで、軍夫長が一緒について来い、いうてね。
女が二名だったのか、三名だったのか、記憶はない。そのうちの一人であるフクマルとかいう女(キクマルのこと)が軍夫長と交渉があったのだろうと思った。
一行は糧秣を本部まで運んで来た空袋を背にし、再び阿波連(あはれん)まで糧秣運搬に行く途中であるように装った。
―――軍夫を連れたり女なんか連れたりして行きよるところを、二中隊、一中隊の前を通って調べられたりしたら危険。しかし他は心配はない。私も軍夫については責任を持っておったんで、武装しておりましたから。手榴弾と十二発実弾をつめておるのを持って行きよりましたから……。
(中略)軍夫長と軍夫だけでは歩哨線は通過できないが、日本兵である曾根氏が引率していたため、歩哨は何の疑念も抱かなかった。一行は難なく監視哨を通過した。その後も追手は来なかった。本部ではまだ、曾根氏と軍夫らの逃亡には気づいてはいなかったのである。(中略)渡嘉志久の浜に着いた時、空は白み始めていた。
―――敵の真ん前に来てるんじゃから、前へ行って撃たれたらいかん。なんとか降服するという印、白旗揚げにゃいかん。「誰ぞ白いきれ持ってないか」いうたら女の人が、慰安婦が持っとったんじゃろ思う。それを棒の先くくって、そして、海岸で振って。そしたら敵の前じゃにね、軍艦から見たんでしょ。上陸用舟艇で、すーっとやって来た。渡嘉志久の海岸の前側で止まって、こっちは下から降服の意志を表示した。「武器出せ」言うて、銃もとりあげられて、何もかも調べられて、向こうも危険はないとみたんでしょ。「これに乗れ」言うて。米軍が上陸用舟艇つけてくれた時は、まあ、ほっとしました。これで助かった、と。
曾根氏が率いた一行、軍夫長と軍夫約二十名、それに慰安所にいた女は、米軍の上陸用舟艇に無事乗船した。
続き:渡嘉敷島での軍夫の逃亡事件と第三戦隊による処刑(下)

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渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度
P146~P160 軍夫の逃亡
一九四五年六月三十日、曾根という一等兵が朝鮮人軍夫を連れて二三四高地を脱出、米軍に投降したという事件があった。第三戦隊の元将兵によれば、この時、慰安所の女も一緒だったという。第三戦隊の隊長であった赤松嘉次氏は次のように語った。
―――女の方は曾根一等兵と一緒、バラバラではとても複廓陣地(二三四高地)を出られません。友軍が陣地の周囲に歩哨(ほしょう)を置いているし、敵との間に距離がある。そこに地雷があるし、夜が明けると米軍にやられるから通れない。
当時も今も阿波連(あはれん)に住んでおられ、現地召集された元防衛隊員の大城良平氏は、歩哨に立っていた兵隊から次のように聞いた。
―――その時に姿を見たという歩哨の兵隊によると、やっぱり女連中も鉄兜披って、軍服つけとった、となるがね。
キクマルとスズランは、同胞の軍夫らとともに米軍に投降したようだ。この一団を率いたといわれている曾根一等兵は、赤松元戦隊長によると四国・松山の披差別部落出身で、現地自活班に組込まれていたという。
―――牛なんか殺してうまく料理してくれましたよ。その関係で現地自活班に入っていました。西山(二三四高地)に本部を置いた時、阿波連では自活班が倒れた家の下から塩干とか、いろんな食べ物を掘り出したり、豚とか山羊をとって軍夫が夜運んでくる。それをうまい具合にさばいていました。
現地自活班は主として地元出身の防衛隊員や朝鮮人軍夫で構成されていた。阿波連の現地自活班で炊事班長をしていた大城元防衛隊員は、軍夫逃亡事件の概要を次のように語った。
―――曽根という男は俺の所から逃げた。(中略)軍夫は炊事班に五名はおった。私が炊事班長を務めて、この方たちを使って炊事をやらした。この方たちも皆、曾根がひっぱって逃げた。
大城元防衛隊員の証言から、曾根一等兵が軍夫らと綿密に連絡をとった上での逃亡実行であっただろうことがうかがえる。知念朝睦(ちょうぼく)元副官も同様に指摘した。
―――軍夫、朝鮮の方たち、あのときいっせいにいなくなりました。(中略)曾根一等兵は朝鮮語うまかったんじゃないですか。
私は曾根一等兵に会いたいと思った。曾根一等兵に会えば、キクマルとスズランの戦後の動向までは分からないにしても、渡嘉敷島からの脱出が無事に果たされたか否か分かるはずだ。(中略)曾根一等兵に関しては、実は数年前一度、(厚生省に)本籍調査を依頼したことがある。(中略)本来の目的を曖昧にしたのがいけなかったのだろう。二、三回の電話の対応で断られた。その後、私は出産で身動きとれなくなり、曾根一等兵に会わずにいることが気がかりになりながら原稿を書き進めていた。(中略)改めて厚生省にダイヤルを回し、取材を告げた。(中略)曾根一等兵の名前が見つけ出された。私の胸は高ぶった。数年来、気になりながら出会えずにいた人が、遠い距離を隔ててはいるが、受話器の向こうにいる。
「何でもお話ししますよ。今でも私は自分のしたことが間違いであったとは思わないし、何ら後めたいところもありません」きっぱりとした口調であった。「今でも残念でならないのは、日本の兵隊を一人も連れて来れなかったことです。あの後、戦友が何人も死んでいます。なぜ、あの時、誘い出せなかったのか……」
(中略)曾根氏は松山の出身ではなかった。松山の近くの土居町が本籍地で、現在もそこに住んでおられる。初夏、私は二歳の娘を連れて、教えられた予讃本線の伊予土居に向かった。(中略)曾根氏は農家の次男として愛媛県土居町に生まれ育った。(中略)二十歳の時、神戸に出、ダンロップ工場に勤めた。(中略)その後、小倉に移り、妻を娶(めと)って食料品販売業を営んでいたが、戦況が悪化したため、一九四四年四月、土居町へ家族を連れて帰ってきた。召集令状が届いたのは、そのわずか二か月後の六月である。もうすでに三十代半ば。十歳になる長女を頭に三人の娘がいた。家族を残して、身を切られるような出征であった。
そして、九月、第三港設隊(海上挺進基地第三大隊)として編成され、宇品を出発した。(中略)それでも、渡嘉敷島に到着した当初は、基地隊の将兵誰もが、沖縄は敗けない、敗けられるものか、と思っていた。沖縄が陥されれば南方への交通は遮断されてしまう。ここはどうしても死守しなければ、と曾根氏自身も思っていた。(中略)
―――沖縄が占領されるようになって、これはあかんと思いましたね。海に浮いているのはみな敵の軍艦、空飛ぶのは全部敵の飛行機。(中略)本当に今日、よう生きのびた。生命がようあったなと思うことが何度もありましたからね。迫撃砲何度もくぐってね。(中略)
