ニュートンの恋

前日のつづき。

ニュートンと贋金づくり―天才科学者が追った世紀の大犯罪

ニュートンと贋金づくり―天才科学者が追った世紀の大犯罪

 

ハレーの質問に答えたことで寄り道

「惑星が太陽に引っ張られる力が、惑星から太陽までの距離の二乗に反比例すると仮定すれば、惑星が描く曲線はどんなものになると思いますか?」するとニュートンは、即座に楕円になると答えた。ハレーが「歓喜しつつも驚嘆して」なぜそうだと確信できるのかと尋ねると、ニュートンはこう答えた。「なぜって……私が計算したから」。
 ハレーはすぐさま、その計算を見せてほしいと頼んだ。(略)計算を書きつけた紙を見つけることはできなかった。彼はいったん捜すのをやめて、「計算をやり直して送る」とハレーに約束した。
(略)
ニュートンはそのときの分析を『回転している物体の運動について』という9ページの小論にまとめた。その小論によって、証明が完成したことをハレーに知らせ、おそらくは通常の研究生活に戻っていたのだろう。(略)
[しかし、ハレーはその重要性をすぐさま理解]
それは、夕食後の二人の議論に関する約束通りの回答には違いなかったが、ただの回答ではなかった。運動に関する科学全体に革命を起こす基盤となり得る答えだった。(略)ニュートンが校正をすませ次第、小論を提出して発表する許可を得たと、王立協会に報告した。
[ハレーの熱意が『プリンキピア』出版につながり、ニュートンはブレイクしてゆく]

本筋は錬金術で『プリンキピア』は息抜き

 実験にかけた時間と努力、実験の正確さから考えれば、ニュートンは史上最高のずば抜けた精度と体系を備えた錬金術師だった。ボイルを含め、上流社会の錬金術師の多くは、研究の煩わしい部分は助手に任せていた。だが、ニュートンは、すりつぶす、混合する、注ぎ入れる、加熱する、冷却する、発酵させる、蒸留するといった一連の退屈な作業も、その他の技術を要する作業も、すべて自分でこなした。錬金術の反応を引き出す炉まで設計して、自分で作ったほどだ。
 そのうえ、彼は実験において、他の錬金術師が試みたことがないレベルの正確性を求め、ひたむきに、情熱的に、厳密な実験を行った。(略)
「春におよそ六週間、秋にも六週間、実験室の火は、夜も昼もほとんどついたままで、彼が寝ずにいる日もあれば、私が寝ずに番をする日もあるという具合で、化学実験が終了するまでそれが続きました」
(略)
1680年代を通じて、金属の変成に関する研究に何よりも関心を持ち、1684年にハレーが訪ねてきた直後に物理学と数学にしばし寄り道したことの方がむしろ例外で、彼の当時の本筋たる研究の息抜きとなったとも考えられる『プリンキピア』の出版によって名声を得てからは、錬金術には長らく手をつけなかった。
[だがボイルの死後、ロックからの謎の赤土に関する手紙で再開]
(略)
彼の直筆による『実地』は出版を目的とはしておらず、慎重に選ばれた特定の読者だけが、彼が没頭した研究の実地と錬金術の伝統にのっとった特殊な表現を知ることを許された。
(略)
そこからニュートンは、飾り立てた言葉を用いるのをやめ、その次に起きたことをありのままに記している。
(略)
……このようにして無限に増量させる」。
 賢者の石。それは無限の力であり、無限の知識だった。錬金術師の夢は、ついにかなえられた。

ニュートン錯乱

金の生成に成功したかのような記述の後、先学の二人の錬金術師について論評したところで、まさに思考の途中で急に手を止めてしまった。(略)1693年の絶頂期を境に、かつてと同じように情熱を傾けることはなくなった。彼は、自分が確信を持ったことがらについて明らかにしていないが、物質を変成させる神秘がまたもや自分を遠ざけているのだと、何らかの理由で受け止めた。そして、おそらくそれが原因で、あるいは一連の成り行きとして、彼の心は異常をきたした。
(略)
ジョン・ロックに送った手紙は、まさに妄想と思える内容だ。「あなたが、私を女性問題や他の問題に巻き込もうとしていると思っていたため、私はとても動揺して、ある人からあなたは病気で長く生きられないと聞いたとき、それならば死ねばいいと答えました」。
[一ヵ月後謝罪の手紙]
「悪い眠りの癖がついて、不安症のせいで……不調で」(略)許しを乞うているような文面だが、何を許して欲しいのかは定かでないらしく、「あなたに手紙を書いたのは覚えています」と認めながらも、何を書いたかについては「覚えていません」と白状している。
 その頃、ヨーロッパ大陸の研究者たちも、何かがおかしいと感じ取っていた。オランダのクリスティアーン・ホイヘンスにも、ニュートンは一年以上前からいわゆる錯乱状態にあり、研究に根を詰めすぎたことに加えて火事で実験室と書類の一部が焼けてしまったのが病の原因らしいという噂が伝わり、ホイヘンスはそのことをライプニッツに話し、ライプニッツがまた他の仲間に話した。噂は尾ひれがついて広まり、1695年には(略)住まいと、図書館と、彼のすべての所持品を焼き尽くしたと語られていた。(略)その時代の最も偉大な自然哲学者は、「そのせいで精神の平安を乱し、不健康な状態に陥った」と思われていたのだ。(略)
本当は何があったのだろうか?

