今、硬派の新書『応仁の乱』(呉座勇一氏著/中央公論新社刊)が異例のベストセラーになっています。昨年10月末に発売されて以来ぐんぐん部数を伸ばし、今は30万部を軽く突破しているそうです。
出版不況の中、30万部といえば芥川賞や直木賞受賞作でも及ばないほどの売れ行きです。
なぜ、気合を入れないと読めなさそうな硬派の新書がここまで売れるのでしょうか。
PRを生業とする私は社会に起こる新しい現象について、その要因を理解できないと落ち着きません。そこで早速「応仁の乱」を読み始めましたが、いきなり冒頭に紹介されている次の一文に惹かれました。1921年(大正10年)東洋史家の内藤湖南氏が講演「応仁の乱に就て」で述べられた一説だそうです。
大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知って居れば、それで日本歴史は十分だと言っていいのであります。
(『応仁の乱』はじめに より抜粋)
つまり、今の文化や価値観は「応仁の乱」以降につくられたものであり、それ以前はほとんど関係ないということです。確かに「応仁の乱」後の戦国時代や江戸時代には親近感が持てますが、平安時代や鎌倉時代、「応仁の乱」が起こった室町時代には、どことなく“はるか昔”といったイメージがあります。

では、何が私たちにそう思わせるのでしょうか。とりあえず大ヒット中の『応仁の乱』を読みながら、大乱が勃発した京都の「御霊神社」へ行ってみました。
京都の中心で始まった「応仁の乱」
「御霊神社」は京都の地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅から10分ほど歩いたところにあります。悠久の歴史が漂う古刹で、門前には「応仁の乱」の石碑があります。そして周辺は住宅や店舗、大学などが混在する静かなまちで、近くには同志社大学の今出川キャンパスや広大な相国寺、その隣には京都御所が広がっています。

室町時代には、ちょうど同志社大学に隣接するエリアに将軍が住む「花の御所」があったのだそうです。ということは、将軍の御所から徒歩数分の場所で大乱がおこり、あたり周辺が焼野原になったことになります。
今に例えるなら、東京の丸の内あたりで暴動が起こり、皇居から霞が関あたりまでのエリアが丸ごと焼野原になるようなイメージでしょうか。そんなことが起こったら大騒ぎどころでは済まないでしょう。「応仁の乱」がいかに大変な出来事だったか推察できます。
「応仁の乱」は1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)まで、11年もの間、京都を中心に繰り広げられた大乱です。
その原因については、一般的に、嫡男に恵まれなかった室町幕府第8代将軍・足利義政が弟の義視を後継者に定めた直後に妻の日野富子が嫡男・義尚を産んだため、富子が義尚を後継者に据えようとして、義視との間に生じた後継者争いと言われていますが、実際は少し違ったようです。
『応仁の乱』には以下のように書かれています。
一般には我が子を次の将軍にと願う日野富子が義視の排除を図ったと思われているが、義視の妻は富子の妹であり、両者の関係は必ずしも悪くなかった。富子は義尚成長までの中継ぎとしてなら義視の将軍就任を支持する立場であり、この伊勢貞親(将軍・義政を教育し、義尚の乳父も務めた室町幕府政所執事)と意見を異にしていたのである。
(『応仁の乱』P73より抜粋)
だったら、何がキッカケだったのでしょうか?
もともとは畠山氏の家督相続争いだった。

「応仁の乱」を巻き起こした「御霊合戦」がどのようなプロセスで勃発したのか、時系列で並べてみました。
1466年(文正元年)12月26日
室町幕府三管領家のひとつ畠山氏の家督を奪われた畠山義就が、家督を奪回するために軍勢を率いて京都へ上洛。
1467年(文正2年=後に応仁元年)元日
将軍・足利義政は無断で上洛した畠山義就に怒り、その時点で家督を継いでいた弟の政長への支持を表明。
同 正月2日
前日とは掌を返したように、将軍義政は上洛した畠山義就と御所で対面。畠山政長は大打撃を受けた。
同 正月5日
毎年恒例の畠山邸への御成の日。将軍義政は政長でなく義就への御成を行った。
同 正月6日
将軍義政は畠山政長を管領職(幕府の要職)から外し、畠山の屋敷を義就に引き渡すよう命じた。
同 正月15日
納得できない畠山政長は、細川勝元や京極持清、赤松政則などとともに軍勢を率いて将軍御所に押し寄せ、将軍義政から畠山義就の討伐命令を引き出そうと計画。
しかし、この計画が義就を支持する山名宗全に漏れる。
同 正月16日
山名宗全は、畠山義就はもちろん斯波義兼も伴って警備の名目で御所を占拠。
同 正月17日夜
畠山政長はみずから畠山邸に火を放って「御霊神社」に陣を取る。
将軍義政は畠山家のお家騒動だから、政長と義就の1対1の争いに留め、山名宗全や細川勝元ら、他の大名は合戦に加わらないよう命じる。
同 正月18日
しかし、山名宗全は将軍の命令を無視して、畠山義就の軍勢を支援して御霊神社に押し寄せ、「御霊合戦」が勃発。畠山義就が勝利。
このとき、畠山政長を支援していた細川勝元は将軍義政の命に従い、合戦に加わらなかった。このことが細川勝元は世間の評判を落とし、汚名を被ることになる。
この細川勝元の恨みが後に「応仁の乱」に繋がった。
※「御霊合戦」は縁起が悪いので、この後、1467年の年号を「応仁」に変更。
こうして改めてみると、もともとは畠山家のお家騒動だったのに将軍義政の朝令暮改と山名宗全の命令無視により、細川勝元に恨みを抱かせ、それが後の大乱を引き起こしたことがわかります。
“トンデモ上司”8代将軍・足利義政
それにしても将軍義政の優柔不断ぶりには驚きます。元旦に表明した意思を翌日には翻し、5日後には突然、最も信頼していたはずの家臣を“解雇”するのですから家臣たちはたまったものではなかったでしょう。山名宗全が将軍の命令を無視した気持ちもわかるような気がします。それだけに、そんな将軍の命令に従ってしまった細川勝元は悔しくて仕方なかったに違いありません。
しかも足利義政のこの“トンデモ上司”ぶりは「御霊合戦」の時だけではありません。少し調べただけでも、びっくりするようなエピソードが出てきます。
・1459年(長禄3年)から1461年(寛正2年)にかけて日本全国を襲った飢饉で大量の餓死者が出ているのに、豪華な邸宅「花の御所」(京都市上京区)を改築した。
これに対し、後花園天皇が勧告したが、無視した。
・自分が後継者とした弟の義視と、妻の富子が生んだ義尚の間に勃発した足利将軍家の家督継承問題に対し、義政はどちらにも将軍職を譲らず、文化的な趣味に興じて優柔不断な態度をとり続けた。
・「応仁の乱」始めには中立を貫き、停戦命令を出したのに、半年後の6月には反乱を起こした細川勝元(東軍)に将軍旗を与え、東軍寄りの態度を明確にした。
それなのに、西軍の有力武将朝倉孝景の寝返り工作も行い、4年後の1471年(文明3年)5月21日に越前守護職を与える書状を送っている。
目を覆うばかりの朝令暮改ばかりです。
『応仁の乱』には「室町時代の大名たちの横の結びつきは将軍に求心力がないと派閥形成につながる」と書かれています。つまり、8代将軍の足利義政が求心力などない優柔不断な「トンデモ上司」だったことから、家臣たちが東軍と西軍に分かれて戦ったということです。
極論すると、将軍の足利義政が人望のある立派な政治家だったら「応仁の乱」は起こらなかったことになります。