もはや、二三四高地で生存も危ういほどの飢餓に耐え、砲弾の下をかいくぐって任務を遂行することに何の意味も見出せなかった。犬死にしたくはなかった。今、米軍に投降すれば生命を落さずにすむ。戦友にもそう呼びかけたかった。だが、徹底した皇国思想、軍国教育を叩き込まれている日本兵に米軍への投降を呼びかけるのは危険だった。この期に及んで、未だに神国日本は必ず勝つ、と狂信している者も少なくなく、客観的な見通しをおくびに出すことさえはばかられた。実際、誰れが密告したのか、中隊長に呼び出されて、「貴様、悲観論を吹聴しとるというではないか」と、鼻先に軍刀をつきつけられたこともあった。日本兵には明かせない。けれど、なるべく多くの者と、ともに生きたかった。
―――一人では、わが身一人だけでは助かろうとは思いませんでした。
曾根氏は朝鮮人軍夫に呼びかけた。
―――私の判断では、朝鮮の軍夫は戦陣訓叩き込まれたわけではない。皇国思想も持っていない。徴用にかけられて来たのばかりだから、軍に忠誠誓うとか、天皇陛下の御(おん)ために生命を捨てるというような者はいない。軍夫でも皆、人の父であり、息子であり、夫であるんだから、一人でも多くと思ったが、それはできんかった。あまりに危険じゃから。これがバレたら当然銃殺。敵前逃亡なら、捕らえられたその場で殺されます。そのことを充分覚悟しとかなきゃいかん。
曾根氏は日本の敗戦が遠いものではないことを予感してはいたが、六月二十三日の沖縄守備軍第三二軍の崩壊は知らなかった。第三戦隊では二十二日、無線機で本島の軍司令部から発せられた「最後の斬込みを敢行す」の電報を傍受していたのだが、その報は幹部で握りつぶされ、下級兵士には伝達されなかったのである。
大城、知念両氏は、曾根一等兵は軍夫と綿密な連絡をとった上で行動に移っただろう、とみていた。しかし、実際はそうではなかった。
―――前に打合せしとったら。危険、兵隊の中にもちょっとでも敗ける言うたら反感持って、反発してくるのがいるんですから。何日も前から計画を明かしたらいつばれるか分らん。発覚したら終り。どうすべきか思案しまして、思い悩んでこの方法しかないと……。
その日、曾根氏は阿波連の現地自活班から二三四高地の部隊本部へ食糧を運搬する任務についていた。大城氏のいうように、自ら願い出て危険の多いその任務についたのではない。上官の命令に従ったまでのことだ。また、赤松氏のいうように、現地自活班に組み込まれていたのではなく、三中隊に所属しており、寝起きする壕も本部の南の三中隊にあった。
六月二十九日夜、曾根氏は芋や芋の葉の入った袋を背にした軍夫らを率いて阿波連を発った。一キロほど行くと、渡嘉志久(とかしく)の浜が見える峠にさしかかる。「決行は今夜だ」そう決意したのは、暗がりの中で鈍くたゆたう海を峠から見下ろした時だ。渡嘉志久の浜まで降りれば目と鼻の先に米軍がいるはずだ。だが、命令通り糧秣(りょうまつ)を本部まで運ばなければ怪しまれる。本部へ糧秣を届けてから陣地を出、あの浜に降りよう。夜目にもそれと分る小さな入江を見やりながら、曾根氏は想いを巡らせた。闇の中を手探りで山道を登り、本部に辿り着いたのは真夜中だった。
まず、軍夫長フクダに決行を打明けた。そして、軍夫たちへの呼びかけを依頼した。曾根氏は朝鮮語がまったく分らなかったし、軍夫も日本語が通じる者はごく少数だった。また、軍夫個々の気性も、どのような考えを持っているのかも、知らなかった。あまりつき合いのない曾根氏が直接呼びかけたのでは軍夫はかえって警戒する。時間もなかった。まごまごしていて日本兵に察知されれば生命はあるまい。そこで手っ取り早くフクダに軍夫たちへの呼びかけを依頼したのだ。フクダとは肝胆相照らす間柄というわけではなかったが、以前からつき合いはあった。そして、その日、同じ糧秣運搬の任務を負い、曾根氏の指揮下にあった。フクダは朝鮮人であったが、日本語が堪能だったため軍夫長に選ばれていたのだ。
フクダが自分の配下十数名を連れて来るまで三十分もあったかどうか。その中に女が混っていた。いつの頃であったか、慰安所の親方(カネコ)が第三戦隊に泣きついてきて、女たちともども部隊本部に潜り込んでいたから、慰安所の女であろう、と曾根氏は思った。(中略)どのように調達してきたのか、女たちは軍夫用の軍服、軍帽を身につけていた。
―――慰安婦は私が待っておったところに来て、軍夫長が「一緒に連れて行ってくれ」いいよりました。私はいかん、とも、連れて行くともいわんけど……。それで、軍夫長が一緒について来い、いうてね。
女が二名だったのか、三名だったのか、記憶はない。そのうちの一人であるフクマルとかいう女(キクマルのこと)が軍夫長と交渉があったのだろうと思った。
一行は糧秣を本部まで運んで来た空袋を背にし、再び阿波連(あはれん)まで糧秣運搬に行く途中であるように装った。
―――軍夫を連れたり女なんか連れたりして行きよるところを、二中隊、一中隊の前を通って調べられたりしたら危険。しかし他は心配はない。私も軍夫については責任を持っておったんで、武装しておりましたから。手榴弾と十二発実弾をつめておるのを持って行きよりましたから……。
(中略)軍夫長と軍夫だけでは歩哨線は通過できないが、日本兵である曾根氏が引率していたため、歩哨は何の疑念も抱かなかった。一行は難なく監視哨を通過した。その後も追手は来なかった。本部ではまだ、曾根氏と軍夫らの逃亡には気づいてはいなかったのである。(中略)渡嘉志久の浜に着いた時、空は白み始めていた。
―――敵の真ん前に来てるんじゃから、前へ行って撃たれたらいかん。なんとか降服するという印、白旗揚げにゃいかん。「誰ぞ白いきれ持ってないか」いうたら女の人が、慰安婦が持っとったんじゃろ思う。それを棒の先くくって、そして、海岸で振って。そしたら敵の前じゃにね、軍艦から見たんでしょ。上陸用舟艇で、すーっとやって来た。渡嘉志久の海岸の前側で止まって、こっちは下から降服の意志を表示した。「武器出せ」言うて、銃もとりあげられて、何もかも調べられて、向こうも危険はないとみたんでしょ。「これに乗れ」言うて。米軍が上陸用舟艇つけてくれた時は、まあ、ほっとしました。これで助かった、と。
曾根氏が率いた一行、軍夫長と軍夫約二十名、それに慰安所にいた女は、米軍の上陸用舟艇に無事乗船した。
続き:渡嘉敷島での軍夫の逃亡事件と第三戦隊による処刑(下)

渡嘉敷島の戦闘地図(クリックすると大きくなります。)
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渡嘉敷島の集団自決における赤松元戦隊長の認識と態度

産経「正論」でおなじみの藤岡信勝と中村粲の両氏が“単なるウソつき”だということは周知のことなんで今さら何を主張しようが驚くことはことはないんですが、近現代史の研究者として自覚のない秦郁彦氏の劣化ぶりには目を覆いたくなりますね。
12/18 教科書検定審見解 軍命断定せずに評価も 沖縄集団自決 - 産経
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/110294/
http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news/news_071218.htm
■軍関与の例適切?
