選挙が近づくと気分が塞ぐ。
 理由は、ウソをつかねばならないからだ。

 というよりも、選挙について正直に思うところを書くと、必ず叱られるわけです。
 この10年ほど、ずっとそういうことが続いてきた。

 投票に関して不用意な本音を吐露すると、必ずや四方八方から集中砲火を浴びるのだ。
 で、謝罪に追い込まれ、改心を余儀なくされ、「次の選挙では、必ず投票所に足を運びます」と誓うことを求められる。

 だから、選挙については、ここしばらく、率直な心情を吐露していない。
 で、気が重いわけだ。

 わかったよ、良識ある市民のふりをすれば良いわけだろ? と、やさぐれた気持ちで路傍の石を蹴る――いい年をした男のやることじゃないとは思いながらも、こればかりはどうしようもない。なんとなれば、酒をやめた時、私は大人であることに伴うあれこれを一緒に放棄したからだ。わがことながら子供っぽい弁解だとは思う。でも、子供っぽい気分の中でしか生き残れない何かを固守する生き方を選択した以上、馬鹿は承知の上なのである。

 つい先日、ある会合で会った若い人に

「最近オダジマさんは、コラムの前段に当たる部分で『馬鹿は承知だ』という意味の弁解を必ず書いているように思います」

 という、大変に鋭い指摘を承った。
 なるほど。
 ぐうの音も出ない。

 が、それでも、馬鹿は承知だという事前弁解を見破られていることを承知の上でなお、私は同じ手順の馬鹿を型どおりに展開する所存でいる。なぜなら、コラムというのは、利口な人々の考えではなくて、馬鹿な人たちの存念を代弁する枠組みであると考えるからだ。

 今回の選挙で、私が投票に行くかどうかは、内緒だ。
 なんというのか、内緒にするだけの世間知ぐらいは、この何年かで身につけたと、そういうふうに理解してほしい。

 で、内緒にする代わりに、ここでは、「どうして選挙について本当のことを言うと叱られるのか」という点についてあらためて考察してみようと思っている。

 さよう。変な話だ。
 でも、これは案外に重要な論点なのである。

 つまり、わたくしどもの社会は、55年体制崩壊以降の政治状況において、常に最大与党の地位を独占してきた「政治不信党」の主張に耳を傾ける努力を怠ってきたわけで、その「政治不信」への関心と愛情の少なさが、現在の政治状況の混迷を招いていると、ちょっと大げさにいえばそれぐらいのことは言って良いはずなのだ。だからこそ私は、「主張しない人々の声」や、「投票しない人間の票」について真面目に考える回路をどこかに確保しておかないと、この国の政治は、この先どこまでも硬直して行きますよ、ということを、この場を借りて、せめて選挙前に言い残しておきたいのである。
 
 われわれは、政治について語る時、賢いふりをしたり、正しいふりをしたりしがちだ。

 その一方で、わたくしどもが政治を通して実現しようとしている思いは、必ずしも正しさや賢さではない。かなり多くの場合、われわれは、政治を介して、復讐や憂さ晴らしみたいなことを企んでいる。もっとはっきり言えば、政治というのは、人々の怨念や嫉妬を実体化させるための、ある意味で非常に俗っぽい装置なのだ。

 にもかかわらず、市民社会の建前では、政治的にふるまうことは、市民としての良識にかなった、崇高な態度であるというふうに説明されている。この実態と理念の乖離が、政治をめぐる言葉を空疎に響かせ、聞いている人間をうんざりさせるのである。

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 私を含めて、投票権を持っている国民のうちのざっくり4割ぐらいは、政治について何かを語る以前の段階でうんざりしている。あるいはあきらめてしまっている。この、無力感や不信を「意識の低さ」「政治的迷妄」「知的怠慢」「市民としての権利の放棄」「道徳的頽廃」みたいな言葉で片付けてしまうのが、21世紀の言論の前提になっている。

 が、そういうふうにして最大与党を無視している限り政治は変わらない。別の言葉でいえば、政治不信こそが21世紀における最も主要な政治思想である現状に対して、われわれは、もっと率直に目を向けるべきなのだ。

「不信は思想じゃないぞ」
「不信が思想で停滞が行動なら、無言が発言で無気力が運動なのか?」

 言いたいことはわかる。
 が、無言も無投票も支持政党無し層も、最大多数である以上無視して良い人々ではないはずだ。

「無視されたくないんなら投票しろよ」
「行動もしないくせに注目しろなんて虫が良すぎるぞ」
「登園拒否に目を向けてほしいとか、どこの幼稚園児だ?」

 おっしゃるとおりだ。
 でも、われわれは、最大与党なのだ。

 バブル崩壊からこっち、この国で一貫して勢力を増大しているのは、右でも左でもリバタリアンでも共産主義者でもない。支持政党を持たず、特定の政治的立場に立たない、もしかすると投票にさえ行かないかもしれない、無気力で、迷いがちで、心の底からうんざりしている政治不信党のわれわれなのである。

 告白すれば、私は生まれてこの方、有効投票をしたことがない。
 と、この一行に対して、おそらく読者の7割ぐらいは、不審を抱くはずだ。

「けしからん」
「投票は市民の権利というよりは義務だと考えます」
「選挙への不参加は、第一に逃避だし、第二に思考停止だし、第三に現状肯定だし、第四に悪への加担だし、第五に馬鹿野郎だぞ」
「権力にとってニヒリズムほど扱いやすい反抗は無い」
「百歩譲って、投票に行かないという選択がアリなのだとしても、それを人前で言うのは悪趣味だ。まして影響力のある言論人の端くれが自分の無投票を声高に語るなどもってのほかである」

 私の側からは、有効な反論は無い。昔から同じだ。投票しない理由はどういうふうに言いつくろったところで、理屈の上では正当化できない。

 それでも私は、「選挙に出るようなヤツには投票したくないわけだよ」といった調子の気分をなんとか説明しようとしていたわけだが、この言い方は、30歳を過ぎた頃から、明らかに白眼視されるようになった。

「それ、面白いと思って言ってる?」
「ネタはともかく、どうして投票しないんだ?」

 とても説明しにくい。
 私が投票をしなかったのは、投票をしないための確たる理由があったからではない。
 その意味からすれば、説明なんか最初からできるはずがないのだ。

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