昔から「苦しい時の神頼み」といいますが、ビジネスパーソンも仕事に行き詰まった時には神社に足を運ぶことがあるのではないでしょうか。どんなに綿密に準備をして戦略を練りこんでも、仕事には常に予測不可能なリスクがつきまとい、計画どおりに運ばないことの方が多いものです。
そこで今回は、京都で発祥した“日本最古の七福神”の誕生エピソードを探ってみたいと思います。
というのは日本最古の七福神(現在は「都七福神」になっています)は、「応仁の乱」が勃発した室町時代の末から戦国時代にかけて、京都の商人たちが参拝し始め、庶民に広まったといわれているのです。「応仁の乱」といえば室町幕府の8代将軍・足利義政のもと、求心力を見失った守護大名たちが11年間も争った大乱。これが戦国時代に突入するキッカケとなり、中心となった京都は焼野原になったと伝えられています(詳しくは「大ヒット!「応仁の乱」の魅力って何?」をご参照ください)。
そんな中、商人たちは突然やってきた嵐にひたすら耐えるしかない心境だったでしょう。しかし大乱は11年間も続き、やがて戦国時代に突入していきました。商人たちはいったいどんな気持ちで商いを続けていたのでしょうか。
さっそく日本最古の七福神の中でも、最も商人にゆかりのある商売繁盛の神様「京都ゑびす神社」へ行ってみました。
扉を叩いて祈願する
阪急電車「河原町駅」または京阪電車「祇園四条駅」から五条方面へ歩いておよそ10分、「京都ゑびす神社」は「建仁寺」西側の大和大路通沿いに鎮座しています。兵庫の西宮神社、大阪の今宮神社とともに「日本三大えびす(戎)」のひとつとされています。
しかし、京都ゑびす神社は少し趣が異なります。独特の参拝の仕方や、珍しい「名刺塚」と「財布塚」があるのです。
まず、参拝の仕方ですが、本殿に手を合わせた後、左側の拝殿に回ってトントンと扉を叩いて参拝すると願いが叶うとされています。しかもこの参拝の仕方は、ただ参拝しただけではわかりません。拝殿を注意して見なければ、左側の奥に拝殿があるなんて気づきません。理由は「ゑびす様は長寿で耳が遠いから」とされていますが、私には「神様にただ頼るのではなく、しっかり相手を見て、みずから扉を叩いて話をしなければならない」という商売の基本を示されているように思いました。
さらに入り口に近い右側に「財布塚」と「名刺塚」があります。これは古い財布と名刺を供養する塚で「財布塚」には経営の神様・松下幸之助さんの名前があります。
なんと、「財布塚」は松下幸之助さんが寄進されたものだそうです。一方、名刺塚は京都実業界の重鎮で105歳の長寿をまっとうされた吉村孫三郎氏の寄進です。商売にはお金を守る財布と人脈をつくる名刺は大切だと、改めて気づかされます。
「京都ゑびす神社」は鎌倉時代の1202年(建仁2年)、栄西禅師が「建仁寺」を開山したとき、鎮守として建てた神社です。その背景には次のようなエピソードが伝えられています。
栄西禅師が宋に留学して虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、日本に帰ろうとした1191年(建久2年)、暴風雨に遭い遭難しそうになったところに恵比寿神が現れ、助けられたのだそうです。帰国後、さっそく臨済宗の教えを日本に広めるため京都に禅寺を建てようとしましたが、当時の京都は比叡山延暦寺の勢力が強く、禅寺を開くことができませんでした。困った栄西禅師は鎌倉に下って将軍のもとに身を寄せ、北条政子の支援も得て、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の開基で日本初の禅寺「建仁寺」を開山したのです。宋から帰国して11年が経っていました。
栄西禅師にとって建仁寺は都にようやく開くことができた禅寺だったのでしょう。宋からの帰りに救ってくれた恵比寿神に、建仁寺を守ってほしかった気持ちがわかる気がします。
戦国時代、恵比寿神と大黒天が一対に
その後、建仁寺と京都ゑびす神社は京都の人々に親しまれ、恵比寿神への信仰も京都の人々に広まっていきました。しかし室町時代の末に「応仁の乱」が没発します。商人たちは、突然、幕府にも朝廷にも大名にも頼らず、自力で商いをしなければならなくなりました。
そんな中で生まれたのが「日本最古の七福神」といわれているのです。では、どのように7人の神様が集まったのか、そのプロセスをたどってみましょう。
京都の商人たちはまず、恵比寿神と、比叡山延暦寺を開いた最澄が延暦寺の台所に祭った大黒天(毘沙門天と弁財天との合体神)を一対で祭るようになったそうです。このことは戦国時代の世相を記した『塵塚物語』(1552年=天文21年)に次のように記されています。
「大黒。恵比寿を対にして、木像を刻んだり、絵に描いたりして安置する家が多くみられる」
(「塵塚物語」より抜粋)
室町時代中期までは、恵比寿信仰と大黒天信仰はまったく別で、それぞれ別の宗派のように分かれていたのに、戦乱の世に2神を一緒に祭り始めたというのです。これも「苦しいときの神頼み」でしょうか。
さらに、商品たちは京都の鞍馬寺に祭られていた毘沙門天にも参拝するようになったそうです。当時「鞍馬寺で毘沙門天像を買ったら金運に恵まれた」という話が評判になったからという逸話もあります。
日本最古の七福神はほとんど商売繁盛に関わっていた!