軍関与の主な例として「手榴弾の配布」「壕の追い出し」を挙げたことへの批判もある。現代史家の秦郁彦氏は当初の検定意見を堅持したことを評価しつつも、「集団自決の際に使われた主な武器はナタやカマなどだ。手榴弾は攻撃用の武器であり、自決に流用された例は少ない」と指摘。
兵器不足にもかかわらず軍が住民に「いざとなったらこれで自決しなさい」と手榴弾を渡していたわけですが、その手榴弾に不発弾が多かったために死にきれなかった住民が結果的にナタやカマを使ったわけです。それが秦郁彦氏の手法にかかると「手榴弾が使われた例が少ないから軍の関与も不適切」になっちゃうらしい。なんだそれ?
さらに「軍がいる場所が主戦場で危険だったため、『心を鬼にして追い出した』という軍側の証言もある」と善意の追い出しがあった事例にも留意すべきだとする。
沖縄戦では第三二軍の「軍官民共生共死の一体化」という方針のもと住民にも死を強い、沖縄の人も物も「一木一草」にいたるまでことごとく「戦力化」した(住民の投降も許さなかった)という前提があるわけですが、秦郁彦氏はそういった住民の生命や安全をまったく考慮しなかった日本軍の方針を一切無視して、将兵個人の行動を理由に軍の関与を「良い関与」だとすり替えようという意図がミエミエです。
以下、補足として林博史教授の著書沖縄戦と民衆から「軍紀の崩壊が意味するもの」という章を引用しておきます。
軍紀の崩壊と構造変化
P325. P327~329 軍紀の崩壊が意味するもの
軍紀の崩壊という現象には二つの側面がある。一つは、将兵たちの規律が崩壊し、略奪や強姦、さまざまな犯罪や横暴がはびこることである。もう一つは、上官への犯行や命令拒否、集団脱走、反戦活動など軍の秩序を崩壊する行為あるいは軍の秩序そのものへの攻撃がおこなわれるような状況である。前者の場合は、市民的良心が麻痺ないしは失われた将兵による犯罪であるのに対して、後者の場合は、侵略戦争や、無謀なあるいは正当化できない戦争・戦闘をおこなっている軍隊への抵抗・反抗であり、しばしば市民的良心にもとづく行動である。
(中略)
軍紀の崩壊による現象としてあらわれてくる第ニの側面に注目したい。このことは言い換えると、日本軍や戦時体制、日本が遂行している戦争に批判的な意識あるいは疑問を持っている人々が、その考えを具体的な行動にあらわすことができるということを意味している。
戦争に批判的な日本兵がいたとして、彼が仲間にこんな戦争で死ぬのは馬鹿らしいから脱走しよう、あるいは米軍に投降しようとか、住民に対して自決せずに投降するように勧めたりするようなことは、日本軍の軍紀が維持され、その組織が機能しているときには、とてもできることではない。軍紀とは、軍や体制に対する批判を許さないことを意味している。軍の組織が解体していくことによって、あるいは軍紀が崩壊していくことによって、はじめて軍や軍のイデオロギー(捕虜になるのは恥だ、というような)を批判し、自分の考えを行動に移すことができるようになる。
さきに紹介した宮本正男さんや渡辺憲央さんのように、当初から脱走ないし投降を考えていた兵士の場合を見ても、それを行動に移すためには慎重に状況を判断していた。軍の組織が機能している場合には、彼らのような行動は阻止され、軍法会議にかけられたり、ときにはその場で処刑されたりすることも覚悟しなければならなかった。したがって脱走や、住民を保護するような行動は、日本軍の組織が解体し、軍紀が解体していくなかで、あるいは軍から離れてしまったときに、初めて可能になったのである。したがって、そうした日本兵の行動を理由にして日本軍自体を正当化することはまったく誤りである。
沖縄住民の意識と行動を考えるにあたっても同様のことが言える。日本軍が組織的に機能しているところでは、住民が集団で投降することはできなかった。だから住民の集団投降がみられたのは、日本軍がいなかった地域・ガマ(日本軍の主陣地外で早くから米軍支配下に入った地域など)や、沖縄戦末期に日本軍が解体し、しかも投降を阻むような日本兵がいなかった所であった。
沖縄に配備された日本軍について言えば、飛行場建設部隊やその他の後方関係の部隊を中心に、現役兵ではない相対的に年齢の高い召集兵がたくさん含まれていた。軍の視点から見て、思想的に問題のある者も含まれることになる。また現地沖縄で防衛隊員をはじめ多数の住民を召集した。こうしてろくに軍事訓練も受けたことのない即成の兵士が急増した。そうした軍隊では現役兵中心の軍紀はとうてい維持できない。学徒隊員のように皇民化教育や軍の宣伝が浸透していた人々を除くと、防衛隊員たちがなぜ脱走を躊躇したかを説明するときにあげられる理由で多くを占めるのは、家族までもが死刑にされると脅されていたことだった。このことに示されているように、彼らを軍にしばりつけておくには、脅ししかなかった、だがその脅しも、日本軍を打ち破る、より強い米軍の前には効き目がなくなっていった。
しかも言論情報の統制にもかかわらず、一連の日本軍の敗北、とくにサイパンの陥落以降、日本が負けつつあるという認識は広がりつつあった。米軍の空襲に対して何も反撃できない状況を間近に見せつけられたことも、それに拍車をかけただろう。負けるとわかっている戦争で死ぬのはばかばかしい、という意識か生まれてくるのは当然だった。また本土兵から差別や虐待をうけることによって、彼らといっしょには死ねないと思うようになるのは無理もなかった。
防衛隊員たちが次々に脱走し、住民のなかからも集団投降する人々が生まれ、本土兵のなかからも投降する兵士が出てくる。そうした事態は、沖縄戦が日本の敗北が目に見えてきつつある状況のなかでの戦闘であり、軍紀が解体しつつある状況のなかでの戦闘であったことのあらわれである。そうした状況下で、日本軍はそれを阻止すべく、よりいっそう過敏かつ強圧的になり、そうした人々をスパイ視し処刑することによって引き締めようとして、ますますエキセントリックになっていったのである。
(ここまで)
<<沖縄戦・集団自決「軍命令否定派」が直視できない事実>>
12/18「軍命あった」 沖縄戦専門家の林教授が講演 - JanJan
http://www.news.janjan.jp/column/0712/0712170413/1.php
渡嘉敷島では3月20日、日本軍の兵器軍曹から村の兵事主任を通して役場職員や17歳以下の青年を集めて、手榴弾を1人2個ずつ配り、「いざという場合にはこれで自決せよ」と命令している。
慶留間島では2月8日、野田第2戦隊長が島に来て、約100人の住民を集めて「敵上陸のあかつきには全員玉砕あるのみ」と訓示している。
12/18 教科書検定審見解 軍命断定せずに評価も 沖縄集団自決 - 産経
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/110294/
http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news/news_071218.htm
■軍関与の例適切?