イケメン数学者に恋?

[錬金術の結末だけではなく、『プリンキピア』の間違いを指摘できるほどの25歳イケメン数学者ニコラ・ファシオの存在があった] 
1690年3月、二人は少なくとも一ヶ月ほど一緒に滞在し、ファシオはニュートンの秘書のように働き、『プリンキピア』の改訂を書き写した。知り合ってから一年もたたないうちに、ニュートンは生涯で最初で最後というほど、多くの時間をただ一人の人間との交流に費やした。
 ところが、この初めての情熱的な関係は、あまり長続きしなかった。
(略)
[ファシオから病気で会えないと言われ]
「あなたの手紙を受け取って、言葉にできないほど動揺しています。(略)もしもお金が要るのなら、私が用立てます」と記し、最後は、「誰よりもあなたを愛し、誠実に仕える友人」より「あなたが回復するよう祈りを込めて」と結んでいる。
(略)
[ファシオに去られた]
ニュートンの心は、傷ついていたのだろうか? おそらくそうだ。彼の長い人生において、ファシオヘの手紙に表れていた抑えられないほどのはやる気持ちと類似する感情は、他には見られない。その感情の対象を失うかもしれないとうろたえたことも、他にはない。彼は、他人をはねつけることには慣れていても、誰かを追いかけることには不慣れだった。
 ファシオとニュートンは恋愛関係にあったのだろうか? それは、誰にもわからない。だが、その後のニュートンの人生を見る限り、そうではなかったと考えられる。ファシオと直接やり取りした手紙――非の打ち所のない礼儀正しい言葉で、互いに愛情を込めて書いた手紙――があるだけで、ラブレターだと思えるような手紙は一切見当たらないからだ。彼が生涯で認めた、みだらな欲望のおよそ明白な形跡は、若い頃に書き連ねた罪業の一覧に挙げられていたものだけだ。(略)
 それがすべてだった。アイザック・ニュートンと性の欲望を結びつけるものはそれだけしかない。出納記録には、酒場や酒代の支払いは多少あるが、売春宿への支払いは見当たらない。身体の欲求について触れている手紙もない。他の私文書を見ても、ほぼセックスレスの人間というイメージを変えるようなものは何もない。
(略)
彼からファシオに宛てた手紙、そして若く美しい男性からの返事に表れているのは、何らかの親しい関係――肉体関係の有無はどうであれ、親密な心の通い合い――を求める明らかな、痛ましいほどの渇望だ。一年か二年という短い期間だが、ニュートンはそうした心の結びつきを感じ取っていたようだ。
(略)
1693年の5月、6月は、彼にとってはすべての希望が破壊された焦土のような時期となった。
(略)
9月に入ると、辛らつな、心ない言葉を書き送るようになった――突如として言葉の攻撃を浴びせられたのは、ピープスとロックだった。ピープスは反応しなかった。偉大な友人の心の崩壊に気づかないふりをした。
(略)
10月になって、ニュートンの病んだ心はゆっくりと回復し始めた。ロックに謝罪し、ロックは彼を許した。
(略)
 その後、ニュートンはめきめきと回復していった。友人たちとの交際を再会し、デヴィッド・グレゴリー、エドモンド・ハレーをはじめとする若い同僚たちと親しく仕事をした。ファシオは、単なるかつての知り合いとなった。たまには手紙をやり取りすることもあった

1694年クリスマス、ニュートンは51歳となり、翌年、ロンドンから銀貨不足解消を求める完全に畑違いの要望が届く。

 

きりがいいので、肝心の贋金騒動話は明日につづく。