「ビットバレー」の文化を守り育てるーー。日経ビジネス7月3日号の特集「失敗しないスタートアップ」では、数多くのスタートアップや協業を進める大企業を取材した。特に頻繁に訪れたのが、1990年代後半から日本のスタートアップの集積地を目指してきた東京都渋谷区。さらに印象に残ったのが、渋谷を舞台にスタートアップの可能性を探る大企業の動きである。
ビットバレーとは、IT(情報技術)産業のメッカである米国カリフォルニア州のシリコンバレーになぞらえた、東京都渋谷区の愛称だ。「渋い(Bitter)」と「谷(Valley)にデータの最小単位である「bit」を掛け合わせた造語として生まれ、1999年から2000年にかけてのITバブルを象徴する言葉として広がった。
ITバブルが収束し、東京都港区の「六本木ヒルズ」がオープンした2003年あたりを境に、急拡大したネット企業の中には渋谷を離れる動きもあったが、現在でもサイバーエージェントやGMOインターネットは本社を構え、IT分野の起業数ではトップクラスを維持している。
そうしたビットバレーの文化をさらに発展させようとしているのが、渋谷の“大家”ともいえる東京急行電鉄と、渋谷とは縁遠いように見えるリクルートホールディングスである。
渋谷で「100年に1度」ともいわれる大規模再開発を進める東急。都市開発に合わせて近年注力しているのが有望なスタートアップの発掘と育成だ。同社は本業の鉄道だけでなく、お膝元の渋谷を中心とした不動産事業や百貨店などの小売り事業の拡大が大きな経営テーマ。いち早くベンチャーの活力や柔軟な発想力を取り込もうと動いている。
同社が2015年から始めたのが「東急アクセラレートプログラム」。「交通」「生活サービス」などテーマを設定してビジネスコンテストを実施、入賞したベンチャーとはテストマーケティングを通じて協業の成果などを分析する。高いシナジーがあると判断した場合は資本業務提携を結ぶケースもある。
リノベーションやオムニチャネルで協業
2015~16年の第1期・第2期では計212社のスタートアップが応募し、最終的に3社と資本業務提携に至った。例えば、不動産分野ではリノベーションを手がけるリノべる(東京都渋谷区)に出資し、中古マンションのリノベーション事業を共同で展開。セレクトショップとEC(電子商取引)の業務支援を行うIROYA(イロヤ、東京都渋谷区)とはオムニチャネルの推進に向け提携している。
東急の都市創造本部・開発事業部の加藤由将課長補佐は、「厳しい環境の中、サービスに付加価値を持たせたり、事業開発したりする上では社内の資産だけでは不十分」と語る。テストマーケティングでは関連性のある事業会社が全面的に協力するなど、グループ内の巻き込みも徹底するという。
プログラムの第3期となる今年は、新たに「ヘルステック・ヘルスケア」などのテーマも設定。加藤氏は「関連する各事業部の社員のリテラシーを高める必要があるなど課題も多い。明確に事業面でのシナジー効果を生むことを目指し、魅力的なベンチャーを発掘していきたい」と意気込む。
一方のリクルート。日本を代表するベンチャーの旗手も今や売上高2兆円に近い大企業であり、社員数は国内外で約4万5000人に上る。加えて、歴史的には本社オフィスを中央区銀座に置いていたことがあるように、渋谷との縁が深いイメージを持つ人は多くはないだろう。
そのリクルートが2014年秋に始めたのが、会員制スペース「TECH LAB PAAK(テックラボパーク)」。入居希望のスタートアップは審査に通れば6ヶ月間、作業・会議スペースや各種機材を無償で利用でき、外部講師を招いたセミナーやイベントにも参加できる。1期につき20チーム程度が入居し、サービスの開発やマーケティングの研究に汗を流す。
これまでに約750人が会員となり、通算イベント回数は約300回を数えるテックラボパーク。特に重視しているのが、会員同士のコミュニケーションだ。運営責任者の岩本亜弓氏は「審査に当たって注目しているのがコミュニティに積極的に参画できるかどうか。視野を広げたり新たな人間関係を築くことで、本来の発想力がより磨かれることにつながるのでは」と話す。
実際、こうしたコミュニケーションの中で刺激を受けたことで、ユニークなビジネスモデルを生み出し脚光を浴びるスタートアップも登場している。その一例がSNS(交流サイト)を活用したマーケティングサービスを手がけるSnSnap(エスエヌスナップ、東京都渋谷区)である。テックラボパークには第2期生として2015年春に入居した。
SNS投稿写真をその場で印刷
同社の特徴は、撮影機材とSNSというハードとソフトを組み合わせたビジネスである点だ。イベント会場や店頭に専用機材を置き、来店者はその機材を使って撮影した写真をツイッターやインスタグラムに投稿した上で、その場でプリントアウトする。友人らとの思い出をSNSと「モノ」の両方で残すことができる仕組みだ。
SnSnapはイベントなどを主催するクライアントに機材を貸し出すとともに、運用をサポート。さらに、撮影するカメラは全て独自開発したもので、直近では複数のレンズを組み合わせて立体的な画像や動画か撮影できる製品なども開発している。
クライアントにとっては商品やサービスの認知度を高めるとともに、実店舗やイベント会場に直接消費者を呼び込めるメリットがある。高級車メーカーのアウディや高級ブランドのジバンシーなどがイベントなどで活用しており、導入実績は会社設立2年で500件を突破。大手企業から業務提携の誘いなども相次いでいるという。
実は、こうしたビジネスモデルは、テックラボパークに入居した時点では固まっていなかった。西垣雄太CEO(最高経営責任者)は「3つぐらいのアイデアは温めていたが、全部今のビジネスとは異なったもの。コミュニティの中で様々な人と議論を重ねたりアドバイスをもらったりする中で、自分の発想を育てることができた」と振り返る。
開かれた場で意欲やアイデアを持った起業家らが自由に意見を戦わせ、新たなビジネスモデルを生み出していくのはまさにスタートアップ業界の魅力。その意味で、SnSnapのようなスタートアップが次々に登場する環境を整え、運用していくことは、数々の有力サービスを世に送り出してきたリクルート自体にとっても刺激となる。
アプローチの仕方は違えど、スタートアップと交わり協業する中で得られる価値や意義は同様だ。こうした動きが渋谷でさらに広がれば、スタートアップの隆盛の中でビットバレーがさらに輝きを増す道が開けてくる。
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