軍関与の主な例として「手榴弾の配布」「壕の追い出し」を挙げたことへの批判もある。現代史家の秦郁彦氏は当初の検定意見を堅持したことを評価しつつも、「集団自決の際に使われた主な武器はナタやカマなどだ。手榴弾は攻撃用の武器であり、自決に流用された例は少ない」と指摘。
兵器不足にもかかわらず軍が住民に「いざとなったらこれで自決しなさい」と手榴弾を渡していたわけですが、その手榴弾に不発弾が多かったために死にきれなかった住民が結果的にナタやカマを使ったわけです。それが秦郁彦氏の手法にかかると「手榴弾が使われた例が少ないから軍の関与も不適切」になっちゃうらしい。なんだそれ?
さらに「軍がいる場所が主戦場で危険だったため、『心を鬼にして追い出した』という軍側の証言もある」と善意の追い出しがあった事例にも留意すべきだとする。
沖縄戦では第三二軍の「軍官民共生共死の一体化」という方針のもと住民にも死を強い、沖縄の人も物も「一木一草」にいたるまでことごとく「戦力化」した(住民の投降も許さなかった)という前提があるわけですが、秦郁彦氏はそういった住民の生命や安全をまったく考慮しなかった日本軍の方針を一切無視して、将兵個人の行動を理由に軍の関与を「良い関与」だとすり替えようという意図がミエミエです。
以下、補足として林博史教授の著書沖縄戦と民衆から「軍紀の崩壊が意味するもの」という章を引用しておきます。
軍紀の崩壊と構造変化
P325. P327~329 軍紀の崩壊が意味するもの
軍紀の崩壊という現象には二つの側面がある。一つは、将兵たちの規律が崩壊し、略奪や強姦、さまざまな犯罪や横暴がはびこることである。もう一つは、上官への犯行や命令拒否、集団脱走、反戦活動など軍の秩序を崩壊する行為あるいは軍の秩序そのものへの攻撃がおこなわれるような状況である。前者の場合は、市民的良心が麻痺ないしは失われた将兵による犯罪であるのに対して、後者の場合は、侵略戦争や、無謀なあるいは正当化できない戦争・戦闘をおこなっている軍隊への抵抗・反抗であり、しばしば市民的良心にもとづく行動である。
(中略)
軍紀の崩壊による現象としてあらわれてくる第ニの側面に注目したい。このことは言い換えると、日本軍や戦時体制、日本が遂行している戦争に批判的な意識あるいは疑問を持っている人々が、その考えを具体的な行動にあらわすことができるということを意味している。
戦争に批判的な日本兵がいたとして、彼が仲間にこんな戦争で死ぬのは馬鹿らしいから脱走しよう、あるいは米軍に投降しようとか、住民に対して自決せずに投降するように勧めたりするようなことは、日本軍の軍紀が維持され、その組織が機能しているときには、とてもできることではない。軍紀とは、軍や体制に対する批判を許さないことを意味している。軍の組織が解体していくことによって、あるいは軍紀が崩壊していくことによって、はじめて軍や軍のイデオロギー(捕虜になるのは恥だ、というような)を批判し、自分の考えを行動に移すことができるようになる。
さきに紹介した宮本正男さんや渡辺憲央さんのように、当初から脱走ないし投降を考えていた兵士の場合を見ても、それを行動に移すためには慎重に状況を判断していた。軍の組織が機能している場合には、彼らのような行動は阻止され、軍法会議にかけられたり、ときにはその場で処刑されたりすることも覚悟しなければならなかった。したがって脱走や、住民を保護するような行動は、日本軍の組織が解体し、軍紀が解体していくなかで、あるいは軍から離れてしまったときに、初めて可能になったのである。したがって、そうした日本兵の行動を理由にして日本軍自体を正当化することはまったく誤りである。
沖縄住民の意識と行動を考えるにあたっても同様のことが言える。日本軍が組織的に機能しているところでは、住民が集団で投降することはできなかった。だから住民の集団投降がみられたのは、日本軍がいなかった地域・ガマ(日本軍の主陣地外で早くから米軍支配下に入った地域など)や、沖縄戦末期に日本軍が解体し、しかも投降を阻むような日本兵がいなかった所であった。
沖縄に配備された日本軍について言えば、飛行場建設部隊やその他の後方関係の部隊を中心に、現役兵ではない相対的に年齢の高い召集兵がたくさん含まれていた。軍の視点から見て、思想的に問題のある者も含まれることになる。また現地沖縄で防衛隊員をはじめ多数の住民を召集した。こうしてろくに軍事訓練も受けたことのない即成の兵士が急増した。そうした軍隊では現役兵中心の軍紀はとうてい維持できない。学徒隊員のように皇民化教育や軍の宣伝が浸透していた人々を除くと、防衛隊員たちがなぜ脱走を躊躇したかを説明するときにあげられる理由で多くを占めるのは、家族までもが死刑にされると脅されていたことだった。このことに示されているように、彼らを軍にしばりつけておくには、脅ししかなかった、だがその脅しも、日本軍を打ち破る、より強い米軍の前には効き目がなくなっていった。
しかも言論情報の統制にもかかわらず、一連の日本軍の敗北、とくにサイパンの陥落以降、日本が負けつつあるという認識は広がりつつあった。米軍の空襲に対して何も反撃できない状況を間近に見せつけられたことも、それに拍車をかけただろう。負けるとわかっている戦争で死ぬのはばかばかしい、という意識か生まれてくるのは当然だった。また本土兵から差別や虐待をうけることによって、彼らといっしょには死ねないと思うようになるのは無理もなかった。
防衛隊員たちが次々に脱走し、住民のなかからも集団投降する人々が生まれ、本土兵のなかからも投降する兵士が出てくる。そうした事態は、沖縄戦が日本の敗北が目に見えてきつつある状況のなかでの戦闘であり、軍紀が解体しつつある状況のなかでの戦闘であったことのあらわれである。そうした状況下で、日本軍はそれを阻止すべく、よりいっそう過敏かつ強圧的になり、そうした人々をスパイ視し処刑することによって引き締めようとして、ますますエキセントリックになっていったのである。
(ここまで)
<<沖縄戦・集団自決「軍命令否定派」が直視できない事実>>
12/18「軍命あった」 沖縄戦専門家の林教授が講演 - JanJan
http://www.news.janjan.jp/column/0712/0712170413/1.php
渡嘉敷島では3月20日、日本軍の兵器軍曹から村の兵事主任を通して役場職員や17歳以下の青年を集めて、手榴弾を1人2個ずつ配り、「いざという場合にはこれで自決せよ」と命令している。
慶留間島では2月8日、野田第2戦隊長が島に来て、約100人の住民を集めて「敵上陸のあかつきには全員玉砕あるのみ」と訓示している。

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『本日の水木サン』より
「戦争中の話だが、敵のいる前線に行くために、「ココボ」という船着場についた。ここから前線へ船が出るのだ。そういうところには必ずピー屋がある。ピー屋というのは女郎屋のことである。(中略)ピー屋の前に行ったが、何とゾロゾロと大勢並んでいる。日本のピーの前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。これを一人の女性で処理するのだ。僕はその長い行列を見て、一体いつできるのだろうと思った。一人三十分としてもとても今日中にできるとは思われない、軽く一週間くらいかかるはずだ。しかし兵隊はこの世の最期だろうと思ってはなれない、しかし・・・・・いくらねばっても無駄なことだ。僕は列から離れることにした。そして朝鮮ピーの家を観察したのだ。ちょうどそのとき朝鮮ピーはトイレがしたくなったのだろう、小屋から出てきた。
(彼女がナニカを排泄する様子の描写)
とてもこの世のこととは思えなかった。第一これから八十人くらいの兵隊をさばかねばならぬ。兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。と、トイレに行った朝鮮ピーを見て思った。よく従軍慰安婦のバイショウのことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが・・・・やはり「地獄」だったと思う。だからバイショウはすべきだろうナ。」
