稲田朋美防衛大臣が都議会議員選挙の応援演説の中で、失言を漏らした。 朝日新聞が伝える当日の演説の要旨は以下の通りだ。

《東京都ではテロ対策、災害、首都直下型地震も懸念される中、防衛省・自衛隊と東京都がしっかりと手を携えることが非常に重要だ。地元の皆さまと国政をつなぐのは自民党の都議会の先生しかいない。(演説会場の)板橋区ではないが、隣の練馬区には自衛隊の師団もある。何かあった時、自衛隊がしっかりと活躍出来るためには、地元の皆さまと都民の協力、都議会、都、国のしっかりした連携が重要だ。下村(博文)先生との強いパイプもあり、自衛隊・防衛省とも連携のある○○候補(※実際の演説では実名)をお願いしたい。防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい。》(ソースはこちら

 素人目に見ても、あり得ない発言だ。  なにしろ、現職の防衛大臣が  「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」  と、はっきりと個々の役職や組織の固有名詞を具体的に列挙して、その名前において特定の政党の候補への応援を要請してしまっている。これは取り返しがつかない。

 この中の、  「防衛大臣として」  の部分が、「公務員等の地位利用による選挙運動の禁止」を定めた公職選挙法に違反することは、公務員であれば誰でも知っていることだ。

 私の知るかぎり、公務員は、自分の役職にかかわる形で選挙に関与することを極力避けようとする人たちだ。過去において、選挙の応援がアダになって職を失ったり懲戒処分を受けた先達がたくさんいることを、彼らはよく知っている。その意味からすると、公務員がその地位の名において選挙運動をしないことは、寿司屋の板前がトイレで用足しした後にいきなりシャリを握らないことや、ガソリンスタンドの従業員が給油口の前でタバコを吸わないことと同じく、職務遂行上の大前提に属する話だ。

 それを、大臣の立場にある人間が、公衆の面前であっさりと無視してのけたわけだ。

 「自衛隊として」  の部分は、さらにスジが悪い。

 防衛大臣が全自衛官を代表しているかのように聞こえるこの言葉は、同時に、自衛隊のトップである防衛大臣が、部下たる自衛隊員の投票行動をコントロールする意味を持っている。それ以上に、自衛隊という国家にとって唯一無二の実力組織を、防衛大臣が、選挙のために利用することを示唆したこのもの言いは、自衛隊を「私兵化」していると言われても仕方がない。

 ちなみに言えばだが、自衛隊の私兵化は、より大げさな言い方では、日本の国家権力に対する「簒奪」、てな話になる。

 もちろん、稲田防衛相は簒奪を宣言したわけではない。私自身も、彼女がそんな意思を持っているとは考えていない。

 しかしながら、稲田防衛相のこの日の発言が、そう思われても仕方のない内容を含んでいたことは事実で、とすれば、これは「口をすべらせた」とか「うっかり言い過ぎた」というレベルの「失言」で済まされるものではない。より深刻かつ異様な「暴言」ないしは「違法行為」と呼ばれるべきものだ。

 ことここに至った以上、政権のとるべきリアクションは、辞任の一択だと思うのだが、どうやら、そういうことにはなっていない。

 なぜだろう。

 どうして安倍政権は、度重なる失言や失策が伝えられているこの大臣をその椅子に縛り付けておこうとするのだろうか。

 稲田朋美大臣ご本人は、27日の深夜、緊急の記者会見を開いて  「誤解を招きかねない発言があった」  として、自らの言葉を撤回している。

 多くの人々がすでに指摘している通り、彼女の発言は、「誤解」であるとか「真意」であるとかいった、そういう「解釈」の余地を残した問題ではない。  もっとはっきりとした、言葉通りにしか解釈のしようのない暴言だ。

 「誤解を招きかねない発言」だったというのなら、自分の言葉のどの部分にどういう誤解を招く余地があったのかを具体的に説明せねばならないはずだ。また、表面的な解釈とは別に、ご本人が伝えたかった「真意」が存在するというのであれば、彼女は、その「真意」について、より適切な言葉で説明し直さなければならないはずだ。

 が、稲田大臣はこの作業を怠っている。
 それもそのはず、説明などできっこないからだ。

 私の読解力が読み取る限り、彼女の元発言にあえて「誤解」の余地があるのだとすれば、「国家簒奪の意図」ぐらいしか思い当たらない。

 まさか、それを疑われたので否定した、ということでもあるまい。
 稲田大臣の言葉から聴衆が受け止めるはずの「公職選挙法に違反する公務員の地位を利用した選挙運動」とはまったく別の、幻の「真意」がいかなるものであるのかは、きちんと逐語的に説明してもらわないと、想像することすらできない。