一方で、「応仁の乱」は新しい雇用形態や文化も生みました。まずは戦国時代の戦に欠かせなかった「足軽」。応仁の乱勃発の翌年1468年(応仁2年)3月、細川勝元率いる東軍が新戦力として甲冑をつけない軽装の歩兵「足軽」を起用し、京都の下条付近を焼き払わせたのです。
『応仁の乱』には、「足軽」の登用がその後の大都市問題に発展したと説かれています。
(前略)慢性的な飢饉状況の中、周辺村落からの流入により新たに形成され、そして着実に膨張していく都市下層民こそが足軽の最大の供給源であった。
(『応仁の乱』P111より抜粋)
このとき「足軽」が誕生していなければ、今の日本社会の形も後の豊臣秀吉の大出世も無く、日本の歴史は変わっていたでしょう。
また、長引く大乱の中で、主戦場となった京都へ地方から米などの食料を供給する路が発達したそうです。戦う兵士たちのために、地方から大量の食糧がどんどん届けられたのです。この路が後に都と地方を結ぶ役割を果たしたことは言うまでもありません。ちなみに京都の文化もこの路から地方に伝わりました。今“小京都”が地方に多くあるのは、その名残だそうです。
冒頭に紹介した東洋史家の内藤湖南氏の言葉どおり、長い大乱の中で新しい社会の形がつくられたことが見えてきました。
今年は“情報の乱”11年目
こうして多様な文化や価値観がつくられる中、「応仁の乱」は終息し、京都に集まっていた大名たちが地元に戻って地元の民たちとリアルに向き合うようになったそうです。

ここまで「応仁の乱」のプロセスを辿ってみて、なんとなく、私たちがここ10年ほどの間に体験したことと似通っているような気がしてきました。
そう。インターネットとSNSが引き起こした“情報の乱”に似ているような気がしてきたのです。今は当然のように個人も自由に情報発信できていますが、ひと昔前、社会に情報を発信できるのはマスメディアだけでした。その中に個人が発信する情報が大量に流れ込んできて錯乱し、フェイクニュースの見分けもつきにくくなって、信頼していたはずのマスメディアの情報にも疑問を感じるようになっています。
今、私たちは、将軍・足利義政が信じられず「応仁の乱」を巻き起こした大名たちと同じように「どの情報を信じていいのかわからない」といった状況に陥って、いつのまにか“情報の乱”の中で戦っているのではないでしょうか。
しかも、SNSの先陣ともいえるツイッターが登場したのは2006年。今からちょうど11年前です。11年間グタグタと戦った「応仁の乱」と同じ期間、私たちもSNSが巻き起こす炎上やフェイクニュースとグタグタと戦ってきたことになります。だとすれば今「応仁の乱」が大ヒットするのは必然といえるでしょう。
また「歴史は繰り返す」のであれば、この後“情報の戦国時代”がやってくることになります。フェイクニュースや炎上などに惑わされる中、そろそろ自分なりに「情報の定義」をつくって来るべき戦国時代に備えなければなりません。
「応仁の乱」に学ぶなら、京都から地元に帰って、地元とリアルに向き合うようになった大名たちのように、バーチャルな世界から戻りいったんリアルな日常を見つめなおした方がいいのかもしれません。
「応仁の乱」は“情報の乱”をどう戦い、どう抜け出すのか、大切なヒントを教えてくれているようです。
◆参考資料
『応仁の乱』(呉座勇一著/中公新書)
京都市観光パンフレット、公式サイト など
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