(*水木しげるの他の著作「水木しげる伝~戦中編~」によれば、彼女たちはこの後、病院船でココポを離れたが、途中潜水艦にやられ、全員が死亡したという。)
響 鏡子の服毒日記 - ココポの出来事から転載
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『水木しげるのラバウル戦記』P30より
「上陸した頃は、ココボはまだ陸軍の基地で、たしか一〇三兵站病院もあり従軍慰安婦もいた。彼女たちは「ピー」と呼ばれていて、椰子林の中の小さな小屋に一人ずつ住んでおり、日曜とか祭日にお相手をするわけだが、沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」と呼ばれていたようだ。彼女たちは徴兵されて無理矢理つれてこられて、兵隊と同じような劣悪な待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。」
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『総員玉砕せよ!』P14.15より
慰安所の様子(クリックすると大きくなります)

関連リンク
・水木しげる『姑娘』に描かれた皇軍兵士による強制連行と性暴力
・日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態

みなさんお久しブリブリ~。更新していない間に、また1つ歳喰ってオッサンに近づいてる“やっしゃん”です。ギャフン
つーことで、いろいろと話題がたまってしまいましたが、誕生日が真珠湾攻撃と同じ日ということで以下メモしておきます。
真珠湾で戦没者の追悼式典=日本軍の攻撃から66年-米ハワイ
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007120800113
(2007/12/08 時事通信)
【ロサンゼルス7日時事】旧日本軍による1941年の真珠湾攻撃から66年を迎えた7日午前(日本時間8日未明)、米ハワイの真珠湾で攻撃の犠牲になった米軍兵士らの追悼式典が開かれた。米メディアや真珠湾記念館によると、式典には攻撃を生き延びた退役軍人約50人のほか、家族、友人ら関係者約2000人も出席した。
秘話満載「トラトラトラ」打電、淵田中佐の自伝発刊へ
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071130i4w7.htm
(2007/11/30 読売新聞)
太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃で、海軍の飛行隊を率いた淵田美津雄中佐(1902~76、終戦時大佐)が晩年に書いた自伝が米国在住の遺族の元に残されていた。戦果を昭和天皇にじかに説明したことや、海軍内で功名争いが起こり、後の重要な作戦の成否に影響したことなど、歴史の秘話が描かれている。
淵田中佐は空母「赤城」の飛行隊長として真珠湾攻撃に参加。有名な暗号電文「トラトラトラ」(我奇襲に成功せり)を打った人物で知られる。
自伝は、65歳から73歳で亡くなるまで書きためた一連の草稿。死後、米国の長男に引き継がれ、約30年間眠っていた。2年前、テレビ局でドキュメンタリー番組などを制作してきたジャーナリストの中田整一さん(66)が存在を知り、内容を整理していた。
自伝によると、淵田中佐は真珠湾攻撃の18日後、永野修身・海軍軍令部総長らと大本営に行き、昭和天皇に見取り図と航空写真を広げて戦果を説明した。「陛下は興味深げに、その写真を縦にしたり横にしたりして眺められる。予定されていた時間は、三十分であったのに、実際は一時間半も費やされた」。説明の後、昭和天皇は、皇后に見せたいと言って写真を持ち帰ったという。
「開戦に消極的だったとされる昭和天皇には複雑な思いもあっただろうが、心配する皇后を気遣う人間味あふれる一面が垣間見られる」と中田さんは言う。
自伝ではまた、真珠湾攻撃で戦死した特殊潜航艇の9人を「九軍神」としてたたえるために、米戦艦「アリゾナ」を沈めた飛行隊の戦果を、潜航艇の手柄として大本営が発表するまでの内幕を暴露している。海軍の参謀たちは、そうした工作や、それに不満を募らせる飛行機隊員の説得などに奔走させられた。
開戦当初の航空作戦を指揮した海軍兵学校同期の源田実参謀(戦後、参院議員)が翌年6月のミッドウェー海戦に向かう艦上で、「第一段作戦(真珠湾攻撃)の後始末とこんがらがってね。じっくりと、この作戦を検討するひまもなかった」とぼやいたエピソードを紹介。自伝では「敗因は、驕慢(きょうまん)であった。アメリカ海軍を
侮っていた」と振り返っている。同海戦では日本海軍が主力空母4隻を一気に失い、太平洋戦争の大きな分岐点となった。
同海戦で重傷を負った淵田中佐は海軍大学校教官などを経て、海軍総隊参謀で終戦。広島や長崎の原爆の惨状を見て戦後は一転、キリスト教に帰依し、伝道者として米国中を巡礼した。
評論家の保阪正康さんは「佐官級の軍人が天皇に直接奏上するのは前代未聞。資料的な価値の高さは言うまでもないが、軍人と牧師という二つの人生を生きた男の面白さにあふれている」と話している。自伝は近く「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」というタイトルで講談社から出版される。
これですね。
淵田美津雄さんは原爆を投下された広島に前夜まで滞在していたそうで、えらい強運な方のようです。それとこの自叙伝については月刊「現代」1月号でスクープというかたちで記事が掲載されているそうです。Apemanさんのブログで知りました。ぶっちゃけ自分はあんまし興味ないんで、読んだ方の感想などを聞いてから買うか決めるかな(^^;
<以下、ネットで拾った日米開戦関連>
・帝国海軍とiPod ~文藝春秋11月号の対談から~
「帝国海軍vs米国海軍 日本は何故アメリカに勝てないのか」
・真珠湾攻撃と日米開戦:太平洋戦争 宣戦布告 鳥飼行博研究室
・考察NIPPON - 『臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます』
当時の記録フィルムやラジオ音声あり
・On this Day - 真珠湾攻撃、日米開戦を報じる当時のニューヨーク・タイムズ
http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/big/1207.html#top
http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/big/1208.html#top
最後に、やっぱし最近の興味はクラブワールドカップかな。浦和レッズとACミランのキックオフは12月13日(木曜日)午後7時30分から日テレね。(・∀ ・)ワクワク
10日の浦和レッズ 3 - 1 セパハンの動画
海外版
つーことで、いろいろと話題がたまってしまいましたが、誕生日が真珠湾攻撃と同じ日ということで以下メモしておきます。
真珠湾で戦没者の追悼式典=日本軍の攻撃から66年-米ハワイ
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007120800113
(2007/12/08 時事通信)
【ロサンゼルス7日時事】旧日本軍による1941年の真珠湾攻撃から66年を迎えた7日午前(日本時間8日未明)、米ハワイの真珠湾で攻撃の犠牲になった米軍兵士らの追悼式典が開かれた。米メディアや真珠湾記念館によると、式典には攻撃を生き延びた退役軍人約50人のほか、家族、友人ら関係者約2000人も出席した。
秘話満載「トラトラトラ」打電、淵田中佐の自伝発刊へ