 「撤回」というのも、奇妙な話に聞こえる。  たとえば、これが物品や金銭を介したやりとりなら、ある程度撤回することは可能だ。  盗んだ品物を返却すれば、とりあえず被害はリカバーできる。  横領した金銭も、前非を悔いてその金額を返却すれば、精神的なダメージや実務上の停滞はともかくとして、収支としての損害は回復できる。

 しかし、一度口から外に出た言葉は、発言者が撤回したことはしたとして、これで「はじめから何も言わなかったのと同じこと」にはならない。誤りを認めたことは確かだとして、発言した人間の責任を無に帰することもまた不可能だ。あたりまえの話ではないか。

 ティーンエイジアイドルや学齢期前の幼児なら「テヘペロ」でもいいかもしれないが、れっきとした日本の国務大臣が、違法行為を含む疑いの濃厚な発言を「テヘペロ」で済ませられないことは、はじめからはっきりしている話ではないか。  政権の中枢にいる人々は、どうしてこの程度のことを理解しないのだろうか。

 都議会議員選挙に関する自民党の責任者であり党の幹事長代行でもある下村博文氏は、27日の稲田防衛相の発言についてこのように述べている。

《稲田朋美防衛相が誤解を与えるような発言をしたことについては残念だ。ただ、実際に自衛隊とか防衛省に選挙応援をお願いするわけじゃないし、もちろんそういう風にはならない。それくらいみんなで応援しますよ、と漠としたイメージで言われたんだと思う。選挙の応援に来て、サービス的な発言という風に思われたんじゃないかと思うが、これで辞任となったら続けられる人は、誰もいなくなるんじゃないか。》(ソースはこちら

 防衛大臣のトンデモ発言を受けた幹事長代行のコメントが、元発言に劣らぬ好一対のトンデモ擁護になっているあたりに、現政権の闇というのか、底なしの沼の奥深さを感じ取らざるを得ない。

 「それくらいみんなで応援しますよ、と漠としたイメージで言われたんだと思う」  と下村都連会長は言っている。

 ここで言う「イメージ」というのは、なかなか不可思議な日本語で、分析してみると面白い。

 よく、ウェブ上の記事に添えられている写真に  「写真はイメージです」  という謎のキャプションがつけられていることがある。この場での「イメージ」の含意は、「image=画像」という意味ではない。

 「写真は画像です」  では、意味をなさない。同語反復になってしまう。

 「写真はイメージです」における「イメージ」は、実質的には「これは説明用の画像であって、記事の内容に即した現場写真とか、記事中に出てくる人物を撮影した実写画像ではありませんよ」ぐらいの意味を担っている。英和辞典を引くと「画像」「聖像」「姿」の次くらいに「象徴」「表現」「印象」「観念」と出てくるので、こっちのほうで使っているわけだ。

 もう一歩踏み込んで言えば、カタカナ言葉の「写真はイメージです」というフレーズの意味するところは、「この写真にはたいした意味はありません」ということで、とすると、「イメージです」の部分が語っているニュアンスは、「意味はありません」ということだったりするのである。

 おそらく、下村博文氏がコメントの中で言っていた「イメージ」も、この用法に近い。  つまり下村氏は 「具体的な事実とは無関係な」 「もののたとえっぽい」 「幻想っていえば幻想なのかもみたいな」 「ほら、そういうのあるじゃん的な」  話し手と聴き手の間で共有される言葉にできない合意みたいなものを「イメージ」という言葉に託している。

「ミエコって、イメージ的にはトガリネズミかな」 「なにそれ?」 「ほら、クルミとか齧ってそうじゃない」 「リスにならない?」「ならない。イメージ的に」

 ぐらいな会話を想像してもらえばわかると思うのだが、この言葉には、実はほとんど実質的な意味は宿っていない。  というよりも、「イメージ」は、  「言っとくけどこれから話すあたしの話には具体的な意味とか無いから」  ということを聴き手にあらかじめ伝える時に使われる言葉で、  「本気とウソンキのうちのどっちかって言われればウソンキの方かな」  てな調子の、およそ不真面目な言葉なのである。

 であるから、もともとの稲田防衛相の発言が

 「てか、こんどの選挙マジやばいっていうかガチでもうキちゃってるから、あたしら防衛省とか自衛隊とか防衛大臣的にもソッコーで土下座な感じなわけ。いや、マジで」

 といった調子の演説であったのなら、下村幹事長代行の「漠としたイメージで」という弁解も、「意味なんかねえよ」的な流れで、ある程度通用したのだろうが、稲田防衛相は、きちんとしたしゃべり方で、大臣と自衛隊の名において聴衆に対して明確に応援を要請している。

 となると、これはもう、申し開きの余地はない。

 下村氏は、最後に  「これで辞任となったら続けられる人は、誰もいなくなるんじゃないか」  と言っている。

 この発言は、居直りというのか、へたをすると報道陣に対する恫喝に近い。  「あんたらも、こんな揚げ足取り仕事してて恥ずかしくないのか」  と言わんばかりだ。  まあ、それだけ、自分たちの政権運営に自信を持っているということでもあるのだろう。