つまり戦乱が長引く中、京都の商人たちは一つの神様に参拝しているだけでは心が落ち着かず、他の神様にも参拝するようになり、「この神様、ご利益あったよ」などのウワサを聞くとたちまち参拝する、といったことを繰り返していたということです。
そのうち複数の神様を参拝することが定着し、次第に七福神めぐりになっていったと伝えられているのです。なぜ「7つの神様」なのかは「七難即滅、七福即生」という室町時代の句にもとづくという説や、中国で尊敬を集めた老子思考の文人たち「竹林の七賢人」に基づいているなど、実に様々な説があります。どれが本当なのかはわかりませんが7という数字は国や文化を問わず人を引きつけるので、なんとなく7に収まったという説が案外、真実なのかもしれません。
こうして誕生した「日本最古の七福神」はお馴染みの7柱の神様です。
大黒天 | 食物と財運の神 | インド、中国の神様 |
恵比寿神 | 商売繁盛の神 | 日本の神様 |
毘沙門天 | 武運と財運の神 | インドの財運の神様、後に中国で武運の神様 |
弁財天 | 福徳と財運の神 | インドの神様 |
福禄寿 | 長寿と財運の神 | 中国の神様(道教) |
寿老神 | 長寿の神 | 中国の神様(道教) |
布袋尊 | 千客万来の神 | 中国に実在した僧侶 |
こうして見ると、7人のうち6人が商売繁盛、財運、先客万来など、商売にご利益がある神様であることがわかります。さらに日本の神様は恵比寿神だけで、他の神様はインドや中国の神様です。もしかしたら、当時の商人たちは戦乱の中、商売や財運を守ってくれる神様を探して参拝していたのかもしれません。そのうち、日本の神様は恵比寿神だけになり、他の神様は外国の神様になってしまったのでしょう。
そういえば日本の神道は、山や川などの自然や自然現象、神話の神、怨念を残して死んだ人に“八百万の神”を見出す多神教です。そこに商売の要素はあまり見当たりません。商売繁盛の神様として最も知られる「稲荷神」も元々は稲の神、つまり農業の神様で、商売をはじめ産業全般の神様になったのは中世以降といわれています。京都にある総本山の伏見稲荷大社も、商人の人気を集めたのは江戸時代だったと伝えられています。だから、戦の世に商売繁盛を願う商人たちは、外国の神様に救いを求めたのではないでしょうか。
「ビジネスに国境はない」という教えかもしれない
その後、世の中が落ち着いた江戸時代に徳川家康が七福神には「七福」があり、人の道に必要だと説いたことから隅田川周辺で「七福神めぐり」が盛んにおこなわれるようになったそうです。このとき家康の求めに応じて狩野派の絵師が描いた絵が、現在の「七福神」の姿と「宝舟」であり、その後、定着したとされています。
よって、今に伝わる七福神像は徳川家康が広めたものなのです。
七福神には様々な説があり、日本最古の七福神にも多様なエピソードがあります。どれが真実なのかはわかりませんが、戦の世に商売繁盛や財運アップのご利益を求めた商人たちが、日本の恵比寿神だけでは落ち着かず、外国の神様を参拝するようになった気持ちはわかる気がします。
もしかしたら七福神は「ビジネスに国境はない」と教えてくれているのかもしれませんね。
「京都ゑびす神社」「建仁寺」公式サイト
「塵塚物語 (1980年) (教育社新書―原本現代訳)」
「七福神」各種資料
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