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071130i4w7.htm
(2007/11/30 読売新聞)
太平洋戦争の口火を切った真珠湾攻撃で、海軍の飛行隊を率いた淵田美津雄中佐(1902~76、終戦時大佐)が晩年に書いた自伝が米国在住の遺族の元に残されていた。戦果を昭和天皇にじかに説明したことや、海軍内で功名争いが起こり、後の重要な作戦の成否に影響したことなど、歴史の秘話が描かれている。
淵田中佐は空母「赤城」の飛行隊長として真珠湾攻撃に参加。有名な暗号電文「トラトラトラ」(我奇襲に成功せり)を打った人物で知られる。
自伝は、65歳から73歳で亡くなるまで書きためた一連の草稿。死後、米国の長男に引き継がれ、約30年間眠っていた。2年前、テレビ局でドキュメンタリー番組などを制作してきたジャーナリストの中田整一さん(66)が存在を知り、内容を整理していた。
自伝によると、淵田中佐は真珠湾攻撃の18日後、永野修身・海軍軍令部総長らと大本営に行き、昭和天皇に見取り図と航空写真を広げて戦果を説明した。「陛下は興味深げに、その写真を縦にしたり横にしたりして眺められる。予定されていた時間は、三十分であったのに、実際は一時間半も費やされた」。説明の後、昭和天皇は、皇后に見せたいと言って写真を持ち帰ったという。
「開戦に消極的だったとされる昭和天皇には複雑な思いもあっただろうが、心配する皇后を気遣う人間味あふれる一面が垣間見られる」と中田さんは言う。
自伝ではまた、真珠湾攻撃で戦死した特殊潜航艇の9人を「九軍神」としてたたえるために、米戦艦「アリゾナ」を沈めた飛行隊の戦果を、潜航艇の手柄として大本営が発表するまでの内幕を暴露している。海軍の参謀たちは、そうした工作や、それに不満を募らせる飛行機隊員の説得などに奔走させられた。
開戦当初の航空作戦を指揮した海軍兵学校同期の源田実参謀(戦後、参院議員)が翌年6月のミッドウェー海戦に向かう艦上で、「第一段作戦(真珠湾攻撃)の後始末とこんがらがってね。じっくりと、この作戦を検討するひまもなかった」とぼやいたエピソードを紹介。自伝では「敗因は、驕慢(きょうまん)であった。アメリカ海軍を
侮っていた」と振り返っている。同海戦では日本海軍が主力空母4隻を一気に失い、太平洋戦争の大きな分岐点となった。
同海戦で重傷を負った淵田中佐は海軍大学校教官などを経て、海軍総隊参謀で終戦。広島や長崎の原爆の惨状を見て戦後は一転、キリスト教に帰依し、伝道者として米国中を巡礼した。
評論家の保阪正康さんは「佐官級の軍人が天皇に直接奏上するのは前代未聞。資料的な価値の高さは言うまでもないが、軍人と牧師という二つの人生を生きた男の面白さにあふれている」と話している。自伝は近く「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」というタイトルで講談社から出版される。
これですね。
![]() | 真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝 (2007/11/30) 淵田 美津雄、中田 整一 他 商品詳細を見る |
淵田美津雄さんは原爆を投下された広島に前夜まで滞在していたそうで、えらい強運な方のようです。それとこの自叙伝については月刊「現代」1月号でスクープというかたちで記事が掲載されているそうです。Apemanさんのブログで知りました。ぶっちゃけ自分はあんまし興味ないんで、読んだ方の感想などを聞いてから買うか決めるかな(^^;
<以下、ネットで拾った日米開戦関連>
・帝国海軍とiPod ~文藝春秋11月号の対談から~
「帝国海軍vs米国海軍 日本は何故アメリカに勝てないのか」
・真珠湾攻撃と日米開戦:太平洋戦争 宣戦布告 鳥飼行博研究室
・考察NIPPON - 『臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます』
当時の記録フィルムやラジオ音声あり
・On this Day - 真珠湾攻撃、日米開戦を報じる当時のニューヨーク・タイムズ
http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/big/1207.html#top
http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/big/1208.html#top
最後に、やっぱし最近の興味はクラブワールドカップかな。浦和レッズとACミランのキックオフは12月13日(木曜日)午後7時30分から日テレね。(・∀ ・)ワクワク
10日の浦和レッズ 3 - 1 セパハンの動画
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沖縄戦での防衛隊について興味を持ちました。沖縄戦をただ祖国のために沖縄県民がすすんで命を捧げたドラマとして描こうとする人達からは、防衛隊の姿はあるべからざるものとして切り捨てられてきました。最近も歴史修正グループの代表格である藤岡信勝(ふじおか のぶかつ)、中村粲(なかむら あきら)の両センセーが集団自決に軍の関与・強制があったという事実を誤魔化すために「防衛隊員は軍とは関係ない」と珍論を展開し、切り捨てることに躍起になっています。(以下、改行と強調は引用者)
沖縄集団自決・教科書から「軍命令」削除 検定撤回狙うNHK報道
中村粲/昭和史研究所代表
軍命令存在の“証言”として再三流すのは「日本軍から手榴弾を渡されて自決を強いられた」との言葉である。だが、この中の「日本軍」というキーワードに重大なごまかしがある。住民に手榴弾を渡して自決を勧めたのは地元出身の防衛隊員で、戦隊所属の日本軍将兵ではない。防衛隊とは兵役法による正規兵ではなく、現地在郷軍人会が結成した義勇兵で、軍装も不統一、階級章も付けていない。軍とは別に、家族と共に起居していた。
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=464
林博史氏は教科書検定審議会の意見聴取の対象として適格か
藤岡信勝
慶良間諸島には当時、陸軍海上挺進隊という正規の部隊が駐留していたほかに、防衛隊という名の、地元住民からなる義勇兵が存在したからだ。帝国在郷軍人会沖縄支部は市町村の集落単位で住民男性を集め中隊を編成した。法令的な根拠はなく、中国戦線などから帰還した戦場経験者がリーダーシップをとった。村長、助役などの村の顔役が隊長を兼ねて行政と一体化していた。しかし、陸軍の正規部隊の構成員ではないから軍服・武器は支給されず、日常生活は家族と起居をともにしていた。軍と協力し、軍を補助する仕事をしていた防衛隊員は、武器をほしがり、みずから戦闘集団たらんとした。
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=2820&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=400
この二人のウソ言い分をまとめると、
「防衛隊は地元住民が自主的に結成した義勇隊で日本軍じゃないよ。日常生活も軍とは別に家族と共に起居していたんだよ。だから集団自決は防衛隊と住民が勝手にしたことで、日本軍は関係ないよ。」
こんな感じでしょうか。確かに県史には、
一九四四年(昭和一九)七月一〇日ころ在郷軍人会沖縄支部は市町村単位の防衛隊を編成したが、これはいわゆる義勇隊であって法令上の根拠はない(義勇兵役法が成立するのは翌年六月)」と『沖縄県史別巻―沖縄近代史辞典』(四九四頁)にはあるが、読谷山では表立ったそのような組織や動きはなかった。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu093.htm
とありますが、読谷村でも組織や動きがなかったことからわかるように、この時期には本格的な防衛召集はまだ実施されていません。沖縄での本格的な防衛召集はこの後から実施されます。