 私個人は、この5年ほど、閣僚や政治家の失言を必要以上に問題視してクビを取りにかかる報道が多かったと思っている。また、現政権の複数の閣僚が、問題発言を繰り返していながら、結果として辞職に至る例が少ないのは、報道を受け止める世間の側に、失言追及報道への疑念ないしは食傷があったからなのだろうとも考えている。

 要するに、世間は、報道の揚げ足取りと、大臣のクビ取りごっこにうんざりしているのである。

 が、今回の稲田防衛相の発言は、非常に重大なものだ。

 言葉足らずによる説明不足や、言葉の使い方の間違いに起因する失言とは質が違う。追及する報道も、「重箱の隅」とか「揚げ足取り」に相当する瑣末な話ではない。  そういう意味で、私は、当件は、第一級の、即辞任モノの、一発レッドカードの暴言だと考えている次第だ。

 が、政権中枢は、そう考えていない。  あるいは、稲田大臣を辞任させることが、政権へのダメージになると考えて、それを避けようとしているのだろうか。

 私は、逆だと思っている。  政権にとっては、この期に及んで稲田大臣をかばうことは、権力の正当性そのものを疑わせることにつながるに違いなく、更迭をためらうことは、都議選にもよくない影響を与えるはずだ。

 ……というのは、しかしながら、私の個人的な見立てに過ぎない。  私と同じような見方をしている人もそれなりいるとは思うのだが、まったく別の角度からこのたびの事態を評価している人もたくさんいることだろう。

 コアなファンは、あくまでも仲間を守る安倍政権の「男気」に喝采を送っているはずだ。  逆に言えば、「慣例や法や世間の常識よりも、仲間の結束と、夫婦の情愛と、親友との友情を大切にする」現政権の、「戦後民主主義的な諸価値よりは東アジア的な封建美学を重視する態度」を支持する人々が、それなりにたくさんいるからこそ、彼らは、自信満々で身内を守りにかかっているということでもある。

 都議選公示日に当たる6月23日、自民党の今井絵理子議員が以下のようなツイートをした。

今日から都議会議員選挙が始まります!「批判なき選挙、批判なき政治」を目指して、子どもたちに堂々と胸を張って見せられるような選挙応援をします^^

 このツイートの中の「批判なき選挙、批判なき政治」という言葉が、それこそ、多方面からの「批判」を招いたことを受けて、あるブロガーが、

はてなの中高年は今井絵理子の発言を理解できない

 と題する一文をはてなブログに寄稿して、この文章がまた話題を呼んだ。  内容は、要約すると

 『今井議員のような、教育水準の低い若者世代の人間は、「批判」という言葉を、「みんなの空気を悪くする、最悪の行為」だと思っている。だから、彼女の言う「批判なき選挙、批判なき政治」というのは、「批判精神を持たない」という意味ではなくて、単に「ネガキャンとかしないニコニコ選挙」みたいなイメージなのでヨロシク』

 という感じだ。  なるほど。イメージか。

 で、私は、このブログを紹介しつつ「おもしろい」と評価した人のツイート(こちら)を引用した上で、以下のようなツイートを発信した。

なるほど。若い世代のある層の目には、政権批判をしている人間が「駅員に怒鳴り散らしてるおっさん」だとか、「自分でカラダ動かしてるわけでもないのに町内会のイベントに文句つけてばっかりいるジジイ」とおんなじように見えているのかもしれないですね。

 そしてこの私のツイートがまた、大量に引用されているわけなのだが、意外だったのは、このツイートの読み取り方の中に、誤解なのか皮肉のつもりなのか、

 《良く解ってんじゃねえか、その通りだよ。》  《お前のことやろ》  《見事な自己紹介。今ではすっかり『外にでていない、もしくは何にも見えてない人』の印象だなあ。》

 という主旨のものがたくさんあったことだった。

 で、現状で私は、  「良く解ってんじゃねえか、その通りだよ。」  というコメントにいささかの面はゆさを感じつつ、最終的には、それぞれの論者が、最初の論点とは別なところで、それぞれ自分の言いたいことを言う中で、議論が拡散しているこの状況を見るに、おそらく、稲田大臣の暴言問題に関しても、どうせ同じような我田引水が横行するはずで、稲田大臣の言葉のどの部分をどうとらえて、どう批判するのかを含めて、いろいろな論者がそれぞれに勝手なことを言うだろうなあ、と感じている。

 大切なのは、それらの一連のやりとりを世間の人々がどんなふうに評価するのかであるわけなのだが、そこのところは、「勝手にしろ」と思っている。  うん、イメージ的に。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

なにが「批判」か、その定義からして難しいです。
分かりやすいのは「自分のは批判で、相手のは中傷」。

 当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。相も変わらず日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。

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