[本格的な防衛召集の実施]
一九四四年一〇月に(陸軍防衛召集)規則が改正されて、徴兵検査をうける前の一七・一八歳の男子も召集可能となり、一〇月から一二月にかけて一七歳から四五歳までの男子を召集の実施したのが第二の時期である。(中略)なおこのときに防衛召集された青年の一部は、遊撃隊に配属され、遊撃戦の訓練をうけている。第三の防衛召集は、一九四五年の二~三月の時期であり、とくに三月六日付だけで約一万四千人(本島のみ)が召集されており、防衛召集の多くがこの時期に集中している。(中略)
[捨て石にされた防衛隊員]
防衛召集されながら、「防衛召集」という言葉すら知らない者も多かった。召集令状も普通の赤紙ではなく、青紙であったので、すぐに家に帰れるだろう、という程度の認識の者さえいた。だが彼らは陸軍二等兵に任命され、その望みもすぐに消えた。
藤原彰「沖縄戦――国土が戦場になったとき」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071125/1200676580
そして在郷軍人会による義勇隊は防衛召集による防衛隊に編入されていったそうです。
防衛召集が、在郷軍人会防衛隊を構成している成年男子を根こそぎ召集したことを考えると在郷軍人会防衛隊は、防衛召集による防衛隊にとってかわられていったのではないかと推定される。
[林 博史HP] 沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper04.htm
このようにほとんどの防衛隊員は一九四四年一〇月に陸軍防衛召集規則が改正されてから青紙で召集され陸軍二等兵として各部隊に配属されています。当然、家族と共に起居することなど許されていません。一七歳未満の男子学徒からなる防衛隊員(鉄血勤皇隊など)も陸軍二等兵として軍に召集されています。
[一般の鉄血勤皇隊]
県立一中では昭和二十年三月二十九日、「事実上の入隊式があった。別に式という程のものではなかったが、二等兵の階級章と軍服が隊員に支給されたのである。真新しい軍服、軍帽軍靴、ゲートルに肌着等全部支給された。上級生も下級生もなく、みんな二等兵である。子供みたいな兵隊ができあがったが、馴れるにそれほど時間を要しなかった。
(中略)
防衛隊員であっても軍人であり、いかなる状況にあっても所属部隊を離れてはならないし、特に戦場においては戦列からの離脱は考えられない。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu097.htm
なお、一七歳未満の鉄血勤皇隊の召集には法令上の根拠がないので一応「志願」というかたちで召集され各部隊に配属されたそうですが、ここらへんの法令上の規定がどうなっているのかまでは、まだ勉強不足で詳しくはわかりません。知ってる方がいましたらコメ欄か(こちら)に情報を寄せてもらえると助かります。
[強制された学徒隊参加](※ここでいう学徒隊とは鉄血勤皇隊のこと)
学徒隊への参加は、法的根拠がないため、生徒の志願というかたちがとられ、保護者の承認がいることが建前とされていた。だが、学校が勝手に印鑑をつくって書類を作成したこともあり、事実上強制参加と同じであった。
藤原彰「沖縄戦――国土が戦場になったとき」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071125/1200676580
召集令状による集合者の中には不適格者の病人や身体不自由者も含まれており、部隊側は兵事主任にさらに補充を求め、十六歳以上五十歳まで適用年齢を拡大して令状を発行した例もあったという。
一般の防衛隊が兵事主任を通し、聯隊区司令官名で召集されたのに対し、学徒隊は学校ごとに軍に徴され、鉄血勤皇隊を結成して従軍した純然たる防衛隊(員)であった。大田昌秀はその著『鉄血勤皇隊』の中で、第三十二軍の駒場少佐による軍司令官命伝達を次のように記している。
「沖縄師範学校職員生徒は第三十二軍司令官の命により、本日より全員鉄血勤皇隊として軍に徴された。今や敵の沖縄上陸は必至である。諸君は全力を挙げて…(後略)」(一二頁)。
これを見ても鉄血勤皇隊とはいえ、軍に徴されたからには軍司令官直接命令による防衛召集にほかならない。ということは兵事主任とは別ルートの防衛召集であり、それは鉄血勤皇隊を編成し従軍した他の中等学校も同じである。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu094.htm
<歴史修正主義グループも防衛隊が正規軍の一員であると認める>
『沖縄戦集団自決事件をめぐる 「反日神話」の背景(2)』
椿原泰夫/自由主義史観研究会会員
沖縄戦では、「国家総動員法」の趣旨に基づき、十四歳以上四十五歳までの健康な男子は「防衛隊員」として召集されていた。軍による動員であり、「正規軍」の一員としての扱いであった。
http://www.jiyuu-shikan.org/rekishi106.html
曽野綾子「ある神話の背景」 233頁
しかし調べてみると、沖縄の場合の防衛隊員というのは、れっきとした兵であった。
「第三十二軍においては、航空基地の急速設定時の特設警備工兵隊の編成、遊撃隊の編成などに防衛召集を実施したが、二十年二月中旬情勢が急迫を告げた際、相当数の防衡召集を実施し、更に三月上旬約十五日間を目途として大々的に防衛召集が実施された。この際学徒の一部も動員された」(国頭支隊命令綴)
召集されたのだから、正規兵であった。
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/356083
<防衛隊について参考になるサイトやブログ>
・「鉄血勤皇隊」などの資格について [Apes! Not Monkeys! はてな別館]
・沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦 [林 博史HP]
・第一章 太平洋戦争と沖縄戦 [読谷村史]
・沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(2) [愛・蔵太の少し調べて書く日記]
<お知らせ>
沖縄戦について質問や議論ができる掲示板ができました。みなさん分からないことなどありましたら気軽に参加してみてください。誰も参加しないと自分とni0615さんのチャット化してしまいそうです(^^;
http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?mode=tree
沖縄集団自決・教科書から「軍命令」削除 検定撤回狙うNHK報道
中村粲/昭和史研究所代表
軍命令存在の“証言”として再三流すのは「日本軍から手榴弾を渡されて自決を強いられた」との言葉である。だが、この中の「日本軍」というキーワードに重大なごまかしがある。住民に手榴弾を渡して自決を勧めたのは地元出身の防衛隊員で、戦隊所属の日本軍将兵ではない。防衛隊とは兵役法による正規兵ではなく、現地在郷軍人会が結成した義勇兵で、軍装も不統一、階級章も付けていない。軍とは別に、家族と共に起居していた。
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=464
林博史氏は教科書検定審議会の意見聴取の対象として適格か
藤岡信勝
慶良間諸島には当時、陸軍海上挺進隊という正規の部隊が駐留していたほかに、防衛隊という名の、地元住民からなる義勇兵が存在したからだ。帝国在郷軍人会沖縄支部は市町村の集落単位で住民男性を集め中隊を編成した。法令的な根拠はなく、中国戦線などから帰還した戦場経験者がリーダーシップをとった。村長、助役などの村の顔役が隊長を兼ねて行政と一体化していた。しかし、陸軍の正規部隊の構成員ではないから軍服・武器は支給されず、日常生活は家族と起居をともにしていた。軍と協力し、軍を補助する仕事をしていた防衛隊員は、武器をほしがり、みずから戦闘集団たらんとした。
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=2820&forum=1&viewmode=flat&order=ASC&start=400
この二人の
「防衛隊は地元住民が自主的に結成した義勇隊で日本軍じゃないよ。日常生活も軍とは別に家族と共に起居していたんだよ。だから集団自決は防衛隊と住民が勝手にしたことで、日本軍は関係ないよ。」
こんな感じでしょうか。確かに県史には、
一九四四年(昭和一九)七月一〇日ころ在郷軍人会沖縄支部は市町村単位の防衛隊を編成したが、これはいわゆる義勇隊であって法令上の根拠はない(義勇兵役法が成立するのは翌年六月)」と『沖縄県史別巻―沖縄近代史辞典』(四九四頁)にはあるが、読谷山では表立ったそのような組織や動きはなかった。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu093.htm
とありますが、読谷村でも組織や動きがなかったことからわかるように、この時期には本格的な防衛召集はまだ実施されていません。沖縄での本格的な防衛召集はこの後から実施されます。
[本格的な防衛召集の実施]
一九四四年一〇月に(陸軍防衛召集)規則が改正されて、徴兵検査をうける前の一七・一八歳の男子も召集可能となり、一〇月から一二月にかけて一七歳から四五歳までの男子を召集の実施したのが第二の時期である。(中略)なおこのときに防衛召集された青年の一部は、遊撃隊に配属され、遊撃戦の訓練をうけている。第三の防衛召集は、一九四五年の二~三月の時期であり、とくに三月六日付だけで約一万四千人(本島のみ)が召集されており、防衛召集の多くがこの時期に集中している。(中略)
[捨て石にされた防衛隊員]
防衛召集されながら、「防衛召集」という言葉すら知らない者も多かった。召集令状も普通の赤紙ではなく、青紙であったので、すぐに家に帰れるだろう、という程度の認識の者さえいた。だが彼らは陸軍二等兵に任命され、その望みもすぐに消えた。
藤原彰「沖縄戦――国土が戦場になったとき」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071125/1200676580
そして在郷軍人会による義勇隊は防衛召集による防衛隊に編入されていったそうです。
防衛召集が、在郷軍人会防衛隊を構成している成年男子を根こそぎ召集したことを考えると在郷軍人会防衛隊は、防衛召集による防衛隊にとってかわられていったのではないかと推定される。
[林 博史HP] 沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper04.htm
このようにほとんどの防衛隊員は一九四四年一〇月に陸軍防衛召集規則が改正されてから青紙で召集され陸軍二等兵として各部隊に配属されています。当然、家族と共に起居することなど許されていません。一七歳未満の男子学徒からなる防衛隊員(鉄血勤皇隊など)も陸軍二等兵として軍に召集されています。
[一般の鉄血勤皇隊]
県立一中では昭和二十年三月二十九日、「事実上の入隊式があった。別に式という程のものではなかったが、二等兵の階級章と軍服が隊員に支給されたのである。真新しい軍服、軍帽軍靴、ゲートルに肌着等全部支給された。上級生も下級生もなく、みんな二等兵である。子供みたいな兵隊ができあがったが、馴れるにそれほど時間を要しなかった。
(中略)
防衛隊員であっても軍人であり、いかなる状況にあっても所属部隊を離れてはならないし、特に戦場においては戦列からの離脱は考えられない。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu097.htm
なお、一七歳未満の鉄血勤皇隊の召集には法令上の根拠がないので一応「志願」というかたちで召集され各部隊に配属されたそうですが、ここらへんの法令上の規定がどうなっているのかまでは、まだ勉強不足で詳しくはわかりません。知ってる方がいましたらコメ欄か(こちら)に情報を寄せてもらえると助かります。
[強制された学徒隊参加](※ここでいう学徒隊とは鉄血勤皇隊のこと)
学徒隊への参加は、法的根拠がないため、生徒の志願というかたちがとられ、保護者の承認がいることが建前とされていた。だが、学校が勝手に印鑑をつくって書類を作成したこともあり、事実上強制参加と同じであった。
藤原彰「沖縄戦――国土が戦場になったとき」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20071125/1200676580
召集令状による集合者の中には不適格者の病人や身体不自由者も含まれており、部隊側は兵事主任にさらに補充を求め、十六歳以上五十歳まで適用年齢を拡大して令状を発行した例もあったという。
一般の防衛隊が兵事主任を通し、聯隊区司令官名で召集されたのに対し、学徒隊は学校ごとに軍に徴され、鉄血勤皇隊を結成して従軍した純然たる防衛隊(員)であった。大田昌秀はその著『鉄血勤皇隊』の中で、第三十二軍の駒場少佐による軍司令官命伝達を次のように記している。
「沖縄師範学校職員生徒は第三十二軍司令官の命により、本日より全員鉄血勤皇隊として軍に徴された。今や敵の沖縄上陸は必至である。諸君は全力を挙げて…(後略)」(一二頁)。
これを見ても鉄血勤皇隊とはいえ、軍に徴されたからには軍司令官直接命令による防衛召集にほかならない。ということは兵事主任とは別ルートの防衛召集であり、それは鉄血勤皇隊を編成し従軍した他の中等学校も同じである。
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec03/cont00/docu094.htm
<歴史修正主義グループも防衛隊が正規軍の一員であると認める>
『沖縄戦集団自決事件をめぐる 「反日神話」の背景(2)』
椿原泰夫/自由主義史観研究会会員
沖縄戦では、「国家総動員法」の趣旨に基づき、十四歳以上四十五歳までの健康な男子は「防衛隊員」として召集されていた。軍による動員であり、「正規軍」の一員としての扱いであった。
http://www.jiyuu-shikan.org/rekishi106.html
曽野綾子「ある神話の背景」 233頁
しかし調べてみると、沖縄の場合の防衛隊員というのは、れっきとした兵であった。
「第三十二軍においては、航空基地の急速設定時の特設警備工兵隊の編成、遊撃隊の編成などに防衛召集を実施したが、二十年二月中旬情勢が急迫を告げた際、相当数の防衡召集を実施し、更に三月上旬約十五日間を目途として大々的に防衛召集が実施された。この際学徒の一部も動員された」(国頭支隊命令綴)
召集されたのだから、正規兵であった。
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/356083
<防衛隊について参考になるサイトやブログ>
・「鉄血勤皇隊」などの資格について [Apes! Not Monkeys! はてな別館]
・沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦 [林 博史HP]
・第一章 太平洋戦争と沖縄戦 [読谷村史]
・沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(2) [愛・蔵太の少し調べて書く日記]
<お知らせ>
沖縄戦について質問や議論ができる掲示板ができました。みなさん分からないことなどありましたら気軽に参加してみてください。誰も参加しないと自分とni0615さんのチャット化してしまいそうです(^^;
http://tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?mode=tree

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